はてなキーワード: 生存権とは
身体の自由が認められていても容疑者は逮捕・抑留されるし、不起訴や無罪になっても大した保障はでないよ。
「棲み分け賛成」じゃなくて、「プライバシーに踏み込むな」って話なんだよね。
「規制に反対」じゃなくて、「アイデンティティを侮辱するな」って話なんだよね。
みんなそろそろ真面目に議論しようよ。党派性に固執するのやめよう。
ファッションやセクシャリティは(たとえ公然と表現されていても)プライバシーの領域であると理解できる人が、他の表現になると途端に「表現した時点で環境型セクハラ!」とか言い出すのどうかしてるよね。「我々のプライバシーに踏み込んでくるな」という話をしてるのにね。
例えば同性愛差別に反対する時、婚姻制度のような法整備の話とは別に、「公然と侮辱すること」はただそれだけで批判されるべき事柄だよね。何でもかんでも法制度と人権の話にしたがるのは賢い戦略とは言えないのにね。人権というのは世界中を敵に回す極悪テロリストにも適用されるもの。「ともかく表現の自由は守られるべき」と言うのは、「凶悪犯罪者にも生存権はあるから死刑反対」と言うようなもの。そもそも犯罪者予備軍扱いそのものを批判しないといけないのにね。
航空野犬隊「犬の生存権を守るのが我々だ。
暴排の誓約書に関して
自身および第三者を通じて反社会的な行為を行わない、直接関与しない事を誓約させるのに関しては全く問題ないんだけれど...
合法的な商取引、正当な契約まで制限するのは自由権、生存権の侵害でありいくら犯罪を犯す可能性が高いからと言って 未だ法を犯していない者をその属性でもって予防拘禁的に排除するのは許容すべきではない。
人権侵害、差別の助長を相手に強いる行為だということは知っているべきではなかろうか
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芦屋市「日本一厳しい景観条例」施行、「営業の自由」より「景観」が優先される?
https://www.bengo4.com/c_1018/n_4863/
兵庫県芦屋市で、屋上広告を全面禁止し、看板の色や大きさを厳しく規制する「屋外広告物条例」が7月1日に施行された。広告制限で有名な京都市を上回る規制もあり、「日本一の厳しさ」などと報道され、話題になっている。
「実際に、今回の芦屋市の景観条例や、これまで一番厳しいといわれていた京都市の景観条例についても、『憲法違反である』という声が目立つという状況にはありません。
それは、景観条例による広告規制で営業の自由(憲法22条)などが制約されるにしても、市民の良好な景観を求める利益を守るための条例なので、『公共の福祉(憲法13条、22条など)による制約としてやむをえない』という見方が一般的になっているからだと考えられます。
また、憲法上の人権の中でも、営業の自由などいわゆる『経済的自由』と呼ばれる権利は、他の種類の人権(精神的自由や生存権など)と衝突する場面では、ある程度制約されてもやむを得ないという考え方があります。
自分の敷地内で外から見えないようになら好きに家も看板も電柱さえも好きに建ってていいだろうが。
見たくもない人に対しても見せて表現の自由にはならないと思うよ。
俺はエロ漫画を好んで読むけどフィクションはフィクションとして自宅で読んでいるだけだしね。
ま、俺自身はゴミなんで景観が汚くてもまあ良いとしても問題はこれからを生きていく子どもたちだな。
せめて良好な環境で育って欲しい。
このまとめを見た。
【またお前らか】『なんでここに先生が!?』のブースのツイートに、いつもの連中がイチャモン付けに来た。 - Togetter
http://b.hatena.ne.jp/entry/s/togetter.com/li/1331836
このおっぱい展示を擁護してる人を見るとある共通点に気づく。それはラノベオタクばかりということだ。
最近は社会学VSオタクという構図になってきているが、同時にほとんどの場合、社会学VSラノベオタクでもある。
なぜラノベオタクはラノベという人文・社会科学の産物を超好意的に嗜んでいながら反文学部的なスタンスなのかは興味深い話題でもある。
ひとつの仮説として考えたのは、ラノベオタクは人文・社会科学系の専門書を大して読んでいないということだ(多くの人は理系なのだろう)。そして彼らはラノベや彼らが「一般小説」と読んでいる類の大衆文学ばかり読んでいるということ。
彼らは人文・社会科学の産物であるラノベを大量に読んでいながらも、その文脈を理解しないままただ漫然とストーリーを楽しんでいるということになる。
これでは人格の涵養など望めないし、ネトウヨ的感性のまま年を取っても仕方がないのかもしれない。
ラノベオタクたちは「俺たちは賢い」「他のやつらはバカ」というスタンスが基本になっている。
とても自信に満ち溢れているように見える。
彼らは自分は「読書家」だから知的な人間だと思っているのだろう。
彼らが読んでいるのはたかが「小説」にすぎないのだが、しかし「小説」も「本」には違いない。
「本を読んでいる=賢い」というような思い込みがあるのではないか?
