はてなキーワード: 生活様式とは
平成になりもうすぐ30年を迎えようとしている。
特定の年齢層をターゲットにした製品の企画に携わる機会があり、
ゲーム史を振り返りつつ、当時のユーザーたちの現在の年齢を書く。
ハードには [ ] を付けた。
1978 スペースインベーダー
電波の規制が緩い時代に家庭向けとして登場したテレビテニス(ポンテニス)は、
スペースインベーダーの登場により、喫茶店がめまぐるしく様変わりをはじめた。
※当時20才=1958年(昭和33年)生まれ=現在59~60才
1979 ギャラクシアン
1981 ジャンピューター、ドンキーコング、[IBM PC 5150]
第2次オイルショック後、ギャラクシアンとパックマンが立て続けにヒット。
ゲームウォッチは床屋等の待合所にもよく見かけるようになった。
PC-9801シリーズの発売が開始され、1990年代前半まで栄華を極めることになる。
※当時20才=1962年(昭和37年)生まれ=現在54~55才
1983 ゼビウス、ドアドア、[ファミリーコンピュータ]
1985 グラディウス、ドルアーガの塔、スーパーマリオブラザーズ、ボンバーマン
ファミリーコンピュータ発売。
スーパーマリオブラザーズというソフトが登場により、一般家庭にテレビゲームが普及。
※当時20才=1965年(昭和40年)生まれ=現在51~52才
1987 ドラゴンクエストII、[PCエンジン]、ファイナルファンタジー
1988 ドラゴンクエストIII、スーパーマリオブラザーズ3、[メガドライブ]、テトリス
スーパーマリオブラザーズ2、ゼルダの伝説、メトロイドを引っ提げて。
PCエンジンやメガドライブ等、家庭向けハードが次々と発売される。
ドラゴンクエストIIIは社会現象になった。
デジタル放送に切り替わるあたりからテレビリモコンに大量のボタンが増え、
新しいモノにはついていけない……とボヤきつつも、
地上波のデータ放送やミニゲームを操作できる世代が60才を迎えようとしている。
余談ではあるが、つい先日C層向けケータイを選ぶことになったのだが、
厚ぼったいくせに、衝撃に弱い。子供だましにしても、雑だ。
まだまだテレビが生活の中心にあった時代は、茶の間のテレビを使うファミコンは時間が限られていた。
1989年にはゲームボーイが登場し、家庭の生活様式にも影響を与え始めた。
流れ:
1. 国立研究開発法人国立がん研究センター:受動喫煙による日本人の肺がんリスク約1.3倍あり,肺がんリスク評価を「ほぼ確実」から「確実」へと評価.日本人の非喫煙者を対象とした受動喫煙と肺がんとの関連について、科学的根拠に基づく評価を示し、受動喫煙の防止を努力目標から明確な目標として提示.
2. JT: それを認めず,「迷惑」や「気配り、思いやり」の問題で解決しようとする.
上記とは別に,元々の公式見解(喫煙と健康に関するJTの考え方)も酷すぎる.
https://www.jti.co.jp/tobacco/responsibilities/guidelines/responsibility/health/index.html :喫煙と健康(喫煙と健康に関するJTの考え方)]
https://www.jti.co.jp/tobacco/responsibilities/index.html: JTが目指す社会]
吸う人も吸わない人もここちよい世の中へ。
たばこの吸われる方、吸われない方が
吸わない人で,ニコチン・タールの混ざった煙を吸わされて心地よく思う人は全くいません.
煙を完全にシャットアウトするような分煙か禁止することを強く望みます.
https://www.jti.co.jp/tobacco/responsibilities/vision/index.html: JTのビジョン]
世の中には、さまざまな暮らしがある。さまざまな人がいる。
そのひとりひとりに、それぞれの思いや感情がある。
たばこについても同じように、いろいろな考えがあると思います。
それを認識したうえで、たばこを吸う大人には、それぞれにたばこを愛用する理由があります。
一方、たばこを吸わない人にとっては、たばこの煙が迷惑になることがあります。たばこを吸う大人は、つねにマナーを守ることに心がけるべきです。
だから、私たちJTは、吸う人、吸わない人が共存できる世の中をめざし、さまざまな活動にいま取り組んでいます。
私たちは「分煙環境の整備」を進めています。それぞれの場所に合うさまざまなやり方で、吸う人も吸わない人も心地よく過ごせる環境を増やしたいと考えているからです。
私たちは「マナーの啓発活動」も進めています。たばこを愛用する人は、周りを思いやることが、何より大切であると考えているからです。
さまざまである、ということ。
それを認め合い、尊重しあえる未来の社会を想像しながら、私たちJTはこれからも、いろいろな活動を真摯につづけていきたいと思います。
マナーの問題で片付けようとするのは,もともとの企業体質のようでこの文章からひしひしと伝わってきます.
健康上のリスクを認識したうえで,迷惑・マナー・心がけの問題にするのはやはり間違っているのではないでしょうか?
他人の健康上のリスクより愛用する理由が勝る場合などあるのでしょうか?
「大人」云々よりも社会で生活する人間として間違ってませんか?
また,今回のがんセンターの報告で,あなた方のいう未来へひとつ進んだわけですが,なぜ認めようとしないのでしょうか.
