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はてなキーワード: 相関性とは

2019-10-23

anond:20180531231900

かなり昔の投稿ですが、あまりにも馬鹿らしいので一部反論しておきます

あなたこそ偏差値35なのではないでしょうか?

>○もし大学入学時点で学力が低くても、教員採用試験合格しているか大丈夫

>A. 何を言っているのか。

当然であるが、教員採用試験スタートでありゴールではない。

採用後に何を積み重ねていくかが重要であり、教師たるもの日々勉強だ。

単に教師の心構えを述べているだけで、「教員採用試験教員の質を保証する」主張への反論になっていません。

反論するなら「偏差値教師能力保証するが、教員採用試験教師能力保証しない」主張をする必要があります

教員採用試験は決して教師能力保証しないのは、

日報道される教師の起こす不祥事からもわかるだろう。

勉強が苦手な偏差値35は、この点で大きなハンデを負う。

不祥事学力にはどのような相関性があるのでしょうか?

教員採用試験あくま学力を計る試験なので、教員採用試験教師能力保証しないのであれば偏差値教師能力保証しない、と考えられますいかがでしょうか?

2019-10-16

anond:20191016022101

結局は信仰なんだろうな。「架空女の子空想上の存在現実女性とは一切関係ありません」みたいな。フィクションと謳っていれば現実との相関性が断たれたものとしていいと思っている。

2019-09-07

行動主義心理学10分で理解する

はじめに

行動主義はJ.B.Watsonが最初提唱した心理学哲学だ。この哲学は、現代では下火のように見なされてたり、あるいは棄却すべき対立仮説のように扱われることが多い。

しかし、実際には認知心理学者、あるいは認知科学者が槍玉にあげる行動主義は、誤解に基づくものか、そうでなくても「その行動主義自称している行動主義者は現代はいないよ」と言わざるをえないような藁人形論法であることが少なくない。

そこで、行動主義誕生から現代的な展開までの歴史について、ごくごく簡単にまとめてみようと思う。

Watson の行動主義

行動主義は、Watson が 1913 年に提唱した。

Watson の基本的な主張は、ご存知の通り「心理学対象客観的に観察可能な行動に限る」というものだ。

当時の心理学は Wundt の提唱した「内観法」を用いて人間の持つ「観念連合」を記述する、というものであった (余談だが、内観法は単なる主観報告ではない。これもよくある誤解である。Wundt の提案した心理学は、繰り返しの刺激に対し、同じように報告するよう徹底的に訓練することにより、人間の持つ感覚の組み合わせについて首尾一貫とした反応を得ようという研究方針である)。

Watson が反対したのは、Wundt の方法である人間自己報告」を科学データとすることである。それに代わって、刺激と反応という共に客観的に観察可能事象関係研究対象とすべきであると主張した。Watson は Pavlov の条件反射概念を用いれば刺激–反応の連関を分析可能であるし、人間の持つ複雑で知的な行動も刺激–反応の連鎖に分解できると考えた。

また、情動や愛のような内的出来事は、身体の抹消 (内臓筋肉) の微細運動から考察された。Watson の心理学が「筋肉ピクピク心理学」と揶揄される所以であるが、現代身体性を重視する心理学認知科学を考えると、(そのまま受け入れることはできないにせよ) あながちバカにできない部分もあるような気がする。

さて、認知心理学者、認知科学者が批判するのは多くの場合 Watson の行動主義である場合によっては、次に登場する Skinner と Watson を混同して批判する。

注意しなければいけないのは、Watson の行動主義立場を取っている行動主義者は、この地球上にはもはや存在しないという点である。従って、Watson 批判歴史的な批判以上の何物でもなく、現代科学議論ではない。

では、行動主義を自認する現代研究者が寄って立つ立脚点は何なのか? その鍵になるのが、Skinner の徹底的行動主義である

Skinner の徹底的行動主義

Skinnerは、Pavlov の条件反射を「レスポンデント条件づけ (いわゆる古典的条件づけ)」、Thorndike の試行錯誤学習を「オペラント条件づけ」として区別し、概念、および実験上の手続きを整備した。そのためあってか、Skinner は20世紀で最も影響力のある心理学者 1 位の座についている。

Skinner は、科学目的を「予測 (prediction)」と「制御 (control)」とした。ここでは説明しないが、そのためにの強力な武器として概念としては「随伴性 (contingency)」、方法論として「単一事例研究」などを導入した。 彼の心理学は他の心理学とは大きく異なる用語法、研究方法を持つため、「行動分析学」と呼ばれる。

徹底的行動主義では、Watson が扱ったような客観的に観察可能な「公的事象」に対し、「私的事象 (ようは「意識」のこと)」もまた、同様の行動原理によって説明できると主張した。つまり、内的出来事も「行動」として捉えられる、ということだ。文字通り「徹底的」に行動主義なのである。実際に、Skinner の著書の中には「知覚」「感じること」「思考すること」といった、内的な事象についての考察も多く、それらは行動分析学重要対象であるとはっきりと述べている。

逆に Skinner が反対したのは、「心理主義的な説明である。心的な活動実在するし、それ自体研究対象ではあるが、「心的な活動によって行動が駆動される」という因果的な心理主義に対しては、Skinner は反対であった。つまり、「原因としての心的概念」の導入に反対したのだ。この点を間違えると、Skinner を完全に誤解してしまう。

ただし個人見解としては、行動分析学ほとんど顕在的な行動以外実際には扱っていないし、扱うための具体的な方法論を発展させてもいない。そこに関しては批判を免れないとは思う。

行動分析学の他に重要な特徴として以下の 3 つが挙げられる。

(1) 「反応」を運動パターンとして定義するのではなく、「どんな結果事象を引き起こすのか」から定義する機能主義
(2) 人間の営みを超えた真理探究ではなく、行動の予測制御という現実的有効性の上昇を目指すプラグマティズム
(3) 仮説構成体・仮説群から研究演繹するのではなく、実験結果から法則抽出する帰納主義

