はてなキーワード: 真犯人とは
物理的や認識において現実でいうと証拠というのは直接それと結びつく認識が個人にあるだけのもので
何であっても「証拠」と説いたいであろう「直接因子の物理的結びつき」は見つからない
ビデオにとっていようがそれが全員に知られていようが文章でのこっていようが物理的な反応として存在していようが
「それをそのように認識してしまっている」という現象に個人が苛まれる可能性はゼロではない
それを踏まえて「本人に私がしましたといわせる」ことが最重要でそれを代弁させるために
「本人はそれをすることができないので代理人がしましたとみとめます」と判断をさせる
つまり裁判で判決が下ると冤罪だろうと犯人だろうと「犯人」になる
吹聴してみんなが納得するものであればそれが「証拠」でもあるし
冤罪であろうとなかろうと何度でも追及すれば追及の仕方で逆転が見込めることもあるだろうし
誰がどう見ても納得せざるをえない状況もある
なので回数制限を設けることにもなっているし証拠を証拠としてみとめるかどうかも
厳密に規定があり判断する者も「社会的にみて常識的である」という認可のある人間にさせる
精神的な疾患があるからといって裁判官ができないのは不平等ではないか、と言われるのであれば
「絶対無二の確実な判断を下すべきそれ」を「証拠」と言えるだろうけれども
現時点で人間が証拠と言えるのは「有罪と判決にいたった要素」までが証拠でしかない
実際に犯罪者として扱われている人間について証拠はなにかと問うてもそれは存在していて
検討され判断材料につかわれ結果「証拠」だった結果ものがあった故なので
今でている結果は冤罪であろうとなかろうとそれがだれかにしくまれたものであろうとなかろうと
当人が純真無垢で犯罪の意思がなかったとしても 行動をさせられていまもそんな事実が認知できなかったとしても
もっと調べれば、真犯人がでてくれば、と無限に陰謀論を展開すればいくらでも証拠はでてくるだろうし
それをどれほどの人間が判断材料に使用して無罪か有罪かを再度判断したいと申し出るかはわからない
人が有罪であるか無罪であるか 永遠に問い続ける必要があるみたいな哲学的なものが社会の機能として
有用ではないためそんなことは行われないということは想像に容易いだろう
宗教なんかでもそうだが救われるのは非常に容易い また罪に溺れるのも非常にたやすい
ジャッジが絶対的だということだけが厳密でさえあれば現実に罪かそうでないかは大した問題ではない
証拠というちりばめられた事象は傾向こそあれ関連するなにもかもが証拠となりえる
厳密にそれを起因として結果がでるという要素を確定させる定義をもつこと自体が重要なのだ
証拠があるから犯人だ という犯人が犯罪者なのかということや証拠は真実なのかということは
毎日祈りさえすれば救われる 信じさえすれば許される そういう定義が結果につながると定義されることで
証拠を得ることになる
それが実際他者に影響を及ぼすことができる存在というものつまり「証拠」たりえるかというと
これは人間の限界で 絶対の真理というものにたどり着いた人がもしいるとしたら
松本智津夫らオウム真理教事件の確定死刑囚の死刑が執行された。
私は死刑制度自体に反対の立場ですが、なぜそう思っているのかについて簡単に書いておきたい。およそ日本の今の状況で、松本らの死刑執行のタイミングほど、死刑制度についての関心が高まることはないと考えるからです。
司法制度では疑わしきは罰せず、という原則があるのは、ほとんどの人が知っていることだと思います。しかし現実に裁判官がそのように行動しているかというと、そういうわけでもないようです。先日twitterである弁護士が、下級審(簡裁だったかな)の判決書きで、若干の疑いがあるからちょっと罪を軽くしとくね、というような文面を書いてしまったため、控訴審でそれが棄却された、というものが流れてきました。これは判決書きに書いてしまったおバカな事例ですが、上級審であっても同じような運用がされていないわけではないようです。元裁判官で、刑法学者の植松正は「無期懲役は誤判の吹き溜まりである」と言いました。事実認定に若干の疑いがあるが、情状は極めて悪く、真に犯人であるのならば、死刑にするしかないというような場合、無期懲役にすることが多い、というのです。これは裁判の原則に反しています。実際には、情状に関わらず、事実認定に合理的な疑いが残るのであれば、無罪とせねばなりません。なぜそれができないのでしょうか。裁判官も人間ですから、世論はまちがいなく気にしています。世間を騒がせた大きな犯罪である場合、裁判官のうち一人に合理的な疑いが残っていたとしても、合議の中で、簡単に無罪判決を出せるものではないでしょう。つまり裏を返せば、合理的な疑いが残っていたとしても、死刑をいう選択をされてしまう可能性は0ではないということです。死刑という刑罰が存在する以上、確実に、100%、全くの疑いの余地なく、死刑に値する、と考えられない場合にも死刑を選択してしまう例が存在するということです。
