はてなキーワード: 省みるとは
どんな発言にも「文脈」というものがあるので、たとえ誰かのある特定の言葉であっても、それを切り取って「元と異なるある文脈の中に置く」という作業をした時点で、引用した人の恣意がそこに加わわってくる。友人が言及したのは、いま、その言葉をブログに掲げたあなたの「意図」であって、ケネディのセリフそのものではない。
たとえば「論語読みの論語知らず」という言葉がある。昔から言われる警句の一つだ。意味は、「著名な聖人の言葉を、聖人の言葉というだけでありがたがって、その真意や聖人の精神を知らずに従おうとするのは、その原典の意図から最も遠い行動でさえある」というような意味だ。大変重要な真理をついた警句であるし、自分自身もこれを座右の銘として、日々自らを省みる手立てとしているところだ。
だがさて、いまこの文脈でこの話を書けば、あなたは必ずや「カチン」と来るだろう。そして、それは正しい。私はあなたに「カチン」とこさせようとしてこの言葉に触れたのだし、むしろ「カチン」と来なければあなたには相応の読解力がないということになるのだから。
従って、もし「カチン」と来なかったというのであれば、この私の書き込みはまったく無駄なので無視してくれて構わない。だがもし「カチン」と来たのであれば、それが私の言いたいことだということを理解できるはずだ。つまり、引用において重要なのは、それがどういう文脈に置かれたのか、ということなのだ。
みんなワニが死ぬのを楽しみに待ってたみたいな前提で話す人多いんだけど本気か?
あれを作品として楽しんでいた、うーん、楽しむというと語弊があるのかな、鑑賞していた、受け止めていた人はさ
限りがあることを意識しながら日常を見直すこと自体に意味を見出していたのではなかったのか?
そのことについて、ワニの死を消費していると謗られるならば、まあそのような側面もあったかもしれない、と省みることもできるが
ウキウキして死ぬの待ってたじゃねーか、と言われたら、ぜんぜんちがうよ、と言わざるを得ない
最終的にどのような死が訪れるか、というのはまあ、興味がないと言えば嘘になるが、それは主題ではないことくらいわかるだろう
n日後に死が訪れる、という事実だけが重要であって死の詳細にはほとんど意味がない
どういうふうに死ぬのかなー、事故死かなー、病死かなー、わくわく!って見てたとしたらアホすぎるだろ
どこかのイベントが自粛をせずに開催を強行したとして、政府や企業は基本的に強く止めることはできない。
これは単純そうした強権を持たないからという理由もあるが、「じゃあお前らはどうなんだ? ちゃんと自粛しているのか?」と言い返されると困るからというのが大きいだろう。
国はオリンピック中止に舵を切らないし、企業だってインフラや医療以外の事業なら活動を止めることはできるハズなのに多くの企業は社員を出社させること自粛せず満員電車を生み出す元凶となっている。
そのような立場で他組織に対して自粛を強要したら、所謂ブーメランが突き刺さることになる
自分の生活を守るためと言い訳をして、多くのサラリーマンは満員電車に飛び乗っていく
そんな奴等に果たして強い言葉で自粛を強要し、開催を強行した組織を責めるような権利があるだろうか?
