はてなキーワード: 活版印刷とは
調子に乗っていたら、
とにかく大量の伝票を
私のやってることは仮想空間で、
これ今のタンポポだっけ?菊だっけ?って
怯えながら最初の一歩を踏み出すわけよ。
信じることにしたの。
それが一番大事!って言ってたわ。
実際ミカン倉庫の出荷からそのような商品はないというクレームが来ない限り、
私の伝票発行は間違っていないはずだから、
後は野となれ大和撫子というわけよ。
なんだか一丁前に
世の中の物流のな!って語り出したい気分だけど、
そう言う人に限って特に何もして無くて、
伝票発行機の端末の前で右から左へと
CSVを流しては出し流しては出しって感じの
覚えた手の人でも初めての人でもできる簡単なお仕事ですって感じすら漂い
私は猫ちゃんがいたら良いなって思うの。
きっと猫の手も借りたいところと言いつつ、
とりあえずね、
とりあえず午前中よく頑張ってくれたからって
手のひらに銀貨を3枚頂いたの、
実際は2枚だったけど、
帰りに銀貨1枚残るので
それで牛乳を買うの!ってそれ銀河鉄道の夜のジョバンニ!ってツッコみたくなるほどだったわ。
いいとしましょう。
でももうこんな感じで
とてもどの面下げておはようございます!と元気だけはあるようなふいんきで、
って変換出来ないふいんきを残しつつ、
って、だからそれは銀河鉄道の夜のジョバンニ!ってツッコんでもいいんだかんね!
うふふ。
昼ご飯を食べた後に言うのもなんなんだけど、
あと牛乳とヒーコーと。
カルのシウムは摂取した方がいいって言うし、
そのビッグウェーブに乗っかってるだけよ。
昨晩から漬け込んでおいた、
漬け込むというとお漬物みたいに聞こえるけど、
これは漬物じゃなくて
デトックスウォーターよ!って言い聞かせてモーツアルトの曲を掛けてビニルハウスで育てた苺とはまた違う感じに思ってくれるかもしれないってね。
すいすいすいようび~
今日も頑張りましょう!
先日、職場で「電子書籍で本を読んでるんですか、そんなの真の本好きじゃないですよ」と言われ、「いやお前は私の何がわかるんじゃ」とイラッとしてしてしまった。
別に読書が趣味じゃない人も「カーボン素材のロードバイクを持ってないなんて真のサイクリストじゃない」「テレビじゃなくてアマプラで視聴しているのは真のアニメオタクではない」と言われたら不愉快だろうといえばわかってもらえるだろうか
他者の趣味を「真」「真じゃない」と判定することにマウント以外の何の意味があるのかと反駁してみようかと思ったが、書籍の物理的な形でそれを区分することに興味を持った。
活版印刷が出始めたときも「手でひとつひとつ作った写本が家にないなんて真の本好きじゃない」という人はいたんだろうか。
私は小説ばっかり読んでいるのでそういう意味で「自然科学まで網羅してないと真の本好きじゃない」といわれるならばわかるのだが。
現実で本に押しつぶされて死んだ大卒女性が5歳平民女児マインに異世界転生する話。
マインは本が好きという設定で、異世界に来て一番に本を読みたがるも本はない。活版印刷以前なので本はすべて写本、貴族が所有するようなもので買うとしたらかなり高価。彼女は自分で本を作る決意を始めるのであった。
というのが序盤。
彼女は本づくりのついでに生活向上のためにリンスインシャンプーを作ったりおからケーキを焼いたりして周囲を驚かせながら生活するが、生まれつき体が弱いのでなかなかうまくいかない。周囲の善意によって彼女は大変守られる。
やがて彼女のものづくりが商人の目に留まり起業したり、本目当てに神殿の巫女になったりと本を作るうちに身分がどんどんステップアップして視野が広くなる話でもある。
主人公マインは家族を大切にする性格で、終盤それが生きてくるのだが大変小説らしい技巧が凝らされていてその部分を何度も読み返してしまう。「記憶その3」は何度も読み返しちゃうね。
初期の設定を投げないで、多くのキャラクターを書き分けて、ちゃんとプロットのある。
年月があって、季節が巡り、マインは明確に成長する。
私はなろう小説は苦手で片手に満たないほどしか読んでいないが、とてもきちんとしている。
が、気に入らなかったところもある。
・マインの本好き設定が「本を作る」の動機設定に用いられているが、具体的にどういう本を読んでたという描写がないので本当に本好きに思えない。
・マインの発明品はだいたいオカンの手作り趣味の影響というのがしんどい。本を読んでた意味は?
