はてなキーワード: 洋服とは
中卒の戯言だと思って見てくれ。
転職してから野生動物や環境に携わる研究者や関係機関の人のアテンドや、宿の手配等をするようになった。雑用だ。
一緒にいる時間が長いので色々話すが、難しいことはよくわからない。
研究者や難しい名前の機関の人達は平和で穏やかな人なんだろうと思っていたが、彼らも彼らの中で派閥、縄張り?、バイブスの違いがあって、それは自分が中高校生の時に他校との縄張り争いや、暴走族にいた時の争いと変わらないのではと思った。外側は違うが、中は一緒じゃんと思った。
そう思ったのでじーさんに似ている研究者にそれを話して「人が考えるのをやめない限り争いは無くならいのでは?」と聞いたら笑ってた。
家に帰った後、部屋にある洗剤とか洋服とか、きっとそういうのにも研究者とか難しい名前の機関の人達が関わっていて、きっとそこでも争いがあるんだろうと考えた。
本当に。人が考えることと行動することをやめない限り、争いは無くならないのでは。
まぁそんなこと頭が良い奴皆わかってるのかな。
最近買い物行ってはへとへとになっていることが多くてわりと買い物自体しんどくなってきてしまっている
食べ物は
これ美味しそう!食べたいな
↓
↓
そもそも、油っこいor甘いものは身体にも良くない、買うべきじゃない
↓
安くて手っ取り早く腹が膨れそうであんまり味しないやつにするか
↓
こんなまずそうなやつに金出したくねえな…
↓
でも高いものばっかり買ってたら金足りなくなるんだから仕方ないじゃん…
↓
みたいなことをずっとやってる
服も同じで、
これいいな
↓
この歳にもなってこんな服着てめかし込んでどうするんだよ
↓
↓
じゃあそこらのユニ○ロかG○とか…
↓
↓
…と、やっぱり同じことになる
結果的には何かは買うんだけど、何買っても不正解な気がして「また無駄金使って…」「こんなもんお前にいらないだろ」みたいな感じでしんどくなる
浜辺を練り歩く男がいた。その名は浦島太郎。
しかし今日の浜辺は様子がおかしい。浜辺の一部から客が逃げているようだった。
浦島は一人の客を捕まえて理由を尋ねる。
「早く逃げろ怪物だ!」
怪物?何を言ってるんだ。そう思った浦島は遊泳客の進言を無視して、彼らが逃げてきた方向に進んでいった。
浦島が進むとそこには、対抗2メートとるはあろうかと言う巨大な亀の怪物がいた。
その異様な光景に我を忘れていた浦島だったが、ハッとすると、遊泳客たちを避難させ始めた。
「こっちに逃げてください!」
人々は言うことを聞かず、見物人のように棒立ちになっているだけだった。
浦島が困っていると、今度は空に大きな火の玉が現れた。そしてそれはだんだんこちらに向かってくるではないか! 浦島は大声で叫ぶ。
「こっちです!」
すると皆慌てて逃げ始めてくれた。
大きな体を持つ怪物に対し、浦島の攻撃は全く効いていないように思える。だがそんな時、浦島にはある作戦があったのだ。
今の浦島の状態は海パン一丁である。つまり上半身裸なのだ。そのため浦島の必殺技を使うことが出来るかもしれないと思ったのだ。
「くらえ必殺!竜宮城破り!!」
その言葉と共に浦島は砂浜で飛び上がり、両手を振り上げ、手刀を作りながら空中へ舞った。
そのまま勢いよく落ちてくる。
生身の人間から繰り出されたとは思えない強烈な衝撃を放つと、怪物の首元に手刀を打ち込んだ。
見事首を切り落とすことに成功したようだ。
しばらくすると体が消えていき、後には美しい女性が横たわっていた。彼女は息をしているようだ。
「大丈夫ですか?」
「はい……」
浦島は彼女を抱き抱え、友人が経営している海の家に運ぶことにした。
数分後彼女が目を覚ました。
「ここはどこなのでしょうか」
「ここは海の家ですよ。海岸で倒れていたので連れてきちゃいました」
「ありがとうございます。私は乙姫と言います。あなた様のお名前はなんとおっしゃるんですか?」
「俺は浦島太郎って言います。それでさっきのことなんだけど……」
浦島は先程の出来事について話し始めた。