あなた方のいうビジョンや尊重・共存に背く行為ではないでしょうか>
引用:https://www.jti.co.jp/tobacco/responsibilities/guidelines/responsibility/health/index.html : 喫煙と健康]
厚生労働省は、「21世紀における国民健康づくり運動」において、たばこは、肺がん、心筋梗塞等の虚血性心疾患、肺気腫等の慢性閉塞性肺疾患など多くの疾病や、低出生体重児、流・早産など妊娠に関連した異常の危険因子 ※1であるとしています。
※1:
危険因子(リスクファクター)という用語は様々に使われていますが、定義としては以下のようなものがあります。
「”リスクファクター(risk factor)”という言葉は、病気の発生リスクを高めるが、単独では、病気を引き起こすのには不十分な要因を意味する言葉として一般的に用いられています。」(木原雅子・木原正博訳『WHOの基礎疫学』、三煌社 )
「科学的知見に基づいて、意味のある健康関連状況との関連が知られている個人の行動や生活様式の特徴、環境曝露、先天性や遺伝的特性などである。」 (日本疫学会訳『疫学辞典 第5版』、財団法人日本公衆衛生協会)
「病気の発生あるいは他の特定結果の蓋然性を増加させる属性ないしは曝露」(日本疫学会編集『疫学 基礎から学ぶために』、南江堂)
私たちも、喫煙は特定の疾病(妊娠に関連した異常を含む)のリスクを高めると認識しています。また、喫煙とそれらの疾病との関連を具体的に解明するため、今後の更なる研究が必要と考えています。※2
※2:
わが国における男女別の肺がん死亡率と喫煙者率の推移をみると、最近50年間で男性喫煙者率は明らかに低下し、女性喫煙者率はほぼ横ばいであるのに対し、死亡率は男女ともに1950年から1995年ごろにかけて顕著に増加し、以降減少傾向に転じているという事実がみられます。喫煙の影響が現れるには20-30年のタイムラグをみる必要があるとの意見がありますが、タイムラグを考慮しても肺がん死亡率の動向を喫煙者率のみで説明することは困難です。
困難であることの理由の一つとして、男女間における喫煙者率と死亡率の関係に違いがあります。喫煙者率は男性では顕著に低下、女性ではほぼ横ばいであるのに対し、死亡率は男女で同じ傾向を示しているという事実がみられます。
男女別の喫煙者率と肺がん死亡率推移(グラフ2 軸間隔をいじっているので比較不可能)
また、罹患でみた場合、肺がん罹患率は男女ともに増加しており、タイムラグを考慮しても罹患率の動向は喫煙者率の推移と一致しません。
日本における喫煙者率と肺がん罹患率の推移(グラフ3 データ数が少なくて役に立たない)
さらに、世界各国を男女別に比較すると、喫煙者率と肺がんによる死亡率との間には必ずしも相関関係がありません。
各国の喫煙者率と肺がん死亡率の関係(グラフ4 2009年の喫煙者率と1年前の肺がん死亡率での散布図,過去を見ても意味がない)
喫煙が多くの疾病の危険因子であるとの厚生労働省の見解は、主として喫煙者の集団と非喫煙者の集団の間での疾病発生率等を比較する統計に基づいた研究(疫学研究)によるものです。疫学研究は、喫煙者集団において特定の疾病のリスクが非喫煙者集団より高いことをほぼ一貫して示しています。※3
※3:
喫煙が健康に及ぼす影響に関する厚生労働省の見解および関係情報については、厚生労働省ホームページ中の「たばこと健康に関する情報ページ」別窓で開くをご参照下さい。
疫学研究は、疾病とその要因との関連性を探るにあたり有用な学問です。しかしながら、がん等、喫煙と関連があるとされる諸疾病の発生には、住環境(大気汚染等)、食生活、運動量、ストレス、遺伝的要因等様々な要因が影響しており、喫煙以外の全ての要因を同じにした集団を比較することは困難です。また、疫学研究は喫煙者と非喫煙者の集団同士を比較するものであり、個々の喫煙者について疾病のリスクを明らかにするものではありません。
喫煙の人体への影響を解明するために、疫学研究のほか、動物実験等が行われています。動物実験において、たばこのタールをマウスの皮膚に塗布する実験では、皮膚腫瘍の発生が確認されていますが、たばこ煙のみを吸入させる方法により、腫瘍を発生させることは困難です。※4
※4:
喫煙の健康への影響については今後更なる研究が必要であるものの、私たちは、喫煙が特定の疾病のリスクファクターであると考えています。喫煙するかしないかは、喫煙の健康への影響・リスクに関する情報に基づいて、個々の成人の方が決めるべきものです。
まるで,警察の麻薬撲滅ビデオに出てくる麻薬を勧めてくる悪い大人そのものである.
疫学研究において,特定の疾病のリスクが非喫煙者集団より高いことを示されているのに対し,
全ての要因を同じにした集団を比較することは困難という反論はナンセンスであり,
様々な条件で喫煙が疾病のリスクになっていると結論付けるのが妥当だろう.
肺腫瘍が発生したとの報告もあるのに,ほとんど起きないから大丈夫のような文言も謎.
せめて,リスクは最大で見積もれよ.そんなに人を殺したいのか.
ユーチューブ見てたら、そういう感じのこと言ってた。
で、
「自分をダメだと思ってる奴ってそんな商品売れないからって思ってるだろ。だから童貞なんじゃねーの?」
って言う話で。
童貞の奴って、頭良すぎるとかならかまわないけど、話が通じない奴とか、自分語りが多い奴とか変な奴が多すぎるって話だった。
これ見て、なるほど、恋愛推しの人達の考え方ってこういうもんかって納得した。
自分を売り込むのだから、自分で自分を否定してる人は恋愛できないよってのはその通りだと思う。
でもさ、そもそも自分を否定することが非合理だっていう感覚が俺には分からない。
もちろん、人間ってセックスするようにできているから、当然自分を否定しないのが『自然』なんだろうけど。
理性で生きてる奴って、自分の卑小さってのをどうしても感じるんじゃないかなあ。
この宇宙の中では価値がねーよとか、そういう中二的な想像もあるだろうし。発達障害とか精神病、身体障害とかが遺伝するからというキモチの奴もいるだろう。
俺は自分が完全に頭切れてると思ってるから、子供は作っちゃいけないと思うし。他人に迷惑かける前に死んだほうがいいと思っている。
そもそもの自然状態では、よっぽど苦しくなってうつ状態にならなきゃ自殺なんてしないんだろうけど、言葉を手に入れてしまったりして、そういうことに気づいたら、引き返せないじゃん。
なんとうか。理性で行き過ぎてると自分みたいに恋愛できないんだと思う。
一方で、恋愛できてる人ってのは、典型的には、ドキュンってイメージ。
ドキュンとか、なんで生きてるんだよって端から見れば感じるんだけど。当の本人達はそういうこと感じていない。
頭が悪いのかなってイメージなんだけどさ。実際そうなんだろう。動物に近い。
それで、そういうのに女も弱い。すると、そういうドキュンノリで恋愛市場が確立されていく。
こういうのって、厳しいんだよね。
昔の、短歌のやりとりだの、村の風習だので恋愛してるんなら、理性的な自己嫌悪強い奴でも恋愛できると思うんだけど。
ドキュンみたいな理性が働かない状況での恋愛をやれってのは、理性的な奴は拒否っちゃうと思うんだよ。
だってさ。言葉を手に入れられない変わりに女を抱けるぞって言われても絶対拒否するでしょ。
満足した豚より、飢えたソクラテスでいたい。って感じ?
