はてなキーワード: 研究生とは
増田えらいなあ、ワイもろくでもない家庭出身、自力で旧帝博士取得、現在研究職、匿名でもお仲間がいて嬉しいわ。
査読付き3本なら標準的な博士課程、それで留なしはえらいわ。研究室でも優秀なほうやろ。学振持ちかもわからんね。
ワイそこまで優秀じゃなかったからしばらくポスドクでしけた研究生活してたけど、それなりのアカポス取れたやで。
もし最初の就職先でハズレ引いても(この業界、大学名や職位だけでは実態がわからんこともある)、諦めず次を探すんやで。
なあ増田、十八から自立して自分だけの力で博士取るくらい努力したらストレスで体調に影響が出るのは当たり前よ。
やばい家庭で育った子が後で身体弱くなる、よくあることなんよ。
アトピーなり何なり出て当然なのよ。
増田は悪くないんよ。
ワイは別の症状だったけど、まあひどかったわ。
ただワイは図々しいから「蓼食う虫も好き好き、ワイは蓼や、虫さがしたろ」と思って恋愛は平気でやっててんけどな、増田はそのへん繊細なんやな。
そのうち良い人と出会えるなんて言わんけど、増田はすでに充分立派やからな。
そこんとこ忘れんといてな。
自担はめでたくデビューさせいたので見事自分もJr.担からデビュー担になったわけだが
ジャニーズJr.応援してて……と言うとまあ大抵の人更にはジャニオタでさえ有名どこの茶の間とかだと必ず少年好き、ショタコンだと思われる
私は16で普通に年上の自担がめちゃめちゃにかっこよくて担当してたしそのときメイン張ってたJr.8割年上だったしずっとそのイメージだったのだが
メインを張れるユニは限られててその中でショタ需要を担ってるユニも最年少でもうすぐ中3になるし最年長は大学生になる
人気のあるJr.は高校生以上学生ですらなくとっくに成人済みもありえるというJr.担以外からのイメージの乖離
実際ガチのショタコンはJr.よりEBiDANキッズとかボイメン研究生の方がいるかな
まあJr.も入りたての小中学生しか愛せないガチはいるよね、でも割合は少ないよ
22歳制でどうなるかは気になるけどまあもう自担Jr.じゃないしー自担Gバック付けるの舞台くらいしか多分無いしーコロナ禍だしー
https://alfredplpl.hatenablog.com/entry/doctorに触発されて(全く比較にならないですし、引用すること自体が失礼ですが)
故障対応→警報出たら、車で現場行って、とりあえず装置リセット()。
・会社に過度な期待をしてはいけない。(色々目を瞑れば、院生時代より天国)
・基本動作の励行(上長の指示に従う、遅刻無断欠勤しない)をすればなんとかなる。
・人はとても良い(攻撃性のある人は知る限りいない)
・そのうち不況が来るとの予感があったので、雇用の安定重視。(売り手市場過ぎておかしいと思ってた)
・研究生活(つまらない、拘束時間長い、指導教官がしつこい)の反動で、ホワイト企業が良かった。
→NTT
※以上のような志望動機だったので、
そこまで難しくない。本社採用でも大学名問わず入れる。(Eラン〜宮廷まで万遍なくいる)
□人の話を聞けるか
□志望動機を作れるか
□興味のある職種を言えるか
上を見るとキリはないが、納得できる待遇。
社宅の当たり具合(入居可否、地域、使用料)で大きく可処分所得が変わるので、
グループ他社との比較は多分意味ない。(ドコモ、データ、都市開発を除く)
配属は一応全国の可能性はあるが、このご時世なので地元になる人が大多数だった。
孤独に耐え研修動画を視聴、ビデオ通話でグループワークを繰り返す日々が2ヶ月強
→メンタル最悪
結局、実物をよく見たことがない状態で、保全拠点に配属された。
・色んな人がいるけど平和(隠キャ〜ウェイ系、10代〜70代が共存)
・保全なので時間に余裕あり、疲労度少ない(↔余裕がないと事故になる)
・資格取得の圧が強い
・すぐに異動させられそうな気配がある
https://anond.hatelabo.jp/20200928113830
皆さま沢山コメントをくださって有難いです。トラバもブクマもひとつひとつ読みました。
アドバイスもとてもありがたいです。経験談や、色々なサイトへのリンクもありがとうございます。読んで参考にします。
「俺もそんなんだった」が一番救われる言葉でした。これで救われてはいけないのかもしれませんが。
こう見るとはてなってやはり高学歴が多いのだな、少なくとも一定数はいるのだな、と実感しますね。
慣例に倣い、この日記を印刷して学生相談室に持っていく予定です。
私はいつも優しい増田の皆様に救われています。実はB4の時も似たように、かけらもない進捗報告を発表するのが嫌すぎて逃げたしたときにも、増田で弱音を吐いたら優しく励ましてくれてどうにか復帰しました。あの時は3日で済んだんだよなぁ。
(つまりその時の失敗を全然生かせずにまた同じ轍を踏んでいるということでもある。成長していない。)
めちゃくちゃ赤裸々に書いたから特定されたらどうしよう。まあそれでもいいか。ラボの人間にはてなぁがいないことを信じて色々書きます。
めちゃくちゃ長くなっちゃったので冗長な文章ですが見たい方は暇つぶしにどうぞ。自分の思考の整理も兼ねて書きます。
1:現状報告、2:ブコメ返信、3:愚痴、の構成でお送りしたいと思います。はてな記法が分かっていればよかったんですけど、すみませんすべてベタ打ちで…、申し訳ないです…見出しの付け方分からない…
1:現状報告
昨日(9/28)、教授に相談し、同期にお叱りをくらい、とりあえず復帰することにしました。
最初10月頭からの予定でしたが、意外と必要な窓口業務が多いのと、せっかくなら平日に買い物や病院通いがしたいのと、あと10/1って内定式なので他のM2いなくて寂しいので、来週からにしてくださいとお願いしました。
私交渉した!頑張った!(自分で自分を小さいことで褒めていくスタイル)
それでも月曜日に無理そうならさらに数日後でもいいですかってお願いするんだぞ!出来たら金曜の昼とかに、最低でも日曜の夜には言うんだぞ!
