はてなキーワード: 独り言とは
私は異性・同性を問わず誰かを愛したことがありません。恋に落ちて有頂天になるということがどんなことなのか分からないのです。
私は来年で四十歳を迎えるのですが、恋人というものが居た試しはありません。
そして、それについては孤独感よりもむしろ解放感を抱いているところがあります。
独りぼっちで何がいけないんだろう、私がそれで満足しているのならいいんじゃないか、と。
両親にこの話をしても通じないので、「なかなかこれといった女性に出会えない」と言ってかわしています。
世間では恋愛というものを美しいものとして語ります。人と人とが恋し合うことが当たり前のことのように喧伝されます。
それは私のような人間にとって酷く苦痛です。まるで恋愛をしていない人間は人間ではないと言わんばかりの風潮を感じます。
そんな風潮から逃れたい、そっとしておいて欲しい人間も居るということを忘れないで欲しいのです。
そもそもこの「恋愛を理解出来ない」という感情は子供の頃からあったように思います。中学校の修学旅行で
お決まりの「誰が好き?」という話になったのですが、私は適当な名前を挙げて誤魔化しました。
人は必ず恋愛しなくてはならないんだ、という思い込みはその当時は根強く残っていたので
名前を挙げたその女の子のことを好きになろうと努めました。しかし、結局片思い(?)のままで終わってしまいました。
以来、私の意識の中から「恋をしなくてはならない」という無言のプレッシャーを感じるようになりました。
他人を愛することが出来ない自分は人間として欠陥品なのではないかと思ったこともあります。
もっとはっきり言えば、人間としてどこかが壊れているということです。
それが、「別に恋愛なんてしなくても生きていけるんだ」と思うようになったのはつい最近のことです。
大雑把な言い方になるので間違いがあれば指摘していただければ有難いのですが、恋愛はもともとは宮廷の遊戯として始まったと聞きます。
それが大衆化したのが二百年ほど前。しかもその概念を日本でも知られるようになったのは明治時代。百年ほどしか経っていません。
これを知ってから、別に「恋愛」という概念が自明のものではないのだな、と思うようになりました。それは一種の救済でした。
これは非モテとかそういうのとは別の問題です。恋愛をするチャンスを虎視眈々と狙っているのが非モテだと思うのですが
私はそういうものを特に狙っていないのです。ひとりで居るということに解放感を感じているというのは前に書きました。
まだまだ休みなので昼からウォツカを舐めながら最高にハイなかんじで若干独り言を液晶ディスプレイに吐きかけながらうるさいメカニカルキーボードを叩いているので意味不明なところは勘弁してもらいたい。
おれはまた男の娘と寝てしまった。ある街のラブホテルで,朝気が付いたらかわいい男の子が隣に寝ていた。その前夜はオフ会で居酒屋に行ってた。無くなりかけの記憶の鱗片を掴みとるに酔った勢いで連れ込んでしまったらしい。stayは前払いなホテルだったようで財布からは一万円が消えていた。給料日だからといって奮発しすぎなのではないかというちょっとした後悔はある。相手は心は女の子だが体は男の子だ。正確に男の娘と呼ぶのかどうかはわからない。男の娘という言葉を示す範囲については沢山議論されているだろう。ただ俺の主観による解釈では男の娘だと認識しているしおれは男の娘という言葉が好きでとても興奮するし股間が反応する。
この記事を相手に読まれたら少し恥ずかしいような悲しいような気持ちになる。ただおれは後悔していない。またしたい。
