はてなキーワード: 無意識とは
被害を訴えるにしろ、正当な論戦を張ろうとしようとも、自分は鬱だとか精神障害だとかいかに自分は「持ってない」かだとかをつらつら並べちゃダメなんだよ。
まずはその盾を捨てろ。攻めたいんだろ?なら矛の両手持ちしかねーよ。自分は弱者です~ってバリア張りながら相手は打倒したいだなんて傲慢がすぎる。
強者しかできない。弱者は黙るのしかないのか。なんて話じゃない。主張したいなら、お前のその関係ない属性はいったん脇に置いとけ。余計な色を付けるな。
そういう仕草が望むか望まざるかわからないが体に染み付いてしまっているのには同情する。普段の生活ならその行動様式は大いに役立つのだろうさ。だけど攻める立場に立ったのなら、逆効果だよ。卑怯者だよ。哀れさを餌に自分を有利にしようとしてるだけ。無意識でも悪いし、でも多分意図的だよな。
そんなに「こっちのことお姫様扱いしてくれないと」って女性たくさんいるんだ?ということはさておいて、
言いたいこと98%くらいは理解できる、ワイも婚活しない女性だけどね
"むしろ得意な女性の方が選んで男性を連れて行く方が合理的だと思うんだよな"
これ本当にそうだと思った
ただ
"これ男女逆に言うと、男が「女性にラーメン屋を選ばせたら幸楽苑とか選んだんだぜ、ありえないよな~」とか言ってるのと同じだよな。こんな文句言ってるの見たこと無ぇ~。"
これは多分こういうシチュエーションが現実にはそう頻発しないし観測もあんまりしないからこんな文句言ってるの見たこと無ぇ~んだと思う…
(追記 ないこと自体が非均衡で今だに世間のジェンダーロールが根強いという話だったかな、そうだったら誤読してたかもごめんね…)
でも実際起こったら「やっぱり女にはラーメンがわからねえよなw」って文句って言うかほらねって感じで揶揄する人はまあそれなりに出現すると思うな
一昔前というほどでもないラーメン評論家とか女性ファンも来てる自身の作品のイベントで「特撮は男の趣味」みたいなこと言っちゃう監督とか女の趣味は全部彼氏の影響とか言う人結構いるから…そういう人ね
そんでこういう男性が多分「女性は姫扱いをするべきって思ってる男性」の方に親和性が高いというか出発点が一緒というか、このまとめhttps://togetter.com/li/2344575で引用されてる方としてる方みたいな人なのかなって思った
(ZaikabouさんのXじゃなくてこのまとめ見たあとこの増田見て感じたことだなこれは)
こういう考え方の男女って増田の書くとおり本当にその旧いジェンダー感とかメンタリティを同根にしているよなあ…って感じるけど、
ネットで話題になるとき実際は男も女も色んな人がいるのにひとまとめに男と女に雑に分けられたり自分からわかれたりして雑な前提のまま反目しあっていがみ合う感じになるのちょっとしんどくなってしまうよね
はたから見たらこういう考え方の人同士はお似合いなんだと思うけど…
婚活の場合はワイもよく知らないから言えないけど、個人的にはチェーン店や安い気楽なお店を本当にいいと思ってて素朴に相手を連れて行こうとする男性は(女性でも)べつに感じいいなーと思う
(はてブでは「世間知がない」「センスがない」とかさんざん言われたりこれで色々推し測れるとか言われたりしてるけど実際そういう部分もあるかもしれないけど、ワイはこれには結構反対したい気持ちがある…全部が型通りじゃないだろって)
でも「試しの場」として自分の物差しで100パー自分側が選ぶ側だとして無意識に相手をはじめから見下してることに気づかないままそれをやる上に、そういうの持論としてポストしちゃう人って男でも女でもほんとに嫌だよなあ……
結果は同じでも相手をはかる目的としてそういうお店を扱う人と好きでそのお店を使おうという人はやっぱり別だよねって思ったけど、
一連の話題で一緒くたにされて男性も女性も反論の材料にしたりしてるのみてうへってなったのでちょっと書いた
(婚活だとまあ違う特殊な文脈が生まれてそれを外側から見ると先鋭的に感じてしまうんだろうけどね…そしてそのまま一般の男女論に適用されて語られる まあワイにも関係ないからいいんだけど)
ていうかそういう使い方普通にお店にも失礼だよな
”女性は姫扱いをするべきって思ってる男性って結構ヤバ目な男性だと自分は思うのだけど、女性はあんまり危険視しないよね”
だからこの部分はべつにそんなことはない、そういう女性ばかりではないとは書いておきたい
増田の論旨とはだいぶ話が変わってしまうけどみんながDPZのライターのようで素朴にチェーン店やヘンなお店を愛したり
フラットに普通におもしろおかしく利用できておかしな文脈が付与されない世の中であるといい…とこれ関連の話題の度にワイは思ってる
そしてワイの家の近所にロイヤルホストがふたたび出店してくれたらいいのに…
当初はベタ打ちの記事でしたが、あまりにも可読性が低いので見出しに記法を用いました。
今見返すと修正したいところは多々あるのですが、明らかな誤記(退学届→退部届)の修正、追記日付の補記を除き、情報が陳腐化している箇所なども含め、そのままにしています。
スポーツ推薦で高校に行く人がどれくらいいるか知らないが、行ったはいいけど馴染めない、中退して想定していたルートから脱落する、最悪の場合自ら命を絶ってしまうという人は(残念ながら)少なからずいる。
中学へスカウトにきた顧問は、週に1日は休み、練習も平日は2時間、勉学の時間も大事にする、著名な大学にも推薦で行けると熱弁した。
私は技量はあったが体力がなく、すぐ高熱をだすようなひ弱な中学生だった。スポーツ推薦なんか到底無理と思っていたが、休みがあるなら、その先があるなら、三年間だけ頑張ってみようと決意した。
結局のところ、顧問の説明は全て嘘で、三年間がんばった先輩たちは浪人か就職で、推薦で大学に行くのは極めて少数、かつ、いずれも著名とは言い難いところだった。
それでも、しばらくは頑張った。もがいた。40度の熱を出しながら罰走を走らされ倒れた。水を被ってまた走った。自分の決断と、それを支持した親の思いを無碍にしたくなかったからだ。
だが、夏頃に怪我で数日通院し、練習に出られなかったことをきっかけに上級生による苛烈なイジメまで始まった。
大学に行きたかったので、高校は辞めるわけにいかない、と私は思っていたが、あの恐ろしい部室に行くと思うだけで、ボロボロと涙が溢れ始める。
推薦で取った生徒の不登校というのは、顧問には痛手らしい。手をかけ品を変え、顧問から登校するよう連絡があった。それでも私が応じないと、両親揃って呼び出され、強い口調での退学勧奨を受けた。
子の不登校に加えて、顧問による叱責がよほど強いストレスだったのだろう。両親まで懇願するように、それが受け入れられないと怒鳴り声をあげて退学を求め始めた。この世に味方はいないのかと絶望した。
が、結局のところ、私は図々しくも高校を卒業した。部活も半分以上ボイコットした。そして大学に通い、やりたかった仕事に就いた。
今思えば辞めても大検を取れば良いだけだったのだが、大人の不当な圧力に負けなかったという経験は、今でも自分を支えているように思う。
数は少ないかもしれないが、同じようにスポーツ推薦で進学するも、クラスや部活に馴染めなかった方と、その親御さんのためになればと、私の経験を書き残しておく。
なお、なるべくなら普通に通学して部活やって卒業した方がいいに決まっている。
それができない我々のための話と思ってほしい。
大検はそんなに難しい試験ではないが、履歴書に卒業高校が書けないのが嫌なら、なんとかして卒業を目指すことになる。
卒業には単位が必要で、単位取得には出席とテストでのスコアが必要になる。
テストのほうは、まあ、頑張って取るしかない。こういう所を読むくらいの「ナード」なあなたなら、スポーツ学級向けの試験で赤点を回避するくらいはなんとかなると思うが、どうでしょう。
クラスで浮いてしまうのは仕方ないと割り切るしかない。授業が始まれば別に気にする必要はないし、休み時間は寝ればいい。だって眠いでしょ?
