はてなキーワード: 省みるとは
自分の無知を棚に上げたまま人に反省を促しておいて、他人からせっかくの指摘を受けても一言「俺も反省するよ」で済ますその姿こそ、あなたの言う「自分の差別意識に立ち向かい抗い戦いそしてそれに勝つ人間の善性」の難しさを物語っているようですね。
在日コリアンの数はそれだけかもしれませんが、在日コリアンに近い人間はその何倍にも膨れ上がります。
それだけの人間が在日コリアンとの差別問題を考えていると思えば、それはあなたにとって何も縁遠い問題ではないのではないでしょうか。
あなたのその、自らの経験だけを大衆に置き換えようとする行為こそ、差別意識の根底にある同一視に他なりませんよ。
ついでに、あなたにどうして自分が差別について反省している姿をお見せしないといけないのかは疑問でしかありませんが、一つ、わたし自身が差別について毎日省みていることを書いておきます。
「側面と全体は別。側面だけで全体を類別してしまう意識こそが、差別の全てである。」
わたしがあなたの一意見であなたの思想全てを決めつけてしまわないのと同じで、並んだブコメを眺めて反省する人がいないと決めつけるのは、あなたに宿る差別意識でしかありません。
そうして一つ一つ自らの行動を省みることができれば、「自分の差別意識に立ち向かい抗い戦いそしてそれに勝つ人間の善性」を自らに見出すことができるかもしれませんね。
まわりに在日なんておらんひとがほとんどでしょ(全国の在日韓国・朝鮮人は479,193人で、人口100人あたり0.38人。)
民族差別なんかよりも貧困格差や学歴差別、ルッキズムのほうがよっぽど身近なのに
やっぱり他人事の差別ほどみんな敏感になれるんだなとつくづく思う
自分の身に火の粉が降りかからないところで、差別糾弾して悦に入りたいんだろ
他人事の差別批判してる暇あったら、自分がしてる差別について反省しなよ
【追記】
誰も自らを省みることは出来ない
だから、NIKEはこれからもウイグル差別に加担し続けるし、エリートは低学歴差別をしても恥ずかしいとすら思わないし、公立中学は動物園にスターが集まる
反吐が出るような在日ヘイトを垂れ流しながした同じ口で中国のウイグル差別に反対するんだ
低収入、勝ち組、負け組、学歴、学力、知性差別、年齢差別、ブルーカラーへの職業差別、食文化への差別、オタク差別、地方差別、原発地域への差別、男女差別、老人差別、ルッキズム、病人、障害者差別
身近な差別には鈍感になり、自分を省みなくて済む差別には敏感になっていく
ひとりでいいから見てみたいなあ
自分の差別意識に立ち向かい抗い戦いそしてそれに勝つ人間の善性を
【ブコメ返答】
「会社の先輩が「自分は在日コリアンで~」と昼飯の席で話したら同期が「自分もそうです」と打ち明けて少し驚いたことがある。「言わないだけで身の回りにいるし、それは友達かもしれない」と思った方がいいですよ
」
100人あたり0.38人だから、接点少ないのは間違いないがひょっとしたら身近な大切な人が在日コリアンかもしれない。確かにそこは考慮にいれて完全に他人事には出来ないことは自覚しなきゃな。俺も反省するよ。けど、みんなが見てきたはずの差別に鈍感になる理由にはならんかな。
あまり認めたくない話の一つなのだが、人間には感情というものが存在する。