死刑に値する犯罪を、まさか自分が行うはずはない、とほとんどの人は思っていると思います。ゆえに、とんでもない罪を犯した人間は、死刑でも仕方ないし、死刑が速やかに実行されるべきだ、という考えを持っている人が多いのではないでしょうか。被疑者や被告人の人権よりも、被害者の応報感情の充足が優先されるべきだ、と考える人も多いでしょう。しかし100人の死刑囚の中には、1人の無辜の人間がいるとしたらどうでしょうか。その人を国家権力が殺す、という不正義をあなたは許容できるでしょうか。99人の”真実の犯罪者”の被害者の応報感情や社会の要請としての死刑制度は、そのリスクを甘受するべきだと考えるでしょうか。
では自分が痴漢として裁判にかけられるかもしれない、と思う人はどれほどいるでしょうか。自分が痴漢をやっていないことは天地神明に誓えるけれども、なんの証拠もない。被害者は、あなたに痴漢されたと言っている。裁判所はあなたの訴えを合理的な疑いが残るとして認めてくれるでしょうか。捜査機関は、被害者の主張を、合理的な疑いが残らないように、矛盾をなくした形で、調書を作成するプロです。また裁判所は一応独立の機関であるとされていますが、かつては判検交流と呼ばれる制度もあり、基本的に裁判官は検察官と親和性の高い人たちですし、基本的に検察の提示証拠を信用して事実認定をすることが多い組織です。あなたの主張は認められず、あなたは有罪判決を受けるかもしれない。あなたはそのリスクを甘受するでしょうか。疑いがかけられた以上は、痴漢という、卑劣な犯罪行為に対して、その犯行を認めようとしない犯人であるあなたには、何の反省も見られない、と言われるかもしれません。
裁判は人間が行うものである以上、無謬ではありえません。痴漢冤罪の場合、たとえ有罪であっても、人権上の制約は小さいと言えますし(むしろ冤罪であったとしても認めてしまった方が人権は制約をされないという残念な状況にある)、もし防犯カメラなどから無罪が証明できた場合、名誉は回復され、損害賠償を請求できる場合もある。しかし死刑の場合においては、それは究極の人権制約なのです。
団藤重光は以下のように論じています。
例えば懲役刑などにしても、長いこと刑務所に入って、後で無実だということがわかって出されても、失われた時間、失われた青春は再び戻ってこないという意味では、これも確かに取り返しのつかないものです。しかし、そういう利益はいくら重要な、しかも人格的、その意味で主体的な利益であろうとも、人間が自分の持ち物として持っている利益ですが、生命はすべての利益の帰属する主体の存在そのものです。もちろんこのことと、前述の人間の尊厳が人命の上位にあるということとを混同してはなりません。死刑はすべての利益の帰属主体そのものの存在を滅却するものですから、同じ取り返しがつかないと言っても、本質的に全く違うのであります。
痴漢冤罪による被害を最小化するために、真犯人を含む、すべての被疑者・被告人の人権を守りましょう、被疑者の実名報道はやめましょう、無意味な身体拘束をやめましょう、という主張に対して賛成できる人は、死刑存置を考える人よりも多いのではないかと思いますがいかがでしょうか。
本質的には、これは死刑冤罪による被害をなくすために、真犯人を含む、すべての被疑者・被告人に対する、究極の人権侵害である、死刑を廃止しましょう、という主張は私には同じものに思えるのです。しかし死刑を廃止するべきだ、という人はずっとずっと少ないのです。
痴漢で捕まった人が、周囲に実は自分は自白させられただけで、無罪なんだ、と主張することはよくあると思いますが、特に妻子持ちの人に多いのですが、私の経験上、やってないと強く主張していた人であっても、ここで認めても家族に知らされることはない、ということを教えると、スルッと実はやったんだ、という人が結構います。ですから、冤罪を主張する人たちの中に、罪を逃れるためにそう主張している人が多くいることも事実でしょう。しかし実際に痴漢冤罪によって人生が狂ってしまった、という人は確実に存在します。死刑においても同様のことが起きていないとは、誰にも言えないのではないでしょうか。