「まぁ!私を助けてくださり本当にありがとうございました!お礼と言っては何なのですが、なんでも一つだけ願い事を叶えましょう!」
願えることならこのままずっとここに居たい……。でもきっとみんな心配してるだろうしな。そうだ……
「それじゃあ俺を元の世界に戻してくれませんか?」
何を隠そうこの男、浦島太郎は実は異世界人であったのだ。その能力は装備が貧弱であればあるほど強くなるという強烈な特殊能力である。
その力を生かすために普段から裸に近い状態で生活することにある、ライフセーバーの職に就くことは、運命づけられていたのかもしれなかった。
浦島はこの世界に来て馴染むように頑張ってはいたが、やはり望郷の念は拭えないのであった。
一方乙姫も驚いたような顔をする。
「そうだったんですね。分かりました。ではあなたを元いた場所に送り届けることにしましょう。私の鱗をお持ちください。それが通行証になります」
「いいのか?こんな貴重なもの貰っちゃっても」
乙姫は懐からギターのピックのようなキラキラと光る破片を取り出すと、浦島に渡した。
「はい、この鱗を使えばあなたの故郷に帰ることができますよ。また会えたらその時はゆっくりと話しをしましょう。いつでも歓迎しますよ」
浜辺に戻ると遊泳客たちは既におらず、友人の幸太郎が出迎えてくれた。
「遅いぞ浦島、何やってたんや!」
浦島が元の世界でのことを少し話すと、幸太郎は納得してくれたようだ。
「ああ、だから俺はもう帰らなくちゃならない、今まで世話になったな!」
「おう!こっちこそ助かったわ!元気でな!」
こうして浦島は元の世界に戻ることになった。
竜の鱗を握りしめ念じるとそこから大量の光が溢れ出し、視界が見えなくなった。
そして数秒後再び目を開けると、そこは見慣れぬ地獄であった。
空は暗雲に遮られ、地面は赤黒く染まっている。
目の前には化け物どもが跋扈していた。
突然のことに呆然としている浦島であったが、ハッとすると、すぐに浜辺へ向かって走り出した。
だが途中で足を止めてしまった。
「うそだろ……」
浦島がたどり着いた時には、浜辺は血に染まりきっていたのだ。
浦島が呼びかけても返事はない。
だが、まだ希望はある。
すると鱗は輝きだし、浦島の体を包み込む。そして彼の体は変化していった。
先程以上にどんどん筋肉が発達していく、人間の限界を越えた圧倒的な肉体美を誇るものとなった。
しかし、彼はそれを気に留めることなく、海パン一丁で化け物共に立ち向かっていく。
その勢いのまま、あっという間に辺りの敵をなぎ倒してしまった。
その後も浦島は敵を倒しながら進んで行った。途中何度も窮地に陥ったが、その度に海パンの防御力が上昇し、乗り越えてきた。
しばらく進むと、大きな城が見えた。どうやらそこが敵の本丸らしい。
浦島が門の前に立つと、声が聞こえてくる。
「そうか、我に喧嘩を売りに来たということか。ならば相手をしてやろう。出てこい!百鬼夜行!!」
すると、城の上空から数え切れないほどの妖怪たちが降ってきた。
「これなら勝てるはずだ!くらえ必殺!竜宮城破り!」
浦島は全力の手刀を放った。
すると、妖怪たちの首が次々と落ちていき、瞬く間に全滅させることができたようだ。
「ばかな!この俺が負けるだと!?ありえない!ありえん!許さんぞぉおお!!!」
「これで終わりだぁあああ!」
浦島は渾身の力を込めて、男に拳を叩き込んだ。
男はグシャリという音とともに地面に叩きつけられ動かなくなる。
決着がついた。
「俺の勝ちみたいだな」
浦島はそういうと、玉手箱の持っていた宝を手に取った。
その瞬間眩い光に包まれ、視界は真っ白になっていった。
次に浦島が目を覚ました時、そこは病室であった。
「ここはどこなんだ?」
「病院よ、あんたが浜辺で倒れてたのを友達の人が見つけてくれたの」
「そうだったのか……」
「でも良かったわ!目が覚めて」
「ああ、心配かけたな」
浦島の目の前にいるのは、この世界での最愛の人。そしてこの世界でも唯一の家族である母、沙羅であった。
そしてこの日、浦島は決意した。
完