この選択を迫られた結果、飢えたソクラテスを選んでるのが今の童貞なんじゃないのかな。
そもそも、誰に対して自分を売るんだろう。自分が好きになった人ってことだけど。
そういうドキュン市場で女にアタックするようなので動いてる女って、好きにならないだろ。普通。
こういう女性を愛せる自信、マッタク無い。
(でも、書いてて思ったけど、女性もある程度自分を売れるタイムリミットあるから、
わけわかんなくても周りに合わせてリア充ノリしてるってのも多いんだろうね。FBのきらきら女子とかその典型みたいだし)
最近では、そういう愛するとか気持ち悪いから、愛無しで恋愛しろっていう恋愛工学とかもあるみたいだけど。
そういう意味で、見た目をドキュンよりにしなきゃ普通の生活もうまくいかないから男女ともやるんだろうけど。
そういう風に生きていたら、ますます自分が嫌いになる。いやだな、いやだなって気持ちが強くなる。
こういうのやるくらいなら、二次元のほうがマシじゃん。
もちろん、イケメンなら最初のドキュンノリに染まってない小中高時点でいい女抱いたり付き合ったりしまくって、それでいいんだろうけど。
父親は震災復興のボランティア?的な手伝いもしているので、たまに福島産のお米をもらってくる。
無論母親はそれを食べることはない。
もったいないから私がもらうよ、というと「あんたそんな汚い食べ物食べるの?!ガンになって死ぬわよ!」とか言う。
まぁ、ガンになって死ぬだろうね。うちの家系ほぼ全員ガンで死んでるし。ていうか多分あなたもガンで死ぬんじゃないかな、いつ死ぬかはわからないけど。
自分が福島産のものは食べたくない、と言って食べないのは自由だからもう勝手にしてほしい。
うっかりままどぉるをお土産に渡したときゴミのような扱いをされたのはショックだったけど、持ち帰って私と旦那でおいしく頂いた。
けど、その時もまず福島に行ったことをこんこんと説教され、おみやげも今この場で捨てて食べてはいけない!とか言い出した。
無関係な他人にまでその生活様式を強要するのはやめて欲しいんだ。
震災の時にはすでに結婚して実家を出ていたけど、出ておいてよかった。一事が万事これだったら耐えられない。
この前親戚が福島出身の女の子と結婚し、その結婚式にも出てきたのだが、帰りの車内は酷いものだった。
デキ婚だったこともあるからか、「あんな土地で生活してる子供なんてちゃんと生まれてくるのかしら」とか平気で言ってる。
女を、「○○ちゃん」と呼ぶのがスタンダードだったり。
あるいは、会話→会話の中で趣味→じゃあ一緒見に行こうよ。こういう風に、デートとか好きだとか言わずにお互いの相性チェックがサクサクなされる。
顔担当、金担当、行動力担当など、分野別に女を狩る集団プレイ。
リア充のこういう『ルール』ってのは、理屈抜きで成立してるから、考えてもこういうアプローチをしようとはならない。
目の前でやられて、それを女が受けいれるっていうのが成立すればそれがルールになる。
そうやって積み重ねられたリア充特有ルールは、リア充だけの中で共有されている。
で、女を手に入れられるのがリア充の特権だから、リア充が男の社会でのスタンダードなトップカーストになる。
リア充の態度ってのは人工的なものだし、女がそれを受け入れるもんだから、普通の男はやる気がなくなる。
リア充の態度ってのも、そういう生活様式を続けるにはエネルギーや金が必要となり、そんなことにかまけていたら普通の社会生活や勉強など無理になる。
だからこそ、リア充はアホらしいんだけど。リア充がトップカーストになり、礼賛されるから、アホらしい。
なんというか。普通の男からしてみれば、リア充って、ある種の機械にしか見えない。
女を口説いてくるマシーン。女なんか口説いても世の中なんも良くならないんだが、生存競争に必要だから、リア充を立てないといけない。
そして、そんな無意味なヤリチン文化を、女が肯定するから、女叩きや非婚化になるんでしょうって思う。
元増田の感覚は別におかしくないと思います。ただ、私も彼女のようにダブスタだなと思いました。
一人暮らしのときの私の部屋は服が散乱して床が見えなかったのですが水周りはキレイにしてましたので、元増田のように洗わないのはムリですね。服で食中毒にはなりませんが食器で食中毒にはなりますし。
こういうのは生活習慣・生きてきた環境の違いであって、正しいとか正しくないとかではないのです。
元増田は自分が正しければ他人に意見を押し通してそれでいいんですか?
