はてなキーワード: 無謬とは
Yahoo!ニュース - 産経・FNN世論調査 解散、7割が「適切でない」 内閣支持率下落 (産経新聞)
首相が衆院の解散を決断したことについては「適切だと思わない」が72・2%に達し、「適切だと思う」の22・8%を大幅に上回った。首相が解散の理由に関し、消費税の10%への引き上げ先送りを挙げ、「重い決断をする以上に速やかに国民に信を問うべき」としたことについては、「納得できない」が71・7%を占めた。(中略) 首相が消費税の引き上げを先送りする考えを表明したことに対しては「評価する」が60・6%で、「評価しない」の34・7%を大きく上回った。
(強調引用者)
強い参議院だとか選挙サイクルの短さがもたらしうる選挙制度を問題視されていますが、
今般の衆院解散総選挙でも分かるように、おかしな歪みを政治に引き起こしてる要因として政官関係も大事でしょう。
そりゃあなた、議会選挙いうたら政党同士が政権を目指して競争し、
それを本人としての有権者が、代理人である代議士だとか政権政党を選択するのが本筋じゃありませんか。
ところがどっこい、いま繰り広げられているのはそんな政党同士の争い事じゃないでしょうに。
何が悲しくて、首相官邸VS財務省という構図を選挙でやり合わなきゃならんのですか。
もし現在の議席状況において、消費増税の先送りという議題で与野党で分かれていたとしても解散する必要はないですよ。
それが解散に至ってしまうのは、財務省が自民党はおろか首相の周辺にまで切り崩しにかかっているからですよ。
財政をめぐる政官関係を議会選挙に持ち込まざるを得ない状況というのは、
議会制民主主義の理念に照らしてみてどうなのかということなのですよ。
民意という正統性を動員すべく解散権という政治資源を使わざるを得なかったわけですが、
そこまで首相を追い込む政官関係ってどうなんだ? ってことを問いたいわけですよ。
ちなみにこれ、別に安倍首相固有の問題ではなく、財務省と政策選好を異にする政党すべてにとって重要な問題ですよ。
この政官関係を所与にして、解散した首相けしからんいうのはお門違いというものでしょう。
例えば、政治の肝いりで市民に損失くらわすような政策が、官僚によって抑制ないし修正されるのは望ましいこっです。
もちろんその逆もまた然りです。
でも、そういう決定過程に議会選挙を巻き込むのはどうなのかと。
WIKIPEDIAのカルトの定義はこちら http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%AB%E3%83%AB%E3%83%88#.E3.82.AB.E3.83.AB.E3.83.88.E3.81.AE.E7.89.B9.E5.BE.B4
スタートアップでいう社長の神格化。特に「教育」「人材」をうたうベンチャーに多い
新入に教えることでより洗脳を濃くしていく
リクルートに勝つ!学校教育を変える!といいながら、実際はただの新卒学生の斡旋や教師向けのツールだったりするが、それ以上のことがあるかのように新入や周りには触れ回る
社長がトップに見えて、裏に投資家などが糸を引いているが幹部以外は実態をしらない
女子社員は経営者のためにフォーチュンクッキーを踊ることが義務づけられる
これから有望な人材は◯◯、ハードワークが成功への道、など様々な根拠の薄い結論を信じさせる
いろいろ面倒なのではっきりさせておくと、大学で民俗を専攻してました。隣接分野として文人&歴史&考古の教養は有ります。更に文人サブジャンルの宗教学に関しては「馴染みがある」「概説書、エッセイを読んだことが有る」程度です。
そのうえで、この増田はすごくいい疑問を持ってると思う(ウエメセ)。
これはそのとおりで、逆に言えば「宗教の教義が十分に煩雑で多方面にわたっていれば、それがたとえ非論理的でも教義内で無謬となり諸々の事象を教義で説明できる」っていう仮説があって。イメージとしてはユークリッド幾何学と非ユークリッド幾何学みたいな(こちらは両方とも論理の枠内だけど)。
なのでその場合は「はさみをつかえばおまもりを切ることができる」に対応する屁理屈なり禁忌なりが形作られるのだと思うよ。
宗教と政治が一緒にならないようになったりとかは宗教上の定義とほかの何かの定義が一致しないことに基づいてじゃないかなと思うんだけど
これも逆説的にそのとおりで。
言ってしまえば「政教分離」を是とする現在の日本の状況は、人類全体で見ればたいへん特殊なんです。
200万年前に人類が猿から別れて、その後どこかで「宗教」が発明された。
発掘で確認されているのは10万年前くらいなので、仮に10万年とするけど、
その後、9万9千9百30年間くらいずっと宗教と政治権力は同一だったわけで、
「あれ? これじゃいろいろまずいんじゃね?」と気づいたのがここ数千年(ギリシャ・ローマとかのピンポイントの特例を含む)、
必死に血を流して実効が上がってきたのがここ数百年の話(プロテスタントとかイギリス国教会とかフランス革命とか。これも「別のより穏当な宗教」に置換しただけだけど)、
やっと成功例ができてきたのが大戦期からのここ数十年(共産主義、政教分離)。
といっても何百年後かの人類からは「21世紀のヤツらってまだ○○してたんだって」「やべーwww」と言われるんだろうが。
なので歴史=宗教=政治なのは普通で、上の「いろいろまずい」ってのは、あなたの言う「宗教上の定義とほかの何かの定義が一致しないことに基づいて」とほぼ同一なんだけど、たぶんまだ現生人類はベースが宗教=歴史=政治=パラダイムなので、色んな場面で宗教的感覚は染み出してくる、というのが俺の私見。
渋谷スクランブル交差点地下道入口へ登ることが禁止されてるのは? 禁止しないとやっちゃう人がいっぱいいるから。
何かが禁止された記録というのは、それをやっちゃう人が現実にわりといっぱいいたから。
というのが歴史学の基本的な考え方の一つです。
なんか読みやすい参考資料とかパッと浮かぶといいのだけど。プロ倫の解説書とかかなー。微妙か。
現役じゃなくなって久しいので、だれか現役の人頼む。
kurahito 因みに私は青二才を庇いたい訳ではなく、屑な男に屑な仲間が集まるという納得感のある筋に反発する理由がわからん←女/母は自らを貶めないとかいう無謬説?