なお、帰納主義については「え?でも科学って演繹帰納の両輪で回ってるんじゃないの?」と考える人いるかもしれない。

Skinner は「行動について我々は知っているようでまるで知らない。そのような若い科学にはまず、具体的なデータ必要なのだ」と考えた。そのため、Skinner は環境 (刺激) と反応の間の関数関係データの蓄積を重視した。

まりあくまで当時の知的状況を鑑みての方針だったということは重要な点だ。

ちなみに、Skinner は自身の徹底的行動主義区別するため、Watson の行動主義を「方法論的行動主義 (methodological behaviorism)」と呼んでいる。

また、次に述べる Skinner の同時代の行動主義も、同様に方法論的行動主義とまとめられることが多い。

Skinner と同時代の行動主義 (新行動主義)

Watson のアイデアを発展的に継承したのは Skinner だけではない。

ただし、Skinner 以外の新行動主義に与している研究者は、現代には皆無なので、あくま歴史的な展開として捉えるべきである

Guthrie

Guthrie は刺激と反応の間にできる連合は「時間的接近」によって生じることを述べた。また、Hull や Tolman と異なり、心理学研究対象客観的に観察できる行動に限定すべきであるという姿勢は堅持した。

Hull

Skinner と大きく異なる点として、Hull は「仮説構成体による演繹」を重視した。「習慣強度」という潜在変数を導入したモデルを考案し、その潜在変数挙動の変化により行動の予測に挑戦した。

Hull の研究問題点は、いたずらに潜在変数いくらでも増やせてしまい、理論肥大化する危険はらんでいるためである特に Hull や Skinner の時代は、行動に関するデータがまだまだ少なく、行動研究には強固な地盤がなかったのである。Skinner は「理論必要か?」という論文理論研究批判していているのだが、Skinner が批判たかったのは Hull の心理学だったのである

Tolman

Tolman は刺激と反応の間に「仲介変数」を導入した心理学者だ。いわゆる S-O-R の枠組みである。彼は「潜在学習」の研究によって、「学習」と「成績」は必ずしも一致しないことを見出した。そのことから、刺激と反応の間には、それを仲介する隠れた変数がある、と考えた。

Tolman からすると、「感情」「期待」といった内的な出来事も、刺激と反応の間に存在する仲介変数である

現代視点で見ると、認知心理学下地になるアイデアを提出したのが Tolmanだ。

ところで、Tolmanと地続きである認知心理学もまた、徹底的行動主義立場からすると方法論的行動主義立脚した心理学である。そう、私たち現代心理学徒のほとんどは、意識せずとも方法論的行動主義なのだ

なぜか?認知心理学でも、公的事象と内的事象を分ける。内的事象には直接アクセスできないので、公的事象の「操作」と計測を通じて内的事象研究をする。公的事象操作 (実験条件) を通じて、内的事象定義を行う。これは、Stevens-Boringの「操作主義」と呼ばれる。操作主義では、操作と計測の対象公的事象であり、内的事象については「研究者間での合意」に基づいて議論される。つまり、例えば「この条件によって反応時間に変化があったら、作業記憶に影響があったということにしようね」というのが、研究集団によって暗に共有されている、ということだ。これが、認知心理学が「方法論的行動主義」と呼ばれる所以である

Skinner 以降の展開

1980年代以降、Skinner の弟子筋の研究者たちの間で、Skinner 以降の行動主義を巡って、研究方針多様化しつつある。その中でも最も影響力のある 3 つについて、簡単に紹介したい。

Heyes の機能文脈主義

Skinner の行動分析学プラグマティック科学であると言われているが、実は Skinner 自身は表立ってプラグマティズムに述べていたわけではない。例えば、近い時代を生きたパースジェームズデューイを直接引用して主張を行なっていたわけではない。一方、Heyes の機能文脈主義の特徴は、Skinner の徹底的行動主義の持つプラグマティズムをより明示的に推し進めた点にある。

Skinner は心的概念を導入することを否定した。私的出来事 (内的過程) は外的な行動の原因ではなく、それ自体独立した行動として捉えるべきだと考えたためだ。また、心的概念による説明は、行動分析学目的である予測制御寄与しないと考えたことも一因である

Heyes の場合、そのような概念でも、予測と変容 (influence) に寄与する場合は、十分に有用であると考える。

具体的には、「態度」を測る質問研究が好例だ。質問紙で測る「態度」は Skinner であれば「質問紙に回答行動」として見なされる。しかし、Heyes の場合「そのような研究問題点は、測ったところで、実際の行動を変容させるための操作変数が同定できないことだが、最終的に行動の予測と変容を目指すという目的がぶれない限り、足がかりとしては有用である」と主張する。

このような、伝統的な行動主義比較してある意味で軟化した態度を、Heyes は「行動主義心理学自由主義化」であると述べている。

少し脇道に逸れるが、Heyes は行動の「制御 (control)」とは言わず、「変容 (influence)」と表現する。これは、「制御」だと決定論的に操作できる印象を受けるが、実際の行動には確率的な変動性が必ずついてまわるため、表現を柔らかくする意図である

また、機能文脈主義では、研究の真偽の真理基準にも明示的にプラグマティズムを導入している。

行動主義科学には必ず目的がある (多くの場合、それは現実問題解決と結びついているが、そうでないものもある)。Heyes の標榜するプラグマティズムは、目的にかなうかどうかが、研究の真偽を決める、ということだ。

これは、「うまくいけばなんでもok」という主観主義ではない。問題解決としての科学として、発見というよりは創造プロセスで知見が生まれるということだ。ただし、解決されるべき「目的」の方はどうしても恣意的にはなってしまう、と Heyes は述べている。

Baum、Rachlin の巨視的行動主義

巨視的行動主義の特徴は以下の 2 つにまとめられる。

(1) 分析単位として「随伴性」ではなく「相関性 (correlation)」

Skinner はレスポンデント条件づけは刺激−反応という 2 項随伴性、オペラント条件づけは刺激–反応–刺激という 3 項随伴性によって定式化し、随伴性こそが考察されるべき基本単位であると考えた。