お願いしてくれたこと、自分から始めてくれたこと、いちいち褒めてくれたことで私は改善できました。
同居人の望むような生活を実現したいと思ったからです。一番やる気にさせられたのは「普段やらないことやるのってストレスになるからムリしなくていいよ」と気遣ってもらった時です。
正しいとか正しくないとかではなく、俺がうれしいから、でお願いしたほうがいいと思います。
そして、正しいとか正しくないとかではなく、他人の生活様式にこれまでなかったことを強いるときは「注意」ではなく「お願い」すべきなのです。
例えば食人族の人を日本に連れてきたら、「人を食べるなんてオカシイ」と文化的背景を否定して注意するのではなく「ここでは人は食べちゃダメなので、食べないようにお願いします」と言ったほうがいいと思いませんか?
たとえば、移民や難民を受け入れる事を想定したときに、実際にはやってみないと解らない事がたくさんある。
悪くなる、と思ってやってみて、結果が悪くなることもたくさんあるだろう。
100の害があっても、100億の害があっても受け入れるべきだと僕は思っている。
裏返しにメリットがあるのだけど、大抵の人は両方を享受するはずで、要はどこにフォーカスを当てて話すか、どの程度自分の中で考えを持てるかだけの話だ。
・
僕らは、道徳を習って成長してきたはずだ。
ひねくれ者でなければ、弱者は助けるという点について、積極的に否定しないと思う。
ノーリスクで、腹も痛まずに誰かを助けられるなら、大抵の人は助けるのではないかと思う。そうで無いと確信を持って言えるような人は、残念ながら、僕とはわかり合えないのでこの先を読んでも意味がわからないだろう。
・
さて、彼我を隔てる壁とはなんなのか。
人種、宗教、教育、言語等々、そんな物は壁ではない。単なる違いだ。
その違いも一度混ざれば曖昧になって時間経過で一体化していく程度の物だ。
同じ土地に住みながら彼らを排斥し、一箇所に住まわせ、あくまで異物として扱う態度をとるのだろう。それこそが壁だ。
日本という国に住んでいる人間は、朝鮮半島から、ロシアから、東南アジアから、変わり種では太平洋を渡って等、様々な人間がいろんな理由で断続的に訪れ、暮らしてきた。
混ざり合ったから、解らないだけで、元来は単一種族なんて幻想は神話の世界でしかない。
その流入も、あるいは流出も、太古の話ではない。
鎖国が敷かれる前は当たり前の話だったし、鎖国が説かれた後にはやはり人間の移動行われている。
愛国心というイデオロギーは立派だが、それをはき違えて自分の生まれが立派だと勘違いしてはいけない。
難民をみて、彼らは自分とは存在が違うから、困っていても関係ないと思うのならそれは誤りで、存在に違いはないと認識するべきだ。
・
また、重要なことに、難民や移民にこの国を乗っ取られるのではないか、という不安を語る人もいる。
これについては、先述の通り元来違いなどないのだ。
そこに至るまで長い時間を要し、様々な問題を経ただろうが、同様のことは日本で起きても不思議ではない。
公職選挙のルール上、重要なのは国籍であって肌や目の色ではないからだ。
たまたま黒人に生まれた日本国籍の、日本育ちの男性や女性は選挙に立候補することに躊躇う理由はない。
そして、黒人の首相が誕生したことをもって国を乗っ取られると言うのはかなり幼稚な論法に見える。
親や祖父母に中国、韓国などの国籍を持つ人間でも本人が日本国籍か否かだ。
これを排斥するというのはおおよそ、アメリカで黒人公民権運動に恐怖し、妨害したKKKと大差ない。
いま、歴史を振り返って、黒人排斥運動が素晴らしかったと大声で言える人は少ないだろう。
しかし、根本的に同様の言動をとり、それに気づいていない人は多い。
・
生活様式の違いから、大なり小なり、無数の摩擦と軋轢は発生するだろうが、混ざり合いさえすれば時間の経過でほとんどの問題は角が取れてお互い慣れてしまう。
・
今、ただ無残に駆逐されたり、略取されたり、そういう人間がいて、この国には彼らの少なくともいくらかを助ける力がある。
ならば道徳にしたがって救いの手を差し伸べるべきだと僕は思っている。
何度でも言うが、彼らは同胞ではないので関係ないとか思ってはいけない。
彼らは間違いなく僕らと違いのない人間だ。
・
※経済編についてはまた後で。また、先に同じ日本人で困っている人を助けろと言われるかも知れないが、当然、生死に直面している人は同様に助けるべきだと思っている。
http://anond.hatelabo.jp/20150823004015
個人的な感覚では同調行動がなくなったんじゃなくて、もっときつくなってきてる。
ただ、日本全体が、みんなが、みたいな「抽象的で広い同調行動」がなくなって
もっとかなり狭い範囲での「うちらの」同調行動が強くなった感じがある。
以前はこういう極端な身内以外が見えてないのってヤンキーだけだったと思うけど
最近はアホが増えたのか、LINEなどの圧力が強まったのか、それとも「みんな」の水準に合わせるのを断念しなければいけないくらいに貧乏になったのか、そのあたりは誰か他の人の解説が欲しいところだけれど、
とにかくヤンキー以外の人も視野が狭くなって、消費の仕方も身内にウケるもの重視でそれ以外のやつからはどう思われようが気にしなくなってきてるような気がする。
多分だけど、ある程度より上の層は今までどおり「みんな」消費がまだ生き残ってるけど、もう中流以下は全滅じゃない?
