はてなキーワード: 牧歌的とは
これから室内の熱中症に気をつけるなら無理せずエアコンを付けて5~15度の水分を適切に取るしか無いんだが、
ゲームに熱中したいなんて、簡単だ。熱中すればいいんだ。
ゲームをやっている時に「この時間で資格試験の勉強とかすべきだよなぁ」とか考えたくない。
(中略)
ゲームの中に心を入れ込めず、現実の肉体やスケジュールに縛られたまま「睡眠時間の無駄使いだなぁ」とか考えながら、
http://anond.hatelabo.jp/20140722013602
ゲームをまた楽しめるようになりたい
圧倒的に熱量が足りない。言い直そう、心の温度が40度だからダメなんだ。
紙は燃えると思われているが、例えば水を入れて適切に熱すると、紙は燃えずに中の水だけが沸騰する。
つまり、紙には発火点という、限界温度がある。紙は233℃で燃え始める。
今のオマエは、鉄くずに塩を詰めただけのカイロだ。
同じ酸化でもスピードが違う。だから、一定以上の熱量が溜まらず、発火も爆発もしない。
もっと有意義な時間の使い方があるんじゃないか、カーネギーでも読んだ方が良いんじゃないかと思ったりする。
そんな時に、開く本がある。
「猫の地球儀」だ。
人工衛星に取り残され独自の文化を持つに至った猫達のうち一匹が、地球を目指す、そんな小説だ。
一匹の猫が空から地上に降りてくる、牧歌的な話に聞こえるだろう。だが違う。
高度6000kmの衛星軌道を軌道速度5600m/sでかっ飛んでいる宇宙コロニーから、地球を目指す。
分厚い大気を貫いて、時速2万キロの超特急から急減速して地上に死なずに激突する、そうせずにはいられない猫の話だ。
理屈じゃなく、理由もなく、ただただ強く強く思う。
行きたい。
教えなくても、教わらなくても、そうせずにはいられない者達が、必ず到達する発火点がある。
例えば、ガソリンが発火するには246℃と紙よりも高い温度が必要だが、揮発して可燃性になるには-40℃で良い。
つまり、ガソリンは放っておくと空気と混ざり合ってちょっとした事で引火、爆発的に燃焼して空気を喰い尽くす。
一度開いてしまえば、食事も睡眠も、思い出すことすらできなくなる。
昔の俺達は、きっとちょっとした火炎放射器みたいなものだったんだ。
でも、そんな無茶は、もう出来なくなった。
大きなタンクは背負えないし、無防備に炎を撒き散らせないし、後片付けだって頭をよぎる。
だから、花火をする時にはバケツに水をためてチャッカマンを使うし、ロケット花火を飛ばしたりはしない。
でも、気化したガソリンのど真ん中でマッチを擦れば、たった一本でも爆発する。
そうして、まだ俺には引火するだけの熱量を持っていることを、思い出すことが出来る。
燃えにくい物質しか手にできない時に、自分の心の温度に不安がよぎることもあるだろう。
だが、オマエにもオマエにとってのガソリンがあるはずだ。
思いだせ、1000度を超えた熱量を。今川監督だってジャイアントロボを完結させたんだ。
まだ、できることはあるはずだ。
なんでもいいから書くといいよと精神科の先生にいわれたので書いてみる。
いままで「すべてのアニメを過去にする」傑作アニメはたくさんあった。たとえば絶賛放送中の『アルドノア・ゼロ』もそうだ。『アルドノア・ゼロ』は間違いなく今期最大のヒット作になるだろう。虚淵玄はドイツではゲーテ以来の天才詩人といわれ、フランスではデリダの精神的後継者といわれ、ロシアではプーシキンの再来といわれ、アメリカではリアルホイットマンとたたえられ、日本では村上春樹をしのぐノーベル文学賞最有力候補だと一部ではいわれている。だがわれわれはあえて『残響のテロル』に注目している。なぜなら『残響のテロル』は「すべての過去をアニメにする」神アニメだからだ。「すべてのアニメを過去にする」傑作アニメというのは「すべて」というところからわかるように、それ自体自己言及的になっている。したがって「すべてのアニメを過去にする」傑作アニメというのはすべてのアニメを過去にした瞬間に、それ自身も自己言及的に自己自身によって過去に追いやられてしまう。すべてのアニメを過去にした偉大な新時代のアニメがその誕生と同時にすでに死んでいるというアイロニカルな構造になっているのだ。このアイロニーから逃れられないのが「すべてのアニメを過去にする」傑作アニメなのであり、従来の傑作アニメというのは生み出されたときにはすでに陳腐化しているというアイロニーから逃れることができないでいた。「すべてのアニメを過去にする」傑作アニメはそれ自体の内に過去を含んでいるのだ。