おれは男の娘とも女の子とも寝るのが好きだ。いちゃいちゃするのが好きだ。セックスするのがすきだ。男の娘とえっちするのはいけないことなのだろうか。かわいければナニがついてようがついていまいがかわいいのである。一緒に寝たいのである。ホモセクシャル?バイセクシャル?性同一性障害?は?なにそれ?ちなみにバイセクシャルであると公言している女装子さんと致したこともあるし,バイセクシャルのひととも,性同一性障害の相手ともしたことがある。しかし至って普通におれはノーマルなのだ。おれがおれのことをノーマルだと思ってるからノーマルなのだ。古のオッサンの言葉を借りるに我ノーマルだと思う故に我ノーマル,だが本当にそうなのだろうか,実際のジャンル分けでは何なるのだろうか。あと一つきになるのが何故他の男連中はナニの有る無しで相手を選ぶのかということだ。可愛ければそれでいい的思考に何故ならない。最近はほんと磨けばかなりかわいくなれるような男の子がたくさんいる。一方いくら磨いてももう対象として見れなさそうなクソマxコもたくさんいる。男の娘のほうがどうされれば気持いいかわかってて優しくやってくれるしかわいいし最高だ。女の体もやわらかかったりメリットがあるがそれと同じほど男の娘もメリットがある。みんなも視野をひろくもっていこうな。
ともかくおれは男の娘も女の子が好きだ。寝るのが好きだ。寝るのがすきなので行きあたりばったりで遊べるだけ遊んでる。若いから仕方ないのだろうか。偶然にも今までの相手は割と簡単にさせてもらえた。おれの顔とスタイルとセンスはマシな方なのだろうかもしれない。今回ついに経験人数が4bitの上限を超えた。セックス依存症なのではないかと自己嫌悪していまう。酒を飲んで酔っているときとだれかを抱いているときしか気持ちが存在しない。それ以外の日常は無のまま過ごしているような気がする。クソみたいな18歳だ。客観的にみて自分はクソだ。本当にクソだ。自己嫌悪しかでてこない。死ね。自分が小学生のころにみた某深夜アニメのOPの歌詞のように,大嫌いな僕19歳になってしまうのか。おれはバイセクシャルなのか,一体なんなのかというのも若干疑問に感じている。
でもどうすればいいのかわからない。
この瓶が空くまで録り溜まったアニメを観て
寝よう。
さっき起こった出来事。 父親と母親と私で私に関する話をしてて終わる。私は私の部屋へ。 父親が思いついたようで、私の部屋に来て 父親「(私の名前)、明日おじいちゃんおばあちゃんに報告にいこう。いいやろ」 私「別にいいけど」 父親が居間に帰る 母親「(私の名前)が断らないからって自分の思いつきを勝手に押し付けるのやめてほしい。パワハラや。普段は先祖がどうとか一切何もしてないくせにおかしいやろ。(私の名前)の心は中学の時に傷ついてて、一緒や」 母親と父親の強い口調の会話が私の部屋まで聞こえる。 私としては、思い付きだけで行動する父親も大嫌いだし、混同された言葉上の論理だけで生きてる母親も大嫌い。 ここで夕食の準備が終わる。父親が私を呼びにくる。 父親「明日報告にいくの嫌か?先祖がいてお前がいるんやから。一人で生きてるわけでない」 私は別にどうでもいいという気持ち。 父親「俺にとってはパソコン見てるのとかいつでもいい。」 私が居間に戻って、母親「さっきの話どうなった?」 父親「別に嫌じゃないやろ?」 私「別に」 母親「あいまいな返事はやめなさいって言ってるやろ。後からホントは違うかったって言われるのが嫌だ」 (それは言葉の誤用であり混同されてる感じ。) 以下、独り言。 親は私に興味があるとは思えない。私がどうしてるかなんてネット見ればわかるのにね。まぁこれは私の願望が強いけどね。 私はパソコンで何をしてるのかって、思うことを表現してる。 思えば、思うことを表現できない小学生時代。 虐待でしかなかった中学生時代 高校生になって、携帯を持った。私は毎日の脳内を毎日ライブドアブログに投稿してた。 思ったことをデジタルに吐き出すのは高校生からの習慣だったね。 私は親に長文メールを送り付けたことがあるが、その結果としては、親が私を理解する気があるとは到底思えない状態。 親は子供が幸せになってほしいという。 私が人間を人間だと信じてる視点から言えば、それは正しいのだけども 私の親が私に対しては、よくそんなことが言えるなという気持ちを思い出し、殺意も思い出す。 苦しみの涙なのか、殺意の涙なのかがわからない。 子供を育てる時に、子供に必須の能力は、表現能力である。私は本当に言葉が大嫌いで言葉が分からなかった。