マイルドヤンキーって言葉あったよね。あれ生活様式とかの分類としては突っ込みどころ多かったけど
消費行動の変化を考える上では非常に便利でわかりやすいことだと思ってるよ。
GATEの原作者柳内たくみはHPにこんな文章を載せるようなガチウヨである
文化帝国主義反対/シーシェパード反対/シーシェパードに資金提供・あるいは心情的賛同をしている企業製品を買わないでください。
目的のためなら窃盗・営業妨害といった犯罪にも手を染めるグリーンピースの活動には断固反対します。
反対!!永住外国人参政権/権利は必ず義務を伴います。義務とはその国の過去を背負い、未来に責任を負うということ。そのためには日本国籍を取って○○系日本人として、私たちとともに将来を担ってください。いつでも逃げ出せる立場での選挙権には、私は断固反対します。
https://web.archive.org/web/20090610054526/http://todoku.web.fc2.com/
着意事項
ここは、とどく=たくさんの、とどく=たくさんによる、自己の精神的な欲望を満たすために書かれた一次創作および二次創作文章が、むやみやたらに並べられているサイトです。
その内容は、一部の左かがった主義主張をもっていたり、文化帝国主義者(自分の価値観や生活様式を唯一正しい絶対のものと思いこんで、他の考え方や生き方、食生活といったその土地独特に発展してきた文化を野蛮なものとして排撃する、
白人至上主義的人種差別やナチズムと根底を同じくする思想/具体的には21人の弁護士さんと同じ思想だったり、一神教の原理主義的な信仰の持ち主、捕鯨鯨食反対論者等)や、某国への愛国心や偉大なる某人物への敬愛の念から逃れられない方、
政府とか党の決めた歴史解釈を鵜呑みにして検証する気のない方にとっては、不快となりえるかも知れません。そういう方はお読みになられることをお止めになられるようお勧めします。自分の主義や思想に反する内容でも寛大な心にて楽しむことが出来る方のみお読み下さい。
ここにある文章を読んだが故に発生するかも知れない有形無形・精神的物理的の損害被害について、私が責任を負うことはありえません。自分とは異なる思想の元に書かれた文章を読んだだけで、
精神的にダメージをうける可能性のある方は、絶対に読まないようにしてください。それと、ありえないとは思いますが文章等の転載についても固くお断り申し上げます。あと、リンクについては、小説への直接リンクでなければ、ご自由になさってください。
こういう人が書いてるのが「GATE 自衛隊 彼の地にて、斯く戦えり」である。
761 :名無し草:2015/06/24(水) 23:08:34.73 .net
曰く「戦争映画じゃよくある描写だろ」「何で自衛隊だと神経質になるのw」みたいな
で、仮に思考実験としてみんなに聞きたいんだけど
これで原作者が在特会会員だったり、もしくは在特会を支持しているような人間だと判明したならば
さっきと同じセリフを言えるの?
トキワ荘通り協働プロジェクトが漫画家2人をトークに呼ぼうとしたが、その漫画家が在特会関係者だったためネットで大荒れしたよね
でもその漫画家は嫌韓漫画ばかりじゃなく普通の一般的な漫画も描いてる人だったわけで
普通に漫画の話をしないとも限らないかもしれなかったわけじゃない
今までと同じように向き合えるのお前らは
誰もそれを言わない。反対が70%とか読者に媚びた数字出しやがって。安藤忠雄が会見するって言ってるけど、語ったとしても批判浴びるだろうから書いておく。
都市設計も含むけど、建物っていうのは人が入る箱なので、必然的に人の生活様式を作る。
三谷幸喜監督の「みんなのいえ」って映画の中で、日本人は規格化された住宅に住むから決まり切った生活パターンになり、その人らしさが生まれないみたいな話があった。多様性が生まれないということは生物としては死を意味する。
当然、パーツを組み合わせるだけの建築は低コストだから普及するのだけど、より社会を活性化させるためには自由な建築があってもいいはずだ。
国立競技場は住宅ではないけど、ランドマークとしては日本の均質な安っぽい建築に一石投じるポテンシャルがある。
オリンピック以後もそうやって人に影響を及ぼし続けるものだから、オリンピックに間に合わないとか大きな問題ではない。太陽の塔だって最初は批判されてたけど今や立派なランドマークだ。この世には最初は批判されてたけど後々大切なランドマークになってる建築がたくさんある。人々はそれに気づかない。
物事をつきつめ本当に必要なものだけにしぼって生きるという事は芳醇だった時代との決別であり、不況からくる生活様式の変換であり、
なるべくしてなったスタイルだと思う。
おれたちの周りには物が溢れすぎていて、しかもそれぞれそれなりに便利な物ばかりだ。
工夫もなく必要であれば100均でちょっと便利な小物がすぐ手に入る。
なにも考えず身の回りの豊かさに踊らされて生きていくのは本当にカンタンでラクチンだが、大事なことを、本質を見失う。
ミニマリストなんて言葉がキャッチーすぎて変な空気になってしまってるが、そういう言葉がなかったとしても反動でシンプルな生き方をする人は自然に増えていったハズだ。
まずはちょっとの便利を排除してるし、そこそこの便利だって排除してる。
結局はかなり不便な生き方になるのだ。
しかしその不便な中で工夫して生きる中にこそ生きる事の発見があり喜びがあり得難い経験がある。
おれってちゃんと生きてるんだな、生かされた生活じゃないんだな、って気がつく。
手元に残った道具や家具や生活用品は自然と愛着がわく。これからも大事にしていきたいな、と本気で思う。
残った物は本当に愛すべき物だし、逆に考えると残らなかった物は自分にとって不要でも、他人にとってはかけがえのない物なんだろうな、って気がつく。
結局は愛なんだよ。
ミニマリズムは金持ちの道楽だとか、貧乏人の現状肯定だとか、両極端な批評がされているが、実際のところどちらも正しいのだろう。金持ちも貧乏人も旗を掲げられるのがミニマリズムである。金持ちは清貧をアピールできるし、貧乏人は物が買えない自分という現実を忘れることができる。各層にそれぞれのメリットがあり、だからこそ広がりを見せているわけである。
ここで思い出されるのが細川護煕元首相である。彼はしばらく前に「足るを知れ」と大衆に清貧の思想を説いた。広がる貧困から目を背け、没落する日本を前に、あらゆる全てを手に入れ優雅な隠居生活を送る彼が、もういいじゃないか満足しろと言い放ったのである。満ち足りた者が何も持たない者に、もう何も欲しがるなと言ったのである。こんな戯言に耳を貸すのは世間知らずだけだろう。これは、本来為政者が正さなければならない経済の問題を、気持ちの問題にすり替えることで無かったことにしようとする質の悪いプロパガンダである。彼が自覚的にそう主張しているかは定かではないが、盲目的に清貧を良しとすればその帰結として大衆は経済の諸問題を甘じて受け入れなければならないのである。
ミニマリズムは、この清貧の思想の系譜だろう。同様の構造を持っているのである。ミニマリズムは芸術分野に主軸を置き洗練されており素晴らしいが、それを個人が生活様式として実践するとき、芸術という皮を着た清貧の思想が浮かび上がってくる。これを上手く利用する者もいれば、振り回される者もいるということである。清貧の思想は一時的には経済の問題を気持ちの問題へとすり替えて見せるだろうが、長い目で見れば経済の問題を放置させる要因となり、それはやがて弱いものへと向かっていくことになるだろう。ミニマリズムを信奉する貧しい者はゆっくりと自殺していると言えるのである。
店員に聞かないと商品の良さを判断できない低能ならともかく、自己判断できるやつはみんな西友を選択肢に入れてるよ?