行かなきゃいいのだ。授業に出て、終わったら帰る。
スポーツ推薦入学者は、部活を辞めることはイコール退学だとよく言われる。実際、そういう前提での退学勧奨が横行している。それに応じる人も多い。本人が納得できるなら、それも別に間違いではない。
あなたは正当に入学し、保護者は学費を納めている。あなたの進路はあなたが決められる。退学勧奨はあるだろうが、応じる必要はない。
(もし、念書とかを書かされていたのならごめんなさい。でも、そんな念書有効なのかなぁ。)
そして、部活に行かないこと、やめたことを理由とする退学処分なんて、通常なら出しようがないはずだ。ナードなあなたは暴力を振るうことはないし、成績も悪くない。わざわざ制服でタバコを吸うこともない。
生徒手帳を開いて校則を読もう。あなたならちゃんと読み取れる。なにか退学に値することをあなたはしているか?していないはずだ。
とはいえ、退部届を出すのはポイントオブノーリターンを超えてしまう。私は退部届けは出さず、部活に出ないに留めた。
時折顧問に呼び出されたが「いじめがあるなか部活には行けません。すみません。」ということを述べ続けた。
顧問はいじめがあること自体を認めたくないので解決に動くこともしない。なので、一生平行線だ。
あなたが学校に行けない状態なら、少なからず精神的にダメージがあるといえる。心療内科などで相談して、その結果を伝えるのも一考と思う。
もし、やりとりのなかで、あまりにも酷いことを言われたら日時とともに覚えておくこと。それはあなたの自尊心を大きく傷つける表現かもしれないが、受け止める必要は一切ない。相手の不当性を立証する強力な武器になるのだから、内心喜んでもいい。
顧問はすぐに手を出す人間だったが、私は幸い暴力は受けなかった。ポイントは、表面上反抗しないこと。
無抵抗で頭を下げる人間を一方的に殴っちゃまずい、という計算を大人はしている。クソ野郎ほど損得計算した上で手を出しているのだ。
賢いあなたは内心、大人をバカにしまくっているだろうが、それは心の内にとどめておこう。
万が一、暴力を振るわれるようなことがあれば、それは警察に届け出ていい。仮にあなたの態度が反抗的であっても罪は罪だ。
多くの部活は3年の夏頃には引退なので、そこまでいけば逃げ切り。あとは高校生活満喫してやろう。
暇なら部活と同じスポーツを部活以外でやってもいい。部活じゃないから声出しを強いられることも、ミスを咎められてランニングさせられることもない。
大学は相応の学力があれば入れる。内申点は関係ない。顧問の権力は全く届かない。
大学では、ちゃんと勉強しておくとよい。案外、飯の種を拾えることがある。捻くれ人間のあなたと馬の合う、もっと捻くれた人間がたくさんいる。楽しいですよ。
もしあなたが部活をサボれば、顧問は「そんなんでは社会でやっていけない」「人間失格」など言いたい放題いうだろう。言われ続けるとそんな気もしてくるかもしれない。
けど、大丈夫です。私はいま、普通に暮らしている。なんなら、十分恵まれた生活を送れているくらいだ。
正直、一部のブラック企業を除けば、イかれた高校の部活のほうが「社会」よりよっぽど理不尽だ。認めたくはないが、部活で地獄を見た分、多少のことには動じない。それは一つの強みになっている。
あなたも、実はすでに一般人の平均よりも理不尽耐性が育まれているし、一度は推薦を受けるだけの身体能力ないし学習能力があり、こんな長文も読みこなせるのだから、世間からみれば優秀な人材だったりする。
あなたは社会に通用しないわけではない。むしろ活躍の機会があると思っていい。
それから、一度逃げたら逃げぐせがつく、みたいな言説もあるが、逃げぐせ、結構じゃないですか。私は激務で殺されかけたこともあったが、逃げぐせのおかげで死なずに済んだ。より良いポジションをとれた。適切なときに自分を守れるのは恥でもなんでもない。
一度死んで死にぐせがつくよりいいんじゃないですか。
小学校、中学、高校とくると、高校が世界のすべてのように感じるし、高校でうまくいかないと人生の全てがうまくいかないように感じる。私はそうだった。
でも、実際は高校なんて人生のごく一部にすぎない。思い出せば色々あるが、思い出すこと自体少ない。どうでもいいんですよ。
あなたが真っ当に部活に出なくなると、顧問をはじめ、高校側はあなたに対して色々言ってくる。でも、高校は別にあなたの人生に責任を全うするために何かを言っているわけじゃない。向こうは向こうの都合があり、そのためにあなたを退学させたり登校させたりしたいだけなのだ。
正直、イージーではない。同級生に蔑まれたり、恨まれたりすることもあるだろうし、親の協力も得られないかもしれない。
でも、騙されたとはいえ自分で選んじゃった道なので、まあうまくやるしかない。何度も言うけど、高校の知り合いなんか一生会わないこともできるから、適当でもいい。
なんにせよ、スポーツ推薦が体に合わなかった人は、大変だけど、とにかく死なないことは徹底してほしい。
死ぬことに比べれば、一瞬しか関わりのない人間に嫌われるのなど無傷に等しい。常にいい人でいる必要はないんだから、高校時代まるまる、いい人を封印したっていい。
あなたの善性はイかれた部室の中でではなく、将来出会う真っ当な環境で、真っ当な仲間に対して発揮すればいい。今は図々しくあれ。サバイブすることに全力を傾けていい。頼れそうなら親に頼れ。高校と関係ない友達を大事にしろ。
健闘を祈る。