わからんってあなた、悲惨すぎて見るに堪えないからに決まってるでしょうよ。「屑な男に屑な仲間」なんて簡単に言うけどさ、ナースのtwitterとかガチクズですよ。
てんかんはきちんと薬飲んでれば大抵コントロールできる。薬飲んでるのに発作が度々起こるなら薬が合ってないってこと。つまりヤブ(笑)
同い年の義理の妹がいたんだが、てんかん性精神病って診断名持ってた。明け方無意味に包丁ふりかざして立ってるんだよ。怖いよ。彼女はてんかん発作を度々起こしてた。薬飲んでたんだけどね。病院変えるよう勧めても変えなかった
彼女はぽやんとした娘だった。30すぎくらいなのに1日猫抱いて縁側でボーッとできるくらいの。買い物もまともにできない、家事も言われたことしかできない。発作起こしすぎて知的レベル下がったんじゃないかと思ったよ。まあ、義理の弟はそこが可愛いみたいだったけどね
「屑な男に屑な仲間」というのはつまり一旦クズに転落したが最後こういうナースみたいなクズとしか付き合えないということだ。「クズはクズとしか付き合えない」だなんて、そんな悲惨なストーリーをすんなり許容できる人間のほうこそ頭がおかしいし、その意味であなたは狂人なんだから、自分基準で他人を推し量ろうとするのは諦めたほうがよい。
以前誰かが「貧困とは割高なカップ麺を買わざるを得ない生活だ」みたいなことを言ってたけど青二才もまさにそれで、「屑な男に屑な仲間」って言うとなんかクズがクズ同士仲良くやってるみたいに勘違いする人がいるけど全然違うからね。要はナースの側だって本音を言えば青二才なんかじゃなくてもっとイケてる子と遊びたいけど他に選択肢がないから仕方なく渋々青二才と付き合ってるわけじゃん。ナースの歳は知らんけどもう子育て終えてるっぽいから四十代くらいかね。子持ちの四十女がだよ、乳袋がどうした白衣コスプレがこうしたみたいなシモネタを毎日twitterに書き込んでさ、青二才は青二才で「こんどチンコ洗ってください」みたいなメンション飛ばしててさ、なんかもうああいうの見てるとこう、シモネタって汚いからシモって言うんだってことが今更ながら胸に迫ってくるというか、まあ悲惨の一言だよね。
でも彼等も別に好きでやってるわけではなく、他に選択肢が無いからああするしかないわけだし、お前らにしたって「青二才はナースと縁を切ったほうがいい」みたいなこと言うだけで実際かわりに青二才やナースの友達になるつもりがある人間なんて一人も居ないし、だから青二才は今後もナースみたいなクズとしか関わってゆけない。貧困というのはこのようにミもフタもないもので、だから「痛いメンタリティを観察するのが趣味です」みたいな顔してたシロクマも結局撤退したし、もうあとマトモなのはdokaiくらいだけど、もし本当にdokaiがマトモなんであればそもそも青二才なんかと付き合ってるわけがないので、どうせdokaiもクズ。それかアムウェイ。
橋下もそうだし、乙武もそうだし、上杉もそうだし、ノビーも、きっこも、
ブラックじゃないと言い張るワタミ会長も、クソみたいなまとめブログも、正確な情報を流さないマスメディアも煽動者だ。
知恵袋とか小町で活動してる釣り師も、煽動者と言えるだろう。無害なほうだが。
Twitterが普及して、誰でもほいほい情報発信・情報共有ができるようになったことが大きい。
当時は新たな時代の幕開けとかなんとか言われてた気がする。
でも、あんなのは、サイト管理者ーサイト利用者間か、サイト利用者ーサイト利用者間のツールでしかなく、
大量の人々を煽動するためには、そこに興味がほとんどない人にも目に入らないといけない。
『煽動』のためには、ツールの力が足りてなかった。
煽動は数だ。
メトカーフの法則では、ネットワークの価値はその利用者数の二乗に比例すると言われる。
煽動者の価値は、煽動者が持つ人的ネットワークに含まれる二乗に比例する。たぶん。
ブログならPV数かURLツイート数、Twitterでいうならフォロワー数だろうか。
フォロワー数が多ければ多いほど、はたから見れば酔狂ともバカとも言える信者を、ファンネルのように動かせる。
敵への攻撃でも、自らの金儲けでも、『俺に一票入れてくれ』でも、布教活動でも、信者を動かしてなんでもできるようになる。
煽動者は行動し、Twitterでつぶやけばいい。信者は勝手に解釈してやってくれる。
煽動者にとって必要なのは、人々に自らの無謬性を信じさせることだ。
それが正しかろうが間違っていようが、善であろうが悪であろうが、どうだっていい。
正しさが金を産むとは限らないし、むしろ正しい情報よりも間違った情報が人を動かす。
人の気持ちを煽り、自らの利益となる行動を取らせることこそが煽動者の目的だ。
怒りは人を動かす。
善と悪は人の怒りを呼ぶ。
煽動者は絶対的であればあるほどよく、少しでも多くの人に、「私は正しい」ということを洗脳させられば、煽動者の勝ちだ。
アンチの数は問題じゃない。むしろアンチは多ければ多いほどいい。うまくやれば無謬性への洗脳を強められる。
批判者に対して、「あいつらは間違っている。我々が正しい」と攻撃し、それを信じさせればいい。
そういうのはTwitterでやればいい。フォロワーが勝手に広めてくれる。
