はてなキーワード: 生活様式とは
主観的にモテるのは事実。自分の経験は欧州北方の観測範囲だけど。
日本人の男は、まず女に声をかけない。そもそも現代日本は知らない人には儀礼的無関心を保つ文化なので仕方ないが(一方知り合いならセクハラを恐れて声をかけない方向に進化してる)、理由はともかく、結果として接触がない。
一方、欧州人は気軽に初見の人に声をかけるし、それが年齢の釣り合う男女なら自然に男女のお誘いになる。あっちの文化は男女の役割がはっきりしてカップル文化なので、シングルの人は隙あらばカップルになろうとしてて、男はとにかく声をかけまくる。
人生で数回(平均値)しか声をかけない日本男子と、一日に何人にも声をかける欧州男子、統計的にどちらがモテ(どっちからモテ)、どちらがマッチングするかは明白である。
また性別役割がはっきりしてる文化なので、男性のエスコートがすごい。職場では男女同権だがプライベートではナイト、その切替がすごい。褒め文化もすごいので、口に出す言葉もすごい。男性から大切にされることに慣れてない日本女性はすぐ落ちる。
結果として、日本では月に1度もお誘いがかからない女が、あっちでは1日に何度も誘われ、10人と目が合えば2人には誘われ、デートに応じれば姫扱いみたいな状態になる。これを主観的モテと言う。
客観的モテとは、彼らにとって同国人である欧州女性と比べて日本女性がモテているのかということだが、あたしゃ欧州女性になったことがないので知らん。モテてるけど、それが当たり前で育ったから当たり前なんだろう。
日本人は、世界の人種の中でも最も女性寄りの体の持ち主である。メジャーなアジア人である中国人はもっと体格がよいし、日本より細いアジア人もいないわけではないが、肌が白く滑らかで女性的な印象を与えるのは日本人である。コーカソイドの目から見ると、日本女性はより女性らしく、日本男性もまた女性らしく見える。
また性格の細やかさや細部にこだわる美意識、凝ったファッションや清潔な生活様式など、その行動も女性的な印象を与える。
というわけで、日本女性は自国女性より女性らしく見え、古風な女性らしさを好む人々に受けが良い。日本男性は・・・・・ゲイにモテるから落ち込まないで!
よく若く見えると言われるが、実は顔よりも体の差がすごい。白人の肌は間近で見るとブレミッシュで美しくないし、触っても滑らかさはない。正直、自分が男の側だったらキツかったと思う。その点、日本女性が脱ぐと感動される。リピーターも非常に多い(アジア人専門の白人さんの出来上がりである)。
コーカソイドは成長が長く続き、ティーンエイジャーの頃は細いが、その後も体格が変わり続け、体が厚く腕や脚も太く、非常にガッチリしてくる。そんな彼らの目から見ると、永遠にティーンエイジャーの体を持つ人種、それが日本人(アジア人)である。
昨今、入国管理局は収容者に対して虐待を働いているというようなことが言われますがそれは間違いです
メディアの誇張やデマを真に受けてあたかも収容者へ恒常的に虐待が繰り返されているという誤認はやめて欲しいです
以下がその内容です
収容令書又は退去強制令書により入国者収容所や地方入管局の収容場に収容されている外国人(以下「被収容者」といいます。)は,保安上支障がない範囲内において,できる限りの自由が与えられ,その属する国の風俗習慣,生活様式を尊重されています。
これから入国者収容所の一例をもって被収容者の処遇を紹介します。
収容施設の構造及び設備は,通風,採光を十分に配慮しており,冷暖房が完備されています。
開放処遇
被収容者は,定められた時間内,居室以外の収容エリア内で自由に入浴,洗濯,運動等ができるほか,多目的ホールに設置された公衆電話で外部の者と話すこともできます。
1 診療等
医師及び看護師が常駐し,被収容者の診療に当たっており,必要に応じて外部の病院に通院,入院させる等被収容者の健康管理に万全の対策が講じられています。
また,被収容者の心情安定を図るため,臨床心理士によるカウンセリングを実施しています。
2 運動
悪天候以外,屋外での運動が可能です。また,各収容エリア内の多目的ホールには,卓球台等が設置され軽運動や談話などができるようになっています。
栄養士による栄養バランスのとれた献立により調理され,特に被収容者が属する国の食習慣,宗教上の戒律等に留意した特別食や病人等に配慮したものとなっています。
面会
被収容者の国籍国等の領事官,被収容者の訴訟代理人,又は弁護人である弁護士や,それ以外の面会者でも所長等が立会いの必要がないと認める場合は,入国警備官の立会いを行っていません。
はぁ??
