仏・菩薩、祖師・先人の徳、経典・教義などが主にほめたたえられる対象である。
これがサンスクリット語だと「梵讃」、漢語だと「漢讃」になる。
七五調の歌詞を、当時よく知られていたメロディに載せて歌う。
そういえばどこかで、白隠禅師の和讃を聞いたことがある。
こんな風に始まる。
衆生本来仏なり 水と氷の如くにて
水を離れて氷なく 衆生の外に仏なし
衆生近きを知らずして 遠く求むるはかなさよ
たとえば水の中に居て 渇を叫ぶが如くなり
クールだ。
]]>「唐の頭」とは唐物(中国製)の珍しい兜のこと。
追記:指摘があったので訂正します。「唐の頭」とは正確にはヤクの毛の兜飾りのことです。武田信玄や石田三成が描かれるときに、よく兜に付いているカツラみたいなやつのことですね。珍しくて高価なものではあるのですが、三河武士のあいだでやたらと流行っていて、十人いたら七・八人はヤクの毛をつけていたらしいです。というのも、ヤクの毛を大量に積んだ貿易船が難破して三河に漂着したから、棚ぼたで手に入れたんだとか。そら「過ぎたるもの」と言われますわ。
「本多平八」とは徳川四天王のひとり、本多忠勝(1548生)のこと。
三方ヶ原の戦いに先立つ一言坂の戦いで、退却する徳川軍の殿を本多忠勝がつとめた。
「家康に過ぎたるものが」はその活躍を称賛した落首である。
治部少は石田三成(1560生)のこと。
「島左近」(1540生)はもともと筒井氏に仕えていた武将で、一説には当時の三成の禄高の半分である二万石で召し抱えられた。
関ヶ原の戦いで討ち死にしたが、敵の足軽が後々まで悪夢に見たというほどの戦いぶりだったという。
「佐和山城」は三成が改修した城で、五層の天守閣を備えた立派なものだったが、中に入ってみると極めて質素な造りだった。
「富士のお山」とはもちろん富士山のこと。
「白隠」とは「臨済宗中興の祖」と言われる高僧・白隠慧鶴(1686生)のこと。
大量の書画を残しており、その作風は荒々しくバランスの崩れたものだが、それが逆に迫力を生んでいるとして現代でも人気が高い。
本所とは東京都墨田区の地名。
「津軽屋敷」とは、本所にあった津軽藩の広大な江戸屋敷のこと。
火災のときに版木ではなく太鼓を叩くのが「本所七不思議」として知られている。
「炭屋塩原」とは、炭団を改良して一代で豪商となった炭屋の塩原太助(1743生)のこと。
明治期には「塩原多助一代記」として立身出世物語が語られ大人気となった。
亀山とは、現在の三重県亀山市にあった、東海道の亀山宿のこと。
「伊勢屋蘇鉄」とは、亀山宿の旅籠・伊勢屋の庭にあった蘇鉄の名木のこと。
現在は亀山市の文化会館に移植されている。
「京口御門」とは、亀山宿の西端、つまり京へ向かう道に作られた門のこと。
坂の頂上に建てられ、下から見上げると壮観だという。
岩槻藩は埼玉県さいたま市にあった小藩。
「児玉南珂」(1746生)は高名な儒学者。
祖父が江島生島事件の江島の弟だったため甲斐に流罪となり、南柯は甲斐で生まれて岩槻藩士の養子となった。
儒学を学んだ南柯は、藩の要職を歴任し、隠居後は私塾・遷喬館を立ち上げて子弟教育に努めた。
「時の鐘」とは、城下に時を告げるために1671年に設置された鐘のこと。
改鋳されたものが現在まで残っていて市指定有形文化財となっている。
青山は東京都港区の地名。
「鳶の薬缶」とは「薬缶平」と呼ばれた幕末の火消し・平五郎のこと。
本職は鳶職人で、頭がハゲていたので「薬缶」と綽名されたらしい。
「原宿の山車」とは、青山熊野神社の祭りで使われる山車のこと。
都座とは江戸にあった歌舞伎の劇場の一つ。
「延寿太夫」とは、歌舞伎の伴奏音楽として発展した浄瑠璃「清元節」を創始した、初代・清元延寿太夫(1777生)のこと。
