はてなキーワード: 狂信的なとは
https://www.rockinon.co.jp/sight/nakamura-tetsu/article_01.html
あともうひとつ、強いて政治的なことを言うとすれば、タリバンという政権が出てきてから、アフガニスタンに割と平和が戻ってきたというのは事実なんで語弊はありますが、束の間それを楽しんでおったんですよね。
わたしたちはタリバンより古いわけでして、アフガニスタンでいろんな権力を見てきましたが、タリバンが一番血なまぐさい感じがしなかったんです。もちろん報復だとか、現地の慣習で我々が見て驚くこともありましたけど、北部同盟なんかと比べると遙かに平和的に政権を取っていきましたね。
── そうですねえ。ですから、現地にいた方のいろいろな発言を読むと、タリバンの何がいいのかっていうとまず賄賂を取らないとか、やり方がすごくクリーンであるとか。
中村 クリーンですね。わたしたちも初め狂信的な人たちじゃなかろうかと思ってましたが、案外入ってきてみるとクリーンな人たちで、そのあともうすっかり犯罪がなくなったんですね。だからわたしたちとしても活動はしやすかったんです。
── ただ、欧米主導型の情報機関から入ってくるニュースだと、タリバンがビン・ラディンを擁護し、イスラム原理主義的な理不尽な政策をゴリ押ししているというイメージがあるんですが。タリバンがアルカイダの介入によって少しずつ変質していったっていうのはないんですか。
中村 どうなんでしょうかねえ。そのあたりは庶民のあいだでは伝わらなかったんですが、少なくとも統治形態において大きな変質はなかったような気がしますね。初めから宗教色の強い政権でしたけど、少しずつ規制が緩和されてきてたというのが実態ですね。
── はあ。じゃあ、ああいう報道というのは、かなり欧米のロジックに合わせて恣意的な事実構成がされているという感じですか。
── じゃあ、アフガニスタンの方々にとっては、イスラム原理主義的なタリバンというのは決して不自然なものではなかったわけですよね。
中村 ええ。アフガニスタンというのは非常に古典的なイスラム社会なんですよ。オリジナルのイスラム教に近い宗教共同体というか。しかも国民の9割以上は農民または遊牧民なんですね。だから、タリバンが布告した政令のなかには荒唐無稽なものもありましたけど、おおむね下層民のあいだでは定着している一般的な風習だったんです。ブルカもそうですし。
目に見えない神や悪魔や魂や妖怪みたいなものは存在しているかもしれないし、していないかもしれない。いるとすればたった一種類ではなくて色々いるだろう。一応、いるかもしれないという前提で有り難そうな、ご利益有りそうな儀式に出会ったら何でも受け入れておこう。皆が何かをあがめている場では基本的に自分も同調しておこう。でも、洗脳されそうな狂信的なやつはノーセンキュー。
大多数の日本人の宗教観はこうだろう。無宗教なのではなく、宗教の存在や価値を無いとは思っていないが、特定の宗教への所属意識が極めて薄い。そしてそれが悪いことだとは微塵も思っていないし、その中立的などっちつかずの感じが生きる上では居心地良いと思っているのだ。
そういう発想だからTERFにもなるんだろうな……といろいろ納得してしまった。
https://b.hatena.ne.jp/entry/s/togetter.com/li/1625581
差別反対を主張していた人がこんなにもあっさり差別的発想に転んじゃうのって、やっぱり本質的に「差別のない社会」がどういうことか理解できてなかったんじゃないかな。
差別というのは、「○○人の血は汚れている」のような根も葉もない生理的嫌悪感に基づくものから、「○○人の犯罪発生率は高い」という統計的事実に基づくものまで色々ある。