巨視的行動主義は、そうは考えず、よりマクロな「強化子–反応率」の相関性行動主義心理学分析単位であると主張している。

まりミクロな刺激と反応の関係を捉えるよりも、マクロ環境と行動の関係を捉えることを重視しているのが、巨視的行動主義である

行動主義心理学目的予測制御に置くならば、結局はマクロ記述で十分であり、その方が有用であるというのが彼らの主張だ。

(2) 内的出来事の導入の拒否

Skinner は外的な行動とは別に内的な出来事もまた行動として捉えられると考えた。巨視的行動主義ではそうは考えない。

彼らは、内的な出来事を「潜在的な行動 (covert behavior)」と呼んでいるが、心理学はそれを直接対象とする必要がないと論じている。なぜなら、潜在的な行動が実際に効力を持つならば、最終的には顕在的な行動 (overt behavior) として表出されるためである

このことを彼らは「時間スケールを長くとる (temporally extended)」と表現している。瞬間瞬間に我々には豊かな精神活動 (mental life) があるが、それを相手取らなくても、長い時間観察すれば、観察可能な行動として現れる、ということである

Staddon の理論的行動主義

Staddon の主張は、他の行動主義と大きく異なる。彼の場合は、心的概念の導入を許容する。そして、それを用いた「理論」こそが心理学必要であると考えた。その点は、実験結果から法則抽出する帰納を重視した Skinner の立場とは異なる。また、「心的概念による説明」は Skinner の反対した「原因としての内的過程」でもあり、それを採用する点も Staddon の特徴である

行動主義心理学目的は、予測制御だけではなく「説明」にもあると彼は主張した。Staddon の言う「説明」とは、概念同士の関係によって、現象記述することである。わかる人にとっては、David Marr の「アルゴリズム表現」の位置心理学位置づけている、と考えればすっきり理解できるように思う。

Staddon はやや言葉遣いが独特で、概念連関による記述を「メカニズム」と呼んでいる。そのメカニズムは必ずしも生理学的基盤を前提しないで、あくま心理学レベルでの記述である

ようは、行動のアルゴリズム的な理解なのであるが、事実 Staddon は「私の言うメカニズムとは、アルゴリズムのことである」とも述べている。

Skinner は反応率 (時間あたりの反応数) を分析の基本単位としたが、Staddon はより多元的である。ただし、なにを分析単位とするかは、それ自体研究立脚点を示しているものである。それを Staddon は「The model is the behavior」という言葉表現している。

それでは認知心理学となにが違うのか?と思われるかもしれない。Staddon いわく、行動主義心理学伝統的に堅持してきた「強化履歴」は理論的行動主義でも重要であるというのが大きな違いらしい。つまり、行動や内的状態は、それまでの環境との相互作用に基づいている歴史性を有しているとういうのだ。当たり前といえば当たり前なのだが、その点を強調するか否かである

また、Staddon は「動的過程 (dynamics)」を重視した点も特徴である。他の行動主義は、基本的には刻一刻と変化するような過程というよりは、安定した反応の推移を対象としてきた。ややテクニカル議論ではあるが、現代では複雑な時系列データを扱う方法もたくさん用意されているので、動的な過程を取り上げるのは科学として自然な展開であると思う。

一方、認知心理学では「コンピュータアナロジー」のように、入力–出力関係を固定して考えることが多い。動的に内的状態は推移していることを重視した点も、Staddon の理論的行動主義認知心理学を分ける特徴の 1 つであるしかし、個人的にはこの差異は徐々に埋まっていくのではないかという期待もある。

おわりに

以上、行動主義 100 年の歴史簡単に振り返ってみた。

色々なアイデアはあるものの、基本的現在「行動主義」を標榜している人がいれば、Skinner の徹底的行動主義である。Watson、Hull、Guthrie、Tolman に依拠している者はいない。従って、歴史批判ではなく、科学議論として行動主義批判したければ、Skinner を相手にするべきである

行動主義はとにかく誤解されがちである。それは行動主義心理学者サイドにも問題があるにはあるのだが、科学において、無理解責任基本的には不勉強側に帰せられるべきだろう。

個人的には、アンチ信者より詳しくあってほしい。認知心理学者も、自分たちが寄って立つフレームワーク出自はどこにあって、なにに対するアンチテーゼだったのかをきちんと理解してみたら、何か発見があるかもしれない。

2019-09-05

タピオカブーム嫌韓ムードには相関性がある!!

