はてなキーワード: 省みるとは
第二次世界大戦中に美術や音楽など文化芸術が戦意高揚に散々利用されたよな
戦後の前衛芸術全般が、大衆を突き放すような難解な表現に傾いていったのは、
文化芸術が戦中のように政治的イデオロギーに利用されるのはけしからんという反省があったはずだよな
ワーグナーの勇壮かつ陶酔的な音楽は、ナチスドイツのプロパガンダに大いに利用された
第二次世界大戦後にクラシックの前衛派がリズムもメロディもよくわからん、何回聞いても覚えられないわけわかめな曲を作っていったのも、
大衆迎合的な、全体主義的な表現を、オリンピックで無邪気に繰り広げていた
あっ、こいつらって自分たちが携わってる表現の歴史とか何も知らないんだと虚しくなったよ
天皇制を支持する人に聞きたいんだけど
自分の意見の穴は指摘されても論点をずらしたりスルーしたりする
そして相手の強弱一体で構成されてる意見の比較的弱い部分だけを切り取ったりフォーカスしたりして批判を展開する
そういうところが如何にも天皇制廃止論者と思わせるから、まとまな議論を期待できないよね
こういう部分なんて少し考えれば相手が言っていることは一般的にありえる内容だと理解できるのに、自分の意見の陣地に引き込むことしか考えていないのがありありとしている
意見を交わす気なんてなくて自分の都合のいい論点で攻撃して天皇制維持支持者はこんな程度なんですよみたいに持っていくのが目的としか思えない
他人の意見が推測であることは批判して、自分の意見が推測であることは省みることをしない
違うね。
フェミニズムが自分達の活動が社会に何をもたらすかについて自覚も責任感もない、という事を吐露しているだけだよそれ。
フェミニズムは構造上、男性側にも協力を得る必要がある。女性の社会進出の歴史を見ればそれは明らか。倫理的に、性別に囚われない平等は重要である、というお題目について、現在の「強者」である男性側の理解を得ないと話は進まない。
男性側に既得権のリリースや、なんらかの痛みを要求する以上、少なくとも倫理的、道徳的な正しさが重要になる。
しかし、フェミニズムは、男女同権は重要だから、と思考停止して、自分達を省みる、という思考回路を捨てた。だから、今のフェミニストは、相手にだけ、倫理的、道徳的に正しく振る舞えと要求するだけの、モンスターなんだよ。
面白い事にフェミニストを名乗りながら、自分は男性ジェンダーを体現した男とくっつくとか(卑怯者のフェミニストになると、それを隠すケースもあるな)いう人間も出てくる。言うだけで実践しないフェミニストがゴロゴロ出てきている。(「エリート女はエリート男しか愛せない」とか言ったフェミニズム学者もいたな(笑))
つまり、フェミニストの言うことを間に受けた男は不幸になるってこと。そして、フェミニズムには自分を顧みるための論理体系も、謙虚さもないってこと。なぜなら男性のせいにすれば解決するから!
(前提として、「映画秘宝」前編集長による恫喝DMを擁護するつもりはまったくありません)
貴方が悩んでいるとすれば「如何にしたら、町山智浩らに対する私の批判を止めさせられるか?」についてでしょう
私が悩んでいるのは、町山氏や映画秘宝の次は、私が好きな作品ひいてはそういった作品が好きな私自身も燃やされる側になるんだな、ということです。
町山氏や「映画秘宝」がきっかけで知った作品や作家もたくさんいましたからね。
批判は自由にすればいいと思っていますよ。議論すればいいじゃないか、と。でも差別だ、セクハラだ、ですべて燃やすのは違和感があった。
そこで増田が『映画欠席裁判』を取り上げた。あの本は増田が引用した部分以外を読んでも悪口しか書いてないような本です。
そんな本から差別的、セクハラという部分だけを抽出する。何がしたいのか、そのとまどいをコメントした。
すると「貴方は~だ」「〇〇論法」「釣りですか?」とひどい決めつけをする返答が返ってくるだけだった。
今回の回答で増田は差別発言やハラスメントを徹底的に燃やしていくんだな、ということは分かりました。そこに議論の余地はないんだな、と。
省みるに、私の職場で起こったパワハラ事案で、私は傍観することしかできなかった。無力だった。やはり焼かれてしかるべき側の人間なんでしょう。
アーメン!
もうネットで散々言われていることだけど、『美白』を否定するんじゃなくて『美黒』という新しい価値を創るのでは、なんで駄目なの?
「白いことは美しい」しかし「黒いこともまた美しい」で良いじゃん?
ポリコレが嫌われるのってここなんだよな。
価値があるとされていたモノをブッ壊し、優れているとされているモノを貶めることでしか平等を実現できない。
今まで低く見られていたモノに対して価値を創り出すようなことをしようとしない。
他人の迷惑を省みず、破壊という楽な方へ楽な方へと流されているから現代のポリコレはクソなんだよ。
こういうポリコレの傾向って結局声のデカい層の根底にあるのが、平等という正義の実現を望む意思ではなく、良い目を見ている奴らの足を引っ張ってやりたいという醜い性根だからだと俺は思っている。
あとはもし美白と美黒の両方が商品として並べられて、自由意思で商品を選ぶ権利のある消費者達の手に取ったのが結局美白ばかりだったらどうしようという恐怖か?
