はてなキーワード: 石川啄木とは
アインシュタインによる相対性理論の発見にはアインシュタイン本人の人格は関係ない。
なぜならばアインシュタインは「相対性理論を作り出した」のではなく、「既に自然界の中にある現象を相対性理論として解き明かした」のであり、アインシュタインが解明しなくとも別の時代に別の人間が解明したものだ。
だが、芸術や文学は違う。小山田圭吾の音楽は小山田圭吾にしか作れないし、坂本龍一の音楽は坂本龍一にしか作れないし、太宰治の文学は太宰治にしか書けないし、石川啄木の俳句は石川啄木にしか詠めない。なぜならば、それらの音楽や文学は小山田圭吾や坂本龍一や太宰治や石川啄木の人格に根差したものだからだ。
そして、大多数の人間は光の部分と闇の部分を併せ持っている。
もちろん中には小さい光だけの人間や小さい闇だけの人間ならばいるかもしれない。あるいは麻原彰晃や持田孝のような巨大な闇だけの人間がいるように、巨大な光だけの人間ももしかしたら探せばいるのかもしれないが、多くはない。
そんな光と闇を併せ持っている人間の中で、小山田圭吾や坂本龍一や太宰治や石川啄木のような巨大な闇と巨大な光を併せ持った人間によって多くの文学や芸術は生み出されてきた。
そのような人間の闇の部分にだけ注目して作品を取り下げさせようとするのは、光も闇も小さなものしか持てなかった人間の嫉妬でしかなく、それによって巨大な光を持つ(たいていは巨大な闇も併せ持つ)人間が引きずり下ろされるのは世界にとっての損失である。
留学先で女性を妊娠させて見捨ててしまう話なので、近頃は評判が非常によろしくない。そのくせ、この文体のせいで美しいと感じてしまう自分がいて、実はこれ、レトリックや文体によって騙されることに注意しろっていう警告なんじゃないかって気もする。「自分のおすすめ編」にも書くつもりなんだけど、ナボコフ「ロリータ」もそういう自己正当化がとにかくうまい。
余談だが、鴎外自身は東洋人だったこともあり、留学先では写真を撮らせてくれと頼まれたことがあったという。それに対して、構わないけどもあなたの写真も逆に撮らせてくれ、と言って、相手も満足させつつ日本人としての尊厳も守ったことがあって、これは割と好きなエピソードの一つ。まあ、漱石よりは世渡りがうまいよな。
古風な文体で挫折しかかるも何とか読破。これよりは幼馴染系の「たけくらべ」のほうが好きだったなあ。増田では古文がいるかどうかで議論になったことがあったらしいが、古文がすらすら読めるほうがこういう趣味というか楽しみが増える気もするし、純粋に実用面だけでいえば法律用語や古い公文書を読む必要がまだあるんじゃないのかな。
「舞姫」の話の続きだけど、古典文学にもやっぱりクズエピソードは結構あり、じゃあどれを教えてどれを教えないかは割と難しい。
僧侶が山間で美しい妖怪と出会う話。文庫のちくま日本文学全集で読んだ。全集と銘打っているけど、このシリーズは日本の近現代文学作家のベスト盤みたいな感じで、チョイスはいいのだけれどときどき抄、つまりダイジェスト版みたいなのが紛れていて、コンプリートしようとは思わなかった。
話としては幻想的ですごく好き。幻想譚が好きな自分がどうして泉鏡花にどっぷりはまるまでいかなかったのかが不思議なほどだ。当時は、著名な作品をどんどん消化しようと思って乱読していたからかもしれない。そういう意味でも、課題図書を読破することが自己目的化した読書には幾分害がある。
とても好き。小説が読めなくなったときには、文豪の書いたこうした随筆というか、風景描写の豊かな文章を読むことで、自分のリズムを整えたくなる。外出の難しい昨今、こうして空想の世界でだけでも豊かな自然のなかで過ごしたいものだ。五感が刺激される文章というのはなかなかない。
我輩を吾輩に修正。