「ワンルームは部屋を貸すというよりも生活様式一式をレンタルさせる」という発想で宅内のサービスが比較的充実したものが多いから。
お前、田舎者だろ。
2DKくらいでもどっちみち安い田舎なら確かにワンルームなんか付加サービスなければわざわざ借りないのかもしれないけどな。
かつて世界一周の船旅に出た画家であるダーウィンが、その船旅の途中に海難事故に遭遇し、ピンチに陥った。その時ダーウィンが命からがら辿り着いた島がガラパコス島。
そこでダーウィンが本国からの助けを待ってる間に食料として主に食べられたのがこのダーウィン・フィンチだとされている。
山程のダーウィン・フィンチを焼いて食し、その骨だけの姿を見てダーウィンはある事に気付いた。
おそらく沢山の種類の鳥を食した筈であるのに、鳥によってある特定の部分だけは違う種類のフィンチであっても同じだったのである。
ダーウィンはそこで画材道具である筆を見てこう思った。「男の筆に相当する部分も、人間によりかなりサイズが異なる。これら異なる種だと思われてきたフィンチも、実は男の筆と同様に個体差によるものなのだろう」と。
そして、その個体差というものがダーウィンフィンチそれぞれの集団における生活様式と密接に関わっている事が分かった。
寒い所にいるフィンチは耳が小さくなり、毛も白く、体格が大きくなる傾向にあった。
逆に、赤道近くにいるフィンチは体が小さくなる傾向にあった。
これらは遺伝子的にほぼ同じフィンチであっても個体としてはそう表出するというところに驚きがあった。
もちろん北極のフィンチと赤道直下のフィンチは互いに交雑をする事も出来る。
同じ生物ですらそのような個体差を持つことが出来るのである。そして、その個体差は環境によって変化をさせることが出来る。
この事に気付いたとき、ダーウィンは「エウレカ!」と叫んでドラム缶風呂から飛び出したという。
つまり、だ。増田の親指がスマートフォンの操作には短いというのならば、安心してほしい。
環境が人を育てる。増田が大きいスマートフォンを持ち生活に用い続ける事により、いずれ増田の親指もスマートフォンに適応して伸びていくことだろう。
22日投開票の衆院選と同時に実施される最高裁裁判官の国民審査に向け、朝日新聞社を含む報道各社は、審査対象の裁判官7人に共通アンケートを行いました。質問と回答の全文は次の通りです(文意を損なわない範囲で、表現の一部を変えています)。
質問と回答が分かれていて読みづらいので整形した。
参考:国民審査 | 衆議院選挙2017 - Yahoo!みんなの政治
常に中立公正であること。法と良心に従い、幅広い視野から事件に取り組み、考え方の筋道がよく分かる判断をするように努めたい。
適正迅速で分かりやすい裁判をすること。利害や見解の対立する事柄について、証拠と法に基づき筋道立てて判断を示す裁判の役割への期待に応えることが大切だと考えている。
これ一つと挙げることは難しい。医療事件は、事実認定、法律判断、科学的知見の理解、当事者の心情などについて考えを巡らせることが多く、深く記憶に残るものが少なくない。
国のかたちを定める憲法の改正については、国民的な議論を経て国民が判断することであるので、回答は差し控えたい。
具体的な事件を離れて、憲法条項の在り方について見解を述べることは差し控えたい。
議員定数訴訟の判決の中で示した意見のとおりである。具体的な事件を離れて見解を述べることは差し控えたい。
注:14年衆院選の「1票の格差」を違憲状態とする多数意見(15年11月)
具体的な事件を離れて見解を述べること、個別事件に対する見解を述べることは差し控えたい。
裁判員制度は、課題はあるが、おおむね順調に運営されていると考えている。司法の国民的基盤に関わる極めて重要な制度であるので、課題については実証的な検討を重ね、中長期的な構想をもって粘り強く対応していくことが大切だと考えている。
司法制度改革以降、刑事司法は大きく改善されてきたと思う。事実認定については、常に謙虚さと恐れをもって取り組み、誤りのないよう様々な角度から慎重に証拠を吟味することが大切であると考えている。
究極の刑罰である死刑については、様々な意見や議論があるところであり、格別の検討が必要であると考えているが、具体的な事件を離れて見解を述べることは差し控えたい。
かねてよりの懸案事項が立法化されたものであり、刑事司法の適正化などが更に促進されることを期待している。
具体的な政策についての見解を述べることは控えたいが、幅広い素養を備えた法律家が養成され、司法制度を支え、更に様々な分野で活躍することを期待している。
国際取引事件、家事渉外事件をはじめとする国際的紛争事件に円滑に対応するためには、手続き的整備のほか、裁判所における人材の育成、専門集中部などの処理態勢の整備を図ることが重要であると考えている。
裁判も一種の情報処理作用であるから、情報処理革命の外にいられない。法的手当て、関係者の発想転換などが必要になるが、情報伝達、情報の整理検索などの切り口から従来方法の思い切った見直しを図ることにより、アクセス、迅速性などが大きく変化するであろう。
若いスポーツ選手、棋士たちが伸び伸びと活躍していることを頼もしく、うれしく思う。理不尽な事柄に対しては、感情によるより、事実を見つめて捉えるようにしている。
好きなことは、読書、速歩による散歩、総菜作りなど。好きな言葉は「初心忘るべからず」。市井に生きた両親への感謝と尊敬の念を忘れることはない。
コリン・パウエル氏の「マイ・アメリカン・ジャーニー」。パウエル氏の軌跡からアメリカの社会構造を興味深く感じ取ることができた。
当事者に主張立証を尽くす機会が与えられ、裁判所が適正で公平な審理判断をしたかという観点から原審までの手続き・判断を先入観なく審査したい。上告理由など該当性の判断と結果の妥当性とのバランスや従前の判例との整合性など、上告審、法律審としての判断の在り方に難しさを感じている。
納得性の高い審理に基づき、分かりやすい理由を示した適正で迅速な裁判が行われ、その内容が社会一般の正義の観念にも合致するものであること。傍聴して内容を理解できる分かりやすい審理・判断をすることが重要であり、最高裁で行われ始めた判決理由要旨の告知などもよいことだと思う。