もっと言えば、美黒という価値観自体ができれば良いとは言ったけど、それも花王がやる義務はないだろう。
花王は数ある企業の一つでしかないんだから、白を美しいと思う人をターゲティングしてそこに特化した商品を売る企業として活動したって良い。
黒を美しいとする人向けの商品はそういう価値観がお好きなポリコレ勢力が商品作って宣伝すれば良いんだから。
お気持ち長文といえば女オタクが書くものというイメージがあるが、男オタクが書いたお気持ち長文も少なくはない。
簡単な紹介文とともに紹介したい。
ゆるゆり作者が自分の取り巻きばかり優先し、普通のファンを蔑ろにすることで心が折れてしまった増田。
作者と繋がっていなくても作品を好きでいることで愛を証明しようするも、ついに折れてしまう展開は哀愁を誘う。
無償の愛を捧げ続けるだけであれば耐えられたかもしれないが、露骨な扱いの違いに疲れ果てる様は同情するに余りある。
クラウドファンディングの対応のお粗末さは制度自体への信頼を揺らがすものであり、増田ならずとも憤りを感じるであろう。
まとめておいてなんだが読み返したら女性のような気がする。でも紹介したいので許して。
アイカツ! -アイドルカツドウ!-の大空あかりと瀬名翼のカップリングが許せない増田。
ヘテロ同人に対する暴言の切れ味が鋭く小気味良いが、それ以上に公式側の人間が投稿したせなあかを推奨するようなツイートに対しての激怒が凄まじい。
「可能性を生み出しただけでアウトなんだよ」はけだし名言であるが、原典以外でこれほどこの言葉が似合う文章を私は知らない。
女の子同士の友情を描いてきた作品で急に恋愛を入れるなというのは一種の正論であり、素人が言うのと公式サイドの人間が言うのはわけが違うから立場を考えろというのは完全な正論である。怒りを覚えるのも当然だ。
最後に冷静に自身を省みる辺りに増田の人間性が伺えどこか微笑ましさを感じられる。
続き(anond:20200817181345)にあるブクマカへの返信も愛を感じられて必見。
実写とアニメを融合させたアイカツプラネットに引導を渡された増田。
今までアニメでしかなかった作品の名前を使って突然実写ドラマ化を発表されて戸惑うのは当然であるし、作品への愛ゆえに感情を爆発させるのもまた当然だ。
「うるせえでございます。黙ってろでございます。」から続く冷笑系へ向けての罵倒と、わかっているがその上で怒っているのだという下りは名文。
「俺たちは数字で動いてるわけじゃない」とはオタクであれば誰もが一度は思ったことがあるだろう。抑えきれない感情とはこのことをいうのだ。
そうしてひとしきり怒りを吐き出した後、最後に改めてアイカツプラネットへの期待を綴って終わる。爽やかな読後感を残す稀代のお気持ち長文。これぞオタクだ。
こちらも続き(anond:20200813130432)が投稿されている。
DCDの方は今ひとつダメなようだが、実写パートがありガワが変わってもやっていることはアイカツなのだと楽しめているよう。
本人が楽しめているなら何よりであり、アイカツプラネットは増田の期待に応えてくれたようだ。
このような後日談を読むこともまたお気持ち長文を読む楽しみの一つである。
作者に嫌われているキャラクターを好きになってつらい
ぼくたちは勉強ができないの武元うるかの扱いが不遇で作者に愛されていないと嘆く増田。
原作の展開をつぶさに追いながら感想を書いていて、憤怒と憎悪と愛情がありありと伝わる。
上の2人のアイカツ増田からはある種の爽やかさを感じるが、こちらから感じられるのはドロドロとした激情だ。
ハンロンの剃刀であって好き嫌いというよりは無能と想像力の欠如の合わせ技に思えるが、当事者にとってはどちらも変わらないのだろう。
煮えたぎる怒りを文章にして、叩きつけるように書き殴る。これもオタクだ。
上の続編。ボイスドラマと各ルートの最終話後の後日談がヒロインの中で武元うるか一人だけなかったことが許せない増田。
ヒロイン全員が並列、平等を謳った作品での推しキャラへの仕打ちであり、増田の心情は察するに余りある。
作中以外での扱いの違いは無能ではなく無配慮と無神経の産物であり、実情がどうあれその格差に悪意を見出すのはそれほど難しいことではない。
無限に死体蹴りされると書いたら現実になったとはまさしく増田の実感なのだろう。
愛が報われるとは限らない。公式に切り捨てられたファンの恨みつらみが詰まっている。
【追記③】女児アニキャラに乳を盛る馬鹿と賛美するアホ全員死ね【続き有】
anond:20210210183005(削除済)
魚拓:https://megalodon.jp/2021-0211-1903-52/https://anond.hatelabo.jp:443/20210210183005
webarchive:https://web.archive.org/web/20210211040932/https://anond.hatelabo.jp/20210210183005
アイカツフレンズ!の友希あいねにブルーアーカイブのエイミの衣装を着せる二次創作が許せない増田。
豊富な語彙の鋭い罵倒にキレのある文章で人気を博したものの身バレして削除。脇が甘い。
ブログで増田を投稿したとアピールするとかここをなんだと思っているのか。
もっとも女児アニメキャラに乳を盛ること、露出度の高い衣装を着せることに嫌悪感があるファンがいるのは当然であるのでその気持ちは尊重すべきだろう。
それを理由に二次創作をやめる必要がないこともまた当然であるし、発端の絵は性的魅力より可愛らしさが全面に出ているようには思うが。
公式に殴りかかる男オタクがほとんどな中、二次創作界隈に向けて書いた点で希少性が高い。
男オタクのお気持ち長文は女児アニメや百合関係が多かった。というかアイカツが多かった。一体何が彼らを狂わせるのか。
男が好きで炎上しやすいジャンルといえばラブコメだが意外にもぼく勉以外は見当たらない。あれだけ言われている五等分にないのは予想外だった。
