フィジカルだけでなくメンタル調整も必要だろう
あと他人より何倍もの回数をこなすとやはり技術的にも熟達していくのか
]]>熱い食べ物が口の中の粘膜に触れる面積と時間をぎりぎりまで減らしながら空気と一緒に吸い込むことで火傷を避ける"曲芸"に熟達する必要性って別にないし
火傷しない程度まで冷ましてから食べる方が賢い気がしてきた
]]>ジャーナリストごっこhttps://anond.hatelabo.jp/20231003040510
の続き。
当事者主催の記者会見が真相究明の正念場であるというステレオタイプはなかなか強固なようだ。攻める敏腕記者。はぐらかす当事者。「ではこの件をどう説明するんですか!?」「うぐっそっそれは…」そんなことにはならない。
人民法廷が望みなら国籍を替えた方がいい。
仮にかれらの疑問なりご意見を全て東山なり井ノ原にぶつけ、一切制限なしに吊るし上げたらどうなるか?格好の「禊」を提供するだけになる。三日三晩死ぬ気で踊ってドガチャガにできるんならやるだろう。そういうことのプロなんだから。
報道側にも勘違いしてその気になっている者があるから笑える。いや笑えない。
そして驚くべきことに、会見をアレンジする側すらもがそんなノリであったのだ。「NG記者」だってさ。カメラに抜かれてバレるとこまで含め「相棒」かなんかのワンシーンみたい。もしかしてわざとやってる?いくらなんでも拙劣すぎだろう。
記者会見とはそもそも何か。言ってしまえば「握り」の産物である。当事者は能動的にダメージコントロールができる。報道側は記事が作りやすい。一般視聴者としては事態の経過について綜合的に「ここまではこう」という大枠の認識を確定していける。
会見設定した側のルールになんか縛られたくない!というなら縛られなければいい。記者会見の場にはハトくらいしか来ず、虎狼のごとき記者たちは自由に取材攻勢をかけまくる、で結構ではないか。なぜそうしない?めんどくさいから。
ジャニーズ事務所の始末、被害者ケアのスキームには目鼻がつきだしたようだ。
しかし現存幹部らがジャニー喜多川の犯罪の「共犯」であったとされるのと同じくらいに「共犯」であったはずのマスコミの罪は全く手付かずのままである。「記者会見のやりかたがずるい」とか、そんなどうでもいいことに目眩まされてるんじゃないよ。バカなのか本当に。「バッカモーンそいつらがルパンだ」だよ。
東京新聞の「反省文」には笑った。「ごめんちゃい、でも記憶にないんです」だってよ。ごめんちゃいで終わりなわけないだろう。
空前の性犯罪がいかにして隠蔽されてきたか、専門チーム組んで年単位で調査報道やれよ。ド素人のミーハーおばさん以下の人材しかいない組織なのか?まともな調査報道などできない【新聞社のコスプレ】なのかよ?
異常な犯罪を可能にした異常な土壌は、言わずと知れたマスコミ利権構造である。
新聞は儲からない商売だが、TV局は電波利権を独占して、いまだ巨利を生む商売である。そして本邦では新聞社とTV局が一体である。
ジャニー喜多川はTVに食い込んだ。それでも喜多川の持つ直接的な「権力」の範囲は限定的なものである。彼の天才は限定的な権力にレバレッジをかけて「権威」に高めた点にある。歴史の男山根なんかも同じだな。当人は何にもないただの爺なのに。
権威とは強制力の及ばない人間をも平伏させる力だ。その源泉は「隣の人も平伏してるから、とりあえず、なんとなく」である。そういう自縄自縛の魔術あるいは詐術なのだ。
要するに。既得権の上にあぐらをかいた業界の中の人たちにとって、波風立てることは「少し不快」だったに過ぎない。不正に口を噤む不快よりも、少しばかり。
