はてなキーワード: 水力発電とは
何がダサいんだよ?
水力発電だけでエネルギー自給率700%だかあるっていうノルウェーは、即座にガソリンエンジン車とか全廃可能でEV使い放題!ヒュー!Cool!!って言われてるじゃんw
経済効率とか国益とか二の次にして、とにかくCO2排出量をゼロにするの最優先!みたいな風潮が高まってるけどさー
山の上とかにソーラーパネルびっしり敷き詰めて、自然破壊だとか土砂災害のリスクガーとか言われるんだったら、もうニッポン全国、過疎地の山奥を全部ダムにして水力発電に全振りしちゃうってのはどうよ?
今の10倍くらい水力発電すれば、火力も原子力も無くしちゃって、再生可能エネルギー100%くらい楽々達成できるんじゃね?
国土の7割だか8割だかが山なんだし、温暖化でむしろ降水量は増えてるようだし、治山治水の必要性から言っても、ダムをガンガン造るのは非常にスジがいいと思うんだw
「ノルウェーでは新車販売のほとんどがEV」になっていることが、「真冬の立ち往生に当たってしまったら、命の危険がある。」ことの解決にはならないと思うが、確かにノルウェーは世界一EV車比率の高い国ではある。
北海油田を持つノルウェーは、石油と天然ガスの大量輸出国(エネルギー自給率が700%ある)なので、脱炭素化には、EV車の比率を上げなければならない社会事情がある。
そのために様々な助成(補助金、税制優遇、割引など)政策がおこなわれており、また電気供給用スタンドなどのインフラの整備もすすんでいる。
また、ノルウェー国内で使われる電力の約95%以上は水力発電なので、ここも脱炭素化とあいまってEV車の比率を上げる政策をとりやすい。
エネルギー自給率約11%の日本としては、いろいろな面であまり参考にならない国の例ではある。
真冬の立ち往生で24時間以上、車のエアコン暖房をつけっぱなしにしても、50km以上走ることができる仕組み(バッテリーの改良、エアコン効率の向上など)が開発・搭載されて、なお現在のハイブリッド車同等の購入価格でなければ、個人的にはEV車は選択肢にあがらないと思っている。
https://anond.hatelabo.jp/20210912143002
https://anond.hatelabo.jp/20210911215734
割と無理がある話なので、注釈を入れようと思うよ。
まず基本的なことを確認すると、「ベース電源」、もしくは「ベースロード電源」っていうのは、コストが安くて24時間定常に発電する電源のこと。消費の変動に追従するのは難しいけど安い火力や原子力発電を動かしっぱなしにすると良いよね。という話。
そういう話なので、再エネの値段が原発などより下がって、再エネで24時間まかなえるようになったら、わざわざ「ベース電源」という言葉を使う必要はなくなる(原発も火発も廃止される)。というのは正しい。で、「メリットオーダー」という言葉は、各電源のコストを並べているので、「メリットオーダーで再エネが勝ってるから原発も火発もいらねぇ」、というのは一見正しそうに見える。でもそこには2つ落とし穴がある。
これは、元増田も言ってるけど、限界費用(発電に必要なランニングコスト)で決めてるというのがトリック。限界費用はざっくり言い換えると燃料費。もっというと発電設備の建築費などの初期費用は含まないもの。でも冷静に考えたら、初期費用だって消費者が負担してるはずなんだよね。メリットオーダーはあくまで電力卸取引市場での指標であって、消費者が支払うコストには初期費用が減価償却的に含まれる。にもかかわらず、メリットオーダー主義で再エネを増やすとどうなるか?国民が負担する電気代がドコドコ上がるのである。逆に言うとそのつもりがないなら原発や火発はまだまだ現役になる。この手の話に興味のある人なら、「太陽光は高い」、「原発は安い」という話を聞いたことがあると思う。これとメリットオーダー云々は実は矛盾なく両立するのだけど、これはメリットオーダーには初期費用などを含まない、というカラクリがあるから成り立つ話。