とくにデータはないけど今思いついたんだよね

2019-08-04

anond:20190804180243

結婚に関しては年収学歴相関性あるだろうね

年収に関しては学歴結婚相関性はないんじゃないか憶測だけど

学歴に関しても年収結婚相関性はないんじゃないか憶測だけど

2019-07-19

anond:20190719041641

野郎ものドライビング性的マスターベーション性がある限り無くならんだろうな…。

運転の上手さとセックスの上手さの相関性はよく言う話。

2019-06-19

anond:20190619072744

お前は「義理人情と同情」じゃなく「お金」が欲しいんだろ

義理人情、同情とお金との相関性が全く無いわけだが

お前の考えは「誠意を見せろ=黙って金をよこせ」って輩のメンタル

2019-05-28

本来関係ないはずの因果関係

私の周りだけなのかもしれないが、本来全く関係ないはずの能力相関性を持たせて人を評価しようとする人って多いと思う。

何言っているのか自分でもわかりにくいと思うので、例を挙げる。

1, この子はあまり勉強が得意ではないが、そのぶん人の気持ちがわかる優しい子なんだろうな

2, 勉強は得意だが、そのぶん頭でっかち物事を考えがちでどんくさいんだろうな

のように、勉強社会的知性を結び付けて考えたりする人が多い。

特に子供に対して。

私が大人になってもいまひとつ家族(両親と祖父母)を好きになれないのは、そんなレッテルを貼られて育ったからなのかなと思う。

私には弟がいる。自分で言うのもアレだが、私は頭脳明晰なガキで、弟は全くと言っていいほど勉強が苦手だった。

例に挙げたように私は、ちょっと大袈裟だが、物心いたこから"真面目なコミュ障"というように両親に扱われてきた。

対して弟は"勉強はできないがそのぶん上手く立ち回れる"というような評価を受けていたと思う。

「そんなのお前の被害妄想だろ」とか「マジで内気だったんじゃねえの」って声が聞こえてくるね、そうかもしれないけれど。

勉強ができるってことは何か欠けてるって思われ、逆に勉強ができないと人たらしになれると、私の両親は本当に思っていたと思う。

そういう環境で育ったから、私は両親に対して交友関係学校での出来事などをほとんど話したことがない。

私にとって両親は「陰キャレッテルを貼ってくる人たち」だった。そういう人たちに自分の交友関係の頑張りを発表するってのが無理だった。

学校出来事なんかを話したりしないことが余計に「頭がいいだけのコミュ障クソガキ」に拍車をかけているとは思う。

ただ、両親の気持ちも分からないではない。

兄弟なんだから、良いところがあって悪いところがあって・・・宇宙兄弟的に言うと「グーみたいなやつがいてチョキみたいなやつがい・・・」って思いたかったんだろうな。

どっちかが優れているって思いたくなくて、異常に物覚えの悪い弟を肯定するために俺のことをコミュ障陰キャとして扱いたかったんやろうな。

なんでいつまでも俺にだけ「ちゃんと〇〇さんにあいさつした!?」って聞いたんや?

そんなに引っ込み思案で内気なガキに見えたんか?脳裏にこびりついて離れない。

から弟がネットゲームにはまって半引きこもりみたいになって辛うじて入学できた大学中退したことを知った時、なぜか救われた気がしたよ。

ほらな、関係ないだろ。頭は悪いけれど人なつっこくて人に囲まれて助けてもらって生きていけるはずだった弟は今どうなってるん?

俺は大学でも成績優秀、ボランティアサークル代表取材も受けたし、彼女もいるし、2人の親友と50人くらいの友達と200人の顔見知りもできたし、大学院では研究会奨励賞もらったよ。

ただ、それでも俺はいつまでも「がり勉コミュ障陰キャ」なんだろうな。

俺の心はずいぶん昔から実家に無かったよ。

大学入学して一人暮らしをしてから、だいぶ心が軽くなった。

比較自由に育てられたし、大学学費生活費ありがとうやけど、脳裏にこびりついて取れへんのやわ。

2019-04-18

anond:20190418153423

増田は「EASTEND×YURI現象」を知らないのかな?

世の中にはモノの良し悪し以外にも売り上げを左右する要素が山のようにあるんだよ。

前作が売れてたとかそういう糞みたいな理由でね。

ほら、今映画公開されている「名探偵コナン 紺青の拳」もそうだろう?

面白さと売れていることに相関性はないんだよ。そう設計されてるんだ。角度とかが。

2019-04-07

田舎は車が必須と言うけれど

車が必須であることと手取りに何の相関性もなくて、結果として車を持つとその分可処分所得が減るだけだからますます貧乏になるだけなのマジでアカンな

2019-03-10

怒る時とかに感情的になられるのが嫌って

嫌になって反省出来ないとか逆に同じレベル以上に感情的じゃん

聞く度???ってなるんだけど

しか中高生とかならまだしも普通に仕事してる同じ年齢くらいの人が若い世代代表みたいにしてそういうの言ってて本当に凄い嫌なんだけど

もし自分に原因があって相手が怒ってる状態理性的でいるより感情的になる事が問題解決の妨げであるとか問題解決を優先すべきだって言うのなら、原因である自分こそ理性的であるべきで相手感情的になってようと関係ないし、というか相手の怒りはむしろ進んで思考材料とすべきだし、原因から筋道辿って自分に何かしら不備があったのなら自戒として改めたりそれを口にするなり何なりすればいいだけの話じゃん

そこでうるさく言われて嫌な気分になったら反省とか出来ないでしょ、ってなるのは自分こそ超感情優先で動いてるじゃんって思う

だって怒られてる内容/論理じゃなくてその声の大きさや怒られてるって事実自体が嫌なわけでしょ

理性では少なくとも何か自分が悪いって事は分かってんのに感情面でそれを否としてるって事なんだから感情的じゃん理性とは真逆じゃん

声荒げないのが理性的勘違いしてんのかなって思う

自分がやった事への責任やその代償、自分が変わらない事での自分や周囲への影響より感情面優先させて意思決定すんのは普通に感情的人間だよ

しか反省出来ない、って表現ってそういう自分の行動が原因になってこれから起き得る、今起こったのと同じような問題の影響の責任までその相手にあるってそういう言い方なんだよね

あんたがそうやってこっちの気分悪くさせて反省出来なくしたからまた同じ事起きるかもねってそういうの

相手感情相手が周囲へ配慮する、影響考えるその気持ち人質に取った一種の脅しだよね

そういうのをそこまで自己分析言語化も何もしないまま自覚ないまま口にしてる

ていうかそもそも問題解決のための理性的論理問題によって影響が及んだ側の感情対象人間であるなら引き離すべきものじゃないし、引き離したって大方何の解決にもならないって散々言われてる事だし

実際相手感情的な面を新たに問題の原因だと定義して自身への影響面で同じ事を繰り返さないようにだとか反省するために一定状態以上の気分の維持が必要なのにって主張してるわけでしょ

感情面の尊重を求めてる時点で問題解決過程感情的であるべきでない、って主張は矛盾するよね

その定義の仕方自体、元を辿れば自分が原因であるって部分を無視してて相手感情的になるのは自身が原因だとしても嫌だけど自分相手感情的になるのは別にいいっていう超自己中心的自分勝手な話だけど