それでも匿名のネットでは、厚顔無恥な連中が自分のことを棚に上げて自粛自粛と騒ぎ立てる
あるいは彼らは視野が狭いが故に、イベントのような"分かりやすいもの"には噛みついても、自分の日常を省みるということは思いつきもしないのかもしれない
不運な状態に陥ることがある。ただし、運気はけっこう個人の力でコントロールできる。
気合を入れること。下腹に力を入れること。積極的であること。消極的な心持ちになっていないか省みること。
これは自分にはどうしようもない、あいつがこうだからしようがないと言うふうに考えていないか。
どうしようもなくはないのだ。100%そうとはいい切れないのだが、実は自分自身の心のありようが不運な状態を呼び寄せている場合がほとんどである。
弱気な状態でいれば不運に付け込まれる。逆に強気でいる人間には不運は寄り付かないし寄り付けない。
とはいっても表面上の強がりは見破られてしまう。ただ外見だけ装っても全く効果がないとは言えないけれども弱気な顔が表に出てくるようであればそこに付け込まれてしまう。大切なのは前向きに捉えられるようになること。捉え方・考え方を変えることである。
物事の解釈を変えることともいえる。物事のなかに絶対的な意味を持つものは案外なくて、それをどのように解釈するかで意味は変わってくる。真実は常にひとつ、とは言い切れない。それどころか、その考え方はとんでもない誤りといっていい。
一見、不運な出来事に見えても、後で考えてみればそれは結果的に良かったというのはよくあるし、逆に大きな幸運に見えたことがめぐりめぐって結果的には不幸な結果につながってしまうというのもよくある話である。
岬に誰が 早く飛べるか賭けてみて
吸ってたあとで 身震いしてたら
朝まで笑っていたね
ぼくが一番 不気味だって言ったね
DRUG LACE 2019
DRUG LACE 2019
白い細いパイプ うなるようにすする
肺臓深く 吸い込んでみる
テレビ画面が切り替わり、曲が途中で中断される。
番組を熱心に観ていたウサクは、リモコンの主に睨みを利かせた。
視線の先にいたのは俺の弟だ。
「古臭いとはなんだ。この歌の偉大さが分からないのか。今よりも無秩序な、ドラッグの定義も取り締まりも甘かった時代、社会の様相とドラッグは一つの象徴であり、その激動で生きていく人々の葛藤と渇望が……」
こうなるとウサクの話は長いし、疲れる。
それはここにいる皆が分かっていたため、俺たちはすぐさま二人の間に入った。
「ウサク、歴史の大切さは分かるが、年末の音楽特番で省みる必要はないだろう」
「弟くんも、チャンネル替えるなら断りを入れたほうがいい」
「でも俺たちの部屋にあるテレビだよ」
「だったら長男の俺には少なくとも何か言うべきだろう。そもそもテレビだって俺たちが買ったわけじゃないし、自分たちの部屋にあるってだけだ」
だが、正直なところ俺たちもチャンネルを替えようと思い始めていた。
仲間たちで寄り集まっても、このまま音楽を垂れ流していたのでは全滅は免れない。
「よし、じゃあ二人の意見を尊重して、折衷案のドキュメンタリー番組を観よう」
Hagex氏の事件の公判に関連するいくつかのエントリがきっかけです。
https://b.hatena.ne.jp/entry/4677140659072830018/comment/masa_bob
たまに、というか定期的に、はてなで揶揄される(ヲチの対象にされる、と言い換えてもいい)エントリーあるいはユーザーが現れます。上記のブコメに書かれている、かつて「コメダ珈琲での新聞のホチキスの止め方を批判したユーザー」もその一人です。多くのはてなユーザーから揶揄され嘲笑される対象として扱われていたことは、ブコメから察せることと思います。
彼の言い分はとても狭量であり、その主張には違和感を抱く部分があったと自分は思います。
しかし、それにしてもはてなで晒し者にされ、悪意に満ちたネーミングをされていい人間などおらず、同時に、他人を“オモチャ”呼ばわりをする人間については、賢いかもしれませんが当該エントリー以上に狭量で悪意に満ち、品性下劣だと言わざるを得ません。
これは余談でしかありませんが、当時揶揄されたその方は、おそらくその件とは全く無関係ですが、その後精神を病み、現在は休職していることを最近ではブログに綴っています。
さて、話を戻します。Hagexさん事件の被告人は、確かにいわゆる“無敵の人”に類型されうるタイプの方だったのかもしれません。
しかし、すでに多くの方が指摘されているように、被告人の暴言は“叩いていい人と見るや寄ってたかって叩く”という構図への義憤に端を発していた部分もあるように思います(それだけが全てとは思いませんが)。