ラノベオタクたちの高慢さ、傲慢さを見るとそういったものを感じる。
彼らを観察していると、年齢の割に教養のなさ(雑学的な浅い知識だけは豊富)、バランス感覚のなさ、他者への配慮のなさ、といったものをすごく感じる。
深い理解に基づく知識のなさや教養の欠落などは大した問題ではない。問題なのはラノベオタクたちが社会の中で厄介者化していることだ。彼らは被害者意識がとてつもなく強く、他者への攻撃性が高い、ということは外から観察している人にはよく見えていることだろう。
いい大人なら社会というのは人と人との衝突(それも陳腐な衝突だ)が日常的に起きるということを知っている。主義と主義、思想と思想、思惑と思惑、そういったものは衝突するものだ。
彼らが絶対の原理として掲げる「表現の自由」だが、もちろんこれも他の主義・思想との衝突は避けられない。どんなものも絶対不可侵ではいられない。それが社会というものだ。絶対の安全圏などない。ここは永遠安寧の天国ではない。
だが、ラノベオタクたちにはこういったことがわからない。社会とは他者との関わりあいだということが理解できない。教条主義に陥っているラノベオタクたちは結果的に文字通り「信者」のようなものと化す。したがって、思考は粗雑になり、「正義のオタクVS悪のフェミ」という安易な構図・構造がでっちあげられるに至る。ここには「対話」「相互理解への意志」といったものはない。
「表現規制への反対」これは大いに理解するし共感もする。ただし、攻撃的だったり刺激的・煽情的な表現はつねに他の主義・思想と衝突することにもなる。だからそこで「対話」が必要になる。議論をして社会の中で落とし所を見つけていくことになる。もちろん一方的な排除であっては絶対にいけないし、かといって完全な許容にもならないだろう。
社会の中で生きるということは自分を全肯定されることでもなければ全否定されることでもない。こういったバランス感覚がラノベオタクには欠けているように見える。とてもナイーブで0か100かという思考になっている。彼らには「中間」の状態が理解できないのかもしれない。
あるいは溢れる想像力が「中間」から「極端」への推移を瞬時に見越してしまって危険信号を受信するのかもしれない。
だがそれこそが教養のなさというものであり、現実の複雑性を理解していない証拠ともいえる。極めて幼稚な思考といっていいだろう。幼稚な想像力に溢れる彼らには大人の想像力がない。
ここまでいろいろ書いてはみたが、ラノベオタクには何を言っても無駄だろうということも感じている。
したがって、社会でラノベオタクという厄介者をどう取り扱っていくのかという問題になってくる。
今回書いたようにオタクの一方的な排除であってはいけない。オタクにも生存権を与えなければならない。ただ、オタク的表現は社会の規範と衝突することが極めて多い。
しかしオタクは「ゾーニング」を「表現規制」と言い換えて反発している。
さあどうしたものか。
このまとめを見た。
【またお前らか】『なんでここに先生が!?』のブースのツイートに、いつもの連中がイチャモン付けに来た。 - Togetter
http://b.hatena.ne.jp/entry/s/togetter.com/li/1331836
このおっぱい展示を擁護してる人を見るとある共通点に気づく。それはラノベオタクばかりということだ。
最近は社会学VSオタクという構図になってきているが、同時にほとんどの場合、社会学VSラノベオタクでもある。
なぜラノベオタクはラノベという人文・社会科学の産物を超好意的に嗜んでいながら反文学部的なスタンスなのかは興味深い話題でもある。
