「江戸っ子」を含む日記 RSS

はてなキーワード: 江戸っ子とは

2019-01-10

anond:20190110000033

東京田舎者」って言葉があってね。

休学……は難しいかもなぁ、東京に住んでても東京まれだと「地方出身上京学生より世間を知らない」ってのもあるし、「俺は東京に出てきたんだぞ」という謎の根拠なき自信も得られない。

ので増田場合京都辺りにでも出れば良かったのかもねぇ

ただアドバンテージもある。失敗しても実家があるという、小中高と培ってきた友人関係繋ぎ直そうとすればいくらでもやれる。

これは精神的に小さくないアドバンテージだよ。「もう後がない、これが出来なきゃ死ぬしかない」みたいな不安感が少なくて済むし、コネだって作りやすい!

正直東京で手に入らないものってないし、交通の便もいい、歯石美術館博物館科学館もどこよりある。だから目的が定まらないと焦ってしまって有効活用できない。

ところで生粋東京23区(しか江戸っ子)育ちの人を何人も見て育っているけど、みんな明るいわァ!強かだわ。人のあしらいは間違いなく上手いし。

で、最近ニュースで見たんだけど人間って18歳でようやく「将来何になろう」とか人生設計を脳が始めるんだと。で24歳くらいに「よーしこうなるぞー!」って遅いわ!大学決定も卒業後の進路も決まった後だわ!って感じだけどなるんだってさ(生物学的にようやっと子供安全骨身を削らずに産める年齢って言うのと関係あるのかもしれない。無いかもしれない)

増田今焦って視野が狭い。課題もう忘れて一旦休憩休憩!

余談だけどうちのどこの漫画主人公だよ!っめくらい都や国の大会で何やっても成績残してた親戚、3年留年して第1希望を諦め有名な大学に入ったけど今全然関係ないパートしてるし自由で楽しそうよ。ちょっと妬ましいわw多分君の先輩だ

2019-01-01

anond:20190101095806

年越しそば起源には諸説あって、というか地域差もあって曖昧なのだが、

年越しそばの原型となる「晦日そば」という風習江戸時代中頃からあったとされている。

晦日とは毎月の最後の日のことで、その日に食べるそば晦日そば

そのうち一年最後大晦日に食べるものけが年越しそば」として残った、という説。

この説だと、あくま晦日に食べることが重要であって、

わざわざ毎月の切り替わりの0時を狙って食べる理由はない。

もうひとつ

年越しそばは「新年に食べるとむしろ縁起が悪い」という俗説があり、

これを採ると日付が変わるころに食べるのはよくないということになる。

ただし、地域によっては元旦そばを食べるところもあったようで、あまり気にする必要はないかもしれない。

ちなみに江戸時代でも一日の切り替わりは深夜零時だったので、

これを理由に「年越しの瞬間に食べるそば」を否定することはできないのだが、

江戸時代でもそば外食なのだから

現代ならともかく日付の変わる頃に営業なんかしてるのか、という疑念もある。

江戸時代にも夜鳴きそばという夜間営業屋台があったりするのだが、

大晦日の深夜に江戸っ子が揃って屋台に押しかけてそばを啜っているというのも考えづらい。

やはり日中に食べていたと考えるのが自然だろう。

以前に年越しそばを食べる時間についてバズった記事があるのでそちらも参考にしてくれ。

https://anond.hatelabo.jp/20171130223335

2018-12-20

anond:20181220222613

からいからあるだけ全部使ってしまおうってか

お前は江戸っ子か?

2018-12-14

神田江戸っ子寿司に行ってきた🍣

握り得々1540円!

あぁぁーやっぱり寿司は最高だぜえ!