事態がめくれたのが「外圧」のおかげだったことは、とてもわかりやすい。つまり全く別の系に存する権威(欧米の人たちに白い目で見られちゃうよ)からの一刺しだったからだ。内側からは破れないが、外からならあっさり破れる風船だった。
ジャニーズ問題の糾明とは【利権の上にあぐらをかいた】【調査報道の能力がないマスコミ】を根底からぶっくらかえすということだ。やれんのか?もちろんやらないしやれないだろう。一問一答がどうだとか、記者が記者を注意するなんてありえないとか、バカみたいな些末な「問題」の糾弾を目くらましにして「隠蔽」は続くだろう。
ここで「大マスコミはもうダメだ、インディペンデントな真のジャーナリストよ立てよ」という声が上がるかというと上がらない。その希望は上杉隆がきっちり潰してくれたから。
さて、話はこれで終わらない。ジャニーが使いこなしたレバレッジとは何か。それは大衆の感情スクラムである。いまジャニーズ事務所に向いている、それ。
望月もいるアークタイムズ編集長いわく、「記者会見でアンフェアなルールを押し付けるジャニーズ事務所の体質が、ジャニー喜多川の性加害継続を可能にした」「事務所側の押し付けるルールを喜んでおしいただく他社マスコミも一味同心」であると。
つまり?ジャニーズが設定した会見にうかうかと乗っかっておいて現場で同業を押しのけて騒ぐことが唯一無辜の立場になれる裏技なわけだな。
違うだろ。正義を行う気があるなら、おのれらに刃を向けろよ。
井ノ原らによる己への扱いの悪さは、かれらが喜多川の犯罪を看過してきたことを連想させるという、ボヤキのような主張。
ここだ。連想は連想なんだよ。連想ゲームで何かを発見した気になるな。ジャーナリストがそれをやっちゃおしまいなんだがそればかりやってるな。
「大衆の感情スクラム」の接着材もこの【連想を発見と勘違い】である。陰謀論者たちを固く結びつけるものもそれだ。
故・安倍元首相のひそかな趣味が「ドーベルマンのブリーディング」であったという事実を知って、ある種の人々は「なぁーるほどね」というだろう。何がわかったというのか。ちなみにウソである。
比喩がムリな人というのがいる。「地殻とマントル、核の構造は卵の殻と白身と黄身のようになっているよ」「だが、卵は楕円形だ(ドヤァ」「そもそも地球は卵とは全く大きさが違う(ニヤリッ」みたいな会話?はネット上では日常茶飯である。というかどうせそうなるから対人でたとえ話はしない。抽象思考ができるかできないかのラインというのがあるのだ。
「連想させるからなんなんだよ!それで何かわかったつもりになるなよ!」というのが通じない相手には通じない。それは仕方ない。問題は本邦のジャーナリズムが「その程度」であることだ。
誰をいくらぶっ叩いてもこの問題は解決しない。我々は正しく絶望しなければならない。
■論旨に組み込めず追記。
「井ノ原はグルーミング上手を受け継いでいる」といったゴミみたいな主張が目に入るとまことに心冷えるものがある。
どう言ったって擁護や相対化としか受け取らないもんな。
「悪を叩く側の邪悪さ」ってそれこそアニメ漫画でも使い古されたモチーフなのに全く克服されることはない。
■
id:opnihc 独りよがりな持論を延々と展開するあたりが望月某の模写がうまいと思う。うまくごっこ遊びできてる。
「連想ゲームで何か言ったつもりになる」の早速の実演。
どう独りよがり≒間違ってるのか論証してみ。
鼻くそつけて逃げるしか能がないのか?
