はてなキーワード: 法秩序とは
Red Dead RedemptionのPC版楽しみすぎだろ
けっこう最近にRDR2やったからね、初代やりたいけどコンシューマ版しかなくてゲーム機持ってないからできなかったの
嬉しい
発売は順当にRDR→RDR2だが、時系列は逆なの
RDR2は、義賊的だったギャングが急速に法秩序が芽生えていく19世紀末のアメリカの中で居場所をなくして崩壊していく話
無辜の人から略奪・強姦する他のギャングを見下し「俺達はああじゃない」と美学があったのに、どんどんそいつらと変わりない存在に落ちぶれる
最初は30人ぐらいいた仲間たちが、敵に殺されたり内輪もめ殺し合いで死んだり、もうここアカンわと離脱したりどんどん減っていく鬱ゲー
みんなボロボロになった中で生き残った男が、ひっそりと田舎で家を買い農業を始め、平和な暮らしをはじめるところでRDR2は終わる
「お前ギャングだった頃に散々人殺したよな?絞首刑にしてもええんやぞ?お前の妻子も殺してもええんやぞ?妻子人質に取るわ。助かりたいなら散り散りになった昔のギャング仲間の極悪人をケジメとして全員殺せ」
と警察的な人に命じられて、かつての仲間を殺し回ることになるという話らしい
RDR2の時点で仲間たちとは険悪になって袂を分かったのだが、それでも殺しに行かなきゃ行けないのは辛いな
この男は出生時に母親が死に、父親にも育児放棄され捨てられ8歳ぐらいから一人で生きるようになり、
12歳ぐらいではじめて生きるために殺人をして、16歳ぐらいでギャング団に拾われ、ボスをパッパのように慕っていた
ボスはギャングがオワコンになっていく中でヤケクソになってどんどん性格が悪くなっていき見限られたのだが
それでもパッパのようだった人を殺さなきゃいけなくなるのが初代のストーリーらしい
やだなあ、でもやりたいな
判決速報240628
令和5年ワ3848 16部甲
餘多分宏聡裁判長
http://blog.livedoor.jp/advantagehigai/archives/66238431.html
colaboの支援者と名乗る匿名アカウントが、「暇空なんかいつでも殺せる」というポストをリポスト
身の危険を感じた暇空は元のポストをした者も、リポストしたcolabo支援アカウントも訴えることにした
アカウントは連絡先を北原みのりの住所にしていたため暇空は犯人は北原だと察し北原を訴えた
しかし北原は「私ではない」とひたすら否定、多忙を理由に出席を拒否し延期が続く
やがて太田啓子が「colaboを支援する者たちの集まりでつくったアカウントで住所は北原にしてるが、実際にXに投稿してるのは私だ」と唐突にいい出した
発言者が誰であれ殺害予告でしかない文なのに、今回不当に棄却となり暇空が敗訴した
【名字】餘多分
【読み】よたぶん,よたわけ
【全国順位】 67,034位
現広島県西部である安芸発祥ともいわれる、治水の功により浅野侯より賜名字である。
https://myoji-yurai.net/searchResult.htm?myojiKanji=%E9%A4%98%E5%A4%9A%E5%88%86
現在、暇空は石丸伸二と対立関係にあり石丸から多数の攻撃を受けている
石丸が広島で生まれ育ち広島の市で市長をやっていたことはよく知られたことだ
暇空が広島出身者に殴られている時に、広島に由来する名字を持つ裁判長が不当な判決を下す
これが偶然のはずがない
名字というのは、山のそばなら山野さん、川のそばなら川辺さんと自然発生するものが多いが、餘多分は江戸時代末期に広島の大名であった浅野長勲が創作し臣下に与えたものが起源で新しい
浅野長勲は多くの肩書を持つが、安芸広島新田藩第6代藩主でもある
安芸広島、そう石丸が市長だった広島県安芸高田市のかつての名だ
これが偶然であるはずがない
石丸は急に出てきて目立つようになりそのバックボーンが怪しまれていたが、つまりは石丸の祖先は浅野長勲なのだろう
廃藩後に華族となることを辞退し市井にまぎれた浅野家の末裔の一人が石丸伸二である
浅野家と餘多分家は今でも密かに主従の関係であり、殿様である石丸の指示に従い法秩序を捻じ曲げてでも不当な判決を出した
石丸は、百合子のイメージカラーが緑であるためかぶりを避けて紫にした