真に創造的な作品だから未来志向にも見えるのだが、じつは過去という底なし沼から伸びてきた腐食した手にからめ取られて引きずり込まれてしまう。そしてその暗黒の沼に自己自身を見る(その手ははるか昔に、生まれる前にすでに死んでいた自分の手だったのだ。死産した胎児の声なき叫びだ)。「すべてのアニメを過去にする」アニメはそれ自身を過去にし、過去は更なる過去へとひきずりこまれ、原初の過去へと向かい、宇宙開闢の瞬間へ向かおうとする意志を持つ。すべては過去になる。すべては過ぎ去る。そして無へと潰れる。だから傑作アニメには一種の悲哀がともなう。そこには悲観しかない。われわれはわかってはいたのだ。傑作アニメを見たとき、それはすでに未来によって乗り越えられているということが。われわれはわかってはいたのだ。結局われわれは無を愛撫していたにすぎないということが。なにもかも過ぎ去って、すでに終わっていた。時間は凍結し、空間から熱が引いていった。だがわれわれの前に『残響のテロル』が現れた! ついに現れたのだ! 『残響のテロル』にはすべての過去が含まれている。便所飯はなにを意味するだろうか。それは食事と排泄の同時性だ。われわれはまだ口と肛門を区別していない。そうだ。これは生命の誕生なのだ。きわめて創造性の高い、無垢なる、自由な、永遠の意志、無限の未来への飛翔! 二元論の生じる前のカオスのカオス、混濁した幻覚的な性感帯のおそるべき幸福な絶頂感のみがみなぎった世界。なぜテロリストはアヒル口なのか。アヒルという牧歌的存在にこそ破滅の種がやどっているからだ。戦士は戦士によっては倒されない。戦士が死ぬのは娼婦の前でだけなのだ。これは歴史が証明してきたことだ。アヒル口テロリストは歴史に巣食ってきた処女性に含まれた亀裂、多産性と引き換えに失った平和の象徴である。射精的安楽こそ世界の火種なのだ。「すべての過去をアニメにする」神アニメはすべてをアニメとして書き換えていく、外部へと環境へと働きかける力を持つ。すべてをアニメにしていく、そしてそのアニメがさらなるアニメをうみだしていく。アニメはアニメによって置き換えられ、アニメがアニメに繋がることによって、それは永遠に進んでいく。アニメの無限行進。アニメの爆発的連鎖。それはアニメ時空ともいうべきものを作り上げるだろう。それ自体でのびつづけるアニメの網だ。それはもう冷える宇宙ではないだろう。次元を超えた愛だろう。絶頂を越えた世界でわれわれは天使になるだろう。耐えなければならないその圧倒的幸福に人間のままでいることは許されないのだ。『残響のテロル』はすべてをアニメにするだろう。なぜ都庁爆破があんなに簡単にできたのか。それはアニメだからだ。そしてそれは過去のアニメ的出来事、つまり主として911の余韻があるわけだが、まさにそのことによって、アニメ的出来事が現実ととけあい(911はたしかにいままでは現実として語られがちだったのだ)、その境界はここにいたって不分明になり、アニメ時空が現実に侵食してくることになるのだ。すべてはアニメ的になるだろう。幼稚さという狂気。短絡的な世界崩壊。理性の不発。それは『魔法少女まどか☆マギカ』によって予告されていた悪夢でもあった(Gen Urobuchiは惜しいところまでいっていた。だがかれにはまだ愛が足りなかった。かれは健全すぎたのだ、良識的すぎたのだ、大人すぎたのだ、成熟しすぎていたのだ)。鋭敏な鮮烈な想像力は退化して、茫洋とした曖昧模糊とした神話を呼び寄せる。そこに召喚されたアニメ時空が境界を侵犯して現実に襲い掛かってくるだろう。すべては妄想によって形成され、妄想はすべてとなるだろう。きみはやがて逆立ちして排泄するようになるだろう。もちろんわれわれにも恋人ができるようになるだろう! われわれはひとつの体験をすることになる。それは存在のあり方を変えてしまう圧倒的な体験だ。これを見てしまったらもとのままの自分ではいられないだろう。なぜならわれわれはひとつの真理を悟ることになるのだから。二次元的妄想によって書き換えられた世界はどこに行くのだろう。すべてはギャグの様相を呈してきている。われわれはいつも嘆いている。やれやれ子供だましなアニメだな子供向けというのは子供だましということではないのであってうんぬんかんぬん。だがしかし現実のほうがアニメ的であり、アニメ時空的であり、アニメなのではないか。だれがこんな世界にしたのだ。どうして美少女は空から降ってこないのか。いやそれこそアニメではないことの証拠ではないか、いやいや、むしろ美少女が空から降ってこないのは非現実的なのだ。ああとわれわれはさらに嘆く。きみは美少女が空から降ってきたところを見たことがないのか。