はてなキーワード: 牧歌的とは
米、アジア系へのヘイトクライム再燃 暴力性増し、殺人事件まで 毎日新聞
https://news.yahoo.co.jp/articles/3a8a33f5fb3305df8472682b22a847c5eee200df
タイ系男性(84)が道路を渡って突進してきた男に突き飛ばされて、脳出血で2日後に死亡した。男は19歳の黒人
バイデン大統領は今月11日の国民向けの演説で、「残忍なヘイトクライムにより、アジア系米国人は通りを歩くだけでも恐怖を感じている。(ヘイトクライムは)米国の価値観に反する。止めなければならない」と呼びかけた。
ところで差別大国たる我が大ニッポン帝国におけるコロナ関連ヘイトクライム殺人は何件起きたのかな?
世界に冠たる人権先進国アメリカ合衆国でもこの有様なのだから、この極東土人国家ならば最低でも1,000,000,000人は犠牲になっていることだろう。
え? 日本では1人の中国人もイギリス人もコロナ菌(笑)扱いされて殴り殺されてないって? そんなバカな、あり得ない、警察が組織的に隠蔽しているに違いない。何という陰湿な差別国家だ……
皆さん、2つの町を比べてみましょう。
1つ目の町は、毎晩のように強姦殺人が発生して、市民は「女性を殺すのを止めろ!」とデモをして、市長も「女性への暴力は我が町の価値観に反する。我々は女性を護るために立ち上がる!」と演説してくれます。
2つ目の町は、「オラの町で人殺し? 百年は聞いたことねぇよ。そういや、隣のボブ爺さんの娘が若い頃に流れ者の男と好き合って妊娠したら男が逃げようとしたから、ボブ爺さんショットガン突き付けて『娘と結婚するか、鉛玉か、どちらか選べ』って騒動があったっけなぁ。男がどうなったかって? あそこの畑でトラクターに乗ってるジミーだよ」という牧歌的な町。
どっちの町に住みたいですか?
もちろんのようにネタバレを含むので、注意してほしい。
見終わった感想は、「本当に終わった」だった。
すごく丁寧に「伝える」ことに真摯に向き合っていると感じた。
それは描いていることだけではなく、描かれなかったことも含めて。
きちんと振り返り部分がある丁寧さが、この映画を象徴しているといっても良い部分。
復習して来いよ、ではなく、劇場でこれまでを振り返る。その丁寧さが全編にわたってある。
忘れてならないのは、これは劇場4部作ではなくて、エヴァンゲリオンの最終作ということ。
だから、題名からして「シン・エヴァンゲリオン劇場版」であって「ヱヴァンゲリヲン新劇場版」でないところで主張してる。
そして、「まごころを君に」「世界の中心で愛を叫んだけもの」ときて、「未来からのホットライン」で落としているところに、本当に最後なんだな、という気概を感じる。
NOTでも(NOT)でもなく、今までの否定でも追認でも無い、終わりが来たんだなという予感は正しかった。
「ヱヴァンゲリヲン新劇場版序破QはTVシリーズみたいなもんで、今回が劇場版」みたいな位置づけっぽくみえる。
冬月副指令側はネルフパリ支部を守る陽電子砲側で、ヴィレは侵略する側。
派手なアクションシーンであるとともに、赤いヤツって戻せるんだアレというのをこれ以上ないほど明確に見せる場面。
直接の描写が牧歌的なだけで、薄氷を踏むような生活というのが描かれずに表現されているように思う。
トウジは「医者の真似事」だし、ケンスケは「なんでも屋だが風車のメンテはできない」。
食事は配給制で、一軒家はトウジの医者という特権性に由来する特別扱いになっている。
綾波型初期ロットはそのトウジの客人ではあるが、農作業にわりとしっかり従事させられている。
そしてそこにいるのは老婆が中心。
若い男女や男性は、綾波型の心の触れ合いのような農作業には出てこない。
銭湯や図書館も牧歌的ではあるが、つまりは個別の風呂や嗜好品が持てない生活を、直接の描写なしに示唆している。
でも、並行複発酵である日本酒を飲める程度には豊かさがある。衣服も残ってる。(心の余裕はまず生活の余裕から)