「鶴屋南北」とは、「大南北」とも呼ばれる歌舞伎狂言作者、四代目・鶴屋南北(1755生)のこと。
一関藩は、仙台藩から分知されて成立した小藩で、現在の岩手県一関市にあたる。
「時の太鼓」とは、城下に時を告げるための太鼓のことだが、これは幕府から特別に許可されたもので、鐘ではなく太鼓が設置されるのは非常に珍しかったらしい。
「建部清庵」(1712生)は蘭学を学んだ名医で、『解体新書』で有名な杉田玄白の盟友であった。
これは加藤家が改易されたあとに熊本藩に入った細川忠興の評らしい。
八代城は、熊本県八代市にあった城で、1622年に完成したもの。地名から「松江城」とも言う。
熊本藩の本城はかの熊本城であり、一国に二城あるのは特例である。
その気兼ねもあったのか、城は未完成で放置されており、天守閣だけは壮麗だったというが、それも1672年に落雷で消失した。
「乞食の松」とは、「浜のお茶屋」とも呼ばれる松浜軒庭園にあった松のことらしいが、詳細は不明。
保土ヶ谷とは、現在の神奈川県横浜市にあった、東海道の程ヶ谷宿のこと。
「苅部清兵衛」とは、その程ヶ谷宿の本陣・名主・問屋を務めた苅部家の当主が名乗る名跡のことで、地元の名士として代々慕われたという。
「花見寿司」は程ヶ谷宿の名物で、現在でもその伝統を引き継ぐ店があるとか。
挙母とは、現在の愛知県豊田市にあった小藩のこと。
挙母城は、三河・尾張・美濃・信濃・遠江・伊勢・近江が見えるということで七州城とも呼ばれ、「大手御門」とはその立派な正門を指している。
「海老名三平」とは、挙母藩の剣術師範役に代々指名された海老名家当主の名跡で、落語家のことではない。
岸和田とは、現在の大阪府岸和田市にあたる岸和田藩のこと。
「だんじり祭り」は全国でも有名なお祭りで、1703年から始まったという。
「千亀利のお城」とは岸和田城の別名で、五重の天守に総構えの立派なものだったが、天守閣は1827年に焼失している。
鴨方藩は備中の小藩で、現在の岡山県浅口市にあたる。
「拙斎」とは、儒学者の西山拙斎(1735生)のこと。
松平定信に「昌平坂学問所で朱子学を教えるべき」と訴え、これが「寛政異学の禁」の原因となったという。
「索我」とは、絵師の田中索我(1742生)のこと。
京都に出て絵を学び、仙洞御所の屏風を描いている。西山拙斎とは親友同士だった。
「宮の石橋」とは、鴨神社の参道にある石橋のこと。
川ではなく道に掛かっていて、立体交差となっているのが特徴。
京極とは、讃岐丸亀藩主の京極家のこと。
「にっかり」とは、刀剣乱舞でも有名となった名刀「にっかり青江」のこと。
「茶壺」とは、二代目藩主・京極高豊が好んで収集した、陶工・野々村仁清の茶壺のこと。
「多賀越中」とは、京極家の筆頭家老を代々務めた多賀家当主の名跡。
三原とは、広島藩の支城である三原城があったところで、現在の広島県三原市のこと。
その「過ぎたるもの」とは、まず石高のわりに壮麗な「三原城」。
三原城主であり広島藩筆頭家老であった浅野忠真(1618生)に、徳川家光の娘・月渓院が一目惚れし、駄々をこねて彼の側室に入ったために使用を許可された「葵の御紋」。
日光東照宮の工事にあたって、難所をわずか十日で仕上げて称賛を集めた家臣「鈴木方衛」の三つだそうな。
安中とは、現在の群馬県安中市にあたる安中藩のこと。
「過ぎたるもの」とは、藩政を改革して名君と謳われた藩主の「板倉勝明(1809生)」。
現在も名所とされる「安中杉並木」。
第六代安中藩主・板倉重形のときに作られたという、城下に時を知らせるための「安中様のお太鼓」(一ノ関だけの特別扱いだったはずでは…!?)。
桜田は東京の麻布のあたり。
「火ノ見半鐘」は江戸で最も高いと言われる火の見櫓があったから。
「箕輪の重兵衛」は桜田町の名主を代々務めたという家の名跡。