たぶんそれが問題解決における近道だと思ってるから正答だと思ってて、だから矛盾自分勝手さも関係無いって思ってるんだと思うけど

結局その近道って問題の発生から解決における道筋においての近道で、間にある自身が原因になった事での影響とそれを訴える側から意見への受容って部分を勝手にすっ飛ばしてて、影響あった側が飛ばすのは分かるけど原因作った側がそれいらないよねホラ近道じゃんって言う傲慢さのやばさたるやって感じだよね

問題起こした人間が怒ってる相手に対して感情の出し方もその範囲問題解決方法もこっちで決める、こっちが機嫌損ねるような事言ったら反省なんてしないってそう言ってんだもんやっばいよ

原因に向けた怒りや悲しみの発露って言うなれば相手への訴え、手段としてのその責任への代償を求めるに至った事への倫理的説得性の補強行為なわけで、それがあったら反省できないとか言うの逆に笑っちゃう

感情的になる事が逆に説得力を欠く事になるって意見は分かるし、実際解決方法として用いる分の手段のはずの感情をぶつけるそれ自体目的なっちゃってる人もいて、そこの部分に辟易するのも理解できるんだけどでもそれはあくま論理に対する説得性に関しての部分で、その原因が引き起こし感情に関して自体とそこへの責任否定するものではないんだよね

正論だどうこう言ってる人はそこを同じ感情って部分で混同してると思う

ていうか何で混同できるんだろう違和感無いのかな

教育の場だと感情に対する責任教師相手のものからは問われない事が多いからその意識をそのまま社会出てまで当て嵌めちゃってるとかなのかな

学校なら授業料払って学ぶ権利を得ていて法的にもまだ人として未熟だとされてる以上、学校側もあるところでそれを職務としてそこで問題解決する場合に原因となった人間への対応として説得性の部分や当人理解反省が優先される方法を取って行くべきって主張はある意味正解ではあるとは思うけど

それが特異な環境である事を理解しないままそういう関係感を社会に出てまで引き摺ってるのだとしたら勘違いも甚だしいなって思う

学校でも生徒間の問題感情面の責任についてむしろ言及される傾向にあると思うけど基本的にそこで怒られる状況があるなら第三者である教師にって場合ほとんどだからそこを分けて別のもの認識してて自分問題を起こして影響を及ぼした相手当事者意識を持って感情面の責任も含ませ自分を責めるって状況自体理解できてないのかもしれない

実際どうかは知らないけど

普通に考えれば解ると思うんだよね

問題があってその原因が自分にあるならそこにはその責任と代償が伴うっていうのは当たり前だし

その原因に対する責任においての再発防止策のひとつ安易だけど自省するって事でしょ

自分がやった事で相手が怒っててその相関性常識的ならそこで引き起こされた相手感情面の問題にも少なから責任は発生するっていうのも普通の事だし

その責任の代償として露にした感情を受ける事を相手側がこちらに求める権利は当然あるし責任に対して受け入れる義務もあるって主張も理解できるじゃん

その原因作ってそういう状況にしたのは自分で、そのせいで相手に発生した権利を認めないって意味わかんないし

別にその権利行使された結果そこでうるせえわって思うのも大袈裟なんだよって思うのも自由だけど少なくとも感情を出す事を相手が代償としたんならその選択の自由を原因作った側が制限する、制限出来る権利があるって思ってるのはほんと頭おかしいなって思う

説得力を欠くって問題がもしあったとして、それは問題を追求する過程でのやり方の話で問題の影響に対する責任への代償とは別の話なわけだし

そもそも問題の原因とされる事が不服でありその説得性という面で納得が出来ないので責任も無く代償も必要ないって言うなら解るけど、反省すべき事だと自覚がある上で問題解決方法が気にいらないか責任は取らない、それは責任に対して代償を求められたからって意味わかんないんだよね

その状況で相手感情的になってる理由理解せずそれ自体非難するのって責任放棄、もしくは責任を認めない、理解してないって表明だし、それじゃ反省する気なんて起きないっていうのは同じく責任を認めない、理解してない、その上それ自体責任まで相手押し付けものって話なわけでしょ

自分が何言ってるかも解ってないのかなって思う

感情的になる事自体否定的だ自分感情なんだから原因が別にあっても自分コントロールすべきってスタンスならそれはそれで理解も出来るけど、でもそれならやっぱり相手が怒ってる事で自分が気分悪くなった責任自分で追わなきゃ矛盾するじゃん

ていうか問題解決の折に感情的な面を材料として捉えないのは逆に理性的にと言いつつ感情的主観的に忌む対象排除しているというだけで全然理性的でも何でもないんだからそういうのは中学高校生ぐらいまでにしといて欲しいって思う

そういう事言う人ってたぶん凄い主観的共感性低めだから分かんない部分があるのかもしれないけど立場変えて一度どういうもんか想像してみればいいのになって思う

クッソ嫌いな奴のやった事のせいで自分や大好きな人や大好きなキャラが怒ったり泣いたりしててその原因作った本人が何でそんな感情的になんの?声でかいし気分悪いし反省する気もなくなるわって言ってる姿思い浮かべてもその通りだなって思うのかな

映画とかでそんな場面あったら普通にヘイト集めるためのシーンだなって感じだけど

その人が言う通り反省して貰うために気分を損ねちゃいけないから怒るとか泣いて責めるなんてそういう自分達の気持ち二の次にして気を使ってあげないとって思うの?

反省できずに同じ事が起こったらそれは自分達が悪いなって?

泣いてる子に対してこの人の気分を害したお前のせいになるよって?