例えばデブが服屋に行った時に「デブは着れる服が少ないんだからこーいう服でも着てろ」なんて言いながら服を差し出す店員なんていない。「身体のラインが柔らかい人はこんな感じの服が似合いますねー」とかなんとか、外敵から種を守る綿花のように、或いは訪れた人間の脂肪のように柔らかい言い回しを必死に探しながらサイズが大きくて身体のラインが隠れる服は無いものだろうかとサーチして少しでも小気味よく服屋を後にしてもらおうとするだろう。言ってる事は同じで事あるにも関わらずどうやらこの違いは心象というものに大きな影響を与えるらしい。
商売に限らず人間関係というものにおいてネガティブな言葉なんぞ使うべきではない。そんな文明人にとっては真夏の晴天に太陽を見るより明かな不文律を物ともしない人種がいる。それは殊職場というコミュニティに存在し、そうでなくとも度々見掛ける事がある「良かれと思って人に辛辣な事を言う人間」だ。人の落ち度や欠点を孔雀の羽のように押し広げながら恫喝しそれを悪びれもせず虫を潰して遊ぶ子供の如くくりかえす。そんな人間がこの世にはテーブルコショウの瓶に入っている胡椒の粒程度には存在する。
これが頓珍漢な事を言ってるならまだマシでコミュニティから駆除の対象になるだけであるのだが、鯵刺が魚を捉えるが如く寸分の狂いも無く正論を叩きつけてくる人間がいる。得てしてそういう人間は、本人は「デキる」人間であるが為にコミュニティの地位も高く、対して言われた方はぐうの根も出ない状況に追いこまれ雨風に晒されるトタンよろしく初めは徐々に、やがて一気に錆が回ってくる。
この手の人間への対処法として、よく「見返してやれ」という意見が存在する。非常に前向きな意見であるが、それは人参を吊されて延々と走り続ける馬の如く愚かな行為である。仮にその過程の上で一定以上の実力を得て相手を「見返せた」として、その相手は「アイツは俺が育てた」というハウステンボスもびっくりの花畑を咲かせそれを自身の成功体験にしてしまい、また別の人間に「教育」を施し悲劇の再生産が始まる。成功体験がある以上その過程で心が折れた人間がいたとして「使えないヤツだった」と思うだけでそこに自らを省みる思いは存在しない。
一つだけこれを回避する「見返し」かたがある。それは相手を凌駕する実力と地位を身に付けた上で「私怨」を報しめながら自身のやった事を反芻させ相手のコミュニティ地位を下げる事である。修羅を狩る物はまた修羅にならなければいけない。だが概ねの場合そうはいかないだろう。それまでその人物がそのコミュニティにいたということはその存在は許容されている訳であるから、「余計な騒動を引き起こした」という事で自身のコミュニティ地位も一緒に下がる事を覚悟しなければいけない。コミュニティに全体に対する寄与と差し引いた時の総評がどうなるかは場合によりけりだ。
タイトルの通りです。
昔から父は怒ると私を殴る人でした。首を絞めたりだとか、包丁を持ち出したりだとか、そういった私が死んでしまうようなことはしませんでしたが、怒鳴りつけ、頭や顔、体などを殴りました。
当時は私がのろまだから悪いんだと思っていたのですが、今改めて考えるとそうでもなかった気がしてきたのです。当時から私は成績優秀な優等生で通っていましたし、殴るのも、例えば食事中にテレビを見ていて、食べるのが遅いとかそんな理由でした。(それも、テレビは私の後ろに配置されていて、両親は食事をしながらテレビを見て笑っているのです。)
父親が完璧主義故に父の期待に答えられなかった……とかでもないと思っております。言い方は悪いですが我が家は田舎の中流かその下くらいの家庭で両親は非大卒、私はどこに行っても褒められる子供でしたし(狭い田舎なので大したことではありませんが)、十分に親の期待に応えたのではないかと思っております。親も人間ですから、躾や教育と言うよりはある種のストレス発散だったのではないかと感じております。
