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はてなキーワード: 百姓とは

2023-07-17

anond:20230717171356

日本人殆どは土塊まみれの百姓の子孫だから卑しいよ。

青侍として清華家の一柱に200年仕え、御一新以降は都内在住だけど本籍地京都家族全員学習院卒、今でもとある地方神事剣舞披露する我が家に比べれば全員賎民

俺は三男坊のニートだけど。

2023-07-05

世の中にむずかしき仕事もあり、やす仕事もあり。

そのむずかしき仕事をする者を身分重き人と名づけ、やす仕事をする者を身分軽き人という。

すべて心を用い、心配する仕事はむずかしくして、手足を用うる力役はやすし。

ゆえに医者学者政府役人、または大なる商売をする町人、あまたの奉公人を召し使う大百姓などは、身分重くして貴き者と言うべし。

2023-05-23

探している小説

作者名タイトルを探しています

国語教科書に載っていたと思います

剣豪はすでに百姓で、剣士一方的弟子入りし、ともに百姓仕事をする。

 剣豪としての様子が見られないので剣士は諦めたか怒ったところに、

 野党だが悪者が現れ、剣豪が追い払う。

 剣士は感動し、その剣豪の元で百姓を続ける。』

どなたかお願いします。

2023-05-12

anond:20230512091818

圃場整理がうまく行ってるところはどこも買い手がつくよね農地

混ぜると「困ってます」って補助金乞食できるから敢えて訂正しないんだろうけど、この辺の姑息さが七人の侍の虫けら百姓根性そのままで大好き。

2023-03-20

anond:20230320104527

ほんまや 教養になりましたありがとう

トヨタ自動車創業した豊田喜一郎遠州に生まれている。生まれ場所静岡県敷知郡吉津村山口。いまは湖西市となっている。湖西とは、うなぎで知られる浜名湖の西のこと。愛知県との境界だ。父親自動織機を発明した豊田佐吉で、戦前は「日本発明王」として教科書にも載っていた明治の傑物である

豊田佐吉慶応3年1867年)に遠江国浜名湖の西にある敷知郡山口村現在静岡県湖西市)で、父・伊吉、母・ゑいの長男として生まれた。 豊田家は伊吉が百姓のかたわら大工生計を立てていた。 佐吉を頭に3男1女の子供と両親の6人が豊田家の家族であった。

2023-03-05

信長書状







https://www.library-archives.pref.fukui.lg.jp/fukui/07/kenshi/T3/T3-0a1a2-02-02-01-03.htm

全体で七か条からなるこの掟を簡単に紹介すれば次のようになる。必要人夫徴発は勝家の印判のある催促状をもって行うこととし、その他の人夫徴発はたとえ人夫賃を支払うというやり方でも認めない。いま北庄城普請人夫必要ではあるが、なによりも農民が耕作に専念しうるようにこうした措置をとるのである一条)。名主・百姓もつ内徳と小成物(年貢以外の雑税)は先々どおりに認める(二条)。勝家が派遣する使いの者に対する接待は、一汁二菜・中酒一杯などに制限する(三条)。反銭など銭納入の時は、高札で示したように三増倍(銭の種類。精銭の三分の一に換算される銭か)をもって納入すること(四条)。百姓は新たに誰かの家来になってはいけない。また、信長直臣に仕える家来が、鞍替して勝家の家来になることも禁止する(五条)。勝家が印判で承認したほかは、山林竹木の伐採はいっさい禁止する(六条)。百姓居住の地の課役を逃れるため他郷へ移住することは禁止する(七条)。

2023-02-14

anond:20230214142140

おまんこという武器があるから百姓の息子よりは勝ってるだろう。男はよほど顔が良くないとピアノができるキモメガネ君以上にはなれないし。

anond:20230214125421

江戸時代って町民と農民生活スタイルが全く違うからなぁ

江戸の町民文化の話してる時には田舎百姓を反例に持ち出しても意味ないんだよ

2023-02-10

anond:20230210120011

 日本社会党中央執行委員長議員淺沼稻次郞君は、去る十二日、日比谷公会堂での演説さなか、暴漢の凶刃に倒れられました。

 私は、皆様の御賛同を得て、議員一同を代表し、全国民の前に、つつしんで追悼の言葉を申し述べたいと存じます

 ただいま、この壇上に立ちまして、皆様と相対するとき、私は、この議場に一つの空席をはっきりと認めるのであります。私が、心ひそかに本会議のこの壇上で、その人を相手政策の論争を行ない、また、来たるべき総選挙には、全国各地の街頭で、その人を相手政策論議を行なおうと誓った好敵手の席であります