任命後半年余りに過ぎず、無我夢中で事件に取り組んできたというのが正直なところであり、まだ記憶に残る事件を申し上げられるだけの経験がない。
最高裁判事の任命の在り方などについては、最高裁判事の任命権が属する内閣において検討される事柄であるので、お答えは差し控えたい。
憲法改正は、国会による発議と国民投票によるものであり、司法権に属する立場から個人的な意見を述べることは差し控えたい。
諸情勢が変化する中で憲法9条を巡り様々な議論があることは承知しているが、司法権に属する立場から個人的な意見を述べることは差し控えたい。
具体的な事件の中で判断を示すべき事柄であるので、回答は差し控えたい。
注:16年参院選の「1票の格差」を合憲とする多数意見(17年9月)
高度な科学技術を用いたシステムの効用とリスクや社会的許容性の的確な判断は困難だが、中立公平な姿勢で双方の意見に耳を傾け、多角的な判断をするよう心掛けたい。
長期化は証人らの記憶の減退、被告人の身柄拘束の長期化などの弊害を招く。法曹三者が具体的な長期化要因を分析・共有し、改善策を協議することが重要。辞退率上昇の原因は様々だと思うが、法曹三者は、審理期間、審理・判断の難易度、心理的負担感等、裁判員の負担感を軽減するための努力が重要。
誤判はあってはならず、裁判官は、虚心に被告人の弁解や証拠を精査し、わずかな疑問点でも納得するまで解明する姿勢を堅持しなければと自戒している。
死刑制度の存廃は国民の間で様々な観点から議論されるべき問題であり、司法権に属する立場から個人的な意見を述べることは差し控えたい。
新制度の下で得られる証拠が事案の解明に効果的であればあるほど、証拠としての適格性や信用性の判断も一層慎重に行わなければならないと考えている。
法科大学院の教育の更なる充実を図るとともに、プロフェッションとしての法曹の価値に対する社会の評価を高め、需要の裾野を広げることも重要。
国際感覚を身に付け、事案に応じて外国の法制度、文化、生活様式、価値観などを適切に考慮した判断を行うことのできる裁判官の育成が求められる。
電子手続きは、裁判所へのアクセス負担を軽減する等の効用が期待できるが、当面はコストに見合う利用と効果が期待できる分野から始めるのが現実的。
うれしかったことは、1968年メキシコ五輪の年に100mで10秒の壁が破られてから49年後に日本人も10秒の壁を破ったこと。体格差を考えると偉業。腹立たしく感じたことは、歩きスマホ、自転車スマホの人とぶつかりそうになった時。本人も危ないが、相手に負わせるかもしれない被害を想像してほしいと思う。
鉄道趣味全般。古い車両に乗るのが楽しい。健康維持で始めたウォーキングは10年になり、街歩き、街道歩き(ゴールは遠い)も楽しんでいる。小学校から高校時代の恩師の中には人間形成面で重要な影響を与えてくださった方がおられ、折に触れて思い出し、感謝の気持ちを新たにしている。好きな言葉、座右の銘は、「一隅を照らす」。どんな仕事でも受けた以上責任を持って行わなければならないという戒めとして。「一度に一つずつ」(One thing at a time)。トム・クランシーの小説の中で主人公が緊迫した状況で出る言葉で、仕事が交錯して煮詰まった時の呪文として。
少し前に読んだものであるが、鎌田浩毅著「地球の歴史(上)(中)(下)」(中公新書)。地球46億年の歴史がコンパクトに記述され、億年単位の長いスパンの地球の活動の前では人類は微小な存在であることが素人にもよく分かる。
息子ができてから、妻の機嫌が悪くなることが増えた。
あれほど穏やかだった妻ですらこうなるのだから、子育てとはかように過酷なものなのかと実感する。
日常の様々なシーンの中で、特に私が気を使ってしまうのは食事の時だ。
家事と育児に追われ、時には子供の泣き声をBGMにしながら、それでもなるべくきちんとしたものを貴重な30分や1時間を費やして用意してくれる。
それは本当にありがたいと思っているのだが、私は食べるのが比較的早いほうで、作るのにかかった時間の何分の一の時間で食事を終えてしまう。
できるだけ感謝の気持ちは表すようにしているつもりだが、それでも体調が万全でなかったり子供の世話がいつもよりかかった日などは、
こいつ私が大変な思いをして毎日作っているのを当たり前のような顔して平らげやがって、と思われていないかと不安になる。
でも私としては、それを妻に強要しているつもりは一切ない。
いくらでも手抜きをしてもらっていいし、何なら毎日手料理でなくとも構わないとも思っている。
そもそも食事とは単なるエネルギーの補給手段であって、呼吸や排泄と同じように、生きるために必要不可欠だから仕方なくやっていることではないのか。
動物だって、肉食なら狩りのために動く必要があるが、獲物が手に入れば後は肉を食らうだけだし、草食動物はそこら辺に生えている草をのんびり食べて生きている。
なぜ人間だけが、わざわざ余計な時間と労力をかけて調理などというまどろっこしいことをして、そのために心の余裕を失わなければならないのだろうか。
だからしばらく前に、カプセルを飲むだけで栄養源が取れて食事をしなくて済むソイレントという画期的な商品が出てきた時は本当に心が踊った。
そういうものがあれば、私たちは食事を作る手間と片付ける手間が省ける上に、消化に無駄なエネルギーを割かなくても済むようになる。
それが人類のスタンダードとして市民権を得ていけば、日々料理に拘束されている膨大な時間を開放することができ、まさに革命的な出来事になるだろう。
まだ商品としては不完全なようだが、今後の開発が進んで実用的なものになってくれることを待ち望んでいる。
そうなれば、料理なんてものは好き好んでやりたい人間だけがやるような高尚な趣味に置き換わっていくはずだ。
レシピを考え、必要な食材を吟味して調達し、それを加工するための器具を揃え、熱や電気を使い、時間をかけて調理し、きれいに盛り付けてテーブルに並べ、食べ終わったら後片付けをする。
しかも、この一連の膨大な作業は、料理スキルが一定以上なければまずいものが出来上がるだけで全て無駄になってしまう。
冷静に考えて、日々生活の上で必ずしなければならないこととして、料理はあまりにも過剰な負担と言うべきなのではないだろうか?