サンプル数が少ないものの、二次創作や同人界隈に向けてではなく公式に向けて呪詛を吐くのが男オタクの傾向といえそうか。
アイマスやFGO関係もありそうだが増田を見始めた時期のためか、見かけたことがなく紹介できなかった。
余談だが!や?が多いとカラッとした印象になり、それが少ないとドロドロとした印象になる。
https://anond.hatelabo.jp/20210226105220
普通にありえる話なのだと思うが、前提が一つ抜けていて、この<パンティー人>の本国では所得が低く、教育水準が低く、犯罪率が高いって事なんだろうと思う。
また、仮に日本でこの<パンティー人>が多く住む地域の治安が悪いという明確なエビデンスが本当に存在しないのなら、<パンティー人>の犯罪率の悪さは本国の政治不安に起因するものであると思うのが普通だと思うし、日本の教育や治安の良さに順応した日本に住む<パンティー人>にはなんら問題ないと思ったほうが良いと思う。
逆に、<パンティー人>が住み始めた時期もあるだろうし、統計に出てないだけかもしれない。市役所に問い合わせるなど詳細に調べた結果その地域の犯罪率に差が見られるのならその地域に住まない選択肢もあるだろう。
なので、それらの事実をきちんと調べて考えた上に結論を出すべきで、パートナーが「差別を憎む公正な人」とあるが、それらの事実を共有しないままコイントスの提案に乗るということはあり得ない、と自分は思った。
その上で、本当にどちらの物件にも差がなければ、”どちらでも良いよ””君が決めて””決められないならコイントスでも良いよ”と言うと思う。
ただ、ひっかかったのはそこじゃない。
ハテブのトップブコメ(id:warulaw)。
パンティー人は犯罪者が多いので、そこに住むのは辞めましたと、公の場で言わないことが大事。 |
なんだこりゃ。差別思考そのまんまじゃねーか。この増田を書いた奴は今頃ほくそ笑んでるぞ…。
住居に対して個人の自由ってところに★つけた可能性もあるけれど、前提が間違ってるのでまずは自身の差別思考を省みるべきだと思う。
と思ったら、スターつけた奴の中に id:fromdusktildawn 先生がいて笑った
ツイフェミ、ネトウヨ、嫌儲民、プペル、高須、ニコニコ、二次裏、ネラー、ネットにはいろんな馬鹿の巣窟があるが共通していることがある。
それは奴らが他者の意見を「まず最初に」「敵か味方か」で判断していることだ。
馬鹿は脳の思考力を司る部分がゴミなので相手の意見を論理的に理解することができない。
同時に、自分を省みる能力が低く鏡にうつる間抜けが自分であることにすら気づけないため、自分がまさか相手の言ってる事が理解できていないはずかないと思い込む。
その矛盾を埋めるのが「敵の意見なら間違いなく間違いで、味方の意見なら正しく正しい」という虚無のロジックである。
まず相手の発言を見て自分たちに批判的か肯定的か、自分たちがいつも使う言葉を使っているか、敵側の言葉がないかを探す。
そして敵か味方かを判断したら、それから文書を斜め読みして、敵の文章だと思ったならわずかなミスを過大にあげつらい、味方の文章だと思ったならいいねを入れる。
そうやって敵味方かだけで文章を読む癖のついたアホが増えると、話にならないからまともな人間はいなくなり、そのことを奴らは自分たちに都合よく「正しさが証明された」と判断するのだ。
敵味方で文章を判断する癖がつくのは何も頭が悪いからだけではない。
それは彼らが瞬間の発言と全人格を切り分けることができないことにある。
常に発言に全体重を預ける彼らにとって、一瞬一瞬の発言の批判は人生すべての批判となり、そのためなんとしてもその正しさを守り抜こうとする。
結果、全肯定以外のあらゆる返答を敵対行為とみなし、己の全人格をかけて反撃を試み、そのたびに泥沼へと沈んでいくのだ。
そうしてゆくゆくは完全に一つの思想に染まりきったコミュニティの中で批判されることのない発言だけを繰り返す存在となる。
当然そこに、まっとうな思考経路など残っているはずもなく、コミュニティにとって味方になる発言をし、それ以外のすべてを批判することしか考えていないゾンビとなる。
そんなゾンビに支配されているのが、ツイフェミや一部の腐女子界隈、エロ無罪のスケベオヤジに、5ちゃんや二次裏を始めとした完全に終わってしまったムラ社会なのである。
そうならないために必用なのは、発言の価値や是非の判断基準から「自分の味方か敵か」を完全に排除する他ない。
これは学習によって身につく不自然であり、自然にふるまえば思考力や理解力は少しずつポジショントークとエコーチェンバーの沼へと消えていく
世の中には、自己責任とそうでないことが両方あって
例えば、あなたが太っているって理由でパーティに呼ばれなかったとき、それは彼ら選ぶ自由か。それとも馬鹿にされているのか。パーティが職場の懇親会だったら答えはどう変わるか。
全然違うとおっしゃるけれど、線引きの論拠は書かれていなかったように思える。論破されて直ったのでなく段々と気持ちが傾いて変わっていった。…あなた自身にとっては良いことだったろうけど、
批判の理論が無ければ、暴走するツイフェミを止められないでしょう。明日も明後日も若き腐女子たちは次々とツイフェミに変わっていく…
コンプレックスをどう扱うかを自分と社会との合議で決めたのではないのだから、コンプレックスを抱くあなたをどう扱うかを決める周りの責任と、コンプレックスを持つあなた自身の責任は並行して独立に存在する。周りを・社会を批判すると同時に自分自身のあり方を省みることができる。両者は別々に存在するから矛盾ではない。「太ったら周りがどう扱うかを解った上で太った、だから自己責任だ」という意見がよくあるが誤りだ。双方はそれぞれの自由意志を持ち互いの責任は無関係だからだ。周りの酷い扱いを責めつつ、太っていることを自己批判できる。ふたつは両立する。