5日20日はセゾンカード使えばもっと安い。西友は家電のチラシを滅多に出さないしネットにも価格を載せないし量販店もたかがスーパーとバカにしているから価格調査もしない。
量販店って価格に書かれてない工事費とか思ったより高いし、商品単品では量販店が安かったけどトータルでは西友の方が安かったことも多い。
ひょっとしたら西武沿線住人だけの生活様式かもしれないが、ネットだ量販店だ言ってるだけの人がこうも多いとなんだか残念なのでちょっと書いてみた。
はてブでポツダム宣言の現代語訳が話題になっていた。だが、外務省による文語訳が、現代語訳者により「この文章を理解できる日本人が何人いるか?」と揶揄されていたり、ブコメでも「いい加減なカタカナ混じりの変な訳」などとDISられていたりして気になった。そこで、文語訳の仮名遣い、送り仮名、句読法、一部の漢字を現代風に改めてみた。文法はそのままだが、普通に読んで理解できる文章になったと思う。
http://www.ndl.go.jp/constitution/etc/j06.html
米、英、支、三国宣言
1、我ら合衆国大統領、中華民国政府主席および「グレート・ブリテン」国総理大臣は、我らの数億の国民を代表し、協議の上、日本国に対し、今次の戦争を終結するの機会を与うることに意見一致せり。
2、合衆国、英帝国および中華民国の、巨大なる陸海空軍は、西方より自国の陸軍および空軍による数倍の増強を受け、日本国に対し、最後的打撃を加うるの態勢を整えたり。右軍事力は、日本国が抵抗を終止するに至るまで、同国に対し、戦争を遂行するの一切の連合国の決意により支持せられ、かつ鼓舞せられ居るものなり。
3、決起せる世界の自由なる人民の力に対する、「ドイツ」国の無益かつ無意義なる抵抗の結果は、日本国国民に対する先例を、極めて明白に示すものなり。現在、日本国に対し集結しつつある力は、抵抗する「ナチス」に対し適用せられたる場合において、全「ドイツ」国人民の土地、産業および生活様式を、必然的に荒廃に帰せしめたる力に比し、計り知れざるほど、さらに強大なるものなり。我らの決意に支持せらるる、我らの軍事力の最高度の使用は、日本国軍隊の不可避かつ完全なる壊滅を意味すべく、また同様、必然的に、日本国本土の完全なる破壊を意味すべし。
4、無分別なる打算により、日本帝国を滅亡の淵に陥れたる、わがままなる軍国主義的助言者により、日本国が引き続き統御せらるべきか、または理性の経路を日本国が踏むべきかを、日本国が決意すべき時期は到来せり。
5、我らの条件は左のごとし
我らは、右条件より離脱することなかるべし。右に代わる条件存在せず。我らは遅延を認むるを得ず。
6、我らは、無責任なる軍国主義が世界より駆逐せらるるに至るまでは、平和、安全および正義の新秩序が、生じ得ざることを主張するものなるをもって、日本国国民を欺瞞し、これをして世界征服の挙に出ずるの過誤を犯さしめたる者の権力および勢力は、永久に除去せられざるべからず。
7、右のごとき新秩序が建設せられ、かつ日本国の戦争遂行力が破砕せられたることの確証あるに至るまでは、連合国の指定すべき日本国領域内の諸地点は、我らの、ここに指示する、基本的目的の達成を確保するため、占領せらるべし。
8、「カイロ」宣言の条項は、履行せらるべく、また日本国の主権は、本州、北海道、九州および四国、ならびに我らの決定する諸小島に局限せらるべし。
9、日本国軍隊は完全に武装を解除せられたる後、各自の家庭に復帰し、平和的かつ生産的の生活を営むの機会を得しめらるべし。
10、我らは日本人を民族として奴隷とせんとし、または国民として滅亡せしめんとするの意図を有するものにあらざるも、我らの捕虜を虐待せる者を含む、一切の戦争犯罪人に対しては、厳重なる処罰、加えらるべし。日本国政府は、日本国国民の間における、民主主義的傾向の復活強化に対する、一切の障害を除去すべし。言論、宗教および思想の自由、ならびに基本的人権の尊重は、確立せらるべし。
11、日本国は、その経済を支持し、かつ公正なる実物賠償の取り立てを可能ならしむるがごとき産業を、維持することを許さるべし。ただし、日本国をして戦争のため、再軍備をなすことを、得しむるがごとき産業は、この限りにあらず。右目的のため、原料の入手(その支配とは、これを区別す)を許可さるべし。日本国は、将来、世界貿易関係への参加を許さるべし。
12、前記、諸目的が達成せられ、かつ日本国国民の自由に表明せる意志に従い、平和的傾向を有し、かつ責任ある政府が樹立せらるるにおいては、連合国の占領軍は、直ちに日本国より撤収せらるべし。
13、我らは、日本国政府が直ちに全日本国軍隊の無条件降伏を宣言し、かつ右行動における同政府の誠意に付き、適当かつ十分なる保証を提供せんことを、同政府に対し要求す。右以外の日本国の選択は、迅速かつ完全なる壊滅あるのみとす。
中田考さん(イスラム法学者でムスリム)が叩かれてるようなので、ちょっとだけフォローしたい。
(なお自分はムスリムではないし、かの美しいと有名なクルアーン(コーラン)も注釈でしか触れたことがない)
六信五行なんて訳されることもあるが、ムスリムは義務としての決め事が多い。
判りやすいところでいくと、ザカート(Zakat)というのがあって、これは義務的な施しにあたる。
翻訳の難しいところで、これは税金として解釈されることもあるし、喜捨つまり寄付の一種と看做されることもある。
財産税による社会福祉と言うのが実体に近く、アッラーフに寄進して、それを皆が使う、という再分配機能になっている。