2018-11-11

anond:20181111103935

ここがおいしんぼなら「わかりました明日本当に美味しいものをもってきましょう」っていう山岡がいてくれたのに。

まりむちゃすると唐辛子大食い大会で食べ過ぎで死んだ江戸っ子伝統をまた更新ちゃうからほどほどにな。

たぶんおまえの遺伝子そいつと全く同じいかものくいが刷り込まれてるんだろう。

2018-10-31

江戸っ子虐殺をどう使うかがキモ

江戸しぐさ大好きなんだけど、話のオチにどう江戸っ子虐殺を使うかがネタの出来の九割だと思っている。増田でもやり過ぎたせいか最近は新作がなかなか出来ない。芸術家陶芸家生活ってそんなもんなんだろうな。

2018-10-12

日本版文化の盗用」議論

アメリカでは文化の盗用」に関する議論が喧しい。ボストン美術館キモ体験についたクレームだとか、当事者であるはずの日本人から見ても「別にいいじゃん」と思わせられるようなケースさえあり、それ自体差別的発想だという批判もあるくらいだ。実際、例の企画は、元々の画がジャポニスムテーマにした画であり、その画の前で日本人ではない人がkimonoを着て写真を撮る行為は、むしろ「ある時代存在したジャポニスム」そして「それを描いた画」という『オリジナル』を尊重した行為ですらある。たとえば日本人着物を着てその前に立っても全く意味がないどころか、むしろそれこそ「オリジナルへの敬意を欠いた振る舞い」として批判されるおそれさえあるだろう(皮肉)。

(※ちなみに、時間のない方は、このあと太字部分だけ読めば大体の内容が分かります。)

だが、そんな自分が、日本でしばしば気になって仕方ない「文化の盗用」がある。それは、TV番組などでしばしばみられる「関東言語話者による恣意的方言使用である。よく例にあげられる「外国の都会の人の言葉標準語で訳されるが、農夫の言葉東北弁で訳される」みたいな問題だけではない。地方舞台にしたドラマ登場人物が喋る台詞などにおいても、方言が、その地方やその地方言語に対する十分な理解を欠いた人間、つまりネイティブ以外によって「ちょっとした彩り要素」としてカジュアル使用される結果、おそろしくひどい形で表現されている。文化への敬意を欠いた使用は、まさに「盗用」と呼ばれるのにふさわしい。

たとえば、関西ネイティブとして断言するが、TVドラマや公に出版されるフィクションなどで見かける関西弁による会話」をみて「自然だ」と感じることは99%ない。それなりにお金をかけているはずのNHK朝ドラ関西指導:●●、などとクレジットが入っているのに)などは、最もひどい例の筆頭である

そういうひどい例を具体的にあげると枚挙に暇がないので、1%の「よい」例をあげてみよう。たとえば谷崎潤一郎細雪戦前作品だが、関西文化に対する深い理解をもとに、「自然な」関西弁が用いられている数少ないフィクションである。谷崎は江戸っ子だが、言語に対する深い感覚と、関西に移り住み関西ネイティブ結婚して緻密にその文化所作、その背後にある思考法を観察した結果として、たとえば第一章冒頭の流れるような会話描写を実現した。相手の反応を伺うような、どこで途切れるのか分からない古典時代のような会話、相手を立てるように話す長女と蓮っ葉な口をきく三女は、それぞれ阿吽の呼吸で話を推進する役/突っ込みを入れる役/疑問・答によって話のオチを付ける役、などの役割(ロール)を自在に演じながら会話を展開させていく。これに較べれば、NHK朝ドラ等の会話が、いか醜悪な「関西弁モドキ」の会話であり、結局「関東弁を関西弁ぽい口調にしただけ」の底の浅いものかがよく分かる。少なくとも関西ネイティブなら、その違いは明白に感じ取れるものだ。

NHK朝ドラで、たとえばヒロインに対して友人が、あるいはヒロインが知人や親に、時に熱く、あるいは涙を浮かべて関西弁で「○○○○なんや!」と叫ぶ。見ている私の胸には「ああ、またか」と鼻白む思いが広がっていく。あれで関西配慮しているつもりなのか。関西東京にとって単なる感傷的なエキゾチシズムの対象なのか。あん関西人おらへんねん。ほんまに。