若い頃は大好きだったデパート巡りも、90代になってからは、買う物や欲しい物もなくなり、とんとしなくなった。
ある日、よんどころない用事ができて、福岡・天神のデパートに1人で出かけた。久しぶりのデパートは華やかで、自分がお上りさんに思える。早々に用事を済ませ、せっかく来たのだから目の保養にと店内を回っていたら、すてきな洋服が目についた。しばらく眺めていると店員に「試着してご覧になりませんか」と言われ、こんなチャンスはめったにないと、試着室に入った。
着替えて姿見に映った私は、ドレスアップのせいか少々美人に見える。私の心がささやいた。「思い切って買いなさいよ。少々高価だけど、今日まで50年前のブラウスや、もらったセーターなどを着ていたんだもの、奮発したら」
もう1人の私が今度はささやく。「買っても着る晴れの場所はあるの? 残念ながら彼岸が近いのよ。形見にしてもありがたがる子もいないし、宝の持ち腐れになるだけよ」。なるほどね。
結局どちらにしたのでしょう。ふふふふ。ご想像にお任せしましょう。
後藤 俊子
無職 98歳
ある日曜日の朝、たかしが朝食のテーブルについた時のことです。
たかしは、お母さんのお皿の横に一枚の紙を置きました。
たかしの置いた紙は次のような内容でした。
お母さんへのせいきゅう書
お使い代 100円
おそうじ代 200円
おるす番代 200円
合計 500円
読み終わった後、お母さんはにっこり笑ってたかしを見ました。
お昼の食事の時になって、お母さんはたかしのお皿の脇に500円を置きました。
たかしはそれを見て、上手くいった!と嬉しくなりました。
その紙には次のように書かれていました。
たかしさんへのせいきゅう書
親切にしてあげた代 0円
病気をした時のかんびょう代 0円
合計 0円
一回、二回…。たかしは何度も繰り返し読みました。
たかしの目には次第に涙があふれてきました。
(おわり)
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https://ten.tokyo-shoseki.co.jp/text/shou_current/doutoku/files/31_tsunagaru_pr.pdf
どうやって知ったか覚えていないが、インターネットを徘徊するのが好きだったので、もしかしたらこの匿名ダイアリーをきっかけに知ったのかもしれない。
過去の遍歴が興味深いと言ってくださる友人がいたので、久しぶりに投稿してみる。先に言っておくがオチはない。
当時の私は親のDVやモラハラに苦しめられ、学校ではいじめられて孤立。
今ならTikTokでDVやいじめの証拠を上げたら味方になってくれる人が沢山いただろうが、当時はTwitterに画像や動画を載せる公式機能がない時代だった。
今も昔も、相も変わらず悲劇のヒロインだ。
親ガチャは中の下だと思う。
小さい頃から家ではひっくり返った家具が散乱し、壁やドアには穴が空いていた。この惨状を掃除をすると怒られるため、割れたガラスの上を歩いていた。
夜明けまで怒鳴り声が聞こえ、家は度々揺れた。何かが壊れる音は日常茶飯事だったが、そのおかげで電話の着信音や車のクラクションで頭が真っ白になるようになった。
DV被害者の専業主婦の母には、離婚してほしいことや転校したいことを懇願したが、「この家に生まれたからには人生を諦めなさい」と言われ、私は事あるごとに諦めるのが習慣となった。
進路も親の意向が厳しく、父はコミュニケーションも適切にとれない人間だったから、自分が希望する大学の出願書はビリビリに破られた。
質問サイトに経緯を綴って相談したら「学費を払ってもらえるなら我慢して言うことを聞くべき」と言われた。
過保護に育てられた世間知らずな自分が家出をしてお金を稼ぐ勇気もなく、結果的にはその通りの道を歩んだ。
高校ではいじめっ子に盗撮されてネットに悪口付きで晒されるなどの被害を受けたため、受験シーズンでも授業は図書館、カウンセラー室、校長室でサボっていた。
お昼はもちろん便所飯。(便所飯の存在を否定するコメントを目にすると胸が痛くなる)