■
id:www6 ブクマ30程度でウケた!バズった!と思って続編書くぐらいに承認欲求に飢えすぎだろ
うけたから?ぞくへん?書きたかったから書いたんだよ。
こういう思考回路が自分とは完全に別次元の人って、会ってみたらどんな感じなんだろうといつも思う。
(で、かくも意味を結ばずただ下劣なだけの罵声に喜んで星つける、どっかで見たメンツね)
■何十かに一つは虚を衝かれるようなブコメあるもんだけどこの件に関してはほんと誰の発言を見ても特に新たに学ぶものはない。そもそも俺もわかりきったようなことしか言ってないが。
おかげで普段はさすがに無視するレベルのハナクソピンポンダッシュerの類ばかりが目にうるさい。
■
id:white_rose 冷笑してれば自分は安全と思ってそう
「こいつは〇〇と思ってそうだ」などというのは内心ひそかに思えばいいことであり、公然と発言する際に採るべき話法ではない。
言うまでもなく根拠を示さず一方的に誰にでもどんな濡れ衣でも着せられる万能論法だからだ。
そうと気付けないまでに常識のタガが緩んでしまっている。
「冷笑してれば自分は安全と思ってる」のは他でもない、反論されにくいはてブの仕組みに過剰適応した自分自身だろう
■大分と《恨みを買った》ようで、「増田記事を書く行為」そのものを非難するという奇妙な泣き言のようなコメントが未練がましく付き続けているが、少しやり取りしてみて一つ気づきがあった。
ヤフコメとかYoutubeコメ欄で、本人なりの正義感でよくわからないことを書いている、なかなか意思疎通は望めないであろう右や左の素朴な人士が居る。
一方ではてな界隈なぞに詰めているクソリプマンは、嫌がらせに熟達したすれっからしのネットトロールで、目を合わせるのは身のためでないし恥ずかしいことだという思い込みがあった。ミニミニ暇空みたいなものかと。
いやどうも全く同じ人種だね。気持ちが先走るばかりでまるで弁の立たない、良くも悪くも単純素朴な人たち。
]]>熟達者から見ると一発なんですな
さすがです
]]>むしろ自分の呟きに斜め上から指摘されることへの苛立ちはよく分かる
熟達のブロガーじゃないんだし、クソリプ飛ばされていい気持ちになる人は少ない
あと、全然よい文章ではないな
散文すぎる
]]>凡人が頑張ればできるなどと夢を見るのは片腹痛いわ
]]>明確な指標があって、それに沿って労力をかければ良いモノに近づける事はできるだろうけど。
あんまり良い例えが浮かばんけど、漫画ならヘロヘロの線しか描けないようじゃお話にならんだろうし、しっかりした線を引けるようになる練習を積めば、それはまあ手間暇かけた分良い作品になるでしょうねって思う。
そうでないような事も少なくないような気がする。
料理なら、市販のルーをポンと入れるよりも、スパイスを沢山使って時間をかけて煮込めば煮込むほど美味しくなるはずだ、とか。
アルコールの熟成だって、時間をかければかけるほど希少さは発生するけど、果たしてそれが美味しさに繋がっているのかと言ったら疑問だし。
履き込んだグッドイヤーの靴の歩きやすさは別格だと言うけれど、それはウルトラブーストやNB1000番台に適うんか?とかも思う。あくまで革靴という土俵での評価であって、スニーカーと比べるのはナンセンスかもしれんけど。
こだわりを注ぎ込んで、その成果物を味わいながら過程の労に思いを馳せるのは趣味の要だと思うけれど、「いや本当に違うからコレ!」ってマジなトーンで言われるとホンマかいなって思う。自分の経験を以て考えた上でも。
機械でラクするより手作業の方が〜みたいな話は近代以降ずっとされてるだろうけど、大半の素人は機械で済ました作業の出来栄えを超えられないと思う。それは芸術分野とかでさえも。
一握りの熟達したプロは機械を超えるだろうけど、それはもう僅差というか、何なら最低限の技術的ラインを超えてあとはもう好みの違いという領域になる気もするし。
アルチザンのたっけえ服買って、オッ、やっぱり手縫いは違うな!と思っても、それは少なからず手間暇を掛けられた分だけ(それ故に高い分)良いモノなはずだという認知が働いてないかって思う。でも実生活で縫製の良し悪しについてそんな実感を伴って気に掛ける事ってあるか?って。
今や自動生成ツールが市井に出回るくらい身近になってきて、人の強みやアイデンティティ、人の手で物事を為す意義が色々と語られてると思う。そこで趣味性やヌクモリティで張り合うのは良いと思うけど、「いや人の手でしか出来ない事が〜」って実用的な面で真っ向から戦おうとするのは危うくないかなあって思う。まあそれもかっこいい生き方だけど。
]]>棘のコメ欄見てて疑問に思ったんだが、どう思う?