 かつて、ここから発せられる一つの声を、私は、社会党党大会に、また、あるとき大衆の先頭に聞いたのであります。今その人はなく、その声もやみました。私は、だれに向かって論争をいどめばよいのでありましょうか。しかし、心を澄まして耳を傾ければ、私には、そこからつの叫び声があるように思われてなりません。「わが身に起こったことを他の人に起こさせてはならない」、「暴力民主政治家にとって共通の敵である」と、この声は叫んでいるのであります

 私は、目的のために手段を選ばぬ風潮を今後絶対に許さぬことを、皆さんとともに、はっきり誓いたいと存じます。これこそ、故淺沼稻次郞君のみたまに供うる唯一の玉ぐしであることを信ずるからであります

 淺沼君は、明治三十一年十二月東京都三宅島に生まれ東京府立第三中学を経て早稲田大学政経学部に学ばれました。早くから早稲田北沢新次郞教授高校時代河合栄治郞氏らの風貌に接し、思想的には社会主義洗礼を受けられたようであります

 当時、第一次大戦が終わり、ソビエトの「十月の嵐」が吹いたあとだけに、「人民の中に」の運動思想界を風靡していました。君は、民人同盟会から建設同盟と、思想運動の中に身をゆだね、検束と投獄の過程を経て、ごく自然社会主義運動の戦列に加わったのであります

 大正十二年母校を卒業するや、日本労働総同盟鉱山部、日本農民組合等に関係して、社会運動実践情熱を注ぎ、大正十四年の普選を機会に、政治運動に身を挺したのであります

 すなわち、同十四年農民労働党書記長となり、翌十五年日本労働党の中央執行委員となった後は、日労系主流のおもむくところに従い、戦時中のあの政党解消が行なわれるまで、数々の革新政党巡礼されたのであります

 君が初めて本院に議席を占められたのは、昭和一年の第十九回総選挙東京第四区から立候補してみごと当選されたときであります。以来、昭和十七年のいわゆる翼賛選挙を除いて、今日まで当選すること前後九回、在職二十年九カ月の長きに及んでおります

 戦後、同志とともに、いち早く日本社会党の結成に努力されました。昭和二十二年四月の総選挙において同党が第一党となり、新憲法下の第一国会召集されますと、君は衆望をになって初代の本院議運委員長に選ばれました。書記長代理の重責にあって党務に尽瘁するかたわら、君はよく松岡議長を助けて国会運営努力されたのであります。幾多の国会関係法規の制定、数々の慣行確立、あるいは総司令部との交渉等、その活躍ぶりは、与・野党を問わず、ひとしく賛嘆の的となったものであります

 翌二十三三月、君は、日本社会党書記長当選、自来、十一年間にわたってその職にあり、本年三月には選ばれて中央執行委員長となり、野党第一党の党首として、今後の活躍が期待されていたのであります

 かくて、君は、戦前戦後の四十年間を通じ、一貫して社会主義政党の発展のために尽力され、君自身社会党シンボルとなるまでに成長されたのであります。淺沼君の名はわが国政治史永久特筆さるべきものと信じて疑いません。

 君がかかる栄誉をになわれるのも、ひっきょう、その人となりに負うものと考えるのであります

 淺沼君は、性明朗にして開放的であり、上長に仕えて謙虚、下僚に接して細心でありました。かくてこそ、複雑な社会主義運動の渦中、よく書記長の重職を果たして委員長の地位につかれ得たものと思うのであります

 君は、また、大衆のために奉仕することをその政治的信条としておられました。文字通り東奔西走、比類なき雄弁と情熱をもって直接国民大衆に訴え続けられたのであります

沼は演説百姓

よごれた服にボロカバン

きょうは本所の公会堂

あすは京都の辻の寺

 これは、大正末年、日労党結成当時、淺沼君の友人がうたったものであります委員長となってからも、この演説百姓精神はいささかも衰えを見せませんでした。全国各地で演説を行なう君の姿は、今なお、われわれの眼底に、ほうふつたるものがあります