成長するにつれ徐々に暴力は減り、最後に殴られたのは受験生の時で、勉強中に年賀状プリンターが動かないと言われて呼び出され、それに対してブツブツと文句を言ったら赤本で殴られました。まあこれに関しては私も生意気だったかなと思っております。その後すぐ進学し家を出ました。
こうした暴力は躾の範疇であり、必要なこと、当然のことだと思っておりましたが、やはり将来自分の子供にこうしたモヤモヤを抱かせたくないなという思いがあります。一人っ子なので他の家族に意見を求めることも出来ず、やはり病名がわからない病は気味が悪いものなので皆様のご意見を伺いたいと思った次第であります。(皆様の反応を期待しておりますが、もしそのような場でなければ申し訳ありません。匿名ダイアリーを使うのが初めてなもので……)
結びに、当然私より苦しい思いを抱えた方々がいることは承知しております。当方、現在労働、貧困、子どもの貧困、ジェンダー問題等に取り組んでおりまして、その過程で自らの経験を省みるきっかけをいただいたこと、また家を出てしばらく経ち、家族との向き合い方について考え始めたことなどからこのように質問させていただきました。デリケートな問題ですので、もし不快に思われた方がいらっしゃったら申し訳ありません。
既にいくつか指摘されているけど、BL好きと同性愛の関係というのは「無関係とまでは言わないが、全く別物で、それぞれに尊重されるべきセクシュアリティ」でしかなく、増田は前提から結論まで全て間違っているのだが、こういう増田ほど伸びるんだからホントどうしようもないよ。
「BL好きだからこそ同性愛には寛容!」というのは、二次元美少女が叩かれた時に「実在巨乳女性がー」とか言うのと同じ仕草でしかないよ。「腐女子という自称は実在の同性愛者に失礼!」とかいうのもただの自己満足だよね。いや腐ってるのは同性愛者ではなく、それをまなざしている自分自身だという自虐じゃなかったの? 「くだらない自虐は卒業しよう」と堂々と言おうよ。
BLは決して同性愛の味方ではないのと同時に、別に敵でもないのよ。「BL好き」というセクシュアリティもまたマイノリティ故に迫害されやすい個々のセクシュアリティの一つであり、「同性愛への配慮」の名のもとに迫害されていいものでもないのよな。それもまた二次元美少女なんかと一緒。
実在の同性愛者だとか巨乳女性というのは、オタクの盾でもなければポリコレの棍棒でもなく、それぞれが生きた人間の集合なのよ。
「オタクだからこそマイノリティには寛容!」みたいな思い上がりはやめるべきだが、まあ一方で、そのように理論武装しなければ自己領域を守れなかったという歴史にも配慮が必要ではある。マイノリティ同士を争わせて笑う人間が何処にいるのか、それを省みる必要があるのだよな。
という一連の議論も、増田がそもそも的外れどころか真逆に矢を射ってるような状態なので、無駄といえば無駄かもしれない。でもまあ伝わる人には伝わるだろう。
ひっでーなぁ、もう「自民党を攻撃できればなんでもいい」って事じゃん。
中国共産党辺りに。
気づいてないのかな?
10年前に愛国無罪でチョンを叩こうと騒いでた集団と全く一緒だ。
もう一度言うぞ。
エコーチェンバーの中に仕込まれたプロパガンダに踊らされて、容易に扇動されている者達を指差しているお前ら自身が、まさにその状態になっていながらその自覚がない。
笑っちまうほど無様だぜ。
ネットDE真実を卒業して10年、20年経ってるつもりだったろ?