上記のコメ欄を見ると、弱男たちの中では通説になってる「女は暴力男がすき(だから暴力的でない俺らはモテないんだ)」という理論に(おそらく)女性たちがこぞって反論しているのが観測できる。
弱男の側は英語の論文まで持ち出してきてるので、(中身は読んでないが)おそらく一定の信憑性はありそう。
一方、反論する女性たちの理屈をみると、ほとんどが個人的な経験の話。なので正直反論としては弱いと言わざるを得ない。
が、そんな中でも有効そうな反論がある。
それが「暴力的な男が魅力的なわけではなく、決断力があって、リードしてくれる、頼りがいのある男がモテるのだ」という意見。
これには私も確かにな、と頷いた。
しかし、よくよく考えるとこれもやっぱり「暴力的」なのでは?と思ってしまった。
たとえば、「決断力がある」というのは「悩ましい2択を迫られたときにたとえ反対があろうとも思い切った判断ができること」なのでそこには他者を顧みない暴力性が存在する。
「リードする」というのは「ある場において、一定の支配力を持って集団をひとところに導く」ことなので、ここにも他者を支配する暴力性が存在する。
「頼りがいがある」というのは「対等な関係をやめて、「頼る側」と「頼られる側」の関係性になり、その状態を常態化させる」と言い換えられるだろう。
それ自体に暴力性はないが、スタンフォード監獄実験のように、格差のある関係性が暴力的事態を引き起こしても不思議ではない。
こうしてみるとどれもやはり暴力性と無縁ではなさそうだ。
ここでふと疑問に思う。
女性はなぜ「リードされたい、頼りたい」と思うのだろうか?
いやもちろん男性にだって「リードされたい、頼りたい」と思う場面はある。
しかしそれは、たとえば新人と先輩、上司と部下、教師と生徒、初心者と熟達者のように、二者の立場に能力や年齢といった何かしらの格差がある場面に限定される。
そしてこのような場面では、しばしば関係性の格差を原因としたハラスメントが起こる。
ん?
ああわかった。
つまり対等な関係であるべき「男女の関係」、「夫婦関係」が「頼り頼られの格差のある関係」になってしまっているからハラスメントが起こるのか。
ということは「リードされたい、頼りたい」願望は捨てるさるべきじゃないだろうか。
いや、その前になぜ女性が男女の関係において「リードされたい、頼りたい」と思うのか?を解かなきゃならないが。
]]>(※ 今ここで行われてるように、愚痴を言って慰め合うのも熟達した理性のうちに入る。そうしてダメージを共有するのも受容のプロセスだと私は考える。)
要するにホルガ村か。
個が消失して村全体で全ての感情を共有するカルト共同体がお望みってことね。
]]>まわりの人たちが理性が充分に発達していれば受け入れられる。
(※ 今ここで行われてるように、愚痴を言って慰め合うのも熟達した理性のうちに入る。そうしてダメージを共有するのも受容のプロセスだと私は考える。)
]]>もちろん労働力の需給の調整の手段として考えてはいないですよね?
]]>それはともかく、おれは表現の消費者に過ぎないんだけど、年間数十本はアニメ見るしデイリーで見ない日はないくらいの熟達消費者(マエストロ)なんだか、やっぱり指をさされ、指摘されてもしょうがない部分はあると思ってる。
たとえばせいぜい12歳くらいの見た目の子を「数百歳生きている」とかのファンタジー設定つけて、エロ・スケベ表現を盛り込もうとするとか。テレビで放映されてるのでも平気であるよね。ああいうのは変態向け表現なので、一般向けに混ぜてはいけない。
自主規制できねーなら法で規制される、これは一種しょうがないことなんだ。
]]>学習は悪いことでは無い。悪いのは、他人の努力を感情で嘲笑する精神性だ。それは仕事効率化の上でも明白と思われる。Googleのプロジェクト・アリストテレスでも示されている。あなたは公式だ。
無駄だと思うなら、今すぐやめるべきだろう。タバコが健康を害することは医学的も証明されているしな。金も勿体ない。ケーブルを替えても音質は向上しないぞ。
]]>いやiPhoneファンの連中の言うことは俺も解る、そう思う。
「デザイン変えられるけどお前のAndroidスマホはサポートしてやんねーよ」と言いたいんだろ?