痴漢をされたことがある。
初めて被害に遭ったのは18の頃。
集中して読んでいたところ太ももに人が当たってきた。
本屋なので邪魔だったのだろうと少し横にずれ、そのまま漫画を読み進めた。
するとまた太ももに当たってきた。
何度かずれる、当たられる、ずれる、当たられるを繰り返すうちに、もうずれるのも面倒になってそのまま漫画を読んでいた。
それにしてもなぜ何度も手がぶつかるのか。そういえば太ももだけである。なにかがおかしい。
一瞬頭によぎった。
しかし、当時の自分の服装というと短髪、Tシャツにカーゴパンツ、スニーカー。
小さい時から、男に間違われることが多かった。
スカートを履いていても「ぼくいくつ?」と言われることも幼稚園に入る前はザラだったほど。(母談)
中学高校時代は友人から「中性的な顔をしている」と言われていた。
服装も制服以外でスカートを履くことはなく、前述したようなTシャツとカーゴパンツやジーンズというようなもの。男物を買うこともあった。
公園の公衆トイレなどを利用すると入ってきたおばちゃんに「あら!?ここ女子トイレよね…?」と独り言を言われ外まで出て再確認されるくらいだった。
そんな容姿の自分が、まさか痴漢被害に遭うだなんて考えてもいなかった。
なにが起こっているのかわからずとりあえずそそくさと逃げた。
なんで被害に遭った側がこそこそ逃げなくちゃいけないのだろう、などと思いながら。
そのうちの一件は逃げる途中でカバンを掴まれたりされた。
そのどれも声を出したり店員に言うことはなかった。
本屋とは違い、揺れ動く車内。
太ももやお尻などを触られている、時には前を触られることもあった。
そのどれも本屋同様なにもせず、ただ逃げた。
つい最近、また被害に遭った。
それはいままでの満員電車と違い、乗客もまばらで全員が座っている車内だった。
座ったまま少し居眠りをしていた。
太もも横に人の手が当たったので横にずれた。
おじいちゃんやおばちゃんなどはわりとぶつかってくるからだ。
ずれたにも関わらずまだ手が当たる。
太ももと座席の隙間に手を入れられそうになっていた。
小さい子どもかもしれない、そう思い少し目を開けると隣には大人の影があった。
次の駅で電車を降りると、同時に加害者も席を立ち他の車両に移っていった。
その日に考えたことがある。
ポスターなどでよく見る、痴漢です!など声を上げられる人はなんて強いのだろう、と。
痴漢の手を掴んで、なんてことをよく聞くがそんなことできるわけがない。
痴漢に声などかけて相手の声を聞いてしまったらしばらく耳からその声が抜けない、そう考えるとこちらから何か言うのも嫌だ。
相手の手を掴むなどもってのほか。
そんなやつに触りたくもない。
性犯罪を減らす機会を潰しているのだろうな、次の被害者が出るのだろうな、と考えつつも結局なにもできず逃げるのはどれくらい罪に問われることなのだろう。
最近はそんなことを考えながら過ごしている。
文章が書けなくなりました。
「ここに書いてるやんけ」と思うかもしれませんが、それはここがほぼ完全に匿名だから。
正確に言うと「自分のブログを更新できなくなってしまいました」ってことです。
ネタがないわけじゃない。
時間がないわけでもない。
書こうと思うといやな気分になる。
なんでだろうか。
以前はもっと楽しんで書いていたはずなのに。
「ここ変えたらもっと面白くなるんじゃね」とか独り言言ってました。
完成した文章を見て一人で笑っていました。
ええ、とても痛い子でした。ほんとうに。
でも面白かった。
他人が見て面白いかどうかはよくわからないけど、知り合いには好評だった。
記事の没が増えた。
記事を書いていても楽しくない。
理由はわかっている。
痛い子じゃなくなったからだ。
じゃあ自分との違いは何なのか?