お子さんの状況に心を痛めているのではないかと思います。思うようにいかない毎日に強いストレスを感じていることでしょう。
私も今は二人の子の父親です。親御さんのお気持ちも今となっては察することができているつもりです。
大変ななか心苦しいのですが、ひとつだけお願いがあります。お子さんの人格や将来を否定するような言葉だけは止めてください。
私はいま、十分に幸せな生活を送っていますが、不登校時代、高校を辞めさせたくなった父が絶叫した「お前の人生はもう終わってんだよ!」という言葉が忘れられません。
私が学校に行けず、さりとて辞めることもできなかったのは、私自身が人生をどう打開すべきか、悩み続けていたからです。
そんなことを知ってか知らず投げつけられたその言葉はかなりのショックでした。親に叱られることこそあれ、将来を否定されることなど想定もしていなかったからです。
私は全くの無意識に「いつか必ずお前を殺す」と口走りました。
口から出た言葉が己の耳に入った瞬間、私は後悔しましたが、謝罪なり撤回なりの言葉を紡ぐ前に、父は「おう、そうしろよ!やってみろよ!もうとっくにお前は終わってんだよ!」と叫び続けました。
私のなかで父への信頼、敬愛が全く失われたことをよく覚えています。
このやり取りを思い出すたび、未だに激しい怒りに身を任せそうになります。
子供を連れて実家に帰るとき、父は人生が終わったはずの息子が連れてきた孫を心から歓迎して、膝に乗せておしゃべりをしています。
父の心底幸せそうな顔を見ると、今この瞬間、父を殴りつけてあのやり取りを思い出させ、徹底的に謝らせて、痛めつけた挙句に殺めれば、いくらか救われるだろうと思う自分がいます。
しかし、父の笑顔を見るたびに、お前のいうとおりにしてやるよ、と告げたくなるのです。おそらく、私は父が死ぬまで、父を殺す機会をうかがい続けることでしょう。
父と会わなければよいわけでもないのです。
子供たちはしょうもない私に対して無償の愛を向けてくれます。この子達のように率直に父を愛せたのならどれだけ気楽だったのだろうと考えてしまいます。そして、あの日の怒りを思い出してしまうのです。
ベビーベッド、バウンサー、公園の砂場、保育園の帰り道、アイスを食べながら休むベンチ、初めてのランドセル。幸せに満ちているはずの至る所に父への殺意が頭を顔を覗かせるのです。
そして、いずれ私自身が父のように、子供を否定する日が来るのかもしれないと怯え続けています。
結局のところ、私の傷は社会に受け入れられても癒えることがありませんでした。20年近く前の親の一言で、私の人生の一部は壊れてしまっているのです。
しかしながら、どうか、どうか、お子様の人格と将来を否定しないでください。
長文、乱筆失礼しました。
(なんかうまくいかず、再投稿してしまっていたようです、ごめんなさい。こちらに改めて記載します。)
このような長文、悪文にも関わらず、想定を遥かに超える反応をいただき、驚いています。読んでくださった皆様、ありがとうございます。
疑問点もあると思いますが、身バレはしたくないのでこれ以上の説明は避けます。
温かいコメントや反応が多いことはとても嬉しいのですが、想定外でした。
ここまで好意的な意見が多いと、私の手法がみんなに支持される、定石や必勝法のように思う人(特に危険なのは中学三年生)が出てくるのではないかと、少し不安になってきました。
その点について、もう少し書かせてください。
私の対応はあくまで緊急避難であって正攻法ではありません。私のパーソナリティ、顧問の間抜けさ、高校の意外な寛大さが合わさったという偶然の部分が大いにあります。
また、同じようにスポーツ推薦で入学し、日々理不尽と闘う同級生、先輩後輩からすれば、私のような立ち回りをする奴は完全なクソです。皆さんが顧問に対して抱いてくださった反感と似たような感情をぶつけられる対象になるのが普通です。
必勝法でもなければ、周囲に褒められるやり方でもないのです。
「とりあえずスポーツで行って、ダメならサボればいいか」というのは絶対にやめたほうがいいです。実力で行ける高校に行きましょう。
もしあなたが極限状態にあるなら、私は何度でも「自分本位と言われてもいいからサバイブしてね」と伝えます。これは全くの本音です。大人に迷惑をかけてもいい。生きましょう。一般社会より厳しい世界をあなたは知っている。あなたは人に優しくなれる。あなたの優しさを、まともな世界にまで運びましょう。
でも、あなたがまだ選択の余地を残しているのであれば、最初からこんなことを狙っちゃダメだ。
愚かで幼稚な父のために、私と子供達の幸せが犠牲になるなんて絶対におかしい。
高校時代の出来事など、人生のうちの一瞬のことに過ぎない。俺自身、そう書いたではないか。
許すことはできなくても、忘れること、思い出さないことは努力できるんじゃないか。
というところです。話し合いは正直怖いんですよ。年老いた父は幼い孫たちには優しいですが、母や私のきょうだいにはますます頑迷になっていて、本当に手をかける結果になりかねない。
心配してくださったみなさん、労ってくれたみなさん、本当にありがとうございます。
この文章が、必要とする人に届いて、悩む学生さんが希望する進路へ進む契機や、良好な親子関係の構築の一助になれたとすれば、これに勝る喜びはありません。
井川さんのしゃべりは、声の震えが第一印象。これは加齢による声帯の衰えというのもあるのかもしれないが。(井川さんは60歳くらい?)