紫なのは、金づるとして支配下に置いている華僑たちが好む色だからだ
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B5%85%E9%87%8E%E6%B0%8F#/
数百年をかけて広島の人々の血に刻まれた「主人」の色が緑なのだ
広島県民は独特の風俗を持ち、日本国に属しているという感覚はほぼなく、現代においても廃藩置県前の「殿様」に仕えているという意識が強い
広島に原爆が落とされたのは「日本」のせいだ、犠牲にされた、そんな思いから日本への憎しみが深い
原爆による反米感情が根深く、それが中国との強い結びつきを生み出した
石丸がもし都知事になれば、東京のために働くことも日本のために働くこともけしてありえない
本邦の“女流”ジャーナリストの草分けと言えるであろう上坂冬子は、かつて著書の中で原発について
「我が国の優秀な専門家の方々がしっかりやってくれているのだから、素人が文句をつけるべきでない」という旨の主張をした。
ところで氏は東日本大震災の少し前に世を去っている。ほんの少しだけ長生きしていただきたかったことである。
野次馬の声を押さえつけることなどできないしするべきではないが、それにしても野次馬の声のボリュームが(テクノロジーによって)大きくなりすぎている。
野次馬と一緒にリアルタイムでワーワー相談しながら進められることなどない。当局者は萎縮して右顧左眄し、一貫性を手放し、アリバイ的な形式主義に陥る。弊害しかない。
中立的な社会インフラになりかけてたのが、一気に2ちゃんねる的なモノに戻っていった。
野次馬はそういうサンドボックス内で好きなだけ騒いでなさい、実務は密室で進めておくからという体制が固まりつつある。
いま「権力は信用ならない、文春砲が民衆の武器だ」と、スキャンダルによる私刑に期待と支持が集まっている。
それはしかし俯瞰的に見れば「うまく砂場に誘導されている図」であると思う。
世界的な「法秩序より正義を」の動き、デマの物量戦、情報蝗害、インプレゾンビ
とりあえずメモまで
https://anond.hatelabo.jp/20231005063225
の続きといえば続き。
「NGリスト」のおかげで、また妙な方向へ話がドライブしている。
そりゃあんだけ大暴れしてたら後回しにされない方が変だろう。
一方でそんな内々の処理をダダ漏らす無能ぶりに震える。バカくらべか。
望月だって説明責任全く果たしてないとか弟が云々というのは無理筋というか「それはそれ、これはこれ」である。
「ジャニーズと望月記者のどっちの肩を持つんだ!?」というような問題ではもとよりないのだ。でもそういう対立構図でしかものごとを捉えられないレベルの人々が蝟集している。
(さらに言うなら人だかりにはそれ自体に人を呼ぶ力がある。「対立構造でしか考えられない」どころではなく、ほぼ何も考えられないが火事場の雰囲気にあてられて興奮して走り回る種類の人間が集まってくる)
「児童に対する性犯罪とその組織的隠蔽」事件までウヨサヨ対立ネタになってしまう、奇妙な社会を我々は生きている。
と、ここまでは前置き。知ってるか?正義のヒーローがいると社会は悪くなるんだよ。
ポスト核戦争の無法の荒野ではケンシロウは力無き民の唯一の希望だが、
警察とかがそれなりにある社会で、ヒーローが自由に徘徊して悪人をこらしめてまわってたら社会は悪くなるよ。偏頗な正義は分断と憎悪の母だから。常識だろ?えっ知らないの?なんかもっとマンガとか読んで勉強するといいよ。
それぞれの人間がそれぞれの利益・思惑でめいめい勝手に動き回る社会で可能なのは手続き的な正しさだけだ。要は法秩序。民主主義。
別に望月衣塑子だけを念頭に言ってるわけではない。「文春砲」だってそうだ。
スキャンダリズムは「正義を売らない」という旗印を掲げる。朝日新聞的に自分たちが大衆を導いてやるというのではなく、大衆の動物的関心に応えているだけだと。
また田舎の(しかも見渡る限り人が点や車が点ぐらいの大きさにしか見えないほど交通量が少ないところで)信号無視は法秩序それ自体の無視ということ以上の実質的な損害がない。
警察は実務上組織内でだいたいどれだけ超過したら取り締まるかというのが統一されているだろう。