私は「交渉」というスキルを手に入れるんだぞ!私が壊滅的に持っていないものだぞ!
さて、卒業や進路についてですが、事務や両親とも相談して、いくつかの選択肢で迷っている状態です。
・まず今年度の卒業は不可能だと言われました。ラボに行っていないため前期分の卒業研究の単位を落としており、これはどうあがいても今年取らせるつもりはないようです。
・留年して早くて21年の秋、もしくは22年の春になら卒業できるそうです。どちらにするかは多分私の意思で決められます。が、単位の関係で今年中には決め打つ必要があるようです。
・6月(通学再開時)に復帰してくれれば全然大丈夫だったのに、とめちゃくちゃ言われました。そこはそうだったな、家出して逃げるのではなくちゃんとラボに行けばよかったと思います。
電話もメールも手紙まで先生から頂いていたのに、全て無視していました。ご心配とご迷惑をかけて申し訳なかったです。
①専攻を生かした業種・職種
のうちどうするか決めあぐねています。また、研究生活の選択肢として、
A : これから半年研究し、21年の春に中退する(つまり大卒の第二新卒として就職する。この場合就活は必然的に②になる)(もしくは今中退してもいいですが、就職情報が手に入るので就職先を決めるまでは在籍したいです。)
B : これから1年研究し、21年の秋に卒業し、半年空けたあと、22年の春に就職する
C : これから1年半研究し、22年の春に卒業し、22年の春に就職する
D : (あまり視野に入れていないが一応)今年半年休学し、21年の春から1年研究して、22年の春に卒業し、22年の春に就職する
(ただ、さらに半年行かないでその後復帰できるん?という疑問は大きいからあまり選びたくない。ここから半年は就活に集中できるのが大きなメリット、とはいえ私は就活に集中なんてことをできる人材とは思えない。)(あと休学の書類は9月中だからもし休学するなら超急いでしなくてはならない)
E : (これも一応書いておく、Dだと今年一部の学内サービスが使えないので)制度上はCと同じにして、これから半年は研究室は休むという形を取り、Dと同様に21年の春から1年研究して、22年の春に卒業し、22年の春に就職する
のいずれかがあります。
先生のおすすめはおそらくC、親のおすすめもC、私の現状の希望はB、同期の友人のおすすめはAといったかんじになっています。
ちなみに家の経済的に金の問題は多分無いです。出世払いで返せばいいと言ってくださいました。
焦って決めなくてもいいとは思うので、できたら来週頭くらいを目途に方向性を決めたい。
どれがいいのだろうか。
2:ブコメ返信
目についたものだけですがブコメ返信的なものをします。引用の方法が分からなかったのでコピペベタ打ちで…すみません…
どのコメントも有難く読ませてもらっています。真剣で暖かな言葉をありがとうございます。
思ったよりいっぱいいて少し安心しました。優しい言葉をかけてくださって嬉しいです。
・進路に関するアドバイス
めちゃくちゃ有難いです。身近な人のアドバイスも有難いですが、やはり偏るので、関係ない人からの感想も参考になります。
B4の頃少し読んでいました。いいブログですよね。また改めて読もうかなと思います。
・kokojp 勉強は出来るんだろうからいざとなったら地方公務員試験でも受けるといい。M2までの経歴があればなんとかなるよ
なるほど、それはいいですね。すごく前向きに検討したい。学部時代から興味はあって、去年はそんな暇ない、でやらなかったのですが、今年は説明会くらい行ってみてもいいかもしれない。
誠に申し訳ない。めちゃくちゃ気にしている。どうしたら治るか分からない。この無駄に高いプライドはどう崩せばいいのか。
・augsUK yoppu7 雑誌会=研究室のゼミ、論文レビューみたいなもの
雑誌会はゼミのひとつで、学生が適当な論文を1つ選んでその内容を紹介するやつです。うちの研究室ではそう呼んでいませんが、雑誌会の方が伝わるかと思って使用しました。説明しておけば良かったですね。論文内で使用した反応全ての反応機構や選択性を書く必要があって、手抜きかつ難しくないものなら1週間ちょいくらいで仕上げられますが、やろうと思えばめちゃくちゃ手間をかけられます。学生の優秀さを比較するのに割と強く使われる会です。
・mbr 一大学教員としては「毎年のようにドロップアウトする学生が続出している」なら、増田よりも教員に問題があると見なすよ。増田が引きこもってる時にラボの人じゃなく親が引っ張り出す時点でそれは違うって叫びたい
そう、毎年のようにドロップアウトする学生が続出していたんですよ。偶然かおしなべて女子だったから次は私だってめっちゃ言われてて、事実そうなってしまったから本当にウケる。いつか先輩に会うことがあったら笑ってもらおう。
私としてはドロップアウトする学生それぞれの生来の基質もありますし、就活とかの進路の要因も大きいですし、学生同士の人間関係的な要因もありますし、そもそも有機化学の研究室は拘束時間が長く体力的にキツめ、というのも大きいと思うので、教授の責任はそこまで無いとは感じますが、内部にいるのでよくわかりません。少なくとも私は今の教授はいい教授だと思います。
先生も「自分のせいかな」と思ってはいると思うんですよね、それが申し訳ない。
一応言っておくと誓ってセクハラは無いです。セクハラがヤバい他の教授のエピソードは友人から山ほど聞いています。
・kinaco68 ここまで的確に言語化できて偉い。 M2の時って漠然とした焦燥感があるよね
的確と感じましたか。理解しやすかったのなら少し嬉しいです。今回は自分でも珍しく的確に書けたなと思います。普段の私の文章はもっと取っ散らかっていてかつポエミーで読みにくいです。
・mshota 大丈夫大丈夫。自分が何か間違ったことを言ったりやったりして恥をかくのが嫌なんだよね。
もう本当にその通りです。この無駄なプライドの高さをどうにかしたいです。
最近自覚したよくないクセのひとつに、怒られているときに「そうなんですよ」と返事をしがちなのがあります。つまり私はそれが悪いことだと分かっていますよアピールであり、つまり自分の心を守る言動な訳なので、素直に「はい」と言える素直さが欲しいです。
・トラバ
あなたは頭がいいし、なおかつ(自分が思ってるより)周囲からも愛される人なのではないだろうか?
