はてなキーワード: 無謬とは
はてサの主力メンバーのタグ一覧を浚って、うまくネタにまとめようと思ったんだけど、
こんだけ悪意によどんだネガタグの一覧を前にすると、正直ふつうの神経なら参っちゃうみたい。
3,000くらいから1/10までしぼりこんだところで心が折れますた。
ニュース「地方自治体の中で、自発的に在日朝鮮人からの税徴収を免除している役所が見つかりました」
という経緯があった。
徴税率なんて言葉があるように、その自治体が率の悪化を覚悟すれば未納者を選択できる(強制徴収しない)のに、
そして現在。
法律の分野で議論されるべき問題と、法律とは関係ないところの議論が区別されていない件を
ごちゃまぜにしている思慮の足りない意見表明のよい例。
http://d.hatena.ne.jp/F1977/20090413/1239596219
あとこういう視点も。
http://d.hatena.ne.jp/lovelovedog/20090315/zainichi
これは在日外国人全般が受けられる恩恵なので、特権特権騒ぐのは間違いなような気もする。
http://anond.hatelabo.jp/20081127225711
先に断っておきますが、私が全面的に悪いです。悪いのですが、この風潮が少しでも変われば良いと思い書かせて頂きます。
その日、知人と久しぶりに会い一杯呑みながら閑談していました。良い加減に酔ったところでお開きとなり、某駅始発の電車に乗り帰路についたわけですが始発駅といえどもそこそこ混んでおり、一歩先に電車に入った年配さんらに一般席を押さえられた為、悪いかなと思いつつ優先席に座りました。
何となく予想が付くでしょうが、電車は駅に止まるごとに混んできました。気がつかず、本当に申し訳なかったのですが、久しぶりに会った友人と電車の中でも話し込んでしまって優先席に座っていることも頭から離れていました。さらに悪いことにお足の悪い方が近くに居たらしいのです。
かなり混んで来た頃でしょうか、上品そうなおば様が大きな声で言いました。
「恥知らずよねぇ、何で替わってあげられないのかしら」
こちらとしては非があるわけですから、平謝りです。申し訳ありません、と。友人も席を立って席を譲ろうとしますが、既にそういう雰囲気ではなく替わってくれません。その上、周りの年配者を巻き込み御説頂きました。
一応言い訳として、始発から乗りその時は空いていましたと伝えました。
返答はかなりショックだったのですが、
「優先席に座るのがおかしいのよ」
だそうです。
こうなると小さく座って説教を聞くしかありません。それはその方が電車を降りるまで…。大変勉強になりました。今後気をつけたいと思います。
けれども、反省したうえでこうも思うのです。立っているのが辛い人、本当に辛いのであれば「替わっていただけませんか?」と伝えて頂けないでしょうか。また気づいた方が「替わってあげてくれないでしょうか」と。
同じ国に住み、同じ日本語を話しているのに、この言語の断絶はなんだと考え込んでしまう程この出来事は私にとって大変ショックでした。実はあれから電車で座席に座るのが怖くもあるのです。
脱線しますが、私は席を良く譲る方だと思います。それでも酔ってれば、ふらっと優先席に座り、そのままその事を忘れたりします。だからこそ相手に無謬性を期待するのではなく、素直なコミュニケーションが必要だと思うのです。その方が空気を読んで生きるよりは幸せだと思うのですが。初対面の相手に「恥知らず」と伝える前に、もっと通じる言葉がある筈です。
えーっと最後に。私、40歳超で、隣に20代とおぼしき成年が爆睡していました。未だに、なぜ我々があれ程までに言われなくてはならなかったのか疑問も残っています。多分、楽しそうにしていたのがまずかったのかな。
第三章 国民の権利及び義務