ここ最近は漱石の評判はあまりよろしくないと聞く。所詮は当時の欧米の文学の輸入に過ぎないとか、結局は男社会の文学だとか。言われてみれば確かにその通りなのだけれども、日本の近代文学の開拓者にそこまで求めちゃうのも酷でしょうと思わないでもないし、この作品からたったの十年で「明暗」にまでたどり着いたのだから、やっぱりすごい人ではないかと思う。五十になる前に亡くなったのが惜しまれる。
で、肝心の内容だが。基本的におっさんがおっさんの家をたまり場にしてわいわいやる日常ものなので、当時の人にしか面白くないギャグを除けば、普通に笑える。最終回は突然後ろ向きになるが、もしかしたら漱石の本分はユーモアにあるのかもしれない。
余談だが漱石の留学時代の日記に付き合いのお茶会について「行カネバナラヌ。厭ダナー」とのコメントを残している。
素直に面白かった。若干のプロパガンダっぽさがなくはないが、読んだ当時は差別する側のねちっこさや意地の悪さが良く書けているように思われた。とはいえ、昨今は善意から来る差別についても考える時代であり、問題はより複雑になった。
被差別部落問題については気になっているのだがなかなか追えていない。日本史について読んでさまざまな地域の実例について断片的にかじった程度だ。それでも、地域によって温度差やあったり、差別対象が全く異なっていたりすることがわかり、どこかで日本全体の実情について知りたく思っている。
女中の布団の残り香を嗅いで悶々とする話だってことは覚えているんだけれども、読んだときにはあまり印象に残らなかった。なぜだろう。自分が読んできた近代文学は、基本的にダメな奴がダメなままうだうだする話ばかりだったからかもしれない。その多くの一つとして処理してしまったか。
で、自分が好きなのは飢え死にするほど悲惨じゃないくらいのダメさであり、親戚のちょっと困ったおじさんくらいのダメさなんだろうと思う。
読んだことがない。ただ、ドナルド・キーンの「百代の過客〈続〉 日記に見る日本人」によればこんなことを書き残しているそうだ。「僕ハ是レカラ日記ハ僕ノ身ニ大事件ガ起ツタ時ノミ記ケルコトニ仕様ト思ツタガ、矢張夫レハ駄目な様デアル。日記ヲ記ケ慣レタ身ニハ日記ヲ一日惰ルコトハ一日ヲ全生涯カラ控除シタ様子ナ気ガスル。夫レ故是レカラ再ビ毎日ノ日記ヲ始メ様ト思フ」(意訳。日記書かないとその日が無かったみたいで落ち着かない)。ここでツイッターに常駐している自分としては大いに共感したのである。そのうち読もう。
読んだはずだが記憶にない。「暗夜行路」で娼婦の胸をもみながら「豊年だ! 豊年だ!」と叫ぶよくわからないシーンがあったが、そこばかり記憶に残っている。これを読んだ当時は、この小説のように自分がどれほど理想を抱いていたとしても、モテないからいつかソープランドに行くのだろうな、とぼんやり思ったことを覚えている。
ちなみに、自分が初めて関係を持った女性は貧乳だった。だがそれがいい。
お父さんとうまくいっていない人は子供の才能をつぶす話である「清兵衛と瓢箪」が刺さるんじゃないかな。あとは少女誘拐犯視点の「児を盗む話」もよかった。
大学時代知り合った文学少女から薦められて読んだはずなのだが、覚えているのは「阿房列車」の何編かだけだ。それと、いつも金に困っていて給料を前借りしていて、そのことのまつわるドタバタを描いた作品や日記もあって、そうした印象ばかり残っている。
関係ないけど就職活動中に、この文学少女から二次関数を教えてくれと言われ、片想いしていた自分はそのためだけに都内にまで足を延ばしたことがある。いいように使われていたなあ、自分。あいつには二度と会いたくないが、元気にしているかどうかだけは気になる。