アメリカでは黒人の犯罪率は他の人種と比べて高い。だから、もしも「社会の多数派にとっての安全」を「差別の解消」よりも上位に置くのなら、黒人ばかりを狙って職質をかけたりするのは合理的な行動ということになる。それによって黒人の手になる犯罪が未然に防がれるのなら、社会はきっとより安全になるだろう。
別の例を挙げてみると、キャリアの途中で退職したり長期間の休暇を取ることの多い人びとを職場から排除すれば、組織の効率性は上がるだろう。原理主義者によるテロが頻繁に起きている宗教の信者の入国を拒否したり、彼らを集中的にスクリーニングすれば、多くの人がテロから救われるだろう。そして性犯罪の加害者になることの多い人びとを子どもと関わる職業から排除すれば、子どもの性被害の数は大幅に減るだろう。
問題は、それは差別だということだ。そのような対応は差別的であるため、批判され、場合によっては法規制もされる。差別は自由で民主的な社会にふさわしくないものであり、この社会からなくしていくべきである。
逆に言えば、差別のない社会とは、一定の被害を甘受せねばならない社会だということでもある。
事前に黒人の犯罪者や退職者の多い属性やテロリストの多い宗教の信者を排除することは差別である。それを突き詰めた結果として、黒人の犯罪者によって金銭を奪われたり、会社の業績や病院の労働環境が悪化したり、狂信的なテロリストの仕掛けた爆弾で死傷したり、子どもが学校で性的虐待を受けるかもしれない。
もちろん犯罪者は裁かれるべきであり、彼らを無罪放免にしろと言うつもりはない。だが、一定数このような被害や効率性の低下が出ること自体は、差別のない社会が甘受すべきコストということになるだろう。属性に基づく事前の排除やスクリーニングを拒否するというのはそういうことなのだから。
私は差別に反対するので、それによって自分が旅行中に強盗に遭おうがアメリカの警察が黒人を狙い撃ちにするのは間違っているし、仮に自分の業務に支障が出ようが特定の属性の人びとに対する就職差別は許されるべきではないし、もしもテロによって家族を失ったとしても特定の宗教の信者だけをスクリーニングするのは道義的に正当化できないし、たとえ自分の娘が学校のトイレに連れ込まれて乱暴されたとしても、教員やその志望者が能力ではなくジェンダーやセクシュアリティによって選別されるようなことはあってはならないと考える。
差別は、場合によっては問題解決のための手っ取り早い手段になり得る。だから差別の解消を主張するというのは、実はとても覚悟のいることなのだ。
その覚悟を持っていなかった人たちが、時と場合が変わるとあっさり差別主義者に変貌してしまうのは驚くべきことではない。女性差別とさんざん戦ってきたのに、今「安全」を掲げてトランスジェンダーを排除しようとしている人たちがその典型だろう。
私たちは、差別に反対する覚悟を決めるべきだ。たとえそれによって不利益や被害が生まれても、それでも差別を許してはならないと言うべきなのだ。そのような覚悟のない反差別は、いずれあっさりと差別主義に転ぶ可能性を秘めているのだから。
理論的には完全な監視社会、例えば全員の脳内にチップが埋め込まれてて犯罪行為を始めると即電撃で無力化する社会では差別もないし被害も甘受しなくていいし法的自由も保証されるのではないか
マジレスすると完全に外形的な条件から「何が犯罪で、何がそうでないか」を決めるのは理論的に無理。なぜなら、理論的には、ある行為が犯罪かそうでないかは事後的にしか評価され得ないので。