比べて二次創作を発表されることについては各権利者のお気持ち次第で当然一枚岩じゃないから統一されてない。よってみんながみんな黙認してるという黙認ベース前提で正当化するのおかしい。
超過 15km/h 以下でも逮捕の実績はある
「件数が少ない」なんて話を持ち出すなら、まんまそのまま、二次創作の事例へあてはめられる
【黙認してるという黙認ベース前提で正当化するのおかしい】という理屈は速度超過でも成り立つ
法の執行者の判断を経ずに、勝手に予断で、オーケーオーケーって言ってるだけだ
むしろ、二次創作に至っては実質的な損害がないどころか、「創作物の人気を下支えし、次代の創作者を生み出す、創作界隈にとってプラスの行為」という意識だぞ
毎日新聞社が倒産したのはまともな議論も出来ずにすり替えられたスキャンダルで以てマスゴミが必要以上に誘導した結果密約に無関係な誹謗中傷の嵐でまともな裁判も開かれなかったのが理由だとか不倫やレイプは誤った情報だとかいうには確固たる根拠がなければ単なる願望や妄想に過ぎないぜ?
最高裁判決で以下のように認定されているのが現実なのでね(笑)
従前それほど親交のあつたわけでもなく、また愛情を寄せていたものでもない前記Bをはじめて誘つて一夕の酒食を共にしたうえ、かなり強引に同女と肉体関係をもち
取材対象者であるBの個人としての人格の尊厳を著しく蹂躙したものといわざるをえず、このような被告人の取材行為は、その手段・方法において法秩序全体の精神に照らし社会観念上、到底是認することのできない不相当なものであるから、正当な取材活動の範囲を逸脱しているものというべきである
https://www.courts.go.jp/app/files/hanrei_jp/114/051114_hanrei.pdf
実名でやっているブログもツイッターもあるのだが、そこで書くと炎上しそうで怖いため、増田で書くチキン野郎です、どうもすいません。
さて、まずはこのまとめ。
https://togetter.com/li/1244367
ブコメでは江川さんを称賛する声が多い。だが、正直に言えば、麻原の処遇に関して江川さんはわりと冷静さを失う感じがする。
そもそも、精神鑑定に関していえば、「行われていない」というデマが流れているというよりも、「まともな精神鑑定が行われていない」という疑問を呈している人のほうが多いのではないだろうか。
麻原の精神鑑定については、西山詮医師による鑑定が行われ、「訴訟能力あり」ということになっている。しかし、その一方で、正式な鑑定ではないものの、複数の精神科医が面談の結果、訴訟能力なしと主張している事実はある。
(参考)
https://diamond.jp/articles/-/8876?page=2
https://blog.goo.ne.jp/kanayame_47/e/63db65c218a5ee890796ceededb22c87
上記以外で仄聞するエピソードと併せて考えると、麻原の精神が拘禁によって崩壊したのはたぶん事実なのだろうとは思う。「詐病」と判断するには無理がありすぎる。
だが、麻原の精神が崩壊したということになると、とても困る人がいる。それは特定の誰かというより、日本という国家そのものなのだろうと思う。
もし仮に、麻原が「心神喪失」状態に陥ったことを認めてしまうと、法律的に彼の裁判や処罰が難しくなってしまうからだ。
(参考)
刑事訴訟法314条
「被告人が心神喪失の状態に在るときは、検察官及び弁護人の意見を聴き、決定で、その状態の続いている間公判手続を停止しなければならない。但し、無罪、免訴、刑の免除又は公訴棄却の裁判をすべきことが明らかな場合には、被告人の出頭を待たないで、直ちにその裁判をすることができる。」
だが、言うまでもなく、麻原は戦後最大のテロ事件の首謀者だ(個人的にはその点に関して疑いはないし、これ以上の「真相解明」にも正直まったく興味はない)。その麻原を裁けないとなると、日本の法秩序に対する信頼が根幹から揺らいでしまう。いくら「法律的にできない」と言っても、世論はまず納得しないだろう。麻原およびオウムの幹部を処刑することは日本の国家意思だったと言えるのではないか。