ただお前らもわかってるじゃん。
自分たちが揶揄しているのは今現在のことであって今回決まった仕様は将来にも活用されるであろうものだと。
もっと言ってしまえば今回のルックアンドフィールは昨今流行りのスモーキーなカラーパレットを大幅に追加している。
現在のAndroidスマホでは主流になっているテカテカした外観とはデザイン的な親和性がないよなと。
つまり今後はハードウェア自体が昨今のPixelシリーズのようなつや消しで、かつ、ナチュラルなカラーやパステルカラーをハードウェア外装へ採用するAndroidスマホが増えていくと思われる。
確かにね、iPhone 12や新型iMacで採用する地金の美しさを最大限利用しつつもカラフルなハードウェア外装はカッコイイぜ。
ただね俺はここで洒落た女子に聞いてみたいと思う「キミのファッションへ合わせやすいのはメタル?それともパステル?」ってね。
返ってくる答えはギークな野郎でもわかるんじゃないか?
おそらくは日本に住む多くの洒落たユーザは今後登場するAndroidスマホを見て思うはずだ
「パステルなiPhoneがリリースされたら良いのに」
ただこれがグローバル市場へ目を向けると変わってくるのはネットの情報へ熟達しているお前らが知っているとおりだ。
世界市場はAndroidユーザのほうが多く、特に新興国で支持されやすい傾向にあると。
更に言っちまえばChrome OSのICT教育への興隆が目覚ましい。
学校でChromebookを使えば自宅のパソコンだってChromebookにしたくなるのはベターだろう。
おそらく近いうちにASUSやHPがパステルカラーなChromebookの需要に気付いてAndroidスマホと合わせてリリースするぜ?
なにせ今回追加されたカラーパレットは50種類以上だ。
カラーパレットから引用して外装カラーを決めちまえばAndroidスマホもChromebookも、そして中身のソフトウェアもカラーの統一が出来る。
それを踏まえてお前らの意見を聞かせてくれよ。
あぁそうそうChromebookが流行らないってのは無しだぜ?
もうMacのシェア超えたんだからな、流石にそこは認めてくれ。
まぁひねくれたこと言うからお前らのことキライじゃないんだけだね。
日本の土着のメーカーが作った局地的にしか使われてないアプリに熟達することに意味なんてない
単に授業は紙と鉛筆でできる
]]>紙と鉛筆でできたこと
]]>ディベート専用技術ばかりに熟達した人が日本人の全員
]]>小学校1年生の漢字を覚えていなければ小学校2年生の漢字を覚えられないということにはならない。
奈良時代の学習を完璧に理解していないと平安時代の学習がうまくいかないということもない。
同じ理系科目である理科(物理化学生物地学)も、たとえば小学校の学習ができなくても中学校で、中学校の学習ができなくても高校で、得意になれるくらいには、カリキュラムは独立している。
しかし算数・数学はそうではない。
小学校1年生の学習を理解しないまま、小学校2年生の学習に進むことはできない。
学習したつもりでも、実は理解しきれていない箇所があれば、必ず後に響く。
もちろん他の教科も初めから順番に学んだ方が当然わかりやすいし、それに越したことはない。
ただ数学のそれとは取り返しのつかなさが違う。
誰かがスキルツリーに喩えていたのがわかりやすかった。
数学は前のスキルを解放しなければ次がとれないスキルツリー。
一方、他の教科は、推奨レベルやお勧め解放順、必要ポイントの差はあるけれども、基本的にはどこからでも取っていけるスキル表だ。
この数学の積み重ね性を表す顕著な例として、たとえば、高校3年(2年かも?)で習う微分(導関数)の定義を考えてみる。
f'という記号が導入されて、limなんちゃらかんちゃらで、f'(x)は定義される。
そうしたら教師が、例えばf(x)に具体的な関数x^3を当てはめると、ここがこうなって、3x^2になるんですと。
この「具体的な関数」って言葉、面白いよなあとつくづく思ってしまう。
この説明の中ではx^3は「具体的」なのだ。
中学の頃には、関数を理解するため、xに「具体的な数」たとえば10を入れて考えてみましょうとか言っていたはずなのに。
具体的ってなんだ?