意識のない他人の服を無理やり脱がせて体を触る行為は準強制わいせつかもしれないし救命措置かもしれない。他人の腕にナイフを刺すのは通り魔かもしれないし壊死性の毒があるクモに噛まれたので毒を除去しようとしているのかもしれない。子供を連れて遊園地に行くのは子守かもしれないし誘拐かもしれない。大量の宅配ピザを注文するのはパーティーの準備かもしれないし業務妨害かもしれない。カレーを食べるのは食事かもしれないし相手を油断させて毒入りカレーを食わせる計画の一環かもしれない。ファイティングポーズを取った男に蹴りを食らわせるのは正当防衛かもしれないし誤想過剰防衛かもしれない。これらの行為が行われた瞬間にチップで犯罪かどうか判定するのは不可能。
っていうか、他人から受け取ったキャッシュカードでカネを引き出しただけで刑務所に入ってる人は何人もいるわけで……
仮に外形的な基準じゃなくて「今自分は犯罪を犯そうとしている」という意思を基準にするとした場合、「嫌だとか何とか言ってるけど部屋までついてきたってことはセックスする意思はあったんだろ、嫌よ嫌よも好きのうちって言うしな、グヘグヘ」みたいな発想の人がいたらどうなるのか、ということになるので、チップを利用した犯罪抑制はどちらにせよ無理。何が犯罪で何がそうでないかは、ある行為が行われてから人の手によって評価され、判断されなければ理論的には決まらない。
ブコメ”加害者個人を排除する場合、最初の一回の被害は防げない”。その理論でいくと、差別される人種なり宗教は1回以上の被害が起こったので差別され始めたのでは?つまりどちらも根本解決にならないと思う。
根本的にわかってなさすぎて頭が痛い。人種集団や宗教の信徒は「個人」じゃないだろう、という話なんだけど。
今、目の前に一人の黒人がいるとする。名前を仮にボブとしよう。黒人が他の人種集団に比べて犯罪率が高いという統計的事実はある。だがボブが犯罪者かどうかはわからない。ボブがもし犯罪を犯したのなら刑に服すべきである。だがボブが犯罪を犯すまでは彼は無辜の市民なのであり、黒人だからという理由でボブだけ集中的にスクリーニングされたり職質されまくったりするのは不当な差別である。ボブが強盗なり殺人なりの犯罪に手を染めてはじめて彼を犯罪者として扱うことが許容される。
逆に言えば、我々は、ボブを事前にスクリーニングして強盗や殺人の被害者をなくすことよりも、たとえ強盗や殺人の被害者が出たとしても、ボブを人種に基づいてスクリーニングしないことを選ぶべきなのだ。
女性は早期退職する確率が高いが、ではどうせ無駄になるのだからと目の前の花子にろくにキャリアも積ませなかったり昇進させなかったりするのは正当か。宗教的テロを起こすイスラム教徒が大勢いるとして、では目の前のアブドゥルにだけ警察の尾行がついたり空港で差別的な扱いを受けるのは正しいか。性犯罪者の多くは男性だが、では資格も能力もあるのに目の前の太郎を保育園に採用しないのは許されるのか。
「私には夢がある。それは、いつの日か、私の4人の幼い子どもたちが、肌の色によってではなく、人格そのものによって評価される国に住むという夢である」とかつてキング牧師は語った。私はその理想を信じている。そのために生じるであろう被害よりも、なおその理想は重いのだと信じる。それが差別に反対するということだろう。
そもそもあらゆる宗教において狂信的な態度は有害なんだよね。ただ、「それは別にイスラム教に限らないよね」という話で。
例えばキリスト教の狂信者が銃乱射事件を起こしたこともあるし、今でもキリスト教教義を理由に同性愛を迫害する人は少なくない。仏教(の大元であるヒンドゥー教)にしてもインドあたりじゃ今でも狂信者が支配的(カースト制とか)。日本の神道だって、今や有害でしかない教義を律儀に守っている側面もある。
それは一般的な話であって、○○教に特有の話ではないんだよね。
「尊重する」ことと「全肯定する」ことは違っていて、「尊重する以上は全肯定しなければならない」わけでもないし、「全肯定してはいけないのだから、尊重する必要はない」わけでもない。それは両立しなければいけない。もちろんそれは非常に難しいことなんだけどね。世界は難解だから仕方ない。