しかし多くの人は、死刑に値するような重大な犯罪で、自分が冤罪の当事者になることなど想像もしないでしょう。それに比べれば、自分たちの周りの大切な人たちが傷つけられたということへの怒りはとても身近で、応報感情に流されてしまいがちです。これは非難されるようなことでありません。前述の団藤は、父ブッシュとデュカキスとの討論で、妻を強姦され、殺害されても、死刑に反対するのか、という質問に、淡々と「それでも死刑には反対だ」と主張したデュカキスに対し、世論は非常に強く反発したと書いています。これがデュカキスの敗因ではないと思いますが、死刑廃止を訴える人に対し、「お前の家族を殺されても、死刑に反対だと言えるのか」という主張はよく向けられます。殺害される、などという、およそ通常経験しないことを経験した人たちが、犯人を自ら殺してやりたい、あるいは国家によって同じような目に合わせて欲しい、という感情は自然なものであると思います。しかし、当事者でない我々が、そう思うのは当然だ、とその応報感情を正当化をする必要は必ずしもないとも思うし、死刑廃止論者であった人が、実際にそのような目にあったときに考えを変えたとしても、それはごく自然な話であると思うのです。その感情を否定はできませんが、団藤が述べているように法の論理は、もう一段上の次元で考えるべきはないかと思うのです。
私は貝になりたい、の主人公の床屋は無実ではありませんが、死刑に値する罪を犯しているか、と考えるとそうではないと思います。あの絶望を持って、死刑にされる人間がいる、という不正義を許容できるかどうか、結局はその価値判断なのだと私は思います。
私はその価値判断において、死刑を廃止して欲しいと考えていますが、それゆえに、死刑の存置を訴える人の価値判断も尊重したいと考えています。しかしその上で問いたいのです。あなたは、たとえわずかな確率であっても、あなたやあなたの大切な人が、冤罪で死刑になってしまうことを許容できますか、と。
なにあのベタベタな展開?Amazonビデオのレビューに「知的な騙し合い」がどうのこうのって書かれてたから期待したけど、いやどこが??って感じ。
真犯人は最初からバレバレだし、(ガム型爆弾くれたから一番役には立ってるけど)最初に出てきた仲間の凄腕ハッカーみたいなのはしょぼすぎるし、トムクルーズの最初の相手役の女スパイは仮にもスパイのくせに柵の向こうにいる相手にナイフで殺されちゃうとか雑魚すぎだろうっていう。
てかなんでジャンレノがあんなショボい脇役やってんの?あとなんであそこでナイフ落とすんだよ。ネズミが苦手とかいう伏線あったか?
どー考えても、あそこはナイフ落とさないでインポッシブルなミッションをちゃんと成功させたほうがカッコよかっただろ。あの机にナイフが刺さってる図を監督がどうしても出したかったんだなとしか思えない。
あとあの変な特殊メイクね。アレは萎えるわ〜。アレがアリならもうなんでもありじゃん。
あとは最後に列車の中でトムクルーズが変装して待ってるところも意味不明すぎる。トムは自分が変装してあそこに座っている間、あの裏切り者のおっさんがどこにいると思ってたの?女とごちゃごちゃ話すより前にあのおっさんにもっと警戒しておけよ。
極めつけは二人目の女があっさり死んだ時の興ざめ感。あー、これ続き物だから、毎回女優はコロコロ変えたいから、トムの相手役が生き残ってると不都合なんだろーなーって予想のつく感じ。
最後に列車の運転手が気を失う場面に至っては、ベタもここまでやるとすごいなって感心した。もはやギャグ。
でも同じギャグでトムクルーズなら、インタビュー・ウィズ・ヴァンパイアの最後の方がよほど笑えたけどね。まああれは最後のハッチャケ!トムクルーズに至るまでの退屈なところは全部前フリって構造の笑いだから、何回も見るのには向かないけど。
西暦2015に最高裁が「選択的夫婦別姓は却下」と判断を示しました。
これを受けて原告団長の塚本協子さんは「判決を聞いて涙が止まらなかった」
「『塚本協子』として生きること、死ぬことができなくなりました。」と述べました。
しかし待ってください。それって法律で解決しなくちゃいけないことでしょうか?
