はてなキーワード: 社会的弱者とは
立ちんぼして相場より低い価格でやって、それで食ってた昔の立ちんぼならわかるけど
明らかにあいつらコンカフェとかホストとか「娯楽」に金使ってるよね?
娯楽するために立ちんぼしてる奴って「社会的弱者」じゃなくてただの「違法労働者」じゃないの。
要はさ、その日食うのもやっとで詐欺や泥棒に手を染めていたら「社会的弱者」だと思うのよ。同情の余地はある。
でも、食える場所もある、ただ娯楽のために金が欲しいって「社会的弱者」じゃなくて「ただの犯罪者、モラル無い人間」だと思うのよ。
いや、彼女たちは愛情を与えられてない。ホストやコンカフェは薬物やアルコールみたいなものだ。
という主張もわかる。
でも、愛されずその苦しみをアルコールで発散する会社員、OLとかも含めて「社会的弱者」になってないよね。
ガイジでも1500万稼いでるなら弱者じゃないんだ!ってお前らどんだけ心が貧しいんだよ
「女性スペース守れ」有志デモに罵声(新宿)ってニュースを見た。トランスジェンダーの人が戸籍上の性別変更をするのに性転換手術が必要とされている現行の法制度が適切か、最高裁でいま検討されいているという話もあったが、これらの件で面倒なのは、両者が「人権」「ジェンダーフリー」そして「社会的弱者」というよく似た基盤をもちながら、対立の構図を生み出している点だ。
デモは杉並区を拠点に活動する「女性と子どもの権利を考えまちづくりにいかす杉並の会」が主催した。
(中略)参加した約20人の女性らはプラカードを手に、「男女以外の性別はない」「女性スペースに身体男性は入るな」「女らしさ、男らしさから自由になろう」と訴えながら、新宿駅周辺の車道を練り歩いた。
だが、こうした参加者の訴えをかき消すような怒声も飛び交った。
参加者を上回る数の抗議者らが、レインボカラーの旗や「トランスジェンダーの権利は〝人権〟」「ヘイトスピーチ、許さない」と書いた紙やフラッグを掲げ、歩道からデモの参加者の顔を撮影したり、「トランス差別をやめろ」と声を張り上げたりした。(同ニュースより。魚拓ははじかれたのでリンクナシすまん)
コレたぶん、多くの人(特に男性)の印象は「どっちにも加担したくないなあ」だろうと思う。それは、彼らの価値観に親和的でないからではなく、むしろ親和性が高いほど問題で、それは両者にとっても社会全体にとっても一番マズい結果にしかならんと思う。
たとえば信頼してる気の合う知人が2人いたとして、どんないい人らであっても、彼らが喧嘩はじめたら両者から距離を置くくらしか現実的には対処できなさそう、みたいな感じ。リベラル寄りの政治・社会運動が失速するのって大体コレで、逆に言えばリベラル寄りの運動を失速させたいときの定番は、そういう「分裂の楔」を見つけて提供することなんだよね。で、現状この対立はまさに「人権」「ジェンダーフリー」「社会的弱者」立場の運動における「分裂の楔」になってる。そして、その「楔」にたくさんの人が踊らされている。
立場を同じくするなら、本来「手を取り合って解決する」道はあるはずなんだよ。たとえば、トイレの種類を増やす、風呂についてはもう全員水着着用を必須とする、とか。そう、一部の人でなく社会全体が薄く広くダメージを被る形での解決を目指すのが本道なんだが、それをするためには社会全体の納得が必要で、現状それが追い付いていない。この問題がいかに厄介か、少数の人がいかに苦しんでいるか、それを目指すことが社会全体にとっても結局はどのくらい価値があるか。多くの人がピンとはきてないんじゃないか。
たとえば障碍のある人への社会的な対応は、この数十年で相当進歩したけれど、それは問題に直接かかわっていない多くの人々への粘り強い社会的教育とセットになっていて、そして、それら抜きでは実現しなかった。点字舗道、音声信号、駅などのエレベータ、スロープの設置……今では当たり前なそれらの風景は、この数十年でまさに「社会全体の合意を得た上で広く浅くコストを負う形で」実現したものだ。だがもし、当事者たちが「分断の楔」に足を取られていがみ合っていたら、絶対に実現しなかっただろう。
だから、
抗議者「(デモに)参加した女性の顔写真をさらす」「トランス差別をやめろ」=攻撃とレッテル貼り
デモ側「男女以外の性別はない」「ヘイトスピーチと批判される意味が分からない」=言うこと言っておいて知らん振り
……なんていう、無自覚でも意図的でもお互いに対する攻撃は何も生まなくて、落ち着いて話し合いと協力を目指すのが唯一正解への道だと思うし、その際には、いかにして多数の人に訴えを届けるかについて方策を練った方がよいと思う。