 「演説こそは大衆運動三十年の私の唯一の武器だ。これが私の党に尽くす道である」と生前君が語られたのを思い、七日前の日比谷のできごとを思うとき、君が素志のなみなみならぬを覚えて暗たんたる気持にならざるを得ません。

 君は、日ごろ清貧に甘んじ、三十年来、東京下町アパート質素生活を続けられました。愛犬を連れて近所を散歩され、これを日常の楽しみとされたのであります国民は、君が雄弁に耳を傾けると同時に、かかる君の庶民的な姿に限りない親しみを感じたのであります。君が凶手に倒れたとの報が伝わるや、全国の人々がひとしく驚きと悲しみの声を上げたのは、君に対する国民の信頼と親近感がいかに深かったか物語ものと考えます

 私どもは、この国会において、各党が互いにその政策披瀝し、国民批判を仰ぐ覚悟でありました。君もまたその決意であったと存じますしかるに、暴力による君が不慮の死は、この機会を永久に奪ったのであります。ひとり社会党にとどまらず、国家国民にとって最大の不幸であり、惜しみてもなお余りあるものといわなければなりません。

 ここに、淺沼君の生前の功績をたたえ、その風格をしのび、かかる不祥事の再び起ることなきを相戒め、相誓い、もって哀悼言葉にかえたいと存じます

anond:20230210120011

大塩平八郎

檄文

 天より被下候

    村々小前のものに至迠へ

四海こんきういたし候ハゝ天祿ながくたゝん小人

國家をおさめしめば災害并至と昔の聖人深く

天下後世人の君人の臣たる者を御誡被置候ゆヘ

東照神君ニも鰥寡孤獨ニおひて尤あわれみ

を加ふへくハ是仁政之基と被仰置候然ルに茲二

百四五十年太平之間ニ追々上たる人驕奢とておこり

を極太切之政事ニ携候諸役人とも賄賂を公ニ授受と

て贈貰いたし奥向女中因縁を以道德仁義をも

なき拙き身分ニて立身重き役ニ經上り一人一家

肥し候工夫而已ニ智術を運し其領分知行所之民百

姓共へ過分之用金申付是迠年貢諸役の甚しき

苦む上江右之通無躰之儀を申渡追々入用かさみ候ゆへ

四海の困窮と相成候付人々上を怨さるものなき樣ニ

成行候得共江戸表より諸國一同右之風儀ニ落入

天子足利家已来別而御隱居御同樣賞罰之柄を

御失ひニ付下民之怨何方へ告愬とてつけ訴ふる方な

き樣ニ乱候付人々之怨氣天ニ通シ年々地震火災山も崩水も

溢るより外色々樣々の天災流行終ニ五穀飢饉ニ相成候是

皆天より深く御誡之有かたき御告ニ候へとも一向上たる人々

心も付ず猶小人奸者之輩太切之政を執行只下を惱

し金米を取たてる手段斗ニ打懸り実以小前百姓

のなんきを吾等如きもの草乃陰より常々察し悲候

得とも湯王武王の勢位なく孔子孟子の道德もなけ

れバ徒ニ蟄居いたし候處此節米價弥高直ニ相成大坂

奉行并諸役人とも万物一體の仁を忘れ得手勝手

の政道をいたし江戸へ廻米をいたし

天子御在所之京都へハ廻米之世話も不致而已な

らす五升一斗位之米を買に下りもの共を召捕抔い

たし実ニ昔葛伯といふ大名農人乃弁當を持運

ひ候小児を殺候も同樣言語同斷何れ乃土地にても人民

ハ 德川家御支配ものニ相違なき處如此隔を付候ハ

奉行等之不仁ニて其上勝手我儘之觸書等を度々

差出し大坂市中游民斗を太切ニ心得候者前にも申通

道德仁義を不存拙き身故ニて甚以厚ヶ間敷不届

之至且三都之内大坂之金持共年來諸大名へかし付候

利德之金銀并扶持米等を莫大ニ掠取未曾有之有福