最近はクラシルなどという新しい動画レシピサービスの広告を見るが、あんなに楽しそうに料理ができる美人主婦なんて空想上の生き物、完全にファンタジーだと私は思う。
なのにどうして私たちは料理から離れることができないのかと言うと、それが社会通念上健全な日常生活の一風景として規定されているからに過ぎない。
今は昔のように、男が稼いで女は家のことを黙々とこなすという生活様式ではなくなった。
だから私たちの考え方もそれに合わせて変えていく必要があるのだと思う。
わざわざ寒い冬を選び、高速を飛ばして都会から離れた山まで行き、年に数回しか活躍の場がない用品の手入れをして、お金を払ってリフトに乗り、怪我や最悪遭難、転落死などのリスクを抱えながら、わずか数分の滑走を楽しむ。
興味のない私からすると、準備の困難さから時間の経過まで、まるで料理みたいなもんじゃないかと思ってしまう。
そういうことを、私たちが日常生活の中に組み込んでおく必要性がどこにあるのだろう。
人間が生きるために必要なのはエネルギーであって、料理そのものではない。
会社での昼食は家から持ってきているものを食べていることが多い。ごはんとおかずがセットになった質素な弁当。
今までは白米だったが、最近はなんとなく健康に良さそうな気がして買った玄米を食べている。玄米は特別好きというわけではないが、それなりに美味しいと思う。わたしのなかで白米と玄米の美味しさは並列で、それぞれに良いところがあり序列はない。
だが昼食をともにする同僚の女性にとってはそうではないらしく、
「うげ。また玄米か。うわー」
だったり
「玄米きらいなんだよねー」
とか
「玄米はまずい」
などと、毎日のように否定的な意見をくれる。わたしはなるべく波風を立てたくないので、
「匂い苦手な人多いみたいだね」
とか
「独特な味だよね」
とか
「そういう考え方もあるよね」
などとお茶を濁してから、まあわたしは好きなんだけどね、などと独りごち、食べる。
わたしはズボラな性格なので、お弁当づくりも適当である。だから先日はフードコンテナに豚の軟骨のはいった醤油ベースの芋煮をいれていた。特にそのことを告げず、昼食に豚の軟骨をボリボリと食べていたら、音を不審がられ何を食べているか彼女に尋ねられた。
わたしは
「ごめん軟骨」
とだけ言った。何かを言うときに相手にどこかしらマイナスの感情を読み取るとわたしはまず謝ってしまう癖がある。
彼女は
「うわー。気持ち悪い。嫌いな食べ物ベスト3にはいる。無理無理」
と言った。
人間にも軟骨あるじゃん、とわたしは言った。彼女は鳥にしか軟骨はないんだと思ってた、と言った。鼻と耳は軟骨だよと言った。どうやら硬骨もしくは肉の塊だと思っていたらしかった。
仕事が終わって道すがらこのやりとりを思い出した。すると、突如わたしは尋常じゃない怒りに駆られた。は?軟骨うめえし。玄米もうめえし。
怒りの感情は膨れ上がり、悲しみを通り越し、憎いと思った。なんだかよくわからないが、その時は心底彼女が憎かった。嫌な記憶が数珠繋ぎになって想起され、わたしは身動きがとれなくなった。
わたしはなんとなくだが、怒りという感情に鈍感だ。いつも適切なタイミングで怒れない。気がついた時にはすごく怒っている。
前述のできごとによって、わたしは強い怒りに駆られた。自分ではなんとなく、我慢できると思っていたみたいだった。だが毎日のように自分の口のなかにはいるものを気持ち悪いとか、食べるものじゃない、と言われて、自分のなかのバケツが溢れた。わたしは家で一人でとても怒っていた。制御できなかった。
なぜこれほど腹が立つのか考えた。そうしてわたしはひとつの考えに思い至った。わたしは彼女の好き嫌いの激しさを許容「してあげている」と思っていたのだ。本来は強く非難されてしかるべき好き嫌いの多さを、わたしが非難しないで「あげている」のに、それを無下にするなんてひどい、と思って怒っていたのだ。わたしはリベラルぶった偽善者だったというわけである。
もともと彼女は食べ物の好き嫌いが激しい。そのことによって冗談交じりに非難されているところもよく見るし、親しくなりたての頃はその好き嫌いの境界線(マグロの刺身はダメだがツナはOK)を探るのが楽しかった。しかし、なぜ好き嫌いが多いかという話になり、
「小さい頃、親がお腹こわすといけないって言って生魚とか食べさせなかったらしいんだ。それで食べられないんだと思う」
という彼女自身による原因分析を聞いてから、あまり好き嫌いに触れないようにしようと思った。それは彼女自身にはどうしようもなかったことだからだ。
誰にでも生きてきた人生がありバックボーンがある。わたしは彼女が生きてきた人生を愛しバックボーンを受け入れることが、今の彼女に対し親愛な気持ちを持つことだと思って疑わなかった。だから好き嫌いについて非難したり馬鹿にしたようなことを言わないと決めた。
だがわたしにとって、食べものの好き嫌いがないことは純然たる正義だった。
人間、生きている限り徳を高めなければならないとわたしは信じ、日々よりよい人間であろうと思っている。食べ物を好き嫌いなく食べることはそれの最たるものだ。馬鹿馬鹿しいかもしれないがそうなのである。
わたしは好き嫌いがほぼなく、大抵のものは美味しいと思って食べている。そもそも向こうは命を奪われているのである。関わってきた人もいる。美味しいと思わなければ申し訳ない。そんな幼稚ともとれる考えにいまだに支配されており、わたしは食べ物を好き嫌いなく食べることは純然たる正義だと信じていた。
わたしは自らの信じる正義を正義だと信じながらも、彼女のことを認めて「あげている」気持ちになっていた。わたしの本心としては、食べもののことを気持ち悪いということは信じられないことだった。わたしは食べられないものがあることを内心恥じていてほしかったのだ。わたしはわたしの正義を押しつけたかったようだった。
だが、人が今まさに食べているもののことを気持ち悪いと言うことについてはやはりやめてほしいと思う。わたしはそう言われるとえづいてしまいそうになる。不快である。テレビなどで独自の生活様式を持つ「部族」などと呼ばれる人が昆虫を食べる様子を気味悪がる場面があるが、あれも本当に失礼極まりないと思う。なぜ人のバックボーンを受け入れないのか。その人がそうしている歴史を受け入れないのか。わたしには玄米や豚の軟骨を食べたくなるようなバックボーンが存在すると、どうして考えてくれないのだ。自分勝手かもしれないがそう思う。
わたしは人間の独善的な有りようは紛れもない悪だと思う。だが独善的な有りように対し決して受け入れまいとするわたしもまた独善的である。だが独善的な有りようを許容してしまうとこの世は独善的な有りようが占めてしまう。ノーと言うべきか否か、ジレンマに板挟みになる。