たとえば(くだらないたとえ話だが)、「風呂場に『身体男性』の人がいることで受ける恐怖」を理解させるためには、「風呂場に『身体女性』の人がいて情欲を感じないと断言できるか」と考えさせてみるのもいいかもしれない。それに対する答えはもちろん多様でありうるだろう(「すでにゲイの男性が入っていることは避けられない」「自分は情欲を感じない」から「むしろ自分が気恥ずかしい(のでやめてほしい)」に至るまで)が、そういう議論が男性の間で起こっていない時点で、この問題はまだ社会全体で共有できていないということなのだ。ぶっちゃけ男性同士がこの問題を上記のような観点で議論しているのを見たことがない。
……と言うと、「その程度の想像力がないのか!これだから男性は…」とか毎度毎度のように絶望しはじめる人もいるかもしれないが、当事者でない限り人間にそうそう便利な「想像力」が発揮できるわけない、ということすら毎度毎度想像できないならそんなこと言わない方がいいと思う(つまり、馬鹿に馬鹿と言っても無駄だと気付けないのは十分馬鹿だ、ということ)。そうやって味方同士刺しあうより、手を取り合う方法を検討した方がよい、というのがこの書き込みの趣旨だ。上で見たように、わずか一つの「楔」が運動全体を崩壊させるのならば、逆にそれを打ち消す「絆」を実現するのも、意外とちょっとしたアイデアや行動であったりするかもしれない。それはそんなに難しいことじゃないかもしれないのだ。
まずもってあの吊し上げがかなり異様だったからな。
あの事件のときに、日本歴史学協会(色んな歴史系学会の寄り合いみたいなやつ)が「日本中世史を専攻する男性研究者による、ソーシャルメディア(SNS)を通じた、女性をはじめ、あらゆる社会的弱者に対する、長年の性差別・ハラスメント行為」を糾弾する声明文出してたんだけど、俺にはめちゃくちゃ異様に感じられた。
http://www.nichirekikyo.com/statement/statement20210402.html
日歴協の声明って、過去のを見ればわかるけど、「学術会議問題で政府を批判する」とか「建国記念の日に反対する」とか「貴重な遺跡を保全してくれ」とか「ロシアのウクライナ侵略に反対」とか、そういう、何といえばいいかわからんけど「大きな問題」に対する声明が多かったんだよね。賛否は別にして、こういった問題になら、学会の寄り合いがわざわざ声明を出すのもわかる。
http://www.nichirekikyo.com/statement/statement.html
でも、呉座への糾弾だけ、公人ではない個人に対する攻撃で、なんだか異様なんだよな。呉座のやったことが良いか悪いかといえばそりゃ悪いけど、日歴協に日本学術会議とか建国記念の日とかウクライナ戦争とかと並んで声明出されるレベルで悪かったか? って言われると、そこまででもねーだろ、バランス失してないか? って思うよ。万引き犯に向けて発砲してるみたいなやりすぎ感がある。
考えてみてほしいんだけど、たしかに呉座は知名度もあって、大河ドラマの監修に抜擢されたりしてたけど、たかがテニュアトラック助教やぞ? 終身雇用でも何でもない助教のやらかしで、歴史学界全体がこうも右往左往する必要があったのかね。直接の雇用者である日文研が右往左往したのはまあわかるけど、何であそこまでの蜂の巣をつつくような大騒ぎになったのかがまるでわからん。
ネット上で害悪垢を運営して、見ず知らずの他分野のテニュア持ち准教授を誹謗中傷してました、なんて、見聞きしてきた中ではもっとやべーやついるしな、程度の感じ。同じ分野の若手研究者に圧力かけて発表済みの論文を修正させようとしたり単著で剽窃やら出典捏造やらをやらかしたりした教授(ちなみに女性)はのうのうと逃げおおせて「あいつヤバいんだよね」と陰口叩かれながらも世間ではそこそこ名の知れた研究者として通ってるし、そういうの見てると呉座へのオーバーキルがますますわけわからなくなる。
シャディクとシャディクガールズの過去編はストーリー上絶対に必要だったと思うが、やらなかったことが不思議で仕方ない。
なぜ(かなりの数の学生も含んだ)あれほどの犠牲を出してまでテロを起こす必要があったのかという説得力に欠けるので、
シャディクのような子供たちを犠牲にした金で育ったグエル(もっとも本人はそれを知らされていなかったのだが)が褒めそやされ、シャディクが批判されるというグロテスクな光景が生まれてしまった。
若い視聴者がショックを受けると思ったのか、シャディクたちの過去を描くと必然的にグエルやミオリネのような恵まれたキャラの育ちを批判することになるからか?