個人的には肥満を理由にパーティに誘わないなどやるべきではないし、そんな人間にならないようにといつも思っています。不合理で身勝手な偏見を元に人間を選別して誰かを傷つけるなら、私は社会としての責任を果たしていないということになる。
「バイデンが井戸に毒を入れた」という冗談が、一部の人には「朝鮮人に対する」差別煽動投稿に見えるらしい。驚いた。
これが「朝鮮人に対する」差別だと主張する模範的文書を、藤崎剛人がコラムとして公開している。(差別煽動投稿だと最初に断じた津田大介が、これが「朝鮮人に対する」差別煽動と述べているかどうかは確認していない。)
https://www.newsweekjapan.jp/fujisaki/2021/02/post-3_1.php]
「井戸に毒」というのは藤崎も指摘するとおり「1923年関東大震災での流言飛語を連想させる」フレーズとして選択されている。つまり、ここで連想されるのは、井戸に毒を入れる行為ではなく、「流言飛語」つまりデマという評価である。
「井戸に毒」から朝鮮人を連想できる人は、必ず、それがデマであることをセットで連想する。藤崎がそうであるように。
もし関東大震災時のデマを知らずに「井戸に毒を入れた」を真に受ける人間がいたならば、彼は毒を入れたのはバイデンだと考える他なく、「井戸に毒」が朝鮮人と結びつくことはない。(そして、バイデンは日本に居らずテロリストでも無いのだから、殆どは「井戸に毒」が嘘であることに気付くだろう。加えて、バイデン大統領なら、「バイデンが井戸に毒を入れた」と信じる狂人が居たとしても危険は及ばない。)
朝鮮人の連想は、デマによる虐殺というエピソードを前提にして初めてもたらされる。
もし朝鮮人を差別する意図があるならば、デマに踊らされたという愚かな過去を引き合いに出すことはあり得ない。
したがって、「バイデンが井戸に毒を入れた」という文字列は、流言飛語が朝鮮人虐殺を招いた歴史を想起させ悪質なデマに惑わされないための注意喚起を諧謔とともに表現したものと読むほか無い。朝鮮人に対する差別煽動と読む余地は無い。
ところが藤崎はなぜか、「バイデンが井戸に毒を入れた」という文字列から、流言飛語が朝鮮人虐殺を招いた歴史を想起し、悪質なデマに惑わされないための注意喚起をしようと考えたようだ。
藤崎は、「バイデンが井戸に毒を入れた」が「井戸に毒」をネタ化したものであるとした上で、次のように述べる。
我々は、我々の社会がかつて行ってしまった民族ジェノサイドに対してどのように向き合うのかについて改めて問われている。こうした状況のもとで、「井戸に毒」をネタとして消費してしまうことは、ジェノサイドという事象の軽視であり、それは論理必然的に差別扇動となるのだ。
しかし、ここでネタ化されているのは「井戸に毒」ではなく「「井戸に毒」というデマ」である。
ここで揶揄されているのは、荒唐無稽なデマに惑わされて愚かな行動に出たかつての日本人に他ならない。
おそ松さん3期18話を見て、思いの外キツい内容だったので、取り急ぎ1男と3男に関する感想を投げておく。あくまでも個人的な、考察とまでもいかない感想です。ネタバレあります。
1男おそ松→
ミソジニーを深めたんではないかな。今までのおそ松にとって、女性はセクハラやナンパの対象でしかなく、自分には決して振り向かない架空の生き物同様だった。だから、”女性”や”女体”という分かりやすい記号に対して、小学生のように無邪気に反応して騒げたのである。そんな異性にも感情があり、その異性が自分に好意を向けてくることがあることに初めて直面してさぞかし戸惑っただろう。さらに目の前の女性が、自我を持って異性としての自分を選ぶ可能性が生じた現実は彼にとっての未知との邂逅だっただろう。好意を抱いてくれている異性に異性として一対一で向き合うとはどういうことか、恋愛感情とはどういうものなのか、それらに自分で向き合おうとした矢先に、結局こっぴどく振られてしまった。やっと、自分の箱庭の外に存在する他者との関わりを持つ手がかりを見つけかけた矢先に。この一件からおそ松は余計に、女はどうせ結局自分を相手にはしない、女は何を考えているか分からない生き物だ、という価値観を強固にするだろう。また、性別関係なく、他人が自分に向ける感情が移ろいやすく身勝手で、必ずしも自分が相手に割いた感情のリソースと見合わない動きをする生き物であり、他人と関係構築するためには傷つきながらも対話をしていくしかないという、二十歳過ぎた大人なら誰しもが経験して気付いている事実に彼は気付いていないし、経験値もない。だからこそ深い痛手を負うし、余計家族内、兄弟内の絆に逃げ込むしかなくなるんではないかな(兄弟内、家族内にも他者同士としての人間関係が存在し、それらは時に厳しいものであるのはひとまず置いておこう)。なんか良いと思って好きになったけど一晩経てば気持ちが変わってしまった、にゃーちゃんの行動は至極ありふれたもので現実世界の人間達はそのように自分の都合の良い感情で他人を揺り動かす生き物であるが、おそ松には理解できないだろうなという話。
3男チョロ松→
チョロ松は推しを失った、という話になる。何年もかけて応援してきたアイドル。チョロ松はあくまでもクズなので下心が見え隠れしていたこともあるが、それでもライブに足繁く通い詰め、グッズを買い応援してきたのだ。オタクにとって。“推しを推す”ということは一種守られた箱庭での非常に内省的な活動であり、それが彼の変哲のないニート生活にとってどれだけ価値があることだったのか容易に想像がつく。その上で、チョロ松は一人のファンとしてアイドルを推すとはどういうことかを徹底的に突きつけられた。あれだけライブに通い詰め、接触イベントにも顔を出していたにも関わらず、顔も覚えてもらえていなかった。まあ、それも当たり前なのだが。アイドルはファンの顔を覚えない(アイドル個人としての信念に基づいてファンの顔を覚えるアイドルもいるでしょうが、覚える必要は全くはありません)。