わたしはわたしが食べているものを気持ち悪いと言われることが嫌なことがわかった。今後どうすべきか、方法は以下のとおりだろう。
①食べているものを気持ち悪がられると嫌だと伝え、控えるように言って一緒に食べる
②上記の理由を伝えたうえで一緒に食べることをやめる
③上記の理由を伝えず一緒に食べることをやめる
ぱっと見①がまっとうだが、考えるに、彼女にとって彼女の嫌いなものを目の前で食べられることがストレスなのだと想像する。また、自分の食べられないものを貶めることで、普段好き嫌いについて非難されることへのフラストレーションのはけ口にしているのではないか。よって①は却下である。
②はまず伝えることへのストレスがある。④はまだ玄米が8キロある。よって③が妥当だと考える。
うだうだ人の悪口を言うような奴は勝手に一人で食ってろって話である。わたしはまずこの徳の低さをなんとかしたほうがいい。考えすぎかなとも思う。書いてスッキリしたかというとそうでもない。
事務総長、大統領、世界の指導者、有名な代表団がニューヨークへようこそ。世界の人々に対処するためにアメリカ人の代表として私の故郷の町にここに立つことは非常に栄誉です。何百万人もの市民が私たちの国を襲った壊滅的なハリケーンの影響を受け続けているので、私はこの部屋のすべてのリーダーに援助と援助をしてくれたことに感謝の意を表したいと思います。アメリカ人は強く弾力性があり、これまで以上に決定されたこれらの苦難から出てくるでしょう。
幸いにも、米国は昨年11月8日の選挙日以来、非常にうまくいっています。株式市場は過去最高の記録です。失業率は16年ぶりの最低水準であり、規制やその他の改革のために、今日、米国ではこれまで以上に多くの人々が働いています。企業は長期的に見ていないような雇用の成長をもたらしており、軍と防衛に約7000億ドルを費やすことが発表されました。私たちの軍隊はまもなくこれまでにも最も強力なものになるでしょう。 70年以上にわたり、戦争と平和の時代に、国家、運動、宗教の指導者たちがこの集会の前に立っていました。
それらの人たちと同じように、今日私たちの前にある非常に深刻な脅威のいくつかに取り組むつもりですが、解き放たれるのを待っている巨大な可能性もあります。私たちはすばらしい機会に暮らしています。科学、技術、および医学のブレークスルーは、病気を治し、以前の世代が解決できないと考えていた問題を解決しています。しかし、毎日、私たちが大切にしているすべてのものを脅かす危険性が増しているというニュースもあります。テロリストと過激派は力を集め、地球のすべての地域に広がっています。この体に代表される悪党政権は恐怖を支持するだけでなく、人類に知られている最も破壊的な武器を使って他の国や国民を脅かす。
権威主義と権威主義権力は、紛争を防ぎ、第二次世界大戦以来自由に向かって言葉を傾けた価値観、制度、同盟を崩壊させようとしている。国際的な犯罪ネットワーク、薬物、武器、人々、強制的な転位、大量移住は、私たちの国民を脅かすために私たちの国境と新しい侵略搾取技術を脅かす。簡単に言えば、私たちは莫大な約束と大きな危険の両方の時に会います。世界を新たな高さに上げるか、荒廃する谷に落とすかは、まったく私たちに任されています。何百万人もの人々を貧困から救い、市民が夢を実現するのを助け、新たな世代の子供たちが暴力、憎しみ、恐怖から解放されるように、私たちは力を持っています。
この機関は、このより良い将来を形作るために、2つの世界大戦の余波の中に設立されました。国連の主権を守り、安全保障を維持し、繁栄を促進するために、多様な国が協力できるというビジョンに基づいています。まさしく70年前の同時期に、米国は欧州復興を支援するマーシャル計画を策定した。これらの美しい柱は、平和、主権、安全保障、そして繁栄の柱です。マーシャル計画は、国家が強く、独立しており、自由である場合、世界全体がより安全であるという崇高な考えに基づいて作られました。大統領として、トルーマンは当時の議会へのメッセージで、欧州復興支援は国連の支援と完全に一致していると述べた。
国連の成功は、メンバーの独立した強さに依存します。現在の危険を克服し、未来の約束を達成するためには、過去の知恵で始める必要があります。私たちの成功は、主権を擁護し、安全と繁栄と平和を促進するための強力で独立した国々の連帯に左右されます。私たちは、多様な国々が同じ文化、伝統、あるいは政府の制度を共有することを期待していませんが、すべての国がこれらの2つの主権を守り、自分の国民の利益と他国のすべての国家の権利を尊重することを期待しています。
これはこの機関の美しいビジョンであり、これは協力と成功の基盤です。強い国家主権国は、異なる価値観、異なる文化、そして異なる夢が共存するだけでなく、互いの尊重に基づいて並行して働く多様な国々を可能にします。強い国家は、国民が将来のオーナーシップを持ち、自分の運命を支配することを可能にします。そして強力な主権国は、個人が神が意図した人生の満ち足りた時に繁栄することを可能にします。アメリカでは、私たちの生活様式を誰にでも追求するのではなく、みんなが見るための例として輝かせるようにしています。
今週は、わが国にその事例を誇りにする特別な理由が与えられています。私たちは、今日も世界で最も古くから使われている憲法である憲法230周年を祝っています。この時機を失った文書は、アメリカ人の平和と繁栄と自由の基盤であり、世界各地の無数の何百万人もの人が、人間の本性、人間の尊厳、法の支配にインスピレーションを得ています。米国憲法の最大のものは、最初の3つの美しい言葉です。彼らは「私たちの民」です。これらの言葉の約束、私たちの国の約束、そして偉大な歴史を維持するために、世代のアメリカ人は犠牲になってきました。
アメリカでは、人々が支配し、人々は支配し、人々は国家である。私は権力を握るのではなく、それが所属するアメリカ人に力を与えることに選ばれました。外交では、この主権の創始原則を更新しています。政府の最初の義務は、国民、市民、ニーズに応え、安全を確保し、権利を保護し、価値を守ることです。米国の大統領として、私は常にアメリカを最初に置く。あなたの国の指導者のように、あなたのように、常にあなたの国を最初に置くべきです。
すべての責任ある指導者は、自分の市民に奉仕する義務を負っており、国家は人間の条件を上げるための最良の手段です。しかし、人々の生活をより良くするためには、すべての人々にとってより安全で平和な未来を創造するために、緊密な調和と団結で仕事を一緒にする必要があります。