『あの人なら信頼出来る』『あの人なら一票入れる』『あの人が言ってたから〜』
ということを無自覚に考えている人が多くなってきている気がする。
煽動する者が勝つ。
静観せざるを得ず、煽動者たち、煽動された者たちはより、急進的になっていく。
それが害をもたらさなければいいと思う。
忘れ去られ、消え去れればいいと思う。
ただし、煽動者とその信者たちに、いつ巻き込まれるかはわからない。
声高な煽動者が正しいのかどうかを自らが問わなければいけない。
騙されてほいほい付いて行ったら負け。
元増田じゃないけど、実際は政府はそこそこちゃんと仕事してるよ。
そりゃ、いくつかはひどい事例もあったと思うけど、無謬性を求める心が「想定外」を埋むのであって、少々の失敗はちゃんと責任を取らせた上で忘れるのも健全な社会運営には必要なのではなかろうか。
・リスクを考慮した上で安全基準を決め、運用についても政府が責任を持ち、信頼性を担保する(偽装などがあると何も信用できない状態になるので、偽装するインセンティブが生まれないようにする)。
・リスクがどのぐらい考えられるかを周知する。
ぜんぶやってる。根本的に、勉強する気がない人のところに知識を届ける効率的な手段がないだけ。
流通が「ゼロベクレル宣言」とかしちゃうからね。もうアホかと。
安全側に振って生活してるんじゃなくて、安心側に振って生活してるだけ。今マーケットに出てるものは、科学的・疫学的にみて十分に安全とみなされているものであって、それを食べることによって発生するリスクは知られていない。「安全側に振って」って言う奴が同じ口で生肉規制に文句言ったり、煙草吸ってたりする事例を見たりすると特にそう思う(あなたがそうといっているわけじゃないが)。
友人の子供ならともかく、友人本人であれば、ちゃんと物事を調べない馬鹿者がここにいるのだな、としか思わない。可能性だけの話をするのであれば、人工甘味料を長期間摂取してガンになるリスクのほうがよほど未知だよ。次々と新しい化合物が導入されてるし。
大人になると、辞書の内容が間違っている事もある。ということを習うわけだが。
でなければ、辞書の改訂なんて入らんだろ。
辞書とお前のようなバカとどっちに信頼置けるかは考えるまでもない。
「ぼくはこう思ったの…」という幼児みたいな理由しか書いてないんだが。
バカの思いつきや勘違いに従って辞書に手を入れてたら収拾が付かない。
お前は身の程を知れ。
そしてもう少し本を読むべきだった。
本を読んでりゃ既存の言葉についてそこまでトンチンカンな勘違いはしてない。
書いてあることではなく、書かれていることを嫁。たのむよ。おねがい。
どうお願いされても
おまえみたいなバカに合わせて何かの物事が進行することはない。
バカは思ったり考えたりするな。
肉体労働に励め。
http://anond.hatelabo.jp/20120614232523
横だがこんな言い訳はないわw
その「個別の話だ」みたいな言い訳も複数の奴が口走ってるけどさあ
枕詞のように「ゆとり世代の」って連呼(特にツイートの方では顕著)しておいて
突っ込まれたら「個別の話です」「特定の集団のイメージを貶めるつもりはありません」とか抜かされてもさ。
実際反響でさっそく「こういうゆとり居る居る」「こういう面接あるある」みたいな差別の触媒が多数発生してたしさー。
というか腹田くんシリーズは3部作であり、
1作目と2作目は実際に「これだからゆとりは」って感じの口調だった時は、はてな民はしっかり叩いてたという文脈があるのだよ。
・で、それがどう、3作目で差別心むき出しにしてたことを正当化すんの?
・しかもそれってまさに元増田が指摘した「形式に反応してるだけで差別の構造自体には無警戒どころか同調してしまう」みたいな習性そのものじゃね?
・それら全部脇においても、そもそも「頭おかしい奴をみんなで見下す」娯楽の悪趣味加減は合理化しようが無いんじゃねーの?
・生活保護者はそんなおもちゃみたいな存在ではなく実在する人間です。
・つーかむしろ「腹田くん」の方が悪意で盛られまくった架空のイメージに見えますけどねえ俺には。
「降りかかった火の粉」とか「いまそこにある危機」とかなんかパニック映画みたいでかっこいいけどさ、
仮に腹田くんがフミコの作り話じゃないとしても(個人的にはアホらしくて屁が出そうな仮定だけどね)、
それはフミコにとっての危機だよなあ?
お前等にいったいどんな関係あるんだよ。なあ?w
フミコ当人にしたって別に「今こういう面接があって対応に苦慮してます、どうすればいかな」とか相談したんじゃなくて
単にみんなで笑うつもりで話を共有してるだけじゃん。
なにがどう「いまそこにある危機」なのこれ?w
きっちり説明してね。
(十中八九しねーで逃げるだろうけど。)
お前らが馬鹿を見下して楽しんでたのは娯楽ではなく危機回避行動だったと?
いや煽りぬきで軽蔑するわお前みたいな奴等。もはや芝生やす気も起きない。
黙りこくる奴の方がまだ恥を知ってる。
青二才にしてもこの人にしても「何となく気に入らない」だけ書いときゃいいのに、
元増田と青二才という人格も主張も別々の人間を並べてそれをおっしゃるのはなんかのギャグなんですよね?