まだまだあの頃から何も変わってなかったということをせめて認めな。
結局さ、そういう扇動を受けている側であることを認められた事なんて一度もねーのよオマイラは。
そういう集団からこっそり抜け出して、野次馬の中に紛れてから逃げ遅れた元の仲間を笑って自分を省みることをしなかった。
だから、同じことを今も繰り返している。
エコーチェンバーの中で、今も誰かに植え付けられたプロパガンダに踊らされていることを認めな。
他人の言葉を借りておきながら、自分の頭で考えたと言いはる癖をまずは治さねえとな。
その点については俺も同じだ。
待っててやるよ。
あと1年ぐらい。
ルーティンワークとか習慣とかいう、毎日この行動をしないと落ち着かないとかいった経験がない
毎日同じことをしていると言えばパソコンの前に座ることだけど、それは自分がしたいからしているししなくて苦痛になるのはしたいことができないから苦痛を覚えているわけで同じ行動を取れないことが嫌なわけではない
歯磨きとかも何度もがんばってるんだけど未だに毎夜寝る直前とかにやってないことに気づいてめんどくさい気持ちを抑えてやってる
筋トレとかも本当に軽くさくっとできるやつですらがんばって続けても習慣にはならなくてふとしたきっかけでやめてしまったりそもそも途切れ途切れになって全然できなかったり
どうやったら習慣づけができるんだろうか
歯磨きとかを省みるに一月三月じゃ足りないんだけどそこまで続けるのもかなり難関だし
なんなら学校に行くことすら習慣にはならなかったもんな
かろうじてそれっぽいのといえばCDとかを順番通りにずっと聴いてたらシャッフルにしても本来の曲順で次の曲思い浮かんでしまうことか、通学電車の中で寝ても降りる駅のちょっと手前で起きれるようになったことか
苦手なことが惰性でできるようになりてえなあ
元増田の言いたいこととブコメの内容や流れとがかけ離れてしまっているのでちょっと書きたくなった。
要点は以下の通り
まず「傷付いた」という考え方は、多くのブコメが書くように、ある。存在している。
ただし、他の感覚全てがそうだけれども、「傷付いた」という言葉・言語によって諸人が感覚を構築してきたという背景・歴史がある。
構築にはある程度共通の経験(少女漫画でもなんでも)があり、日本語としての「傷付いた」がこれを結びつけている。
元増田はこの「傷付いた」を一度構築し直しませんか? と言いたいのだ。
ただ、言い方が結構雑で「嘘の概念」とまで突き放してしまっているので、
ブコメでは「傷付いたことがある」「元増田の感情が欠落している」などの反応が多く、建設的な議論に発展しにくい要因になってしまっている。
では、元増田はどうするべきだったのか。
もっと、感情を「傷付いた」カテゴライズに放り込むデメリットや、そうしないことに関してのメリットを示すべきだったと私は感じている。
元増田はブコメなどへの返信でようやくその片鱗をみせているが、確かに「傷付いた」を一度考え直してみるのは良いことなのかもしれない。
ただし「ムカついた」「ビビった」もまた「傷付いた」と等しく、感覚が言語で取りまとめられているに過ぎない。絶対的な指標は、ない。
元増田もまた人生の中で、他の人が「傷付いた」ような経験をして、色々「ムカついた」り「ビビった」りしているのだろう。
その感情の処理がどう効用があるのか、「傷付いた」を常用している人に訴える射程がないと、話が噛み合わないのだ。
元増田がなぜ「傷付いた」概念に疑問を抱き、それを脱構築しようと考えたのかはわからない。
以下は私個人の感じていることだ。
誰しもが情報を色々なところで発信できるようになり「私はこんなに傷付いています!(だから配慮してね)」「私は傷つく恐れがあります!(だから配慮してね)」が必要以上に溢れている世の中になったことは確かだ。
誤解のないよう述べておくと、当然社会的に十分以上の(例えば違法な仕打ちなど)をされた人が必死の訴えでそう述べるのは重要なことだ。そして人生の中で「傷付いた」経験は各員日々生じているだろう。
もしかしたら元増田は「傷付いた」で周囲を困惑させるある少数の人々の振る舞いが気になっているのかもしれない。