米国は永遠に、世界の、特にその同盟国との素晴らしい友人になるでしょう。しかし、我々はもはや、米国が何の報いも得ていない一方的な取引を利用したり、これに参入することはできない。私がこの事務所を所持している限り、私はアメリカの利益を他の国よりも守るつもりですが、国家に対する義務を履行する上で、すべての国が主権、繁栄、安全である将来を追求することは誰にとっても魅力的です。
アメリカは、国連憲章で表明された価値観以上のことをしています。私たちの市民は、この大ホールで代表される多くの国の自由と自由を守るために、究極の価格を払っています。アメリカの献身は、私たちの若い男女が戦った戦場で測定され、私たちの同盟国の横で犠牲にされました。ヨーロッパのビーチから中東の砂漠、アジアのジャングルに至るまで、私たちと同盟諸国が歴史的に最も血の多い戦争から勝利した後でさえ、我々は領土拡大を求めなかった私たちの生活様式を他者に押しつけようとする。その代わりに、私たちは、このような機関を構築し、すべての国の主権、安全保障、そして繁栄を守るのを助けました。世界の多様な国にとって、これは私たちの希望です。
私たちは調和と友情を求めています。紛争と分裂ではありません。私たちは、イデオロギーではなく成果によって導かれています。私たちは、共通の目標、利益、価値観に根ざした原則的な現実主義の方針を持っています。その現実主義は、私たちに、この部屋のすべてのリーダーと国家が直面する問題に直面するように強制します。それは、私たちが逃げることも避けることもできない問題です。私たちは、今日の挑戦、脅威、さらには戦争に麻痺したり、今日の危険に直面するための十分な力と誇りをもって、私たちの市民が明日の平和と繁栄を楽しむことができるように、
私たちの市民を持ち上げたいなら、歴史の承認を願うならば、私たちが忠実に代表する人々に私たちの主権を果たさなければなりません。私たちは、国家、国益、先物を保護しなければなりません。我々はウクライナから南シナ海への主権への脅威を拒絶しなければならない。私たちは、法律、国境の尊重、文化に対する敬意、そしてこれらが許す平和的な関与を尊重しなければなりません。
そして、この体の創設者が意図したように、私たちは一緒に働き、混乱、混乱、恐怖で私たちを脅かす人たちと対峙しなければなりません。今日の私たちの惑星の得点は、国連の根底にあるすべての原則に違反する小さな政権です。彼らは自国の市民も国家の主権も尊重しません。正義の者の多くが邪悪な少数者と対峙しなければ、悪は勝利するでしょう。まともな人や国が歴史に傍観者になれば、破壊力は力と強さを集めるだけです。
北朝鮮の腐敗した政権よりも、他の国々や自国の福祉にもっと軽蔑を表明した者はいない。数百万人の北朝鮮人の飢餓死を引き起こしている。そして、無数のものの投獄、拷問、殺害、抑圧のために。アメリカの大学生、オットー・ワームビア(Otto Warmbier)がアメリカに帰国したのは、数日後にしか死ぬことがなかったとき、私たちは政権の致命的な虐待を目の当たりにしていました。
独裁者の兄弟の暗殺で、国際空港で禁止された神経薬を使って見ました。私たちは、自国の浜辺から13歳の甘い女の子を誘拐し、北朝鮮のスパイのための語学教師として彼女を奴隷にすることを知っている。核兵器や弾道ミサイルの無謀な追求が、人類の犠牲にならないほど脅かされている。いくつかの国がそのような体制と取引するだけでなく、核兵器を持つ世界を危うくする国を支援し、供給し、財政的に支援することは、怒りです。
地球上のどの国も、この犯罪者のバンドが核兵器とミサイルで武装しているのを見ることに興味がない。米国には大きな力と忍耐がありますが、もしそれが自国や同盟国を守ることが強制されれば、我々は北朝鮮を完全に破壊するしかないでしょう。ロケットの男は、自分自身と彼の体制のために自殺任務をしている。米国は、準備ができて、喜んで、有能だが、これは必要ではないことを願っている。それが、国連のすべてです。それが国連の目的です。彼らのやり方を見てみましょう。
北朝鮮は、非核化が唯一の受け入れ可能な将来であることを認識するべき時である。国連安全保障理事会は、最近、北朝鮮に対する厳しい決議を採択し、満場一致で15-0の投票を2回開催し、安全保障理事会の他のメンバー全員と一緒に制裁を求める投票に合意した中国とロシアに感謝したい。関係者全員に感謝します。しかし、我々はもっと多くをしなければならない。
キム政権が敵対的な行動を止めるまで、キム政権を孤立させるためには、すべての国家が協力しなければならない。北朝鮮だけでなく、世界の国々が、大量の殺人を公然とし、アメリカに死を誓う、イスラエルへの破壊を宣言し、この部屋の多くの指導者と国家のために滅ぼそうとする別の無謀な政権に直面するのはずっと前の時です。
イラン政府は、民主主義の誤った姿の背後にある腐敗した独裁政権を覆す。豊かな歴史と文化を持つ裕福な国を、経済的に枯渇した凶悪状態にしており、主な輸出は暴力、流血、混乱である。イランの指導者たちの最長犠牲者は、実際には自国の人々です。その資源を使ってイラン人の生活を改善するのではなく、石油の利益は、無実のイスラム教徒を殺害し、平和なアラブ人とイスラエルの近隣諸国を攻撃するヒズボラやその他のテロリストに資金を提供する。
イランの民に正当に属しているこの富はまた、バシャール・アサドの独裁政権を救済し、イエメンの内戦を促進し、中東全体の平和を損なうことになる。危険なミサイルを建造している間に殺人的な政権がこれらの不安定な活動を続けることは許されず、最終的な核計画の成立をカバーするならば合意を守ることができない。イランとの取引は、米国がこれまでに締結した最悪かつ最大の一方的な取引の一つであった。率直に言えば、その取引は米国に対する恥ずかしさであり、私はあなたが最後のことを聞いたとは思わない。私を信じてください。
イランの政府が死と破壊を追求することを要求することで、全世界が私たちと合流する時が来た。政権が、不当に拘束されたすべてのアメリカ人と他の国民の市民を解放する時期です。とりわけ、イラン政府はテロリストの支持を止め、自国の人々にサービスを提供し、近隣諸国の主権を尊重しなければならない。イランの善良な人々が変革を望んでいること、そして米国の広大な軍事力を除けば、イランの人々は彼らの指導者たちが最も恐れていると世界中が理解しています。これは、政権がインターネットアクセスを制限し、衛星放送を裂き、学生の非武装勢力を撃ち殺し、政治改革者を投獄する原因となっている。