ともあれ私はこういう感じで短絡的な思考でデマに等しいレベルの不愉快でアホな思考を垂れ流す青二才みたいな奴よりは、フミコフミオさんの方が笑える分だけ好きだなぁ
しかし起立命令の件に限って言えば、「ある」と証明すべき立場の人達が証明した事は、おそらく一度もないんだわ。あったかもしれんけど、判事を説得に至らしめた事は殆どない。
そもそもの話、卒業式で起立する事なんて学校教師目指す人間なら最初から分かりきっていた事なわけで、それを承知で教員免許取って公務員試験受けてる時点で彼らの主張の説得力は皆無に近い。たとえるなら、生物教師になった後で「進化論を教えるなんて神への冒涜だ!」と騒ぐようなもの。
剣道の件は対象が学生だったので事情が違う。「剣道を履修しろ」は地方公務員法で定められた職務上の命令じゃないからね。
この点も、ただ起立しろという命令に過ぎず認めろとも敬えとも命じられていないって事で突っぱねられたケースが大半だったはず。
そもそも、日の丸や君が代を侵略の象徴だとする考え方自体がその個人特有の思想なわけで、行き着くところは「公務員が自身の思想を職務に優先できるかどうか」という基準でしか判断されない構造的な問題がある。起立拒否が何らかの社会正義に資するとすら認められてない。ただの「わがまま」。
しかし彼らがその主張を取り下げないのは、日の丸や君が代が悪であるというそもそもの前提の無謬性を盲信しすぎて、それを第三者に証明する必要性を認識出来ていないからだろう。つまり君が代・日の丸への嫌悪を「証明する必要すらない普遍的な感情」だと思い込んでそれを判事に理解してもらう努力を全然してない。だから裁判で負け続けている。通用するのはせいぜい、最初から同じ思想を持ってる判事だけ。
http://anond.hatelabo.jp/20110520152213
お前「そもそも彼らはゴネたいだけで、侵害される思想は持ち合わせていない」
俺「そうは言い切れない。彼らが信条を持っていることを否定できない」
という流れだと思ったのだけど。
別にそれでもいいけど。
「信条を持っていることを否定できない」って部分に関しては「信条を持っていることを証明する立場にある彼らが、それを証明した(証明を試みた)事は過去に一度もないし、あったとしても判決に影響を与えた事例はない。だから容易に否定出来る」というのが俺の考え。
「東北 vs 首都圏」の構図にしてしまうのはご勘弁ください。
と思われ。
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個人的には、
将来の災害について、
ある種の想定ラインは必要だと思う。
ただし、
(1) その想定ラインが適切なのか
(2) その想定ラインを超えたときの対策や手順を十分に準備してあったか
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私は100年は生きていないですけど、
「100年に一度の金融危機」とか「1,000年に一度の自然災害」とか、
頻繁すぎなんじゃないかと思う。
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官公庁の人なんかは、
「私は安全運転を徹底しているので、
もし任意保険に加入したら自分の運転技量の不備を認めたことになってしまうから。」
的な、
変な無謬性へのこだわりのために、
いわゆる想定外(?)の事象への対応ができなくなる(させない)仕組みを作っているのではなかろうか、
と感じることがあります。
諸君、私はデフレが好きだ
諸君、私はデフレが好きだ
諸君、私はデフレが大好きだ
円高が好きだ
減棒が好きだ
失業が好きだ
自殺が好きだ
主要3市場で
勤労者全体で
野心的な企業で
融資先を失った金融機関があっという間に消化したときなど心がおどる
運転資金不足で倒産してバラバラになったときなど胸がすくような気持ちだった
切り詰めを上回る円高ですべての市場を失ったときなど感動すらおぼえる
予告された政策決定会合の発表内容が円のレートを一気に切り上げたときなどもうたまらない
問われて政府高官がバラしてしまった防衛ラインが維持できず崩壊するのは最高だ
引き締めで叩き潰して大底を割らせた時など絶頂すら覚える
決算報告の公表をまとめられて実は売ってた事がバレるのはとてもとても悲しいものだ
市中から枯渇させた通貨が好きだ
諸君 私はデフレを 政府が増税に踏み切り経済が加速的にしぼむ様なデフレを望んでいる
諸君 私に付き従うデフレ好きの諸君 君たちは一体何を望んでいる?
更なるデフレを望むか
糞の様なデフレを望むか?
誰も将来に期待せず、次世代を育てようなどと無駄な努力をしない畜生以下の世界のようなデフレを望むか?
よろしい ならばデフレだ
だが、うかれたバブル景気のまっただなかでごくまっとうなインフレーションに耐え続けて来た我々には
ただのデフレではもはや足りない!!
我々はわずかに小数
だが諸君は一騎当千の政策委員だと私は信じている
ならば我らは諸君と私で総兵力100万と1人の法によりそのあり方が定められている認可法人であり、政府機関や株式会社ではありません集団となる
我らを忘却の彼方へと追いやり、政府と協調して物価調整に達成目標を導入しろと主張する奴らを叩きのめそう
髪の毛をつかんで引きずり下ろし 眼(まなこ)をあけて思い出させよう
連中に我々の無謬性を思い出させてやる
連中に我々の無責任さを思い出させてやる
デフレには奴らの哲学では思いもよらない中央銀行の独立性がある事を思い出させてやる
1000人の政策委員の集団で 世界を正貨である金地金に裏付けられた兌換券で埋め尽くしてやる
包括緩和作戦 状況を開始せよ
征くぞ 諸君
自由 リバタリアニズム 政治 多様性 社会主義 日本 考え パターナリズム
bradexさんが、ナチスの「25か条綱領」というのを紹介している。
ウィキペディア - 25か条綱領
http://ja.wikipedia.org/wiki/25%E3%82..