現実を知らなかったグエルやミオリネに罪はあるか否かという議論が生まれることにこそ作品の意義があると思うのだが…
愛人の子でありグエルの異母弟という複雑な出自ながら兄を妬んで蹴落とそうとしたりはしておらず、
兄が行方不明のなか父までもが逝去し急に会社を継がなければならなくなったというところまではかなり同情していたのだが、
18話以降はラウダをシュバルゼッテに搭乗させるための都合としか思えないほど株を下げるシーンの連続だった。
それらへのフォローが一切ないままペトラと良い雰囲気になっているシーンで終わったため、一部の視聴者からは
「(ラウダが攻撃した)地球寮の面々やフェルシーやロウジに謝れ」「ペトラが幸せになれるとは思えない」
等々とボロカスに叩かれることになってしまい、見ていて少々気の毒になるほどだった。
尺がないとは言えラウダがスレッタやミオリネや地球寮生たちに謝るシーンの一つも入れていれば綺麗なエンディングになったと思うが、これもなぜやらなかったのか不思議だ。
>社会的弱者キャラが視聴者に袋叩きにされやすい構造のキャラクター配置・描写になっていた。
>恵まれてる人は性格がよく、相対的に恵まれてない人が性格が悪いのは現実に似ているけど、若い人に見せるつもりで作っているアニメならこういう希望を摘む真似はやめてほしかった。
概ね同感。
「グエルは最高、それに比べてシャディクやラウダは最低」というような感想に対して反論する材料が本編内に不足しているのは、作品として深みがなく失敗ではないか?と思う。
御曹司のグエルがやたら視聴者に持ち上げられる脚本になっていて
(それこそスレッタが落ち込んで行動不能になるのを繰り返していた2期中盤などは、グエルこそが真の主人公だ!貴種流離譚だ!なんて言われていた)、
戦災孤児から実力で成り上がったシャディクや、愛人の子で母親に捨てられたラウダなど、
弱者性を持つキャラクターが視聴者のヘイトタンク化したのも本当に希望がないなと思う。
シャディク
・シャディクが戦災孤児である設定がミオリネのセリフでさらっと明かされ、回想がない。地球でどう育ってきたのかや、アカデミーに拾われて実力で勝ち上がってきたことの詳細などは、何も明かされない。
・シャディクの思想についての掘り下げが全く行われず、ミオリネに対する恋愛感情の描写ばかりがくどいほど繰り返される。視聴者に「ミオリネに振られたからテロリストになった」と動機を矮小化される始末。
・テロリストにならずサリウスの後継者を狙い続ければ、シャディク個人の地位は富裕なスペーシアン相当のままいられる。それを捨ててまでテロリストになる動機の描写が浅いまま、グエルのPTSDの原因を作ったり、ソフィとノレアを使い捨てて死なせたことで、どれだけ殴っても良いヘイトタンクキャラと化した。大量のヘイト創作が作られた。
・シャディクの行動は戦争シェアリングに加担する構造を維持していたサリウスに「愚かな息子よ」とまとめられておしまい。サリウスの思想も描写が曖昧で考察不能、憶測を書き散らすしかない状態。
ラウダ
・グエルの腰巾着。なのに父には逆らえずグエルのプライドを傷つける。
・グエルのスレッタを大切にしたい気持ちは知らないし無視で、スレッタに暴言。しかもスレッタがシャディクに勝利したばかりの絶好調で調子に乗っているときは黙っていて、スレッタが負けて振られて人生どん底状態のときに死体蹴り。
・父殺しのPTSDで浮かない表情のグエルの変化に気づかず(部外者であるセセリアですら気づいていたのに)、八百長での決闘勝利に泣いて喜ぶ。グエルとの温度差がひどいことに。
・パイロットにヘルメットを渡す表面的な役割だけを、グエルのMS整備担当のカミルから奪っている。ペトラは自分自身で整備したうえでヘルメットを渡していたのに。表面のラウダと、中身のカミルになっている。
・兄がミオリネにつけ込まれミオリネに縋っていると勘違いして、無関係の第三者も巻き込んだ殺人未遂。フェルシーに文字通り火消しさせる。脚本にあったト書きは「しょうもない兄弟喧嘩」だが、客観的にみるとグエルは攻撃していないから喧嘩ではなく一方的な殺人未遂なのでは。
・母親に捨てられたのをグエルに存在承認されて救われているのに、グエルを殺しそうになる展開。