抑圧的な政権は永遠に耐えることができず、人々が選択に直面する日が来るだろう。彼らは貧困、流血、恐怖の道を続けるのだろうか、あるいはイラン人民が文明、文化、財産の中心地としての国家の誇りに戻って、人々が再び幸せで繁栄してくれるだろうか?イラン政府のテロ支援は、近年多くの近隣諸国がテロとの戦いや財政再建を約束したこととは全く対照的であり、昨年早々にサウジアラビアでアラブとイスラム教徒50人以上の指導者国家。我々は、すべての責任ある国家が、テロリストと彼らにインスピレーションを与えるイスラム過激派と対峙するために協力しなければならないことに合意した。
急進的なイスラム原理主義テロリズムは、国家を壊して、世界全体を壊滅させることはできないので、私たちはそれを止めるでしょう。我々は、テロリストの安全な避難所、交通機関、資金、および彼らの卑劣なイデオロギーに対する支持の形態を否定しなければならない。私たちは彼らを私たちの国から追い出さなければなりません。それは彼らの支援と援助を受けている国々を暴露し、責任を負う時です。アルカーイダ、ヒズボラ、タリバン、そして無実の人々を殺す他のテログループを支援し、資金を提供している。
米国と同盟国は中東全域で協力して、敗者テロリストを鎮圧し、安全な避難所の再出撃を阻止し、全国民に対する攻撃を開始する。先月、私はアフガニスタンのこの悪との戦いで勝利のための新たな戦略を発表しました。これからの我々の安全保障上の利益は、政治家によって設定された任意のベンチマークとタイムテーブルではなく、軍事作戦の期間と範囲を決定するだろう。私はまた、タリバンや他のテロ組織との戦いにおいて、婚約のルールを完全に変えました。
シリアとイラクでは、ISISの永続的な敗北のために大きく貢献しました。事実、私たちの国は、過去8ヶ月の間にISISに対して何年にもわたってより多くを達成しました。我々は、シリア紛争の脱スケールとシリア人の意志を尊重する政治的解決策を模索している。 Bashar al-Assadの刑事政権の行動は、自分の市民、無実の子供まで化学兵器を使用することを含め、すべてのまともな人の良心に衝撃を与える。禁止されている化学兵器が拡散することが許されていれば、社会は安全ではありません。だから米国は攻撃を開始した基地にミサイル攻撃を行ったのです。
シリア紛争で難民を迎え入れる際の役割について、ヨルダン、トルコ、レバノンに特に感謝し、ISISから解放された分野で人道的支援を提供している国連機関の努力に感謝します。米国は思いやりのある国家であり、この努力を支援するために何十億ドルも費やしてきました。私たちは、この恐ろしい扱いを受けた人々を援助し、復興の過程の一部として帰国することを可能にする難民の移住へのアプローチを模索しています。米国で難民1名を移住させるための費用として、自国で10人以上の難民を支援することができます。
私たちの心の良さのために、我々は地域の援助国に資金援助を提供し、G20諸国の難民を可能な限り母国の近くに迎えようとする最近の合意を支持する。これは、安全で責任ある人道的アプローチです。何十年にもわたって、米国は西半球での移住の課題に取り組んできました。
我々は長期的には、無制限の移住が送付国と受給国の両方にとって深く不公平であることを知りました。途上国にとっては、必要な政治的・経済的改革を追求する国内の圧力を軽減し、その改革を動機づけ、実施するために必要な人的資本を排除する。受入国にとって、無制限の移住の実質的な費用は、メディアと政府の両方で無視されることが多い低所得の市民によって圧倒的に生まれています。
国連の仕事に敬意を表して、人々が自宅から逃げる原因となる問題に取り組んでいきたいと思います。国連とアフリカ連合は、アフリカにおける紛争を安定化させるために、平和維持ミッションに貴重な貢献をもたらしました。米国は、南スーダン、ソマリア、ナイジェリア北部、イエメンでの飢餓の予防と救済を含む人道援助で世界をリードし続けています。
エイズ救済のための資金を調達するPEPFAR、大統領のマラリア・イニシアチブ、グローバル・ヘルス・セキュリティ・アジェンダ、現代奴隷を終結させるグローバル・ファンド、女性起業家の財政イニシアティブなどのプログラムを通して、世界中のより良い健康と機会に投資しました。世界中の女性に力を与えることへのコミットメント。
我々はまた感謝しますか?我々は、国連が主権、安全保障、繁栄の脅威に対抗する効果的なパートナーであるためには、改革すべきであることを認識して事務総長に感謝する。この組織の焦点はあまりにもしばしば成果ではなく、官僚主義とプロセスにあります。場合によっては、この機関の崇高な目的を覆そうとしている州は、それを推進すべきシステムをハイジャックしている。例えば、国連人権理事会には、著しい人権記録を持ついくつかの政府が置かれていることは、国連に大きな恥ずかしさを感じています。
米国は国連の193ヶ国のうちの1つですが、予算全体の22%以上を支払っています。実際、私たちは誰よりもはるかに多くを実現します。米国は不公平なコスト負担を負っていますが、それが実際に目標のすべて、特に平和の目標を達成することができれば、この投資は容易に価値があるでしょう。世界の大部分は葛藤しており、実際には地獄に出る人もいるが、国連の指導と助けを借りて、この部屋の強力な人々は、これらの悪質で複雑な問題の多くを解決することができる。米国国民は、ある日すぐに、国連が、世界中の人間の尊厳と自由のためにはるかに説明責任があり、効果的な主張になることを願っています。
その間、私たちは、軍事的にも財政的にも負担を負担しなければならない国はないと考えています。世界の各国は、自国の地域で安全で豊かな社会を促進する上で大きな役割を果たす必要があります。だからこそ、西半球では、米国はキューバの腐敗した不安定な体制に立ち向かい、キューバの人々の永遠の夢を自由に生きることに抱いていたのです。
私の政権は最近、基本的な改革がなされるまで、キューバ政府に対して制裁を解除しないことを発表しました。我々は、ベネズエラのマドゥロ社会主義体制に対する厳しい裁定制裁を課した。これは、繁栄した国を完全崩壊の危機にさらした。ニコラス・マドゥロの社会主義独裁政権は、その国の善良な人々にひどい苦痛と苦しみをもたらしました。
この腐敗した政権は繁栄した国家を破壊しましたか?貧困と悲惨をもたらした失敗したイデオロギーを、それが試みられたあらゆるところに課すことによって、事態を悪化させるために、マドゥロは選挙代表者の権力を奪って自分の民に反抗し、悲惨なルールを守っている。ベネズエラの人々は飢えており、国は崩壊している。彼らの民主的制度は破壊されつつある。状況はまったく受け入れられず、我慢できずに見ることもできません。