ドイツなんかはこの辺無視してメリットオーダー論などでゴリ押しして脱原発と再エネ増強を推し進めてるので、電気料金は2000年代の倍にまで膨れ上がっている。これについては、ドイツのような「再エネを増やすためなら国民が苦しんでも構わぬ」スタイルは菅直人が日本でもやっている(一般消費者の電気料金に、高いのに無理やり増やした再エネ分の価格が再エネ賦課金として上乗せされている)ので他人事ではない。一般消費者や産業界から批判されて減速しているが、今でも再エネ増強至上主義と国民負担軽減派で綱引きをしている状態である。
なんであれ、メリットオーダーなどではない、本当の意味で「再エネの方が原発や火発より安い」日が来ない限り「ベース電源」という言葉は生き続ける。
要は、再エネを増やしすぎると電力網が変動に耐えられず破綻するよ。って話。再エネは出力が安定しないが、電力というのは24時間365日「消費電力=発電電力」でないとならない。雨の日で太陽光パネルが発電しなくても工場は動くし、風の強い日にガンガン風車が回っても消費者は寝てるかもしれない。これを逸脱すると、普通に停電が起きるようになる。ヨーロッパやアメリカ一部地域で停電が多いのはそれも要因になっている。
現状再エネの変動にどう対処しているかというと、まずは広めの地域で電力網を接続することで、変動をマシなものにしている(平滑化)。つまり「こっちの地域は曇って太陽光の発電が減ってるけど、あっちは晴れてるから変動がマシになってる」的なやつである。とはいえ、それは限界があるので、日本の場合だと揚水発電を含む水力発電のような変動に追従できる電源が吸収して最終的には帳尻を合わせている。そして、そこの吸収力を超える分は電力会社が拒否している。無理に吸収すると電力価格が上がるからである。
ヨーロッパはドイツの先導で「吸収できるかどうかなんて関係ねぇ、再エネ増やすぞ」をやってるので、電力会社(というか電力網)は再エネを拒否しない。ヨーロッパは日本より広いので平滑化は上なのだけど、それでは足りないので変動を全然吸収しきれてない。どうしているかというと、値段が上がる代わりに変動に追従できる火力発電を炊いたりしてなんとかしている。前述の電力価格上昇の一因にもなっているし、ドイツは気候変動対策も掲げて再エネ増やしたはずなのに、二酸化炭素排出がなかなか減らないという状態に陥っている。
現状「再エネ先進国」として元増田が想定しているであろうヨーロッパ各国は、原子力や火発をベース電源的に動かしている(のでそもそもその時点で「ベースロード電源という概念は、再エネ先進国ではもう意味がなくなった」はおかしいのだけど)ので、再エネで本当にベース電源という概念を捨てるためにはもうひと頑張り再エネを増やす必要があるのだけど、実際にはもう相当無理が来ていて、元増田が推している電力卸売市場でも「負の電力価格」がちょくちょく出てきている。つまり「金を払って再エネで発電した電力を吸収してもらう」という状態である。今の所負の価格発動はあくまで短時間ではあるが、更に再エネを増やせば当然こういう時間は増えることになる。この辺さらに無理をすると、発電屋さんから電力網への電力の売値が平均値でも下がりすぎるということなので、再エネ発電屋さんは初期費用を回収できなくなるので発電事業が成り立たなくなる。この辺は1つ目の落とし穴とも絡む話である。
ベース電源が消えるためには上記を解決しないといけないが、現状は解決していないので、ベース電源という概念はまだまだ現役である。というのが結論。まぁ、ドイツの電力価格がガンガン下がったり、火力発電の発電割合が下がって来ないうちは、そのへんは解決されてないと思って良い。
基本的にヨーロッパの政治は、日本的な「実現可能そうな目標を掲げる」ではなく、「最初に無理な目標を掲げて、何年もかけて実現可能レベルに修正する」という流れがあって、有権者もそれを許容しているところがある。ドイツの脱原発とかもそう。それは別に必ずしも悪いことじゃないのだけど、最初のぶち上げのときにもそれなりの論理が求められるので、政治家がハチャメチャ目標を掲げる時にはシンクタンクによるハチャメチャ試算がくっついてるのがヨーロッパである。日本でも少子化対策について政府が出してる試算に無理がありすぎるとかって時々話題になる(いつの試算でも2~3年後には出生率がV字回復を始める試算になっている)が、ヨーロッパでもそれはあるというか、よりひどい傾向がある。なのでヨーロッパ発信の先進的なアイデアについて、それらしい試算が出ていても眉につばを付けたほうが良いよ。って話。