・発明の命名センスがしんどい。でも1章だけ我慢すれば大丈夫。
・平坦な描写が続くのでどこが盛り上がりなのかいまいちわからない。
・主人公は初登場時5歳だが、中身が大卒日本人女性なのであまり幼女らしくないのはいいとして、周囲の兄弟や近所の子供もあまり子供らしくない。「こども」という概念が生まれたのは近世以降だというし、子供時代を否定されるほど厳しい世界なのかもしれない。それがわかる目立つエピソードがないのでしんどい。
著者の好きな本は何だろう。『毒見師イレーナ』とか、「流血女神伝」シリーズ、「デルフィニア戦記」シリーズは読んだことあるかな……。
うちの母方のババァがな、晩飯のたびに「子供の時に大根飯食ってた時はスマートフォンなんて想像もできんかったわ」みてーな話しすんのよ。
いやほんまこの老婆はいつも同じ話ししてよく飽きねーなとつくづく感心するんだがよ、でもまあオレ個人から見てもガキの頃とだいぶ生活変わってきてんなとは思うのよ。
そうするとさ『もしやウチらの世代こそ人類で最も技術革新が激しく起こっているのでは?』とか勘違いしそうになるんだ。
でもそんなことはねえよなあ。
人類史がどんだけの長さあるのかって考えれば、きっともっとすげー勢いで世の中が変わっていくのを味わった世代がどっかにあるはずなんだよ。
でもオレには思いつかんわー。
オレ歴女じゃねーし理系だから人類の歴史ーとか言われてもFGOで漠然と知ってる程度だからよー。
どうなんだろうなーどの世代が一番派手に技術革新したんだろうなー。
たとえば、活版印刷とか始まった時ちょうすげーってなったんだろうけど、でも奴隷に手で写させればよくねってなりそうだからそりゃそれで大きく生活変わって無さそうじゃん。
鉄道出来たちょうすげーでも馬でよくねー、みてーな?
まあそれ言ったらスマホだって電話でよくねポケベルでよくねの世界なんだけどさの世界だ。
実際どこなんだろうなー。
案外、火を見つけた原始人とかが一番世界の変化感じてたんじゃねーかなー
かつてグーテンベルクの活版印刷技術で、科学、思想、宗教が世界に均質に広まることとなった。
素晴らしいことである。そのおかけで、家庭の壁一面に並ぶ大きくて重い百科事典とにらめっこしたり、
図書館に出向いて書架の間を歩きまわったり、知識を得るためには、そんな肉体的運動も必要であった。
現代のネット時代は、実は、それ以上に劇的な変化がもたらされた。
世界中の、最先端の、多くの情報が小さな画面に集約されるようになった。
ポチポチと指先を動かすだけで、誰もが情報の海から情報が安泰と入手できる。
さらに、情報発信も軽々とできる。多くの情報はゴミクズなんだけど。
日記サイトもゴミクズなんだけど、100年後には当時の日常生活が見られるわけで、
資料として一級の価値を持ったりするかもしれない。というわけで、このサイトの意義は
素晴らしい物があるわけです。ヨイショ。
しかし、個別的に見てみると、ネットは自己洗脳を加速させる面を持っている。これ、イクナイ傾向。
色々な情報があるのに、それを比較考量せず無意識のうちに自分の知りたい情報だけを
見つけ出してきて、知りたくない情報は詳しく検討することはしない。
また、自分の考えを開陳してはひたすら肯定してくれる人達を探して群れてるだけ。
仲間内で自家中毒。これはもう見てられない。本人たちは自分正義を貫いている、偉いだろ、えっへん状態。
末期症状だよ。