だったらそれは逆にもういっそ凄いねって思う

自分やらかし場合相手感情的になる選択権利勝手にどうこうする根拠には全くならないけど

結局自分が原因にも関わらず相手感情的な訴えより自分の気分を優先するっていうのはただ自分相手の事なんて、相手自分の行動でどうショックを受けたか、傷付いたかなんてどうでもいいってだけで、諭してくれないと、なんてそもそも何かやらかしたのは分かるけど何が問題理解してない、どう思ったかは言っていいけど感情的表現するのはやめてくれ、でも自分は嫌だと思って気分悪くしたら態度に表れるし反省できないよ、なぜなら感情的表現するからってそういう話でしかないと思う

やっぱりただ自己中なだけだよ

自己なのは自由だし自分人生だし自分人間関係からどうでもいいと思うならそれでいいけど

怒る声苦手だしそういう性格から悪いの分かってても怒られると良い方には行かないんだよって言うならそういう人もいるからって思うし否定しないけど(それでも責任に対する代償は負えよって思うけど)、その良い方に行かない原因が自分性格じゃなく相手人間性にあるって思うのはやばいしその歳でそこを理解できてないのもやばいなって思う

自分が言ってる事もやってる事も普通な事でむしろおかしいのは相手だって思ってる感じが

20年近く生きてて自分の事何にも解ってないじゃんって思う

解ってないのは仕方ないけど解ってない事ぐらい自覚しなよって思う

自分自分が何でそう思うか解ってないのに相手問題あるって根拠なく疑いないのってすごい人としてやばいじゃん

相手によって、立場によって変わるような自分の偏った極々感情的問題正論理性的だみたいに思い込むのはやめた方がいいと思う

ていうかそれをその年代常識みたいな顔して言うのをやめて欲しい

全然理性とは真逆の反応だし超主観的自分勝手傲慢正論でもないし矛盾しまくってて馬鹿みたいだから

ほんとに

2019-03-01

anond:20190227222221

半分わかる。治るか治らないかで言えば治るんだろうし、治るか治らないかで言えば治すために医者も動いているんだけど、そして治ることと健康であることの相関性はとても強いだけに、医者の言うことや薬は重要なんだけど、健康であることの最後主体自分にもってこないと、QoLは上がらない的な。

2018-12-05

anond:20181205091342

学歴なんて関係なく、その人の性格とか品の問題

そうだよ。

で、「性格や品の良さは階級相関性がある」って話でしょ。元増田からして。

上流階級の人(元増田の同僚である大企業正社員たち)は性格や品が良く、

下層階級の人(元増田地元の友人たち)は性格や品が悪い、って話だ。

お嬢様大卒」ってのが学歴自慢だと思ったの?

お嬢様大」なんて学力的にはFランも多いよ。

これが指し示すのは「高学歴」ではなく、「私立大の学費出せる親を持つ階級」って事だよ。

そりゃあくまで「傾向」であって全てがそうではないから、性格が良く品の良い下層階級の人も沢山いるし逆も然りだけど。

年齢や地域にもよるだろうしね。田舎の中高年だと高卒で当たり前だったりするから

2018-11-19

anond:20181117113030

そういうやつウザいってのには同意なんだけど、容姿に自信がないことと仕事において受動的なことってそんなに相関性ある?

かになんとなく相関性ありそうな感じはするし、仕事受動的なやつって大抵言い訳ばっかするから容姿や異性関係についてもグチグチ言ってそうな印象はあるんだけど

からといって、容姿=労働自明のものとして仕事への向き合い方を批判するのはさすがに行き過ぎじゃね?と思った。

2018-10-29

割り勘婚活男性ほぼ育ちがあまり良くない問題

まりにぴたりと当てはまるので参考にしてほしいのと、この説を吹聴(笑)するのにもっとデータがほしい。

本人は良いとこの大学をでて稼いでいるにも関わらず、

初回デートから割り勘してきた男性の、

親の中高卒率、および職業学歴必要のない肉体労働業だった人がめちゃくちゃ高い、という確信がほしい。

大事なのは毎回奢れという無理難題をいってるのではないところ。二回目以降は割り勘で当然だとおもうので、毎回の奢りが当然と思ってる女性ヤバい自覚を持った方がいいと私も思う)

彼らの「自分で食った分の金は自分で払え」という考えは通常理解できるが、それを結婚相手にも適用するのはあまりに情や思いやりが無いといいきってしまっていいと思う。確実にリターンがある相手しか親切にしないタイプであるメリットがあるうちしか優しくないということだ。

逆に、たとえかなり年下で年収も女より低くても潔くおごってきた男性の親の高学歴率もかなりのものだった。

(選ばれないけど)

相関性があるように見えて仕方ないし、仲良くなってから家のレベルが合わなくて苦労する女性の参考になれば幸いです。

そもそも割り勘にしてる男性は数をこなすことを前提にしてる人が多いので成婚率も悪いと思う)

2018-09-01

それにしても、タイトルに反して禁書目録の話がやたら多いけど、この禁書の話が本当にひどい。的外れ程度のレベルならそっとしておこうってなるけど、そもそも禁書目録ではないなにか」の話をして禁書目録批判をしているので「お前は何と戦っているのだ」感がすごい。

その人にしか見えない幽霊と話してる人ってリアルでみかけたらこんな感じなのだろうな、と思うほどに不気味。

スマホ太郎がつまんないつまんない言うけど、俺に言わせるととある魔術の禁書目録僕は友達が少ないを5倍つまんなくしたらこんな感じやん…的な気持ちで見てるから、そんなに苦痛じゃない。

まぁこはいいです。個人主観から

・00年台アニメを礼賛しがちなぼくだけど、禁書は「つまんないくせにみんなが好きそうなポイント抑えてる」

具体的には?「つまんない」はいいとして「すきそうなポイントをおさえてる」ってあまりにもふわふわしててなにひとつ具体的な指摘が無いよね。

スマホ太郎チートっぷりも大概しらけるけど、上条当麻だってチートという点でアレやし、何ら努力してないくせにめっさ努力して能力手に入れてる人にわけわかんない説教する点では、スマホ太郎と大差ない。

たぶん必要情報がまったく情報が読めてないんだよなぁ。特定作品について読解力がいきなりゼロとかマイナスになる現象ナンデ?そもそも上条くんの状態能力の内容すら把握できてない気がする。たぶん「やらおん」みたいなネットまとめ記事を見て、そのまま鵜呑みにしてる可能性がある。他のオタク衆愚とまでよんで馬鹿にしてる割に、一つの作品について他人意見に流されて間違った先入観や間違った情報にとらわれてるの、ものすごい情弱感がする発言で頭が痛い。この件に関しては、馬鹿にしてるオタクより数段レベルが低い。

