はてなキーワード: 演劇界とは
松重豊とか大杉蓮とかこれまでチャンスを与えられなくて日の目を見なかったけど、機会さえ与えてあげれば大ブレイクする俳優さんって他にもたくさんいると思う
じゃあなんでそんな人たちがTVにあまり出られないのかと考えたら、なんでもかんでもキムタク、ジャニーズ、キムタク、ジャニーズって起用し続けた制作側の問題なのだと思う
日本の俳優さんが新しい人たちが出てこないのって結局はジャニーズとTV局の糞みたいな構図ってことにいきつくわけだよな
木村拓哉とは顔をしかめて演技してるっぽくみせる糞みたいな顔芸ばっかやってそれでドラマの主役やり続けるってもう悪夢でしかない
木村とか二宮とかまともに演技が出来ないひとたちを排除(東出とかも、ああもう排除済か)することが、日本の演劇界の復興に繋がるのだと思う
増田は唐沢がいなくてもそのうちアカデミアなサブカル論に触れたり唐沢のパクリ元に行き着いたりしたと思う。唐沢は他人の業績を簒奪することで生き延びてきた人、雑学の知識に関しても不正確(IRAに関してはスコットランドとアイルランドの区別すらしていないことが露呈した)。こーいう人を評価してはいけません、害悪にしかならない。パクられ元をきちんと評価すべき。
また唐沢は一番衝撃のあった1冊目『トンデモ本の世界』には実は参加していないし、2冊目にも3本寄稿という実績。http://www.lares.dti.ne.jp/~hisadome/karasawa_elder/019.html
なのにと学会がブームになったのちにトンデモの名をつけた類似本を量産し、結果質を落とした張本人じゃないっすかね。
演劇に対してこれっぽっちも業績などないのに外部の尻馬に乗って大御所を批判することで「演劇界のご意見番」的な地位を確保しようとしたごく最近の事例でもわかる通り、盛り上がっているところにいっちょかみしてさも自分の業績があるかのように見せることが上手なんだよ。「最新のオタクコンテンツ事情にまったく疎」いのはそういうこと。
唐沢の著作を読んでたことを恥じる必要はないけど、唐沢の本が売れることで唐沢の懐に入った印税はもしかしたらもっと正当な受取人がいたかもしれないんだよねぇ。
つまりはそういうことなんだが、アクタージュ好きなんよ。私はね。
ちょっと前にチェンソーマンおよび藤本タツキ激推しお気持ち長文書いたんだけど、この増田に対してあのレベルの激推し文が書けるほどのバックボーンが私にはない。ただアクタージュってワードに反応して語りたく成った迷惑な早口キモオタだ。許せ。
漫画マニアなら、演劇漫画と言えば大御所も大御所、金字塔も金字塔のガラスの仮面が思いつくだろう。累も大好きだけど、あれは演劇が主体かと聞かれたら微妙なところだ。アクタージュの凄さ、面白さは、ガラスの仮面を下敷きにしながらきっちり少年漫画に落とし込む上手さ、現代性の取り入れ方だ。演劇なんてジャンプっぽくない題材で、どうやって少年漫画に落とし込むか?という方向性に疑問が行くだろう。しかし、違うのだ。元々のガラスの仮面、このガラスの仮面こそが、極めて少年漫画的で、かつ化け物じみた少女漫画なのだ。
ガラスの仮面において、しばしば主人公マヤの狂気性がクローズアップされる。どれだけ弱めても「狂気」だ。少女漫画はえてして、人間関係のドロドロを誇張含めて描きがちである。ガラスの仮面ファンも、アンチも、なんとなく読んだことがある人も、「こいつはヤバい」と思っただろう有名エピソードとして「泥まんじゅう」がある。ネタバレは出来るだけ避けるが、この狂気性はどうしても伝えたい。ガラスの仮面をこれから読む人でネタバレが気になる人はさよならだ。まあ流石に居ないだろ。