に暮し丁人之身を以大名家老人格等ニ被取用

又ハ自己田畑新田等を夥しく所持何に不足なく

暮し此節の天災天罰を見なから畏も不致餓死

貧人乞食をも敢而不救其身ハ膏梁之味とて結構

之物を食ひ妾宅等へ入込或ハ揚屋茶屋大名之家來を

誘引參り高價の酒を湯水を呑も同樣ニいたし此難

澁の時節ニ絹服をまとひ候かわらもの妓女と共に迎

ひ平生同樣に游樂に耽候ハ何等の事哉紂王長夜の

酒盛も同事其所之奉行役人手ニ握居候政を以右之

もの共を取〆下民を救候義も難出來日々堂島相場

いしり事いたし実ニ祿盗ニて決而天道聖人之御心ニ難叶

御赦しなき事ニ候蟄居の我等最早堪忍難成湯武

之勢孔孟之德ハなけれ共無據天下乃ためと存血

族の禍をおかし此度有志のものと申合下民を惱し

苦〆候諸役人を先誅伐いたし引續き驕に長し居候大坂

市中金持之丁人共を誅戮およひ可申候間右之者共

穴藏ニ貯置候金銀錢等諸藏屋敷内に隱置候俵米

夫々分散配當いたし遣候間攝河泉播之内田畑所持

不致ものたとへ所持いたし候共父母妻子家内之養方難

出來程之難澁者へハ右金米等取らせ遣候間いつに而も

大坂市中ニ騷動起り候と聞傳へ候ハゝ里數を不厭一刻も

早く大坂へ向駈可參候面々へ右米金を分け遣し可申候

鉅橋鹿臺の金粟を下民へ被與候遺意ニて當時之

飢饉難義を相救遣し若又其内器量才力等有之者

ニハ夫々取立無道之者共を征伐いたし候軍役ニも遣ひ申

へく候必一揆蜂起之企とハ違ひ追々年貢諸役ニ至迠

輕くいたし都而中興

武帝御政道之通寛仁大度の取扱にいたし遣

年來驕奢淫逸の風俗を一洗相改質素ニ立戻り四

海萬民いつ迠も

天恩を難有存父母妻子を被養生前之地獄

救ひ死後の極樂成佛を眼前ニ見せ遣し堯舜

天照皇太神之時代に復シかたく共中興之氣象ニ

恢復とて立戻り申へく候此書付村々ヘ一々しらせ

度候へとも数多之事ニ付最寄之人家多候大村神殿

張付置候間大坂より廻し有之番人ともにしられさる

樣ニ心懸早々村々へ相觸可申候万一番人とも眼付大

四ヶ所の奸人共へ注進いたし候樣子ニ候ハゝ遠慮なく

面々申合番人を不殘打殺可申候若右騷動起り候を

承なから疑惑いたし駈參不申又者遲參及候ハゝ

金持之米金者皆火中の灰に相成天下之宝を取失

ひ申へく候間跡ニて必我等を恨み宝を捨る無道者

と陰言を不致樣可致候其為一同へ觸しらせ候尤是

地頭村方ニある年貢等ニかゝわり候諸記録帳面

類ハ都而引破焼捨可申候是往々深き慮ある事ニて

人民を困窮為致不申積に候乍去此度乃一擧當朝

平將門明智光秀漢土之劉裕朱佺忠の謀反ニ類し候

と申者も是非有之道理ニ候得共我等一同心中ニ天

下國家を簒盗いたし候慾念より起し候事にハ更無之

日月星辰之神鑑ニある事ニて詰ル處者湯武漢

明太祖民を吊君を誅し天討を執行候誠心

而已ニて若疑しく覺候ハゝ我等之所業終る處を

爾等眼を開て看

 但し此書付小前之者へハ道場坊主或醫者等

 より篤と讀聞せ可申若庄屋年寄眼前乃

 禍を畏一己ニ隱し候ハゝ追而急度其罪可行候

       奉天命致天討候

 天保八丁酉年 月日 某

 

攝河泉播村村

    庄屋年寄百姓并小前百姓共へ

2022-12-17

anond:20221217222213

江戸時代町人百姓帯刀禁止されていた、という話だけど、脇差の所持は自由だった。

治安が悪い地域を通過するときは用心として長脇差携帯することもあった。

 