と、言うようにイスラームというのは宗教であるのだが、その根幹が社会制度になっている。
王様が世捨て人を経て悟った宗教とか、大工の息子が突如悟って国教になっちゃった宗教とは違い、
砂漠のど真ん中で戦国時代やってたような連中をまとめ上げてサバイブしてきた宗教なので、
政(まつりごと)やってる連中に好きに利用されちゃう宗教とは違って、
なので、イスラーム共同体を作り守り広げるぞ、いう感じなわけだ。
ウンマ・イスラーミーヤ(ummma islamiya)とか言われるものがそれになる。
で、ジハードのことを聖戦と訳すとまたややこしいことになるんだが、
「アッラーフのための奮闘努力」が多分一番近いニュアンスになる。
意外(?)な事に、大ジハードとは個人的な内面の戦いになる。現実の戦争とか小ジハードなのね。
ラマダーン(断食月間)だとか、宗教的に正しい行いをするのはより困難で重要である、というわけ。
これは、大体の法学者が見解を一致する数少ない部分でもあって、かなり重要な概念なのです。
宗教というよりは生活様式というかまんま国是みたいなものですというのを理解してもらった上で、
さらにムハンマドにもたらされたクルアーンは絶対、というのが義務として五行に組み込まれていて、
ムスリムはみんなそれを守るのは重要だと考えている、という前提をおいた上で、
ダール・アル=イスラームと呼ばれる、イスラーム世界というのがあるわけです。
ダール・アル=ハルブと呼ばれる、非イスラーム世界というのもあるのです。
自分たちのルールとは、違うルールを使ってる世界、というニュアンス。
すると、当然、自分の家を守るのは義務、ということでイスラーム世界を守るのは義務なわけです。
宗教は自由なので無理強いはしないけど、イスラーム世界のルールには従おう、みたいなのがあるのです。
結果、非ムスリムは許容するけど、非イスラーム世界をイスラーム世界に組み入れる努力を怠ってはならない、
という、ワリと複雑なことになっているわけです。
まあ、正確にはアラビア語のクルアーンを読むべきなんだけれども、
不信仰者の攻撃を受けて背を向けてはならない、戦略的撤退等を除いてはアッラーフの怒りを被り地獄に住むことになる、とか書いてある。
そうすると、非イスラーム世界からの攻撃に、ムスリムは防衛する義務があって、背を向けてはならないわけです。
そして、非イスラーム世界の代表例とも言えるのがアメリカ合衆国で、これに背を向けられないと。
ただし、害がない場合(イスラーム世界と和平を結びたがってる異教徒)には、和平を結んでも良い、とされている。
ムスリムである中田考さんの会見は、同胞であるムスリムに対する呼びかけになるわけですね。
イスラーム国をムスリムでないと断定できれば攻撃したり非難したりすることは簡単なんだけど、それは出来ない。
すると、非イスラーム世界と戦っている!と言われれば、背を向けよ、とは声掛け出来ない。
日本政府側には「ムスリムは異教徒と戦って背を向ける事は出来ない(地獄に落ちる)ので、戦うとか言わないで」とまず言ったと。
テロリスト、非テロリストという枠組みではなく、まずイスラーム世界と非イスラーム世界との枠組みの話ね。
で、トルコ経由で人道支援に限って渡すことも出来るよ、仲介するよ、と。
「日本政府の資金は、人道支援に限ってるよ(戦うために使っているわけではない≒非イスラーム世界だが敵対中ではない)」
「(君らも知ってると思うが、安部総理はトルコ・レバノンへ支援すると言ってるわけで)トルコ経由で渡すこともできるよ」
「双方にとって時間が短すぎるよ、そこはなんとかならんかね。自分もそっちに行くよ」
「ヤージディー教徒は解放したよね。そういう態度の方が、主張は通りやすいよ」
ムハンマドにもたらされたクルアーンは絶対、という前提のもとでは、攻撃に折れよとは絶対に言えないわけです。
ただ、テロリストとは交渉しない、テロリストに金を払わないという日本政府側の前提も曲げられないと。
すると、日本は非イスラーム世界だが、人道支援に限って金を出しているので敵対中ではなく、和平を望んでいると、
イスラーム国もムスリムなら、小ジハードを止めろとは言わないから、異教徒に寛大でも良くないか、
そもそも時間も短すぎるし、ちょっとムスリムの法学者たる自分が間に入るから話を聞いてくれまいか、
と、そういう声掛けになるわけです。
質疑応答でも、身代金を払うんじゃない人道支援だ、と繰り返し言ってるのが、板挟みの回答になってるわけですよ。
まあ、ワリと中田考さんはイスラーム国側に立った物言いしてるわけですね。どちらかと言うとメッセージになってる。
敵対すると同じ派閥であっても即処刑する人達なので、非難して即斬首とか困るわけですよ。当然ながら。
(もちろん、ムスリムがみんなこうかとういとそうじゃなくて、過激派は認めないとか、イスラムの名を利用した単なる侵略だ、とか言ってるトコロも多くある)
とういわけで、ワリと詰んでる状況で、譲歩を引き出す限界ギリギリのところだったんじゃないかなあと思うわけです。
だって、日本は米国と協調路線で、ガッツリ名前出してISIL壊滅の為にイラク政府に手を貸すとか言っちゃってるわけで。
本来なら政府はテロリストと交渉しないので、引き伸ばしつつ救出(奪還)作戦を展開して成功させないといけないわけで。
家族とか所属会社経由で身代金に応じるっていう裏取引(政府は目をつぶる)も、時間が短すぎると。
ども、質問に先立ちまして、当委員会の藤江先生の御冥福を心からお祈りしたいと思います。