関西では、関東人のように「正論」を「熱弁」することは、申し訳ないがノーマルナチュラルな振る舞いとは見なされない。話の半分をジョーク構成し、自分を「落とし」て低姿勢で粘り強く交渉するスタンス疑問形を多用して「相手に語らせる」手法、話にはヤマとオチをつけるという作法、そういうものを欠く会話は、下品で場をわきまえない失礼なものとみなされ、見下される。幼い子供を除けば、自分意志相手に伝えたいときにはもっとも用いないやり方だ。関西ネイティブ一見感情かに見えるが、それはあくまでロールを演じる意味においてでしかない。生の感情を表に出すのは、基本的に大きな怒りを感じている相当限られたケース・シチュエーションであり、その際にはまた普段とは全くことなる口調・態度・話の作法を取る(先ほどの「細雪」では、たとえば上巻九で女中を叱責するときの口調がその好例となるだろう)が、それもまた原則的にはストレート物言いを避けながら結論へと近づいてゆき、「自分の言いたいことを相手に悟らせ言わせる」ことを目指したやり方を取るのが通常である。そして、可能な限りすみやかに、通常の流れの会話への復帰が図られることで、その特異な状況の調停と幕引きが図られるのが常である(たとえば先の「細雪」の例では、女中を叱責して帰したあとすぐ長女が「やっぱり自分に落ち度があったのだろうか」という意味自分の「落とし」を始めることで、通常モードへの復帰を図っている。もっともこのシーンでは、普段無口な次女が想像以上にこの件について腹を立てていたため、復帰があまりうまくいかない、というシーンになっているが)。

真顔で、正論を、熱弁するヒロイン これを関西弁でやられると、演技の上手下手に関わらず(むしろうまければうまいだけ)、申し訳ないが周囲との調和を失い破綻した人格を演じているようにしか見えないのだ。このため、たいていの関西人が、あれを見て「奇妙に大げさで下手な演技をする演出朝ドラスタンダード」という歪んだ認知もつことでスルーしていることを、NHK関係者理解されているだろうか? 役者が上手に真面目に演じれば演じるほど、関西人には「下手糞」な演技に見え、演じたい役と演技の乖離は増してゆく。方言文化に対する敬意を欠いた行為は、こういう一見滑稽な、内実を考えれば誠に悲惨結論を生んでしまうのだ。

いったい、メディア関係者はこの明白な「盗用」行為について、どのように考えているのか。私はこれが何かを「考えた」結果であればまだ救いはあると思っている。しかし、おそらく「何も考えてない」というのが実情だろう。何も考えていないからこそ平気で「盗用」できるのだ。盗まれた側の痛みなどまったく想像もしていないから、平気で盗んで見せびらかすような真似ができるのだ。とんだ裸の王様である

国内メジャー方言である関西弁ですらこの有様だというところから見ると、おそらくそれ以外の方言についてはもっとひどいことになっているのだろう。異文化カジュアルに親しむことが「悪い」ことだとは言わないし、敬意をもって接してもらえるなら、触れてもらう側にとってもそれは喜びとなる。だが、少なからず敬意を欠いた異文化との接触は、しばしば悲劇的な結論しか生まないものだ。国内異文化に対する振る舞いは、必然的国外異文化に対する振る舞いにも敷衍される。奇妙に滑稽な「クールジャパンの現状、昨今の極めて「内向的な」外交のありようと、このことは無関係ではないだろう。私たち自分たちが何ものかも知らず、他者が本当は何者なのかも分からない中で、相手の予想のつかない振る舞いに、奇妙に怖れ、怯え、媚びているのだ。