めんどくさいファンがいることで有名な作家。全集には第三稿や第四原稿が収録されており、比較するのも楽しい。俺は〇〇は好きだが〇〇が好きだと言ってるやつは嫌いだ、の○○に入れたくなる作家の一人。○○には「ライ麦畑で捕まえて」「村上春樹」「新世紀エヴァンゲリオン」「東京事変」などが入る(註:この四つのものとその愛好家に対する歪んだ愛情から来る発言です。僕も全部好きです。すみません)。サブカル系にはこれがモチーフになっているものが数多くあり、その点では「不思議の国のアリス」と並ぶ。
思想に偏りはあるが、独特の言語感覚や観察眼は今でもすごく好きだ。余談だが新書の「童貞としての宮沢賢治」は面白い。
知り合いにいつもぬいぐるみのキーホルダーを持ち歩いてかわいがっていた男がいたが、それで本人が落ち着くのならいいと思う。不安の多い世の中で、人が何か具体的に触れるものにすがるってどういうことなんだろう、って、ってことをこの作品を思い出すといつも考える。どこで読んだか思い出せなかったが、これもちくま文庫の全集でだった。
狭いコミュニティの中でこじれていく人間関係の話ではあるけれども、新潮文庫の場合は表題作よりも他の話のほうが気に入った。印象に残っているのは十二人の旅芸人が夜逃げする「時間」と、ナポレオンがヨーロッパの征服に乗り出したのはタムシのせいだったという「ナポレオンと田虫」。
実はこの作品は読めていない。谷崎作品は割と好きで、「痴人の愛」「刺青・秘密」「猫と庄造と二人のおんな」「細雪」は読んだ。「痴人の愛」という美少女を育てようと思ったら逆に飼育される話は自分の人生観に多大な影響を与えたし(例の文学少女に気持ちをもてあそばれても怒らなくなってしまったのもこれが遠因だろう)、「細雪」はただ文章のリズムにぷかぷかと浮くだけで心底気持ちがいい。ついでに、戦時中の生活が爆弾が実際に降ってくるまでは震災やコロナでただよう自粛の雰囲気とそっくりだったこととよくわかる。
ところで、最近久しぶりに谷崎作品を読もうと思ったら、ヒロインの名前が母と同じだったのですっかり萎えてしまった。というか、ここ最近趣味が「健全」になり始めていて、谷崎作品に魅力を感じられなくなっている。感覚がどんどん保守的になっていく。これはいかん。
高校生の頃に読んだのは確かに記憶に残っているのだけれど、高校生に川端康成のエロティシズムが理解できたかどうかはよくわからない。たぶんわかっていない。せいぜい伊豆の踊子の裸の少女を読んで、ロリコンを発症させたことくらいだろう。
太宰はいいぞ。自分は愛される値打ちがあるんだろうか、というテーマを本人の育った境遇やパーソナリティの偏りや性的虐待の疑惑に求める説は多いが、そういう心理は普遍的なものでもあり、だから多感な時期に読むとわかったつもりになる。芸術に何歳までに読むべきという賞味期限は原則としてないが、これもできるだけ若いうちに読んでおくといい。太宰の理解者ぶるつもりはないが。
もっとも、本ばかり読んで他の活動をないがしろにしていいものだとは全く思わない。あまりにもドマイナーな本を読んでマウンティングするくらいならバンジージャンプでもやったほうが話の種にもなるし人間的な厚みも出るというものだ。たぶん。
天才的。男性のあらゆる種類のコンプレックスとその拗らせ方を書かせたら彼の右に出るものは少なかろう。ただ、大学を卒業してから突然読めなくなってしまった作家でもある。息苦しくなるまで端正に磨きこまれた文章のせいかもしれない。
極限状況下でのカニバリズムをテーマにした小説なんだけれども、途中から戯曲になって、「食べちまう葬式ってえのは、あっかなあ」などとやけにのんびりした台詞が出てくるなんともユニークな小説。ただし、これは単なるブラックジョークではない。物語は序章、戯曲の第一部、第二部と別れているのだけれども、その構成にきちんとした意味がある。
人類全体の原罪を問うようなラストは必見。あなたは、本当に人を食べたことがないと言えますか?