<25か条綱領(独: 25-Punkte-Programm)はナチス党(国家社会主義ドイツ労働者党)の党綱領。1920年2月24日、ミュンヘンのビアホールホフブロイハウスで採択された>。
その25か条綱領には、次のようなものが含まれている。
・我々は、老齢保障制度の大幅な強化を要求する。
・我々は、健全な中産階級の育成とその維持、および大規模小売店の即時公有化、小規模経営者に対するその安価な賃貸、全小規模経営者に対して最大限考慮した国家・州または市町村に対する納品を要求する。
・我々は、我が国民の要求に適した土地改革、公益目的のための土地の無償収用を定める法の制定、地代徴収の禁止と土地投機の制限を要求する。
・我々は、公共の利益を害する活動に対する容赦ない闘争を要求する。高利貸し、闇商人等の民族に対する犯罪者は、宗派や人種にかかわらず全て容赦なく処罰される。
・我々の要求をすべて実行するために:国家の強力な中央権力の確立。中央議会の国家全体および組織一般に対する絶対的な権威。公布された国家の大綱的法規を連邦各州において実施するための階級・職業別の団体の形成。
これを大雑把に言い直せば、「大企業は儲けすぎだからもっと税金を取れ」「老人への保障をもっと手厚くしろ」「大きな店は潰して、小さな店だけにしろ」「不動産を貸したり転売して儲けることは許さない」「高金利の金貸しは許さない」といった話だから、いまの日本でもよく言われているような話である。
これがナチスの綱領であることを隠して、「このような政党があったら支持するか?」というアンケートをもし日本でやったら、支持する人はかなりいるのではないか。「立派な考えだ」「なかなかいいことを言っている」といった反応がおそらく続出すると思う。
ナチスについて少し調べればわかることだが、ヒトラーは「ただの極悪人」ではない。ユダヤ人への弾圧や虐殺などがひどいのは言うまでもないが、上記のように、政策の方向性としては「左翼的な正義」が基調である。いわゆる「悪人」というよりもむしろ、「使命感に燃えた善人」に近いといってもいい部分がある。
実際、ヒトラーは自分が「善」だと強く確信していたからこそ、権力を握ることで「悪」を撲滅しようとしたのだろう。そして、それに一定の説得力があったからこそ、支持を集めて、権力を得ることができたわけだ。
もちろん、ナチスの政策だから全部間違っているということにはならないし、ナチスの政策にも正しいものはあるかもしれない。重要なのは、ナチスの政策が正しいか間違っているかというよりも、「これは善なのだから、他人に強制してもいい」という考え方そのものが危険だ、ということなのだ。
正誤・善悪によらず、何かを他人に「強制」するという考え方にこそ、全体主義やファシズムへの萌芽がある。何かを他人に「強制」してもいいと考えている人は、自らの無謬性(誤りがないこと)をまったく疑っていない。自らの正しさを確信すること自体は問題ないのだが、それを「他者に強制する」ことから問題が生じる。
自由主義やリバタリアニズムがこの「強制」を嫌うのは、何が正しいのか、何が善なのかということに関して、唯一の絶対的な基準があるということを疑っているからだ。自由主義者やリバタリアンは、つねに異なる意見、異なる価値観を共存させ、多様性を認めることで、社会は発展するし、また社会は安定する、と考える。
自由主義者が政府より市場を好むのも、政府は「強制」するものであり、市場は「自由」な取引で成り立つものだからだ。
私の見たところ、日本というのは「これは善なのだから、他人に強制してもいい」という考え方がわりと強い国だと思う。そういう考え方の人は、たいてい「悪人」ではなく、むしろ「善人」だったりする。「いい人」なわけだ。しかし、他人に「強制」すべきでないということや、異なる考え方をあえて共存させる「多様性」の重要性については、あまり理解されていないように感じる。
菅首相なども、「善人」なんだけど、「強制」することが問題だとわかっていない人の典型である。左翼的な考えの持ち主はわりとこのパターンが多くて、弱者を思いやる「善人」なんだけど、「強制」することでどういう問題が生じるかがわかっていない、と感じられる場合が多い。こういう人は、弱者を思いやるのはいいのだが、その一方で、金持ちや経営者を「悪」だと決めつけてしまいがちだ。
「これは善なのだから、他人に強制してもいい」という考え方は、まさに「パターナリズム」である。それは、親が子供に対しておこなう場合であれば許されるだろうが、社会のなかで他者に対して「強制」をおこなうことは許されない。しかし、この「強制」が唯一、合法的に許されているのが政府である。
よって、政府は「これは善なのだから、他人に強制してもいい」という考え方の危険性や副作用をよく理解して、どうしても「強制」を行使しなければならない場合にのみ、きわめて慎重に行使すべきなのだが、日本政府はそれをあまり理解しているようには見えない。最近また大店法の話が出てきたりしているのを見ても、「これは善なのだから、他人に強制してもいい」ということを、むしろ無邪気に信じているかのようだ(特に民主党は、以前からこの傾向が目につく)。その規制が経済をブチ壊すことを理解できないのだろう。それも経済産業相が、である。
民間人は「ゲームプレイヤー」であり、政府は「ゲームデザイナー」である。企業や民間人は、政府のような「強制」力を一切持っていないのだから、社会問題になるような「構造」問題に対しては、企業や民間人には責任が生じようがない。これは「システム」の問題なのであり、よって責任があるのはもっぱら、「強制」力によって制度設計をおこなった政府である。それなのに、民間の企業を「ワルモノ」扱いして、その行動をさらに規制すれば問題が解決すると考えているのだから、まるで逆だ。セーフティネットは必要だが、市場を規制してもセーフティネットにはならない。
http://mojix.org/2010/10/11/national-socialist-program
関連エントリ:
http://mojix.org/2010/01/23/libertarianism_kimo
どんなに素晴らしい価値観であっても、価値観の「強制」には反対する
http://mojix.org/2009/08/01/kachikan_kyousei
地獄への道は善意で敷き詰められている(The road to hell is paved with good intentions)
http://anond.hatelabo.jp/20101012144820
何もしていないのに私が悪者であるかのように、罪の意識を背負わされます
http://anond.hatelabo.jp/20101012150629
えーと、自己紹介乙?
那覇地検 鈴木亨・次席検事の「政治的に考慮して・・・うんぬん」っていうのは小さな"抵抗"じゃないかな.
検察が示した政府に対する"最大限の"抵抗.午前中の那覇地検と最高検の協議では起訴することで合意していたのに,午後2時には政府からの指示によって事前の協議を上書きされた.