可能なかぎり最善を尽くすべし。
何故かこれが一番泣けました。幸運にも周りの人には恵まれています。皆さん優しくていい人です。情けないとともに有難いです。
・トラバ
参考になるか不明だけど昔の自分の日記おいとく https://anond.hatelabo.jp/20140306080333
とても共感しました。比較的似ているタイプだと思います。最初は馬鹿みたいに張り切れるところが特に。私はこの基質は躁鬱のケなのではないかと自己診断しています。
そういえば、B4~M1の時、私躁だなーと思っていて、妹にこのままじゃ鬱になるよと言われていたのを思い出しました。まあ修士卒業までの3年くらいは持ってくれるっしょ!と思ってゴリ押ししていたのですが、今年の年明けくらいから躁が終わったな、と感じていました。就活のときこそ躁でいて欲しかったです。無駄な万能感が欲しかったです。
・tarume ここすき "引きこもっていた期間の行動や心理については、父が音読してくれたこのブログとほとんど同じである。どのブログだろう。探せなかった。"
このサイトでした。父に教えてもらいました。せっかくなので特に共感した箇所を引用します。
https://note.com/kazuaki3280/n/n95ea3a34bc06
(引用)
今思い返しても何も思い出せません。虚無です。とにかく毎日、何かを考える事が怖くて、スマホを手に取りゲームや漫画や動画、あるいは据え置き機でのゲームを、ひたすらしていました。最新のゼルダをやったのは確かこの時期でした。コンテンツが途切れると自分の現状に向き合わなければならず、その十字架に耐えられるほど強くなかった僕は、ひたすら絶える事なくスマホを握っていました。罪悪感を、周囲に対する劣等感を、将来への不安を、膨れ上がった負の感情全てを、ひたすらに薄めて薄めて一日をやり過ごしていました。スマホの画面を見ていない時間が、そこで顔を出す現実と孤独が怖くて仕方がなかった。弱さに向き合うことすらできない弱さに絶望し、ただひたすら感情を失ってゆっくり腐っていきました。辛いことも楽しいこともほとんどありませんでした。布団に入って目をつむると静寂の中不要な思考ばかりが空転するので、寝落ちするまで毎日眠りませんでした。生活リズムは崩壊し、朝7時に寝て夕方16時におき、夜22時に一日一回の食事を摂っていました。
(引用ここまで)
細かい箇所は異なりますが概ね同じ感じでした。当時の私の心情を代弁しているかの如く同じ気持ちでした。「コンテンツが途切れると自分の中の現状と向き合わなければならず」「膨れ上がった負の感情全てを、ひたすらに薄めて薄めて一日をやり過ごしていました」あたりが本当に共感できます。
ちなみに私るる鯖の人狼ログとかでした。増田もめっちゃ見ました。
3:愚痴
ここからは進路を決めるにあたっての不安とか懸念事項とかをつらつら書きます。
本気でめっちゃ長いだらだらした半分自己分析なので、本当暇な人だけ読んでね。キャリアカウンセラーに話す内容の下書きのつもりだからね!推敲していないしマジで口語の垂れ流しなので読みにくいよ。後から文句を言わないでね。
・就活について、私は研究職に向いているのか?…向いていないんじゃないか?M1の時からそう思っていたが、まあいけるやろでだましだまし就活をしていた。でもやはり向いていないんじゃないか?だって現状研究室生活を投げ出したし、そんなにできるほうかと言えば別にできるほうでないのは事実だし。コミュ力無いし。大学院ぽっちの研究を投げ出すようなら企業での研究なんて無理ではないか???
・あとおそらく世間は狭いのだから、私の大学での悪行は広まるのではないか?? 予約してすっぽかした説明会とか、予約をすっぽかした面接とか、予約したにも関わらずすっぽかした面接とか大量にある。把握すらしてない。そんなとこ来年のこのこと申し込めなくない???
・ぶっちゃけM1の1月から研究のやる気本当に無かったじゃん。行くだけ行ってほぼ何もしないみたいな日結構あったじゃん。研究の成果がちっとも出なかったのもあるし、就活で発狂していたのもあるし、先生からそろそろ自分で方向性とか色々考えてみればみたいな雰囲気を感じたので考えてみたけど全然うまくいかない感じとか、プライドが無駄に高いから他人にあまりものを聞けないから研究が行き詰まる感じとか(特にここが大きな問題)、後輩の研究指導が本当にできなくて比較的放り投げるか無駄な助言をするかしかしなかったのとか、その辺めっちゃあったじゃん。
・その辺を横目で見ていたから、同期の友人に「お前研究職向いていないと思うよ、事務職とかがいいと思う」とか言われるのよ。言われて図星過ぎて恥ずかしくて往来でブチキレちゃった。申し訳ない。
(研究生活とはあまり関係ない私的な生活の話だが、似たような恥ずかしい思いをしたときにすぐブチキレちゃうのをどうにかしたいがやり方が分からない。そのために妹とは口を開けば喧嘩ばかりしてしまう。そういえば研究室でもしょっちゅう廊下でこっそり紙を破ってキレ散らかしていた。ラボでも支障出てんじゃん。困る。)
・同期の友人が進路にAを勧めるのは、私の「プライドが無駄に高いから他人にあまりものを聞けないから研究が行き詰まる感じ」を見てるから、来年オレがいなくなった後がつらいんじゃないの、という心配が一番大きいんじゃないかと思うのね。来年と言わず就職後もきついと思うし。
事実色んな人とのそれなりのコミュニケーションや業務を、あいつにおんぶにだっこで研究室生活を乗り切ってきた面は大きい。
・先生に、「自分は本当は退学したいが親に説得されたからやる」では君のモチベーションが続くかは心配、と言われた。それはその通り。
・というか研究室に戻って実験やる気出してやれると思う?正直昔過ぎてどんな思いでやっていたかとかあんまり思い出せないし、今は「まあ行けんじゃね?」と思っているけど、それは半年前の研究のマジでイヤさを忘れているだけかもしれない。
そういえば2月くらいとかgoogleで「しんどい」と打って検索してはよく分からないキュレーションサイトを見る、とか、実験も文献を読むのも就活もやりたくなさすぎてケムステ(化学系ポータルサイト)のしょうもない記事をコアタイム中に読み漁ったりしてたじゃん。何なら一時期はてぶしてたわ。思い出した。やはり私に研究室生活は荷が重いのではないか?