文化の盗用」議論に実りある内容があるとすれば、こういったことへの自覚が少しでも私たちの中に生まれることにあるのではないだろうか。私たち自分たちのオリジナル文化とは何なのかについてもう少し自覚的になり、「(異)文化とは何か」ということについてもう少し考えてみるべきだと思う。無邪気な子供のように「世界中ミナトモダチ」では片付かない、異文化接触する際には慎重で警戒した身振りが必要となる、そういうリアル感覚をもう少し我々はもつべきだ。そうすれば、外交についてももう少し現実に即した対応が行われるようになり、海外との交流スムースに進み、そして関西に対する誤解をただただ広めるようなフィクション制作されなくなり私がイライラする機会ももう少し減るのではないかと期待する。(←これがオチ

2018-10-08

みんな日本語学術言語としての重要性を軽く評価しすぎ

この件.

https://togetter.com/li/1274544

査読論文持ってないひとが責められるのはまあわかる(査読なし論文でも優れた論文というのは有り得るし,そういうのも業績として認められるべきではあろうが,このご時世ではまあ査読論文は持っといた方がいいよな……).でも英語論文を持ってないことが責められる理由になるのは本当に理解できない.

何度も繰り返すけど,フランスでもドイツでもロシアでもスペインでも,そしてたぶん中国韓国でも,文系研究業績の大半は自国語だから

文系研究業績が自国語で積み上げられるのは,世界標準から

インドサハラ以南のアフリカ諸国のように長いこと西欧植民地になってたり言語の数が多すぎたりして大学教育英語でやっている国や,ツバルナウルみたいに小さすぎて自国語のアカデミアが成立しない国を除く.そういう国がうらやましいと言うならもう何も言えないけれど)

そりゃ英語論文を持ってたらすごいと思うよ.でも英語論文がないことが叩かれる理由になるのは本当に理解不能.

そもそも社会学には膨大な日本語研究蓄積がある.いくつもの査読誌があり,日本語査読を経た研究成果が積み上げられている.博論をもとにした出版も多く出ているし,入門書からから日本語で一通り揃うようになっている.

自国語で用が足りるんだから論文執筆言語自国語でいいだろ.繰り返すけど,それが世界標準です.

イギリスアメリカ学者英語で書き,フランス研究者がフランス語で投稿し,ドイツ博士ドイツ語で教授資格申請論文審査を受け,ロシア院生ロシア語で報告している中で,なんで日本教授日本語の業績しか持っていないのを責められなければならないのか皆目わからない.

これは社会学に限ったことじゃない.政治学だって歴史学だって文化人類学だって文学だってそうだ.だいたいどの分野でも有力な査読つき学術誌を持っているし,それらの雑誌日本語で書かれている.

そして日本語というのは,世界でも有数の学術言語だ.もちろん英語ほどの網羅性は持っていないかもしれないが,ドイツ語やロシア語ほどの重要性は持っていると思う.それは,先人たちが日本語で積み上げてきた研究業績の賜物だ.

世界でも有数の学術言語」というのもいろいろな尺度があると思うが,どれだけ広い分野で高度な研究を積み上げているか,というのをここでは述べたい.

もしこれを読んでいるあなたが,アフリカに興味を持って,アカデミックな本を読んでみたいと思ったとしよう.大学図書館で文化人類学の棚の前に立てば,数ダースの優れたアフリカ研究あなたの前に現れるだろう.その多くが,西欧学者と同じようにアフリカフィールドワークをし,日本語西欧語の先行研究を読みこなした上で書かれたものだ.

あるいは,ヨーロッパ歴史を知りたいと思ったとしよう.あなた造作もなく,フランスドイツイギリススペインロシアや,そしてチェコポーランドポルトガルボスニアについての研究書を見つけられるだろう.どれも現地語の史料や文献を消化した上で,日本歴史学の積み重ねてきた問題意識接続されている.

それとも,言語学に興味があるだろうか.心配はいらない.オセアニアの数百人しか話していない言語文法記述した本も,ヨーロッパ小国言語の音声を論じた本も,中東言語政策についての本も,あなたは探し出すことができる.政治学? 問題ない,EU制度アメリカ大統領選挙,韓国歴史認識ロシア愛国主義湾岸諸国君主制,どれも日本語最先端研究が読める.