「そんな法律は変えてしまえばよい」と言う人もいるだろうが、これは法律における根本的な思想(ルールを理解している者だけが責任や処罰の対象となる/理解できない者は対象とはならない)に関わっている問題なので、そう簡単にはいかないのではないかと愚考する。
ともあれ、上記の刑事訴訟法に抵触することなく、麻原を死刑にするためには、麻原に「訴訟能力」「責任能力」があるということにしておかねばならない。だからこそ、形式的な精神鑑定をやっただけで終わらせた。しかも病気でないことになっているので治療もしない、ということになったのではないか。
ここからは蛇足だが、小坂井敏晶『責任という虚構』(東京大学出版会)には、次のような一節がある(p.157)。
自由だから責任が発生するのではない。逆に我々は責任者を見つけなければならないから、つまり事件のけじめをつける必要があるから行為者を自由だと社会が宣言するのである。言い換えるならば自由は責任のための必要条件ではなく逆に、因果論的な発想で責任概念を定立する結果、論理的に要請される社会的虚構に他ならない。
要するに、こういうことだ。何か事件が起きたとき、社会には大きなストレスが発生する。誰かに責任をとらせ、「落とし前」をつけることで、そのストレスを軽減させなくてはならない。だから、その誰かには「その事件の原因となる行動をしない自由があった(=したがって責任がある)」ということにしておかねばならない。行動しない自由があったから責任が生じるのではなく、誰かに責任をとらせるために、そのような「自由」があったことにされる、というのが上記の指摘ということになる。
この指摘を今回の件に応用するなら、麻原に「訴訟能力」や「責任能力」があったから裁判で死刑になったという理解は必ずしも正しくない。そうではなく、死刑にしなくてはならないから「訴訟能力」や「責任能力」があったということにされた…という疑念が拭いきれない。
もっとも、その是非については、判断はしない。国家の存続にはそういうフィクションが必要だ、という考えも理解できないではないからだ。ただ、それでもモヤモヤした感は残る。
そういう気持ち悪さが、今回の一件には、ある。
(追記)2018/7/9
https://news.yahoo.co.jp/byline/egawashoko/20180708-00088579/
江川さんのこの記事で、「詐病」とか言っている人がいるけど、この記事でもやっぱり2000年代初頭の話までしか書かれてない。これ以外の詐病を疑わせる記事も、逮捕当初から2000年代初頭までの時点での話しかない。そこから15年以上の期間があるなかで、麻原の精神状態に変化があったとしてもなんらおかしな話ではない。実際、上でリンクを貼っている加賀さんの面談は2006年のものだ。
上で述べられている刑事訴訟法の規定は、「犯行時点の精神状態」ではなく「裁判や死刑をする時点での精神状態」に関わるもの。したがって、犯行時点において麻原の精神状態に責任能力が認められるものであっても、関係ない。
個人的には日本の法制度がそうなっている以上、麻原の死刑もやむを得ないとは思うが(そうでないと他の死刑囚とのバランスが取れない)、「麻原を死刑にしなくてはならない」という発想から、多くの人の事実認識が若干おかしくなっているのではないか、ということが気にかかるだけの話。
https://blog.goo.ne.jp/kanayame_47/e/c34aa02a0f1770deebaa5ceafe30c3b0
(さらに追加)http://www.aum-shinsokyumei.com/2018/06/03/post-416/
id:blueboy 「詐病」だと言いたがる人は、たとえ命がかかっていようとも、糞尿垂れ流しの強烈な悪臭が漂う空間で、汚物まみれの布団で寝る生活に20年耐えられるかどうかを想像してみれば良い。無論、麻原の「宗教者」としての精神の強靭さがそれを可能にしたと考えることもできようが、それでは麻原を凡庸な俗人とみなす「詐病論」の人物描写との整合性がなくなる。むしろ、麻原が凡庸な俗人だからこそ、長期にわたる収監と死への恐怖によって精神に異常をきたした、というほうが説明としてはよほど合理的だと考える。