ぼくに言わせると、上条当麻が台頭したかスマホ太郎が生まれってだけ。オタク衆愚だよ。わっかりやすもの流行ったらその廉価コピーが量産されてあれよあれよとテンプレけが独り歩きしたつまんない作品が量産されたという、すごい虚しい感じのことがスマホ太郎という作品からなぁ…。

禁書となろうを結びつけるのはちょっと無理があるよね。そのレベルでいいなら何でも結び付けられる。相関性が低すぎる。

なろうとむすびつけるならランスシリーズとかインフィニットストラトスっていったほうがまだわかるよ。

00年台もっと面白いアニメしぬほどあったけど、フォーマットとして一番勝ったのが禁書ってだけ 

fateシリーズとかヘタリアとか、ってどこ言っちゃったの?禁書ってそもそも話題になり始めた頃から奈須きのこっぽいって言われてたんですが。ラノベじゃないから除外とか無理だよ。「アニメ」って書いてるんだから。このパターン禁書しかしらない時点でもう情報量が致命的に足りない。そもそも自分がばかにしたいものラノベとかなろうって枠に全部雑に固めて放り込んじゃうからこういうむりやりなこじつけおかしいって思えないんだよ。

・ちなみに、00年台のラノベファンというか禁書ファン上条さんの説教シーンを大喜びしてたけどスマホ太郎強気にモノを言った時に「は?」となる点、オタク10年で進歩したんだなぁーって思いました。アニメは00年台の方が1000倍面白いけど、オタクは2倍ぐらい現代のほうが進歩してるかと

ワンパンマンでサイタマが敵を殴るシーンしか見てません」みたいな頭の悪い感想やめてください本当に。 というかあらためて思うけど、アニメですらまともに見れて無いでしょこの人。禁書は、特に前半はどう考えても主人公以外の描写大事なのに、主人公age作品に見えてるなら、物語を読む能力が低すぎるといわざるを得ないよ。

もうすぐデレる、主人公チート唐変木なことを理由ハーレムをする的な作品禁書最初ってわけじゃないけど、禁書以降ポコポコまれすぎて糞アニメというよりも、「ダメオタク層」という認識で処理してるぐらいには10年間ずっと何らかの同類作品があったせいでスマホ太郎に驚かないよ

まず禁書実質的にはハーレムにはなっているけれどハーレム描写がかなり薄い作品だと思うのですが。そもそも主人公が1強ではないんだけど。いったい何話まで見たの?何話までみてその感想なの?浜面って知ってる? 一方通行さんの設定どこまで覚えてる?って感じ

スマホ太郎とか禁書みたいにおっぱいの大きさで、女の子同士の序列が決まる作品を見てる時は、「俺はアニメじゃなくてバラエティ番組を見てるんだ」って思った方が割と納得する。それがあんまり極端な作品苦手なんですよ…昔からあるし、東方二次創作にもよく持ち込まれ理論だけどね

ただの「おっぱい比べしてぐぬぬ」みたいな描写の話をしてるなら良いけど、おっぱいの大きさで序列が決まる作品って何の話をしてるんですかね。言葉選びが下手すぎるか作品理解する力が足りないのかどっちか知らないけどもうちょっと考えてから言葉を発する習慣をつけてほしい。



それにしても、ほんとに上のまとめ、自分で読んでてもつまらないとか恥ずかしいって思わないのかな。

まとめるだけでも無理ゲーなのに、一生懸命デコレーションしてるのほんとやばい

おなじまとめでも歴史オタの人は作品批判しつつも見ている人を楽しませる発言をしてる。

https://togetter.com/li/1156872:embed:cite]

一方、彼のまとめは自分気持ちよくなりたいだけのオナニー感がすごい。

しかもそのオナニー発言をまとめるというあたり、認知の歪みっぷりが半端なくて、どうしてこうなってしまったのか不思議しょうがない。

2018-06-19

アクティブセックスをする女の人は心拍数が遅い傾向にある。

また、心拍数の遅さと反社会的パーソナリティには相関性がある。

レッテル張りではないが、交感神経の覚醒から言ってもそういう傾向があるのは事実だ。

気をつけたい。

2018-05-22

anond:20180522222410

君も偏見ではなくアニメ孤立相関性を出してどうぞ

アニメテレビ動画配信ファン)が引きこもり社会的孤立している割合実数と、アニメ好きが社会的活動している割合実数がそうかわらないなら相関性ないのでは?

少なくとも、アニメファンが働いていたり結婚していたりすることは事実でしょう。

新聞きな子どもなぞ居ないというのと、アニメ孤独相関性はあるというのも、完全に思い込みでしょ。

(それはこっちもそうだけど)

とりあえずオウム返しに言葉を返しておけばいいと思ってる安易性、幼稚だと思うよ。

追記:

あと「ドラマバラエティ現実人間が絡んでいる場面が映されるという点がアニメより孤立との相性が悪かろうな」

って、アニメ現実人間が作ってないと思ってるの?

あらゆる虚構人間が作ってるし、人間俳優が演技しているにしろ、絵が演技しているにしろ虚構にすぎないだろ。

虚構の深度はあるが、虚構を作ってるのは現実人間なんだよ。なにをもって「孤立との相性が悪い」と言えるのか。

ドラマだけを見て家から出ない人間がいると言える? 本当に想像力ないし自分偏見だけ言ってるに過ぎないな。ハート強すぎだろ。

2018-05-19

anond:20180519094935

運動系人格ねえ・・・。先輩や顧問先生などの目上に対してはいつも小さくなっているけど、同級生や下級生、特に自分よりも弱そうな人間に対しては高圧的な感じだったなあ。

それから、やはりオタクよりも運動系の方が犯罪相関性が高いと思うよ。

性犯罪や、クズ鉄や電線を盗んだりするのは運動系ばかり。

2018-04-24

anond:20180424211315

オタク定義は面倒くさいからしないけど

オタク文化の最大のイベントであるコミケ参加者ならオタクである確率無差別抽出した集団よりは遙かに高いし

とりあえず参加者抽出して発達障害検査にかけて有意な違いがあればオタク発達障害には相関性があると言えると思うよ

2018-04-04

ウマ娘アイドル要素がいらない

走ることに人生をかける亜人の一生がみたいのに、なんでアイドルまで一緒にやってるの?