こんなことは当たり前に思えるかもしれない.でもこれは決して当たり前のことじゃない.

とあるアジアの国に行ったとき書店に行ってみた.西洋史の棚に並んでいるのはどれもそのアジア言語で書かれた本だったが,著者はみな西欧人だった.それらはいずれも西欧から翻訳だったのだ.たまにそのアジアの国の著者が書いた本もあったが,イギリスとかフランスとかメジャーな国についての本ばかり.マイナーな国の歴史について扱った本を開いてみたら,参考文献はほとんど英語で,ちょこちょことドイツ語やフランス語が挟まる程度.要するにその本を書いた学者はそのマイナー国の言語を読めなかったのだ.日本には,そのマイナー言語を読める歴史学者が何人もいるのだが.

あるいは,ヨーロッパ小国書店.その国は小さいので国民の多くが英語を達者に話すのだが,本屋を覗くと,自国史や周辺諸国歴史についての本以外は英語の本がそのまま置かれていた.もしも遠いアジアの国に興味を持ってしまったら,その国の人は,自国語のペラペラ入門書の次は英語を読まなければならないのだ.日本語なら,遠いヨーロッパの国についても専門書が手に入るのだが.

たとえ外国語が読めないシロートだろうと,ある程度自国語で難しい本を読める力があれば,中世ヨーロッパアフリカ社会ラテンアメリカ先住民近世朝鮮史東南アジア政治についての最先端研究書が読める.そんな豊かなアカデミアを有している国,そんな潤沢な研究蓄積のある学術言語は,実はそんなに多くはない.

私の感覚だと,英語網羅性には劣るし,フランス語の豊かさには負ける気がしないでもないけれど,ドイツ語やロシア語並の水準に達してはいると思う.もちろん自国民ゆえのひいき目かもしれないし,カバーしている範囲微妙に違っている以上正確な判定は不可能なのだが.

カバーしている範囲が違う,というのはどういうことか.たとえば,上で英語網羅性に劣ると書いたが,英語よりも日本語のほうが研究蓄積の豊かな領域というものがある.当たり前だが,日本史については英語の文献よりも日本語の文献の方が圧倒的に豊富だし,日本史以外でも前近代中国史についてはまだまだ日本語の方が英語よりも網羅性が高いと思う.なので前近代中国史については,読者はともかく,歴史学者は中国語の他に日本語を読まなければいけない.その人がアメリカまれ英語ネイティブ白人であってもだ.ザマーミロ.

というか,実は文系分野に関しては英語網羅性は理系ほど高くない.そんなのは当たり前で,ロシア人はロシア史についてロシア語で書き,カタルーニャ人カタルーニャ言語政策についてカタルーニャ語で書き,チェコ人はチェコ文学についてチェコ語で書き,韓国人は韓国社会について韓国語で書いているのだから英語の文献を読むだけでそれら全ての情報が手に入るわけがなく,本格的に研究しようと思ったらそれらの言語で書かれた文献を読まなければ話にならない.日本事情について一番詳しく正確な研究が読めるのは,英語ではなくて日本語だ.

なので,上で挙げた主要な学術言語は,それぞれ積み重ねが豊富領域とそうでない領域がある.得手不得手というやつで,たとえばマグレブ西アフリカ地域研究ならフランス語で,東ヨーロッパ前近代研究ならドイツ語で,旧ソ連圏の研究ならロシア語で重要研究が蓄積されてきたので,江戸っ子だろうがロンドンっ子だろうが研究を志すのならそれらの言語を読まないといけない.中国近世史を専門にする者が日本語を読めなければいけないのと同じだ.これらの分野で英語で書かれた研究だけを読んで済ますことはできない.

この辺が,理系とは事情の違うところなのかもなぁと思う.理論物理学とか分子生物学とか再生医療とか深層学習とか,ほぼ全ての分野で英語さえ読めれば研究には用足りる(んだよね?).英語最先端研究のほぼ全てが流れ込み,あらゆる情報が蓄積される.しか文系では違う.英語には限られた情報しか流れ込まず,最先端研究の全てが英語提供されるわけではない.