第十四条 すべて国民は、法の下に平等であつて、人種、信条、性別、社会的身分又は門地により、政治的、経済的又は社会的関係において、差別されない。
すべてのXについて、XはPされない(14条)。
Xたる要件はQである(10条)。
憲法14条1項は,法の下の平等を定めており,この規定は,事柄の性質に即応した合理的な根拠に基づくものでない限り,法的な差別的取扱いを禁止する趣旨であると解すべきことは,当裁判所の判例とするところである<略>
憲法10条は,「日本国民たる要件は,法律でこれを定める。」と規定し,これを受けて,国籍法は,日本国籍の得喪に関する要件を規定している<略>このようにして定められた日本国籍の取得に関する法律の要件によって生じた区別が,合理的理由のない差別的取扱いとなるときは,憲法14条1項違反の問題を生ずることはいうまでもない。
http://www.cc.matsuyama-u.ac.jp/~tamura/kokusekihouiekennzennbunn.htm
憲法第10条は「日本国民たる要件は、法律でこれを定める」とありますが,そのことは,この「法律」が憲法第14条に反する差別的なものであってもよいということを意味していません。法律を作る国会議員が,そのような憲法論の基礎の部分を理解されていないようでは困ってしまいます。
【むしろ,自民党が心配】
http://benli.cocolog-nifty.com/la_causette/2008/11/post-8c0c.html
うーん、分からないか。
例えばだけどさ、仮にある人間(A氏)が「○○事件は政府内に潜り込んだCIA工作員の陰謀である。事情通の私の目から見れば、断片的な情報からもそれは明らかである」とか主張してて、それがなんと、実は本当にそうだったとしよう。しかし、第三者にしてみれば、ここでAが言ってることが真実であるかは判断できないわけだ。
このとき、A以外の人間がAの主張を真とし、前提としてその上に議論を積み重ねることを要請される根拠は何だろう? 仮にあるとしてもそれは、単に「A個人の言うことを信じる」という信念を持ち、なおかつ信じた自分に責任を持つこと以外にありえないのではないか。
では、翻って、俺が例の(全くの匿名である)増田の議論に無批判に乗っからなければない理由はあるだろうか? ここまで書けば分かると思うけど、俺が増田の主張を受け入れるには、きちんとした手続きに則った議論を通じてしかありえないわけだ。ところが、彼は自分自身(ってか誰?)の無謬性を根拠に、議論はショートカットできる、逆らわず自分の前提をお前も共有せよと言う。それは明らかにダウトでしょ。俺がそれを受け入れる理由はどこにもない。
それを言うなら水村だって「私の議論は言語学の方法論に沿っていない」って認めてたんだから同じことじゃないか。
水村が「私の主張は言語学的にも正しい」と主張して言語学の権威を僭称してるならダウトだけど、君の言うとおりそうではないんでしょ。どちらにせよ、俺は「本題」自体の是非には関心ないので。
※友人がオタクについて語った文章が面白かったので、許可を得て増田へ転載。
以下、友人の弁。
オタクが現実の問題について考えるとき・語るときに陥らないよう注意すべき点として、オタクのなかに強く見られる論理と心理の問題を以下に例示する。
これはべつにオタクじゃなくても当てはまるだろうという指摘があるとすればそれはその通りだが、ここで対象をオタクに限定したのは、筆者自身がいわゆるオタクであり、オタクのなかに見られる論理と心理について、ほかの集団のそれについてよりもよく見知っているという理由による。したがってここで例示したものは、あくまでそれがオタクにおいて比較的傾向的に強く見られるという筆者の観察に基づいている。
カッコイイズム