もちろん『残響のテロル』では美少女が空から降ってくる。ヒロインはジャンプしたと見せかけて空から降ったのだ、まさにすべての過去を、すべての飛び降りた美少女たちの意志をアニメにするために。美少女が空から降ってくるという古典的アニメ表現は『残響のテロル』にいたって、ついにアニメと現実の境界をまたいでしまった。これまでアニメ表現はアニメ表現でしかなかったが、いま彼女が飛び降りたことによってすべてはアニメ的現実になった。それはたんなる表現ではないのだ、もはや現実なのだ、アニメなのだ。これまでにうまれた数々の傑作によってすべてが過ぎ去ってしまったが、ついにすべての過去をアニメにするアニメが生まれた。アニメ的表現がついに次元の壁を越えたのだ。すべてはアニメになるだろう。太陽の死の後、人類が生き残るにはもうアニメになるしかないのだ。われわれは新しい太陽を作ることはできない、だが、新しい太陽をアニメにすることはできる。銀河という足枷からわれわれが羽ばたくにはアニメの力がどうしても必要だったのだ。人類はついにアニメを本当の意味で獲得した。と同時に、われわれはアニメになった。われわれの想像力は現在の認知のありかたをテロリストのように破壊して、すべてをアニメにするだろう。人類はいまやっと白内障から脱して、真に世界を見ることになったのだ。諸君、世界は美しいか。
中学生の時クラスにホモを公言していたウザ気持ち悪いお調子者がいた。
幾人かの男子を格好いい、好きだと発言し、不特定多数の男のケツをさわったり、急に抱きついたりすることを趣味とする男だった。
彼はその言動故にカースト最下層に位置する人間で、クラスの大多数から敬遠されていた。
ただお調子者なキャラが功を奏したのか直接的な虐めの被害者ではなかった。
(牧歌的な中学校の超平和な学年だったおかげもあるかもしれない)
クラスに絶対いる絡みづらい変わり者の一人として排斥されず一応クラスの環の中には入っていたように思う。
しかし彼が好きだと公言した数人の男子からはウジ虫の如く嫌われていた。
まさしく「ゲロ吐きそうなくらい気持ち悪い」と口をそろえて言っていたのを覚えている。
幾人かは直接的な攻撃手段を持って彼に接していた。
彼の性的対象として公言されなかった人間は、違和感を覚えつつも彼をクラスの一員として扱い、
実際のところかれのセクシャリティが本当に同性愛だったのかはわからない。
今考えると中二病を変な形にこじらせただけだったようにも思う。
高校生の時にエロ本の懸賞にハガキを送って当選したことがある。
どうして送っちゃったのか自分でもわからないのだけど、たぶんまあ性欲に負けたのだろう。
すっかり忘れた頃にそれは送られてきた。
そのエロ本は読者投稿系の雑誌で、僕が送った懸賞も「読者が投稿したエロ写真」だった。
誌面では目や性器に黒塗りの修正が入るのだが、懸賞では無修正の生写真なのだ。
つまりその雑誌に投稿する人は、自分が送った写真が読者プレゼントにされるのをわかった上で投稿するわけだ。
雑誌で顔が公開されるのは困るけど、編集者や懸賞当選者という特定の人には顔や性器が見られてしまう。
「ふふふ、いま頃のきみの写真を見ながらオナニーしてる男がいるんだよ」
「いやん、恥ずかしい…でも興奮しちゃう」
今だったらそうやって送られた写真もネットで共有されてしまう可能性が高いのでもう出来ないだろう。
性器が無修正の写真を読者プレゼントにするのも法的にマズい気がするし。
呆れたことに、あれは形の上では医者が自主的に病院に泊まって、自主的にやってきた患者を見ていることになっている
あんな働き方を指示してさせることは、建前上はできないからだ(技師や看護師はどうなっているか知らない)
したがってシフトも医者同士で話し合って決めており、○年目医師は月に△回当直、なんてのを割り振るのも上の医者の仕事である
俺もどうしてこんな勤務形態が出来上がったのかよく知らないが、恐らくは昔のまだ牧歌的だった時代、
医者は基本的に入院患者に何かあった時のために当直しており、どうしようもなくなった急患が
「先生お願いします!!」と門を叩いた時だけ人道的見地から対応していたような時代の、名残なんじゃないかと思う
その頃は急患自体圧倒的に少なかっただろうし、受け入れた所で緊急にできる処置は少なく、内科なら点滴して寝かせるくらいしか無かっただろう
古い先生や技師さんの話を聞くと、それなりに大きな病院でも昔は、当直中にビールを飲んだり麻雀したりできたそうだ
今じゃ考えられないような話だが、ほんの数十年前のことなんだよな
はてなでブログを書くような人間は全員、子供のころはいじめられっ子だったに違いないと確信している私。