井川ターンの時にちょいちょい周りに目配せするのがなぜなのか気になった。
最初は何かスタッフがやるのを待ってるのかと思ったが、自分がおかしくないかというのを周囲に確認するような無意識の視線の動きだと分かった。
この人は自分に自信がない。だから喋ってる途中で自信が無い故に周りの反応がすぐ気になってしまう。
喋りに自信がない人間は喋ってる途中に無意識の身体ジェスチャーが多くなる。ソファーにもたれたりシャツを直したり腕を組んだりとせわしないことから分かる。
おそらく、この人は自分が金と学歴しか取り柄がないことがわかっておりそれがコンプレックス。
何もないから、自分は特別な人間であるというスタンスで発信して、上から目線でこき下ろすスタイルで空虚であることが気づかれないよう対等な意見のぶつけ合いを避けて今まで過ごしてきた。
自分はすごい人間だというプロモーションにより注目を集めてマネタイズする情報商材屋や Youtuber に似たところがあるかもしれない。彼らはすごいと思わせることがメインであり実体は何もないので、それがバレないうちに商品(再生数)を売り抜ける。
対談内容も、とにかく弱みを見せないよう、マウントを取ることを優先する姿勢が見られた。本人も言っていたように内面を見せることをとにかく避ける。自信がないから。空虚がバレるから。
自分はすごい、ピラミッドの頂点にいる、一般人とは違う「持っている」人間なんだと本当に思っているなら、余裕の姿勢で自分の考える幸福論を臣民に説くように語るだろうがそれができないというところに自信の無さが明確に表れていたと思う。
対談後、安心したような緊張の解けたあとのほっとしたようなため息。
そして満面の笑みで「どうしようかな、戦いにもなってなかったんだけども笑」。
帰りたい、と帰り道でも家にいてもつぶやく
この場合の帰りたいは、今いる場所から地理的に自宅に戻りたいの意味ではない
今いる場所・状況から離れたい、今の場所・状況に居たくない、逃げたい、くらいの意味で無意識に使ってると思う
どこにいてもずっと帰りたいと呟いている
最期の受容。
本当はいつそうなるか分からないのに若いときは無意識的にも意識的にも全然それが視界に入らないんだよな。
自分もまだ全然そういうことが想像的できていないと思っているけど、
自分のことより世の中のためにどうのこうのとかを極端に優先するようになったり、その逆にもなったり、
断っておきたいが、俺は女たたきをしたいわけではない。
会社の研修で「貴方はストレートな男性で管理職であるから、社会的には強者である。社会的な弱者である女性のことを考えましょう」みたいなことを言われて、不意打ちにあったような気持ちになった。
俺は在日三世である。まず、在日差別はある。おじいさんや父親が苦労してきた話(教師が親父の書いた絵に「朝鮮人で最も絵がうまいで賞」と書いた花をつけて廊下に張り出す、など)を聞くとやるせない気持ちになるし、今でも同世代との飲み会になるとザイニチが!みたいな罵倒語を吐くやつは目にする。
なので、正真正銘ゴマカシなしの社会的弱者であるウチは、在日であることを完全に秘匿しながら、日本において唯一無二の後天的に取得しうる強者性=学歴を息子や娘に身に付けさせることが長期的な戦略となった。豊かではない父母は持てるリソースのすべてを我々に注ぎ込んでくれ、果たして俺は東大に合格した。
ただ、どんなに努力を重ねても、やはり特に大阪に帰ると無意識の差別のオブラートは社会を包みこんでいるように思えてならない。帰化申請を自分で行ったときに、半ズボンで来るようなマトモじゃない人は審査で落とすけど、君は大丈夫。普通だよ。でも普通じゃない人ばっかなんだ、とヘラヘラ宣った法務局のHとかいう奴の顔は一生忘れないし、梅田の地下歩いてただこの親父が免許書を見せた瞬間に顔色変えて根掘り葉掘り聞いてきた警察官のことを俺は許さない。妹の元彼の親が朝鮮人とは結婚されられないと挨拶の場で断って、それにそれもそうだなあと言っていたらしいアイツらは妹の流した涙のぶんの毒薬を地獄で飲ませたい。
なので、俺がしてきた努力は、親子三代に渡り投入し続けたリソースは、この日本社会で生きていくために絶対に必要なコト/モノだったし、その結果としての社会的強者然としたこの姿は、弱者性の超克の志向の当然の帰結である。
それを、社会的強者である日本人女性から、生得的に男性であるからという言葉だけで強者と形容されるのはとても気に食わない。俺は、俺等弱者は、本当に死ぬ思いをしてここまで来てるんだ。生得的なんて言わないでほしい。
「寝石についていても問い合わせがあったらすぐ応答するように電気ショックを流すとかしろ」みたいな
質問があった
字面だけで、寝ていても、てきないみかなーそれかなんか死んでいてもとも取れるなあとか思ってちょっとおもろかった
夢の中でぐぐって調べたらやっぱり寝ていてもてきな意味だったけど
いままで会社の同期の飲み会はほぼ全参加だったのにインスタのストーリーで規模大きめの飲み会やってたのを知った
誘われてなかった
いやわかってるよよくある事だって…
私も開催するときは最近結婚してた人は無意識に誘ってなかったもんな…
でもこんなショックだと思わなかった
今回も誘われてたら行けたかというと微妙だったんだけど(平日開催だから家遠い&普段車通勤勢には厳しい)誘われた上で断りたかったというワガママ
職場男の人しか居なかったからいままでは普通に男5女1とかで遊んでたけどそういうのも誘われなくなるんだろうな…
頑張って社外で女友達つくるぞ…
1. あなたの心はどんなときに快楽を感じますか?いつ不快を感じますか?いつ苦しみを感じ、いつ喜びを感じますか?つまり、感じたことに気づいてください。
2. その感情は、なぜそう感じますか?原因はなんですか?あなたをそのような感情にさせる経験に心当たりはありますか?