ネットリンチへの抗議が罵倒であることによって抗議の正当性自体も地に堕ちると自分は考えます。しかしそういう意味では、被告人は、加害者であり被害者でもあったのではないでしょうか。
そして、このことに無自覚であり続ける限り、必ずまた痛ましい事件は繰り返されるでしょう。
無敵の人からいかにして身を守るか、について議論は活発に交わされているのに比べて(身を守る術はない、という意見含め)、人を追い詰めないためにとるべき態度、というものについて、多くの人が言葉を割いているようには思えません。
自分は、痛ましい事件を減らすためには、経済的支援は必須であると考えていますが、その上で、これほど軽やかにリンチや私刑が起き、そのことが自覚されずに繰り返され続けていることについて、事あるごとに警鐘を鳴らし続ける必要があると考えます。
自分自身、これまでその醜い行為に加担したことがない、とは口が裂けても言えません。
意見への反論、間違いの指摘、そうしたものは活発に行われるべきだと思います。物事の反証や議論こそが、はてなの提供した素晴らしいもののひとつだと考えます。
しかし、時としてそれが、正しさをかさに嗜虐心を満たす自分を正当化する、自分自身への言い訳になっていないと断言できる人はどれほどいるでしょうか。
もちろん、どこまでがセーフでどこからがオーバーキルなのか、その見極めは決して簡単ではありません。
ただ、Hagex氏のような、人を玩具扱いするような発言がある種の“賢い”方の露悪的な、あえての振る舞いだったとしても、その行為は醜いと自分は思います。人を「低能」と罵倒することから被告人の呼称が「低能先生」だったとして、それはやはり蔑称であると思います。
氏が殺された動機は逆恨みでした。逆恨みではなかったとしても、人が殺されていい理由など、そもそも存在しません。しかし、原因の少なくとも一端はそうした構造にあったと考えれば、殺されていたのは自分であったかもしれないという可能性にも思いを馳せることはできるように思います。
誤解なきようにはっきりさせておきますが、今回の事件とは無関係の、冒頭にあげたはてな村で一時期いじりの対象にされた方が無敵の人になり得る、という意味ではありません。
痛ましい事件から何も学ばなければ、誰もが、被害者にも加害者にもなり得るのだということを、今一度はっきり主張しておきたいと思います。
はてなが、人間を容易に被害者にも加害者にもさせる悪意の温床とならないことを、切に望みます。事件はすでに起きてしまいましたが、わたしは、そこから学ぶことをもって、死者を悼む言葉に代えたいと思います。
広く読まれると良いと思って書いたので、読んでいただきありがとうございます。
すぐアクションしたかったのですが仕事の兼ね合いでできませんでした。
また、冒頭にあげた、事件とは無関係のユーザーについて。はてなでの罵詈雑言が精神を病んだ原因であるという趣旨の記述ではなく、醜悪な出来事の一つとして指摘したつもりでしたが、誤解をあたえかねない文章でしたので、修正済みです。
以下、自分の誤ちですのでちゃんと残しておきたいため修正はしませんがお詫びです。
自分に返ってきたブーメランは「はてな村」と「無敵の人」というレッテル貼りでした。
前者について、一応端くれとして住民である自負もあったので、自虐というわけでもないですが使ってしまいました。「はてなユーザー」とするべきでした。
後者について、自分は無意識で使ってしまっていましたが、安直なレッテル貼りという指摘をうけてその通りだったと気付きました。失うものの怖さを持たない、向こう見ずな犯罪者、ときちんと述べるべきでした。
「ならばこの迷惑犯を、どう呼べば良かった?」これに尽きる
ごめんなさい。これについて、自分も答えは持っていません。「被告」で通じる文脈を綴り呼称を避けています。刑が確定すればまた違いますが、「Hagex氏刺殺犯」「M被告」などと呼ぶしかありません。
事件以前、はてなにおいて当人をどう呼称すべきだったか。自分自身は呼称を避けていましたが(それほど日常的にコメントをつけてブコメもしないため)、むしろ「低能先生」と呼びながらも当人を諌め対話を試みていた人の方が誠実であったと思います。はてなのヘビーユーザーほどその扱いを持て余していたこともわかります。
ただ、どれほど逸脱した人間であろうと、それらすべてが自分の発言に端を発するものだったとしても、「低能先生」や、例えば「性の喜びおじさん」といった呼称は蔑称であり、不特定多数が1人の人間を名指すべきではないと、やはり自分は思います。
それもある種の自衛的行動であるのかもしれませんが、悪意に悪意で返すのも危険であると考えます。
当人自身がどう受け止めていたかとは別に、その蔑称がその後の言動や考えに影響を与えない、とは到底思えないからです。
自分に加害意識があるならハゲの人をスケープゴートしないで自分の問題として書けよ。あの人は自ブログで文責持ってやってた点だけは増田の100万倍誠実だろ