こうして増田で書いている私も当然いじめられっ子だったわけですが、それについての思い出話をひとつ。
いじめられっ子といっても、そこまで酷くならなかった(囃し立てられる程度)のですが、
それは初期の段階で「やり返した」からだろうなー、と思います。
よくマッチョな人が「いじめを話し合いによって解決するのは無理」とか「体罰を否定した日教組による戦後教育の歪みが云々」とか言ってますが、
彼らの話は正しいのかもしれません。まあ、殴り返して余計にいじめが酷くなったという話もまま聞くところですので、
いじめっ子を殴ってそれで沈静化した私のケースはむしろレアなのかもしれません。
ところで、いじめっ子は3人1組の場合が多いように思われます。
3.体が小さくて、いじめられっ子の側に回ってもおかしくないのだが、上手く立ち回ってそれを回避しているタイプ
さて、殴り返すとしたら誰を殴るべきでしょうか。普通に考えれば1ですよね。
でも怖いんです。人気があるからいつも誰かと一緒にいるし。
だから3を殴る。自分よりも弱くて、いかにも殴りやすそうな相手を。
正直、ビビりました。殴った相手が壁に頭をぶつけて、病院行き。
正々堂々喧嘩したのならともかく、自分より弱い相手を一方的に殴って怪我させたわけですから、いろいろ考えますよね。
菓子折り以て謝りにいかねばならないのか、とか、もしかして警察!?とか。
不思議なことにそれっきり何もなかったのですが(牧歌的な時代ですね。15年くらい前)、すると今度は「なんて卑怯なやつなんだ、自分は」
という罪悪感が襲ってきました。
実際、そうなんだと思います。一番弱い相手を狙って殴り、それで鬱憤を解消しようとしたわけですから。
「正当防衛」なのでしょう。たぶん。
でも、いじめっ子のような誇りも信条もないような人種と違って、栄誉あるいじめられっ子の私はプライドたかびーちゃんなので、そう思うのは仕方がない。
この一件から学んだことは、自分がそこまで強くもなく、本当の悪に立ち向かえるような勇気も持ち合わせていないこと。
一般化するなら以下のような感じでしょうか。
1.人間は自分が被害者であると強く思えば、どこまでも攻撃的になれる。
2.しかし、その矛先は多くの場合、問題の元凶ではなく、単に自分よりも弱い人間に向かう。
何でいじめられた私が反省せねばならないのか自分でもよくわからないのですが、要するにいじめとは
いじめられ続けても傷つくし、やり返していじめを終わらせても傷つく
という何このクソゲーな代物なわけです。
シャーチェという本を読んだ。チベットの方。
わりと牧歌的な中国の奥地に近衛兵と毛沢東が来た10年をつぶさに描写した写真いっぱいの本。
結局シビアかつユーモラスにみんな「自己反省」をやらされてた。
身近な女子供が牙を剥いたことでお坊さんとか地位が高かった人に深い傷が残ったそうだ。
本には載ってないけど拷問されて殺されたという話もある。
そんなに自虐芸見たかったのか。責め、壊した方はいっときだけ共産党でいいおもいできた。なによりスカッとしただろう。
上にくいこめた人もいるし、でも今生き残ってるのは単なる地元のおばさんやってるそうな。
責める側に立てたとおもったけれど上手く時流にのりそこねて投獄され解放されてすぐ病死とかもいる。
それだけ訊くと、あるいは写真だけみていると結構、まあまあ、牧歌的(そういう表現だという意見は留保)。
某台湾出身の文化大革命で亡命した大金持ちの作家さんは、チベットについてはちょっと筆致がぬるい。
あそこはとんでもない田舎だからと。そうなのだ。牧歌的すぎて、金で人が動かないほどなのだ。高速道路も造れないほどの。
その作家さんは日本でおこった学園紛争も見ている。学園紛争では警察官と赤軍が死んでいる。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%97%A5%E6%9C%AC%E3%81%AE%E5%AD%A6%E7%94%9F%E9%81%8B%E5%8B%95
善意は自己反省で計れるとした共産主義は熱のようにぶりかえして、
でも今、日本は善意が金で計れなくなっちゃってる。振っても叩いても満足な金など出ない貧乏人同士の世の中になる。
そうなったときまた共産主義によくにたモンスタークレーマーがきて、金が出ないならと自虐芸としての鬱病的対応を要求する。
急に理不尽をいわれた人は、なるべくうまくショックを受けて悲しそうな顔をつくらなければならない。
そうして本当に憂鬱な一生を送るのだ。