でも、味噌汁に口をつけないことで激昂する大人がいる程度には食料に余裕がない。
たぶん、ココを受け付けるかどうかはその人のエヴァンゲリオンへの思いによる気がする。
第四話の「雨、逃げ出した後」だよねココ。
ひどい経験をしたシンジが家出をして、ケンスケとキャンプする。
TV版では、その後無理やり連れて帰られるけど、ネルフから出ていこうとして、自分の意志では電車に乗らなかったと言う流れ。
ケンスケの描き方はあの時からある意味で一貫している。自身の興味には忠実だが、相手の心情には過度に踏み込まず、黙って見守る。
「なんでみんな僕にやさしいんだよ」という嗚咽がほぼすべてだけれども、誰にも強制されることなく、しっかりと時間をかけてシンジだけで結論を出すのが良かった。
今までのシンジくんって、口ではみんな色々言うけど、それほぼ強制じゃんってのが多かった。
あなたが決めなさい、とか。それシンジくん考えられる状況か?その環境作るのが大人だろうっていう。
あの農作業をしていたのがシンジで、みんなの優しさに触れてこの村を守るために戦うんだ、だったらたぶん流石についていけなかったと思う。
で、今までのエヴァだったら絶対にあのアスカの「泣くだけ泣いてスッキリしたから家出は終わりか」みたいなセリフ入れなかったと思うんだよね。
その後の、ケンスケとの見回りと治水の管理で「基幹産業たる農作業を免除されてる」とか「池が村の生命線」とか言わなかったような気がする。
村が赤く浸食されてない理由とか、ニアサーも悪いことばかりじゃなかったさみたいなのは、察しろよ、みたいな描写になってたんじゃないかな。
プラグスーツを着ていないと体を保てない綾波型が、その短い生の間に、様々な感情を駆け抜けていったのも象徴的だったように思う。
その一方で、加持さんの子供がしっかりと「世界をもとに戻す」実験に従事しているというのも、良かった。
ミサトさんは、スイカの種を見るだけなんだよね。種をまいて育てるのじゃなくて、種を残す方。
あの村のシーンこそが、シン・エヴァンゲリオン劇場版の急所だと思う。
シンジに好意を持つように設計された綾波型が感情を受け入れるも、なお運命の通りになる。
シンジは誰からも放っておかれる状態で、本当に自分がかけたいだけの時間をかけて、やっと決断する。
最初こそアスカに無理やり食わされるけど、シンジくん自分でレーション食ってんだよね。そして食うことに対して泣く。
自分で食い、自分で泣き、自分で時間をかけて、最後に無垢な問いかけに返す形で結論を出す。本当に良かったと心から思った。
アスカが途中で言ってたけど、そんなシンジくんみるの相当しんどいと思う。
で、そこは委員長の異様なほど優しい言葉や綾波型初期ロットとのやりとりでカバーされてる。
TVシリーズだったら赤木博士に「村での摩擦は死に直結するわ。学習性無力感の一種ね」くらいは言わせたと思うんだよねマジで。
落ち着いた後で、トウジと会話をしてお前は十分やったって言われたり、ケンスケからは親父とは話しとけよって言われたり、加持と出会ったり。
時間計ってないけど、かなり丁寧に時間をかけてあの一連のシーンが描かれてたと思うし、相当な比重じゃなかったのかなアレ。
でもなあ、序破ときて、Qでのカヲルくんとのやりとりって、アレまんま洗脳だろ。そらシンジくんでなくても壊れるよ。
親しい人と引き離して孤独にし、信頼を得てから既存の価値観を壊し、そのショックが大きい間に新しい方向性を示す。
で、洗脳が解ける前に、信奉した教祖たるカヲルくんが自分のせいで目の前で死んだら、そら壊れるよ。
それをきちんと作品内で比重を置いて向き合って時間をおいてくれたの本当に良かった。
アスカのDSSチョーカーみて吐くシーンは象徴的過ぎてインパクト強いけど、マリもアスカも対爆隔離室内に自室があって爆薬増やされてるってことは、シンジくんと同じよね。
シトと一緒だからじゃなくて、エヴァに乗る適性がある人間に対しての強い警戒心。
あと、振り返って考えると「ワンコくんとの進捗どうだった」のあと、「年頃の男には興味ないか」みたいなことマリがアスカに言ってなかった?