生まれつき五メートルくらい距離感が狂うメガネ(比喩)を掛けて生まれてきたとしたら、そしてそのメガネが仮に誰の目にも見えないとしたら、そのメガネの存在に気付くのはいつになるのだろう。見えないメガネってことだから、その存在には中々誰も気付けない。自分自身さえも。
でも多分生きてると何となく自分の見方と他人の見方がちょっとちがくね? っていうことに気付き始めるもんで、「あれ? 私の距離感五メートルくらいズレてね?」ということに最終的にはなる気がする。勿論全ての人が正確に物事を認知できるわけじゃないから、本当は五メートルズレてるのに「あれ? 私の距離感三メートルくらいズレてね?」とか、「二メートルくらい(ry」みたいに、その「ズレ」に対する目算というものも人それぞれちょっとズレてたりするわけなんだけど、ともかく、恐らく長いこと生きてたら大なり小なり自分の距離感がズレてるっていうことには気が付き始めると思う。
いや勿論現実にそういうメガネはないし、そもそも「五メートルのズレ」って何を基準にして五メートルよ? みたいな意見が存在しているのも分かる。
でも、本当に俺たちが警戒しなければならないのは俺たちは皆多かれ少なかれ実際にそういうズレたメガネを掛けて生まれてくるということで、何ならそのメガネは場合によっちゃ百メートルくらい狂ってるってことなんです。そして、俺達はそういうメガネのズレについてずっと、人生を通じて考え続けなきゃいけない。
「いやいや! そんな眼鏡ないし! っつーか五メートルだか百メートルだかって何を基準に決めてんの! 人それぞれの距離感はあるよ」とか言ってる人間を片っ端からゴミ箱に入れて封印していきたい。いや、勿論さっきみたいな「いやいや!」ってな発言にも一理や二理以上に真っ当な部分はあるんだろうし、少なくとも、「『ズレ』っていう観念は何らかの『正しい基準』の存在を基に初めて成り立つものであり、そういう基準の実在性の根拠なしに『ズレ』を主張するのはそれこそ『ズレ』てる」、ってな感じでその意見に論理的正当性があるのも十全に理解できるんだけどね。そこに確かにズレはない。
でもね、そんな風に「いやいや!」って大手を振って発言できるあなたと私はズレてるよね。ってなことを思うわけです。あなたのズレと私のズレはあるよね、と。お前のズレと私のズレはそれぞれの文脈でしか語ることのできない深淵ですよね、と。どんだけ人が他人からズレてて、そしてどんだけ自分が奇妙なメガネを掛けて生まれてきたかってことを、本当にきちんと測定する基準というものは基本的に存在していないし、存在していないものを一々考えて勝手に悩む人間に対して、わざわざ「気にする必要ないって!」と声を掛けてくれるだけその人は善良なのかもしれない。あるいは、そもそもその人だって同じようなズレを許容しようとしているか、そうでなくてもどうにかズレと付き合っていこうと一生懸命努力しているのかもしれない。でもね、お前の言ってることはおかしいんだよ。基準は本当には存在していないかもしれない。どこにも「ズレ」と言える概念なんて実在していないかもしれない。でもね、「なんかズレてんな」って気持ちは確実に存在しているんだね。いや、その気持さえ実はズレてんのかもしれないけれど、まるでデカルトの自己反駁みたいに、「『ズレ』てると感じていること事態が、そもそも『ズレ』てる。」のだとすれば、いずれにせよそこにはズレってものが存在しているんだね。存在しないズレを存在しない部分に見出している時点でズレてんだそれは。その存在しないズレみたいな一種の宗教的かつ狂信的な観念を中心にしか人は物事を考えることはできないし今なお人はズレ続けていく。