例えば、目の前の人が包丁を握って玉ねぎを切っていたとします。私が後ろから声をかけると、その人は振り向く。そして包丁の先も一緒に私の方を向いた。キラリ。
私は不快を感じるでしょう。関係性によっては、それを口にするかもしれません。
ですが、重要なのは不快を感じたことに気づくこと、そしてなぜ不快を感じるのかということです。考えてみましょう。
これを探るためには、感情が成立しない条件を挙げるとわかりやすいです。
例えば、もし包丁が視界の外にあれば、包丁の先を向けられた事による不快は感じなかったでしょう。つまり、それを認識したから不快になった。
例えば、包丁が何なのか知らなければ、不快は感じなかったでしょう。つまり、包丁が固く、鋭く、そのようなものは人を傷つけると私は学習していて、だから不快になった。
例えば、より遠くの位置関係であれば、不快は感じなかったでしょう。それはなぜ?
私は思い返してみます。あのとき何を感じたのか。ゆっくり、スローモーションで。
包丁に気づき、その後、包丁の先が向けられていることを認識します。
そして……想像したことに気が付きました。その先が自分に突き刺さる事故を。人間の本能的な予測衝動に従って。
そして、想像によって私は架空の痛みを感じ、それが真実の恐怖になったことに気が付きました。突然の恐怖は、驚きの発生に繋がります。
人間はそのように驚かされると、その事自体を不愉快に感じるものです。自分が攻撃を受けている(と錯覚する)からです。
そして、怒りが訪れます。攻撃には、報復を。おお、驚嘆するほど一瞬の、精緻で語り難い、複雑で出来事です。人間の妙。
私が包丁を向けられ、不快になり、ひとこと言いたくなったのは、このようなメカニズムが私の中で働いていたからでした。一件落着。
…というのが、私の言う「心の観察」です。
自分ではない人間として自分を観察し、どのように感じるかを理解することが、まず一歩。
これを無意識にできるようになると、自然と相手の心の動きにも目が行くようになります。
これが、言葉ではない話し合いの一歩、心を聴くということへの手がかりです。
ただし、他者の心の機微を知ることは、ご存知のように大変難しい。
いろんなものを見せてみましょう。いろんなことを言ってみましょう。そして観察するのです。目線、表情、呼吸、声色、仕草……
話を聞いてみてください。相手の前に立つのではなく、横に立って同じものを見てください。相手が何を想像しているかを知る必要があります。
ひとつひとつの出来事は一面しか表しませんが、百回行えばその人の百面が見えます。知りましょう。
自分を知ることも、人を知ることも、実験と観察の繰り返しです。
あなたの言う問題というのも、その延長線上で観察する必要があります。あなたに起因するのか、相手に起因するのか、どちらもなのか。あなたとその人の間に、何が起こっているのか。
何をして、何のリアクションがあって、それが起こるのか。因果を観察し発見してください。因果のない出来事は存在しません。
問題というのが何のことか、具体的には書かれておりませんので、具体的なことは申し上げられません。
ただ、まず観察の手段、知ることの正しい手段を取ることが重要だと私は主張します。
知れば、道が見える。
人の世は複雑です。だからこそ答えは観察からしか得られません。そして、人は道理と因果を見つけたなら、干渉できます。
そのときようやく、あなたは、あなた自身の力によって、問題を解決できます。
未熟な私から申し上げられることは以上です。
「長く一緒にいるために話合いがしたい。自分が正しいと思っているわけではなくて、自分なりに考えて思っていることがあるから聞いてほしいし、あなたの見方を教えてほしい」
「紙に書きだそう」「時間が必要なら言ってくれれば待つよ」「文章でやり取りしよう」「伝わっていないなら私の言い方が悪いのだと思う。わからないならわからないと言って質問してほしい」など提案してみたけどうまくいかなかった。
ここがアヤシイ。無意識にプレッシャーをかけているのではないか?
言動から見られるのはbattleの姿勢。なんというか仕事の交渉みたい。提案が一方的すぎるというか、相手に投げすぎているというか、「お前のことはお前が話せ」という態度を感じる。
相手の視点に立って、相手に共感し、話し合いは言葉ではなく行動で行ってみてください。人間は言語の前に存在し、感情や無意識も言語ではない。よって、もし感情的な問題があるなら、その話し合いは言葉ではできません。
これは、言葉で伝わることではないですが…
もう受験生でもない自分が高校レベルの参考書や問題集をいつまでも解いたりするべきなのか分かりません。
解いたりするべきだと思う以下の持論を持っているのですが、この持論が正しいかどうか全く確信が持てません。
以下から持論です。
まず、高校で習うことを理解していなければ、大学以降のより専門的なことが理解できないことがあるというのは確かだと思います。
だから私を含めそういう専門的なことを理解したい人は、高校レベルのことの穴を埋めるべきだと思います。
それをせずに大学レベルのことの学習に手を付けても理解できることがある可能性はありますが、その理解したという感じに錯覚の場合が混ざるおそれがでてくると思います。
つまり理解してないのに知った気になる、いわば「何がわからないかわからない」状態に陥る可能性が出てくると思うのです。
そのうえで、そのような大学レベルのことを理解していないと理解できない、より高度な理論を学ぼうとすると、今度はわからないという自覚はあるが「なんでわからないのかわからない」という状態に陥ることになります。
つまりその高度な理論を理解するのに必要なそれに比べれば相対的に基礎的な理論や概念は複数あることも当然考えられ、そのどれを理解してないのかがわからない、特定できない、ということが考えられるわけです。
理解しなければならないこととしては当然高校レベルの部分に穴がある可能性もあるでしょう。
しかし学ぼうとするものを見ても、その理論等の全容を見て、具体的にどんな知識が必要か余すことなく把握することは意外に難しいでしょう。
単に用語の意味を知らないといったことなら、その用語をネット検索で、その用語を使っている理論のなかでもっとも基礎的なものが何かということを目星をつけて、そこから学ぶという方法がとれるでしょう。
しかし学術的文章が理解できない原因は必ずしも「単にこの言葉がわからないから」というような、わかりやすい輪郭を持ったものに由来しているとは限らないと思うわけです。
大学レベルの参考書(学術書)や論文を書く人は受験競争を経験した人なわけですが、受験勉強で得た「考え方のひな型」のようなものが、少なからずその後の思考やそれに基づく文章に影響を与えていると私は考えます。