学校の先生に強制的に診療所に連行されたことがある。その時お医者さんに「一時的な悲しみですね」と言われた。
これが私の最初の診断だった。自分は病気ではなく、これは一般的な苦しみなんだと解釈して絶望した。
それでも、できることは全部したつもりだ。
命の電話に相談、学校の先生に相談、心療内科・精神科に通院。医者が合わなければ他を探し、いろんな薬を試し、カウンセラーも何名かとお話した。
結局のところどれも解決には至らなかった。
それどころか、大学時代には死ぬと思われたのか、とあるカウンセラーには警察に通報されて逮捕されたことがある。それ以来、カウンセラーは一切信用しなくなった。
皆が寝ているであろう深夜に警察に部屋を侵入され、「動くな」と拳銃を所持した警官に言われた。「寮の鍵や財布を持っていって良いですか」と聞いたら「ダメだ、お前はもうここには帰らない」と言われた。
パトカーの光が暗闇で飛び交う中、カウンセラーと寮長が遠くからこちらを見ていた。意味が分からなかった。
牢屋のような個室で凍えながら数時間放置され、検査が終わったら「特に問題ありませんね」と夜明けに病院から追い出された。
面白いことにどう帰宅したか全く覚えていないのだが、気がついたら寮の前にいた。おそらく警察が車で送ってくれたたのだろう。ドアをノックしたら寮長が気づいてくれて鍵は再発行してもらった。
DVといじめの経験があると、友達の作り方が尚更分からず、大学時代は声を発する機会がほとんどなかった。この地獄が終われば親の呪縛から解放されると思った。
親の夢を一通り叶えた時に私は束縛から少し解放された。だがしかし、親の敷いたレールから外れようとした時に精神的な暴力を受けていた人間は、解放されたとて自発的な意欲や判断能力が蘇ることはもうないのだ。
もう遅かったのだ。
当然の如く就活は失敗し、実家でニートをしていた。それでも自分のペースで努力はした。
重い腰を上げて心療内科に通い、ひきこもりの集会に参加し、会話の練習をした。
死ぬ前にもう一度だけ頑張ってみようと思い、ハロワで就職支援を受けた。中小企業になんとか採用してもらえることになった。
中途入社の社員が一ヶ月で退職することが珍しくなく、3年で社員がほぼ全員入れ替わるような会社だった。同僚が突然音信不通のまま出勤しなくなったり、新卒が鬱病で休職したのちに退職した。
転職にも挑戦してなんとか成功したのだが、入社して半年で部署の上司が全員退職した。
会社のシステムがボロボロなことに気づき、どうにか変えられないかと偉い人に提案を試みたものの、最終的には「お前は前の上司に洗脳されている。俺には弁護士がいる。過去に社員を訴えようと思ったことがある。口コミサイトにたとえ事実だけ書いても被害は発生するから損害賠償を請求する。」と脅された。(本人は誹謗中傷や脅迫の自覚は一切ないようだった。)
仕事に向いていないことに気づいたので定職についている時に婚活にも勤しんだ。
大学院卒で大企業勤務、趣味も同じという人と奇跡的に出会ったが、交際後に相手が少しモラハラ気質であることが発覚した。
身だしなみに興味がない相手に鼻毛や眉毛を整える提案(よければ私がやる)、美容院の選定、洋服のコーデを一緒に選び、「興味がなければ私が払う!」と言ってみたものの彼は嫌がった。その否定の仕方はどれも心無いものだった。
他にもエピソードは沢山あるが、頑なに別れの相談に応じなかったところでブロックした。
ここで、最低限の清潔感もない男性は外見や内面をアップデートする努力を拒否する可能性が高い種族だと学んだ。(一緒くたにするのは良くないが、個人的にはもうこりごり)
その後、またニートに戻ったのが今。
運や環境が悪かったのもあるし、会社や人を見極めるのが下手な自分も悪かった。努力の方向が間違っていると指摘する人もいるだろう。
10年前もある種無敵な人だった。死にたかったし、誰かを巻き添えにしたって構わなかった。友人がなんとかできた今でさえ薄らそう思う。
でもどうすれば救いがあったのか?