コトバンクで調べると、「はっきりとした実体を備えているさま。個々の事物に即しているさま。」だという。
小学校で初めに数を習う時、我々は指を折ったり、タイルを数えたり、林檎を想像したりした。
そうだ、それこそが真に具体物だ。
数自体が、それを抽象化した存在にすぎない。
したがって我々は、導関数の定義を「具体的に」理解しようとする際、まずf(x)に具体的な関数x^3を当てはめ、そのx^3を理解するためにxに具体的な数10を当てはめ、さらにその10を理解するために林檎10個を思い浮かべ……
とはならない。
関数のことを理解する時、我々は数のことはもう既に具体的だと思って接している。
同じように、導関数の理解に臨もうという段階では、個々の関数のことはもう具体的だと思えるようになっている。
そう思えるようになるほど、個々の数や関数に対する様々な操作を、手癖レベルで熟達し、理解している。
理解して慣れ親しむことで、抽象物は具体物に変わるのだ。
そうして、その新たに手に入れた具体物を土台にして次の抽象が受け入れられるようになる。
これが数学は積み重ねと言われる話の核であり、一度理解をとばせばたちまち着いていけなくなる要因である。
]]>面倒くさいならスルーしてしまえばいいんだし。
でもそもそも
二人で何度か出掛けてるのにセックス誘わないほうが非常識
告白してからセックス合わなかったら無駄に交際経験だけ増えるだろ
https://anond.hatelabo.jp/20210106112508
こんなのを熟達したら知ってほしいような常識にすべきではない。
セックス合わない相手との交際が無駄?
女性はセックス以外存在価値のない道具ではない。性処理道具はアダルト専門店で買っておけ。
交際はコミュニケーション自体が目的なんだから、無意味な時間を想定している時点で本末転倒です。
見失ってる人も多いようだけど思い出して欲しい、セックスはコミュニケーションのいち形態だってことを。
男性は人間だ。女性も… 人間だ。
セックスの打診は発展した人間関係のなかでありうるけど、身勝手に行えば相手を傷つける。
]]>まず定義と意味をごっちゃにしている人が目立つ。
割り算(除法)の数学上の定義は、掛け算(乗法)の逆演算だ。それでしかない。
何々を何個ずつに分けるとか、何が何から何回引けるとか、そういうのは定義ではない。解釈(意味付け)のひとつだ。
ここはなぜ誰もはっきりさせないのだろう?
そして、数学は抽象を扱う学問だという言葉を敷衍しすぎて、二種類の勘違いをしている人がいる。
一種類目は、最終的には抽象化された世界での操作さえ熟達すればいいとして、意味付けどころか定義の理解すら不要とする勘違い。
抽象的な世界に意味がないと勘違いしてはいけない。
抽象的な世界は抽象的な世界のまま、定義や定理などの言わんとすることを、身に染みて理解できるようにならなければいけない。
割り算の例で言えば、上で言う、掛け算の逆演算という部分をだ。
二種類目は、数学は抽象的な概念だけに興味があるという勘違いだ。
数学は抽象世界の学問でありながら、同時に、「抽象化」の学問である。
物理的な現象を記述するためのツールとして発達した数学が、数学それ自体の抽象的な世界を築き、その結果が経済学や情報工学などにも適用されうる。
事物から抽象、抽象世界の中での発展、抽象からの事物。
このどれもが数学であり、そういう風に力を発揮できるのが、数学だけが唯一持っている力なのだ。
だから、抽象的な操作に事物的な意味付けをする、解釈・具体化をするというのも、立派な数学の一側面であり、不要と切り捨てるものではない。
これを踏まえて、元記事で「数学的ゾンビ」と称されている「意味が分からず問題だけが解ける状態」、つまり、
「抽象世界における定義の実感的な理解も、その事物世界への意味付けも習得しておらず、ただ記号的操作だけが習熟している状態」
は、やはり数学という学問を理解したことにはならず、可能な限り教育者が改めさせるべき態度であるように思う。