じゃーこの増田&ブコメから何を考えればいいのだろうか。せっかくの秋の近く火曜日。何かちょっとでも考えたほうがいいような気が、私はしている。
元増田が雑だけど訴えている通り、確かに「傷付いた」カテゴリになんでも放りこまず、もう少し考えるってのは大事かも、と思う。
ブコメでも、自分が「傷付いた」と感じるときはどういう時だろうか、と考察している方がいる。
「傷付いた」を一度解きほぐすことは、確かに自分の生活の心理面を考える上で役立つかもしれない。
同時に「ムカつく」「ビビった」も解体してみるといいだろうし、「怒り」「安楽」など当たり前にあるような言語で示される感情の、それぞれの内実を省みることは、きっと生活上重要と思う。
どう牽強付会な説明を加えても一般的文脈において精神疾患と関連のない語彙を強引に結びつけているのは変わりませんね。明確に「統失」「躁鬱」(「アスペ」「ADHD」「発達」「知障(池沼)」、「身障」「「めくら」「つんぼ」、「ガイジ」)などという言葉を使って他人を揶揄するのは極めて差別的な意識に基づいていると言えますが、「片手落ち」や「頭が悪い」等の語彙は一般的文脈では障害者差別的なニュアンスは認識されません。妄想は完全にその類の語彙であり、「頭がおかしい」も社会通念上排除はされていません(「キチガイ」はアウトと判断される)。
この文章が、「もし難病差別反対を主張するなら、差別用語を使用するな」「もし差別用語を使用するなら、難病差別に反対するな」と読めるのであれば、申し訳ないです。これ以上わかりやすく説明することは私には難しいです。
差別が問題であると捉えているなら、先に言った通り一般語彙を精神疾患と結びつけるような解釈を強く発信することを慎むはずですし、このような発言は出てこないはずです。差別意識への自覚の有無を問題だと言うのであれば、少なくともそのような規範意識はあって当然です。そのような意識がないのなら、差別自体を問題視しているのではなく、あなたが想定しているようなブクマカを冷笑・嘲笑したいという加害意識が基になっているというだけでしょう。
また精神疾患が難病である、という理解を内面化されているのも不自然です。(後から出てきたもので他の人の言及に影響されてるんでしょうが)
今健康な人であっても精神疾患になる可能性があり、その確率は決して低いものではありません。適切な治療をすれば寛解する可能性があり、そうでなくても周りの理解が有れば社会参画は可能な場合は多いです。
だからと言って一般人と同じなのだから合理的配慮が必要ない、というような話では当然ないですが、アンタッチャブルなものであり、例えば「妄想」や「頭がおかしい」という状態と切って離せないような存在であると主張するかのような言説はやはり差別的であると言わざるを得ません。
ラブドールの所持は個人の自由、表現の自由として実際に許容されている権利ではあるけど、その自由は「実在の他者の人権を侵害しない」ことが大前提の元保護される自由であり、ラブドールを所持している人間が実際に「リアルの男児に走る前に!」と実在の他者へ対する性的加害を匂わせたらそりゃあそのうちラブドール所持は法で縛りましょうとなってしまうよ。実際、ツイ主は他にも実在の芸能人の名前を上げて加害的な性欲求を全世界に発信してしまっているし。あの漫画は他のラブドール愛好家や小児性愛者にも多大なる迷惑をかけてしまう内容なんではないかな。表現の自由、ラブドール所持の自由を守るためにもあの手合いには自分の発言を省みる時間を与えなきゃいかんのでは。
私自身が理系萌えで工学部に進んだものの、憧れと自分がそれになりたいかは違うことに在学中に気づいて就職時に専攻から離れた人間なので、他人事とは思えなくてね…
とりわけ情報系の男性が好きだったが、私の場合はお付き合いとか結婚とか、増田よりもう少し推しに近づきたい願望があった。
そうなったときに専門が同じだと、お互いの専門への思いの熱さが災いして、どの実験手法を採用するかとかで軋轢が生まれ、離婚の危機とかになったら嫌だなあ…と妄想して、
非情報系の専攻にしたのも良くなかったと思う。(方向性は違うけどかなり拗らせていた)
大学の専攻も学問としては面白かったが諸処の事情で仕事にしたいとは思えなくなってしまった。