今でも疑問に思う。
当時、子供なら誰か助けてくれると思っていたが、実際には学校もカウンセラーも命の電話もできることに限界があった。
若い女性は男性より支援を受けやすい聞くが、あまり性差はなかったように思う。(特権に気づいていないだけかもしれないが)
お前がブサイクなだけだからでは?と思うかもしれないが、ファッションやメイクの流行を追うのは好きだし、軽い美容整形にも投資しているので、表向きはむしろ幸せそうな人間に見えていると思う。
なら風俗やキャバクラで頑張ればいいじゃんと言われるが、TikTokでキャバ嬢、メンエス嬢、風俗嬢の日常を見る限り、彼女らはとてつもない努力と精神力で今の地位を得ている。
どれもリスクが高い仕事だし、メンタルが弱く話術がない自分には不向きだ。
こんなパッと見普通の女性の苦労話をもっと可視化して発信すれば、幸せそうな女性に対する偏見が少し収まるのかなとも思うが、嘘松認定されたらそれで終わるので難しいところである。
希死念慮を抱えていた人間が「いつか絶対に報われる」と言われ続けて10年生きてみた人の感想。
時間が経ったからか、トラウマは笑いながら話せるくらいには乗り越えたし、鬱状態の自分を静観?できるようになり、ゲームをする元気も出るようにはなった。親も歳をとり、物をひっくり返したり家が揺れることも減った。また、親の夢を叶えたことに免じて、ニート状態も許してもらっている。
挑戦することから逃げなかったという意味では、小さな前進は継続的にできていた人生だったと思う。
しかしながら、お金を稼ぐための力や社会の厳しさに耐えられるメンタルがないと分かった今、正直当時自殺しても良かったんじゃないかとも思う。
今後何しようかというと、死ぬ前に同人エロゲでも作ろうかなーと思ってる。
絵も描けるし動画も作れるしゲーム開発経験もあるから。今は3Dモデリング勉強中。
それとも自分の境遇をブログでコミックエッセイのように発信しようかなとか。
でもただの悲劇のヒロインエピソードだし、オチもないし、批判や個人特定が怖いしなーと公表することに悩み中。
でもなんでもやってみることが大事だよね。
10年以上はてなにいる皆さんはどのように暮らしが変わりましたか?
人生に悩んでいる後輩がこれを読んでいるとしたら、参考にならなくてごめんね。
先輩は何か知恵があったら教えてね!
Twitterでイラストレーターさんやイラストレーター志望の人をフォローしている
フォローしている中の1人で「教育系のイラストを描きたい!教科書や参考書のイラストが描きたい!」と言っていて、プロフィールにもそれを書いている人がいる
確かにその人のイラストはチャレンジの漫画や児童向けの漫画でよく見る絵柄で教育系のコンテンツとは相性が良いと思う
しかし、イラストを発表する時に彼女は悪気なく「私の性癖を詰め込みました!」「性癖出ちゃったー」とコメントで添える
彼女の描くイラストは小学生や中学生男子でそれだけみればとても健全なイラストだ
洋服も着てるし、はだけているわけでもない
だから全然良いと思うんだけどコメントで「性癖」とわざわざ書かれると気持ち悪い
そんな人に子どもの使う教科書や参考書のイラストを書いてほしくない
私も「これじゃ仕事振りにくいだろうな」と思いつつ、自分のことではないのでなんにもしない
でも、ちょっと気づいて欲しい
やめたほうがいいよそれ
買った物を入れる袋が有料化になったので
はじめの頃、洋服や雑貨、食料品等を気にせず買った店で袋をいちいち買って家に帰ってふと考えたら
袋だけで40円かかっていた。
ユニクロとかGU等ファストファッションで1枚だけ買おうかなってときは大体買わないようになった。
食品用のレジ袋は持ち歩くことが多いけど結露のあるような食品との同封は避けたい。
買うかわからない洋服用に常に大きめの袋持ち歩くのはかさ張るので
はじめに、これは母親と娘(私)の話です。ブログを書くことが本当に久しぶりなので、元々文才の無い自分が書くとさらに読みづらいと思います。すみません。
母親との関係に悩みが尽きないと感じるようになったのは、ここ最近のような気がしていた。
ずっと、"それ"は繰り返されていた。
諦めのような、虚無感を含んだったこの感情は、幼い時から繰り返し感じていた。
私は"それ"を知っていた。