「カッコイイ」ものに対する素朴なあこがれと肯定の心理。ここで言う「カッコイイ」ものとは、たとえば、強さ、正義、純粋さなど、ヒーローものやロボットアニメなどに典型的に表されている価値観。こうした「カッコイイ」という観念は、具体的な作品を通して、実体的なものと結びついている場合が少なくない。典型的には武器・兵器との結びつき。強さへのあこがれと肯定が武器・兵器へのあこがれと肯定になって表れる。とくに男性オタクの場合、幼少期の経験によって、こうした素朴な心理がほとんど所与のものとなっている場合が多い。
こうした心理が現実の問題に適用された場合、非妥協的で一方的な強硬論の主張として表現されることになる(ヒーローはその純粋さと強さでもって有無を言わさず正義を実現する!)。たとえば、オタクが対北朝鮮問題について一方的な強硬論を唱えたり、日本の安全保障について軍拡論(さらには核武装論)を唱えたりする場合、その中には素朴なカッコイイズムの心理(しかも軍事力と結びついた軍事カッコイイズム)が混入していることが少なくない。もっと穏やかな形では、「あんなヤツやっつけちゃえよ」といった言説。自分だけの単純・素朴な心理(しかもしばしば暴力と結びついている)だけでもって複雑な現実を捉え解決しようとする点で非常に問題。
善悪二元論……敵の悪魔化と味方の無謬化
正義と悪の戦いというものの見方。典型的なヒーローものの論理。
敵=悪玉の論理。相手が何か一つでも悪事をはたらけば、事の大小も問わず、責任の限界も取り払って、相手を邪知暴虐な悪の枢軸にしてしまう。相手のすべての行動が邪悪な行動とされ、相手は邪悪なことなら何でも企みうるし、なし得るとされる。敵の悪魔化・万能化。行動が悪なのは人格が悪だからという論理、悪の人格からは悪の行動しか出てこないという論理。さらには、その悪に関係する人、組織、集団や、悪を擁護するものも一律に悪とされる。悪の肥大化。
これと対照的な形で善玉の論理が出てくる。上記のような巨悪を批判・非難する側はつねに正義であり、悪を殲滅するまで徹底的に攻撃を加えるべきだとする論理。結果として、邪知暴虐な悪との対決にはあらゆる手段が用いられ、往々にして敵よりも残酷で非道な手段を用いることも少なくないが、そうした手段は目的の「正しさ」によって正当化される。敵が悪魔化されたのとは対照的に、味方は無謬化される。宗教戦争に典型的に見られる正戦論の論理。
こうした論理が現実に適用されている例は枚挙にいとまがない。犯罪者バッシング、不祥事バッシングのほとんどがこうした論理によって展開されている。
現実はもっと複雑であり、善悪二元論で割り切れるものではないということ。善からは善のみが、悪からは悪のみが生まれるわけではなく、しばしばその逆であるということ。仮に犯罪や不祥事があったとしても、その事実をありのままに観察して論じること。特定の人格、集団、組織にすべての悪を引き受けさせるのは現実的なものの見方ではない。悪をなした側には悪をなした側なりの論理や心理がありうる(一応、オタク文化にもそうした側面に配慮した例外的な作品はある。『逆シャア』など)。単に人格的なレヴェルの問題だけでなく、構造的なレヴェルでの問題を見ること。そうした現実の複雑さに耐えきれず、問題を最初からすべて善悪二元論の鋳型に流し込んでしまうのは、宗教家かデマゴーグの方法。
問題の人格化
肯定・否定問わず、あらゆる対象を大小さまざまに人格化・キャラ化する論理。
これが現実に適用されると、典型的には民族や国家を人格化するようなことが起こる。さいきんでは『ヘタリア』の例。人格化された対象はある一定の本質を持っているように描かれ、ステレオタイプが促進される。
さらに、人格化された対象が実在の特定人格と結びつく傾向もある。たとえば、日韓関係が小泉vs盧武鉉のような形で著しく人格化されて語られた。これを歴史観に反映すると特定の人物に歴史を仮託した英雄史観になり、現実政治に適用された場合には指導者待望論につながる。
感情移入と過度の思い入れ
対象へ感情的・感傷的に没入する。対象と一体化した共感・同情。惚れた状態。マイナス面が見えなくなる。あばたもえくぼ。