で、いくつかの転職を経て叩かれがちな所謂職業プログラマになったけど、これが思ったより自分に向いていて、
今は理系男子よりも、とは言わないけれど理系男子と同じくらいプログラミングが好きなので充実した日々を送っている。
同時に、18のとき妙なことを考えず、普通に大学で情報系の専攻に進んでおけばどれだけ良かっただろうと後悔したし、情報科出てないコンプレックスは今も消えない。
思えば、普通に自分自身が好きなものと向き合って極めようとする過程で挫折することへの恐怖心が強く、
「理系男子萌えが理由で自分も理系になっちゃう私マジヤバイ女~」というメタ的視点に立つことで自分を守ろうとする意識もどこかにあったと思う。
別に増田がそうだとは言わないけれど、私はそれで自分が本当に好きなものを見つけるまでに30超えてしまって人生遠回りしたので、もし増田にもそういう部分があるなら自分を省みるのは早い方がいい。
親に頭下げて転科/文転が可能ならそれもいいし、学生やり直すのが現実的じゃないなら、就職時は分野を変える大きなチャンスだし、第2新卒ぐらいまではまだまだ全然やり直しもしやすい。
増田は人生を楽しむ力が強そうなので、別に今のままでも上手く生きていけそうな気はするけれど、ちょっと似ているババアからの小言でした。
というか増田は、勉強と違って仕事なら楽しめる可能性も大いにある。研究職は知らないけど、一般的な仕事なら良くも悪くも大学の勉強とはベクトルが違うから。
差別問題を考えるとき、具体的な出来事にフォーカスしてしまうから自分の中にある差別そのものを見過ごしてしまう。
「黒人の待遇に怒りを感じる。自分は黒人に対して嫌悪感はない。差別されている現状に対して解決を望んでいる。」
しかし、これは間違っている。
この段階では、黒人の事件があまりにも遠くの出来事過ぎて、実感がないのだ。だから軽く「解決を望んでいる」なんて考えに及ぶ。
残念ながら遠い日本で1億人が怒りを感じたところで何も解決しない。それが差別問題だ。
遠い国の出来事に遠くで怒っていても何も変わらない。
それならば今何をすべきか。
遠い国の出来事で学んだことを、身近の出来事に置き換えて行動を省みるべきだ。
遠い国の黒人問題について、国内で論争しても何も良くならない。
どうせ怒った人間が意見の弱い人間を論破して気持ちよくなて終わるだけだ。
そうやってまた差別ポルノを消化しては終わるを繰り返しているだけではないか。
在日外国人、性的マイノリティ、障害者、依存症患者、、、数を上げればきりがない。
では、果たして差別ポルノ愛好家ではないと言い切れるのだろうか。
差別されているかもしれない人間に対して、可愛そうだと考えたことがないと言い切れるのだろうか。
目の前の個人を、集団から切り離して唯一の個人としてしっかり見据えること。
事前情報や先入観を切り離して、その人としての行動に目を向けること。
自分の中に差別意識があるかもしれないと常々思うことで、知りもしない情報を勝手に補完しようとしないこと。
問題が発生したときは背景にある集団を理由とせずに、その個人の問題としっかりと向かい合うこと。
自国が最も優れていると教え込んで、無意識のうちに他国民が劣っていると信じ込ませる。
集団行動をマジョリティへの依存だと教えこんで、マイノリティに対して劣等感を植え込ませる。
君たちが悪いのではない。そうした教育が許されていることがおかしいのだ。
そこにある原因は大人たちの都合だ。
そうして教え込んだほうがまとめて同じ教育をしやすいというだけなのだ。
団塊の世代で確立された手法が少子化の今も適用されている現状にこそ問題がある。
今や勉学はオンラインでいつでもどこでもできる。
それならば学校に求められることは、マジョリティ依存ではない個々の価値観を認め合う教育だ。
集団で集まることの利点は、いまやまとめて同じことを教えることにはない。
多様性がそこに存在してる事実を見て学び、お互いを受け入れることに特化すべきだろう。
君たちは被害者だ。
しかし、大人になった今もまだ、そうした被害者を増やし続けていることに目を向けようとしないのであれば、加害者と同じだ。
校長でさえ、いじめる側の理解者に付いている状態で、問題の根深さに頭を痛めているところだ。