基本的には、マヤは「月影先生や速水の寵愛を受け、美味しいところを持っていく」役柄で、作中でもきちんと周りから指摘され、嫉妬される。なろう系のように「さすマヤ」状態にはならない。それこそ、ほぼ殺人未遂の石(本物)を舞台上で投げつけられたりする。まんじゅうを泥団子にすり替えられたりする。さすがのマヤも手が止まる。だが、「おらぁトキだ!」と、マヤが演じるトキになりきって、泥まんじゅうを満面の笑みで食ってしまうのだ。もはや「さすマヤ」である。あまりにも強烈過ぎる自己否定だ。彼女はマヤではなく、あの瞬間、間違いなくトキだったのだ。マヤは、自らがマヤであること、演技力がある人間であること、紫のバラの人に憧れを抱く人間であることなど、そんなアイデンティティにほとんど執着がないのだ。劇中で自分ではない何かに成った自分こそが彼女のアイデンティティなのだ。物語に没入していなければ「なんだこいつ」だし、没入してても「狂気」だ。「演劇をやりたい」という極めて明確な目標を元に、自分すらも捨て去る。演劇を主体として見ればとても少年漫画的であり、生き様としてみれば少女漫画のエッセンスがこれでもかと濃縮されている。不朽の名作だ。
さて、アクタージュの話だ。主人公の夜凪景は、いわゆる演目になりきる憑依型のアクターだ。まんまマヤである。さらにライバルキャラの百城千代子もほぼ亜弓である。そして主人公を演劇界に引っ張り上げた演出家には、いつかやりたい「幻の演目」……当然ながら「ガラスの仮面」への類似性への指摘されるし、あの名作と比較してどんな差別化をしてくれるのか、と比較される読み方をされていたと思う。ガラスの仮面を読んだことがない人も、ガラスの仮面ファンにも、ちゃんと面白いと思ってもらわなければ連載は続かない。
アクタージュは、必ず「この人はなぜこうなったか」「なぜそれができるか」「なぜそうするか」が描写される。つまり、描写される演技には必ず「アクター個人としての」アイデンティティが関わってくるように描かれている。ガラスの仮面のあまりにも強烈過ぎる自己否定など、微塵もない。この一点こそ、マヤと夜凪の、ガラスの仮面とアクタージュの決定的に違うところだ。ガラスの仮面ファンもニッコリ。
そしてもう一つ大きな違い、「個と組織」の違いだと考えている。ガラスの仮面は圧倒的に「個」だ。読めば分かるが、ガラスの仮面は組織が組織の強みを生かしたシーンが実は少ない。組織の良くない、ドロドロしたところの描写のほうが多いくらいだろう。マヤの理解者である、月影先生も劇団の主催ではあったものの、強烈な周りに理解されない天才、「個」だ。速水さんも明確な「個」である。強烈な個がぶつかり合う様でガラスの仮面は成り立っている。
アクタージュは、組織的なものがちゃんと組織として役割を担っている。それだけだと、ただ主人公とライバルが活躍するだけの漫画かと思ってしまうが、きちんと「組織」が役柄をもっているため、組織の存続に関する視点が本筋に関わっていく。商業的な視点も取り入れながら、きちんと少年漫画をやっている。実に現代的な視点であり、ガラスの仮面リバイバルとしても十分に面白い作品となっている。ガラスの仮面知らない人もニッコリ。
強烈過ぎる自己否定からくる演技への執着、それによって誰にでもなる、なってしまうガラスの「仮面」のマヤ、時には暴走するが、自らのバックボーンを捨てることなくリアルを演出する「アクター」ジュの夜凪。対比として美しいって書いてて思った。
どっちかのファンでもどっちも知らない人でも、片方読めば楽しめるし、両方読めば4倍楽しめる。1+1で2じゃないぞ、2の2乗で4倍だ4倍。読んでくれ、特にガラスの仮面。
コロナの件でフィットネス業界はクラスターが発生して迷惑を掛けた
だからコロナ感染の経緯を把握し業界で細かい指針を出して徹底するようにしている
検温入場、マスク着用強制、レッスンとマシンの間引きや仕切り設置、声だしやハイタッチ禁止、長時間の滞在禁止、ドアと窓の常時解放と換気、消毒液設置と消毒の徹底、混まないよう人数制限、接客のカウンターはビニールで囲い、間隔開けて並ぶようマーキングし、座れないよう椅子は撤去
スタッフはマスクとフェイスガード着用、スタジオのイントラもマスク着用、プールも水中用マスク付けて指導、汗を激しくかくようなレッスンは中止、勿論出勤時の体調管理徹底etc
でも、今経済を回すというのは感染者が紛れても他人に移すリスクを可能な限り減らしてやってきましょって事でしょう
尚且つ利用者には移る危険性を理解して貰った上で、それでも誠意を込めて出来る対策を全部やるというのが最低限の妥協点だと思ってる
勿論再開しないのが一番だけど、それは暴論だ