ことしは、言うまでもなく国連が定める国際先住民年であります。少数先住民族に対する人権の保障、あるいは民族の伝統文化や生活様式の保存、継承は言うまでもありません。我が国のみならず、今や国際的な課題となっております。世界的にこの先住民族問題がクローズアップされたのは、歯どめのきかない自然界に対する開発政策への警鐘といいますか、反省、見直しを求める声があったからだと思います。昨年採択されました環境と開発に関するリオ宣言第二十二原則でもそのことがうたわれております。先住民の文化及び利益を認め、持続可能な開発の達成に向けて効果的参加を可能とするように、こういうふうに明記されております。
アイヌ民族が北海道、昔は蝦夷地と呼ばれておりましたが、樺太あるいは北方領土を含む千島列島に和人よりも先に住んでいたという事実をお認めになりますでしょうか。
○国務大臣(河野洋平君) アイヌの方々が古くから住んでおられたということは、文献その他から見て通説となっていると承知しております。
○中尾則幸君 そうしますと、繰り返しになりますけれども、先に住んでいたということは長官も認められました。つまり、先に住んでいるということで先住民族であると。これは社会党を初めいろいろ私どもがたびたび国会の場で論議してきたところであります。この国会審議の場で河野長官は、国際的定義がいま一つである、はっきりしないと繰り返し答弁されてきました。これまでの経過の中で、アイヌ民族を少数民族として政府が認めるということは聞いておりますけれども、歴史的にも先に住んでいた、つまり先住民であることは、これはもう明白な事実であります。
なぜ政府は独自に先住民としての定義づけをしないのか、結論を国連の場に求めるのか。判断を先延ばししているのじゃないかと私は思うのでありますけれども、その理由は何かお聞かせ願いたいと思います。
○国務大臣(河野洋平君) 今先生もお話しになりましたように、私どもはアイヌの方々が古くから住んでいるということは文献等によって承知しておりますが、先住民族という言葉の持つ定義というものが幾つかに分かれている、あるいはまた国際的な定説がないということから、つまり国際的な定説がないままにそうした先住民族という言葉を使うということには躊躇せざるを得ないものがあるというのが我々の率直な感じでございます。
今先生御指摘のように、古くから住んでいた、それはすなわち先住、先に住んでいたということではないかというふうにおっしゃいますが、古くから住んでいたことを我々は承知しておりますが、先住民族という言葉でそれを表現してしまうと、先住民族という言葉それ自体が持つ国際的なさまざまな議論がございまして、もうこれは先生十分御承知のとおりでございますが、そのどの定説に当たるかによってこれから先の言ってみれば権利義務の問題その他に絡んでくる、あるいは誤解を招きかねないということがございますので、私どもとしては古くから住んでいることを承知しているということでお答えを申し上げているわけでございます。
○中尾則幸君 長官の今までの御答弁、衆議院の予算委員会等でも同じような御答弁なんですけれども、私はちょっとここでもう一言伺いたいのは、先住のことについては認める、ただ長官がおっしゃるのは権利、いろいろな権利が発生してきます。その問題を長官は言っていると思いますけれども、私は先住権について言っておらないのであります。
先住民族としてまず認めない限り、今までのウタリ対策については非常に後退している。長官も御存じのように、アメリカあるいはカナダ等先進諸国ではいろいろな州法をもって保護あるいはいろいろな権利を認めているわけです。ですから、先住権となりますとこれは長官のおっしゃることも私はあろうかと思います。しかし、先住民族としてまず指定をすべきじゃないかと私は思っているわけです。先住権と同一にする理由はない。もちろん先住権についてウタリ協会も私どももあるんだというふうに主張してまいりますけれども、その入り口の先住民族であるという認定、これは政府独自の手でやるべきじゃないかと私は思っているわけです。一言お答え願います。
○国務大臣(河野洋平君) 私どもとしては古くから住んでおられた方々に対して、それなりのと申しますか我々としての思いはございます。しかし、これは委員が十分御承知のとおり、国際的なさまざまな議論が今、とりわけことしはそうした議論の年でございますからさまざまな議論があって、これを国際的な通念として固めていくという議論が行われている年でございますだけに、私どもはその議論の間でもう少し慎重に我々なりに議論をし、国際的な議論との関係についても慎重に検討する必要があるのではないか。これは日本の憲法その他とのかかわり合いもございます。そうしたこともあって慎重な検討が必要ではないか。
これも私は恐らく先生と同じ気持ちだと思いますが、古くから住んでおられて経済的にも大変御苦労をしておられるこうした方々に対する思い、気持ちというものを私は持っております。持っておりますが、そのことと国際的な議論との間には少しまだ検討しなければならない余地があるのではないかということを事務当局がこの問題をずっと議論をし研究をしつつある中で感じているわけでございまして、私は古くから住んでおられることを認め、そしてこうした方々が今非常に厳しい環境の中におられるということも私自身は承知しながらも、固有名詞としてそれを使うということについては非常にちゅうちょせざるを得ない状況でございます。
http://kokkai.ndl.go.jp/SENTAKU/sangiin/126/1410/12606141410006c.html