はてなキーワード: 無謬とは
いやいや、思考実験の意味を考えてよ。論理が正しいと言われている今、論理的思考に疎い人の気持ちになってみるべき思考実験なのだから。
ある存在が自分は正しいと主張し、そして自分は正しいから従えと言ってくる。実際に間違えているところは見たことない。でもその存在が本当に正しいのか私には検討ができない。けれどもその存在は自分の正しさが理解できないのはお前が悪いからだと主張する。
仮にその存在が本当に無謬でも、それを信じられますか?って話。
そして、本当に自分が悪いからその存在の正しさを理解できないのだって納得できますか?って。
>だから、厳密で無謬の定義にこだわって性的消費があるかないか・良いか悪いかで足踏みするより、定義は緩くても性的消費という加害があるとみなに認識されることを優先したい。
横だけど、あんたそりゃ無茶だ。
表現の自由の制限は、無謬も足踏みもクソもなく存在して、あんたが求めているのはそれなんだ。あんたの求めは正当でなければならないよ。曖昧な理由で、間違ってもいいなんて覚悟で、権利の侵害を求めてはいけないよ。
ラノベ表紙と「一発ヤろう」は同一ではないですね。
ならば例えとして適切ではない。いいね?
無茶なのは分かってて聞いてるよ。
それは何故か。
でも、それらは不幸の原因になりやすいという基本的認識が広まったのは、問題視されてなかったころよりはマシだと思うし、運用も徐々によくなっていってると感じる。
性的消費についても、不幸に結びつきやすいということをまず広く認めてもらって、その上で、社会を動かすうえでどの程度なら見逃されるべきか実際の運用を通じて改善していってほしい。
「不幸に結びつきやすいという」具体的なエビデンスもないしそもそも行為の実体が定義されてないものをどうやって認めろと?
「実際の運用を通じて改善」などとぬるいことを言ってるが、同じことを労働基準法やホワイトカラーエグゼンプションにも言えるのか?
俺は言えない。なぜなら、利益関係者によって(この場合は規制派)エスカレート、濫用されることが目に見えてるからだ。
フェミニストには信用がないんだよ。お気持ち一つで他人を断罪することを今まで散々してきたからな。metooとかさ。
だから、厳密で無謬の定義にこだわって性的消費があるかないか・良いか悪いかで足踏みするより、定義は緩くても性的消費という加害があるとみなに認識されることを優先したい。
だからこそ、厳密で無謬な定義にこだわって性的消費を定義せねばならない。
「性的消費が不幸に結びつく」ことのエビデンスはない(そもそも定義がされてない)が、
ラノベ表紙と「一発ヤろう」は同一ではないですね。
でも、言葉も、行為も、創作物も無限に近いくらいあるのに、ブラックリストorホワイトリストを作れというのは無茶だよ。
いじめやらハラスメントの概念が適切に運用されているとは思わない。
でも、それらは不幸の原因になりやすいという基本的認識が広まったのは、問題視されてなかったころよりはマシだと思うし、運用も徐々によくなっていってると感じる。
性的消費についても、不幸に結びつきやすいということをまず広く認めてもらって、その上で、社会を動かすうえでどの程度なら見逃されるべきか実際の運用を通じて改善していってほしい。
だから、厳密で無謬の定義にこだわって性的消費があるかないか・良いか悪いかで足踏みするより、定義は緩くても性的消費という加害があるとみなに認識されることを優先したい。
女って正しさや常識には敏感なのに高次の理念に考えが至らない人が多いから政治に向いてないと思うわ。
経済的、資本主義的、美人投票的承認構造、低次元の現実観、階級差別、形式主義、非加害者的加害者、無敵の受動性、正しさには敏感でも寛容の意味を知らない
たとえばホームレスや貧困者などの社会的弱者には正しさとして接することはあってもえてしてまじわることはない。非マジョリティーという認識をもってマイノリティーに接する態度。差別はしないが区別はする区別主義者。
自分で空気をつくることはせず男性が醸成した空気には気に入るか気に入らないかで判断して批判してもかまわないという無敵の受動性
イケメンと人が判断する人を自分もイケメンだと無自覚に考える無思考の承認構造
常識や法律、マナーなどには敏感であるが法を超えた仲間意識を持つことはない。
社会全体を考える社会主義、ではなく現存の社会性に準拠した正しさに敏感な社会性主義者。
公正性について考えない。
哲学的態度のなさ。
経験主義。
おまえらのやってることなんて格差拡大の装置にしかなってねーんだよ。