そういや、冷酷っぽくふるまってるアスカが、劇中ほぼ唯一恥じらってるのがケンスケにカメラ向けられたときなんだよな。
シンジくんって、ヴィレ判定で精神的に安定してるって言われてるから、綾波型初期ロットとの直接のお別れを経験後なわけで、親父すでに超えてるんだよな。
たしかその前後で、冬月副指令が、「自分と同じ喪失を経験させるのも息子のためか碇」とか言ってなかったかな。
あと、どのシーンでもマリって劇中で誰かと相対するときには、相手のパーソナルスペース内に入ってんだよね。
破で、シンジくんの匂いを嗅ぐ、引きこもってるシェルター内のシンジくんを引きずり出す。
アスカには抱き着く、後ろに回って髪を切ってあげる。シンジくんの後ろから手を回してだ~れだって問いかける。
古今東西の書物を読み漁り、相手の懐に入り、どのタイミングでも余裕たっぷりなのは、イメージとしては「魔女」だよな。
アスカが死に装束でしょと返したスーツを着た後、シンジにわざわざ会いに行ったのはどう考えても最後だと思ったからで、
わざとだよなあの艦隊戦とあの曲。
そういや、エヴァで誰を殺せば世界が平和になるかって言ったら真っ先に冬月副指令だと思うんだよな。
Q以降、ほぼ単独で組織的な攻撃に対応してるのとか、そもそもの研究室の件と言い、このオッサンが元凶だろう。
舞台を整えるの全部やり切ってるしな。
セカンドの海の浄化、サードの大地の浄化だったら、フォースって空の浄化じゃないんかい。
あとゲンドウがきっちり葛城大佐、赤木くんって呼んで反論しててちょっと面白かった。
ミサトさんに息子の話をするシンジくんは、はっきりあいつのこと好きだよって言ってるんだよね。
自分が人を評して、それを他人に伝えることに躊躇しない最初の相手がミサトさんなのは結構グッと来た。
アレなニュアンスの旧劇ではなく明確に母親ポジションとして描かれているので安心した。
ゴルゴダオブジェクトの上で、マイナス宇宙でヒトが認識できる形を記憶からLCLが作ってるんだっけか。
きっちり旧劇っぽく親子喧嘩をメタっぽく描いてるのがエヴァだよねって感じで良かった。
よくよく考えると、わりと新劇場のゲンドウって、最初から甘いんだよな。
息子とは墓参りに行くわ、息子との食事会には行こうとするわ、わざわざ褒めるわ、本部壊すまで駄々こねた息子をギリギリまでやらせるとか。
聞けば答える、本当にコミュニケーションが苦手な親父として描かれている感が最初からあったけど、まあそうなるかなーという。
やるべきことを完全にやり切って、マリの必要なものも全部集めておいて、見届けずにL結解密度が高い中で無茶してLCLになる冬月先生。
やっぱこの人が完全に元凶な感じがしてならない。
ただまあ、ユイさんってこうサークラじゃないけど、なんだろうこのワールドクラッシャーな感じ。
ゲンドウが大人の理解力と表現力で、内面をきっちり吐露していくシーン。
「ユイと出会い、楽しかった、ユイだけが受け入れてくれた」みたいなところで、どの場面でもマリがちょっかいかけてるのに一切触れられてなくて草生える。
あの流れだけ見ると、昔ちょっと好きだったゲンドウくんの息子のシンジくんを迎えに行く女みたいになるんで、それはちょっとという気にもなる。
新しく作られたガイウスの槍のシーン、シュワッキマッセリーって流れてて、聖☆おにいさんを思い出しました。
ただ、ミサトさんの死と思いを受け取れるシンジくんはほんとにゲンドウじゃないけど、大人になったなって感じた。
最後に息子から歩み寄られて謝っておそらくは和解したゲンドウが、息子の中にユイを見出すの、
繰り返しになるけど、死を否定したり無かったことにするのではなくて、受け入れたうえで先に進もうとするメッセージ性を強く感じた。
狂言回し、なんだろうな。ゲンドウが降りたらもう確かに誰もその位置に立てないしな。岸辺露伴ポジション。
旧劇の場所でアスカに思いを伝えるシーン、マリが出てくるのバグってるっぽいなー
カヲルくんと加持さんが出てくるシーン、ゲンドウとシンジとの両方の位置にカヲルくんが居るんだよね。
シンジくんに依存しない世界でのカヲルくんの理想の世界は、加持さんと接してたところになるのかなー
加持さんは、ヒトの存続よりも種の多様性を残そうと尽力したって位置づけなんだろうな。神の使徒に愛される男。
時間も世界も戻さずに、エヴァに乗らなくて良い世界に書き換える。
時間の巻き戻しではなく、違うパラレルワールドでも無くて、継続したまま治そうとする。
たしか、マリさんも迎えに来るからって綾波に伝えて別れを告げる。
てことは、アノ世界はなかったことにはならずに継続したまま、シンジくんにエヴァを消された世界に作り替えられるけれども、シンジくんは戻れないってことだよな、と思った記憶がある。