・あれかな、肩慣らしに少し研究やってみて、ダメそうかどうか判断する、のもありなのだろうか。
ただちょうどテーマ変えるか、の段階だったら、どのテーマでやるかから決めなくちゃいけないのだけど。
ちなみにこれはこの日記がこんなにブコメつく前に書いていた研究の目標の文章
https://anond.hatelabo.jp/20200928200744
・M1の時に描いていた理想のキャリアプランは、いわゆる「中堅」と言われる、社員への面倒見がよさそうな企業の、技術系総合職に就職して、できたら研修を長―くやってその後配属を決めるくれるような企業で、研修をして、研究職に配属されて(まあここから違う職種でもいい)、そこで1-3年くらい研究をやったら「あ、向いてないな」と私なり企業なりが思うかもしれないから、技術営業だか知財だか管理部門だか窓際部署だかに異動するかもしくは転職して、後は適宜向いてそうな仕事をする、といったプランだった。
「中堅」にした理由に大きな理由は無いです。そういう企業が多い印象だったから。正直小さめの企業まで見ないうちに就活を投げだしたのもある。
・できることなら理系就職をしたいと感情で思ってはいるが、これは、いわゆる「せっかくこれまでかけてきた投資を無駄にしたくない」気持ち(コンコルド効果、と言うらしい)が8割を占めていると思うのよね。だからそこを差っ引けば私は別に理系就職したくないのかもしれない。
・だってぶっちゃけ増えてる増えてるとは言うが女子社員少ないしさ。普通に生きづらいと思ったこと大学で感じないことも無かったじゃん?
切れたので分けます。
コロナで人生が変わってしまった人は多いと思う。私も仕事の雰囲気が変わり始めている。
私は運がいいことに、やりたいこと興味のあることを比較的できる研究者を某旧帝大でやれる機会に恵まれている。専門は化学。だが、それも音をたてて変わり始めている。
もともと将来の仕事を何にしようと明確に描いたことはなかった。幼少期に育った地域は比較的英才教育とは程遠い地域であり、貧困家庭も多かった。友人の家に行くと昼間からおじさんがゲームをしていたり、パチンコや酒に明け暮れている、そんな地域である。小学校でありながらも学級崩壊に近いことが起きており、義務教育の内容をきっちりと終えることができなかったと記憶している。そんな状況を深く考えることはなく、私は周りの事象に対して疑問を持ち、調べるのが好きだった。なぜ水は雨として降ってきて、山を流れて、コンクリートの隙間から流れていくか。そんなことが気づいたときには不思議だったと思う。幸いにして先生にも恵まれた。疑問をもち、それを自分のペースで解決するのが好きであり、校庭のはじっこで疑問点などを書き出していたときに理科の若い先生が理科室に誘ってくれた。そこには違う世界があり、好きなだけ実験していいと言われてのめり込んだ。ガスバーナーをつけてよくわからない化合物を熱して色が変わる、気体がでる。一つ一つが楽しくてしょうがなかった。だが先生がある日突然学校に来なくなってしまい、程なくして全校集会が開かれた。持病の喘息でなくなったらしい。どうしたらいいのかよくわからないくらい、悲しかった。狭い実験室の僅かな道具から世界の広さをあれ程教えてくれた先生がこの世からいなくなってしまったのが悲しかった。学問は世界を広げてくれるというのを肌で教えてもらえたと実感している。
当時はショックだったが、中学校から親の転職の関係で引っ越し、比較的普通の地域に引っ越してしまった。小学校のときにはサワガニを追ったり、カエルを捕まえて、ビーダマンからでてくるビー玉の平均距離などをひたすら数える子供であったが、引っ越した地域では勉強熱心な地域であり、誰も放課後には遊んでいる子供はいなかった。塾に行くとのはなしだったが、恥ずかしながら塾という単語を知らなかった。動物を捕まえた数よりも試験の点数を重視する地域であり、ひどく狼狽したのを覚えている。小学校での経験があってか理科と数学が楽しくて仕方がなかったが、何故か閉塞感があった。あくまで中学高校でのお勉強というのは与えられた範囲でやる学びであり、そこに自由度は少なかった。結果的に勉強はできたのでとにかく自由を求めていた。高校には入ったが、倫理の先生と哲学の議論ばかりしていた。こう考えると私は先生に恵まれているのだが、先生に学びの自由を求められる場所はと聞いたときに日本には殆どないと言われてしまった。あ、そういえばといって、それがきっかけとなり京都にある大学に行くことになった。
大学は自由であった。毎年謎に作られる像やコスプレ卒業式で有名な大学であるが、学生の多様性がまったくもって違っていた。そこでも縛られるのが苦手な私は大学で授業に行けなかった。ただ、大学の図書館にはホコリを被っていながらもたまらなく刺激的な書籍が非常に多くあり、図書館に毎日通った。楽しくて楽しくて仕方がなかった。たぶんそれは小学生の時に一人で課題を設定して、問題解決をする。そういうプロセスであっただろう。数式、活字が踊っているようにすら感じた。一般教養の授業でもムラ社会を議論する授業や、紙飛行機を飛ばす授業など色々あり、不思議な授業であったと思う。ただ相変わらず大学の専門の授業は指定の教科書から逸脱していなく、面白くなかった。ある意味授業に関しては圧倒的に劣等生であったが、たまたま行った授業のときに言われた印象的な言葉がある。「結婚は何回でもできるが、研究室選びは一度しかできない。」人生のパートナーは何度でも選べるが、人生の専門となる研究室は一度しか選べないとのことだった。へそ曲がりな私は研究室で変わったことがやりたいと思い、研究室を巡ったが、どれもこれも古臭いホコリを被った図書館で聞いたことがあるような内容だった。日本の最高学府が学問として理解できてしまうということが非常に悲しかった。