責任ある隣人と友人として、私たちと他のすべての人が目標を持っていますか?その目的は、自由を取り戻し、国を回復し、民主主義を回復することです。私は、この政権を非難し、ベネズエラの人々に重要な支援を提供するこの部屋の指導者に感謝したいと思います。米国は、政権に責任を持たせるために重要な措置を講じている。我々は、ベネズエラの政府がベネズエラの人々に独裁政権を課すという道を続けているならば、さらなる行動を取る用意がある。
今日、ここに集まったラテンアメリカの多くの国々と信じられないほど強く健康的な貿易関係を持つことは幸いです。私たちの経済的な結束は、私たちのすべての人々と近隣のすべての人々の平和と繁栄を促進するための重要な基盤を形成します。私は、今日ここに代表されるすべての国に、この本当の危機にもっと対処する用意があることを願います。我々は、ベネズエラにおける民主主義と政治的自由の完全な回復を求めている。ベネズエラの問題は、社会主義が実施されていないことではなく、社会主義が忠実に実施されていることである。
ソ連からキューバ、ベネズエラに至るまで、真の社会主義や共産主義が採択されているところでは、それは苦痛と荒廃と失敗をもたらしました。これらの不信心なイデオロギーの教義を説く人々は、この残酷なシステムの下に住む人々の継続的な苦しみにしか寄与しません。アメリカは残酷な政権下に住むすべての人と立っている。主権に対する私たちの尊敬は、行動の要請でもあります。すべての人々は、繁栄を含めて、安全、関心、幸福を気にする政府に値する。アメリカでは、ビジネスの絆を強め、すべての国ののれんと貿易を求めていますが、この取引は公正でなければならず、相反するものでなければなりません。
あまりにも長い間、アメリカ人は、巨大な多国籍貿易取引、説明不能な国際裁判所、強力な世界的官僚制が彼らの成功を促進する最善の方法であると言われました。しかし、その約束が流れていくうちに、何百万という仕事がなくなり、何千もの工場が姿を消しました。他の人たちはシステムを攻撃してルールを破り、かつてアメリカの繁栄の基盤となった偉大な中産階級は忘れ去られましたが、もはや忘れられずに再び忘れられないでしょう。
アメリカは他国との協力や商取引を進めていく一方で、国民一人ひとりの義務を全政府に徹底しています。この債券はアメリカの力の源であり、今日ここに代表されるすべての責任ある国家のものです。この組織が私たちの前で挑戦にうまく対処することを希望するならば、トルーマン大統領が約70年前に言ったように、メンバーの独立した力に依存します。将来の機会を抱き、現在の危険を克服するためには、歴史に根差し、運命に投資している国々、友好国を求める国々、強い国家、独立国家、敵を征服するのではなく、最も重要なのは、自分の国、仲間の市民、そして人間の精神の中で一番良いすべてのために犠牲を払ってくれる男性と女性が住む国です。
この体の創設につながった大きな勝利を覚えて、悪と戦った英雄たちが、彼らが愛する国々のためにも戦ったことを決して忘れてはなりません。愛国心は、ポーランド人をポーランド人を救うために死ぬように導き、フランス人は自由なフランス人のために戦い、英国人は英国のために強く立つようにしました。今日、私たち自身、心、心、そして国々に投資しないと、強い家族、安全なコミュニティ、健康な社会を築くことが
自ブログに書こうと思ったんだけど、どうもよく理解できないので、メモのままここに残しておく。将来利用するかどうかはわからない。
「文化」とは、社会に共有された生活様式。この場合の社会とは、コミュニティであったり地域であったり、場合によっては国家が支配する領域であったりする。生活様式には、言語や伝承なども含まれる。
「文化的同一性」とは、その社会の成員がその社会に属しているものとして自覚できる文化。社会に共有されたものであると同時にその個人のものでもあるため、所有意識が生まれる。
「所有」とは、他者を排除して占有する権利のこと。権利であるがゆえに社会的に定まるものであり、社会的に定まるがゆえに社会によってその範囲は異なる。また、抽象的な存在に対する占有を可能にするためには、何らかの概念が共有されている必要がある。例えば著作物に対する所有は、複製や営利に関する一定の概念が共有されなければ無意味になる。
「剥奪」とは、社会的強者が社会的弱者の権利を奪うこと。奪われる権利が物品財貨の所有権である場合は搾取となる。
「文化の剥奪」とは、ある社会集団に所属するひとの文化的同一性を保持する権利を奪うことである。例えば狩猟社会において狩猟を禁止することや伝統的に行われてきた祭祀を禁止することなど、旧来の生活様式を禁止することは文化の剥奪にあたる。創氏改名は文化の剥奪の典型例である。
「文化の盗用」(cultural appropriation)とは、社会的強者が社会的弱者の文化をあたかも自分のものであるかのように占有する現象。
文化の盗用が問題になるのは、盗用によって本来のその文化の保持者の文化的同一性が脅かされるからである。すなわち、自分自身の所属する社会集団の文化が他の社会集団のものとされることにより、自分自身の同一性を脅かされる。すなわち、文化の盗用問題は、文化の剥奪問題の一種であるということができる。
文化の盗用問題に対する抗議が文化的標識(例えば特定の民話や伝承)の使用権の問題として表面化するのは、弱者が強者に対抗する論拠がそこに求めやすいからでしかない。実際の問題は、使用権にではなく、社会的な支配・被支配関係にある。
文化の剥奪問題は、弱者側の自主的な同化を伴うため、外見上、単なる時代変化と線を引きにくいものになる。たとえば明治日本の欧化政策は、軍事的、経済的、政治的に圧倒的強者であった西欧世界による日本文化の剥奪であったが、それが日本社会の側からの強者に対する弱者の対抗策として実施された主体的なものであったことも事実である。その際に、「和魂洋才」といった文化的同一性保持のための辻褄合わせが提唱されたことなど、分析すべき点は多い。
朝鮮人に対する創氏改名は強権的な文化の剥奪であり、戦後の在日朝鮮人・韓国人の通称使用の第一の原因であるが、在日側の日本国内在住のための利便性からの選好という側面があったことも否定はできない。そのような姿勢に経済的・社会的な権力関係が強い影響を与えたことも事実である。このあたりは非常に重層的で、軽々しく断じることができない。
いずれにせよ、文化の剥奪は強者が弱者に対して行うものであり、このような議論が昨今日本人から発せられているという点は、社会集団の力関係の変化を考察する上で興味深い出発点になるかもしれない。