永坂は現在の東京・麻布永坂町のこと。
「岡の桜」は、御番医師・岡仁庵の屋敷に植えられていた大きな枝垂れ桜のこと。
「更科の蕎麦」はそのまま更科そばのことで、蕎麦御三家の一つである蕎麦処・更科が永坂にあったことにちなむ。
保科とは上総国飯野藩主の保科家のこと。
「表御門」は、三大陣屋と呼ばれる飯野陣屋の門のこと(か?)。
「森要蔵」(1810生)は幕末の著名な剣豪で、保科家に剣術指南役として仕えていた。
この飯野藩保科家の江戸屋敷が麻布網代にあった。
森要蔵は藩に召し抱えられたあと、近所の麻布永坂・岡仁庵の屋敷の一部を間借りして道場を構え、
更科そばの初代も、この屋敷に反物商として出入りしていたところ、
蕎麦を打つのが上手いということで藩主から蕎麦屋になることを勧められ、
同じく麻布永坂に店を出した、という縁がある。
奈良生まれの儒学者・森田節斎の言葉であり、高取とは現在の奈良県高取町にあたる高取藩のこと。
「山のお城」は高取城のこと。
日本国内では最大規模の山城で、その白漆喰が輝く様を「巽高取 雪かと見れば 雪ではござらぬ土佐の城」と評した言葉が残る。
「谷の昌平」とは、幕末の儒学者・谷三山(1802生)のこと。
若年の頃に聴力を失うが、勉学に励んで大成し、高取藩に召し抱えられて尊王攘夷を説いた。
新城は、現在の愛知県新城市にあたるが、「新城藩」は藩主が安中藩に移封されたため1645年に消滅、代わって旗本の菅沼氏が入った。
「前の小川」とは、新城陣屋の堀へ水を引き入れるために作られた運河のことらしいが、現在は存在しない。
「太田白雪」(1661生)は、地元の名家の生まれで、松尾芭蕉門下の俳人となった。
土浦藩は、現在の茨城県土浦市にあたる小藩。
「刻の太鼓」は、例によって城下に時を知らせるための太鼓のこと。
「関の鉄砲」とは、関之信が開いた「関流砲術」のことで、その宗家は土浦藩の鉄砲指南を代々務めていた。
下総は下総国のことで、現在の千葉県北部と茨城県西部のあたりを指す。
「成田不動」とは、言わずと知れた成田山新勝寺のこと。
「久保木蟠龍」とは、儒学者の久保木清淵(1762生)のこと。
伊能忠敬と親交が深く、忠敬亡き後は大日本沿海輿地全図の完成を手伝った。
金沢はもちろん現在の石川県金沢市、加賀藩の金沢城下のこと。
「正次」と「興里」はどちらも鍛冶師で、刀を打たせれば正次が、兜を拵えれば興里が優れていると言われていた。
そこで正次の刀で興里の兜を斬ったところ、兜は両断できなかったが欠け、刀には刃こぼれがなかったため、引き分けということになった。
しかし実のところ、興里は兜が割られないよう小細工をしており、それがなければ正次に負けていただろうと分かっていた。
悔しがった興里は刀を打つようになり、後に「長曽祢虎徹」として知られる名工となった、という伝承があり、歌舞伎の演目になっている。
「正次」は志摩兵衛正次という名らしいが、こちらはよく分からない。
番町とは、東京都千代田区の地名。
「佐野の桜」とは、旗本・佐野政言の屋敷にあった見事な枝垂れ桜のこと。
「塙検校」は塙保己一(1746生)のことで、盲人として検校にまでなりながら、著名な国学者でもあった。
秋元とは、現在の埼玉県川越市にあたる川越藩主の秋元喬知のこと。
「無の字の槍」とは、藩祖・泰朝が家康から賜った十文字槍のことで、鞘に「無」の金文字があった。
「岩田彦助」(1658生)は、川越藩の家老を務めた儒学者のこと。
松山は、現在の愛媛県松山市にあたる伊予松山藩のこと。
「河原布衣徒」は河原にいる乞食のことと思われるが、芸が上手かったことを言っているのか、よくわからない。
「千秋の寺」はそのまま千秋寺のことで、昔は二十余棟からなる大伽藍があったが、戦火で失われたらしい。