祖父母の家から貰ってきた作品で、愛蔵版らしくカバーに入っていた。カフカにはまっていた時期だから楽しんだ。カフカの父親の影から逃れられない主人公とは別の種類の渦巻にとらわれてしまった主人公がだらだら、ぐだぐだしてしまうのだが、カフカが男性によって抑圧されているとしたら、こちらは女性に飲み込まれている文章だ。
未読。不条理な陸軍の中で、最強の記憶力を頼りにサバイブする話だと聞いて面白そうだと思い購入したのだが、ずっと積んだままだ。これに限らず、自分は戦争ものの小説・漫画をあまり読んでない。戦争に関しては文学よりも歴史書からアプローチすることが多い。
これは自分の悪癖だが、戦争ものになると庶民よりも知識人にばかり感情移入してしまう。
大江健三郎は初期の作品をいくつかと、「燃え上がる緑の木」三部作を読んだきりで、どういう態度を取ればいいのかよくわかっていない作家の一人だ。狭い人間関係の中のいじめだとかそうした描写に病的に関心のあった時期に読んだせいで適切な評価ができていない。
「燃え上がる緑の木」は新興宗教や原子力発電といった(結果的には)非常に予言的であった作品であったが、癖が強くカトリックの宗教教育を受けた自分であっても世界観に入り込むのに時間がかかった。「1Q84」よりもきつい。面白いが。
大学時代の友人に薦められて読んだ。「この家の主人は病気です」と、飢えて自分を食ってしまったタコの詩ばかりを覚えている。覚えているのはこれだけだが、この二つが読めたからいいか、と考えている。大体、詩集ってのはピンとくる表現がひとつでもあれば当たりなのだ。そして、それはあらゆる書物にも当てはまることである。
祖父が学生時代に送ってくれたのだけれども、ぱらぱらとしか読んでいない。
子供向けのものだった気もするし、近々原文にチャレンジするべきか。自助論(西国立志編)なんかと合わせて、自己啓発書の歴史を知る意味でも興味深いかもしれない。
読もうと思って読めていないけれども、これまたドナルド・キーンの本で面白い記述を見つけた。「墨汁一滴」の中に、つまらない俳句を乱造しているやつの作品にはどうせ碌なもんなんてありゃしないんだから、そういう連中は糸瓜でも作ってるほうがマシだ、という趣旨のくだりがあるそうだ。創作する上でのこういう厳しさは、いい。
「ローマ字日記」しか読んだことがない。たぶん日本で最初にフィストファックが描写された文学かもしれない。春画はどうか知らないけど。
堕落と言いつつもある種の誠実さについて語った本だった気がするが、それよりも新潮文庫で同時に収録されていた、天智天皇と天武天皇の家系にまつわる謎についてのほうが印象に残っている。
だが、作詞の人はオッサンだ。オッサンが若者の悩みを見事に表現している。
そしてわかってしまった。
オッサンやオバサンは、若い人間の悩みなんて全て理解できるのだ。
若くなければ表現できない反骨は存在しないし、貧乏でなければ嘆けない貧困はない。
中島みゆきは良い所の生まれだが、「ファイト」で田舎者のみじめさを見事に切り取って見せた。
「働けど働けど我が暮らし楽にならざり」と言った石川啄木は人の金で悠々自適に暮らすエリートだった。
それと同じことだ・。
つまり、持っていない人間にできて、持っている人間にできないことはない。
苦しくなければ理解できない感情というものは、この世に存在しない。