インターネットが新しい産業になって社会を変えるなんて息巻いたのはもう何十年前だよ。実際にインターネットで起こっているのは格差拡大と嫉妬、怨嗟、承認欲のるつぼで地獄じゃねーかよ。ネットで民主主義も変わるとか言ってた人もいるが結局はさらにタコツボ化が加速して自民党支配のそこらへんの村社会と同じじゃねーか。
SNSが自由な発信の場だとか言ってるお花畑連中もどんだけ自分の無謬性に無警戒なのか笑うわ。おまえらの自由ってのはおまえらが見たいものだけ見て村化する自由だろ。そんなのは昔から各地で点在してたんだよ。それがインターネットを介してるから新しいんだってアホか。おまえらは所詮人間なんだよ。
クソクリエイターどもも一緒だよ。ネットでクリエイト云々なんて言ってるけどおまえらの創作物なんて他人の時間を無意味に奪うだけのクソシステムにしかなってなくて功利的に人類の幸福にまったく寄与してねーんだわ。残念ながら。クソ言論も一緒だよ。おまえらの言ってることなんてすべて過去の歴史に存在していてネットで得る思考とか価値観なんてものはニーチェやサルトルの足元にも及ばないわけ。
クソオーソライザーどももだよ。ランサーズとか完全に格差拡大のクソ業者だろあれ。バリューとかタイムバンクも一緒だよ。おまえらのやってることは市場化してその市場の恩恵のかすみをすくってるだけでいっさいの社会的意義なんかないんだよ。どれだけ綺麗なオフィスで承認顔して仕事してんのか知らねーけどな。
ゾゾタウンもヤフーもアマゾンもてめーらみんな同じだよ。権利市場化することで需要の奪い合いに着手して金儲けしてるだけでなんの意義があんだよ。てめーらのクソ市場のせいでせどりとか転売するクソが増えてクソが出す注文のせいでトラックの運転手が月給20万で家にも帰れず運転してんじゃねーか。クソ死ね。
インフルエンサーも同じだよ。そもそも人を啓蒙しようとか私は人に影響を及ぼせる人間だとかいう人間がクソほど嫌いなんだけどよ。おまえらのやってることも結局需要の奪い合いでしかねーじゃねーかよ。どんだけ自己肯定感つよいんだよ。その自己肯定迷惑だからやめてくんねーかな。
インターネットが自明だとか時代だとか自然だとかいうクソ言い訳はもう聞き飽きたよ。定量的、功利的に判断してインターネットで巻き起こっているすべてのことはクソだろ。ビジネスにしてもSNSにしてもてめーら結局金と承認が欲しいだけなんだろ。いちいちお題目みたいにクソ理念を綺麗な表情で唱えてうざったいんだよ。じゃあな。クソインターネット。
http://b.hatena.ne.jp/entry/s/togetter.com/li/1256426
このまとめに関するブコメを見ながら、強い疑問を感じている。
たしかに無謬のものなど存在しない。誰もが間違えるし、誰もが過ちを犯す。
だからこそひとつの失点ですべてを否定するべきではないし、ひとつの加点ですべてを肯定すべきでもない。
優れたプレイヤーであるにもかかわらず、たったひとつ失策をしただけでそのプレイヤーを追放してしまえば、むしろゲーム全体が劣化することになるだろう。
だからこそ僕らはプレイヤーに対して、「是々非々」で対応すべきだ。
僕はこれを、とても正しいと思う。
では何故、今回のこれらのブコメに疑問を感じたのか。
端的に言って、僕の疑問はこういうことだ。
「ルール違反のなかで為された物事と、ルールの上で為された物事を、等価に置き、是々非々とするのは、果たして正しいのか」
・立法事実の捏造、および捏造が認められた立法事実に基づく法案の強行(高度プロフェッショナル制度)
などの出来事を指している。
このどれもが近代国家、法治国家、民主主義国家において、重大なルール違反であることは、言うまでもないだろう。
どれも自民党がこれまで成し遂げてきたこと、そして成し遂げようとしていることだ。
「ルール違反のなかで為された物事と、ルールの上で為された物事を、等価に置き、是々非々とするのは、果たして正しいのか」
僕はこれについて、正しくない、と考えている。
何故か。
民主主義国家において、ゲームの主導権を持つのは、常に国民だ。
だから、ゲームが成立する限り、どのようなひどいプレイであれ、どのような優れたプレイであれ、諦めることも、やり直すことも、継続することも、改めることも、国民の手によって行うことが出来る。
だからこそ、本当に僕らが恐れるべきは、ゲーム自体が崩壊することに他ならない。
そうなった場合、諦めることも、やり直すことも、継続することも、改めることも、僕らの主体的な意思では、決して行うことが出来なくなる。