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20130320-00000106-san-bus_all とまどいと反発
・夏への扉
この作品は言わずと知れた海外SF小説の名作だねー。最近自分の中でSFがブームなんだけど、読んでみてすごく良かったと思った。
はっきり言って始めは退屈だったけど、中盤以降の盛り返しがすごい。最後は爽快な気分に慣れたから、エンターテイメントとして高得点だった。
ピートは可愛い。リッキィも素敵な人だ。ただ主人公の精神的というか、即物的なロリコンへの耐性はどうなのよって思うなあ。
兼ねてよりそう見ていなかったとしても、やっぱりねえ。ダニィさん、そこんところどうなのよ、ねえ。
・隣の家の少女
かわってこちら。イギリスの絞首刑執行人が書いた、悪夢のような一冊だねー。まとめブログで欝になるとか後悔するとかの一冊としてよく上がってる。本当にそのとおりだと思った。
正直言って、この本のレーティングはR18クラスなんじゃないかな。ホラー小説というよりも、もっとグロテスクで内蔵抉るような嫌悪感に満ちていたよ。
始めの方こそ牧歌的な青春ものって感じの内容なんだけど、臆面も無く表現された凄惨への伏線がいい意味で嫌な感じだったなあ。
実際嫌な後味が残ったし。
でも、一度は読んでみるといいと思う。邪悪を具現化したようなかの女子高生コンクリート詰め殺人事件の捉え方も、ちょっとだけ変わるかもしれないね。
最後はこれ。完璧な趣味で選んでみた。川上弘美の文章はときどきすごく読みたくなる。あの空気感が素敵なのです。
まあホラーとSFとラノベとを読んで、少し文学っぽい物語に触れたかっただけってのもあるんだけど。
落ち着いたレディースコミックって感じで、安心して読めるよー。唐草模様の物語って感じなんだな、これが。
うん。すごく伝わりづらい。なんていうかね、綺麗な水がひたひたと満ちていくような読後感があるんだー。
この他にも小川一水とか貴志祐介とか恒川光太郎とか中村航とかの著書もいいよー。
黒野伸一とか五十嵐貴久とか有川浩とか梨木香歩とか加納朋子なんかも素敵だと思うなあ。
雨の休日は読書に最適だよ。湿っぽい匂いと紙をめくる音とが心地いいだねー。
さて、次は漫画の紹介だよー。手軽に楽しめるのが漫画のいいところだと思うんだけど、どうなんだろう。
まだ一巻しか出てないクイズ漫画だよー。ゴールデンタイムにやってるような奴じゃなく、競技としてのクイズをテーマに据えた作品だよ。
この作品の面白いところは、その焦点もさることながら漫画としての構成にもあると思うんだ。
王道的なストーリーテリングを無理なく無駄なく簡潔に描ききってるからすごく読みやすいんだよねー。この上手さは夢喰いメリーにも通ずるところがあると思うよ。
続刊に期待が持てる、熱いクイズ漫画になんだよねー。この作者のもえタイも一巻完結ものでおすすめだよ。
昨日二巻が出たみたいで、なんか完結してた漫画。なんとなく目についたから一巻と合わせて買ったんだけど、すごく良かったよー。
はっきりいって表紙を見て安易な萌えものかと思っちゃったんだけど、どっこいかなりシリアスで温かな作品だった。
独特な世界観はもとより、その絵柄もいい味出してるからいろんな人に読んでみてほしいなあ。
作者はイラストレーターさんみたいだけど、内容も骨太でしっかりしてた。
・繕い裁つ人
本との出会いって不思議だねー。ぱっと手が伸びてしまうんだから。この作品もそんな一冊だった。続き物で、こちらもまだ一巻しか発刊されてないけど、すごいんだよねー。
正直なところ、絵柄はすごく人を選ぶと思う。人物の顔なんて下手だって表する人がいるかも知れない。加えて余白の多さを指摘する人もいると思う。手抜きだとなんとか、無粋なことをさ。
でもねー、この作品はそう言った朴訥としたところとか簡素なところが最大の魅力だと思うんだよね。
読み取りにくい表情や、何も描かれていない空間に、とてもたくさんの情報が詰まってる。読んでるとね、だんだんその距離感とか漂ってる空気みたいなものが、濃密に溢れてくるんだー。
こいつはすごい作品ですぜぃ。静謐で穏やかな読書感に浸れると思うよー。
・午前3時の危険地帯
現在三巻まで発刊されてる。恋に仕事にって感じのレディースコミックで、でもどろどろした絡みだとか鬱々とした展開のない、変にカラッと乾いた漫画になってるよー。
この人、表紙が素敵なんだよねー。もちろん内容もいいけど、髪の毛とかすごい好きな描き方してる。
なんていうか、働きマンみたいにちょっと元気をもらえる作品になってると思うんだー。まあ結構毛色は違うんだけど、本質的に力をもらえるって言うか。