以前はそれを痛い解説をつけることでなんとか面白くしていた。
だがそれができなくなって文才で勝負しなくてはならなくなった。
それが今の状況。それはわかっている。
そして解決法もわかっている。文才を上げればいいだけだ。
だが、はっきり言ってそれは無理だ。
いや、無理というより文才がつく前に心が折れてしまうと言ったほうがいいか。
ここまで読んでいただいた方には感づかれてしまったであろうが、自分には文才以前に語彙力が足りない。
語彙力は日々の積み重ねだ。
他人と会話し、小説を読み、映画を鑑賞し、自分に還元していく。
漫画やゲームでも多少は語彙力はつくだろうが、やはり状況説明が画として示されてしまうので、どうしても差がついてしまう。
もうすでに遅いのかもしれない。
いや、もう遅いのだろう。
今から多少小説を読んだくらいでどうもこうもならないのは間違いない。
だがブログをやめたくはない。
さて文才がつくのが先か、心が折れるのが先か。
どうなることやら。
実は
人間何にもなくなったほうが強く生きれるってもんです。
吾妻ひでおみたいに失踪してしまおうかね?すぐ帰ってくるタイプの失踪ね。
本いっぱい持ってどっか行ってしまおうか?
どもりがある。
どもりっていうレベルじゃない。
自分でも気がつかないんだけど、ずっとしゃっくりのような音を立てているらしい。独り言を言っていることもあるらしい。
どもりがあることは自覚があるけれど、ずっと音を立てていることには本当に自覚症状がない。
人前で話すことがとても苦手だ。
一言目がぜんぜん出てこない。
なので面接があるっていうだけで就職はする気になれなかったし、じゃあ高校卒業したらどんな道があるのかっていうと、名前を書くだけで入れる専門学校があった。
そこに行った。
担任は喜んでいた。一応国家資格が取れるような学校だったんで。
そのときは国家資格ちゃんととって、その道で職人として生きていこうと思っていた。
でも卒業してもどこにもいけなかった。
就職するには面接しなきゃいけない。面接するっていうだけで話せない自分が想像できるし、そんなみじめな自分を見せるくらいだったらって、就職したくないに丸をつけた。
先生方は喜んでいたように見えた。一応担任は心配したふりなのか少しは本音なのか何度かチャレンジを進めてきた。
でもだめだ。
どもりがなかったらって思う。
人前で流暢にしゃべることができたら自分の人生はぜんぜん違っていた。
どうしてこうなったのだろう。
両親に申し訳ない。でもこうなったのもあの人たちのせいだと思う。
どもりがなかったら。
首都圏では別に珍しくもないかもしれないが、関西圏では見かけることは多くない。
ビジネスマンか?もしくはバックパッカーか?と黒人について一人思索にふけっていると
おそらく日本の独自ルールである「電車の中でのケータイ禁止」を知らないのだ。
英語で輸入がどうとか数量がどうとか話し始めたので恐らくこの黒人はビジネスで
わざわざ日本まで来たのであろう。私の謎はここでとけたわけだが一つ気になったことがあった。
いつも携帯で話していると「携帯止めろ」といううるさい車掌は黒人に注意するのだろうか。
車掌はまだかまだかと待っていると、ついに車掌が列車のドアを開けて登場した。
狭い車内でアジア人ばかりの列車にごっつい黒人が一人、しかも大声で話している。
気づかないはずがない。
車掌は歩き始めてしばらくたつと立ち止まって思いっきり黒人に目を合わせた。
しかし、車掌は3秒ほど立ち止まった後、何も無かったかのように立ち去った。
いつもは「携帯を切れ」とうるさいのに黒人に対しては特権を与えたわけである。
私は非常に納得がいかなかった。車掌に一泡吹かせてやりたい気になった。
私は座席を移ることにした。車掌が出ていったドアから一番遠い位置に移った。
ここならば車掌が入って来てからアクションをとるまでに時間的な余裕がある。
待つ事10分、車掌が折り返して戻ってきた。窓に車掌のシルエットがうつった。