なので文系では,英語理系ほど特権的地位を占めているわけではない.もちろん英語文献が読めるのは今や前提だし,重要な先行研究英語なら読んでいないと問題外だ.けれど,英語ではなく自国語の研究でも研究業績にカウントされるし,外国語での業績といっても英語に限られるわけではない.韓国語やトルコ語論文を書くほうが英語で書くよりも楽だ,と言う研究だっているし,日本語でも英語でもろくな業績がないがそのかわりロシア語で何本も論文を書いているという研究者もいる.

というわけで,文系研究者が英語論文を書いていなくとも,それが直ちに問題だとは思わない.査読論文にしても,そりゃゼロってのはちょっとどうなの,って思うけど,研究者が集まって作った本の一章として論文を発表するとか(いわゆる論集ってやつね),出版社が出してる研究者~教養人向けの雑誌に依頼を受けて研究成果を発表するとか(岩波書店の『思想』とか,青土社の『現代思想』みたいなやつね),査読されてないけど業績としてカウントされ得る論文の発表形態というのはいくつもあるので,査読論文以外にそれらも論文としてカウントしないとフェアじゃないと思う(ただ,私は査読がついていない媒体に出すのは怖いなと思ってしまうので,なるべく査読誌に出している).

別に理系のひとが査読つき英語論文のみを業績としてカウント和文論文勘定しないというローカルルールをお持ちなのは結構なのだが,そのローカルルール文系押し付けないでいただきたい.

私が危惧しているのは,上で書いたような日本語で積み上げられた先行研究が,日本人に真っ当に評価されていないことだ.

文化の豊かさというものを考えたときに,自国語で世界中の情報を知ることができるということが,どれだけ重要なことか.まして,日本コンテンツ産業が主要輸出品目のひとつだ.中世ヨーロッパアフリカ部族社会について日本語での研究が充実していることが,創作者が想像の翼を広げる上でどれだけ有利か.たとえば最近Cuvieという漫画家さんが『エルジェーベト』というオーストリアハンガリー舞台にした漫画を描いていたが,巻末の参考文献にはずらりと日本人が和文で書いた研究が並べられていた.

別に文化に限ったことではない.政治経済,そして人権についてもそうだ.ルワンダ虐殺スレブレニツァの虐殺について日本語で書かれた研究があるのとないのとで,どちらの方が日本人にとって国際情勢を理解やすくなるだろうか.外国で一旗揚げようと目論む商売人にとって,その地域専門家が書いた本や論文和文で手に入るのと入らないのとで,どちらが現地の文化や歴史理解する助けになるだろうか.欧米フェミニズムについて日本語研究を積み重ねる学者がいるのといないのとで,どちらが日本女性の権利の向上に資するだろうか.

すべての国が自国語でこれだけ充実したアカデミアを持てるわけではない.人口があまりに少ない国ではどうしたって物理的な限界があるし,人口が多くとも植民地支配の歴史が長く自国語の大学教育が充実していない国では歴史的遺産がその発展を阻む.

日本人は恵まれ研究蓄積にあまり無頓着なばかりか,その豊かさをみずから捨て去ろうとしている.それが私にはもったいなく思える.

英語は,世界の始まりから覇権言語だったわけではない.明治時代日本医師ドイツ語で論文を書き,外交官たちはフランス語で交渉していた.英語外交学術の分野で覇権を握ったのはせいぜい戦後のことで,それまではフランス語やドイツ語と同格の存在だった.今も文系ではprimus inter paresに過ぎない.ひょっとしたら将来,欧米物理学者たちが中国語で論文を書くことになるかもしれない(そのとき現在私たちが定冠詞や三単現のsに悩まされるように,欧米人が泣きながら漢字習得するのだろう.そう考えるとなんとも愉快な未来予想図だ).せいぜい百年単位覇権言語の移り変わりにあわせて,自国語の学術言語としての地位貶める必要はないと思う.それは私たち社会の豊かさを,長期的に損なうことなのだから

最後に.