言いたいことがズレました。僕が言いたいことはね、
皆多かれ少なかれズレのあるメガネを掛けて生きてるってことです
皆さんズレについて日々考えながら生きてますか。
自分がどれくらいズレてるか、そして仮にズレてたら、どうそれを修正すればいいのかについて考えていますか。五メートル離れてるな、と思ったらむしろ五メートル歩み寄らなきゃいけないということ。五メートル近いな、と思ったら、五メートル離れなければならないということ。あるいはその逆に、五メートル離れてるな、と思ったらむしろ五メートル離れなけれなきゃいけないということ。五メートル近いな、と思ったら、五メートル近寄らなければならないということ。ゴミ箱に入れるぞ貴様ら。
少なくとも猫に関しては狂信的な猫飼いが凶悪事件を起こす方が多い。
割と冗談抜きで。
保健所に押入り、収容されていた犬を逃がした23歳とび逮捕される。岐阜高山市で発生した事件。容疑者の23歳とび職は、飛騨保健所の窓ガラスを割り侵入し犬舎の鍵を破壊、収容されていた捨て犬や迷い犬などを逃がした。犯行は1月1日と28日の計2回。 2009年03月、建造物侵入および器物損壊の疑いで逮捕される。 動機は「犬が可哀想なので逃がした」と供述、容疑を認めている。
女性から野良猫の餌やりを注意され、その帰宅を待ち伏せして包丁で刺殺。殺人容疑等で現行犯逮捕。
犬の散歩に通りかかった男性を、餌やり中の野良猫が逃げたからと木刀で脅し、暴力行為容疑で逮捕。
永吉教幸(72)2008.7.5 栃木県小山市(ホームレス)
寝泊まりしている公園で野良猫を抱いた人を、猫を虐めていると勘違いし鉄パイプで殴り、現行犯逮捕。
生後1ヶ月の乳児に食事を与えず、育児放棄で虐待死させる。保護責任者遺棄致死容疑で逮捕。
乳児は猫のトイレにしていた段ボールに寝かせていた。「子供より猫の方が可愛かった」と供述。
無職・生活保護受給者で猫5匹飼う。餌代に困り何度もコンビニに押し入り、強盗容疑で逮捕。
アパートの大家に餌やりを注意されて逆上し、サバイバルナイフで大家を刺殺、大家の義理の娘にも重傷を負わせ、殺人及び傷害罪で懲役22年の判決。
猫被害の苦情を言いに来たアパートの隣人を包丁で刺し、殺人未遂容疑で逮捕。
ペット禁止の市営住宅で猫を放し飼いしていることを市に告げ口されたと妄想、上の階に住む姉妹に言い掛かりを付けた挙げ句にノコギリで殴り、傷害容疑で逮捕。
猫の餌付けに苦情を言った人の部屋へ包丁を持って押し込み乱闘に。暴力行為(脅迫)容疑で逮捕。
「私が風疹ワクチンを打たない理由」 「接種したら100万円くれるっていうなら打ってもいいけど、そういう話は出てきてないので、しない。」だったらどうなるかしら。他の種類でもいいけど。
接触確認アプリ入れない増田(anond:20200622163854)にこんなブコメがついてたけど、こういうこと言うやつが大勢いるから風疹ワクチン打ちたくねーんだよ。
打ってくれたやつへの感謝だけならともかく、打ってないやつや打とうとしないやつへの叩きがひどすぎる&差別的すぎるから、あんなの見てたら風疹ワクチン反対派にもなりますわ。とにかくこんな連中には絶対協力してやるもんかって思うよね。
俺はそれなりに献血行ってるけど、仮に赤十字が「献血してくれたひとありがとう」じゃなくて「献血に来て当然」「献血しないやつは加害者」みたいな宣伝しはじめたら速攻で献血行くのやめるわ。
ワクチン打ってないひとを加害者呼ばわりして道徳的非難の対象としている時点でもう生理的に無理です。こんな連中の推奨するワクチンなんて死んでも打ちたくない。
補助とかあるなら打ってもいいかなって思ってた俺を反対派に変えたのは狂信的な接種推進派の皆様です。よかったですね、どうぞ自分たちの宣伝活動を誇ってください。