ただ、たまたま非常に尖った研究室があり、そこで私を拾ってもらえた。やはり私は先生に恵まれていた。研究室は今思えば世界的に有名で先駆的な研究室であり、そこで自由に研究を行う機会に恵まれた。朝から晩まで先輩後輩教員とディスカッションしながら、自由自在に研究をすることができる。研究費も潤沢であり、装置も多くあるために闇実験で自分の考えるすべての実験ができてしまった。卒論のテーマも自分でかってにテーマ設定をして卒論発表までさせてもらえた。今思えばあんなことに、というテーマであったが、当時は楽しくて仕方がなかった。卒論が終わった当日、テーマの変更を推奨された。初めて方向性を提示されたが、一言であった。ここには恩師の力があったと思う。結果的に与えられたテーマとは関係なく、M1で勝手に実験をして修士で論文を3本書いた。楽しくて仕方がなく、博士課程に進学した。博士では論文を12本書いた。ちょっとした自慢である。
博士の資格は名刺の角に書くことができる運転免許のようなものであるというのはよく言ったもので、単なる認定試験である。友人が大学のポジションの公募に出す中、私は自分の学問を切り開くのだと思い、博士研究員をすることに決めた。なんとなく海外は日本より風通しが良いだろうと思い、日本の研究費から支援をうけて、海外に2年間いけることになり、それまでに一切したことがない分野に飛び込んだ。将来学問を切り開くためには甘んじて先達のいる学問をすすめるよりも、開拓者であるべきという精神である。ただ現実は厳しかった。言った先の研究室では私は初めての外国人であり、装置の使い方、実験の仕方、単語すらわかっていなかった。学部生に単語の意味から教えてもらいながら、教科書を端から端まで読んで、理解した。論文は2年間で3000報くらい読んだ。めちゃくちゃ勉強し、1日の睡眠時間は3時間程度だった。結果的に分野での最高峰の論文誌に数報報告することができて、ライフワークが見つかったと思った。ただこの辺りから研究に対する見え方が変わってきたと思う。日本人会でいつも飲んだくれている友人がいた。大学では見たことがないが日本人の友人を探しているようだった。何が楽しくて研究をしに海外に来ているのかというふうに聞くと彼は出身研究室に戻るので1年間遊びに来ていると話していた。悪い冗談かと思っていたが、実際に彼は日本の出身研究室で職を得て戻っていった。不思議なものである。
当時の海外での受け入れ研究室の教員にぜひともこの国で残って研究をすすめるべきだと言われた。日本は講座制の影響もあり若い研究者が活躍しにくいということを聞きつけていてくれていたらしい。ただそのときに今まで私を支えてくれた恩師たちの姿が頭をよぎり、日本に恩返しをするべきではないかと思った。施されたら施し返すという精神である。日本に戻るためには公募の書類を出さないと行けないのだが、不思議と通らない。面接にすら呼ばれない。それまでに分析していなかった私が悪かったのだが、どうやら日本ではコネというのが幅を効かせているらしく、面接にすら呼ばれない。それとずっと付き合っていた婚約者との結婚もあり、フットワークの軽い私はならば日本に帰ろうと、日本に帰り、講演ツアーを行った。幸いにしてその一つが目に止まり、研究プロジェクトの一環で雇ってもらえた。そこでも好きに研究をしていいと言われ、論文を好きに書いた。楽しかった。研究だけしてたまに論文を書けばいいというのは至極楽しかった。ただ、学生と研究ができないのがとてつもなく寂しく、コネはなかったが、海外の訳のわからない研究室で研究をしているよりも経験をつんで日本で研究している私は魅力的に見えたのか、公募に通った。めぐり合わせというのは不思議なものである。
こうしてやっとただの研究者から大学教員になることができた。恒久的に研究ができるというのは非常に幸せであり、研究以外も楽しんだ。毎週の授業というのはライブである。そのへんのストリートミュージシャンよりも自分の一つ一つの発言を学生に聞いてもらえることができ、研究に対するスタンスなど伝えることもできる。学問というのは積み重ねの学問である。積み重ねがあるから新しさがわかる。ひとつひとつ丁寧に教えていき、学問の楽しさを伝えたが、やたらと聞かれるのは単位がとれるかかどうかであった。研究室でも熱意をもって新しい実験の仕方や、研究分野の掘り下げのための論文読み込みを学生と一緒に行った。ただ、学生から文句が出てそんなに頑張りたくないとも言われてしまった。悲しい。私はそんなに魅力がないのだろうか。大学教員というのは研究以外の思った以上の雑用があり、それに追われていた。ただ、そのたびに今まで知的教育を享受してき立場からそれを授与できる立場にならねばと思い、一所懸命に振る舞った。その結果ここでの学問結果をなんとかして論文にすることができた。これからすべてが軌道に乗る、そう思っていた。
そんな先のコロナである。実験を専門としている私は当然大学に来なければ研究をすすめることができない。だが、緊急事態宣言のあおりをくらい、研究室での研究活動はオンライン中心になり、さらに愛妻は妊娠中であったために下手な行動はできない。研究が中心であった私の生活は転換を余儀なくされた。学生と最新の実験成果を共有できない、授業はオンラインとなりzoomの先では、全く授業を聞いていない学生がいるかも知れないという状況で苦しかった。価値観も変わらざるを得ない矢先に子供が生まれた。福音であった。