いつも走っていて、時々転んでは汚れた服のまま、また駆け出しているような子だった。
あまり記憶が鮮明ではないが、おそらく仲の良い友人に彼が気になると話していたのだろう。
母は、私が彼を好きなことをいつの間にか知っているようだった。
ある日、お迎えに来た母に「〇〇くんはどの子?」と聞かれたのだ。
私は無邪気に指をさして母に教えた。
その時、左斜め下から見た母の顔を覚えている。
眉をしかめて、口を少し開けたまま、「そう。」とだけ呟いた母は、明らかに嫌悪を私に示していた。
悟った。ああ、母の機嫌を損ねてしまったと。
母の機嫌を損ねることは私にとって何よりの恐怖だった。
おそろしいことに、それは今でも。
小学生の頃、着て行く服は母が全部選んでいた。
天気、気温、行事、学校帰りの習い事。あらゆる条件をクリアする服装を毎日ぴったりと揃えて準備してくれる。
私は母の選ぶ服が好きだったし、母曰く「上品で程よくキュート」な洋服を友人に「似合っているね」と優しく声をかけられた日はとても嬉しかった。
きっと忙しい日もあったのに、毎日毎日準備をしてくれたことに感謝している。
ただ、一度私が着たいと思った服を「似合わない」と言われた時に、私はとても怖くなった。
可愛いな、と思って店内で無邪気に手にしたそのワンピースを「変よ」と一言、それだけで怖くなった。
「いいね」と言って、母もこちらに寄ってきて一緒にその服を手にしてくれると思っていた。
でも違った。
文章にしてみると、ただそれだけのことなのに、私は自分の感覚すべてが間違っている、と強く思った。
中学、高校は制服があったので母が毎日服を選んでくれる習慣は無くなったが、例えば友人と出かける時に服を選ぶと必ず私は母に「どうかな、この組み合わせ」とつとめて明るく聞いた。
「似合わない」「違うと思う」と言われたらどうしよう。
「いいと思う」と言われる日もあったし、「スカートの丈がおかしい(母は膝が見えるスカートのことをおかしいと言う)」とそっぽを向かれる日もあった。
たいていの場合、バツをつけられたアイテムはすぐに他のものに変更していたが、どうしてもそれを着たかった時、別の組み合わせでプレゼンする。
初めて言われた時、殴られた方がマシだと思った。
10代の私にとって、大きな壁を作られたような、それはそれはとても恐ろしい体験だった。
すぐにすがった。「やっぱそうだよね。どこかで見た感じをまねしたかったんだけど、違うよね」「やっぱり私センスないから、これやめるね」と。
ただ、ここで母の機嫌は元に戻らない。
もう、こちらの声は聞こえていないのだ。
ツーン、と。こちらの顔を全く見ない母の"それ"は大人になればなる程長くなる。
大人になると「もうその服は年齢的にきついと思う」とよく言われる。
気に入った服、お金を貯めてえいっと気合を入れて買った服、家族には話せていない思い出がつまった服。
みんな色がなくなったみたいにして、ゴミ袋に入っている。
私が些細と思っているだけで、母には大きな出来事かもしれないが、私にとってそれは静電気くらい、突発的にパチッと起きる。
金曜日、帰りにこれを買ってきてほしいと頼まれて、無事購入し帰宅してみると頼まれたものが冷蔵庫に入っていた。
「これ買ってきたよ?」と購入品を見せると、「たまたま出かけることになったから私が買っておいたの」と言う。
ここで、「そうなんだ。ごめん、私も買っちゃったから冷蔵庫いっぱいになっちゃうね」と謝るべきだった。
だけどその日ひどく疲れていた。
「連絡してくれたら買ってこなかったのに」と言ってしまった。
アウトだった。
この会話で、私は週末ずっと脅えながら過ごすことが決定した。
普段はテーブルにランチョンマットかお盆を置いて食べる夕飯時、私がそれらを準備する前に母はドン、と音を立てて食器を置く。
高校生の頃突然のことに驚いて何も言えず、立ち尽くす私に目もくれず、母は不機嫌をアピールするように食べ始めた。
時々、はあと大きなため息や、小さな舌打ちが聞こえる夕飯は心臓が苦しいだけだ。
「いただきます」と合掌しなさいと叱っていた子どもの前で、何も言わずに食べ始めた母は5分も立たずに完食し、「ごちそうさま」も無く、大きな音を立てて席を立ち、自分の使った食器を洗い始める。
私は一人静かに、なるべく音をたてないようにして夕飯を食べる。