・地球寮を勢いで殺しそうになったのに、殺人未遂の直後に「僕はお前達を許したわけじゃない」と喧嘩を売りに行く。視聴者から「ハァ?」という反応が噴出しただけでなく、ラウダ役声優ですら「殺しかけてどの口が」と思ったとコメント。
・グエルは言うまでもなく強制的に大人にされたような大幅変化をした。それだけでなく、後輩の小物いじめっこ腰巾着として登場したフェルシーが、元々アーシアン差別をしていたのにアーシアンであるチュチュと共闘する展開や、ペトラがスレッタに礼を言いモブを助けようとする展開があった。ラウダは最後まで性格が悪いまま終わった。
ノレアもニカを攻撃したメンヘラバカ女扱いされたり、5号とノレアの関係が「理解ある彼くん(笑)」と揶揄されるなどヘイトタンク化してた時期あったし、
社会的弱者キャラが視聴者に袋叩きにされやすい構造のキャラクター配置・描写になっていた。
そしてペイル社で金儲けのことしか頭にない風見鶏してたCEOが無罪放免で、強化人士死んでも平気な上級国民してたケレスさんとやらも味方面して参戦。
フィクションに一番やられたくないことをやられた感じがした。
恵まれてる人は性格がよく、相対的に恵まれてない人が性格が悪いのは現実に似ているけど、若い人に見せるつもりで作っているアニメならこういう希望を摘む真似はやめてほしかった。
結果的に水星の魔女はアラサー以上しか見ていないようだけど、プロジェクトの意図としては10代など若い視聴者を新規で取り込みたかった様子。
でも見てて息苦しくなるような嫌なリアリティは希望がなくなる。二次元っぽい性格の悪さではなく、実際にいそうな性格の悪さの「湿度」が本当に見ててしんどかった。
インセル、ただの弱者男性の類かと思ったら、ポリコレ指定受けられるガチ目の社会的弱者だったのか
https://home.kingsoft.jp/news/amusing/nazology/134954.html?from=rss_list_nazology
しかし、アメリカのテキサス大学心理学科のウィリアム・コステロ氏ら研究チームが最近行った研究により、インセルとして自分を認識している男性は、精神的に多くの問題を抱えており、恋愛相手に対する理想も一般の男性よりも低いことがわかりました。
そして調査の結果、インセルのグループは精神的に非常に問題を抱えていること、認知に歪みがあること、被害者意識が強いこと、自閉症スペクトラム障害(ASD)の発生率が高いこと、恋愛のスキルが低いこと、デートに対して不安を感じていることが明らかになりました。
また、世界的に見た自閉症スペクトラム障害(ASD)の有病率は0.62%なのに対し、インセルの人々の中では、18~30%と非常に高いこともわかりました。
女性が社会的弱者ということで、今まではうまくインセルを批判してきた
しかしインセルのかなりの割合が障害者となると、女性よりも更に弱い可能性があり、下手したら批判する市民運動の方が優生扱いされそうだ
本来「社会的弱者」なんだけど「社会的」が省略されているので誤解を招く。
社会的支援を必要としている、自力では十分な生活を成り立たせられない存在が社会的弱者。
女性、高齢者、障害者などは弱者属性で支援を受けやすかったけど、就労可能な年齢の男性はそれだけで支援の対象から外されてしまう問題があった。
こうした存在を浮かび上がらせるために、「男性にも社会的弱者はいますよ」ということで、わざわざ性別をつけた弱者男性と名付けた。
一方、女性の社会的地位が向上した結果、女性全体を弱者属性とみなすのは無理があるのではないかということで、弱者女性というカテゴライズが必要なのではないかというのが直近の議論。
なので、いずれにせよ主に経済や生活の面で社会的支援が必要かどうかが弱者かどうかの判断基準であり、異性にモテるかどうかは関係ない。
https://blog.tinect.jp/?p=83358
この記事。精神疾患で人生崩壊とか言いつつ、傍目に見たら全く崩壊なんぞしていない人の記事。
「6割の力で生活をすること」とか気軽に言ってくれるが、それってこの人が高学歴のエリートかつ理解のあるパートナーのいる強者女性だから言える事だよね?