その通りです。彼は覚悟をもってそのリスクを自分で負っていたのでしょう。結果、殺されてしまいました。自分は臆病なので、人を傷つけるのも自分が傷つくのも苦手です。
もはや、当たり前のようにネットは現実と地続きになっています。だからなおさら、繰り返しになりますが、悪意に悪意で返すのは危険だと考えます。目の前で誰かが危険にさらされていれば止めなければいけませんが、危急の事情がなければ、通報し続けるしかありません(多くのユーザーが運営に通報し続けたことは知っています)。
過剰な集団リンチと正当な批判の境目は何処に
それについて言及する際に、言及する当人が考え続けるしかないかと思います。
低能先生は呼び名を変えるだけでは救われなかったし、増田の言っていることは完全に筋違いとすぐにわかる
あの人の言い分だとそもそも批判の仕方がどうこうとか関係なさそうなのでこの増田の言い分は一般的には兎も角この件では的を外してるように思う
後出しジャンケン。Hagexの下品な煽りは咎めておきながら500回複垢取得してidコールで罵倒してくる方をスルーするのは「人を刺した本物のキチガイ」という答え合わせが済んでるから。
これはひとりひとりへの警鐘程度ではどうにもならない問題。構造、システム、地形によって実現している現象だから。ツイート、コメントが無制限に集約される場とどうつきあっていくかというアプローチが要る。
すべてその通りだと思います。どう振舞っていても、時と場所、相手が違ったかもしれないだけで、結果的に痛ましい事件は起きたかもしません。
「後出しジャンケン」というのも指摘の通りです。ただ、後出しであっても、これまでもこれからもはてなユーザーである限りは、自分は考え続けるべきであると思っています。
そして、システムの改善について考えること、自分の行いを省みること、それらはどちらも必要であると考えます。
いじめは楽しいから続くのであって"醜い行為"とか言っても抑止にはならんよな
そんなことはない、と思っています。確かに嗜虐心を満たす行為は、それこそ病みつきになるほどの快楽を伴うことがあるのを自分も否定しません。しかしそれ以上に、例えば自分の場合は“ダサい”ことをしたくないという行動原理があります。
かっこよくありたい、見栄を張りたいという欲望も、人間にとっては強い魅力を持っています。
安全な場所から他人を不当に攻撃するのは醜い、ダサいと言い続けることには、効力があるがゆえに意味がある。自分はそう考えます。
なんとか内科の専門医(多分、軽く2倍以上の年齢でしょうなあ…)ですよ。
医者といってもいろいろあります。患者さんと関わらない科(病理とか放射線とか)や、基礎系とかいろいろあるから、あなた自身が絶望することはないです。他にも病棟管理をせずに外来だけを診たりと、社会に医者として貢献できる方法は多数あるので、視野を広く持ちましょう。
2.患者さんが病名を考えてくる話
患者さんが何を心配しているか、その心配をどのように取ることができるのか。それも医療の範疇です。テレビで不安になった、インターネットで病名を考えて来る、こういう患者さんがいることは当然です。私はむしろ、患者さんにインターネットで調べることを推奨しています。適当なWebサイトを見せたりすることもあります。
3. ブチ切れる患者さんについて
正直どうしようもないこともありますが、人間である以上当然です。むしろイライラする疾患を鑑別に挙げることから開始することです。また、謝るべきことは謝って、謝るべきでないことはその説明をすることで、ほとんどの問題はクリアできます。目の前の患者さんを社会的に自立している一人の社会人として扱うことということさえ外さなければ、まず多くの場合は問題ないです。
4. ブチ切れる患者さんについて ー 補足
どうしてもこちら(医療者側)が納得できない場合や我慢できない場合、こっちもブチ切れましょう。不信には不信で答えるというのも当然の話です。しかし、これは最後の手段と心得ましょう。
5.「治療方針は患者さんと一緒に決めましょう。患者さんの人生です。」
上記の言葉は、正確には「患者さんが納得できるように医療者側が説明をしましょう。患者さんが不同意の場合は、それを押して治療を敢行することは避けましょう」という意味です。
むろん、いろいろな複雑な場合もあるので難しいこともありますが、要するに、昔のパターナリズムの時代は患者と医師の対話が欠けていたという反省があります。積極的に対話をして、納得を得ましょうということです。むしろ診察や対話の最後に「何か質問はないですか?」とニコニコしながら聞くようにしましょう。その様に患者側の不安を取ることも、重要な医療の一つです。
6.医者にはなるべきではない?