町人百姓武器携帯して歩かないのはそんなものダサい邪魔から禁止されてたからじゃない。

2022-11-30

名字なんてものができたせいで今に至るまでなんの財産もない水呑百姓が出の親父が「○○家の血が云々」とか身の程知らずのことを宣うので名字廃止でええと思っている

権兵衛とか黒兵衛とかでええわ

2022-11-14

https://someiyoshino.info/entry/2022/11/12/180700

俺は出版じゃなくて報道校閲だったか他文化のことは完全には分からんけど、人じゃなくてモノに「狂った」って表現使うの、そんな神経質に排除するとは思えないけどなあ。

予定が狂うとか歯車が狂うみたいな慣用句いくらでもあるので、俺がそういう表現指摘したことないし、同僚が指摘したのも見たことない。

まあ時間に余裕のある出版校閲だったら初校では指摘するかもしれないけど、それでも再三指摘することなんて無いと思うが。

百姓八百屋を直されたというのも、それを見下すようなニュアンスで使ってたからじゃないの。

2022-11-11

anond:20221111115640

現代では発達障害と言われる人たちも、伝統的な社会の中での百姓職人をやっていく上では支障が無かったのも知れんのう…  生まれてくる時代を間違えたかなぁ…

2022-11-08

anond:20221108110706

「逃げる百姓、追う大名江戸農民獲得合戦 (中公新書)」という名著がある。

小作の人は土地愛着があるわけない。土地に縛られて引っ越せないのは下級武士地主だけ(´・ω・`)

2022-11-03

anond:20221103192059

それって同居人との食事が楽しくないのもあるんちゃう

百姓は一日2食だったとか言って歴史的絶対3食だったわけじゃないことを突くか

3食付き合うことにしても増田の一回の食事量を減らすかしかないわな

とりあえず嫌でも少量でも毎日何かしら腹に入れとけ。

ほんと何するにも力入らんし胃が縮んでおかゆとかしか受付けなくなるから増田見る気力すら無くなる。

拒食症って死亡率高いし人って食わないと死ぬよ。

2022-09-25

ゴーストブツシマというゲーム

プレイしていて、体感まだ2〜3割くらいの進行度だけど、このゲーム面白い

よくネタにされてる「誉れ」だけど、ゲーム内ではどうしても「誉れなき」プレイ要求される。(自分みたいなゲーム素人特に

あっちは集団、こっちは一人かせいぜい二人で、まともに立ち向かって勝てるわけがいから、とにかく潜伏して機を伺って裏をかく。

でもそれを見た百姓やら同胞やらから「お前は人斬りを楽しんでる、侍の戦い方じゃない」と言われてめちゃくちゃもやっとする。

面白いと思ったのはゲームシステム上、どうしても「誉れなきプレイ」をせざるを得ないのに、それに対する報酬がないどころか、非難されるところ。そして百姓が言う「人斬りを楽しんでる」が、まさに、プレイヤーが感じている「潜伏して一撃で人を殺める楽しさ気持ちよさ」をそのものずばり言い当てていて、プレイヤーが直接批判されるような構造になっているからこそ、仁が感じているであろう「いや、仕方ないことだし……」という気持ちプレイヤーの気持ち同化するところ。

まりゲームに詳しくない方なんだけど、こういうプレイしながらずっともやもやが続くのに面白いゲームって他にもあるのかな。

もしくはゴーストブツシマのこういう話ってすでにブログとかで書かれていたりする??

こういうシナリオ作りというか、ゲームの仕立て方に興味を持った。

2022-08-22

信長秀吉家康のそれぞれの言い分

ノッブ→ヒッデ 「有能なサルじゃのう。ゆくゆく九州はこやつと明智にまかせる」

ヒッデ→ノッブ 「恐ろしいお方じゃ。だが信長様のおかげで大名になれたのじゃ!この方に一生ついていくぞ!」

ヤッス→ノッブ 「さすがは天下人よ。だが最近は暴虐なふるまいが目立つのう。家臣もこれではついてこぬぞ・・・

ヒッデ→ヤッス 「三河軍団は結束が強く、使えるのう。関東以東の抑えとしてまだまだ働いてもらわねば」

ヤッス→ヒッデ 「百姓上がりのサル・・・今のところは従っておくことにしようぞ」

ノッブ→ヤッス 「義元の言った通り、並みの器ではない。東の守りは松平殿がいる限り安泰であろう」

2022-07-10

anond:20220710192410

優秀な人は

低能労働者が縫った服着て

低能百姓が作ったご飯を食べて

低能大工が建てた家に住んで

低能期間工が組み立てた車に乗って

優秀な人本当にありがとう

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