18話でにゃーちゃんに語りかけるチョロ松に、にゃーちゃんが言い放った台詞がこうだ、「急になんなんですか。にゃーちゃん……馴れ馴れしいなぁ。初対面なのに。」だ。そう初対面なのだ。他人も他人。チョロ松からしたら大好きな可愛い推しだろう。四六時中にゃーちゃんのことを考えていたと言っても過言ではない。でも当たり前の話だが、アイドル現場ではあくまでも”アイドル”と”ファン”という関係性だし、アイドル現場の外では完全な他人だ。冷静になってみると、初対面のニャーちゃんにタメ口で馴れ馴れしく話しかけるチョロ松もどうかしてますね。チョロ松がにゃーちゃんをアイドルとして推すことにどこまでの期待をしていたかは分からないが、自分が沢山お金を使って、たくさん現場に通ったそれらにかけられた想いは、当たり前ではあるが、ファンとしての領域を超えてにゃーちゃん自身に影響を及ぼすことはなかったのだ。アイドルとあわよくば……なんて考えていた、なんなら認知くらいされているだろうと考えていた傲慢なチョロ松への盛大な皮肉だろう。今までも、おそ松さんというアニメを通して、むつごが身勝手な幻想を女性に抱き、結果こてんぱんにその幻想を打ち砕かれるという構図が見られてきたが、今回のは5年ごしのしっぺ返しなんですかね。それをチョロ松に突きつけたトリガーとなったのが実の兄で、よりによってあのおそ松だったというのがあまりにも手厳しい。18話のエンディングがチョロ松バージョンで、「世の中色々あるけど、推しさえいればそれだけで良い!」と歌っていたのがなんともいえない皮肉だった。結局チョロ松は、アイドルを推していた自分自身の姿勢を省みることなく、クズがモテるという記憶を塗り替えるために旅に出るのだが、このことからチョロ松は成長しているとは言い難い。なぜならこの惨状が、自分がアイドルを推すことで現実から目を背け、あらぬ幻想を推しに都合よく押し付けた結果であることには気づいていないからである。ショックなのは分かる。自分が同じ立場でも立ち直れない痛手を負うだろう。ただあの時チョロ松がしなくてはならなかったのは、クズな長男が推しにモテたという記憶を抹消することではなく、あくまでも自省だったはずだ。解脱していたのは流石にオモロかったけど!!生きてくれよな......チョロ松。
今回の話、兄弟間の関係性までもを変化させるような出来事が起こったと思ったが、おそ松さんだから次週からはいつも通りにむつごは生活してゆくのだろうな。しかし結局のところは、兄弟は成長できてはいない。おそ松は、異性との関わり方、他者との関わり方の手がかりを決定的に失ったに過ぎないし、チョロ松に関しても自分の現実と折り合いを付けられないまま、推す対象を失っただけに過ぎない。3期18話、個人的にはあまりにも残酷な話だった。
まず我が物顔で街を闊歩して喧嘩売って回る老人とガイジがいなくならない限り優生思想を絶対悪として根絶するのは不可能
貧困からの僻みが彼らを見下す優生思想になるのならば福祉や補償の範疇でどうにかなるだろうが、奴らが勝手に外に出て自分の言動を省みることすら出来ず不特定多数の他人に喧嘩を売り続ける限り、本来淘汰されて然るべき存在である以上、社会から全否定されても誰も擁護できないだろう
同じ社会に属する同種族はことごとく庇護されて当然、と言うのはあくまで性善説的な発想であって、その存在や言動が自分以外の誰かを攻撃するものと想定されていない
コロニー内において、制御が不能かつ周りを攻撃するその姿はまさしくガン細胞、存在そのものが全体に悪影響を及ぼし死に至らしめる
今すぐ切除しろとは言わない
人権派を気取って庇護したいならすれば良いが、俺にはガン細胞を庇護する余裕も趣味もない
人間としての余裕をアピールしたいなら、お前の金で、お前の座敷牢で、お前のために、飼っておけ
自分の飼い犬が道にしたクソを片付けられない飼い主のように、自己満足を根拠に他人に許容や寛容を強制するのは、老人やガイジが良くやる喧嘩叩き売りと同罪だ
カテゴリ差別の発言は許し難いと思うけれど、それと同時に実害のない差別発言程度のことで心にダメージを受けるのはちょっと弱すぎるんじゃないか。
老人の差別発言とかネット上の魑魅魍魎の妄言とかそんなものに心を囚われる方がどうかしている。このくそったれの世界には羽生結弦のアンチや佳子さまのアンチだっているんだ。誰だって悪意に晒されている。それぞれの地獄の中でそれぞれが生きている。
差別主義者との戦いは正義の棒でブン殴ることで行わなければならないんです。気持ちはどうでもいい。傷付いた表明は要らない。そんなものを省みることができる人間は差別主義者にはならない。奴等は組織化された暴力で黙らせるしかないんです。
そこに優しさも思いやりもいらない。ただ本気で暴力に頼ればいい。人の価値観を変えるのは不可能なので、その人間にはもう暴力に屈してもらうしかない。目に見える前例があれば奴等は軟弱になる。そうして価値観の変革が起きるんです。
「これ以上負担をかけないでくれ。このままだと、父さんも母さんも過労死してしまう」
愚痴る相手もいないので、せめてこの場を借り発散させてほしい。
私の両親は学校の先生だった。常に多忙で、食事や看病など日々の世話は、祖父母にみてもらっていた。
冒頭の言葉を投げかけられたのは確か中学生の頃だ。父からの説教は珍しいことではなかったが、〈過労死〉のインパクトは強かった。
私は日頃から親に負担をかけないよう、手のかからない良い子でいるよう努めていたつもりだった。部活で悩んでいた時も、学校でいじめられた時も、愚痴だって全部我慢した。親に反抗するなんて以ての外だった。
その時の父はきっと大層イライラしていて、つい口走ってしまったのだろう。(母の名前も出たが、父が説教する時の主語は基本「父と母」である。母本人の意向を無視していることも多い)
それでも私は真面目に考えた。何か気に障ることをしてしまったのか?家の手伝いが足りなかった?成績が少し下がったから?外出の誘いを断ったから?そんなちいさな不満の積み重ねが父の負担になった?