現実に適用された例としては、拉致被害者家族会に対する感情移入。「被害者家族はこんなにかわいそうなのに、どうして北朝鮮に譲歩するのだ」という主張。共感・同情・思い入れが唯一の原理になる。没入対象が民族や国家などの場合は排外的ナショナリズムになる。
主観主義・心情主義
主観的心情と客観的現実とを同一視。あるいは、客観的現実を無視。
典型的な形態としては精神論。あきらめず努力すれば必ず夢は叶うという心情(ジャンプ的な少年マンガにも、少女マンガにも共通した心理)。
観念的空想
観念的な空想をもとに話をしてしまう傾向。「あれは??に違いない」「これは??なのではないか」という、根拠の薄い空想や概念操作を前提として議論を展開する。
オタク的な想像力の源泉とも言えるが、現実の問題に適用された場合、「どうせ??だろう」といった非現実的な憶測・陰謀論や、「もしかしたら??かもしれない」といった希望的観測にしかならない。
拗ね者意識、ルサンチマン
オタクがなお社会的弱者であるという現実から引き起こされる心理。潜在的にせよ顕在的にせよ、自分が疎外されているという意識。
こうした疎外感や拗ね者意識はオタク文化が閉鎖的土壌のもとで独自に発展する要因ともなったが、関心が外の現実に向けられた場合、マジョリティ・メインストリーム・既得権益、さらにはほかの社会的弱者に対する引きずり降ろしの心理がはたらく。
また、社会的弱者であることを一種の免罪符としてあらゆる粗暴が肯定され(被抑圧状態の復讐)、ひとしきり気分よく暴れることで欲求不満を一時的に解消しようとする。
「正しさ」信仰による偏向
どこまでも「正しい事実」を追求する態度。オタク文化の創作物のなかには「正しい公式設定」が存在しうるし、作品解釈をめぐってはそうした(しばしば枝葉末節に渡るほどの)「正しさ」が重要な論点となる場合がある。オタクのパラノイア的側面。
しかし、現実世界においては「正しい公式設定」は存在しない。正しい見方、正しい歴史、正しい勢力は存在しない。あらゆることが論争の対象。「正しさ」だけをもって現実を語ることはできない。政府の「公式見解」が時として「正しい事実」に反することには異議を唱えなければならないが、一方でそれが時として「事実上」(de facto)通用するという現実の意味も認めなければならない。現実の複雑で多様な側面に目を配る必要。一方だけの「正しい」主張しか知らないのはいかにも中途半端で偏向している。
中道、無関心への逃避
積極的な主張をするのではなく、むしろ中道や無関心を言うことで、現実の多様性とそこから要請される態度決定を忌避しようとする心理。「人それぞれ」という底なしの相対主義もこの系列。
しかし中道や無関心も歴然とした1つの立場である。これを認識することが肝要。むしろこうした無自覚な中道派や無関心派は、普段から積極的に態度決定する訓練をしていないだけに、イザというとき冷静な判断ができないおそれがある。
議論ずらしと無責任
「ネタ」「ベタ」「メタ」という形で議論のレヴェルをずらす傾向。オタクのスキゾ的側面。
空想や観念の世界に思いをめぐらす議論ならともかく、現実について考える・論じるときにこれをやると、とんでもない無責任な方言、責任回避になる。
とくにネットのような場所では、万人が非常に気軽に意見表明できると同時に、その影響範囲はきわめて広範囲に及ぶ可能性があり、責任は思いのほか重大。他者に責任を転嫁したり、「ネタだから」などとごまかすくらいならば、意見表明などしないほうがよい。
※投稿者としてはこの主張全てに同意するわけではないのだけど(例えば、一口に「オタク」と言っても、北朝鮮への一方的な強硬論や核武装を訴えるような軍オタにはそうそうお目に掛かれない)、こういう傾向は確かにあるかもしれないと感じる。これを見ているオタクの増田諸兄はどう思われるでしょうか。