どうせ和文論文しか持ってないやつの負け惜しみだろって思ったひとがいるかもしれないけど,和文論文だけじゃなく英語論文も書いたことあるし,英語以外の外国語での論文も持ってます.今それとは別の外国語での研究発表を準備中.私より多くの言語研究報告してきたひとにならともかく,たかが1言語か2言語しか論文書いてないガラパゴスの住人にだけは文句言われたくないですわ~~~~~~.

追記

英語論文が優れているとは言わんけど、査読なしの研究なんてゴミだし。

日本国内の、査読なし論文が実績になる分野の教授たちによって、査読された研究にも何らの価値も感じない。

anond:20181008221502

id:bocola 自分でも言ってるように査読しなの問題査読なしの論文なんて、読書感想文と変わらない程度の価値。やはり文系は無価値だと改めて思った。

arXivのない世界からやって来たのかな? グリゴリー・ペレルマンって聞いたことない? 査読なし論文が業績としてカウントされてるひとだけど.

事前の査読は,論文信頼性担保するための手続きひとつであって,それが欠けている「からダメ論文というわけでも無価値というわけでもない……というのはわかってくれるよね? 当たり前だけど論文価値は最終的には書かれている内容に依存するわけで,だからこそペレルマン査読なし論文であってもポアンカレ予想を解いたと認められたんだよね.

私も査読はないよりはあった方がいいと思うけど,査読がすべての論文につくわけではない分野のすべてをダメと論ずるのは不当すぎる.まあ最近文系査読重要になってきているし,若手は査読つき業績を増やしたがっているけれど,査読がつかないかダメとは限らない,ってだけの話.当たり前だけどダメダメ論文は後発の研究によってちゃん批判されるか鼻にもかけられず無視される.公募の際には論文を提出させたりするんだから査読なしダメ論文を量産していればそこで撥ねられるでしょ.理系ローカルルールで事前の査読必須なのはよくわかったけど,そのローカルルール文系敷衍されても困る.

id:zyzy まぁでもこの噛みつきは、もうすでに南京大虐殺の時に通った道だし、虐殺否定論者と同じ轍を踏み続けている以上、恐らくオタにこの説明が通ることはないんですよ。

私もオタクですが.

追記

続きは anond:20181009084352 anond:20181009213503 で.

2018-10-07

NHK京橋発音が違う

NHKニュース築地市場最終日についてやってたけど、

築地市場の成り立ちで京橋が出てくるんだけど、

発音が違う~~~!

江戸っ子発音は「きょう↓ばし」ではなくて「きょう↑ばし」なんだよ~~。

NHK京橋の「きょう」を「今日」と同じ音で発音してて、聞いててすっげー気になる。

他の都府県で同じ地名場所そうかもしれないけど、東京日本橋の隣は違うんだって!!

2018-10-01

anond:20181001185047

そもそも回天は「天下の形勢を一変させること」という意味

寿司を食べるとき上下を引っくり返してネタ側に醤油をつけることから

江戸っ子たちがシャレで「回天寿司」などと言っていたのが

戦後になって軍艦巻きが広まるとそれから連想

人間魚雷と結び付けられるようになっただけだぞ。

2018-09-30

anond:20180930152725

詮索しすぎない適度な距離感

あっさりした性格なのにちゃんと声掛けしてくれる江戸っ子

よそ者ばっかりの混沌とした「みんな孤独なのね」という雰囲気

結構みんな優しい

モノを無くしても交番や駅に届けをだせば必ず出てくる

2018-09-18

そばつゆを半分しか漬けないアホ

そばつゆを半分しかつけないのが江戸っ子だとかそば香りを楽しむだとか言ってるアホが一定数いるんだけど

そもそも水をあまり切らずに出てくるような店での食べ方だってのを知らない人多くね?