ツイフェミっていうのは、思想ではなくて、心が壊れてしまった人が撒き散らす瘴気みたいなもんだと思っているので、そういう人との対話というのはそもそも何も実現しないし、問題の本質でもない。
だけど、そういう壊れた心をもたらしているのは、その人が過去に受けた性犯罪だったり、性的に歪んだ扱いだったり、家父長的なジェンダー観だったりの蓄積だと思われるので、今後、子どもたちが壊れてツイフェミや狂信的なミサンドリストになってしまわないよう、そういうものからは守られなきゃいけないと思っている。わかりやすい性犯罪よりも、ジェンダー的に歪んだマイルドな扱いがきっとダメなんだろなあとも想像する。
なので、逆説的ではあるのだが、ツイフェミみたいな狂信的フェミニストを解消するのに必要なのは、リベラルなジェンダー観に反対することではなく、むしろ将来を担う若い人に対してリベラルなジェンダー観で接することなのだ。たぶん。
まあ、とは言え、統計的に解消されるだけで、すでにそうなっちゃった人は諦めるしかないのが残念だけど。お医者さんなら治せるのかな。
話題の映画「ジョーカー」を観た。3日間もの間、印象的なシーンが鮮明に再生され、日常生活を送りながらも映画の中の世界が頭から離れなかった。観賞中は息が詰まるような緊張感が続き、ショッキングな描写に気持ちは激しく動揺した。
これは一体どういう映画なのだろう。なぜこんなにも強く私の脳内を占拠したのだろう。これは議論を呼ぶ名作なのか、はたまたただのトラウマ体験なのか。作品に散りばめられたエッセンスから頭をよぎった監督たちの紹介とともに答えを探っていきたい。
まず系譜としてはマーティン・スコセッシなしには語れない。スコセッシは言うなれば妄執の父である。社会が見せる夢に取りつかれた青年が現実と妄想の間でもがく、という題材をひとつのテーマとしている監督だ。アメリカンドリームを皮肉たっぷりに描き、鬱屈した現実とポップな理想を同居させ、若者が狂信的な思いを貫くことで結果的に社会がカウンターパンチを食らう、という内容に特徴がある。主人公にはしばしば常識や倫理観が欠如しており、それが社会との隔絶や陰惨な事件を起こす引き金となる。「タクシードライバー」や「キングオブコメディ」でうだつの上がらない妄想癖の男を演じたロバート・デ・ニーロが「ジョーカー」で今度は人気番組の司会者を演じているのも意図的な皮肉だろう。社会の片隅で生きる男が自意識を肥大させて全能感を獲得するという構図は明らかにスコセッシに倣ったものだ。
だが、スコセッシ作品と比べると「ジョーカー」の方が観ていて受けるショックは大きい。はじめから狂気じみたスコセッシの描写する青年と違い、「ジョーカー」の主人公アーサーは特殊な障害こそあるものの、それなりの分別を持って慎ましい生活を送る恵まれない男なのだ。尊大さよりも不遇を強く感じさせる分、彼が段々と堕ちていくのを見るのはつらい。
似たような余韻を残す作家で連想するのはダーレン・アロノフスキーだ。アロノフスキーは絶望の職人である。こちらも現実と妄想の対比によって物語が進行するが、えげつないほどの乖離や物理的に後戻りのできない状況を生み出すことによって観客もろとも登場人物を絶望へと叩き落とす。往々にして個人における心理状態の変化に焦点が当てられ、描写に肉体の変容を伴うのが特徴だ。職人と称したのは、映像や音楽を神経質なまでに駆使して恐怖や落胆、憧れといった感情を煽っていく技巧派スタイルからだ。その画面は暗く、重く、そして美しい。「ジョーカー」を観て「レクイエムフォードリーム」や「ブラックスワン」を想起した人も多いだろう。アロノフスキー作品同様、「ジョーカー」には喪失そのものを賛美する鎮魂歌のような要素がかなりある。観客に登場人物と同じ夢を見させた上で、それが緊張とともに深い闇に飲まれていく過程をただただ美しく映し出すのだ。