だからこそ、再開以降今のところなんとかクラスター発生を抑えてる業界の人間からして、患者が居た場合にちゃんと店も公表もしてた業界の人間からして、未だにクラスターを発生させ続け、更には匿名条件にPCR検査受けてる新宿のホスト業界だとか話にならないし
ある意味イントラと似たような立場にある、演劇の、杜撰な対応してクラスター出した劇場と演者の意識の低さには腹立つ
かたや大きい声を出し参加者盛り上げて激しく動くイントラが、息苦しくて見苦しくてもマスクをしてソーシャルディスタンスを保ち、客に苦しくてもマスク外さないで!苦しかったら休んでね!と呼び掛け徹底し、終わった後も客とのコミュニケーション取らずにサヨナラしてるのに
そんな最低限の事すら出来ずに、客の要望のままフェイスガード未使用を放置しソーシャルディスタンスも取らず客を振り払えないからとファンサ、あまつさえ「警備や感染対策など、僕たちなりに努力はしました。でも金ないし~」って…何いってんだこいつは?
客に啓蒙して守らせるのも仕事だし、触れあおうとする客をかわすのもイントラとしての仕事だと叩き込まれてるから、本来それが一番出来なきゃいけないだろう役者が、しかも金すら掛からない部分でも出来る事を全くしてないのに何いってんのとしか思えない
わざわざ断りやすいように出待ち禁止と案内あったそうなのに客が来ちゃうから~と言い訳して触れあうとか問題外
こっちの業界からしたら、それこそファンサありきで客を引きとめて客の金を巻き上げるだけで、その客に対しての上っ面の気遣いだけで本当に払うべきコロナ対策という健康状態への気遣いゼロって、下っぱの演劇界もお水もプロじゃないわ
元増田の書き方のせいかもしれないけど、ボコボコに叩かれてて笑った。一応、移動制限も解除されて自粛期間中じゃないのにね。
同じ舞台オタクだけど、今回のことでチケット取れてた地元でやる某舞台は行かないことにした。
感染予防対策しっかりやります!って高らかに書いてるのに、実はしてませんでしたって観客側からしたら裏切りでしかないよ。何信じていいか、わからない。
新宿シアターモリエールで10月に予定されていた下記公演の延期メールが今届きました
キャストを見ると方向は違えどこれも「虚無」なのか?と思いませんか
私も「虚無」っぽさを感じてたんですよ
映画「ニンジャバットマン」は面白かったけど全キャスト未定で企画ありきでスタートしてる地雷感にゾクゾクしますよね
この公演にはプレミアムチケットというものがありバットマンのペーパーナイフかジョーカーの扇子が選べます
「虚無」の記念品なら安いもんだとプレミアムチケットを買ってみたわけですが「虚無」自慢する場も無いんですけどね
一応中止ではなく延期(未定)とのことなので「楽しみ」にして待ちますがそもそもシアターモリエールのような狭い空間でニンジャバットマンをどうやるんだと
もともと分断していたものが可視化されただけな感じだけど、コロナがきっかけで自分と分かり合えない人たちが多いと思うようになった
特に印象的だったのがクレベリンの件。はてなでは似非科学認定されているが未だに騙される人が多く、製品は売れまくりメーカーは最高益である。彼らに消費者庁の声や第三者の検証結果は届かない
逆に自分とブクマカとの距離を感じた部分は演劇の件だ。たまに芝居を見に行くので何か話そうかと思ったが、そもそも演劇界いけすかなかったとか、文化としておかしいとかのコメントを見てると対話を諦めてしまった。多数の反対者と話すのはしんどいのだ
昨日はテラスハウスの件で悲しい話があった。番組の存続は不明だが、人はなかなか変わらないので同じようなことが繰り返し続いていくのだろう
こんな感じだなと何となく見ていて思ったので。
例の演劇屋の他の職業を見下した発言の一件、どんどん不毛な方向に進んでいるよね。
当初は発言に対しての問題点の指摘であったはずが、今じゃ民主ガーだのネトウヨガーだの互いに尻尾をだして双方叩きだしているのだから、笑うに笑えないよね。
これ普通に口実や建前や盾として使われている政治的思想等とは無関係の演劇界隈の人達やオタク界隈の人達こそが一番迷惑してるんじゃ?