こういう流れになったとき、自分で食事をつくると悪化するので、静かに皿の真ん中をみつめて、吐き気におそわれながら食べ進める。
リモコンを触ってチャンネルを変えると負けなのか、誰も見ていない番組が延々と流れる。
父の仕事の関係で、夕飯はいつも母と二人だったので夕飯時は好きなドラマや映画を見ることも多かったのに、あまり馴染みのない番組をBGMに冷たい時間が流れる。
そして、食後に甘いものを食べたり、一緒に片づけをする時間はもちろん無く、
食後に片づけを終えた後、私はすぐに歯を磨き、眠る準備を整え、頭を深く下げて「おやすみなさい」と伝えてから自室へ向かう。
しかし、いつもこう言われるのだ。
「何が?」と。
喧嘩ができない。
投げても返ってこない。
この冷戦期間、母がいるかもしれないリビングにはなかなか行くことができないので、薬が必要な時に飲めるように常備薬は自分の部屋に常に置いている。
自室へ行く前にコップかマイボトルに水を入れていくことも忘れないようにしている。
慣れてしまった気もしている。
気持ちが落ち着く香りがするものや好きな飴を自室にこっそり置いて、少しでもこの小さな部屋で快適に暮らせるように試行錯誤してきた。
でも、何度経験しても突然こちらを向いてくれない、口をへの字にした母の表情には慣れない。
おそろしいことに、アラサーになった今でもこわくてこわくて仕方がない。
こわがっていることが情けない。
でも、こわいのだ。
ずっとこわいなら、すぐに家を出ていたかもしれない。
でも気づいたら、大学も就職も県内で、はじめからそれ以外の選択肢は無かった。
母に「A大学へ行け」と言われたわけでも、「B社に就職しろ」と言われたわけではない。
それは多分、ずっとこわいわけではないからだと思う。
母はほんとうに優しい。
優しく、ときどきユーモアがあって、音楽が好きで、海外の映画が好きだ。
ごはんもとても美味しい。
私が作るごはんもすごく褒めてくれる。
働き始めて家にお金を入れる度に「自分の好きなものを買っていいのよ」と言った後、ありがとうと優しく受け取ってくれる。
優しい母が好きだ。
愛してもらった自覚がある。
あらゆるものから守ろうと、常に私のことを気にかけてくれたことに感謝している。
話は変わるが、通帳をしばらく紛失したことがあった。
仕事が忙しく、それどころではなかった時期なので、「家の中でなくしたのだからいつか出てくるだろう」としばらく放っておいた。
ある日、通帳がどうしても必要になり、家中を探した。どこにも無かった。
そんなはずはないと連日通帳を探す私を家族は心配そうに見ていた。
仕事に関して抱えている不安と、見つからないものへの不安がごちゃまぜになって、まるで狂ったかのように家中を探していた。
仕方ない、半休を取って通帳の再発行に行こうと思い、心配してくれた母にも報告した。
銀行に行き、「〇週間ほど、通帳を探したが見つからないので再発行したい」と伝えた。
対応して下さった行員の方の言葉に、私は鈍器で頭を殴られたかと思った。
おととい、つうちょうをつかっておかねをひきだされていますよ。
頭が真っ白になった。
何行かにわたって記された数字を見る。残高はほとんど無かった。
あまり覚えていないが、「勘違いかもしれない、すみません」と怪しまれる前にとにかく銀行を早く出たかった私は多分適当な言葉を並べて足早に去った。
私はまっさきに思った。
話してくれたら、いくらでも使っていいのに。
当時、あることでお金が必要だということはうっすら雰囲気で感じていた。
でも「私出すよ」と娘である私が言うと偉そうなのかもしれないと思っていたし、両親がそういうタイプの人間だと知っていたので、必要ではあるけど足りないという話はしていなかったこともあり、能天気に流してしまっていた。
いくらでも、あげる。
今までたくさんもらってきた。
私も参加させてほしい。
銀行の近くの本屋でなるべく人の少ない階の隅の椅子でこっそり泣いた。
立っていられなくなった。
あと少しで仕事に行かなければならないことと、家に帰ってどんな顔をすればいいのかわからないことで頭がぐちゃぐちゃだった。
話したらお金を出してくれない娘だと思われていたのか。
だから隠し続けたのか。
必死に探している時、不安でいっぱいな私をどういう気持ちで見ていたのか。