では、「ジョーカー」の監督であるトッド・フィリップスの独自性はどこにあるのか。それは、社会的にインパクトのある題材を濫用し刺激的すぎるほどリアルな描写にこだわっているにも関わらず、全体として悲壮感を打ち消しにかかっているところにあるように思う。まさにジョーカー的とも言える、悲劇か喜劇かは主観次第、というのを地で行くような趣きがある。スコセッシが愛に飢え、アロノフスキーが闇を愛でる一方で、フィリップス節はなんとなくはじめから終わりまで人々の孤独が平行線のまま、深刻なのにどこか表面的で、楽観していて投げやりなのだ。
過去作の「ハングオーバー」でもトッド・フィリップスはそんな調子だった。いたずらに過激なモチーフを画面に持ち込み、場当たり的に対処していく。物語は緻密に構成しながらも強いテーマ性は内在させず、作り手としての態度はどこか楽観的だ。調べてみるとドキュメンタリー出身とのことで合点がいった。おそらくは観客を引きつけておく演出は最大限発揮しながら、事象としてはすべてありのままを受け入れる、ということである。男子寮、バチェラーパーティー、そして今回のジョーカー誕生といい、悪ふざけと相性の良いトピックを選んでいるのもきっと彼らしさなのだろう。待てよ、よくよく考えれば彼の切り口は「やりすぎ男子」そのものじゃないか。
だとすると、やはり「ジョーカー」という作品は社会的意義を議論するには不向きな映画だろう。映像表現に長け、社会をありのままに捉え、悪ふざけを好むトッド・フィリップスという監督が、人々にトラウマを植え付けるほどやりすぎてしまった結果できた映画なのではないか。社会問題全部盛り、過激表現マシマシでありながら「そういうこともあるさ」と爽やかに言わんばかりの演出にはそれで説明がつく。それは確かに時代を反映しているかもしれないが、風刺の意図や分かりやすいメッセージはおそらくそこにはない。
新時代のやりすぎブラックジョーク、それが私の「ジョーカー」に対する結論である。
※ 本当はクリストファー・ノーランにも言及したかったが、うまくまとまらなかったのであえて割愛した
デジイチに限る。
キヤノン:保守的。車はトヨタ。家は積水ハウス。無難が落ち着く。
ニコン:頑固者。産地にこだわる。右翼が多い。プライドが高い。
ソニー:革新的。新しいものにすぐ飛びつく。浪費家。ソニー自体に愛着はないが、俺色々わかってるでしょう臭が強い。
ペンタックス:登山が好き。もしくは初心者か低所得者。「レンズの味」など曖昧な表現でごまかす。
オリンパス:女性の8割はまずこれを買う。ガチ勢は貧弱ジジイか貧乏人。プロや鳥屋がサブ機として利用。層が広すぎて特徴がない。
パナソニック:コンデジがパナだったユーザーが多数を占める。それ以外は変人。4Kに目がない。ハイエンド機ユーザーに厄介者が少ない。
*SideMは除く
シャイニーカラーズがサービスインしてもうすぐ1年が経とうとしている。
もうすぐライブもある。
アイマスシリーズということもあるが、アンフィじゃ会場が小さすぎて、落選ばかり。
LVですら落選している人も多く(LVは地域で難度が違うけど)、人気の大きさを伺える。
でもまだ1年。
まだまだこれから、新曲、イベント、アニメ化等のいろんな展開でファン(P)を増やしていくのだろう。
ゲームがプレイできない。または下手なPにもアイドルたちを知る機会も増えて
アイドルたちの虜になっていくのだろう。
時間がないので、なかなかシャニマスをプレイすることができない。
しかも育成下手なため、いまだ推しアイドルすらTrueEndを迎えられない弱小Pで、
アイドルたちのことをまだまだわからないけれど。シャニマスには好感を持っている。
そんなシャニマスだが、やはりいままでのアイマスを駆逐していくのだろうか?