学問というのは先んじてその場で役に立つものではないが積み重ねだと思っている。子供も同じで、毎日毎日状況が日進月歩である。首を動かすことがしんどそうだった子供が、今では自分の力で首を動かし、光の導く先を必死に見ようとしている。大学で学びをしている学生で一時的にやる気を失っている子もかつては私の子供と同様日々ひとつひとつできていくということが楽しかったのだろう。相変わらず大学での研究活動は制限されている。以前ほどの自由は担保されておらず、どうしても何かしらを管理する必要がある。その一つ一つの行為が私には苦しい。ニュートンはスペイン風邪のタイミングで新たな学問をみつけた。私にはそれほど頑張ることはできるかわからないが、研究を行い、学生に希望や考え方を論理的に教えるというのが現在の職での義務であろう。間違いなく私の研究生産性は下がったが、価値を下げず上げることが義務であると思い、日々努力している。
タイトルで調子に乗りすぎたことを最初に謝る。ちょっと盛ったタイトルにしてでも親世代に読んでほしい話なんだ。
私は6年前に浪人をした。幸運にも大学にはきちんと受かり、いまは大学院にも進学して研究生活を謳歌している。いや、コロナのせいで大学に入構できず満足に研究できているかは別だが、とにかく院生としてそれなりにやっている。
「高校生のときにやっておくと将来役立つこと」として数学だとか世界史だとか、色々なものが挙げられていると思う。私はここに「モノクロレーザー複合機を買う」を挙げておきたい。受験勉強をしていると大量のコピーを取る羽目になる。デジタル教科書やスマホ教材が注目されるが、なんだかんだ学校ではアナログ教材頼りだ。自分も高校生のときは自宅のインクジェット複合機でよくコピーを取っていたのだが、非常に時間がかかるしインクも大量に消費する。しかも汗や糊でインクがにじむ。環境に言い訳をするのは良くないが、勉強のモチベーションが下がる要因ではあった。
そこで、浪人したときに「勉強でコピーするのって9割以上はモノクロなんだし、モノクロレーザー買ったがよくないか?」と親に相談し、キヤノンのSateraシリーズの複合機を買ってもらった。メーカーはどこでもよいが、単に価格コムで安かったからキヤノンにしたと記憶してる。
これが学習の効率向上にかなり寄与した。なんと言っても印刷速度が早い。インクジェットでの待ち時間はストレスだったが、それがマシになった。また、印刷物も汗でにじみにくい。手汗が多い体質の人間ならわかると思うが、あのストレスからも解放される。さらに、インク(トナー)交換頻度が圧倒的に下がる。大量に印刷していても、受験勉強程度の使い方であれば1年は余裕で持つだろう。1年程度の受験勉強期間であれば交換せずに済むと思う。
加えて、今頃になってこの日記を書いていることからも分かるかもしれないが、モノクロレーザー複合機は大学入学後も大いに役立つ。高校や予備校に比べるとデジタル化されているとはいえ、印刷やコピーは何かと必要になる。また、大学でも大半のコピーはモノクロで事足りる。(カラーコピーが必要なときだけコンビニに行けば良い。)
日々の課題、課外活動、院試の出願。自宅で気軽に使える高速な印刷環境何度助けられたことか。
ちゃんとしたメーカーのモノを買えば5年以上は使える。スマホやPCなどと異なり、技術的に陳腐化することもあまりない。2~3万円で済むのだから、子供のためにぜひ買い与えてほしい。
ニートの兄がムカつく。
2浪1留で現在3流大の大学院生。わたしは1浪して東大を卒業し、今年社会人になった。
社会人になってから、兄がむかつくようになった。何がムカつくか。
英語、研究。なんでもそう。わたしは文字通り眠たいときもサボりたいときも、勉強やプライベートの充実を頑張ってきた。就職活動で強みがないことを恐れて、全額奨学金で留学したり、無能すぎて辛い思いをした長期インターンや研究生活を頑張った。
今も現在進行系で目標を定めて楽しみながら頑張っている。反面、兄は意味があるのかわからないオンライン英会話、TOEICスクール、エンジニアスクールなどに親の金で通い、そのどれでも成果を出さなかった。楽な方に、楽な方に流れているにも関わらず、頑張っているアピールをする。
隣の部屋から聞こえてくるフィリピン人のおべっかと、兄のオーイヤー、アイノーという糞の垂れ流しみたいな英語が本当にイライラする。
いよいよ卒業式を迎えることとなった。我が学生生活は、長い長い学生生活であった。
座学が苦手な小生にとって大学の講義は苦痛でならなかった。だがなんとか単位を取り切った。自分で自分を褒めたいと思う。
研究生活は得るものも多かったが一方で苦しいものだった。結果を出すために夜遅くまで研究室に篭り、徹夜をすることもあった。
これからはお賃金をもらって、かつ1日8時間しか労働をすることを許されない生活が始まる。当分はこのギャップに戸惑うこととなるだろう。
大学生活で得た学びや人間関係を大切にし、春からの新生活を過ごしていきたいと思う。
ところで、肝心の卒業式はコロナウイルス感染拡大防止のために中止になっちゃったよ‼️‼️‼️
ぴえん😭😭😭
私は自分の能力は並であると判断したので米国の大学院に進学した。
米国の博士課程は厳しいと聞いていたので、留学前はかなり気構えていたのだが、案外そんなことはなかった。もちろん、課題や研究、TA業務に追われ、日本の大学院に在籍していた頃よりも3倍程度は忙しいのであるが、精神的にはかなり楽に感じている。日本にいた頃は、将来への不安を感じたり、就職して楽しそうな友人が眩しく見え、本業の研究に集中できないこともあった。しかし、こちらの大学院は院生の人数も多く、学部生との関わりも多いので、そのような感情を感じることも少なくなった。その結果からか、研究や勉強にも身が入るようになり、日本にいたころでは想像もしていなかった場所まで来れたと思う。もちろん、母国語で会話できないという辛さはあるが、研究生活全般としては非常に充実した日々を送れている。