そんな彼らが、道徳の授業でいじめ問題を取り上げていじめが良くないと口にしているのをポルノではなくてなんと呼べば良い。
私の考えは間違っているかもしれない。それならばそれでいい。
ならば解決のための行動を起こしてくれ。間違っていると論破して気持ちよくなって終わらないでくれ。
これを読んだ諸兄は、今後差別ポルノで気持ちよくなったくらいで、差別がなくなってほしいなんて二度と口にしないでいただきたい。
目の前に差別があることを認め、行動を起こしてくれ。
小学生の頃、算数は好きだった。そろばん塾に通って大会に出させてもらったりもした。
ボーイスカウトなんていう活動にも参加して、正直その活動は大嫌いだったが、隊長と称する引率者の大人から、会計係を頼みたいと、お金を扱うことを要求されたりもした。全く目立たない子供だったが、悪事をはたらくような子供ではないと思われていたのだろう。ある種の信用を得ていたのかもしれない。そういう子供だった。
自分の興味ある分野にはのめり込む子供だった。小学生の頃、お前の集中力はすごいなと担任の先生にいわれたことが印象に残っている。良い先生だった。
一方、興味のない分野には全く関わりたくない子供だった。友達はいなかった。同級生のなかに話の合う子は全くといってよいほどいなかった。この状態は中学を卒業するまで続く。
一言でいって器用貧乏だったような気がする。運動は好きだったが大きな大会に出て活躍するような子供ではなかった。勉強は、小学・中学とトップの成績は取れたが、高校では最高順位が2位だった。
高校では数学もそこそこ好きだった。それで大学受験の際は得点を狙えるような科目にするくらいにはできたのだが、数学科に進むほどの才能はなかった。そもそも文系だったし。地方にある昔の帝大と呼ばれたところに入って、それなりに悩みつつ伸び伸びと大学生活を送って卒業することにはなった。
結局、卒業後は、公認会計士になった。会計士試験はそれなりにたいへんで、けっこうな苦労もしたが、受験1回目で通ることができた。体力勝負的なところがあった。深く理解する前に受かってしまったようなところがあって、監査法人に就職してからは受験生のときの数倍、苦労した。
監査法人には5年強勤めてのち、心底嫌気がさして辞めた。自分は組織が嫌いなのだ。馴染めない。
ドロップアウトした後は個人の会計事務所を立ててこれまでなんとかやってきた。
会社組織をつくって経営者になって成功したいと夢見続けているのだが全然そんな状態にはない。自分が嫌いな組織を自分でつくってどうするということか。個人事業が性に合っているということか。
監査法人を辞めた頃から始めた株式投資で、そこそこ成果が出てきた。投資には会計や監査の知識が役に立った。サラリーマンを辞めて10数年経った今、金融資産の時価は1億1千万円と少しになった。含み益は4千万円程度なので、投資をしていなかったら億には届いていなかったろう。
そもそも、監査法人勤めを続けていたら今も、うだつの上がらないサラリーマンとして鬱々としたままだったろうと思う。大手監査法人では上場株を所有するにも大幅な制限が課される。続けていれば、パートナー(幹部)になれていたのだろうか?自信はない。仮になんとかヒラのパートナーになれていたとしても、監査法人組織のなかで幸せそうな自分は想像ができない。辞めたことを後悔したことは一瞬たりともないし、辞表を叩きつけたことは我ながら賢明な判断だったとつくづく思う。
ところで、日本で1億を超える金融資産持ちの世帯は、全体の2%だそうだ。個人として考えれば1%弱といったところだろうか。自分よりも若くて数十億、数百億の資産を持っている人は大勢いるのだからえらそうなことはいえないが、田舎から出てきて無一文から始めた自分を省みるに、まあまあ良くやってきた方ではないだろうか。とりあえずここまで何とか生きてきた自分を褒めてやりたいと思う。
さてこれからどうするか。嫌なこと、気の進まないことはこれまで通り、全て断りながら、自身が面白い、興味深いと思えることに携わって仕事を進めていきたい。
最も価値高いと思われる行動を意識的に選んで、照準を定めて、自分に合ったやり方で、世の人々にできるだけ高い価値を与えるような生き方を選択していきたいと思う。