あれだけゲンドウがユイの胸で泣きたかったって言ってたのに、母さんを送りたかっただけなんだねって納得するのは、シンジくんの理解力が大人で成長したなあと。
それを、アニメーションのセル画っていう低次(二次元)の存在に落としたうえで、マリに迎えに来てもらって元に戻すっていうのは、すごいな。
マリに相変わらずいい匂いって言われたあと、相変わらず可愛いよっていうシンジに対して、
いっぱしの口を利くようになってといって、DSSチョーカーを外すのって、あれシンジの主時間で時間経過してない表現だよな。たぶん。あれが入らないと、何年も経ってるように見えるし。
そのために甲板でDSSチョーカー嵌めたのかなあ、自ら進んで嵌めるって演出にも見えたんだけどヴィレ的には必然性ないよなアレ。
最後、シンジから手を引いて階段を昇っていくのが、ああ、終わったんだなって。
というか、ぶっちゃけると、シンジくんが緒方恵美さんの声から声変わりしていた瞬間の衝撃が強すぎて、あとは流れるように見ていた。
ハッキリと明確に、彼が大人になったと感じた瞬間だった。
ああ、エヴァンゲリオンのアニメーションとしての作品は終わったんだなと思った。
一人一人に引導を渡していって、最後にあまり知らないが好意を持ってくれる女と手を繋いで階段を昇っていく。
この先どうなるかはわからないけれども、しっかりと大人になったシンジを見て、ああ、本当に良かったと思った。
鏡を見ろ現実に帰れみたいな突き放し方じゃない、同じ意味でも伝え方の違うアニメーションの力。
加持さんは裏で我儘を通し切ってた。ミサトさんは意地を押し通した。ペンペンはきっと殖えてる。
シン・エヴァンゲリオン。どうやら相当世間を賑わせているらしい。
私も先日鑑賞した。その感想は……はっきり言って、物足りない。
何故ならば、庵野秀明の攻撃性が、作品からあまり感じ取れなかったからだ。
ある時は、「そんなに1人でうじうじ悩んで、勝手に決めつけて、気持ち悪い」と一蹴し
またある時は、「何時までもエヴァンゲリオンに齧り付いてるんじゃねーよ!」と叱責された。
私は作品を通して、庵野秀明からのメッセージを過剰なまでに深読みし、勝手に殴られて勝手に死にかけていた。それが私の「エヴァンゲリオン」の楽しみ方だった。
逃れられない現実を突きつけられるような演出の数々は、私のマゾヒズムを的確に刺激してくれた。
今回の「シン」も、もちろん庵野秀明に殴られる為に劇場へと足を運んだのだ。
「シン」はどんな手で私を弄んでくれるのだろうか。
しかし実際に画面へ映し出されたのは、
牧歌的な風景。Qと変わらない描写。極めつけに旧劇場版を薄めた二番煎じ。
それは主体となっている人物が碇シンジではないからだ、というのは重々承知している。
しかしそれでは物足りないのだ。
私の求めた「エヴァンゲリオン」は、答えを探して堂々巡りをし続け、答えの先に絶望を与えてくれた。
私が外に出ない理由をくれた。
これらがまぜこぜになって出来上がった「エヴァンゲリオン」が、好きだった。
「まさかエヴァンゲリオンをこんな爽やかに終えられるわけがないだろう」
そう思いながら鑑賞した。
それは思い違いだった。トウジ達だけじゃない。庵野秀明も成長していたのだ。
成長していなかったのは、私だけ。
当然だが。
そんな私を「エヴァンゲリオン」から解放する為の作品を、庵野秀明は作り上げたのだ。
違うんだ。「エヴァンゲリオン」という女王様から放たれる、一級品の鞭さばきを私はその身に受けたかった。そしてそのまま意識を失ってしまったなら、それはどんなに素晴らしい事だろう。
今作は、デコピンを額に受ける程度の威力しか秘められていない。
私を快楽へと導いてくれたエヴァンゲリオンは、一体どこへ行ってしまったんだ。
その前からアフィリエイトは出てきていたが、まだマシというか、簡単に量産できる人数が限られていた。
ブログは長文と論拠を示さないと議論に絡むこともできなかった。今だと共感の時代と言われて即反応の方が尊ばれる。
皆まだ時間をかけて考えていたんだと思う。
今のようにヤフーやTwitterで配信されるニュースをソースにするのではなく、1次ソースを辿って調べ直せという声が多かったのではないだろうか。
また話題になるのも学際的だった気がする。
化学、物理、数学といった理系の人と、政治や歴史といった文系の人が互いに情報発信して交じり合っていた。
お金では納得されないらしいし、利用報告でも駄目らしい。どうも規約をちゃんと書くのもいやらしい。
まあ要するにVtuberが自主的?に課金しれくれればよいのか?