そろそろ卒業後の進路を考える時期に来ているのだが、日本の大学には戻れる気がしない。日本の大学の研究環境が良くなってほしいという想いは今も持ってはいるが、少子高齢化の影響がこれまで以上に大きくなることを考えると、日本の大学がかつての輝き(実際に見たわけではないので存在したのかもわからない)を取り戻すのは厳しいのではないかと思う。研究はしたいけど、日本でバシバシ成果だせるほどの天才である自信がない中間層は米国の大学院が良いのではないだろうか。ほとほどの英語と料理ができれば特に不便はない。日本人が外国で成果を出しまくれば、日本政府が彼らを呼び戻すために日本の大学の研究環境改善に本気で取り組むという微かな希望も持っている。できることなら母国で研究したいが、求められないのなら仕方ない。自分を求めてくれる場所で結果を出すだけである。
その先輩は俺が学部4年生のとき史学科の博士課程に在籍していた。
俺が所属するゼミの教授の研究室の人間だったのでたまにうちのほうのゼミに呼ばれて顔を出してた。
正直その女先輩の印象は悪かった。
化粧ド下手糞、髪ぼさぼさ、ドブス、下ばっか向いてる、声が小さい、うざいくらい喋りがバカ丁寧、質問するにも意見言うにも前置きが長くてクソ冗長。
うちに呼ばれる博士の研究生には他に男2人がいたけど、その人たちもいかにもコミュ障のオタク丸出しで正直気持ち悪かった。
だから、博士課程のお兄さんお姉さんがたがうちのゼミに顔を出す日はうちらは妙に緊張したムードになってたし、
数カ月に一度訪れる「めちゃくちゃ退屈で面倒な日」としてゼミ同期は舌打ちしていた。
「人文系の博士ってやっぱ変な人ばっかなんだな。全員キショいやん」
同期の一人がそう吐き捨てたのを聞いたことがある。
そんななか、事件が起きた。
履修説明会やらイベントやら以外でほとんど誰も足を踏み入れないようなホールにあるトイレだ。
俺はウンコがブリブリ出る音を人に聞かれたくない乙女な面があったのだが、
そこだと静かゆえに集中して全力で排便できた。
ある日、いつものようにホールのに乗り込んだ俺は広い多目的トイレのボタンを押そうとしたのだけど
珍しく使用中ランプがついていた。
仕方がないので、普通の大便トイレ使おうと移動してズボン脱いでケツを出すとこまでいったけど
やっぱりいつもの場所じゃないからクソは出ずに屁だけが出るばかりだった。
しびれを切らした俺は、多目的トイレの前に戻り先客が出てくるのをずっと待つことにした。
5分くらい待っただろうか。
軽く会釈すると、驚愕の形相で俺の顔を見つめてすぐに目を逸らされた。
「(こいつほんとコミュ障だな)」
不快感がこみあげてくるやいなや、なんとその後ろに博士の地味ブス女ともう一人のブサイク男先輩もいることがわかったのだ。
俺が呆気に取られていると、その二人はが完全に地面を見つめるレベルに下を向きながら我先にと出て行こうとする。
汗で濡れた髪を真っ赤な顔にへばりつかせながら、そそくさと俺の横をすれ違う地味ブス女先輩の顔から
ザーメンらしき真っ白い粘着質の液体がボタッと地面に落ちるのを見た。
衝撃のあまり便意を完全に失ったというのに俺はなぜか、ついさっきまで彼らが乱交セックスをしていたと思しき
多目的トイレ内にフラフラと入っていき、便座に座り込みずーっと呆けていた。
「あんな地味な先輩がよりによってこんなことするのか……」
そんなことばかり考えて頭が混乱していた。
相変わらずのドブス顔、真っ赤になった頬、汗で乱れた毛先、ザーメン。
あの衝撃的な一瞬を何度も何度も思い出しているうちに、下腹部がジンジンと浮き上がる不思議な感覚に襲われ
それが陰部にまで広がり、なんと俺はその場で果ててしまった。一切触れていないのに。
今思えば、あれは広義のNTRだったんだと思う。
全く性とは程遠い人間と確信していた女先輩が、実は貞操観念がぶっ壊れた行為に及んでいたという"裏切り"。
それを実際に目撃してしまったことで想像だにしないほどのショックを俺は受けたということだろう。
その晩から俺は毎日ドブス女先輩をオカズにオナニーしまくった。
記憶を薄れさせたくなくて、また博士課程乱交トリオがうちのゼミにやってくる日を心待ちにしていたけど
あの出来事で俺の性癖、性的嗜好は破壊的なまでに歪んだと言っていいだろう。
トイレ事件の日以来、俺はそれまで行ってた可愛い子が多いと評判の短大との合コンには一切行かずに、
電通大や首都大とかいかにも地味ブスが多そうな大学とのコネクション構築に奔走した。
ドブス地味女先輩の幻影を追い続けるようになったのだ。
そうこうしてあの先輩と同じ属性であるどうしよもなく地味でブスで真面目な彼女ができた。
セックスはもっぱら多目的トイレで行い、顔射で果てるというのが必須パターンとなった。
欲を言うと3Pまでいきたかったけど、周りの男友達には到底頼めなかった。
どいつも俺の彼女の顔を知ると冗談めかして「お前どうしちまったんだよ!!四谷怪談じゃねえか!!」
なんてイジっていたけどそういう女を彼女に選んだ俺に割とガチで引いてるのが伝わったからだ。
これから俺は彼女をトイレで一緒に抱いてくれる清潔感のないオタクを探す旅に出ることになるだろう。
ネットを頼るつもりだ。
でもそれで俺の欲求が完全に満たされないとは予感している。
結局のところ、相手はあの博士課程の女先輩本人じゃないとダメなんだろう。
そして乱交場所のトイレもあの大学のあのホールの多目的トイレでなければ……。
もう一度ドブス地味女先輩と会いたい。
セフレにしたい。
悶々としながら俺は生きている。
彼と僕は三年間とも同じクラスに属し、同じ部活に入っていた。部員数はとても少なかったため、必然的に僕達は仲良くなった。授業が終わったら部活が始まるまで、二人で教室に残って宿題をした。部活が終わったら、夕暮れの中、自転車を押して二人で他愛もない話をしながら帰っていた。
高校二年の冬、彼は肩が痛いと言い出した。僕達は皆、ただどこかでぶつけただけの軽い打撲だろうと思っていたが、その痛みは次の年の夏まで続いていた。さすがに何かおかしいと思った彼が病院に行き、検査をうけると、骨の癌だということがわかった。