仙石の決定なのに,「那覇地検の判断」となすりつけ,政府の責任を地検に押しつけた.地検としては責任を押しつけられた形となった.
建前として検察という司法組織は無謬性とともに,"法と証拠"に基づいて,政治的中立を守ってきた.冒頭に書いた那覇地検の会見での発言は,検察史上前例のない「政治的な判断」を持ち込まざるを得なくなった検察からの「爆弾」である.
(http://www.moj.go.jp/keiji1/keiji_keiji04.html 検察庁の沿革と組織)
小さな"抵抗"というのは,検察の存立基盤に関わる政治的な判断をしたことによる,検察の政府に対する
であると読み取ることができると思う.みんなはどう思うのかな?
科学者の横のつながりが強く求められてくるんじゃないかな。
それなりに評価されている科学者が、組織を超えて何人か集まり、それなりに立場を賭けて、大衆にも分かり易い要望が上げられれば、よく分からない官僚の立てたシナリオなんかより、支持も得られるんじゃないかな。
もちろん失敗のリスクもあるけど、事業個別には見ずに、全体としての勝率で考えるリスク分散。もちろん成果の見込めない者は直ちに切る。無謬神話に縋りたい官僚に責任が乗るようなことをすると、成果が出るまで無限に続けられることになるからダメ。
けど、基礎研究とそうでないものを、予算としてどう切り分けるかは、説明が難しいだろうな。ほとんどの基礎研究擁護者も、きちんとその違いが説明できてないし。すぐ混同して、分かり易い成功例で例示しちゃうので基礎研究の説明でなくなる。
>地下猫は公権力が嫌い
ここが笑えるというか、中々頭の痛いところでもあるのだけれども、地下猫やはてサは
公権力が嫌いというのはその限りにおいてはそうではあるんだろうが、権力的なもの
それ自体を嫌ってるわけじゃあ無いんだよね。むしろ逆で、権力志向自体は強い人種
なのだと思うね。
たとえば、「自分が」(ここ重要)権力的に振舞うこと自体はなにより大好物でしょ。
他者に対して悪い意味で権力的に、つまりオイコラ式の警察官のように、気に食わない
相手に対して自分の特権性を背景に、強圧的、威圧的に、居丈高に、嘲弄的に、攻撃的に
行動することを非常に好む、という意味で。この場合彼らの「特権性」というのは言説
の絶対的な正当性(勿論彼らの脳内において、だけども)によって担保される。
はてサの皆さんが自己の善性、正当性とその「無謬的な絶対性」に異常に固執する、
これがその理由だね。単に自分が正しい、ということへの自己満足からだけでなく、自分を
特権的な立場に祭り上げておくために非常に重要な道具だからだ。
おまけに、その「気に食わない」という基準も要するに彼らの幼稚なプライドに抵触するか
どうかというものでしかないとくるわけで。
で、うわべだけの綺麗事で公権力を糾弾してみせつつ、「ボクのかんがえた、りそうのしゃかい!」
を実現するためなら、ファッショの極みみたいな抑圧的な社会ですら全肯定しそうな、どうしよう
もなく権力オリエンテッドな主張を平気でするからねぇ。
要は「他人が」権力を行使することがその是非に関係なく嫌いなだけであって、「自分が」権力を
行使する(または行使する様を妄想する)場合にはね、彼らに権力一般への批判性なんてもの
を期待するのは実にお門違いだろうと思うよ。
単なる無定見や日和見主義を揶揄するための言葉ならまだ理解は出来るけれども、はてサが
使いたがる「自称中立」とか「妖怪どっちもどっち」ってのは大抵はそうじゃないね。
はてサが憎悪してやまないのは、是々非々のスタンスというか、物事を非党派的に捉えるような
スタンスそのものなのだと思う。
そういうのに色々呼び名をつけてはあしざまに攻撃しまくるのは、結局はある種のポジショントークってやつでしょ。
いにしえのサヨクが好んだ罵倒用語の「プチブルなんたら」ってのと似たようなものかと。
その場合、対象となる言説の内容の是非が問題なのではなく、物事を二元論的に、党派的に捉えない
スタンスそれ自体が彼らにとって都合が悪いからだろう。それはつまり、単に二元論的、党派的な視点から一方
を攻撃するのとは違って、党派的な世界像そのものを解消してしまいかねないから、つまり、彼らが
大好きな特権的な立ち位置、「常に自分は無条件に善の立場、真理の側」というポジションを相対化して
なんの保証も無いものにしてしまいかねないからね。
その「自分は無条件に全面的に正しい側である」という前提が脅かされることを何より忌み嫌うのは、
要するに他者や愚民、社会や世界を無条件に嘲笑し、罵倒し、攻撃するための(そして同時に自分がいかに
優れたあたまがいい特別な人間かを再確認するための)特権的な立場が(まあこれも彼らが自分で自分に
対して自作自演的に付与したまがいものの特権でしかないわけだが)少しでも傷つけられることが
我慢ならないからだろね。
簡単に言えば、お子ちゃまな勧善懲悪脳で自分はいつも正義の味方役じゃないと嫌な(そういうわがままな
子供っているよね)のはてサの皆さんにとっては、自分から「正義の味方の役どころ」をとりあげかねない
全てのものが憎悪の対象になりますよってことかな。
「自称中立」的な言説もそうだし、彼らの「脳内正義」と違ってより現実的な「正しさ」に近い人たち、
信条や思想に基づいて現実の社会の中で(たとえば外国人のために活動する弁護士とか)それなりの実績
と立場を築いてきた人たちが、彼らの言論オナニーの場に入り込んできたときとかもね。
ttp://blog.livedoor.jp/mumur/archives/50471710.html
上記目次の最後の「前田×福田対談」が面白かったので、いくつか抜粋して紹介します。