真犯人の名前を教えましょう。旧姓で呼んでくれない職場、旧姓で呼んでくれない銀行、旧姓で呼んでくれない葬式。
やつらです。
数年をかけて裁判を何度も起こすより! 三井住友銀行に毎日クレームを送りましょう。
この投稿を見たら「ペンネームでも簡単に口座が! マイナンバーを持ってお近くの銀行へ!」のキャンペーンをしてください。
「パスポートに名前を記入させないで」とお便りを送りましょう。
年賀状なんてやめて、外務省とか東京都生活文化局とかに絵葉書を送りましょう。
「佐藤から始まる同姓同名なんてたくさんいるんだから『本日は晴天なり』と自筆記入させてくれませんか?」と添えて。
「子供の姓はどうするんだ」
今回の訴訟では、子供の姓のルール改正は求めていませんので、「結婚時に決めた戸籍筆頭者の姓に統一する」だけです。もし、別のニーズ(子供は新しい姓にするとか)が発生したら、また時代に合わせて改正を検討すればいいと思います。海外のように、両親の名字をくっつけて子供の姓にする時代が来るかもしれませんね。「ますだおかだ」とか。
みなさんには役人の友達がいませんか? みなさんの友達は泣いていませんか?
「鈴木と佐藤が結婚するだけで『鈴木』『佐藤』『鈴木佐藤』『佐藤鈴木』『鈴佐』『鈴藤』『佐木』『木藤』とにかくたくさんだ!」
ただでさえ無駄の多い役所仕事に無理難題を要求するのは、みなさんの反対するところではありませんか?
選択的夫婦別姓は結局、戸籍にしがみついているだけですから最高裁が別姓を認めてくれたところで無意味です。
子供の名字は、親の名字は、先祖の名字は、友達の名字は……。戸籍に全てを任せようとしてしまいます。
選択的夫婦別姓の先にあるのは、子供が「父親の名字になりたい。母は要らなかった。戸籍を変えたい」と訴訟を起こす未来です。
効率的・実務的に言って役所をただ混乱させるだけの選択的夫婦別姓制度には断固反対していくべきで、
「そういえば所ジョージさんって芳賀隆之って戸籍上なってるらしいですが、所ジョージの方が本名って感じがしません?」と不動産会社の人に言いましょう。
選択的夫婦別姓なんて結局、子供の名字をどうするのか決めなくちゃいけないんですから。
既に主旨は述べましたが、ではどうして戸籍を擁護するのか整理させてください。
みなさんもご存じの通り、夫婦別姓というのは極めて男女差別的な側面があります。
中韓が現在も夫婦別姓であるように、極東では女性は家族の中でただ一人、男の姓を名乗ることを許されないものでした。
そこで明治維新の頃、列強のルール「妻は夫の名字を名乗る」という先進的な男女差別へと乗り換えたのが日本です。
名字の話をするだけで昔の各国のパワーバランスの話になりました。
名は……ちょっと土地を変えれば全く違う理論で働いている、とても価値のあるものです。年輪です。地層です。百科事典です。
ロシアには「父親の名前が、子供に自動的に足される風習」があります。「父称」で検索。
プーチン大統領は「ウラジーミル・ウラジーミロヴィチ・プーチン」という名ですが、ミドルネームにあたる「ウラジーミロヴィチ」は父親から来ています。
砕いて言うと「ウラジーミル、ウラジーミルの子の、プーチン」です。ウラジーミル・プーチンの父もウラジーミルだとミドルネームに書いてあるのです。
父親と子供の名前が同じというのは日本からすると変かもしれません。
しかし「名前に無頓着な名前」は世界的には多々あることで、マクドナルドは「ドナルドの息子」という意味だとされています。
マクミランは「ミランの息子」、マッカーサーは「アーサーの息子」とされています。
名は文化・歴史的に価値のあるもので、善とか悪とかそういう尺度で語るべきものではありません。
日本では源義経は牛若丸だし、豊臣秀吉は羽柴藤吉郎だし、鳳凰院凶真は岡部倫太郎だし……。
名は大切なものではありましたが、そのせいか代わりの名前がぽんぽんと出てくるものでありました。
選択的夫婦別姓の先にあるのは「寿限無」や「ピカソ」のように長い長い名前です。
「親のせいで俺の名前120字以上になった! ツイートできない!」となります。
そういう一般的な人間のユーモアと役所仕事というのは相性が悪いものです。
名乗りたい名前があるなら自由に名乗ってくれて構いません。それが国民の総意になる未来もあるでしょう。
しかしそれはともかくとして国がきちんと古くさく管理するのを許してあげてくれないでしょうか?