他のアイマスコンテンツは長く続きすぎ、新興のシャニマスと比べて、それぞれ問題を抱えている。
声優、ファンともに高齢化が進み、コンシューマの失敗が続く765AS。
そして人気の低さ。
TC選挙で近未来アウトサイダーのみ強さを見せたが、他のシナリオではほぼ惨敗しているし、
他のシナリオで取ったオオカミ役も最低投票数での役の獲得である。
アウトサイダーは765ASのPがそこだけは守りきろうと票が集中した結果であろう、
765ASアイドル単体での人気はもうほぼなくて、765ASという塊でしか人気が取れなくなっている。
何歳までもライブをやると演者たちは言ってるらしいが、演者にやる気があっても、収益的にはどうなるのであろうと思う。
近未来アウトサイダー次第ですこしは息を吹き返すかもしれないが。
声付き声無し、声付き内ですら格差が広がり、どこを歩いても地雷を踏んでしまうシンデレラガールズ。
5年も追加しなかったアイドルを、周年ライブで発表し、トップページでバナーに大々的に出す。というのは優遇していると思われても仕方がない。そのせいで新旧アイドルという対立構造ができてしまった。
新エリア追加しました。でこっそりやるかミリシタ見たくデレステ開始時にやればよかったのにと思う。
そして待遇格差、SSR、アイドルコミュ、カード数、イベント、ボイス付与に新曲。どこを見ても格差がある。
そのことでP間の諍いが絶えない。売上云々、人気云々、選挙結果云々。
あと、こじらせているP達が運営との解釈違いを起こして、炎上するとか。
声付き声無し両方担当しているというPたちもいるからまだなんとかなっているかもしれないが、
もう割と限界が近づいていると思う、新アイドルの扱いによっては、一気に崩壊してしまう。
765AS組とシアター組の間でバランスを取り続けないといけないミリオンライブ。
765ASの後輩として、アイマスの正統後継者として全員声付きと鳴り物入りで登場したミリオンライブ。
でも、その結果はおそらくバンナムが期待したほどではなかったであろう。
765AS原理主義者からはいらない子扱いされ、デレPの一部は移動し、そのままPになったりもしたが、
好みのアイドルがいないとデレに残っているPも多かった。
50人の固定人数というフットワークの軽さから、旧来のソシャゲプラットフォームを捨て、新プラットフォームに完全移行し、
ミリシタでは、しっかりとアイドルたちのローテーションを作り、うまいことやってはいる。
しかし、765AS組Pとシアター組Pの確執は結構根深い。その確執が一番明らかになったのがTC選挙。
ミリシタは続く限り、765AS組とシアター組の両輪のバランスを取り続けないといけない。
あと、765の後輩として出てきているため、アニメ化は非常に難しい。
信号機トリオを主役に据えたところでアニマス、アニデレの焼き直しにしかならない。
つまり、ミリシタとライブ、漫画以外のコンテンツの追加が難しいということ。
デレのように新アイドルやボイス付与のようなカンフル剤も射てず。
このままを維持することしかできない。
他アイマス勢と一切のしがらみがなく、新しく始まり16人というミリよりも軽いフットワーク。
スマフォのアプリという環境依存すら関係ない上に、初代を意識したゲーム性。
他のアイマスやキャラクター産業をずっと続けているバンナムが生み出した設定を練りに練られた珠玉のアイドルたち。
765AS組Pも、765ASが絡まないならと、そして初代をリスペクトしたゲーム性で好感触もらい。
ミリPのことはよくわからないので、ミリPがどれだけプレイしてるかは知らないが、移動してる者もいるだろう。
そして、まだ1年目という若さ、他のアイマスシリーズを駆逐する可能性しか有していない。
ラブライブのようにちゃんと終わらせなかったせいで続く765からのしがらみ、シャイニーカラーズで終わらせてほしいものと願う。