谷田部は現在の茨城県つくば市にあった谷田部藩のこと。
「不動並木」とは、谷田部藩主・細川興昌(1604生)が植えたもので、沿道に二百本ほどの松が並んでいたというが、現在はない。
「広瀬周度」(1782生)は、杉田玄白門下の蘭学医でありつつ、画家としても活躍したという人物。
「飯塚伊賀七」(1762生)は発明家で、自宅の向かいにある酒屋まで往復するからくり人形や、人力飛行機などを作っていたという。広瀬周度から蘭学の知識を得ていたとも。
徳山は、長州藩の支藩で、現在の山口県周南市のあたりにあった徳山藩のこと。
「藩主墓所」は、徳山藩毛利家の菩提寺である聚福山大成寺にある歴代当主の墓所のこと。
「桜の馬場」とは、初代藩主・毛利就隆によって作られた藩士の調馬場のことだが、数百本の桜が植えられて名所となった。
「奈古屋里人」(1671生)は、万役山事件に伴う徳山藩改易の際に活躍し、徳山藩再興運動の中心となった人物。
]]>白隠禅師は「大悟十八度、小悟数知らず」と述べてる。
やっぱり北伝仏教及び日本仏教はオレオレアレンジが酷過ぎる邪宗やなって
]]>科学的検証に由来しない誰かが正しいといったという時点でそれは宗教だよ。だから間違ってるというわけではないが。
科学的検証に耐えたやつが宗教から出ていったのと、霊感商法が跋扈してるから、怪しいものになるわけだ。
で、霊感商法が跋扈している以上、科学的検証に耐えたもので言えるのならまずそちらを先に言わざるを得ないと思う。
元増田はだいぶ弱っているし、そういうやつほど霊感商法のカモだ。仏教いいよ瞑想いいよマインドフルネスいいよと言って、偽装した霊感商法に走られては困る。
今の御時世広告で怪しい連中が構えてるしな。
まずは取っ掛かりで頭を休めて、落ち着いて関心があったら上座部仏教の方にいったらいいかもねぐらいの立場だ。
落ち着いて、ある程度理性的に考えれるのなら、怪しいやつなんて怪しいと逃げれる。
上座部仏教もいいと思うけど、今苦しんで訳がわからないやつにとっては、霊感商法も、上座部仏教も正しさが判別がつかない。
あと、悟ったってのは僕の主観だ。ひょっとしたら書いてるのかもしれんが知らん。
悟りって僕は「認知の歪みが取れた」ぐらいの意味だとしか思ってない。
白隠禅師は「大悟十八度、小悟数知らず」と述べてる。
悟ったって言ったらそれだけで怪しいと思ったんでしょ?だからこそ、科学的検証と、今苦しんでいることにターゲットを当てている本を書いてるやつを選んだ。
]]>なんならきみが、瞑想についていい人間をピックアップしてその理由を教えてくれると嬉しい。
ただ、悪いけど、瞑想についてのやり方がうまいとか、あまり古すぎる人間(僕があげるのなら一休宗純、白隠禅師)は、いざ苦しみを逃れる点では、どうかなと思ったからあげなかったのもある。
小池龍之介、草薙龍瞬
慢の感情にきちんと触れているから。慢の感情は承認欲求と結びつき現代社会において非常に陥り、苦しみやすい。2者とも実際苦しんで悟った人間だからな。
これは野口誠一氏の本になるが、実際苦しんだ人間じゃないと、他人を救えないという考えがある。地涌の菩薩という。まあ、自分で調べてみて地涌の菩薩は創価臭いのがあれだが、、、。
久賀谷亮
読みやすいようにはしているが、一応科学文献の参照もあるから。
瞑想は仏教という宗教由来のもの。で、宗教は昔のなんとなく正しい物詰め合わせだと思ってる。瞑想は科学的検証なんて無い時代に生まれたもの。
マインドフルネスは、脳内スキャンができるようになって一部は科学的検証が出来るようになった時代の産物だと思ってる。
と同時に、宗教の名を語り、実際は弱った人間に漬け込んで依存させるタイプの霊感商法も多い。瞑想だのヨガだのを隠れ蓑にしてそういう団体がうごめいている。