しかし女性の権利を盾にして横暴をやらかすフェミニストと言い、何かを盾にして、主張する連中ほど一番性質の悪いものはないよね。
新型コロナがどうのではなく、本来ある問題に向き合わずに話してしまうとそこを突かれてしまう。
守るべき文化だと言いながら、コロナ以前から大きな問題を抱えていることが発覚し、それに対処すらしてなかった大御所がたくさん釣れて楽しいみたいな路線を辿りつつあるな。
https://font-da.hatenablog.jp/entry/2020/05/10/101519
なんで演劇界隈のおぼっちゃん、お嬢ちゃん連中はレブロン・ジェームズを無視するのだろう
シーズン再開となった場合、レブロンは無観客で行われるという現状について「ファンがいない中でスポーツと呼べるのか? (無観客だったら)そこに興奮はないし、泣いたり叫んだりすることもない。それに歓喜すらないし、(フロアを)あちこち回ることもない」と言及。
レブロンは「俺は見に来てくれるファンのためにプレーしている。ファンがいないならプレーしない」と発言した経緯があり、昨年12月に『The Los Angeles Times』へ掲載された記事の中では「残りのキャリアで、俺にはどれだけ多くの試合が残されているか分からない。その中で、どれだけたくさんの子どもたちが俺の試合を見に来てくれるか分からないからね。もし彼らが見に来てくれたのに、俺が(試合に出ずに)ベンチで座っていたらどう思う? (ゲームに出て)プレーすることが俺の義務なんだ」と口にしていた。
https://basketballking.jp/news/world/nba/20200327/221737.html
平田氏の感覚が世間一般とズレていることと、ネット大衆に演劇界隈への敵対心があることが、炎上の根底にある。
ではなぜ平田氏は「大衆」に向けて「大衆」に支持される言葉を発することができないのだろうか。
映画のような複製芸術においては、作品の評価に関して大衆からの牽制を受ける。
どれだけ批評家が高尚な文章で讃えた作品であっても、大衆からの支持が全く得られない作品は、市場から消える。
市場から消えると、批評家も言及しづらくなる。そして、その作品は忘れられてゆく。
別に大ヒットになる必要はないが、DVDが販売され続ける程度、あるいは配信され続ける程度の大衆からの支持は、作品が残るためには必須なのだ。
これは小説においても同様で、全く売れない作品は市場から消えて忘れられてゆく。
今、名画とされている絵画作品も、多くの人びとを感動させたから名画とされているのではない。
名画とされているから、多くの人びとが感動しているのだ。
何を名画とするか、それを決定しているのは、美術のごく狭いサークルの人たちだ。
そのサークルの実態は時代と共に変わるが、昔は王侯貴族であったり、現在ならコレクターと美術批評家だ。
世界の現代美術でも数百人もいないごく少数のプレイヤー(コレクター)が美術作品の値段を決めている。
小さなサークルのなかで価値を認められたモノが、美術館に飾られ大衆もそれに感動しているわけだ。
大衆からの支持なんて全く必要ないし、大衆からの牽制も受けない。
狭いサークルのなかでさえ認められたなら、それは歴史に名前の残る作家・作品になるのだ。
観客も演劇ムラの人たちがどうしても多くなるし、そういうムラ内での評価が作品の価値を決めていく。
だから、演劇人も大衆に向けて言葉を発する機会よりもムラ内に向けて発言することがメインになる。
またネットユーザーの少なくない数が演劇界隈を敵視しているのも、演劇を見る機会がないからだろう。
(ジャニーズやディズニーの不祥事には擁護厨が湧くが、演劇の場合、それが少ない。演劇を見ている人が少ないからだ)
演劇人はメディアでの発言権だけはあるので、ふだん演劇と関わりのない人たちからは「なぜあいつらだけ特別なのか」という気持ちが出てくる。
炎上であっても注目されて承認欲求が満たされるのが癖になっているのでは。
演劇界隈は基本的に自己愛の塊みたいな人間しかいないし理解を求めるよりも炎上するようなことを言って注目されるのを自然と優先してしまうのではないか。