そうしてきちんとされたものが百年先、千年先にどう解釈されるのか私たちには全く想像できないのですから。
『男の娘が実は女性だった(!)ことが判明してファンが激怒!!!!』
そのニュースを見た時は「ふーん。バカだな。皆。バカばっか」としか思わなかった。
それから12時間ほどして、私の頭に突如として稲妻の如き電撃がスパークしてライトニング。
なろう原作商業アニメが何故こうも残念な子扱いをされるのかと、男の娘が実は本当に女だった事件の類似性に気づいてしまったのだ。
恐ろしい。
「まてよ……それだ!凄いぞ相棒!ナイスナイス!違うよそういう話じゃねーよ!わかったんだよ……犯人が。」ってアレだ。
なろう原作商業アニメが叩かれる真犯人、それは『アマチュア扱いとプロ扱いのギャップ』だったんだ。
プロが書いてることも結構あるし、面白い作品は書籍化されるんだからアニメ化される頃には全員プロなんだが、あくまでWEB小説投稿サイトというフォーマットはアマチュアの遊び場だ。
その中で輝いてる作品ってのは、いうなればアマ十段の作品なんだ。
プロの世界に行けば、段持ちになれるかどうかも怪しくても、アマチュアの世界では十段なのだ。
それは単なる実力不足よりも、アマチュアの世界で戦い抜くのに特化した戦略を取っていることに起因する。
本物の女性がプロの女性であるのに対して、男の娘がアマチュアの女性であり、「アマチュアの女性なのにプロ並なんて凄いね!」と褒めてもらっているのが男の娘人気の秘密だ。
そして、その人気は「本当は男なのに」という前提を活かした戦い方をすることで加速するのだ。
それを叩き壊したのが今回の本当に女だった事件だ。
前提が完全に崩れた。
アマチュア限定の大会にプロが参加していたんだからそりゃ荒れる。
なろうは一応プロの参加もオーケーになっているが、アマチュアのノリに合わせられないプロはノーサンキューの世界だ。
そして、なろうで人気が出た作品は基本的にアマ十段的なポジションとなる。
そんなアマ十段をプロの世界にいきなり投げ込んで十段として戦えるか?
ノーだ。
先程も言ったが、戦術がアマチュア同士の戦いに特化しているのでプロと戦うとメタゲーム的にボロクソに負ける。
だけど、たまーに地雷的な感じでメタゲームをぶち壊して勝ってしまうのがある。
そういう連中になれそうなのを掘り当てて瞬間的な勝利を狙ってばかりいるのが最近のなろう原作アニメだ。
半端な美人同士なら男の娘の方がインパクトがあるという滅茶苦茶な戦法でなんとか戦っているのだ。
恐ろしいほどのバイタリティ。
そんな事してコケたらただのカマ野郎をプロデュースしたアホで終わるというのに。
というか実際に、カマ野郎をプロデュースしたアホが如き扱いを受けているアニメ制作は沢山有る。
それでもロマンを求めるギャンブルプロデューサーたちは、今日もなろう小説というアマチュアカマ野郎の尻を視聴者に向けて差し出してくるのだ。