ラッキなー事に黒人はまだ大声で話している。
私はすばやく携帯電話を取り出すと、大声で話し始めた。
車掌は今度は黒人を見ることもなく、ツカツカと歩き始め黒人の座席を通り抜けた。
そして私のところまで来て小さな声でこう言った。「電車の中では携帯通話はご遠慮ください。」
私は言い返した。「あそこのごっつい人さっきから大声で話してますよ。」
私「日本語分るかもしれないじゃないですか。どうして注意しないんですか。」
車掌「恐らくわからないでしょう、後ほど英語の分るものに注意させます。
とにかく携帯通話はご遠慮ください。ペースメーカーにも影響がある可能性がありますので。」
私「私ペースメーカー使ってますよ。6年前から入ってますがまったく影響ありません。」
車掌「。。。」
気がつけばお前は死んだほうがいい、俺は死にたいということばかり考えている。
交差点を見ると轢いてくれないかなと思うし、階段を見ると滑って頭を打たないかなと空想する。でも最近は線路を見ても吸い込まれそうにはならなくなった。進歩かもしれない。
人と喋っていても(俺は会話できないから一方的に話される)ほとんど頭に入ってこない。言語能力の問題以前にコミュニケーションする気力が無い。人の話にそんなに興味が無いのが原因である気がする。俺は自分が最低なゴミだと認識しており口を開くと良くない言葉を発してしまうのでなるべく口を閉じるようにしている。能動的に発話する機会があるとあとで非常に後悔してもう二度と話さないぞという気分になる。
自称友達のいない人間や自称コミュニケーション障害の人間がツイッターの俺のタイムラインで仲良く会話している。非常にエモい気分になる。俺のツイッターは自分でもなんだかよく分からない独り言をつらつらと書いているだけなので読んでも気持ち悪くなる作用しかない。
いつから死にたいと考えていたか、遡ると小学校の頃からだったような気がする。その頃から俺はどうしようもないクズで人間の底辺だと日々自分に言い聞かせていたような気がする。楽しかったはずの記憶は直近のも含めて大体忘れてしまったり、俺が体験したのだという感触を失ってしまった。
大学に入学した直後、本当に死にたくなってさすがに不味いと思って適当な施設に駆け込んだ。尋問によって強迫性神経症?と診断されて薬を渡されて飲んでいた。飲んでいる間は確かに死にたい気分は失せていた。その代わりに何も考えていない自分が残った。半年程で通院を辞めた。死にたさは薬を飲み始めた前後で別の質感を持つようになった。薬は余っているけど今は飲んでいない。蓋しあそこは俺みたいな中途半端な人間が行ってはならない場所なのだろう。医者も快方に向かっていると言っていた。良いことだと思う。たまにDMが来て電話しろと言われるが電話が怖いのでしていない。
趣味はあったけど興味がだんだんなくなってきた。中学生や高校生の頃はプログラミングに傾倒してゴミみたいな能力しかないのに承認を貰うなどしていた。音楽とかも好きだった。今も気が向いたときに続けてはいるけど最近は何が楽しいんだか分からなくなってきた。技量もそんなに伸びなかった。新しく何かを始めてももう何にも熱中できないんだろうなと考えると絶望的な気分になる。これからの人生で楽しいことや運命的な出会いをすべて素通りして生きていくのだと思うとどうしようもなさしか感じない。
死ぬ方法はおおよそ考えている。どっかのYouTubeの自殺阻止を喧伝する動画で、コンセントに電線を指して胸に当てて死んだというのが大変参考になった。今は死にたさのラインが苦痛のラインを超えてないから当分は死なないだろう。でも将来も何も考えていないので早いうちに死んだほうがいいと思う。
本当はもっと書く予定だったけど書いたら安定してきた。プレビューを押すと全然行数が無いので驚いた。俺は普段から何も考えていないんだなと思った。