年収1000万の6割なら年収600万円になるので十分暮らしていけるが、年収300万の6割は180万円にしかならず、女一人生活していくのにもカツカツになるんだわ
低収入の女は嫌でも全力で働くしかないし、全力で働いたところで大した稼ぎは得られないんだよ
簡単に言うんじゃねえよ
ましてやこの人は理解のあるパートナーがいるようだから、万が一この人自身が全く働けなくなったとしても路頭に迷う事はない訳だ
オードリーの若林が社会的弱者である無職に「将来お前が苦しむのが楽しみだ」とかほざいてた過去があることを今知った
他人が無職になった原因なんて大量にあるしそいつに迷惑掛けられたわけでもない
なのにそんな相手に暴言吐いて越に浸るガイジとそれみて喜ぶガイジ、お前らが普段憤ってるイジメの件と何が違うんだか
ちょっと前に相方の春日がペンギンの池に入ったりとか椅子壊したりとかで炎上してたが、あれは故意じゃなくて他の演者やスタッフにやらされた所もあるからまだ分かる
でもこいつのこの発言はそういうのじゃないし単純に人間として倫理観が終わってるだけ
寧ろこっちの方がよっぽど炎上するべきだわ
【新聞に喝!】「外国人共生」の現実を見よ イスラム思想研究者・麗澤大学客員教授 飯山陽
https://b.hatena.ne.jp/entry/s/www.sankei.com/article/20230910-BKRJUR4GKZKYFCEHAXAM4COR5M/
外国人犯罪を警戒する話に対して、憎悪だとか排斥だとか言って、社会的分断を深めようとするコメントもある。
しかし、女性や児童といった社会的弱者が日々感じている不安を、ないがしろにしていいんだろうか。
女性や児童が安心して暮らせるまちづくりを左派こそが主張してきたのに、女性や児童の不安感よりも外国人の多文化共生推進を優先すべきとでも言うだろうか。
人間もどきが学生を批判して優位に立っている気になっているのは全く根拠のない話だ。
理想の社会を掲げる者は左翼ではない。社会学では右派左派という拘りに言及する事はない。
社会学を学ぶ学生は、一人一人の主張に耳を傾ける。具体的な活動をしている彼らを否定することは臆病者の戯言である。
社会学は虚学ではない。
ガソリン代が値上げされているのは直近の話であり、現在は電気自動車の普及も視野に入れられている。社会には車すら保有することが不可能な人が増えている。
ガソリンだけではなく原油高騰の問題点を追究するのが社会学だ。
電気エネルギーに転換することで職を奪われる人が発生する。それを追究するのが学問だ。
日常的な困窮が発生するのは、代々渡って低学歴の家系の出身だからであり、こういった社会的弱者はコミュニケーション能力に劣る事がある。自らの困窮を自らの責任とせず、社会へと転嫁させるのである。
例えば、学生を目の敵にすることが無益な行為である事に気が付かない。この間学生達は己の研鑽に励んでいる。努力でどうにかなることから目を向け無為な時間を過ごす先に困窮が待っている。
そして、誰の為にもならない愚痴を連ねる。
信号がなくて困るのであれば管轄である自治体に苦情を嘆願すれば良い。しかし低所得者層は解決する術を持たない。