]]>オブジェクト指向プログラミングにおける継承は強力な手法であるが、これを正しく使えるプログラマは残念なことに極めて少ない。たいていの場合、継承を使うことで却ってプログラムの保守を困難にしてしまう。継承のアンチパターンの最たるものは、単なるメソッドやメンバ変数の共有のために継承を使うパターンだ。これを行うとデータが密結合になってバグの原因になり、プログラムを把握することも極めて困難になる。
そもそも、熟達したプログラマの感覚では、業務で書くアプリケーションの実装に継承を使うべき局面などほとんど無い。ライブラリ等のより低レベルな処理で仕様が確定しているものについては、継承が効果的となる場合もあるが、複雑なアプリケーションのロジックに継承を使うのはほとんどの場合、時期尚早な抽象化となる。
また、凡庸なプログラマが継承で実現したいと思うことは、ほとんどの言語でより適切な手段が存在する。
継承を誤って用いるプログラマが多いにも関わらず、実は継承の使い時ははっきりしている。以下は、一定水準のプログラマならば、誰でも答えられる質問である。これに答えられないプログラマは不勉強を恥じるべきである。
答えられない人、自分の答えが正解の内容と一致しているか即座に判断できない人は、継承を使うべきではない。医学知識ゼロの素人が外科手術をするようなものであり、非常識極まりない。
リスコフの置換原則は、オブジェクト指向の文脈で言えば、以下のようになる。
「Baseを基底クラス、DerivedをBaseの任意の派生クラスとするとき、Base型として生成されたオブジェクトをDerived型のオブジェクトに置き換えても問題なく振る舞うようにしなければならない」
「問題なく振る舞う」というのは、以下のことを意味する。
ゴミプログラマが継承を使いたがる理由の99%は、以下である。
こんなもん、何も難しいこと考えずとも、以下のどちらかの方法で解決する。
AからBの機能を用いる場合は前者を、Aを変更できないがBと同じインタフェースを持たせたい場合は後者を使えばいい。
]]>自分の生理は非常に軽い方だと思う。
なんか痛いときもあるけど、どちらかというと来てることを忘れてナプキンを持っておらず焦ることの方が多い。
初潮も人よりかなり遅かったし、今のところはそういう人間らしい。
ひとしきり燃えてるのをツイッターで眺めてた。
生理はこんなに辛い、理解のない生理軽い奴と男はクソという投稿で溢れていて
それはそうなんだろうと思ったが、どれだけ殺意を向けられようが理解できないもんはできない。ないんだから。
他人の痛みは想像してはならない。しかし理解不能なものとして突き放してもならない。
マイノリティに対してマジョリティは、常にその間を揺れ動き続けることを求められてきた。
人類のほとんどはヘーゲルではないので弁証法に熟達しておらず、
大抵の人間にとってそれはブランコに乗り続けるように退屈で行き場のない行為だ。
多くのマジョリティが極論に走ったり目を背けたりするのもそれが原因だろう。人生、他人のためにブランコを漕ぎ続けられるほど長くはない。
生理が重い女性たち、それが原因で人生が上手くいかず苦しむ女性たちの投稿を眺めながら
私は疎外感とわずかな羨望を覚えている。「女」を生きられていいですね。
私はブスだ。おっさんや美人に「ブスも個性」と言われたら多分口から毒ガスを吐こうとして
そのような超自然的な力がないことに気付き口を大きく開けたまま曖昧な笑みを浮かべてその場を去るだろう。
だから「生理も個性」が許しがたいのであろうことも類推はできるのだ。
だが理解はできない。だって「ブス」と「生理」のあいだには大きな隔たりがある。
ブスは連帯できないが、生理は連帯できる。
「女であること」は連帯できるが、「女でないこと」は連帯できない。
(いや真面目な人が出てきたら「ルッキズムに縛られている」とか「女性を美醜で判断することは」云々とかいうかもしれないが、
私には男女を超えて自分のチー牛顔面は凡愚という概念の具現化にしか見えない。
見た目は化粧と努力でどうにかなるという人はあのチー牛のイラストのどの辺をどう弄れば美人になるのかイラストを掲載して教えてほしい)
「女であること」を中心に凝集しようとする動きは常にあるし最近も目立つが、うるせえなみんな失せろと思う。
そこに自分の女らしさをどこにも見つけられない、しかし女であることに憧れ続ける人間の居場所はない。