これについては、その通り。医者になるべきではないです。まず精神を病みます。同僚、上司、教授との確執。病棟や看護師。クレーマーにも見えてしまう患者さん。あとは、激務。
ただ、ある程度のレベルまで医療技術を身につけてしまえば、あとは自由です。バイトで暮らそうが、野戦病院で切磋琢磨しようが、田舎ののんびりした病院で勤務しながら釣りで楽しもうが、自由です。そして、生活できる程度の給料は何をやってももらえます。
医者は、私を含めた才能の無い凡人が安定した給料を得ることができるという意味で、救済的な職業です。これにメリットを感じるのであれば、なってもよいと思います。精神を病むことを嫌うのであれば、なるべきではないですね。まあ、他の世界でも多かれ少なかれ、精神を病むときは病むんですがね。
どうでしょうねえ?上にも書いたように、医者といっても厚労省に行ったりとか、いろんな進路がありますので、なってもよいのでは?とは思いますが。ただ、同僚の男性医師によっては不愉快な対応を受けやすかったり、看護師さんとの確執はあるのかもしれませんが。
8.最後に
若気の至りとも思うし、本気で書いてるの?とも思いますが。どうです? まあ、ここに書いてあるような内容はすべての医者(一部のおめでたい医者を除く)が通った悩みなので、ゆっくり悩んでいってね!としか言えないんだけど。そして、どのような形であれ社会に何かしらの貢献ができればいいんですよ。
あとは、病気を患った患者さんが本とか漫画を出しているので、読んでみるといいですよ。どういうことで患者さんが悩むか、という視点を得ることができます。例えば、柳澤桂子さんの「認められぬ病―現代医療への根源的問い 」はいかがですか?極めて理知的な科学者が、とても上品な文章で自らの病気の経過と悩みを書いてくれています。この様な患者さんを適切に対応しなくてはいけないと、自らを省みることができます。
昔、そこそこ仲の良かった男子が結構くだらない事でめちゃくちゃ叱られてグレてしまった
グレたと言っても、自習時間に机をドンドコしたり、補習をサボってバッセンに行く程度だったけど、まあうちの学校ではグレてる部類だった
彼はそのうち課題を出さなくなり、その事で他の先生にもしょっちゅう叱られるようになり、余計態度を硬化させる負のスパイラルに陥って
もともと下がっていた成績もガタ落ち、結局3浪して消息不明になった。f欄に行ったという噂も聞いたが、謎だ。
彼を叱った先生とついこの間お話しした際に、彼についての話も出たのだが、「怒りすぎちゃったなあ」と後悔していた。他にも彼の没落の原因はあったのだろうが、アレがキッカケになったのは確かだった
「宿題やったの!?」「今やろうと思ってたのに!」みたいなの、大人になってもずーっとあるよね。あんまり叱られすぎると反感や怒りが先行してしまって、なかなか自分を省みることが出来なくなる
叱られて伸びないタイプの人は、やんわりと諭してあげるのが一番良いのだと思うが、叱る側に立つと結構難しい
「叱る」とはどうあるべきなのだろう
鬼の生活指導に叱られて、不登校になってしまった女の子が中学時代いたが、彼女にとっての「叱られる」は、しょっちゅう叱られている剽軽な男子にとっての「叱られる」とは同じ叱られ具合でも全く違うものだったろう
クラスメイトの前で「ちゃんとやれよ!」と一言言う事だっておとなしく真面目な子と活発で不真面目な子とでは受け取り方が全く違う
前者の場合「先生にみんなの前で怒られた」という羞恥を引き起こす、精神的苦痛は絶大だ
本人のタイプに合わせて指導法をきめ細かく変えてやるのが一番人を伸ばす叱り方だと思うが、「人によって叱り方が違う」というのは集団に不公平感を生む
教室のような閉じた、それでいて壁のないオープンな集団の中で人によって態度を変えながら叱るのは難しい
そう考えると、何か悪いことをした子はそっと別室に連れて行き叱るのが適切なようにも思える
しかし、自分自身小学校のころよく知らない先生と二人きりの教室で隣に座って密着されながら委員会資料の作成をさせられたのは軽くトラウマなのでそれはそれで問題があるように思う
一対一での指導、は多分ロリコン教師を欲情させるシュチュエーションになってしまうし、閉鎖的な空間で上下関係が残るのも監獄実験のような状態になって「叱りすぎ」を誘発しそうだ
職員室で叱るという手もあるが、他の先生の前で叱られるというのも精神的な負荷が大きいだろう(忘れ物が酷くて何度やられたことか)