平成11年度の対談らしいので、もしかしたら既に有名な対談なのかもしれませんが。
以下は、全て前田氏の発言です。
日本のやった戦争に問題があったのは確かだけれど、当時の日本人にしたら、煩悶、苦悩を重ねた末にやらざるをえないと覚悟を決めてやったわけでしょう。男子に生まれ、徴兵されたら、否でも応でも闘うしかない。なかにははっきり嫌だと思っていた人もいただろうけれども、一応は「お国のため」という大義名分で自分を納得させたはずでしょう。 そういうそういうギリギリのところで国とか公に殉じた精神、心根を汲まなくて、全部あの戦争は侵略だったみたいにして断罪するのはそれこそ卑怯だと思います。敗北と言う結果が分かっていて、まるで時間のカンニングペーパーを見て答案を書いているようなものじゃないですか。カンニングペーパーを使って、当時の人たちの行動を批評するのじゃなくて侮辱する。そういう人たちの書いたもの、言っていることというのは、もう本当に嫌ですね。しかも、自分は日本の罪を認めています、悔いていますという、自分一人だけを良心の高みに置いているような感覚がたまらない。
どんなものにも光と闇がある。歴史もそうです。広瀬武夫や佐久間館長のような軍人もいれば、そうでないひどい軍人もいたでしょう。誇らしいこともあれば、惨めな、恥ずかしいことを背負っていくこともあったはずです。でも、そうした諸々を引っくるめて背負っていく。そういう熱い思いが、歴史を語るには何より大事じゃないですか。俺はそう思いますね。
(従軍慰安婦問題に関して)俺は、やむをえなかったというのも、一方では確かなことだったという気がするんですよ。当時、東北の農村なんか本当に貧しかったわけでしょう。日本の娘も遊郭に売られれることは珍しくなかった。それは朝鮮半島も同じだった。そういう現実を前にして「親には考を尽くす」という価値観のなか、親がそうしたのか、子供がみずからそうしたのか、それはもうさまざまだったろうけれども、逃れられない運命のようなものに、人も国家も翻弄されたというのが実相だったんじゃないかと思うんです。確かにその舞台が戦場と言うことで、いっそう悲惨になったのは間違いないけれど。
(従軍慰安婦問題・強制連行に関して)俺はいろいろと親戚とかに昔の話を聞くんだけれど、少なくともその範囲では聞かなかったですね。
近親憎悪が日本と韓国の間にはある。結局、似ているということがかえって反発や憎悪を生んでいるんだと思います。とくに韓国の場合、儒教がいい意味でも悪い意味でもプライドになりすぎているから、歴史的にその文化圏の辺境にある日本に対してはどうしても優越的感情を持つことになる。日本の文化の源はすべて朝鮮を通じて伝えられたと言う意識ですね。
名前を出して悪いんだけれど、辛淑玉さんなんか見てると、情けなくなってくる。差別されたとか、日本は加害者だとか言うだけで、それだけ叫び続けて一生を送るのかなと思うと、とても俺は共感できない。力道山や大山倍達だって差別されたはずだけど、ちゃんと一個の人間として、大した生き方をしてみせたじゃないですか。有名無名に関係なく、俺の知ってる限りそういう在日はたくさんいますよ。
でも俺のような考え方は、在日の中でも少数だと思います。たとえば在日への差別問題にしても、日本の部落問題と同じように、実際にそれを「食い物」にしてるやつがずいぶんいます。自分が現役引退を契機に出自を公にしたら、もう嫌になるぐらい多くの奴が寄ってきましたよ。でも、その中にどれだけ本物がいたか。
朝鮮総連や韓国民団は日本に対して差別だなんだと言うけれど、同胞が北朝鮮でどういう目に遭わされているか、あるいは韓国に帰ってどういう扱いを受けているかについては、世の中に聞こえるような形では誰も何も言わない。何だこれは!
出自が在日だからということで韓国で就職差別を受けたり、北朝鮮に帰国すれば殺されたりひどい目に遭わされたりする。こういうことに黙っていながら、日本国内の差別反対だとか、参政権をよこせだとか言う人間を、少なくとも俺は信用できない。
>しかも、自分は日本の罪を認めています、悔いていますという、自分一人だけを良心の高みに置いているような感覚がたまらない。
これこれ。
所謂リベラルとか媚韓の人に対する嫌悪感ってのは、ここに由来する。
前田さん、言ってくれてありがとう。
mumurも何回も言ってるけど、彼らは「差別をなくしたい」のではなく、「差別を糾弾している自分の演出」が目的なんだよね。差別とか犯罪とか、世界普遍的絶対的に悪とされる事柄を糾弾することによって、絶対的に善の立場に立つことが目的。
普通の人はそんな他人のことはどうでもよくて自分のことで精一杯なんだけど、この手の方々は何故か他所様の悪の追及に闘志を燃やす。彼らは本来的には正義感の強い人なんだけど、日本人的な潔癖症と相俟って、いつでも悪を糾弾していないと気がすまない。
この、潔癖症の正義感は、「弱い人」の訴えに無謬性を与えることになる。
もちろんそれは、気持ちとしては分からないでもない。
涙ながらに痴漢の被害を訴える女子高生に対し、「嘘つき」とは口に出来ない。例え思っていても口には出来ない。
しかし、普通の人ならば、色々な異論・反論を耳にしたり、矛盾点を発見したなら、疑念が沸いてくるものである。
ここで潔癖症の正義感は、その「疑っている自分」に対しても嫌悪感を引き起こす。異論は受け入れず、「事実かどうか」は無視される。その結果、一般人との認識が乖離し、ますます大衆の支持を得られなくなる。
この「絶対的弱者」と「それを擁護している自分」という強固な図式は、実は彼らの差別意識の現われだと思うんだよね。潔癖症で正義感が強いからこそ、自分の内にある差別意識を取り除くべく、他人を糾弾し続ける。
ttp://d.hatena.ne.jp/zyesuta/20100225/1267091161