コミカルな描写も多くて、読んでて楽しいのもグッド。同作者の少年少女っていう短編集もおすすめだねー。
この漫画も元気になれるよー。よつばとみたいな感じだけど、また違った良さがあるんだよねー。よつばは元気を発散する中心だけど、先生は元気を周囲と分かち合ってる。
のどかな田舎暮らし、なんて内容じゃないんだけど、すっごく懐かしくて、もう帰れない夏休みのことを思い出さずにはいられない、かと言って切なくもならない、そんな作品なんだなー。
ぼくのなつやすみってゲームを、思いっきり濃口にしたような内容って言えばいいのかな。ぼくのなつやすみやったことないからわからんけども。
すっごく胸が軽くなる作品なんだねー。いや、すっごくってのは言いすぎかもしれんけども。なんとなく笑えてしまう楽しい漫画なんだなー、きっと。
なんかいっぱい挙げたら疲れてしまった。アホだなー。でもまあ自己満足にはなったからよしといたしましょうや。うん、そうしよう。
世の中にはたくさんの本があって、面白い物語が隠れていて、到底全てを網羅することなんてできなくて、そもそも本意外にも呆れてしまうほどにたくさんの娯楽があるんだけれども、そういったことを考えるといつもスゲェって圧倒されてしまう。本屋とか行くだけで、すごくワクワクする。
もうね、どうなってるのこの島は、状態ですよまったく。
他にもいろんな本を知りたいなあ(チラッチラッ
そんなことよりミスドに行きたい。
29歳、彼氏なし、3月に飲み会で知り合った同い年の男の人と週に一回くらい会ってた。
趣味も合ったし(野球観戦)、メールのタイミングとか遊びに行く頻度とかすごく居心地がよかった。去年の初め、数年付き合った彼氏と別れて以来縁遠くなってたので舞い上がってたのもある。ただ、社会人サークルに入ってて、女の子の知り合いがすごく多いことと、電話が多いことだけ気になってた。遊ぶときも半分くらいが二人きりではなく飲み会だし。
他に女がいる? 何か隠してる?
好きになってもいいような、何か踏み切れないような気持ちのまま、まあ、会ってご飯を食べたりしているぶんには楽しいからいいかなと、会ってた。話す内容は野球のことばっかりだし。楽しかった。前の彼氏と別れてから、野球の話なんて誰ともしてなかったのに気づいた。あ、あとちょっとだけ気になっていたことがある。彼がやたらと「エコ」を気にすることだった。
最初の飲み会で一緒だった私の友人が、あの子、なんか変な商売しているらしいよ、勧誘されたひとがいるって、と、教えてくれたのだ。彼は連鎖販売取引をしていた。いわゆるマルチ。具体的なことを書くのはやめておく。反論もあるだろうし。だけど、それを聞いてすべて彼の交友関係や発言に合点がいったのも事実だ。
すぐに問い質したいような気持ちを抑えながら、数日後、一緒に野球を見に行った。
ビールを飲みながら、試合のことを話していると楽しくて、すべてがどうでもいいことのような気がしてしまう。だけど、彼の携帯には電話が掛かってくる。その場で出た彼は「目標達成のためにがんばります」などと電話口で言っている。前には妙に牧歌的な試合風景。前の席には40歳前後の女性二人が楽しそうに試合を見ていた。二人の薬指には指輪が光ってて、ああ、羨ましいなと思う。
私は、人生に大それた目標など抱いてはいない。だけど、すぐに目の前の二人のようになることは出来ないのだ。
試合は応援していたチームが勝った。
試合後、二人でご飯を食べた。彼に本業のほかになにかしてる?と聞いた。彼は悪びれなかった。販売員にはなってほしくないけど、商品はいいよ? 買ってみる? と言われた。
ごめんなさい、もう会いません。と答えた。
ああそう、みたいな軽い返事をされて、食い下がって欲しかったのか、そのまま解放して欲しかったのかわからなくなった。
帰宅して、徒労感だけ募った。
もう気持ちの整理はついてるし、見る目なかったなあと思う。目先のことに囚われて色々と目をつぶりすぎていた。だけどもう三十路で、今後こういうことが更に増えていくのだろう。
彼氏を作って結婚することがゴールではないことなんてわかりきっている。だけど私は、一生穏やかに野球を見に行く誰かが欲しい。
バカにでも分かるように書くけど、
まず、利益が出ないと企業が存続できないのはバカでも分かるよね。だから「条件」。
言えたとしてもせいぜいたくさんある目的の一つ。
ホントに言葉遊びなんだよなーこれ。
いやーそんな幼稚なこと言われてもな。。。
別にそんなに言うなら僕のもとの文章の「目的」を「条件」に置換してくれてもいいよ。
企業にもよるって、じゃあエニックスの企業目的はドラクエつくることなのかな?