保健室で「厳しい担任の先生」と話をそばで聞くだけの「優しい保健室の先生」という二対一のお説教が思いつく限り一番良いように思う
仕事量を考えると養護教諭ではなく、昼休みだけ来る外部カウンセラー数人で回すのが風通しが良く現実的な形になるだろう
これが家庭の場合「厳しいお母さん」と「優しいお父さん」のような役回りでの叱り方になるのだろう
しかし、甘やかすだけ甘やかす父(母)に子供がなつき、損な役回りをさせられる母(父)の言う事を子供がきかなくなる、というようなケースも聞くので、適宜「厳しい」と「優しい」は交換しながらやっていく必要がある筈だ
「叱る」一つの手前でも、どちらがどちらの役割をするのか話し合う必要があるのはやや面倒だが、子供の糧になる「叱る」のためにはそのぐらいの手間は必要ではないだろうか
職場で叱るケースでも、教育係を一人に一任せず「直属の厳しい教育係」と「見守る優しい先輩」というロールで叱ってみるのも一つの手なのではないだろうか
我々は普段から「叱る」と「怒る」を混同し、ただ感情を発露させるだけの行為を目下の相手にしてしまう事が多いが、効率的に人を成長させるためには「叱る戦略」をきちんと考えて叱るべきだ
個人的に、教育現場における「叱る=怒鳴る」は論外である。怒鳴る事によって相手を萎縮させ、内省させる間も与えない行動が反省を促すとは到底思えない。
生徒、部下の立場は怒鳴られても怒鳴り返すことの出来ない立場である。おずおずと返答をしても「言い訳をするな」と一蹴される恐れがある。怒鳴る行動は対話の機会を奪うのだ。
勿論、いじめや命を落としかねない悪ふざけには少なからず「怒鳴る」のコマンドが必要かもしれない。事の重大さに気づかずヘラヘラと対話による説教を聞き流すような生徒もいる。なぜ「怒鳴る」が必要になるのだろうか。この場合「怒鳴る」はどのような効果を発揮しているのだろうか。
主観的かつブラッシュアップの足りない考えではあるが、一つの仮説がある。「怒鳴るとは上下関係をわからせる手段ではないか」という仮説だ。そもそも、動物としての観点で見ると大声とは威嚇の手段の一つである。動物のように大声を上げることで、相手を威嚇し、上下関係を再確認させるのだ。プラスして、感情をあえて大袈裟に表現することで「自分は真剣だ」と伝える意味もあるだろう。(しかし演者時点が自身の演技に呑まれる可能性はかの有名な監獄実験で示されている通りであるので、十分な精神力と慎重さが求められるだろう)
社会性動物である我々は猿山の猿のように、狼の群れのように序列に弱い。だから不真面目な相手を前にした場合、この「怒鳴る」という行為はある程度有効なのだろう。怒鳴るは相手の「話を聞く真剣さ」を+5するというようなコマンドなのかもしれない。
人間の感情は複雑なように見えて案外単純だ。悲しい時に怒る、傷ついた時に傷つける、というような行動も一見ブラックボックスを抜け出たものに見えるが、案外類型的なものである。それはピンボールの玉がピンに当たって跳ね返りながら、最終的にはいくつかの穴に収束していくのに似ている。無限の可能性を持ちながらも、個々のピンでの跳ね返り方はある程度の予測がつく。我々の行動自体が、大したパターンを持たないからこそ、我々は相手の気持ちを思いやり、共感できるのだ。
「宿題やったの!?」という言葉が子供時代の私たちにもたらしてきた感情は「後ろめたさ」「反省」「反感」である。この感情のパターンが類型的だからこそ、私たちに「先に言われるとやる気なくすよね〜」という共感をもてる。
というように、人間の感情がある程度パターンとして把握できる以上「叱る」のマニュアル化は可能ではないだろうか。
「優しく諭す」というコマンドは相手の「真剣さ」には効果が薄いかわりに「反感」の数値はあまりあげない。だが「真剣さ」の数値が低いと「反省」には至れない。
「怒鳴る」というコマンドは逆に「真剣さ」には絶大な効果を持つ、が、「反感」のポイントを高めてしまう。「反感」の数値が一定を超すと「反省」への道は閉ざされる。
前述の優しい医者と怖い医者戦略も、数値化で説明してみよう。怖い医者は「真剣さ」「内省を促す」方面に強いキャラクターであり、優しい医者は「反感」という感情に共感し、怒りを和らげ「落ち着き」を取り戻させるヒーラーのような役割のキャラクターである。
「叱る方と叱られる方」という絶対的な上下関係に、そのどちらでもない第三者を加える事で、叱り手の感情の暴走を抑えるとともに、第三者による「共感」で叱られる側の精神的負担を減らし、自分を省みる余裕を与える。