だからこそ、重大なルール違反が行われたなら、いかにルールの上で優れたプレイが行われて居ようと、退場しなければならない。
そうでなければ、ルール自体が軽視され、より力の強いプレイヤーのやりたい放題になり、ゲーム自体が崩壊するからだ。
ひとつの失点ですべてを否定するべきではないし、ひとつの加点ですべてを肯定すべきでもない。
けれどそれはルールが守られているからこそ機能する態度でもある。
僕らの多くが「基本的にはあなたを応援しているけれど、これについては改めてほしいな」と声を挙げれば、少なくとも議論が巻き起こる、そういう状態であるからこそ、有用なのだ。
どんなに支持者が声を上げても、議論の一つも起こらない。すべては無風状態で粛々と進められる。
さらに、その状態がもっと進めば、今度は、非を唱えることさえ、「是々非々」であることさえ許されなくなるのだ。
事実、現在の中国や北朝鮮では、自国のトップへの批判はできない状態にある。
こういったゲーム崩壊の行き着く先が、ユダヤ人の虐殺や、天安門事件と言った、基本的人権を蹂躙する暴虐であることは、歴史にある通りだろう。
正直なところ、我が国もまたゲーム崩壊の瀬戸際にあるように感じている。
そのように首相近辺が公言したことは周知の通り。これは「非」が許されない状態とほぼ等しい。
この状態に「そう言うことは許されない」という声が自民党内部から何故、噴出しないのか。
森友加計問題。高度プロフェッショナル、水道民営化、サマータイム。といった問題もそうだ。
どれも、党内で多くの異論が撒き起こって然るべき類のものであり、支持者の間でもこれらを否定する意見は噴出している。
議員というのは本来、一人一人それぞれが国民が選出した代表だ。「その党だから」以上に、「その人だから」選ばれた存在だって少なくない。
ならば、より自民党内からの異論や反対意見が、活発的にニュースを騒がせるべきだろう。
それなのに、自民党内は無風のままだ。
僕はもう、自民党と言う組織の中で、完全にゲームは崩壊しているのだと認識している。
そして、権力者の身内で行われているこのような状態が、僕ら一般市民まで適応されないなどとは、僕はどうしても思えないのだ。
いやー、恐ろしいね。
死刑反対派の非寛容さ。
http://b.hatena.ne.jp/entry/s/www.yaserucola.com/entry/shot_dead
こんな態度で「人道的な立場」から死刑廃止を語るんだからおっそろしいよね。
「ズレてる」だの「比較すべきでない」だの「ナンセンス」だの言っておけば論破したつもりになってんだろうね。
http://b.hatena.ne.jp/entry/367396222/comment/grdgs
grdgsgrdgsのコメント2018/07/15 08:47
怖いね。
元記事の人の書いてた
https://www.yaserucola.com/entry/shot_dead
http://b.hatena.ne.jp/entry/367396222/comment/fu-wa
武器を持って抵抗の意思を示している犯人を警官や周囲の人々の安全のために射殺するのと、武器を持たず無抵抗な状態の人間を処刑することを比較するのは、まったくのナンセンスだよ。
「冤罪による死刑が起こりえるから死刑に反対」だったら、「現場の誤判断による射殺も起こりえるから現場で射殺すべきでない」と等しく反対すべきだろうに。
「そうだね、現場での射殺もするべきでないね。」くらい言っとけば論理の一貫性は保たれるのに、なんで死刑のほうに喰ってかかってくるのかわかんない。
現場射殺もダメっていう人道原理主義なら論理の一貫性は認めるけど、頭はお花畑だよね。
http://b.hatena.ne.jp/entry/367396222/comment/tteraka
射殺は本人による犯行の蓋然性と法益侵害の重大性・緊急性が認められる時しかできないのだから比較しても何の意味もねえだろ
tterakatterakaのコメント2018/07/15 14:26
同上。その「重大性・緊急性が認められる時」を誰がどうやって判断してんのって話だろうが。
現場が緊迫した状態で「とりあえずサクッと殺しとくか」って状況のほうがよっぽど冤罪が起こりえるだろ。
http://b.hatena.ne.jp/entry/367504186/comment/Zephyrosianus
正当防衛、緊急避難としての犯罪者の制圧による死亡と、刑罰としての死刑という理論構成も実態も全く別の事を「国家による殺人」だから一緒だなんてクソ雑な非論理的思考は普通の死刑廃止論者は想像もしないのでは?