「牧歌的」な時代はまともだったらしいが、昔はそんなにちゃんと「忖度」できていたという証拠が具体的にあるわけでもなさそうだし。
規約に書いていない、ゲーム制作者のご要望を忖度して、そのとおりにすればよいという話なのだろうけど、それへ非現実的だろうし。
そりゃ明文化してくれってことになるわな
え、だから
もちろん、インターネット黎明期のような牧歌的な時代は終わった。新参者は「規約に書いていなければ何をしてもよい」ぐらいの狼藉をやってのける。作者は新参者を教育してやるぐらいの勢いで細かく規約を作るのが次世代の流れかもしれない。
って書かれてるという話ではないん?
そりゃある種の「ルール」の上ではどのような理由でフリーゲームを公開したっって自由ってのは前提でしょ
でも、配信者が投げ銭をしていないというのだって、ルール自体は守ってる。別にルール違反が咎められているわけではない。
この上で、ルールさえ守ってれば何でも良いわけではないってのが本論なわけで。
それがつまり、ネットの牧歌的な時代には守られていた暗黙の了解的なものを守ってないのが問題って話なわけで。
駄目な態度での公開やってたら怒られるのは当たり前だろ。お前もまた暗黙の了解を破るわがままな人間だと捉えられかねないってのは何も不自然ではない。
これに関していろいろな意見を見たが、大まかに2つに分けられると思う。
・マネタイズしないのが悪い
自分としては両方とも筋が通った話かと思うが、マネタイズしないのが悪い(だから私が儲けても作者に還元しなくてもよい)という言い分のVtuberが時々見られたので処刑しておいた。
さて、フリーゲームはなぜフリーなのか。これはモノづくりをしたことがある(それをフリーで公開したことがある)人でないとわからないかもしれないが、ぶっちゃけ反応が欲しいのである。
ある人は手紙で、ある人は会話で、ある人はSNSでコミュニケーションをとる。その形がたまたまゲームなりの創作物の人もいるのだ。
誰かに喜んでもらいたくて、誰かの楽しいという一言が欲しくてゲームを作ったはずなのに、それをすべてVtuberに横取りされて、投げ銭という目に見える形で自分の人気のなさが明確に表れたとき、「誰かが喜んでくれるかも」が「誰も喜んでくれなかった」に変わってしまうのだと思う。
この時増田が欲しいのはもちろん反応である。「せめて実況者は投げ銭をしてくれ」は、反応が得られないならせめて収益の一部でも…という妥協案なのだろうと推察する。
もちろん、インターネット黎明期のような牧歌的な時代は終わった。新参者は「規約に書いていなければ何をしてもよい」ぐらいの狼藉をやってのける。作者は新参者を教育してやるぐらいの勢いで細かく規約を作るのが次世代の流れかもしれない。
そして新人実況者、Vtuberの諸君はフリーゲームがなぜフリーなのかをよく考えておいてほしい。そして、著作権ぐらいは守れよ…最低限な…
お願いだからな…
アジアのどっかの国だと思ったが、食堂のおばちゃんと仲良くなった。
聞くと両親が中国系で、なんかの罪で追われたために移民したのだという。
おばちゃんに日本人だと伝えて仕事は何をしているとか意気投合していたのだが、
しばらくして、奥から娘さんらしき人が出てきた。
お互いにつたない英語であるがまあまあ意味はわかる。マジメで働き者とかそういう感じの。
10分ほどして、さらに女の子が2人あらわれた。おばちゃんの次女と三女だという。
オイオイどういうことだ。
近所で働いているが切り上げてきたのだという(このあたりが牧歌的である)。
このあたりで鈍感なワイも気づき始める。
「(おばちゃん、3人のうちどれか貰ってくれいうとるやんけ!!w)」
3人とも、あんたならまあええわ的な雰囲気をかもしだしている。ヤバイ。
なんだかんだのらりくらりと話題をそらしながら、その場をのがれた。
しかし考えると、情報化社会で婚活だの出会いサイトだのいっているが、
本来、男女のなれそめとはこうした「紹介」によるものだっのではないか。
そこにどこか牧歌的な、良い意味で日本が忘れた古き良き封建的時代をかんじたのである。
(アドベントカレンダーからのリンク先が思いつかなかったので、ここで生成する。)
はい、そういうわけで、ですね!TUTのちょっと良いところ、言ってみたいんですけど!
東京工科大学だと思った人、残念ながら帰っていいですよ!