無論、感情の数値の動き方には個人差があるので、叱り手は自分のコマンドが相手にどんな影響をどの程度与えるのかを考えながら叱り具合を調節していく必要がある。 と言っても、その個人差もある程度はパターンに当てはまるように思う。不真面目だが誠実な子、真面目だが反抗的な子、結局は要素の集合体である。実際に「元気な子(そして剽軽で悪戯っ子)」「明るい子(そして優しくてポジティブな子)」「大人しい子(繊細で真面目な子)」という安易なパターン化はあらゆる人間関係において常に行われている※。タイプに応じてコマンド駆使の仕方のマニュアルがあれば、どんなボンクラでも効果的な「叱る」ができるだろう。
※これには幾らか問題がある。私のように「大人しい子(割合図太く不真面目で陰険な子)」という相反するイメージの要素を持つ人間は取りこぼされる。そして不理解な大人に失望し私は余計陰険になった。教室のような大人数を把握すべき空間では、雑なラベリングが横行して、かえって正確な人格の把握の障害となるかもしれない。ここにもいくつかの心理検査を用いた人格のパターン化による把握が必要かもしれない。
このように数値化して考える方法を主張すると必ず人の心が通っていない、愛がないという人が現れる、が、なんの考えもなしに相手の叱られた後の情動を予測せずに感情をぶちまける事の方がよっぽど動物的で、「人の脳味噌」という回路を通わない非効率不合理なくだらぬ行動だと私は思うのだが。
(だいたい愛の鞭なんて言うが、恐怖政治よりインセンティブによる動機付けの方が効果がある事なんかもう数十年前から言われているのだからいい加減卒業してほしい。)
叱る、は上手くいけばとてもポジティブな効果を発揮する。しかし下手にやればかえって人から反省の機会を奪う。説教や正論は気持ちが良すぎるので、叱り手側は容易に権力を振りかざす楽しさに呑まれてしまう。だから、叱る前に一呼吸置いて、叱る戦略を立ててみるのはどうだろう。戦略という言葉は大袈裟かもしれない。叱る前に叱られた相手の気持ちを考える、それだけの事だ。
人材育成、教育現場、家庭での指導法においては、「叱り方マニュアル」の作成も試みとして楽しそうだ。心理テストで振り分けられた生徒や人材ごとに診断チャートを作成し、それを参考に叱り方戦略を立てる。大規模に実験し調査結果を取り続ければ有効性を立証できるかもしれない。最終的にはAIが掛けるべき言葉を演算し、叱り手という演者がそれに従うようなディストピア教育が出来上がるかもしれない。AIの愛のない教育、は痛烈にこき下ろされそうだが、「データを集め、型に当てはめ、パターン化された指導をする」という一連の行動は学習行動として常日頃個々人が行なっている事であるし、そこに統計処理がより得意なAIを解すのはそれほど不自然でないように思う。
教育者には当たり外れが多すぎる。一生涯呪い殺したいようなクソもいれば、人生の節目のたびにあって感謝の意を述べたくなるような聖者もいる。マニュアルさえあればどんなクソにも一定ラインを超えた指導ができるようになる筈なのに……!と思うと悔しいばかりだ。しかし、こうなると今度は「マニュアル一辺倒の叱り方」という批判が生まれてくるだろうか。教師のマニュアル依存、なんてニュースが流れるようになるのも嫌な話である。優しい医者と怖い医者も何も知らずに信じ込めるとステキな装置ではあるが、そんなプログラムだと言われてしまうと薄っぺらさにがっかりしてしまう。マニュアル化した叱り方は叱られる側に不信感をもたらす逆効果となるかもしれない。うーん、難しい(そこまで進んだ未来だと生徒もプログラムが組まれたのをわかった上で乗れるほど慣れるかもしれない、AIカウンセリラーを利用したマインドセットが人生の基本になるのだ!←楽しそう)
まあ、今のところは感情的に怒る前に、相手の情動を予測しながら諭してあげるというのがいいと提案してみることにします。つまるところは思い遣り。プラスして、叱るときは座って目線を合わせるっていうのも提唱してみる。叱り手側も怒りをセーブしやすいし、叱られ側も対等な立場での対話であると感じやすい、と思うから。(座って足組んでる奴から立たされて叱られるのも、立った状態で目の合わない相手を見上げながら叱られるかもつまらないもの。)それと、誰かが厳しく叱られていたら、優しい第三者として「反感」や「落ち込み」に共感してあげたりね。まあ普通のことです。しかし実践はクソムズイ。人生手強いね!