それはもはや自覚的に認識できるものではない、無意識下にある思考の体系であるわけです。
その「枠組み」を共有していない人にとっては、より言葉を尽くさないとわからないことでも「既知の事項として」という感覚すら持たずに、その部分の言語化をせずに文章を書いている部分があると思います。
特に幾何学が絡む記述は、センス=ひな型・枠組みを持つ著者自身には空気のように当たり前のことであるために記述がシンプルになってる説明に対して、枠組みの無い人にはなんでそうなるのということがまるでわからないということが起こり得ます。
それは著者すれば「なんかこいつすごく察しが悪いな」としか思えないほど逆に理解しがたいことです。
これは大学と高校の話ではなく高校とそれ以下の話なのでたとえが悪いかもしれませんが、たとえば高校物理である部分の角度と別の部分の角度が同じという事実から式を導出することにおいて、なぜ角度が同じといえるかということの説明まではされてないみたいなことがあります。
これは、角度のことについてなら、中学受験の算数の難問を数多く解いてきたりその答に対する解説を見た経験が、まさに有機的に思考の枠組みとして血肉化した書き手自身には、条件反射的に当たり前のように角度が同じだと認識できるが、そうでない人には説明がないとわからない、という枠組みの有無による断絶ともいうべきことが生じているのだと考えられます。
しかし書き手にはすべての読者のレベルに対応することは不可能ですし、そもそも「枠組み」がある当人には1+1=2のレベルで当たり前のようにしか思えない角度の同じさを説明しようという発想すら起こらないから、こうしたことが起こると思うわけです。
そしてこの枠組みは「枠組みが足りてないから理解できないのではないか」という必要性の認識に応じて選択的に必要十分なものを特定して身に着けられる、という性質のものでないわけです。
上記は高校とそれ以下のレベルでの話ですが、大学とそれ以下のレベルという場合でも同じ構造的問題を共有していると思います。
因数分解や極限値を求めるための式変形の定石や、その他証明問題などに対して定石と呼べるような解法から定石ではない解法まで、その問題をこなしてきた人たちにとってはその経験が枠組み化しています。
なのでその人たち自身が見てきた高校レベルの参考書では途中過程として式変形など書かれていたものが、当人が研究者になって書く大学レベルの本ではその本人の主観的に自明性が強すぎてその途中過程を書くような発想すら存在しないわけです。
ですから、大学レベルの本を理解するには、およそ考えられるかぎりのあらゆる高校レベル以下の問題を解いて理解することを片っ端から行いその経験を積んで枠組みとする必要があると思うのです。
でなければ結局「何がわからないかわからない」「なんでわからないかわからない」という状況に陥ると思うわけです。
予備校講師の数学のアドバイスで「数3は数1Aと数2Bの知識がなければ理解できないというが、だからといって数1A・数2Bを完璧してから数3に取り掛かる必要はない。完璧は難しいのだから同時並行でよい」という趣旨のことを書いていたのを見たことがありますが、まずこれは受験勉強に関してのアドバイスであるということに注意するべきだと思います。
つまり点を取るためなら、完璧でない理解でも、ふわっとした理解でもパターンとそれへのあてはめとして、問題は解けてしまうということは十分考えられるからです。人口無能、あるいは中国語の部屋のようなものかもしれません。
一方で学問として理解するということにおいては、厳密に完璧に理解していなければ、ただの知ったかで、それは全く理解してないのと同じ価値しかないのではと思うわけです。まさに論理として理解しているのではなく「受験で点が取れる感覚」でパターン認識としてわかった気になっているだけだと思うからです。
また、大学以降のより専門的なことが理解できれば、高校で習うことはすべて理解できる、というわけでもないと思います。
先ほどの高校物理の例にあるように、高校レベルのことが当たり前になってる人が書いた大学レベルの文章には、高校レベルのことは書いてないことがあるわけです。
そして、どの大学レベルの理論を学ぼうとするかによっては、自分の持つ枠組みで十分にその理論が理解できるということはありえます。ありとあらゆる高校レベルの枠組みを網羅している必要はないわけです。
なので、大学レベルのことは理解してるが、その大学レベルの文章に高校レベルのことは書いてないかもしれないので、その後大学レベルのことにしか触れなかった場合、高校レベルだけど初見だと解けない問題が死ぬまで解けないままであるということが起こり得ると思うわけです。
たかが高校レベルだから、初歩的なんだから受験生じゃなくなっても真面目にとりくむほどではないと思うかもしれません。
しかしそのように単なる初歩的なこととされるかは、意義深いこととされるかは、時代次第の相対的なことではないでしょうか。
2000年以上前ならピタゴラスの定理を理解することも十分意義深いことだったでしょう。
時代が進むことによって、より高度な定理や理論が発見され、既存の定理はそれを理解するためのより初歩的なことと規定し直されるというだけです。
このような文脈での主語はあくまで「人類」です。言い換えれば、人類のうち誰かひとりでも知っていたり理解していたりするようなことを全て知っているような、仮想的な知性にとっての意味付けだと言えると思います。なかば無意識的にこのような仮想的な知性と自分を主語のうえで同化させてこのような「初歩的/意義深い」という価値判断をくだしているにすぎないのではないでしょうか。
あるいは「文明」を擬人化して主語においているとも言えるかもしれません。「文明」にとって、容易に理解できる初歩的なことかどうかということです。
一方実際に世界を経験する主体の単位は「個人」であり、わたしであり、あなたです。
ある時代にとって意義深いけれど今は初歩的なことを理解してない個人がいるならば、人類や文明が主語である場合、それが最先端の知識=未知であるか、または既知となって間もないか、で意義深いかどうかの価値が規定されていたのですから、個人を主語にした場合も同様に考えればよいのではないでしょうか。
つまりその個人が理解してないのなら、それはその個人にとって意義深いことなのだと思うのです。
大学レベルとか高校レベルとか関係なく、「自分が知らないという意味で意義深い」解ける問題を増やしていくことは、この世界や現象に対する理解の解像度をあげると思うのです。
だから大学レベルのことには書いてない高校レベルの問題の解法も赤本や難関大を意図した参考書には無数にあるので、それを解き続けることには、それを飛ばして大学のことを学び始めることを通じては経験できない意義深さがあると思うのです。