グラフィックデザインの文脈でよく語られるデザイン史は、バウハウスから始まって、グーテンベルクの活版印刷、雑誌時代のエディトリアルデザイン、広告コミュニケーション、テクノロジーとの融合というものだ。また別軸で、グラフィックデザイナーの職能として、工業化社会における機械製品の美学的側面を整えるという歴史があった。まさにテクノロジーの隆盛と歩んできたデザインである。生活を便利にする機械製品(電話や洗濯機など)は生まれ、パーソナルコンピューターは普及した。そして、グラフィックデザインをするためのツールや思想は世の中に溢れ、誰でもグラフィックデザインの勉強ができ、誰でもデザインを作れ、誰でもそういう成果物に対して口出しできるようになった。
いつからか、総合的な計画であるはずのデザイン行為の中から「美学的側面」のみが取り出されて、それに対しての褒賞制度が整えられたのだ。日本で言えば、たとえばJAGDAの褒賞制度。特にグラフィックデザイン業界におけるそれら褒賞制度は、そのほとんどが美学的側面の評価しかしていないので、それがビジネスを支えるツールとして、実際的に機能的であるかどうか定量的に計測されていないだろうし、主催者も応募者もそういう側面でしか見てなくて、内輪で楽しく賞を送り合っている構図がよく想像される。その外に居る人がどれだけ社会に対してインパクトのある仕事(例えば新しいムーブメントを起こしたり、技術や生活基盤を進歩させたりなど)をしても評価はされないのだ。格好良くないという一言で、彼らのコミュニティから排除される。いつまでもはびこる師弟制度、ごますりが必要なコミュニティ入会の現状。
デザイナーではない人はそもそも「上位の概念としてのデザイン」に対するリテラシーがないので、デザイン=格好良くてお洒落な見た目をつくること、という短絡的な思考でしかデザインを評価できない。つまり、受賞した人間はいいものを作っていると。しかし褒賞制度がそもそも歪んでいるので、受賞者がビジネスや社会のライフサイクル的な側面に目を向けられる人間かどうかという評価の視点が抜け落ちてしまっている。僕はこういったデザイナー達を「グラフィックアーティスト」と呼んでいる。決して「デザイナー」ではない。
本来的にビジネスと協調すべきデザイン活動が、それを無視した褒賞制度によって、奇抜なことをするデザイナーこそ優秀であるという歪んだ理解が社会に溢れてしまった。そういうデザイナーたちがつくり上げるものには、機能的側面が欠落してしまうことが多いと思う。デザインの機能的側面が考慮されないデザインは、はたしてデザインと呼べるのか。社会をより進歩させ得る力があるのだろうか。
また別の観点では、現在多くの美術教育の現場にも問題があると思う。教育者自体が、旧来的なグラフィックデザインの文脈で育っているので、そのような視点でしかデザインを捉えておらず、結果的に美学的側面を整えることに教育の主眼が置かれてしまっている。デザインという手法が社会のコミュニケーションを活性化させ、より良い文化システムを構築し、ビジネスにおける利潤獲得のための手法であることが教育されていない。そうして、再び無能なグラフィックアーティストが量産されてゆくのだ。若いデザイナーの元で育ったほうが、明らかに的を射た考え方を獲得できるとおもう。
ここ数年、自分の生業であるグラフィックデザインはそろそろ終わるんじゃないかなと思ってる。コミュニティの思考が高齢化しているし、かと言って新しい考え方を積極的に取り込んで体質の健全化に取り組もうとしない。デザインをもっと価値のあるものにするためのデザイン領域を俺は見つけたからいいんだけど、変化せず進歩のないコミュニティに未来はないとだけは言っておきたい。
美しくあることは大事だと思う。美しいことは心を豊かにしてくれる。しかし、それ以外のもっと大事なことにも一緒に目を向けてほしいと思うのだ。