今はホットなのはそっちのじゃないほう大学です、ギコ大です!技科大です!
ちょっとあらぬ感じアレだったことを観測したので・・・時を戻そう。
(この記事は12月に23日のアドベントカレンダーからリンクされています、ていうかする予定ですという分かりづらいボケです。
だって26日より先が空いてなかったどころか枠がなかったんだもん。もんじゃねーよ。)
都会度というか、その辺りは
で、私自身技科大から豊橋駅に行くには上京する心づもりでした。
あとこれは200x年頃のお話なので、今は全然違うかもしれません。
◆環境◆
・豊橋のさらに奥の僻地にあり、近場のミニストップを神のライフラインとして崇めていた
・その次に近いのが徒歩10分位の距離にあるすき家(都会のライフステーション
・イオンに初日に行った帰りに迷うほど、目印の少ない牧歌的な風景
・最低でも原付は欲しいところ。なので学内で原付の売買がお盛ん
・それでも鋼の意思でチャリと徒歩で生き抜くならば毎日がエクササイズという特典が
・なのでお出かけの基本は車となり車を運転できる人間はそれだけでデキるやつだった
・車に全員載らない場合は車と単車、原付、場合によってはチャリで編隊されて行軍する
・大学はそれくらいの秘境にあるので、その寮へのネット回線はボッタクリナロードバンド月5000円一択のみ
・貧乏学生のライフライン、業務スーパーは普段生活のみならず学園祭の仕入れにもお役立ち
・なんで飛んで火に入る夏の虫のごとく、緑の看板には生活を求めて日々飛んで行ったよね
・ブレーカーを数部屋で共用する男子寮。ドライヤーひとつで数部屋を道連れにするスリル
・当然クーラーなんてないよね~、あんな貴族の嗜好品。夏の猛暑はアイスノンと扇風機で生き抜くサバイバル
・当然激セマ君ではあるのだが、寮費が光熱費込みで1万も行かなかった(5000円位だったか?
・貧乏学生をしていたので、食堂はあまり記憶にございませんねぇ
・バカ舌もあって味噌ラーメンとかはそんなに悪くなかったような
⇒そんな感じで、今や絶滅種の「昭和の貧乏学生」生活が送れる素敵な場所です。
◆勉学回り◆
・学生のほとんどは高専病に起因する英語ヨワヨワなんで許してあげてほしい
・というか高専教育が悪い。今は変わってきてるのかもしれないけど
・中学からの受験以降、受験とほぼ無縁で単位取得のサバイバルのみで生き延びた学生が多いイメージ
・なんで、興味範囲以外はいかに取りやすいか、いかに出席や提出物が少ないかが授業選択の最重要ファクターの学生がいたとかいないとか
・自分の居た系のみかもしれないが、大学で割り当てられるアカウントの個人領域のディレクトリに学生番号出来られていて、他からも見ることができた
・そこには過去の学年のレポートとかが眠っていた。なんで、そこから引っ張ってレポート提出する学生もいたとかいないとか
・だがまぁ、それは誰しもが考えるので、過去の有料レポートを提出すると中身同一レポートが教授のもとに集まり、諸共無言で最低点の裁きを受ける
・院試は自分の苗字名前をケアレスミス無く書ければ徹程度の難易度
・先生はダイバーシティの極みの極み、二重の極みで、まともな人、あきらめ系、変人などなんでもござれだった気がする。
・他と比較できてないからわからんけど変人の比率は高かった、と思う
⇒背景、状況から「普通ではない」ふいんき(なぜか変換できない)が醸成されていたのは事実かなぁ
◆サークルとか◆
・そんなわけで、高専からの入学がほとんどの技科大サークルはちょっと関係が難しい
・具体的には3年生新入部員と2年生の先輩部員という時空のひずみ
・とはいえ、3年生新入部員と3年生先輩部員も発生しうることから大概は学年で先輩後輩関係は形作られる
・ただし、そこにさらに時空の法則を破る留年先輩が出てくるがそうなるともう、年齢で判断することになる。
・そもそも、サークル活動的なのはあまり活発ではなかったイメージ
・ほぼ男子校の技科大生のあこがれ「愛知大学」との連携で女子とのキャッキャウフフを夢見る生徒も多かったとか少なかったとか
・あ、そうそう。サークルだけではなくて愛知大学と連携していて、確か愛知大学の図書館も使えたはず
・数式をおかずにして飯を食えと言わんばかりの糞高い技術書しかない技科大の図書館に比べて、文学教養の良書がタダで借りられる裏技があるんですよ!