たとえばこれがアイカツアイマスだったら、あくまアイドルが目立つためだったり身体を鍛えるために走っているというだけの話だけど、ウマ娘ガチで走ってその上で何故かライブをする訳じゃん。

その順番は違うでしょ。

走ることがアイドル活動になるのは分かるけど、ライブをすることが走ることの訳には立たないでしょ。

たとえばライブじゃなくてストリップショーが始まるのなら、それは走るために鍛えた肉体美の鑑賞だから、走るついでって事になるし分かるよ。

でもレーサーがボイトレをすることには何の意味もないじゃん。

現にXXXが2話でライブをした時は、なれないライブにとまどって地蔵になるしかなかったけど、走ることで頂点を目指すならアレが正しい姿じゃね?

これがF1とかなら「ライブをしてスポンサーを集めて稼いだ金でグレードアップパーツを買うからライブ必須なんだ!」っていう理屈が通るよ。

苦しくはあるけど、理屈自体は通る。

でもウマ娘ライブすることの意味は現状まったくないよね。

レースに勝つこととライブをすることが直結した世界だと「あの娘は早いけどライブが下手だから勝って欲しくねーぜ」って扱いを受けるウマも出てくると思う。

そんでそれをさも「これがシリアス展開ジャー!」と投げつけられたら閉口するかない。

なんだこの世界観は。

これが人魚セイレーン娘ピチピチダービーならば「人魚は歌が上手いものな」「泳ぎが優れているとは人魚として優れているってことだし、歌が上手いのも当然だよな」って納得できたかも知れないけどね。

ウマの走りとライブパフォーマンスの間には相関性なんてほとんどねーよ。

せいぜい肺活量ぐらいだろ。

肺活量だけでライブが成立するならジャイアンリサイタル罰ゲームになるかってんだ。

2018-03-05

斜視から3D映画が見れない

最近というほど最近でもないけど、3D映画とか3DSとか、とにかく3Dをウリにしたものが巷には溢れている。

タイトルの通り、自分は生まれつきの斜視なので3D全般認識できない。


斜視人口の3%というからそれほど珍しい病気じゃない。の割に、「黒目の位置おかしい人」くらいの認識しかないように思う。少なくとも自分は今までそういう風に言われた。

斜視は重大な病気じゃない。でも、日常絶妙なところで不便なのだ。ということを今日は書きたいと思う。


見た目が悪い


まんまだ。

斜視とか外斜視とか色々種類はあるけど自分は外斜視。昔はロンパリって言ってたらしい。

見たい対象に焦点を合わせようとすると、どちらかの黒目が外側に流れていく。そっちの目は使っていないことになる。

二回手術をした。小学生の時に全身麻酔をかけて一回、中学生の時に局部麻酔で一回。

目の中の筋肉を切って縫い、正しい位置に黒目を調整する手術だ。全身麻酔の時は覚えてないから良かった(でも尿カテーテルがショックで暴れた)けど、局部麻酔の時は意識があって、目が見えてるのに、目の中にハサミだのメスだの針だの入れられる。ブツってなんか切れてる感覚ぼんやりわかる。めちゃくちゃ怖い。人造人間にされてる気分だった。

そんな怖い手術をしても、見た目は完治しなかった。普段普通の目だけど、疲れてくると斜視が出る。あと手術との相関性はわからないけど、術後目が悪くなった。特に乱視がひどいので、コンタクトが合わなくてずっと眼鏡をかけてる。


立体視ができない

これ。

目が悪くなるのも見た目がキモいのもまあ別にいい。問題はこれだ。

前述の通り、斜視の人は片方の目でしかものを見ることができない。対して、立体的にものを見る時は、両目から得た映像を脳が組み合わせて、奥行きや距離感認識させるのだ。

小学生の頃、保健室に「立体的に見える絵本」がなかっただろうか。上の方に黒い点が二つ付いてるやつ。あれも同じ原理で、脳の錯覚3D空間認識させている、らしい。当然それができたことはない。

そしてこの立体視能力は、生後〜幼年時にのみ獲得できるそうだ。その機を逃すと、後から立体視できるようになるのは難しい。訓練することはできる。実際したけど、やっぱりダメだった。

あんなおそろしい手術をしても、この根本的なところは全く治らないのだ。


立体視できないと何が不便か。

まず、階段下りるのが怖い。

階段の段差が飛び出して見えない。飛び出して見えるとか奥行きがあるとかがまずどういうことかわからないけど、とにかくのっぺりとした一枚の絵みたいに見えている。全国の階段はふちにラインが引いてあるタイプに今すぐ切り替えてほしい。

球技ができない。

ボールサイズで「あ、このくらいの距離だな」とはわかるけど、正確な感覚がわからない。テニスとか野球とか、球が小さいと余計に無理だ。まあこれは自分運動できないからかもしれないけど。

3Dが見れない。

黒っぽい眼鏡をかけて見るやつは、ちゃん普通映像には見える。でも、飛び出すとか広がるって感覚そもそもいから、本当に普通映画と一緒なのだ

青と赤のセロハン?みたいなので見る簡易的なやつは、右目と左目でバラバラに見えるだけで一つに結びつかない。赤と青の世界が変わりばんこに点滅する感じだ。


3Dナントカ所詮娯楽なのでいいけど、下り階段は本気で困っている。

同じ悩みを持つ人がいたら是非斜視あるあるしたい。逆に、治ったよという人がいたら話を聞きたい。

もう一回手術するかって聞かれたけど絶対嫌だ。

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