私の存在そのものが負担なら、いっそ消えてしまったほうがいいのではないか?と、この頃から漠然と思うようになった。
ここでタイトルの話に入る。
父は授業や部活顧問のほか、生徒指導の担当として、非行に走る生徒や素行不良、不登校の子のサポートを行っていた。
そういう仕事なので熱血も何もないが、イメージが伝わりやすいと思い、少し大袈裟だが〈熱血教師〉という言葉を使わせてもらう。
父はよく生徒指導の話を私にしてくれた。
例えば、暴走族が学校に入ってきたと思ったら、かつて指導した子が笑顔で挨拶しにきたこと。
不登校生徒が夜になると、父とお喋りをしに職員室にやってくること。
大人になった元不良少年が、先生のおかげで更生できたと感謝の手紙をくれたこと。
そんなことをいつも誇らしげに語っていた。
家庭に問題があったり、居場所がなくて道を外した子供たちの親代わりになって導いた、教育者として立派な仕事だと私も褒めそやした。
が、胸の内は複雑だった。
実の子供である私は、手を煩わせないようにいつも良い子でいるのに。甘えたくても「今疲れてるから」で後回しにされるのに。私が父の帰りを待っている間も、彼は問題児たちの世話をしているのだ。
他所の子供の面倒を見るのが教師の仕事。それは理解している。家庭を優先的すると保護者からクレームがくる。だから仕方ない。学校行事に親が来ないことは当たり前だったが、それは気にならなかった。
でも、〈手のかかる子〉の話はどうしても耐えられなかった。
私の父親が、顔も知らない子供に取られてしまったようで、嫉妬のような恐怖のような感情を抱いた。父の仕事は立派だとは思う。けれど私の前ではその話はしないで欲しかった。
そんなに手のかかる子が好きなら、いっそ私も家出して消えてしまおうか。親はとても不安になり、血眼になって探してくれるだろうと、ふと魔が差したこともあったが、できなかった。
その後も良い子を続けた私はそれなりの大学に入学できたものの、今までストレスを堰き止めていたダムが決壊したことにより、現在は鬱の寛解と再発を繰り返しながら社会の底を這いつくばっている。
私はとうとう〈手のかかる子〉になり、両親の不安の種となってしまった。
こうして文章を書きながら自分の弱さを省みる。厳しくも根気よく育て上げてくれた家族に対し、本当に申し訳ない限りだ。
未だに実家に寄生を続ける私に、定年近くなった父はこう言った。
「我が子も満足に育てられなかった自分が、他の子供をちゃんと教育できているか、もう自信がない」
私は何も答えられなかった。
「女子をキモがらせる奴を懲らしめる」名目で男子は暴力を振るってきた。
正直こちらが反撃しても名分が立つ男子のストレートな暴力よりも
反撃することが許されない女子からの嫌がらせの方が辛かったし、
何より苦痛だったのは「女子から男子に」だったことでいじめが正当化されることだった。
実際先生に被害を訴えても、せいぜい男子の暴力行為や暴言が処罰された程度で
こちらがより深く傷つけられたのはむしろ女子からの流言飛語や言葉の暴力だったのに。
ひどく傷ついたけど、そのころは「女子を不快にさせるなら良くないよな」と無理やり自分を納得させるしかなかった。
元々女子と話すことなんてなかったけど、極力女子から距離を置くようになった。
女子を不快にさせず、また攻撃を受けないようにするにはそうするしかないと思った。
でも、それでもキモイ、キモいと悪口は絶えなかった。身に覚えのない悪評も流された。
そんな忌むべき性犯罪とも同列に並べられる。
何も悪いことなんてしていない、ただそこにいると言うだけでも。
どれだけ自己肯定感を傷つけられ、生きていくのに必要な自信を失ったか。
いつの間にか「人格が劣るから相応の扱いをしてやっている」ということにされていたのも傷ついた。
曰く、「キモいって言われてるのにキモいまま改善しないのは向上心がない、周りへの配慮がない」とか。
なんでお前らの好みに合わせないだけで嫌がらせされなきゃならなかったの、
って今だったら思えるけど、当時の俺は真に受けてしまって、
俺は性格が駄目なんだ、嫌われる人格なんだ、とすごく落ち込んだものだった。
イジメの原因だったろう脂漏性皮膚炎の薬を塗るのを見られたらキモいと笑われ盗まれた。
美容院に行ったり服を買い揃えてみたりしても、似合ってないとバカにされて。
街でクラスメートの男女グループに遭遇したら大声でバカにされたのは
自分が街に繰り出しちゃいけない存在みたいに思えて、ある意味学校でのいじめ以上に辛かったな。
目的のはずの買い物もしないまま、逃げるように家に帰ったあの気分は今でも思い出してしまう。
学校をやめて引きこもった。
電車内でやむなく隣り合ったとき、エレベーターで同乗したとき、
それでも精神科に通ううち、どうやら俺は何も悪くなくて、
自分は被害者だったのだとようやく、本当にようやく思えるようになった。
ただ、どうしても腑に落ちなかったのはなぜあの頃イジメが、
とりわけ女子の言動が咎められずあまつさえ正当化されていたのか。
(俺は当初信じられなかったが)性格の良い娘だと評判される女子もいた。
そんな人たちを平然と加害へと導くなにかがこの社会にあると考えて、
その正体が知りたくて色々調べるようになった。
そうしたら、なんとなくわかってしまった。
そんな「正しい」リベラルな概念は、もはや俺のような男の傍には存在してくれないのだと。