そして、もし仮に力が無い人間にしかわからない感情というものがあるとして、その思いが純粋に人々に届くことはない。
気が付かなければよかった。
池澤夏樹=個人編集 世界文学全集II-11所収 ピンチョン「ヴァインランド」
岡地稔「あだ名で読む中世史 ヨーロッパ王侯貴族の名づけと家門意識をさかのぼる」☆
今尾恵介「ふしぎ地名巡り」★
奥野克巳「ありがとうもごめんなさいもいらない森の民と暮らして人類学者が考えたこと」
ピーター・ゴドフリー=スミス「タコの心身問題 頭足類から考える意識の起源」
テッド・チャン「息吹」★★
ピエール・バイヤール「読んでいない本について堂々と語る方法」☆
イリヤ・ズバルスキー、サミュエル・ハッチンソン「レーニンをミイラにした男」☆
チャールズ・C・マン『1493――世界を変えた大陸間の「交換」』★★★
ジョン・サザーランド「ヒースクリフは殺人犯か? 19世紀小説の34の謎」
東京創元社編集部「年間日本SF傑作選 おうむの夢と操り人形」
高丘哲次「約束の果て―黒と紫の国―」
堀晃ほか「Genesis 一万年の午後 創元日本SFアンソロジー」
水見稜ほか「Genesis 白昼夢通信 (創元日本SFアンソロジー 2) 」
村上春樹「ラオスにいったい何があるというんですか? 紀行文集」★
サリンジャー「このサンドイッチ、マヨネーズ忘れてる ハプワース16、1924年」。
チョン・ソヨン「となりのヨンヒさん」
「ガラン版千一夜物語 1」★★★
「ガラン版千一夜物語 2」
「ガラン版千一夜物語 3」
「ガラン版千一夜物語 4」
「ガラン版千一夜物語 5」
「ガラン版千一夜物語 6」
ジョン・サザーランド「ジェイン・エアは幸せになれるか?―名作小説のさらなる謎」★★
ジョン・サザーランド「現代小説38の謎 『ユリシーズ』から『ロリータ』まで」
J・P・ホーガン「未来からのホットライン」
ロバート・アーウィン「必携アラビアン・ナイト 物語の迷宮へ」★
ヴァージニア・ウルフ「ダロウェイ夫人」(光文社)★★★
ジュリアン・バーンズ「フロベールの鸚鵡」
イアン・マクドナルド「黎明の王 白昼の女王」
オルガ・トカルチュク「逃亡派」☆
ユヴァル・ノア・ハラリ「ホモ・デウス テクノロジーとサピエンスの未来」上巻☆
ユヴァル・ノア・ハラリ「ホモ・デウス テクノロジーとサピエンスの未来」下巻
住吉雅美「あぶない法哲学 常識に盾突く思考のレッスン」★★★
ルーシャス・シェパード「タボリンの鱗 竜のグリオールシリーズ短篇集」
オルガ・トカルチュク「昼の家、夜の家」
エイミー・B・グリーンフィールド『完璧な赤 「欲望の色」をめぐる帝国と密偵と大航海の物語』
ヴァールミーキ「新訳 ラーマーヤナ4」
ヴァールミーキ「新訳 ラーマーヤナ5」
タクブンジャ「ハバ犬を育てる話」☆
ヴァールミーキ「新訳 ラーマーヤナ6」
ホアン・ミン・トゥオン「神々の時代」★
ヴァールミーキ「新訳 ラーマーヤナ7」
ローデンバック「死都ブリュージュ」
ホセ・ドノソ「夜のみだらな鳥」
ロレンス・スターン「紳士トリストラム・シャンディの生涯と意見」上巻
ロレンス・スターン「紳士トリストラム・シャンディの生涯と意見」中巻
ロレンス・スターン「紳士トリストラム・シャンディの生涯と意見」下巻
入江亜季「北北西に曇と往け」(一)~(四)
石黒正数「Present for me」
澤江ポンプ「近所の最果て」
カシワイ「光と窓」