親父が、ちょっと不安なことあると、ふーふーうーうー、独り言(相当悲観的なもの)言っていてうるさいんだが。
元々病的な性格(プライドが高くて、思い込みが強く、高圧的)だったが、最近特におかしい。
精神安定剤みたいなのはもらっているようなんだが、あまり効果が内容だ。
こちらが
「何がそんなに心配なんだ?」
と親父に尋ねると
親父は堰を切ったように一気にしゃべりだす。こっちの理解がおっつかないが、親父は一方的にしゃべり続ける。
なにがどうなってそんな悲観的なのかよくわからないので、
「まず『問題点はなに?対処はどれだけあってそれぞれのメリット、デメリット、対処しないと最悪どうなる』とか紙に書いて整理してみたら?」
といってみると
「そんなの紙に書かんでもわかっとる」で一蹴。
民俗学の先輩が言うには魔術や呪術の類いは人の願望の産物なのだという。どうしても欲しいけど手に入れられないものがある時、
人は魔法でも使えたらと独り言ちる。中には本当に禁断の書物を繙いて(ひもといて)しまう人もいるのだから驚きである。
日本では言霊という概念があるね。これは西洋には全く見られない独自の思想というふうに言われるけど、根っこは一緒なの。
どうしても呪いたい人がいる時オンソワカ~フンヌラバ~と呪いの言葉を繰り返していると相手にダメージが与えられないかなと願うわけ。
そういう血なまぐさい思想や技法体系は何も陰陽師さんに限ったことではなくどこの国にもある。シャーマンだってそうだ。
ただまあ現代ではそういうのは流行らない。原初的な人間文化の形態ではあるが、成熟した文化は魔術性を封印していく傾向にある。
いわゆる土俗的な文化であれその例外ではないのだよ。原住民というといつまでも魔術とかまじないとか信じてると思ったら大間違い。
なぜ流行らなくなるかという時に科学が進歩するから胡散臭い文化は排除されるというふうに説明する人がいるね。これも矛盾した説明なんですわ。
最初に言ったでしょう。人の願望の産物だと。願望がある限り魔術は生き続ける余地がある。けれどもその願望というもの自体が流行らなくなったら?
そういうことを考えてみたことはあるかね?文化が成熟して利便性が向上することで泥臭い願望というもの自体が流行らなくなる。そういう話なんですわ。
魔術と混同されがちなのがスピリチュアリズムである。これは似て非なる代物と言って良い。魔術は欲望モロ出しのおっぴろげなのに対して
スピリチュアリズムは着衣エロティシズム略して着エロでね。着メロじゃないぞ。表向きは隠すの。つまり魔術が人の願望が生み出したモンスターだとすれば、
スピリチュアリズムというのは願望をうまく手なずけ善い生き方をしようという思想(これもまた願望ともいえるのだが)が生み出したモンスターといえる。
しばしば現代スピリチュアリズムの元ネタとして言及されるのが19C前後の西洋神秘思想(occultism)であるが、なるほどそこまで遡ると
確かに多分に中世からの魔術思想に源流が認められるところはある。まあ似てるんだけど、そもそもの発想が違う。
魔術は願望の成就を目指すのに対してスピリチュアリズムと来たらどうだ、願望のコントロールを目指すのだ。スピリチュアルやね。
で、権威的な話をすると魔術とスピリチュアリズムの関係は、支配者と奴隷の関係に似ている。魔術のほうが支配者ね。魔術を使って支配するのではない。
魔術っぽさがここでは肝心なのね。何も魔術なんか実在しなくたっていい。それっぽさに一部の人々はカリスマ性を感じるわけ。ここに芸術の魔術性がある。
一時代の音楽家たちに影響を与えた書物、ピーター・バスティアンの『音楽の霊性』に書かれていたことも結局はそういうことだった。
支配と芸術の関係性を理解しているかどうかは重要よ。支配者は魔術師でありながら奴隷たちには魔術ではなくスピリチュアリズムを勧めるの。
結局これって権力というものを普遍的に語る1つのフレームワークだと思うんだけど。プロレタリアートとブルジョワジーの関係だってそう。