ZephyrosianusZephyrosianusのコメント2018/07/15 09:50
「クソ雑な非論理的思考」とか、なんの反論にもなってないレッテル張りしておけば反論したつもりになってんのかな?
「ダメなんだからダメ。お前らはバカなんだから従っとけ。」ってか。
http://b.hatena.ne.jp/entry/367504186/comment/tanukichi087
緊急避難や正当防衛による殺人は、国家だけでなく個人にも許容されてる。それが成立は問題として、正当化理由のない死刑を同列に並べることはナンセンス。
tanukichi087tanukichi087のコメント2018/07/15 13:16
これもとりあえず「ナンセンス」って言っとけば反論になると思ってるタイプ。
緊急避難や正当防衛で殺人が認められて、国際ルールに基づいた戦争による殺人や社会秩序を維持するための死刑がなんで認められないんだよ。
せめて全部反対しとけよ。
松本智津夫らオウム真理教事件の確定死刑囚の死刑が執行された。
私は死刑制度自体に反対の立場ですが、なぜそう思っているのかについて簡単に書いておきたい。およそ日本の今の状況で、松本らの死刑執行のタイミングほど、死刑制度についての関心が高まることはないと考えるからです。
司法制度では疑わしきは罰せず、という原則があるのは、ほとんどの人が知っていることだと思います。しかし現実に裁判官がそのように行動しているかというと、そういうわけでもないようです。先日twitterである弁護士が、下級審(簡裁だったかな)の判決書きで、若干の疑いがあるからちょっと罪を軽くしとくね、というような文面を書いてしまったため、控訴審でそれが棄却された、というものが流れてきました。これは判決書きに書いてしまったおバカな事例ですが、上級審であっても同じような運用がされていないわけではないようです。元裁判官で、刑法学者の植松正は「無期懲役は誤判の吹き溜まりである」と言いました。事実認定に若干の疑いがあるが、情状は極めて悪く、真に犯人であるのならば、死刑にするしかないというような場合、無期懲役にすることが多い、というのです。これは裁判の原則に反しています。実際には、情状に関わらず、事実認定に合理的な疑いが残るのであれば、無罪とせねばなりません。なぜそれができないのでしょうか。裁判官も人間ですから、世論はまちがいなく気にしています。世間を騒がせた大きな犯罪である場合、裁判官のうち一人に合理的な疑いが残っていたとしても、合議の中で、簡単に無罪判決を出せるものではないでしょう。つまり裏を返せば、合理的な疑いが残っていたとしても、死刑をいう選択をされてしまう可能性は0ではないということです。死刑という刑罰が存在する以上、確実に、100%、全くの疑いの余地なく、死刑に値する、と考えられない場合にも死刑を選択してしまう例が存在するということです。
死刑に値する犯罪を、まさか自分が行うはずはない、とほとんどの人は思っていると思います。ゆえに、とんでもない罪を犯した人間は、死刑でも仕方ないし、死刑が速やかに実行されるべきだ、という考えを持っている人が多いのではないでしょうか。被疑者や被告人の人権よりも、被害者の応報感情の充足が優先されるべきだ、と考える人も多いでしょう。しかし100人の死刑囚の中には、1人の無辜の人間がいるとしたらどうでしょうか。その人を国家権力が殺す、という不正義をあなたは許容できるでしょうか。99人の”真実の犯罪者”の被害者の応報感情や社会の要請としての死刑制度は、そのリスクを甘受するべきだと考えるでしょうか。
では自分が痴漢として裁判にかけられるかもしれない、と思う人はどれほどいるでしょうか。自分が痴漢をやっていないことは天地神明に誓えるけれども、なんの証拠もない。被害者は、あなたに痴漢されたと言っている。裁判所はあなたの訴えを合理的な疑いが残るとして認めてくれるでしょうか。捜査機関は、被害者の主張を、合理的な疑いが残らないように、矛盾をなくした形で、調書を作成するプロです。また裁判所は一応独立の機関であるとされていますが、かつては判検交流と呼ばれる制度もあり、基本的に裁判官は検察官と親和性の高い人たちですし、基本的に検察の提示証拠を信用して事実認定をすることが多い組織です。あなたの主張は認められず、あなたは有罪判決を受けるかもしれない。あなたはそのリスクを甘受するでしょうか。疑いがかけられた以上は、痴漢という、卑劣な犯罪行為に対して、その犯行を認めようとしない犯人であるあなたには、何の反省も見られない、と言われるかもしれません。