(思い出話あるあるを書こうと思っていたのに、思いのほか筆が乗って長文増田になってしまった。noteにでも貼るべきだったかな、図解しながら書き直したくなってきた。ところで、25件を無限リロード中の増田様方には大変ご迷惑をおかけします、すまない。途中送信しちゃっただけなので再投稿の甘えではないんだよ!)
日韓関係の壁が一向に埋まらないのって、もちろん色んな要因があるだろうけど、言語の壁もでかいんじゃないだろうか。
英語なら多少できるから、英語圏で何かが起きてる時はちょっと調べれば現地民の声とか、現地の事情を知る人の生っぽい情報が入ってくる。
個人の発信にあまり重きを置きすぎるのはまずいけど、市民からの直接の発信にはやっぱりニュース経由では掴みづらい実感と温度がある。
一方で一連の日韓の問題を市民レベルでは韓国の人たちがどう受け取っているのか、直接の声が聞こえてこないし知ろうにも言語の壁があって調べられない。極端なやつばっか目立つ。
で、多分向こうにとっても同じなんだよな。俺たちがどう思ってるのかとか、絶対伝わってない。
おいおいそりゃちがうだろとかツッコミするタイミングももらえんし、そんなこと思われてんだとか省みるチャンスもない、言語が違うと市民レベルで対話ができない。
で、国家の判断や扇動に乗せられるしかなくなって、対立する国家の向こうにも自分とそう変わらん生身の人間が生活してることへの実感が持ちづらい。
両国語分かる人は今やきもきしてるのかな、それとも知らんほうが幸せかもしれんくらいもう手の施しようのないとこまで来てるのか?それすらもわからん。
例えば今日、米英間の関係が悪化したとしたら、多分ネットを介して市民レベルでも両国間でめちゃくちゃ議論が交わされるよな。それでも拗れて戦争に突入したとしても、市民レベルでの対話がまるでないままなだれ込むよりずっと健全な気がする。
翻訳技術がめちゃくちゃ発達してマジで垣根がなくなったらまた一つ世界は変わるのかも。共通言語を持たれて困るのって神ぐらいなんじゃないの。
だからって家にカタログ送りつけまくったり、遠方から来て自転車盗んだりエアガンで撃ったりなんかするほどか?
ハセカラとかもそうだけど、「おもちゃにしていい」ってネット上のレッテルが貼られたら死ぬまでおもちゃにされるって怖すぎない?
自分の行動を省みる知性も教養もなくて、レッテルが貼られたら何の考えもなしで破壊行動に移れるのもおぞましい。
開示される遊びとか楽しめるのも「無敵の人」だから可能なんだろうなと思うし、複数の「無敵の人」の社会人から見たら無限の時間と無限の人的リソースで嫌がらせされたらどうしようもないと思うし、「無敵の人」には社会的制裁も名誉の損失もないから、ゾンビと戦ってるようなもんだよね。
日本が敗戦でアメリカの属国になっていなければ、日本人が日本を取り戻すための運動は起きなかった。(1960年代~1970年代の日米安保闘争など)
日本の近代史を省みると、日本の失敗は、鎖国から開国に転じるときの国家体制に不備があったことが分かる。
天皇が税金で生活する公人ではなく、私財で生活する私人に戻っても、日本人は生きていける。
公武合体の代わりに、今なら日本で大統領職を新設すべきなのだろう。(大統領=現代の将軍に相当?)