彼は、一言でいえば、人望があった。筋骨逞しく文武両道で、理知的だった。それでいてユーモアや冗談が好きで、いつも周りの人々を笑わせていた。何よりも、彼は優しく、思い遣りのある人だった。だから、彼の周りにはいつも人が集ってきた。それは彼の入院中もそうだった。抗癌剤の副作用にもめげずに、面会に来た友人達に気丈にふるまい、退院した後はどうしようかなど、将来の希望を語っていた。実際、彼は退院し、志望していた大学に入って大学生活を楽しんでいた。彼女もできたようだった。
しかし、子供の癌は進行が早い。化学療法で殲滅できなかった癌細胞が他の組織に転移し、彼の癌は再発した。癌切除手術、抗癌剤、退院、再発して入院、手術、抗癌剤、退院、入院、その繰り返し。筋骨隆々だった彼の体は段々と痩せ細り、頬もこけていった。抗癌剤の副作用は彼の精神をも蝕み、面会をする度にぽつぽつとネガティブな言葉を吐くようになっていった。誰が見ても、彼の予後は絶望的だった。
僕にできることは何もなかった。衰弱していく彼を真横で見ていてもなお、死相の出てきた顔を間近に見ていてもなお、僕にできることは一切なかった。そのことが僕はとても悔しかった。だから何か僕ができることを探して、考えついたのが、生命科学の研究者になることだった。
馬鹿馬鹿しいと思われるかもしれないが、僕は死後の世界について考えていた。人が死ぬとどうなるか、僕達は知りえない。だからこそ、死後に天国のような世界があり、そこに彼がいる、そんな可能性が存在する。死んだ後、無に帰すならばそれでいい。だが、天国のような世界があった場合、僕は生前こんな風に頑張ったと、彼に報告したい。生命科学の発達は、かつては治療する術のなかったような病気に対する治療法を確立させてきた。だから僕は生命科学の発達に貢献し、それを彼に報告したいと考えた。今振り返ってみると、なんて馬鹿馬鹿しい考えなんだろうと自分でも思う。
博士課程を卒業し、がむしゃらに研究活動を行い、数年が経った。どうやら研究者の道で成功するには、情熱、実力、コネ、運の全てが必要らしい。生命科学の発達に貢献したい、という漠然とした動機でやっていけるほど甘い業界ではない。それに最近、ある致命的なことに気づいてしまった。
僕は彼のことが好きだった。片思いだった。高校生の時にはただの憧れだと思っていたが、大学生になり、自分が同性愛者だと気づいてから、彼への想いを認識した。もちろんそのことは彼には伝えていない。伝えないまま、彼は数年前に死んでしまった。しかし、死んでもなお、彼を慕う気持ちは変わらない。僕は、死後の世界で彼と逢えるという一粒の可能性に賭けて、辛い研究生活を送ってきた。
しかし、最近致命的なことに気づいてしまった。なんで今まで気づかなかったのだろう。
それは、もし死後の世界で彼に報告できたとしても、彼は僕のことを気味悪く思うだろうということだ。彼は彼女と一緒にいる方が楽しいに違いない。
彼への想いは今も変わらない。ただ、目的を失った僕は、宙ぶらりんのまま、見えなくなった将来を悲観している。
読んでくれた人へ最も伝えたいことは、大切な人には定期的な検診や人間ドックを受けさせた方が良いということだ。特に、子供には。
まず初めに書いておくと、私のラボはブラックラボではありません。
先生方にもラボのメンバーにも恵まれて本当に良い研究生活を送っています。
自分は所謂いじられキャラポジションに収まることが多く、始めは嫌な思いをしていたこともありましたが、自分の気持ちよりも「何か振られた時にどう振る舞えば相手が喜ぶか」ということを優先して行動するようになっていました。
その理由としては本気で嫌がっていても相手はそう受け取ってはくれないし、例え相手に伝わったとしてもノリの悪い奴だというレッテルを貼られて人間関係が拗れる方が余程面倒くさいと思ったからです(今思うとこれが一番の原因だったと反省しています)
大抵のことは受け流せるようになりましたが、ただ一つどうしても生理的に受け入れられない弄り方があります。
「あいつらデキてない?」
「あいつ、お前のこと好きかもよ?」
といったように、第三者が勝手に友人以上の関係であることを妄想しそれを当人に押し付ける言動です。
「え、そんなことで?」と思う方もいらっしゃるかもしれません。
また、それを良いきっかけに実際にお付き合いまで至った方々も(もしかすると)いらっしゃると思います。
私はそのような方々の考え方を否定するつもりは一切無いですし、そのように考えられることをむしろ羨ましく思います。
ただ、私はどうしてもそれを言われた瞬間からその人のことを友人だと一切思えなくなってしまいます。
むしろ
「周りにそう思われないように相手と関わることや無駄なことを喋るのを控えよう」
なぜ自分もここまで拒否してしまうのか分かりませんが、「自分が全く対象としていない相手との関係を勝手に想像させられること」や「彼らがくっつけば面白い」という個人の感情を無視した身勝手な行動にしか思えないのです。
現在私はその人と同じ授業を取っており、顔を合わせる機会が多いのですが、顔を見るだけで吐き気や動機が止まらなくなるため、相手に申し訳ないと思いながら存在を認識しないよう努めています。
また、メッセージアプリ等でも相手から接触されるだけでも上記の症状が起こるため誰にも言えませんがブロックをしています。
今までの人生20数年間、自分は相手を不快にさせないように、むしろ自分と仲良くしてくれる相手に喜んで欲しいという気持ちで関係を構築しようと努力してきました。
それがこのようなくだらない理由で崩れてしまうことが本当に情けないし涙が出てきます。
もし私と同じ症状の方がいらっしゃいましたらどうすれば良いのかお伺いしたいです。
また、上記のような異性間の弄りを現在進行系で誰かに行なっている方は、相手が嫌がっているという可能性を視野に入れて欲しいと思います。