それはあまりにの牧歌的すぎる想定じゃないかなと思うんだけど。
でもまあそう信じてるんなら仕方ないよ。
企業をどういう風に見るかは自由だと思うよ。
http://www.nikkei.co.jp/news/shasetsu/20100310ASDK1000610032010.html
弁護士の増員に強く反対している立場の宇都宮先生が当選したのに対して批判的である。
地方の割のよくない仕事が多い弁護士が,経済的基盤が揺らぐのを案じて,宇都宮票となった,と。
そのような地方の弁護士に対して,「司法を身近なものにするには弁護士の大幅増員が必要不可欠」とした上で,
今回の選択を「高い収入を失いたくない特権的職業集団のエゴ」と断じている。
だが,ちょっと待って欲しい。
そんなエゴでここまでの票が集まるはずがない。
「司法改革」の1つの柱として新司法試験制度が始まり,ロースクールがなければ司法試験すら受験できなくなった。
実務家教員を集めるためにだろうか,ロースクールの学費は非常に高く(高いところでは年間200万円にも登る),奨学金を借りている者が多い。一度で受かればいいが,受験に失敗すれば,それだけのコストがかかる。
司法試験に合格した後の司法修習中には,今までは準公務員として給与が出ていたが,合格者が増えたことで,次の期の修習生からは貸与制となった。貸与額は年間約300万円である。
その司法修習も,従前は2年間だったものが,1年半,1年4ヶ月と徐々に短くなり,今ではたったの1年しか期間がない。
そのような状況で,裁判員裁判が始まるなど,制度が大きく変わりつつある実務経験を積まねばならない。
後述するように,就職活動が熾烈を極める中,1年間でこれだけのことを身につけろという方が無理な話である。
よく言われる新人弁護士の質の低下というのは構造的な問題に過ぎない。
そして,弁護士として世に出る前には,さらに就職難が待ち受けている。
「ボスと1回酒を飲んだら就職が決まった」というような牧歌的な就職活動はとうに姿を消し,エントリーシートを書いて法律事務所を訪問して,というリクルートが定着した。
それまで出していなかった司法試験の成績が通知されるようになり,司法試験の成績とロースクールの格で品定めをされる。「お祈りメール」が来ればいい方で,選にもれても返事のない事務所も多い。
そのような就活事情の中,就職が決まらず,やむなく軒弁や即独を選んだ仲間もいる。事務所のスペースは借りられるが一切給与は支払われないいわゆる軒弁。弁護士登録後即独立,いわゆる「即独」。
こうして,相当程度のの新人弁護士が,数百万円単位の借金を抱え,不安定な収入状況で生き抜かなければならない状況にある。さながら多重債務者である。
なにしろ,私もそのような借金を抱えて,氷河期と言われる就職難を乗り越え,ようやく弁護士として歩み出したばかりだ。
この日経新聞の記者(平均年収1295万円)は,私たち新人弁護士の置かれている状況を知っているのだろうか。
法曹人口を増やすのは,1.司法過疎地域の解消と2.経済界への弁護士の参画という目的であった。
就職難であふれた人員が地方に就職し,司法過疎は徐々に改善に向かっている。
(もっとも,司法過疎については,日弁連が10年来取り組んでいることもあり,司法試験合格者が1000人になったころから徐々に解消しつつはあった。)
ゼロワン地域以外でも地方への就職は進み,現在では,新司法試験合格者の会員が既存の会員の数を上回る単位会もあると聞く。
経済界への弁護士の参画,特にインハウスローヤーの増員は遅々として進んでいない。
日弁連の弁護士検索で,事務所に(株式会社)と入っている弁護士を調べると,359人の弁護士が引っかかる。
このうち,新司法試験制度が始まった頃の登録番号である36000番台以降の弁護士は155人。
正確な統計ではないが,新司法試験が始まって約5000人の弁護士が増えて,約150人しか企業が弁護士を受け入れていないということになる。3%。
新司法試験が始まって3年で150人ということは1年に50人。そのために,合格者を3000人にすると言っていたのだとしたら,お笑いぐさである。
経済界の肝いりで始まったロースクール制度だったはずなのに,このていたらくである。
そうすると,ここまで法曹人口を増やす必要があったのか不明である。
よくロースクール制度は詐欺だ,などと主張する受験生がいるが,法曹人口増加論ももっと検証されるべきではないか。
そもそも,弁護士は,司法研修所での研修を終えたからといって一人前になるわけではない。
イソ弁というOJTシステムがあったからこそ,今までの質を保ってこれた。それが,OJTの窓口である各法律事務所では増加した法曹人口を吸収できていない。
そのような現状があるのに,弁護士をさらに増やせばいいんだという論には賛成しかねる。
OJTも満足に受けられない質の悪い弁護士が増えて,市民の基本的人権は守られるのだろうか。
これまで見てきたように,現状では,法曹人口増加論のすべての負担が,若手弁護士に押しつけられているのである。
以下ソース
日経新聞の年収 http://www.ganvaru.com/cat_12/ent_8.html