しかし件の演劇屋の製造業等の他の職業を見下した発言からの騒動、ある意味予想通りとは言え、収集つかなくなってきているよね。
確かに製造はおろか飲食や観光やイベント業やスポーツ等々も困っている中ああ言う事を言われたら腹も立つけど、案の定、一部の政治系やら一部のオタク方面の方々やらが粘着しすぎたせいで、演劇界隈の方が漫画だのアニメだのオタクだのを敵視しだした。
それで(ヨ)界隈の連中もいつもながら浅はかな考えで考えなしのツイートをして、その自滅とやらにわざわざ巻き込まれに行っている点も色々な意味で業が深いなと思う。
こう言うのは一言二言嫌味を言った後、ほっときゃ良いのにねといつもながら思う。
粘着しすぎるとこの手のは大概碌な事にならないので、放置が最適解と言えるし、今回も予想通り碌でもない方向に進むだろうなと見ていて思う。
自身の所属している界隈がその事例に抵抗しないと余程ヤバい事態に繋がるとかにならない限り、界隈が直接関係しない事例については触れないのが一番。
それと何も今回のコロナ騒動で困っているのは演劇屋だけではないし、漫画家やアニメーターだけではないよ。
しかしいつもながらどの界隈でも右左どちらでも政治思想が偏っている人ほど攻撃的であり、色んな意味でミイラ取りがミイラになりたい人が多いのだなと実感させられるよね。
フェミニストの岡村問題と言い、わざわざ自身すらも燃やしたがる人が多いように思う。
無駄に敵を作りたがると言うか何というかね…。
今は気が抜けだして中だるみし始めたけど、あくまで今は平時でなく緊急時なのだから、今のやらかしについては致命傷をも招く事になるよ。
演劇界の窮状はわかるが下手な比喩で別の業界に例えようとして滑ってるだけと言えばそうなのだが、下手な比喩は比喩なりに発言者の考えを読み解く鍵になりえるものだ
「さらに、照明、音響のスタッフなどフリーランスの方たちの収入が極端に減っており、ここが一番、たいへんになっています。
世界中に、漫画を読むと感染するウイルスが発生したと思ってください。漫画家さんは過去の印税でしばらくはしのげるかもしれませんが、アシスタントさんは全員、解雇ですよね。」
とのことであるが、荒唐無稽な前提から漫画業界への例えは確かにアクロバットで何言ってんだこいつというのが第一印象だ
まず、漫画家は貯えがあるがアシスタントにはないことを当然のこととして語っているということだ
漫画家もアシスタントも漫画が描けない状況になればどちらも収入は著しく減少することだろう
その状況でも漫画家には貯えがあるからしばらくしのげるが、アシスタントはそうではない、と対比されているのだから
アシスタントには貯えがないからしのげない、と平田氏は言っているのだと解釈すべきだろう
実際の漫画業界がどういう収益配分になっているかは俺にもわからない
漫画家のアシスタントとは下積みでギリギリ生活できるだけの食い扶持をもらって貯蓄する余裕がないものなのかもしれないし、そうでないかもしれない
極端なことを言えば実際のところはどうでもいい、問題になるのは平田氏にとってこの例えが演劇界の比喩足りえるものだという点だ
漫画家に相当するのは監督、演出家、主演俳優といったところだろうか
すると演劇業界においては「監督、演出家、主演俳優は過去の貯えでしのげるが、音響や照明は貯えがないのでしのげない」ということだろうか
たしかに演劇関係は下積み時代は稽古の合間に複数バイトの掛け持ちで苦労するなんて話はよく耳にするしお金にはならないものなのだろう
音響や照明の裏方にしても十分な給料が支払われているかと言えばそうではないのだろう
一方で売れっ子にさえなれば一攫千金というのが芸能というものなのだろう
実際の演劇業界の収益配分も俺にはわからない、しかしこれに近い状況がなければあの比喩は出てこないのではないか
一部の上位者が収益の大部分をかすめ取り、大半の下位の者は食うや食わずでやり繰りするというのは様々な業界にありうるものだろう
しかしその構造上の問題を放置しておきながら上位者たるものが「うちの業界の下っ端が困っているから援助してくれ」はいささか都合がよすぎるのじゃないかという気もするのである