だから、科学文献を根拠にしているこの本を出した。正直、もう今の時代本だけでいいと思う。瞑想を取り巻く団体の胡散臭さを考えれば本だけがいい。
ただ、上記「慢の感情」自体科学的な扱われ方がされていない。まだ仏教という宗教の中にいる。
瞑想との関連した科学的検証までされているかといえばほぼされていないから、上記の2者も一緒にあげた。
]]>白隠禅師という禅宗で有名な僧侶は生涯で確か25回悟ったとか。
]]>あの白隠禅師でさえも、禅病に苦しめられたと聞きますし。
]]>ジョギングでたとえると、ランナーズニーになるくらいの常習者って感じ。
一方、飲酒だと大半が高齢になってから体調崩す原因になってるからね。
とはいえ白隠禅師の例もあるから、瞑想もハマり過ぎはあかん。
]]>本当はもっと前からぼんやりと起きていたのだが。
ウダウダとしてしまった。
この辺もうちょっとイイカンジにできたらなあと思った。
◯
朝食はハムと卵を焼いて食べた。
卵焼きとご飯って満足感が高いよね。
好き。
◯
その後、散歩へ出かけた。
今日は30分くらいだ。
◯
それにしても、最近なんだか胸が苦しい。
精神的なものと思われるので、そういう時は呼吸に意識を向けてみる。
そうすると、呼吸自体が苦しいことに気づくことが多い。
そのまま呼吸に意識を向け続けると、だいたい5分もあれば呼吸が落ち着いてくる。
◯
しかしそれでもブロックが残っているなと感じるときは、いつも「軟酥の法」を使う。
この「軟酥の法」、その昔臨済宗の白隠禅師が修行のし過ぎで神経症にかかってしまったときに、仙人を訪ねて教えてもらったという秘技である。
(僕が知っている時点で秘技ではないかもしれないけど、秘技って言いたい。)
これは簡単にいえば、額に乗せたバターが溶けて頭から足へと浸透していくイメージをするという技。
僕も精神的にまいった時には、このイメージ療法に何度と無く助けられている。
身体の中で強張っている箇所がユルユルと解れていき、気持ちも同時に緩んでいく。
普段は座っている時や寝ている時にしていたものだが、朝の散歩の時にするのもアリだなと思った。
◯
そして昨日と同じく、歩きながら今日はどんなテーマで生きてみようかなーと探してみたが、特に見つからなかった。
まぁ見つからないならしょうがないじゃんと思って帰ってきた。
◯
テーブルの上に団子があったので、お茶を入れて飲んで食べた。
美味しいなぁ、みたらし団子。
杏仁豆腐くらい好き。
◯
そしてコーヒーを飲みながら、幾つかの雑事を行った。
例えば、アメリカと日本のKindleライブラリを統合した。
これまでは洋書に集中するために洋書を読むデバイスと和書を読むデバイスを分けていたが、これでひとつのデバイスで読めるようになった。
便利になったが洋書は読まなくなるかもしれない。
◯
さらにKindlePaperwhiteも購入した。
今アマゾンでやってる30日お試しキャンペーンを利用して。
あと評価の高い「知的複眼思考法」というKindle本も買った。
明日じっくり読もっと。
◯
その後は、犬の散歩へ行った。
家族が甘やかすせいでグイグイと引っ張る癖があるので、調教しながら散歩した。
最後はストレスが溜まりすぎたためか大いに暴れだしたので僕も暴れた。
◯
夕食の後は、近くのサンマルクカフェへと行った。
加入しているWi-Fiサービスでインターネットが利用できるからだ。
作業に没頭できたのは良かったが、夜にコーヒーは良くないかなーと思ったので明日の午後にもう一回来てみよう。
◯
そう言えば「思い出のマーニー」ってもう公開されてたんだなぁ。
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