ロースクールの学費 http://laws.shikakuseek.com/expenses.html
司法過疎が改善しつつあること http://www.nichibenren.or.jp/ja/special_theme/data/zero_one_graph.pdf
日弁連の弁護士検索(ビル名等に株式会社と入力する) http://www.nichibenren.or.jp/bar_search/index.cgi
絶賛現実逃避中です。
さて、今日はリクエストのあった、新司法試験の出題趣旨についてコメントしたいと思います。
と思ったんですが、今年のは受けてないので、新司法試験について一般的なあたりを述べてみたいと思います。
旧試験は、大卒なら免除になる一次試験の後に、択一と論文からなる二次試験、最後に三次試験として口述試験がありました。
そして、択一の合格発表は論文試験前に出るので、択一対策と論文対策を分けて行うことが出来ました。
しかし、新制度では、一次試験と三次試験がなくなった代わりに、択一と論文を同日程で行うこととなりました。
そして、択一の出題範囲は、旧試験では上三法(憲法、民法、刑法)だったのに対して、上三法に加えて、商法、民事訴訟法、刑事訴訟法、行政法も出題範囲に加わっています。
論文科目についても、行政法が加わっていて、さらに、専門性のある科目が選択科目として追加されています。
論文では、公法系、民事系、刑事系、選択科目について、それぞれ3~4時間かけて、超長文の問題を扱っていきます。
そして、ロースクール卒業後5年以内に3回しか受けられません。
よく、新司法試験の合格者は、旧試験の合格者より質が劣る、という言説が聞かれます。
実際に、今の司法試験の合格率は非常に低く、合格者が少ないので、質が高いのは間違いありません。
もっとも、以下のような事情もあります。
つまり、新制度では受験回数の制限があるので、記念受験などあり得ないが、旧試験ではそういう受験生が多い。
また、上述のとおり、試験自体が過酷になっていて、法律知識以上に、高度な情報処理能力が要求されている。
そう考えると、言うほど質が粗悪というわけでもないような気がします。
そして、質が低いの一例としてあげられている、2回試験の合格率の低下ですが、これもおかしい。
というのも、質が低いと言われ出したのは、司法試験の合格者が増え始めた時期ですが、これは同時に、司法修習の期間が短くなった時期でもあるのです。
また、かつては司法修習は2年間でした。それが現在では1年です。身につけるべき事項は、新制度の施行とともにどんどん増えていきます。
もっといえば、「弁護士と1度酒を飲みに行ったら就職が決まった」というようなかつての牧歌的な就職状況とは違って、現在では、弁護士業界は超氷河期です。
出来なくなって当たり前のような気がします。
基本情報レベルのJavaが読め・書ける程度でプログラミングを簡単だと思うならEffective Javaを読んでみればいい。牧歌的に思えた野原にどれだけ地雷が埋まっているか理解するはずだ。C++のクラスが書けポインタが使える程度でプログラミングを簡単だと思うならModern C++を読んでみればいい。登っている山はまだまだ高く険しいと知るだろう。
現状、この業界は上流工程を担当する大手・優良企業(NTTデータ、富士通…等)と、下流を担当する有象無象の中小企業および規模だけは大きな独立系企業とに大分(一部例外あり)され、一般に上流の方が難しい業務、下流は比較的簡単な業務とされている。
確かに、下流の業務は簡単だ。仕様を満たすアルゴリズムの実装を、規約に従った書式によって行えば良いだけだ。基本的には、薄っぺらい参考書一冊で事足りる知識しか必要としていない。
けれど、僕らは知っているはずだ。プログラミングというものがもっと遥かに深い味のあるものだということを。極めるのがどれだけ困難なことかを。
基本情報レベルのJavaが読め・書ける程度でプログラミングを簡単だと思うならEffective Javaを読んでみればいい。牧歌的に思えた野原にどれだけ地雷が埋まっているか理解するはずだ。C++のクラスが書けポインタが使える程度でプログラミングを簡単だと思うならModern C++を読んでみればいい。登っている山はまだまだ高く険しいと知るだろう。
こうした使われざる技術は、本来、下流の仕事をより素晴らしいものとするはずのものだ。しかし、使われない。
これは上流の陰謀なのではないだろうか。上流としては、下流の仕事が高度になるのはあまり歓迎すべき事態ではない。それは上流の優位を奪うか、上流の仕事をより困難にするかのいずれかとして働くだろう。上流からすれば、下流は上流の理解できる、簡単な範囲でのみ活動してほしいのではないか。
もしこの考えが正しいのなら、下流の仕事が簡単だといって蔑んではいけないのだろう。本来、高貴なものになるべき下流を貶めているのは上流かもしれないのだから。僕らは負い目や憐憫をこそ感じるにせよ、軽視、蔑視するのは間違っているのではないだろうか。
……上流の仕事に傾倒しPGを軽視する同期を見て、言い知れぬ不満のようなものを感じ、数日間その思いがわだかまっていたのが、やっとすっきりした。