生理が軽い奴は重い奴を生きづらくするな、黙っていろと言われるとその通りですねと思うけれど、
そういう主張を目にするたび、私は自分を女として主張する権利「参性権」がないのだ、というルサンチマンが溜まっていっていることは吐き出したいのだ。
マイノリティでなければ発言してはならない。マイノリティの痛みをかすめ取ってはならない。
それはブスというマイノリティの身分からしてはその通りだ。しかし今、女性のマイノリティ性に憧れる人間として見れば、
「お前は永遠に我々に同化してはならない」という呪いである。女性であるためには烙印を背負わなければならず、烙印を持てなかった人間はさりとて男でもなく永遠に口をふさがれ続けなければならない。何も得していない。
じゃあ生理痛よ来い、って思うべきなんだろうか。いやそれは嫌だわ。痛いの嫌いだし。生理痛が軽かったおかげで割と人生上手くいってきたのは否めないし。
彼氏はいたことねえけどな。
丸い感じの一般論にまとめれば、烙印を中心に凝集するありかたは別のマイノリティを生むのだ、という当たり前のことだ。
まあただ、結局誰の胸にもルサンチマンはあり、誰もが何かしらのマイノリティであり
他人のためにブランコを漕ぎ続けられない以上、この世界はこのままなのだろう。というかこのままであってほしいと思う。
生きているうちに女性の権利、あるいは男性でも女性でもない人の権利、などなどはどんどん向上していくだろうが、
「女性」「男性」「トランス」などというカテゴリが消滅し、人間が人間になる世界はたぶんまだ来ない。多分今後十年の動きは逆だと思う。
十年間、私は言葉を奪われたチー牛または凡愚以外の何物でもない奴として勝手に揺れるブランコを眺め続けるだろう。
あるいは宇宙人がやってきて全人類をひとしなみに一瞬のうちに肉塊に変え、
その知能を統合して巨大データベースに変え、宙の彼方に持ち帰る未来があれば話は別かもしれない。
我々には個というものがなくなるが、しかし分解された個々の思い出や要素が個として独立し、ネットワークの間を自由に交歓するのだ。
そうすれば私のルサンチマンもいつか他者の痛みと溶け合い一つになるだろう。
地球に残された、人間だったものの肉から流れる血の海は、
あたかも七十数億人が身体を引き裂かれる生理痛と共に、一斉に月経を迎えた光景のように見えるだろう。
ああ、つまらない。
]]>たぶん どっちがどっちか?と聞かれたときに
グリップ力が高いタイヤ速いよね・・・いや いらなくね?そのグリップ力
速いのはわかるけど シートも変えたし、メーターも変えたし やりゃできるけど
いるか?
普通そういうでしょ
乗用車に1万回転なんていらねーだろって
すると
乗用車はこのタイムで峠を下りません。
いや
下ってるだろって
このタイムで峠を下れるのであれば、それは乗用車ではない。
排気量だけで定義をしたいままでの方法が間違えていた可能性について、検討を開始
排気量だけで3ナンバーを定義できると考えていたが、実証データを積み上げた結果、
3ナンバーの定義を変えたほうがいい可能性を否定しきれないため
より新定義を暫定的にすると このタイムで峠を下れるものが3ナンバー
ドライバーによるブーストの誤差が 無視できない 領域に 現実問題として 存在し得たため
ただし ドライバーによるブースト性能を加味する
旧の方で 車検などがちゃんとしていたばあい
ランエボをぶち抜ける7000回転の86は3ナンバーか? > どうみても 3ナンバー
限定免許のようなものだが
あのドライバーが乗った場合 この車は 熟達したドライバーが乗るランエボをぶち抜く ゆえに 3ナンバーをつけろ
ゆえに 法制度を変更すべきか 検討せよ・・・(アニメ)
法制度を大きく変更すると面倒だから
1つはエンジンを1万回転に変えてくれというのもあるけど
そういうドライバーが普通にそのへんで街乗りをしていた場合
とりあえず 逮捕して
とりあえず ナンバーを3ナンバーに変更する
なにかもんだいがあるかわからない。
あなたが、個人的に 個別対応でナンバープレート変えてくれるだけで
簡単に問題がかいけつするの!!
そうじゃないと道交法を根本から変えないといけないの 数人のために
]]>