裁判は人間が行うものである以上、無謬ではありえません。痴漢冤罪の場合、たとえ有罪であっても、人権上の制約は小さいと言えますし(むしろ冤罪であったとしても認めてしまった方が人権は制約をされないという残念な状況にある)、もし防犯カメラなどから無罪が証明できた場合、名誉は回復され、損害賠償を請求できる場合もある。しかし死刑の場合においては、それは究極の人権制約なのです。
団藤重光は以下のように論じています。
例えば懲役刑などにしても、長いこと刑務所に入って、後で無実だということがわかって出されても、失われた時間、失われた青春は再び戻ってこないという意味では、これも確かに取り返しのつかないものです。しかし、そういう利益はいくら重要な、しかも人格的、その意味で主体的な利益であろうとも、人間が自分の持ち物として持っている利益ですが、生命はすべての利益の帰属する主体の存在そのものです。もちろんこのことと、前述の人間の尊厳が人命の上位にあるということとを混同してはなりません。死刑はすべての利益の帰属主体そのものの存在を滅却するものですから、同じ取り返しがつかないと言っても、本質的に全く違うのであります。
痴漢冤罪による被害を最小化するために、真犯人を含む、すべての被疑者・被告人の人権を守りましょう、被疑者の実名報道はやめましょう、無意味な身体拘束をやめましょう、という主張に対して賛成できる人は、死刑存置を考える人よりも多いのではないかと思いますがいかがでしょうか。
本質的には、これは死刑冤罪による被害をなくすために、真犯人を含む、すべての被疑者・被告人に対する、究極の人権侵害である、死刑を廃止しましょう、という主張は私には同じものに思えるのです。しかし死刑を廃止するべきだ、という人はずっとずっと少ないのです。
痴漢で捕まった人が、周囲に実は自分は自白させられただけで、無罪なんだ、と主張することはよくあると思いますが、特に妻子持ちの人に多いのですが、私の経験上、やってないと強く主張していた人であっても、ここで認めても家族に知らされることはない、ということを教えると、スルッと実はやったんだ、という人が結構います。ですから、冤罪を主張する人たちの中に、罪を逃れるためにそう主張している人が多くいることも事実でしょう。しかし実際に痴漢冤罪によって人生が狂ってしまった、という人は確実に存在します。死刑においても同様のことが起きていないとは、誰にも言えないのではないでしょうか。
しかし多くの人は、死刑に値するような重大な犯罪で、自分が冤罪の当事者になることなど想像もしないでしょう。それに比べれば、自分たちの周りの大切な人たちが傷つけられたということへの怒りはとても身近で、応報感情に流されてしまいがちです。これは非難されるようなことでありません。前述の団藤は、父ブッシュとデュカキスとの討論で、妻を強姦され、殺害されても、死刑に反対するのか、という質問に、淡々と「それでも死刑には反対だ」と主張したデュカキスに対し、世論は非常に強く反発したと書いています。これがデュカキスの敗因ではないと思いますが、死刑廃止を訴える人に対し、「お前の家族を殺されても、死刑に反対だと言えるのか」という主張はよく向けられます。殺害される、などという、およそ通常経験しないことを経験した人たちが、犯人を自ら殺してやりたい、あるいは国家によって同じような目に合わせて欲しい、という感情は自然なものであると思います。しかし、当事者でない我々が、そう思うのは当然だ、とその応報感情を正当化をする必要は必ずしもないとも思うし、死刑廃止論者であった人が、実際にそのような目にあったときに考えを変えたとしても、それはごく自然な話であると思うのです。その感情を否定はできませんが、団藤が述べているように法の論理は、もう一段上の次元で考えるべきはないかと思うのです。
私は貝になりたい、の主人公の床屋は無実ではありませんが、死刑に値する罪を犯しているか、と考えるとそうではないと思います。あの絶望を持って、死刑にされる人間がいる、という不正義を許容できるかどうか、結局はその価値判断なのだと私は思います。
私はその価値判断において、死刑を廃止して欲しいと考えていますが、それゆえに、死刑の存置を訴える人の価値判断も尊重したいと考えています。しかしその上で問いたいのです。あなたは、たとえわずかな確率であっても、あなたやあなたの大切な人が、冤罪で死刑になってしまうことを許容できますか、と。