月ごとに一番面白かった本を3冊選び、★をつけた。ただし、どうしても入れたかったものは☆をつけた。月ごとの順位なので、たとえばパク・ミンギュにはもっと星をつけたいのだがそれが反映されていない。
数えてみたが、2020年に読んだのは活字149冊、漫画22冊だった。毎月12冊から13冊読んでいると思っていたので、単純計算で150冊を超えると思ったが、ぎりぎり足りなかった。とはいえ、毎月10冊という目標は達成している。
1年を通して見ると、ノンフィクションばかり読む時期や、SFばかり読む時期などが明確に交代していることがわかる。特に、4月から6月はSFとファンタジーがほとんどだったが、8月以降SFを全くと言っていいほど読んでいないし、逆に11月、12月は1冊をのぞいてノンフィクションがない。
また、芥川賞をはじめとした日本の現代文学をほとんど手に取っていない。ベストセラーやエンタメ、ホラーもない。逆に、韓国やタイ、ペルーやチリなど、日米欧以外の海外文学の割合が高い。
意識してきたわけではないが、自分の好むジャンルは科学や歴史のノンフィクション、神話、行ったことのないラテンアメリカやアジアの文学、メタフィクション的であったり奇妙な味がしたりする短篇集、古典、であるようだ。一方で、女性作家の割合は低く、特に日本の現代女性作家をほとんど手に取ってない。一時期は多和田葉子だとか江國香織とかをよく読んでいたので女性作家が嫌いなわけではなく、ヴァージニア・ウルフも好きだし、ハン・ガンも自分の中では大当たりだったので、もう少し割合を増やしてもいいかもしれない(追記。身につまされる話よりも読んでいて気持ちのいい本を読む率も増えた)。
割合の話でいえば、大学時代はもう少し文豪の作品を多く読んでいたように記憶している。それと、いくつからの例外を除き、世間の動きや話題とは遊離したチョイスばかりである。世の中から目を背けているわけではないが、日々の雑事とはまた違う視点に立てたのはありがたかった。新型コロナウイルス関連の記事ばかり読んでいては気がめいってしまう。
今年は少し冊数が少なくなるかもしれないが、引き続き毎日の気晴らしとして、気が向いたものを好きなように読んでいきたい。
以上。
真面目に答えず、出来る限り嘘と虚構を織り交ぜて答えていきたい。
たくさんあるとは思うが、私が知っているのは『タイドライン・ブルー』というアニメだけだな。
アニメの内容自体はほとんど覚えていないのだが、そこだけはなぜか妙に印象に残っているな。
いい質問だ。
イラストレーターや漫画家がTwitterやPixivで二次創作絵を描いているようなものだ。
売名のためではなく、息抜きのために普段とは違うアプローチをしたいのさ。
チョコによるとしかいえないが、大まかな基準としては板チョコ一枚分だな。
なぜチョコによるかというと、主な理由はカカオや砂糖の含有量だ。
そもそも猫は甘味を感じないので食べさせるだけ無意味なのだが。
美味さの話じゃないぞ。
せいぜい一欠片がギリってところだな。
というか、「そもそも食べさせるな」という話なのに、「どこまでなら大丈夫なのか」っていう君の質問はおかしいぞ。
今回、学ぶべき教訓は「人間のために作られた食べ物を安易に動物に与えるな」、だ。
持て余しているのなら、犬にでも処理させればいい。
その石川という人物に工面できるアテがないのなら、別のところから金を借りてきてもらうのがよいだろう。
大正ロマンは悪いのか?