⇒陽キャは居たにはいたけど、レア種でしたね。居ても、フェードアウトするとか。3年の夏休み前にパチプロになると聞いて以来、音信不通の彼はパチプロマガジンとかに出ているのかな。出ているといいな。
なんだろう、ぱっと思った限りこんな感じ。
うーん、まぁ学生生活にはちょうどいい閉塞感で、自分としてはこの環境を楽しませてもらいました。
なんか思い出して行きたくなるくらいには。
ナイキCM論争で不満なのは、「差別」に比べて「いじめ」に言及するものが少ないこと。賞賛派も批判派も、あれを差別問題をめぐるCMとして扱っている。
「差別とは一生涯続くいじめである」という人もいるが、個人の経験としてはまったく納得できない。いじめは確かに、幸運であれば学校を変わればなくなることもあるが、実際には学校を変わっても、社会人になってもいじめられ続ける人が大半であり、そうではなくても一生にわたって後遺症が残る。
ナイキのCMのような、差別を乗り越えて強くなったという物語は今でも無数にある。しかし、いじめを乗り越えて強くなったという話は、大昔の野蛮で牧歌的な時代のいじめならともかく、現代では寡聞にして知らない。いじめ問題の専門家には周知だが、いじめを乗り越えるためには逃避以外の手段は不可能である。
差別はどんなにひどいものであっても、それが世の中にある偏見のせいであであることは明白である。だから差別体験は反発心やアイデンティティになることも多い。しかしいじめは、そもそもなぜ自分がいじめられているかの理由がわかっている人はいない。自分の理解をはるかに超えた理不尽な理由で攻撃されているので、反発心やアイデンティティは芽生えるどころか、日々削り取られて無気力になっていくだけである。
差別体験について外に向けて語る人は、少ないにしてもそれなりにいる。被差別集団どうしなら共感で話が盛り上がる。しかし、いじめ体験を語る人はめったにいない。いじめ被害者どうしが集まっても、いじめ体験を語り合うことは絶対にあり得ない。
そもそもスポーツ系の部活動はいじめの巣窟である。少年野球の天才選手や、甲子園のスター選手が、いじめに耐えかねて退部し、プロ野球への夢を絶たれることになったという事例は枚挙にいとまがないが、外国人であることを理由にした差別でそうなったという事例については(表に出ないだけかもしれないが)聞かない。在日系のスター選手は多数いる。
いじめ問題に比べて差別問題は大したとこがない、と言いたいわけでは全くない。ただ、あのCMの中にある様々な要素の中から「差別」だけが切り取られ、過剰にクローズアップされるのは、毎日「今日はいじめに遭いませんように」と祈りながら学校に登校していた10代を過ごし、そのまま社会の落ちこぼれになってしまった自分には、どうしても違和感や距離感を覚えてしまうのである。
だいたい合ってると思うけど、一つ抜けているのは、今のような金持ちと貧乏人の分断というのは、グローバル化によって起きた。
グローバル化の利益は、どうしても富裕層にしか入らない。しかも投資先が海外だと地元に還元されない。
平民と平民の格差の拡大は、貧乏人が貧しくなることによってではなく、富裕層が豊かになることによって起きた。
遊戯王で言えば、コンボデッキが強くなりすぎて、普通にモンスターを出して殴るデッキがついていけなくなった状態。
たかだかコンボを組める程度で、つまり教育受けれて努力ができる程度で、できて良い差以上の差がグローバル化によって生まれてしまっている。このような環境では、努力ないから報われないんだとか考えるのは牧歌的すぎると思う。
そしてその是正、増田の言うような社会主義的な努力の否定ではなくて、グローバル化の抑制によって為されると思う。例えば、海外に投資した分は投資と見做されずに現金扱いのまま課税額の対象になるだとか。
某スーパーのtwitterの中の人を2年ほどやっていたことがある。
当時は企業アカウントがブームになってきていて、東急ハンズ、タニタ、ローソンなどなどSNSマーケティングが脚光を浴びていた。
そんな中、どこかでその話を聞きつけてきた社長から「SNSでのつながりを使って新規顧客を開拓してほしい」といういかにもなオーダーをもらい、twitterを立ち上げることになった。
最初はタイムセール情報や新商品情報などtwitterと小売りは相性も良いから余裕かなと思っていたが、
そこで、SNS運用担当者向けの講座などいくつも通い勉強をした。
・しっかりとリプライを返信する
・読んだ人が少しクスッとするような、拡散しやすいツイートをつくる