震災のとき、有事のリーダーにふさわしい果断を示した人は民間にも少なくありません。その代表がダイエーの創業者である中内功社長(当時)です。彼は社長でありながら自ら現場を歩き回って情況を把握し、指揮をとりました。
兵庫県内ダイエー49店舗は震災で被害をうけ、うち25店が営業不能に陥りました。現場を回って中内社長が命じたのは「とにかく店をあけろ。開けられない店も明かりをつけろ。明かりがなければ街は死んでしまう」ということです。「ガスや水道がだめで店を開けません」という担当者を蹴り飛ばして、営業させるなり、明かりだけでもつけさせるなりを断行しました。
なぜ中内氏が「店を開ける」ことにそこまでこだわったのでしょう。それは終戦直後の物不足の経験によっているのではないか、と大震災誌は書いています。店が閉まったり、商品が店頭になくなれば、パニックが起きます。だから「どんな時にも商品を供給し続けるのが商人の使命だ。それが街に活力を生む」と、氏は考えたそうです。
こういう一貫した理念をもつのも立派ですが、それを力押しで実行した彼の指揮はさらに見事です。地震の被害で「エレベーターが動かせない」という担当者にカミナリを落としたのですが、そのときの言葉が「自分で確かめろ。動かせないといわれても、どうしたら動かせるか考えろ」というのです(P373ー374 「阪神淡路大震災誌」)。
彼は決して無謬のリーダーではありませんでしたが、少なくともこの時に示した果断さと行動力は、有事のリーダーのあり方、その一例を示しているでしょう。極端に言えばこれくらいのガムシャラな果断さが、時の政治指導者にもあればどうだったろう、と思ってしまいます。
やっぱり「坂の上の雲」はドラマ化しないで欲しかったなーと思っています。司馬さん本人が誤解を招きやすいから映像化は止めて欲しいって言ってたのに無理矢理ドラマ化したものだから、案の定いろんな批判が沸いています。
私の狭い観測範囲のなかで一番代表的にみえる批判は、司馬さんは日露戦争を祖国防衛戦争だと表現しているけれど、ロシア側に侵略の意図はなかった。避けられた戦争なのに防衛戦争とかありえないという意見です。
加藤陽子さんの「それでも日本人は『戦争』を選んだ」を読むと、日露戦争直前に権力を掌握した極東総督のなんちゃらさんが、韓国取っちゃった方が安上がりですよとか皇帝に言ってたらしいのでロシア側に侵略の意図なしとはいえないんじゃないかなーと思うし、当時のロシアがトルコや満州にしていた仕打ちを考えたら、次は日本かもって当時の人達が恐怖するのも当然だと思うのだけど、まあそこらへんは歴史をきちんと学んでいるプロの方たちが論争しても中々決着がつかないわけだから素人には分からない事柄が色々があるんだろうから置いておきます。
私はたとえ司馬さんが間違ってたとしてもさほど問題ではないように思っているんです。
司馬さんは「坂の上の雲」をなるべくフィクションを抜きにして事実に即して書こうとしてますし、そう宣言もしていますが、それはあくまで司馬さんの中で事実だと思える内容を書くというだけのことで、読んでる方はそれを完全な史実だと思って読んでるわけじゃありません。
ただ司馬さんの歴史観を誤りだと批判している有識者さんたちは、その批判の理由を小説を史実だと勘違いされちゃ困る。国民の歴史観に影響を
与えかねないと言っています。
私は読み手はそれほど馬鹿じゃないし、盲信もしていないと思うんです。司馬さんはこういう風に日露戦争や当時の日本を捉えてたんだなー、凄いなー、面白いなーって読んでいるだけです。司馬さんは小説家ですから、エンターテイメントとして最低限の盛り上がりも必要だと思っていたでしょうしね。読み手はそれほど馬鹿じゃない。小説だと分かって読んでいる。私や私の友人はそれほど優秀な人間でもないけれど、司馬さんは無謬だとか思っていないし、思っている人を見たこともないです。
逆に批判している有識者さんたちにちょっとした思い上がりを感じるんですよねー。私たちは優秀で知識も豊富だから騙されないけど、お馬鹿な読者はころりと騙されて変な方向に突っ走っちゃうかもしれないから、司馬さんの小説を批判して目を覚ましてあげましょう。啓蒙してあげましょうって。大きなお世話ですよね。ちょっと悪く書きすぎかもしれませんが。
子供達が影響受けちゃうから犯罪小説禁止とかと同じ流れな気がして嫌なんです。そういう批判をする人が現れるから、誤解を招きにくいように誤解を招きにくいようにとびくびくした無味乾燥な物語ばかりになってもつまらないじゃないですか。
同じ小説を読んでも、こういう犯罪の手法があるのか気をつけようって読む人もいれば、単純に物語として楽しむ人もいるし、この手法で犯罪を起こせるかもって思う人もまれにいるかもしれない。でもそれは書き手の罪ではないし、それを恐れてつまらない物語が増えていってもしょうがないと思うんですよね。
ただまあ、司馬さんの影響力っていうのは確かに大きいです。司馬さんの小説を読んでいる人数は、その関連の歴史書を読んでる人数の何倍もいるでしょうから、そのうちのいくらかは勘違いしちゃう人が出てくるかも知れません。だからその人たちの為に批判をするんだっていうのだとしても、やっぱり言い方ってものがあるんですよね。
もうちょっと司馬さんを立てた表現ってのを出来ないものでしょうかねえと。司馬さんの小説には何の罪もないはずなのに、司馬遼太郎の歴史観をぶった切るみたいな批判の仕方をする人が少なくないでしょう?別にぶった切らなくても、司馬さんの小説は面白いけれど、現在の研究ではこういう論もあるのです。こういう視点もありますよでいいじゃないですか。なぜ叩かずに別の価値観を提示出来ないのかなーと残念に思います。