https://togetter.com/li/1264601
こんなん公式がポリシーも知識もなく出したり引っ込めたりするから、さも「大正浪漫」が悪いみたいにみえとる案件やんけ。大正浪漫に何の問題もありません、と毅然と対応すればすむ話でアホらしいわ。
明治末から儲けていたのは財閥や成金であって、彼らは西洋に追随する貴族趣味の文化を謳歌してた。一方、「大正浪漫」は、生活の苦しみを味わいつつ社会の矛盾に目覚めた大衆であり庶民の文化や。政府の弾圧を受けながらも海外の文化、思想、自由主義や民主主義にあこがれ革命を夢見た人々。文学の世界で言えば浪漫派の中核にいた与謝野晶子は「君死に給ふことなかれ」という反戦詩を書き、石川啄木は「地図の上 朝鮮国に 黒々と 墨をぬりつつ 秋風を聴く」と詠んで韓国併合を行った政府の方針を憂い、現代人が直面する社会の矛盾や苦しみを「時代閉塞の現状」という評論にまとめた。これのどこが問題なんや? 「ご意見ありがとうございます。しかしながら、私たちが『大正ロマン』に込めた願いは以上のようなものですのでご理解いただければ幸いです。」と返せばそれでいい話や。引っ込めるからむしろ「やっぱ疚しいんや」と向こうが思いよったやろ。ふざけんなや。
大正浪漫から連想されるのは、帝国主義や財閥の下で苦しむ庶民が上からでなく自分たちの手で文化を生み、自由を謳歌しようとした時代とその文化なんや。そして、震災を経て、社会に絶望した連中のうち、純粋な連中は国家社会主義に走り、不純な連中は帝国主義を推し進めようとした。その結果、気が付いたら止めようとしてもどちらにも止められへんチキンレースとしての日本の暴走が始まったわけや。その直前の時代を代表する大正ロマンは、近代日本民衆のはかない目覚めの象徴やで。国家にぶんなぐられてすぐまた眠ってしもたけど、そのとき少しだけ日本人は「自由」を信じた。そういう文化が大正ロマンなんや。アナーキズム、女性解放、米騒動、ストライキ、自由恋愛、デカダンス、海外留学、魂を解放する芸術……そういうもんがないまぜになった文化、それが大正ロマンなんや。
せやからな、たとえばイギリス人がヴィクトリア朝の文化風俗をファッションとしてもてはやしてたら、インド人怒る、これは(余計なお世話でそんな暇なインド人おるんかと思うが)一応理解できなくはないよ。西部劇やその時代を称揚したら、ネイティブアメリカン怒る、配慮した方がええ、これも一応分かる。それらは、いずれも征服や迫害とその文化がダイレクトにつながっとるからな。しかし、日韓併合と大正ロマンはそうではない、むしろ反対や。そういうことを無視して味噌も糞も一緒にすんな。何より、大正ロマンに対してごく適当な理解をした連中が、今度は手のひら返してしたり顔で「大正ロマンはやっぱ帝国主義でダメですよ」とか言い出すのは耐え難い。お前らの知ってる「大正ロマン」てだいたいサクラ大戦やろボケ。そんなんで何か語んな。ほんまやっとれんわ。
イマイチいいのが思いつかないんだよね。
「バーカ! 升田の○○! ○○!」の○○に入るヤツ。きょうもえさんくらい自然に豊かな罵詈雑言が出てくればいいんだけどなあ。
……言っていいことと悪いことがあるなやっぱり。さすがに言い過ぎたよ。
ごめんね。
追記)
団塊の世代は言う
団塊ジュニアは思う
時代が違うよ
バブル世代は言う
それより俺ら年金もらえるかな
ゆとり世代は思う
そもそも俺ら貰えないし。
そもそも気合いだ
そもそも俺ら家では戦時中生まれの親たちに殴る蹴るされ育てられて
校内暴力反対とか金八やスクールウォーズやドラマや漫画のせいで学校では先生に当たり前のように殴られてたし全く持って軍隊形式の学校教育だったわけだが
そのうえ社会に出ればバブルははじけていて上司である団塊の世代に騙されてお前らも俺らぐらいになれば給料があがるとかおだてられて残業当たり前で
先輩たちにパワハラ当たり前どこの会社も今でいうブラック企業体質だったわけで
下の世代は団塊の世代に育てられた甘ちゃんばかりで使えずゆとりを庇ってやっても感謝もされず
年金だってそもそもたくさん払っきたのにもらえそうな時期まで長生きできるかより
俺なに世代だと思う?