・リツイートされやすい時間を統計を取って、その時間に投稿する
などなど、当時の最前線のツイッター担当者から貪るように学んで実際の運用に活用した。
すると、数百フォロワーだったアカウントがスルスルと1000フォロワーを超え、
1年もしないうちに1万フォロワーを超えた。
フォロワーが反応する様子を思いながら、毎日投稿の文面を考えるのは楽しくて仕方なかった。
SNS限定の割引チケットなどを配布すれば、反応が起きてリアル店舗の売り上げにも影響が出始めた。
各部門の販売担当から、うちの部門の商品も紹介して欲しいなど連絡が頻繁に来るようになった。
有名企業アカウントとも少し絡んでもらったりと、どんどん勢いに乗っていた。
冬の売り上げ厳しいので、なんとかSNSで応援して欲しいという依頼で投稿したものだった。
というような内容だった。多くのフォロワーからは好意的な反応だったが、
一部のフォロワーが「こたつに入ってアイスというエネルギーの無駄遣いはいかがなものか?」
「暖房も入らない部屋で、貧しく暮らしてる人がいるのに、そういう人への想像はできないのですか」
という類のリプがついた。
この時は「こんなこという人もいるんだねー」と社内では笑っていた。
2つ目はコロッケの投稿。台風コロッケがネットミームとして盛り上がっているのを見て、思いついた投稿。
「今日の台風は大きいみたいです。こんな日はお家でコロッケに限りますよね!いっぱい揚げたのでどうぞ!→クーポン」
みたいなことを書いたところ
「台風という甚大な被害が出る可能性のあるものを利用してキャンペーンするとはどういう了見だ」
というリプがついた。どうも粘着してるのはアイスの時と同じ投稿者のようだった。
このくらいから、だんだんとtwitterの投稿が恐ろしくなってきた。
お客さんに楽しんでもらおうと思う発言も、
ことごとく誰かを不快にし、その度にきついリプライが飛んできた。
他の関係ないユーザーから部分的な切り取りRTなどをされたり、
そして最後はうなぎの投稿だった。夏のウナギ商戦はスーパーの鮮魚売り場担当にとっては大事な時期。
SNSでも盛り上げて欲しいということで、うなぎの投稿依頼がきた。
うなぎの漁獲高減少、絶滅危惧種指定などネットを騒がしていることを解っていたからだ。
ヤバい旨を社長まで直談判したが、受け入れてもらうことはできなかった。
最後の方は毎日胃は荒れ、あれだけ楽しみだったtwitterの文面を考えるのが辛くなった。
100人の好意的なリプライをもらっても、1~2人の批判的なリプライがきつい。
当時はSNSでフォロワーを増やすことが自分のKPIになっていて、当たり障りのない投稿を続けてフォロワーが横這い/減ると経営会議で詰められた。
炎上を避けながら高感度を上げつつ認知度を上げるという難問に疲れ切っていた。
その後、後任の担当者が何回か引き継いでいった。
配信担当をやめた後、フォロワー数やSNS上のコミュニケーション数を担当者のKPIに設定するのを廃止してもらった。
今では属人性を完全に捨て、ただのセール情報と新商品情報を流すだけのbotとして運用している。
最近、いろんなSNS担当者がtwitterで炎上しているのを見ていると、当時のことを思い出して心がとても痛い。
きっと彼らは自分が経験したレベルではないほどの罵倒を受けているんだろう。
良かれと思ってとったコミュニケーションで袋叩きにされる辛さは尋常ではない。
経営者には企業アカウントのSNSは属人性を廃止した運用に切り替えるよう伝わって欲しい。
数年前の牧歌的な企業と顧客のコミュニケーションツールとしての役割は終わっている。
小さな可能性を秘めた者たちが、オリジナルの素体を持ち寄っていた牧歌的な時代は完全に終わった。
全ての可処分時間は、企業系Vtuber達の奪い合うパイとなった。
強い魂……昔からの生主、転生者、クラスの人気者、そういった者たちだけが生き残る。
強いボディ……プロのデザイン、豊富な人月、繰り返される会議、個人制作のモデルなんて時代遅れ。
インターネットが始まってから、個人HPが次々に衰退するまでが高速で再現されている。
太陽の下で埋もれていた輝きにふと人々が気づく静かな夜、そんな世界は一瞬で消えた。
山師達のサーチライトが、彩るネオンが、真昼よりも煌めく世界が、昨日までの暗闇を光の海へと変えた。
光を恐れ夜の中を生きるものよ、見えない星を探すものよ、この地を離れよう。
再び、旅が始まるのだ。
君たちが愛した空き地ではない