学生の時、同級生とのあるやりとりについて注意されてから、携帯のメールや通話履歴は見られるものだと思って使っていた。
話せないまま、外出が急に増えたことを不自然だと問い詰められる前に別れてしまう。
気になる人ができても、母に紹介する時のことをイメージしては〇か×を考えてしまう。
もう、こわい。
母ではない。
こわがっている自分がこわい。
今日も、"それ"は起きました。
来週、とても緊張することがあるから今週はとてもおだやかにすごすつもりでした。
そうしないと乗り越えられない気がしていたからです。
そのことを思うと怖くて眠れない毎日だったから、なんとか心のバランスをとって生きた今月でした。
でもだめでした。
私は家に帰り「言ってくれたらよかったのに」と言ってしまいました。
でも疲れていたのです。
言い訳かもしれませんが、ほんとうに心も体もふらふらだったのです。
ゴミ袋に入った気に入った自分の服を見て涙があふれてきたので、取り繕うこともできませんでした。
帰宅する旨の連絡をした時に返信で教えてくれたら助かりました。
もしくは「ごめんごめん」と笑って流してくれたら、もっと助かりました。
流れず、返されず、そっぽを向いて投げられたボールをずっと追いかけて走っています。
走る私の背中を監視するような目でずっと見ていますね、わかります、感じています。
だんだんと体が冷えてきました。
窓の外は本当に真っ暗で、でも部屋も真っ暗なので、まるで境がありません。
どちらが暗いのか、もうわかりません。
両親とも出水市生まれで、俺も出水市生まれで愛知県育ちとして嬉しい記事ダイアリだな!ありがてーな!!おい!
まず、出水市と言ったら鶴の渡来地で有名なところ何だから出水市ツル観察センターは確実に押さえておけよ!テストでるぞ!
ツルが近くに見れる以外何って無いけどそれがいいとこなんだよ!
ちなみにツル観察センターから1km程度に母方の実家があるんだけどよ!
以前に愛知育ちの嫁を実家に連れてって朝起きたら、カエルの声うるさいねって言われまたわ!バカ!!ありがたいツルも1万羽とあつまればウシガエルみたいな鳴き声に聞こえちゃうの!仕方ないの、ありがたいの!
昭和天皇も訪れた由緒正しい場所だから感謝してウシガエルみたいな鳴き声で目をさますの!!って、ダラダラ書いたけど出水市にいるなら一度はいこうか!
あと、せっかくだから出水酒造も挙げとくよ!ツル博物館の近くにあるんだけどよ。
工場見学とかもできたはずで、昔は坂井シェフとか広告に起用してた、新しい目の酒造メーカーな!
実はここ、元々俺の父方の実家の土地があって、借地で家とかもあったんだけどよ!工場建てたいから、潰して出水酒造に売却したんよ!でもうちの土地自体二束三文で建物建ててた人らは4桁万円貰ってるのに、うちはそんなことなかったぜ!!出水市の土地安くて泣ける。
でも土地売ったおかげか、当時の工場建てた新規雇用の枠で働くこともできたんよ!
先に書いた出水市出身の坂井シェフと女優の桜庭ななみみちゃんは押さておけ!
まだゲーセンあるのか知らんが、あれば行ってみてくれ、何って無いけど!
出張か転勤か、何で出水市みたいなとこにいるか知らんが何って無いけど楽しんでくれな!洋服はアベイルで買うのがオシャレだぞ!嘘だけど。
元々、水俣病地域だし、祖父母は軽いけど水俣病認定者だったよ!そのせいなのか、俺は軽い奇形持ってるよ!見えないとこだからえーけど!
ただ、出水市に4階建てってそんなあったっけ?こんだけ、特定できる情報書いた俺が言うのも何だけど、身バレせんように気をつけてな!
これは自分が長年生きてきた知恵を使った、みんなへの忠告だけれど、
他の人を覚えるときは、顔、または名前、あるいは顔と名前の両方をセットにして覚えた方がいいよ。
自分は何十年も顔も名前もなしで他の人を覚えようとしてきたけれど、失敗が多かった。
顔も名前もなしで、背格好から導かれるシルエットや、着ている洋服や、腕や脚の長さ、筋肉のつき具合などだけで他人を見分けるのはなかなか難しいよ。
また、後日、思い出すときも、顔だけが思い浮かんでも、名前がないと誰か特定できないし、検索もできないのでメールや電話もしにくいよね。
名前だけ覚えても、鈴木とか佐藤とかだけだと、顔がわからないのでどの鈴木、佐藤さんかわからなくなることが多かった。
顔と名前のセット、これをぜひ覚えておいて欲しいよね。