普通の店ならそのまま漬けて食べるんだが

2018-09-02

江戸っ子って

宵越しの茶は飲まないそうだけど、PETボトルお茶は飲むんだな

2018-08-27

anond:20180827213524

江戸っ子からしたらみんな早く地方帰れって思う。そしてもっとテレビネットも色んな場所の話をして欲しい。東京ばっかりでウザい。広い世界を見せて欲しい

盆は人が少なくて最高だったな

2018-08-13

江戸しぐさ「鳴らず入り」

江戸時代町人たちはお互いを思いやり、映画館に入るよりも前にスマートフォンの電源を切っていた

また、目を暗闇に馴らすために蓄光腕時計をすることも避けたという

現代にも通じる江戸っ子の粋な心がけですね

薩長江戸っ子を大虐殺したってマジ?

これせごどん放送中止するべきやろ・・・

2018-08-03

anond:20180803144200

舌打ちっても、軽く つっ くらいなのかもよ。

江戸っ子の口癖、ってやんでえアンチクショウめ、程度の

江戸しぐさ考古学考察

江戸しぐさの前史として語られているものに、江戸っ子虐殺がある。

江戸の空を焦がすほどの焼却も行われたという。

さて東京オリンピックにともなう工事で、江戸時代の遺構が多数発掘されたという。

土層には明暦の大火などを示す焦土層がいくつか発見されているそうだ。

そう、土層にその痕跡があるはずなのだ。(未完)

2018-07-09

東京まれ東京育ちの俺が田舎生活を求める内面解説する

anond:20180709095054

わいは多分5代くらいはつづく東京まれ東京育ち。23区内に実家があって(両親はもう他界したので)そこに世帯主として住んでいる。とは言え別に金持ちじゃない。上野秋葉原には自転車で30分くらいでいけるけれど山手線圏内に住んでるわけじゃないし、車も所有してない。

そういう割合ベタベタ江戸っ子なおれが田舎暮らしたいなあと思い、実際家を探したり年に10回程度は出かけるわけだが、その内面解説する。

んで、その内面とは、別段移住なんて考えてなくて、もう一個拠点を持とうかってだけだぞ。打ち合わせとか都内であるけれど、幸い自営業で月の大半は自宅作業しても許されるから、どこか涼しいところにセカンドハウスがあれば捗りそうだなあ、ってだけだ。

すごく極端なことを言えば、温泉のある寒村のゲストハウスを月単位レンタルできればいいなーとか、そんな程度の話だぞ。

田舎暮らしの面倒なこと、不便なこと、人間関係の面倒臭さ、義務。そんなものいまやWebで赤裸々に語られているわけでしょ? それでもなお田舎拠点ほしいなあ、なんていうのは、そういう暗黙の田舎要求を全部踏み倒して、自然や静けさや気候なんていうメリットだけを享受するつもりだし、出来る目算があるからだぞ。当然撤退用の後背地として東京の自宅は保持した上での話だぞ。

そもそも引っ越してきちゃって物件土地をもったらそう簡単には逃げられないんだから、その後に条件を後出しして絡め取ってやろう」みたいな発想が、まさしく田舎者の発想だぞ。企業でもそういう所ある。結婚した直後とか家買った直後に海外に飛ばせば断れねえだろうみたいな。田舎はそういうゲス根性に自信持たないほうがいいぞ。「そうなんすかーほなさいならー」って言えちゃうのが現代人だ。

田舎生活に憧れているなーって言う人で、よっぽど浮ついている人は完全移住とか財産はたいてみたいな人もいるかもしれんけれど、大半は俺程度の保険もかけつつの「いいなあ」だと思うぞ。

2018-07-07

anond:20180707020402

東京で何するの?

夏休みなんて

生粋江戸っ子さんはいそうだけど

地方からの元気な若い上京組が夏休み帰省で、奇抜な格好の人とか変な人なんてかなり減ってる時期でつまんなくない?

コミケのお客さんはまた毛色が違うし。

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