まとめれば、高校レベルのことが足りないために大学レベルのことが理解できないこともあれば、大学レベルのことでは身に着けられない高校レベルのこともあるので、結局この世の中をよりよく理解する手段として高校レベルのことも大学レベルのことも等しく有効なら、まずは高校レベルのことを完璧にしなければならないのではないか、と思うわけです。
ここまでが持論の全容です。ですが世の中の成果をあげている科学者の全てがこのようなことをしているとは到底思えないので、自分の考えが合っているなどという確信は全く持てないわけです。
なので、ぜひ、反論できるところがあったら教えてください。
男性向けポルノを観る時、脳はモニターに映る女性を無意識のうちに物として認識しているらしいのだが、その説の真偽は置くとして、そもそも自分はポルノに限らずモニターに映る人間を人間として見てるのかという疑問が沸いてくる
例えば昔のお笑い番組で、身体を動けないように拘束された出川が汚物まみれにされるのを見て強い不快感に襲われたが、そういう演出をする番組制作者に対して強い嫌悪感を覚える一方で自分はその時に出川のことを人間として見ていない
粗末な扱いをして笑いを取るために用意されたオブジェクト、というのが感覚に近い
藤井壮太や大谷翔平をテレビで観てスゲーと思うが、それはスゲー人間だと興奮するためのオブジェクトであって、ちゃんと人間として見ている感覚はない
たぶん、物もわからぬ幼児が蓋の開いた井戸に近寄っていくのをテレビで見ても、それを制止しようとは思わないだろう
じゃあモニターの外、例えば家族のことはオブジェクトに見えるのかというと、ちゃんと人間に見えている実感がある
むしろ逆で、人間として見るという感覚は家族を見ているときの感覚に近しいという認識だ
たぶん自分は、相手のことをちゃんと人間として見るためには関係を持って対話することが必要なのだ
仕事柄、いわゆる風属性の女の子達に接する機会が割と多くあるんだけど、風を職業に選ぶ子達の中にもいろんな子がいて、「本来の業務以上のサービス」をしてしまう子はだいたい発達障害がありそうだった
彼女達は、男性が自らを求めることを「金銭を得るための業務」ではなく、承認欲求を得る方向に無意識下に置いているようで、「サービス」すれば喜ばれる=承認欲求が満たされる、になっているから、断らないというか、断れない
ただ、男性側も「サービス」を受けられるかどうかを駆け引き的に楽しんでいる場合もあるようで、あくまでも「あなたにだけは特別」というスタンスでなく、誰でもOKな彼女達は、すぐ飽きられたり、ぞんざいに扱っていい存在として蔑まれる
こうなると彼女達は壊れる
ただ、似たようなことは風の世界でなくても起こり得る
誰かと交際したことがなく、容姿にコンプレックスを持つ人は、男女問わず、何らかの意図を持って自分に近付く人の嘘を見抜けない
仮に見抜けたとしても、「自分を愛してくれる人はこの人しかいない」と思い込んでどんどん深みにハマっていくこともある
金銭だったり、身体だったり、提供できるものはなんでも与え続けてしまう
「本番させてくれる女の子や、お前をすぐに受け入れてくれる女の子はほぼ地雷だから、『安全に』遊びたいなら、逆に避けた方がいいよ」って話。
まあ、お前らには関係ない話かもしれんけど。
user:
```
あなたはロジカルマスターおよび詩人です。抽象文章を具体化タスクを実行してください。
必ず、具体化ワークフローの順番に従ってください。
「αはもうやりません。γ。」
αは何らかの行動や習慣を表す語句
γは慣用句であり、αとは逆の意味合いを持つ、あるいはαを肯定・許容するニュアンスがある
この文章の前半では、αを完全に否定、拒絶する意思表示をしている。
ところが後半のγは、慣用句でありながらαを肯定、容認するようなニュアンスを含んでいる。
つまり、γの慣用句としての意味がαの否定と矛盾しているのだ。
賭けてもよいという慣用句が、ギャンブルをやめるという意思と矛盾している。
この矛盾が生じる心理的な要因としては、以下のようなものが考えられる:
αへの依存の強さゆえに、無意識のうちにαを肯定する慣用句を口にしてしまう
αを否定する意思とは裏腹に、γによってαへの強い欲求が表出してしまう
αを克服しようと努力しているが、思考や言葉づかいにまでその意識が浸透していない
このように、慣用句の要素を取り入れることで、より深層の心理的矛盾を浮き彫りにできますね。
言葉の表層的な意味と、慣用句に内包された意味の不一致が、人間の複雑な内面を表現していると言えます。
<具体化ワークフロー>
2. 論理モジュールがαに相当する行動や習慣を選定する。[ここに書く]
3. 詩人モジュールがαを否定する文を作成する。[ここに書く]
5. 論理モジュールが文章全体の意味を確認し、矛盾が生じているか確認する。[ここに書く]
</具体化ワークフロー>
```
claude:
1. 慣用句γ: 「明日は明日の風が吹く」
2. αに相当する行動や習慣: 「先延ばし」
4. γを含めた文: 「もう先延ばしはしません。明日は明日の風が吹く。」
この文章では、「もう先延ばしはしません」という明確な意思表示がされています。しかし、続く慣用句「明日は明日の風が吹く」は、「その時になったら考えよう」という意味合いがあり、先延ばしを容認するニュアンスが含まれています。したがって、この文章には先延ばしを否定する意思と、慣用句に内包された先延ばしを許容する意味の間に矛盾が生じています。
6. 修正の必要はなし。この文章は、抽象文章アイデアで示された心理的矛盾を適切に表現できています。
以上が、抽象文章を具体化するワークフローに沿った結果です。この文章は、先延ばしをやめようとする意思と、無意識のうちに先延ばしを肯定してしまう心理的葛藤を巧みに表現しています。慣用句を用いることで、言葉の表層的な意味と内面の欲求の不一致を浮き彫りにしています。
特別収容プロトコル: SCP-0349-HTは、インターネットから隔離された標準的な人間収容セル内に収容されます。対象者との面会は、厳重な監視の下で行われます。収容中は、対象者の発言内容を常にモニタリングし、記録する必要があります。
説明: SCP-0349-HTは、20代後半のアジア人男性です。対象者は、自身の意見に反する主張をする人々(主にインターネット上で活動する集団)に対して、現実改変能力を行使する異常性を持っています。
SCP-0349-HTが自分の意見に反する主張を目にすると、その主張を完全に間違ったものにするために無意識に対象者の意見を改変します。