総じてリベラルを標榜する人たちには俺のような男はまったく視界に入っていない。
そんな彼女らに攻撃される男は悪に違いない、という決めつけが蔓延っていてそれを糾す様子もない。
要するに女性の持つ加害性について何も批判できないし省みることもない。
そして今の世の中はそんな人達によって価値観や規範を先導されている。
とりわけフェミニストと呼ばれる人たちは明確に俺の敵なのだろう。
彼女らはキモいという言葉で異性を傷つけることになんの躊躇もない。
(一部の悪質な男に対して使っているだけだなんて、俺の体験を通してみれば欺瞞でしかない)
そして女性の加害性というものに対する自省もまったくしない。あっても同性への加害に対するものばかり。
女性の社会的自立を謳うなら、女性の加害を批判し自己を律するように要求することは不可欠なはずで
実際に男性に対しては「有害な男らしさ」とやらを自省するよう求めているのに。
男性が女性から受けた被害体験を吐露すれば「男社会」という言葉を使って、
さも世の中の女性の持つ価値観には悪い部分はないかのように吹聴し、
「男社会」で起きたことだから女は何も省みなくて良いということだろうか。
現実の世の中は、男社会どころか女性が不在の場面のほうが珍しいんじゃないのか。
そして、残念なことに「自分より下」と見なした男性に加害的に振る舞う女性は相当多い。
そいうときは決まって、有無を言わさず「人格面がクズ」ということにされるのだ。
俺がなんとか鬱から抜け出して働くようになってから目の当たりにした社内イジメもそうだったし、
ネットで交流した、女性からイジメを受けた男性もほとんどがそうだった。
少なくとも、リベラルな人たちが考えている以上にこの手のケースはずっと多い。
そして周囲は彼女たちの味方をする。対象の男性がそのコミュニティを追放されるまで。
女性の加害が加害とみなされず放置され、女性は自らの加害性に無頓着であり続ける。
自分の加害を加害とも思えないなら、セクハラを繰り返す醜悪なジジイと同じ。
・・・と、そう思っていたが、最近になって納得するようになった。
女性の加害性も男性の被害も無視するのが「正しい」、そんな世の中なのだ。
なぜそんな順番が設けられているのか全くわからないが、
価値観のアップデートとやらの内容に「女性の男性に対する加害は許されない」が含まれることはないだろう。
男性が生きづらさを吐露すれば「男も辛いんだ論」などと揶揄される。
「男の辛さなんて大したことない」と断定しては世の中の言説を先導していく。
気に入らない男性に対して粗暴に振る舞い、傷つけるような言動を取り嘲笑し
それをネット上で誇示するような女性が「強い」と持て囃され共感を集める。
女性の価値観は絶対で、女性が不快と感じればその存在そのものが罪悪。
女性に承認されるか否かでその男性の人格面までジャッジできる。
俺をいじめていた女子も男子も、彼らは「正しかった」からロクに罰されなかった。
女子は不快な俺を存在自体が罪悪と見なし排斥対象のマークを付け、
生まれつき正しくないのだろう。
もう疲れてしまった。
俺はもう、女性が怖くて嫌で、人間らしく家族を営んだりはできない。
親も死に、何を生きがいにすれば良いのかわからない。
趣味もあったけど、それも女性からクレームを付けられるようなコンテンツを楽しむ「正しくない」趣味だった。
ずっと社会から排除されないよう女性を不快にさせないように近づかないようにと気をつけていたけど、
女性と世間話の一つもできないような男は社会に溶け込めるどころかどんどん社会から疎外されていった。
ただ、同じ人間として扱ってほしいというだけのことがどうしてこんなにも辛くなってしまうのだろう。
この世の中で生きていく自信がなくなってしまった。
(追記)
やはりというか、「性別関係ない」とか「女も男からいじめられる」とかそういう話になってしまうのか。
俺はあくまで「女性による男性への加害」の話をしているつもりだったのだが、
正直言って、この話を性別関係ないなんて言われても女性の加害性についての追求を
仮に男性からいじめを受けた女性が、男性の加害性の話をしているのに対して
「男性も女性からいじめられているがそれについてはどうなんだ?男女関係ないよ」なんて言われてたらどう思うか。
そういうのはどっちもどっち論だとかWhatAboutismなどと呼ばれて批判されてたはずなのだけど。
もうこういうダブルスタンダードにも、それが当然のようにリベラルな人達の間でまかり通っている状況に疲れ果ててしまった。
「お前は正義の対象外だ」とネットを覗くたび、テレビを見るたび日々突きつけられる気持ちは
リベラルとして正義を謳歌してる人たちにはわからないんだろう。
もう疲れた。楽になりたいよ。
1月に入ってから1週間以上が過ぎもう成人の日の連休中だが昨年自分が書いた増田の中で気になったものをまとめておきたい。
僕は他人に自分の話を聞いてもらいたくて増田を書くことが多い。
聞いてもらいたいといっても大層な主張ではなくてくだらない話が常だ。
しかしくだらない話題であっても小難しく単純明快とはいかなかったり重箱の隅をつつくような珍妙な話題だったりで、雑談の中に織り込むのは憚られるような自論や疑問である。
そういう特定の人間には面白いかもしれないが一般的な感覚ではつまらない話を増田に投下している。そして何らかの反応があることを期待している。