ひとつの仮説として考えたのは、ラノベオタクは人文・社会科学系の専門書を大して読んでいないということだ(多くの人は理系なのだろう)。そして彼らはラノベや彼らが「一般小説」と読んでいる類の大衆文学ばかり読んでいるということ。
彼らは人文・社会科学の産物であるラノベを大量に読んでいながらも、その文脈を理解しないままただ漫然とストーリーを楽しんでいるということになる。
これでは人格の涵養など望めないし、ネトウヨ的感性のまま年を取っても仕方がないのかもしれない。
ラノベオタクたちは「俺たちは賢い」「他のやつらはバカ」というスタンスが基本になっている。
とても自信に満ち溢れているように見える。
彼らは自分は「読書家」だから知的な人間だと思っているのだろう。
彼らが読んでいるのはたかが「小説」にすぎないのだが、しかし「小説」も「本」には違いない。
「本を読んでいる=賢い」というような思い込みがあるのではないか?
ラノベオタクたちの高慢さ、傲慢さを見るとそういったものを感じる。
彼らを観察していると、年齢の割に教養のなさ(雑学的な浅い知識だけは豊富)、バランス感覚のなさ、他者への配慮のなさ、といったものをすごく感じる。
深い理解に基づく知識のなさや教養の欠落などは大した問題ではない。問題なのはラノベオタクたちが社会の中で厄介者化していることだ。彼らは被害者意識がとてつもなく強く、他者への攻撃性が高い、ということは外から観察している人にはよく見えていることだろう。
いい大人なら社会というのは人と人との衝突(それも陳腐な衝突だ)が日常的に起きるということを知っている。主義と主義、思想と思想、思惑と思惑、そういったものは衝突するものだ。
彼らが絶対の原理として掲げる「表現の自由」だが、もちろんこれも他の主義・思想との衝突は避けられない。どんなものも絶対不可侵ではいられない。それが社会というものだ。絶対の安全圏などない。ここは永遠安寧の天国ではない。
だが、ラノベオタクたちにはこういったことがわからない。社会とは他者との関わりあいだということが理解できない。教条主義に陥っているラノベオタクたちは結果的に文字通り「信者」のようなものと化す。したがって、思考は粗雑になり、「正義のオタクVS悪のフェミ」という安易な構図・構造がでっちあげられるに至る。ここには「対話」「相互理解への意志」といったものはない。
「表現規制への反対」これは大いに理解するし共感もする。ただし、攻撃的だったり刺激的・煽情的な表現はつねに他の主義・思想と衝突することにもなる。だからそこで「対話」が必要になる。議論をして社会の中で落とし所を見つけていくことになる。もちろん一方的な排除であっては絶対にいけないし、かといって完全な許容にもならないだろう。
社会の中で生きるということは自分を全肯定されることでもなければ全否定されることでもない。こういったバランス感覚がラノベオタクには欠けているように見える。とてもナイーブで0か100かという思考になっている。彼らには「中間」の状態が理解できないのかもしれない。
あるいは溢れる想像力が「中間」から「極端」への推移を瞬時に見越してしまって危険信号を受信するのかもしれない。
だがそれこそが教養のなさというものであり、現実の複雑性を理解していない証拠ともいえる。極めて幼稚な思考といっていいだろう。幼稚な想像力に溢れる彼らには大人の想像力がない。
ここまでいろいろ書いてはみたが、ラノベオタクには何を言っても無駄だろうということも感じている。
したがって、社会でラノベオタクという厄介者をどう取り扱っていくのかという問題になってくる。
今回書いたようにオタクの一方的な排除であってはいけない。オタクにも生存権を与えなければならない。ただ、オタク的表現は社会の規範と衝突することが極めて多い。
しかしオタクは「ゾーニング」を「表現規制」と言い換えて反発している。
さあどうしたものか。