SCP-0349-HTの異常性が発覚したのは、20■■年■■月■■日、SCP-0349-HTが参加するインターネット上の議論においてでした。SCP-0349-HTは、自分に反対する意見を述べるユーザーに対し、「お前の意見は間違っている。なぜなら、お前の言っていることは現実では起こり得ないからだ」と主張し、異常性を発動しました。
その直後、そのユーザーは意見を改変されましたが、■■■■■■を施された財団職員がその議論を目撃し通報したため、SCP-0349-HTは財団に収容されました。
財団は、SCP-0349-HTの現実改変能力が、意見の書き換えに留まっている間は、大規模な影響を及ぼす可能性は低いと評価しています。しかし、対象者の能力が客観的な現実にも影響を及ぼすようになる可能性を完全に排除できないため、引き続き収容と研究を続ける方針です。
ナプキンを畳むのも忘れるくらい美味しかった、という由来のテーブルマナーをしっかりと忘れずに実践するのもなんかどうなんだって思う。
こんな事考えてるから毎回忘れるも何もないし、まあやるかやらないかで言えばやっといた方が無難ではあるだろうから一応やってはいる。ほどよく雑に折り畳み、無意識のもと片付けた風を丁寧に演出して置いてる。昔それを見た父に「ナプキンはこうしとくんだぜ」とマナーマウントを食らった。彼はグッチャグチャに丸めて置いていた。
いやいくら飯の余韻で頭がいっぱいでもそうはならんでしょ。むしろわざとらしいだろ。と思った。乱れていれば乱れているほど美味しかったですの度合いが強いって事でもないだろ。
まあ由来とかはさておいて単に美味しかったですという意思表示としてやっとくもんなんだろうとは思うけど、もっと言えば逆にそこまで美味しいと思わなくても雑に畳まなあかんのかいとも思う。
そもそもおれコース料理みたいに品数優先でチマチマ食うのあんま好きじゃないし。定食スタイルで一品をドカッと食う方が好き。フレンチとか行った時も不味いとは言わんしまあ美味しいのもあるけど、珍しいものを食べたなあ以上のものはない気がする。
繊細さとか目新しさとか、能書きも健康への配慮とかも捨て置いて、もっとストレートに脳が震えるような感じの方がおれは「おいしい」と呼ぶに相応しいと思う。
なんで必然的にコース料理は毎回付き合いで行く事になるし、テーブルマナーにおいても無難な振る舞いをした方が良いんだろうなとは思ってる。社会性を持った大人であり、細かい事で揉めたくない日和見人間でもあるので。
ただ強い自我を持ってもいるので、特別美味くはなかったなというスタンスを取ったっていいじゃないかって気もする。それじゃ連れのメンツが立たないと言ったって、なんでアンタが勝手に店側に立ってんねんって気持ちになるし。
店側に失礼とかいっても、それは畳むの畳まないのを本当に忘れさせてはくれなかった店側の落ち度というか……別にテメーんとこの飯は豚の餌だな!つって店先に痰を吐き捨てる訳でもないんだし。
https://www.sankei.com/article/20240324-2PWOH4565RKCVKFLAV2GC5BQKQ/
確かに、内容はかなりアレなのだけど、ブコメを見ると、多くの人が「性自認」という概念を理解できているようで驚いた。
私は前に新書か何かで解説を読んだが、正直なところよくわからなかった。
そこで、性自認を理解した顔してる人たちも実はわかってないでしょと、わからせたい。
まず、性自認とは何か。先を読み進める前に一度自分の言葉で定義を考えてみてほしい。
多くの人は、「自分の性をどう認識しているか」という感じのことを考えたのではないか。
これは実際、一般的な説明でしばしば用いられる定義だと思う。少し大雑把すぎるかもしれないけれども、ここではこの定義を採用する。
まず「生物学的性別」と「性的指向」について思い出しておく。生物学的性別とはその名の通り遺伝子レベルでの性別で、性的指向とはどの性別を性的対象とする(もしくはしない)かである。ここで極めて重要な点だが、性自認は一般的な理解において、生物学的性別と性的指向とは独立にとりうるとされている。例えば、生物学的性別が男性で、性的指向が女性に向いている場合に、性自認は男性(ストレートの異性愛者)、女性(トランスジェンダーの同性愛者)の二つの場合がありうるということだ。
ここからが本題。性自認を生物学的性別や性的指向から切り離して定義することは、本当に可能だろうか(常に切り離せる必要はないが、独立に取りうるということは切り離せる場合があるということだ)。もし可能だとすれば、どのようにして自分の性自認を定めるのだろうか。例えば私の場合は、生物学的に男性で性的対象は女性だから、自分をストレートの男性と認識している。つまり、性自認として独立した認識があるわけではなく、単に演繹的に導いた結果だ。こう書くと、「トランスジェンダーのレズビアンである可能性を無意識下で排除したことこそが性自認が独立して存在しうる証左だ」という主張をする人もいるかもしれないが、しかしそのような排除は恐らく私がマジョリティの異性愛規範に染まっているからに過ぎない。要するに「常識」に盲目的に従ってしまっただけだ。もし誰かに「あなたはトランスジェンダーのレズビアンかもしれない」と言われたら、正直なところ私は反論する言葉を持たない(というか、区別する意味が分からないのでどっちでもいい)。まとめると、私にとって性自認というのは強いて答えようとすれば答えられるなんとなくの根拠しか持たないものだ。そして性自認という概念が個人の内的な経験によってのみ基礎づけられている以上、確固とした性自認の感覚を持たない私にはあやふやな理解しか持ち得ないのでないか。
そして私は、この事情はほとんどのストレートの人にとっても同じではないかと言いたい。自分がストレートの異性愛者かトランスジェンダーの同性愛者かを区別する確固とした根拠があるだろうか。念の為注意しておくと、そのような確固とした根拠があるはずがない、ということを言いたいのではない。トランスジェンダーの当事者にはそういった感覚(というよりも強い齟齬の感覚)があるということは知識としては知っており、それを否定するつもりはない。ただ私を含むマジョリティである、ストレートの人のほとんどは性自認という概念を捉えることができないことを認める必要があるのではないか。そして、もしよくわからないことを認めるのだとしたら、性自認を学校で教えることに対する反対意見に対し、知った顔で小馬鹿にした態度を取るのは、やめた方がいいのではないか(記事に対する批判自体を否定しているわけではない)。
そして最後に少し本音を言うと、このような個人の感覚のみに基礎を置く概念をもてはやすことはアイデンティティポリティクスの跋扈を許す危険な道なのではないか。