ブクマカやトラバ増田は玉石混淆だが、たまに自分では思いつかない気づきがあってそういうことは強く印象に残る。
そして傲慢といえばそうかもしれないが期待したものの全く箸にも棒にもかからないことも当然多い。
印象深い増田も惜しい気持ちがある増田も毎年溢れるほどあるが、読み返して募った気持ちを供養したいので、この場を借りて列挙し読み返して思ったことを書き連ねておく。
いわゆる腐女子長文にぶらさげたトラバ。当時はけっこうウケると思った。その気持ちが寒い。
"前田建設ファンタジー営業部という映画がオススメ "(https://anond.hatelabo.jp/20200213214854)という増田に下げたトラバ。
まごうことなきクソリプ。のちのち有名になるがあの豪邸の大部分はCGという事実を省みるとアイロニカルな気持ちになる。
いまでも何してんだって思うよ。
ものすごーく湾曲的に現在連載中の作品Mを揶揄してるんだけど、書いてあることが馬鹿すぎて誰にも相手にされなかった。
「筋トレで自己肯定感が上がる」とかいうの、結局自己満足じゃないですか。ある程度絞れた体見て主観で「オレスゴイ」って言ってるわけで、それができる奴はもともと自己肯定感高いはずなんですよね。
俺からすれば漫画のキャラになりきって周りにお構いなく生活してるのと変わらない気がする。自分がそうだと信じて憚らない人いるでしょ?右手に邪神が宿った奴とかヒーローとか魔法少女とか猫の化身とか…
そういう痛い奴、中二病、精神病者たちとどう違うんだってどうしても考えちゃう。
多分、自分のフィジカルを客観的に評価する視点があればトレーニングも尊敬できるんだと思う。明確な数値目標があったり試合とか大会とか結果が問われる環境に身を置いたり。
実際に俺はボディビルダーとかすげえなって思ってるし、オリンピックとかも存在意義はあると思うタイプ。
でも筋トレで精神面がー生活の質がーとか言い出す人ってだいたいはちょっとランニングしたりストレッチしたりって程度でしょ?個人でやる分にはいいけどそれをアピールしたり人に勧めたりされると鬱陶しい限りで、それでお前より人間が出来てるって調子でマウント取り始めたときなんてもう耐えられないね。
暇つぶしで体動かしてるって次元じゃなくて、意義のあって何らかを生み出すレベルに達してる筋トレって絶対何かが犠牲になってると思うんだよね。
それに費やした金銭や時間を別に回せばあり得た未来を惜しんだり、鍛えすぎて却って体に負荷がかかったり精神的に追い詰められたり。
そんなこと考えずお気楽にやってる程度なら、ラーメン味わったりゲームしてケタケタ笑ってんのと何が違うんだろう。
やってほしくないとかやるのはおかしいとか思わないけど所詮個人の趣味なんだから、正義面したり他人からの賛美や協調を無理強いしたりは辞めてほしい。だまって粛々とやっててほしい。
今のアイコンになってからちょっと苦手になったのって俺だけかな。
純粋にWikipedia見てて気になった。和泉元彌ってみんなにとってどういう人だったの?
あらすじ紹介系Youtuber
語り口調がなんかやらかしてるな。2か月くらいまえにネットニュースとかでこの話題ちょっとバズってて、やっぱりみんなそう思ってたんだってちょっとホッとした。
言いたいことが元増田の内容と少しずれてたり、ブクマカ受けを意識して変に煽り口調や極端な断言をしたせいでやや支離滅裂になってしまった。
要は「カラオケの精密採点で競い合うバラエティ番組みたいな評価軸が海外の文化にはなくて、それよりもアドリブで尺を埋めたり即座にハモったりする様な表現力が評価される」
「これがオリジナリティでもあるけどJ-popはコード進行に対する拘りが強すぎて曲に拡張性がない。今は二次創作的なリミックスでヒットを広げる時代で、その都合上全世界的にポップスがアレンジしやすいループミュージック主体に変わってきてて日本もいずれそういう流れになるかも」
「『メロディを考えること=作曲』『メロディを考えてからアレンジャーが細部を考える』という認識が変わってきてて、ビート(バックトラック)ありきでメロディを考えるというヒップホップのやり方で他ジャンルの歌ものも制作されるようになってきてる」
ってことが書きたかった。
反対にお洒落のつもりでMegan thee stallionの下ネタな曲流してる服屋とか見かけるとちょっと笑っちゃう。
Megan thee stallionはヒロアカのミルコっぽくて好き。
無駄に長いし書くのが遅い。
吹き替え版TENET観たいなー。
これも煽ってやらかしてるやつ。なんとなくあの時ノイタミナと幾原作品についてちょっと書きたくなったんだと思う。
当たり前だが三文ゴシップ誌に書いてあるような、作風がどうだとかそんなんで企画が通ったり製作に関わったりが決まるほどテレビ局の事情は単純な話ではない。
はてなの、それも増田でジャニーズアイドルの話をしてもせせら笑われるのがいいほうで、「カイト」にしても増田では米津玄師に幻滅したというファンのエモい心情が何回か吐露されただけだった。
俺は「カイト」という曲が好きで、それはオリンピックやアイドルの活動休止といった一市民の生活に直接は関係のないことを意識的に取り扱いながらも、あらゆる人にとって共感できる曲として昇華されているからだ。
そしてあの「パプリカ」と通底するポイントがありこの二曲を同一世界だと捉えることでイマジネーションが広がる壮大なストーリーに一人感動した。