そういう背景があるので「baseload outdated」とかってググるとそういう記述は出てくるかもしれないけど、今の所はそういう記述は活動家が「そういうことにしたい」から書いてるだけだと思って良い。まぁ、そもそも日本語でも「ベーシックインカムをやるしかない!」とか「英語学習には「ながら聞き」が最適解!」とか突飛な記事なんかいくらでも出てくるので、そもそもある記述がグーグル検索で引っかかるからってそれがその言語圏での常識ではないよね。というリテラシーも欲しいところである。
その一報を父から聞いて胸中に去来したのは、幼き日の思い出ではなく、むしろ長じてから度々意識した故郷の衰退のイメージだった。
元より地場産業として誇れるものが取り立ててあったわけではない地元は、緩やかだが確実な経済的衰退と人口減少の影響を受け、公共施設の老朽化や各種インフラの経年劣化という形で自治体としてのほうれい線を隠す術を失っていった。
それでも、いや、それゆえに明確な転換点などなく、ただゆっくりとした老化から鈍感なふりをし続けた首長、自治体、そして何より住民が半ば共犯のように地元の腐敗と死滅とを看過していった。
だからこそ、いまさら太陽光発電などで延命を図ろうとする醜さにほとほと嫌気が差した、その実感があった。
それでも友人の結婚式に出席するために数年ぶりに帰省してみると、どうも聞いていた状況と乖離があったために改めて確認を取ったところ、どうやらこの度設置が決まったのはソーラーパネルではなく、例の宇宙太陽光発電の受電設備ということらしかった。
年齢を重ねたが故に知識と語彙の更新をやめた父をいまさら責める気も起きず、数か月前にニュースサイトで多少話題になっていたトピックに思いを馳せることで2次会の無聊を慰めていた。
令和4n-21年に決定された第n次エネルギー基本計画では、ついに原子力発電の占める発電電力量の占める割合が0%になった。
平成の震災とそれに連なる事故以降窮地に立たされていた原子力産業はついに時勢に降参し、明るい未来のエネルギーから歴史の教科書上の記述となることを選んだ、という建前を本気にしている奴は少々イデオロギーに傾倒しすぎているきらいがある。
現実は、国内ソーラーパネルメーカーの開発した、そこまで安価とは言えないまでもそこそこ効率改善の図られた新型パネルを推したい産業界が、細々と開発を続けていた国産ロケットのペイロードの使い途を探していた経産文科省に仮託した、おままごとのような科学技術的国威発揚の煽りを受けた全廃、と言ったところだ。
どこまで行っても消極的な退場に、却って日本という国を感じざるを得ず、左派メディアのこじんまりとした勝利宣言にわざわざ難癖を付ける余力もなかったと見え、平成後期から令和初頭に掛けてあれほど紙面を賑わした役者とは思えぬほど粛々としたレームダック期を享受していた。
実際、人々とメディアの関心は、中国による、気前の良い提供と、経済協力を人質に取った押し付けの中間の様な形で供与された受精卵遺伝子改変技術をどれだけ受け入れるかという議論にあった。
(科学技術という側面において現代日本が中国に対して如何にサブジェクト・トゥしているか、という話だ。宇宙太陽光発電所はさながらパクス・シニカに立ち向かうドン・キホーテのようだ、と明に暗に揶揄された。)
日米原子力協定の次回更新がないことは誰の目に見ても明らかであり、山のように余っているMOX燃料の行き先はIAEAも知らないようだった。
そんなことだから、中間貯蔵施設という名目の、事実上の最終処分場たる六ヶ所にすべてを押し付け、政府と行政と大多数の国民はNIMBYの精神を遺憾なく発揮することで各々の精神の安寧を獲得していった。
とにかく、ことの主犯たる国産宇宙太陽光発電所は「ひかり」という、加齢臭むせ返る横文字の候補群からはなんとか逃げ果せた通称を拝命し、20GWもの大電力を供給し始め、東京万博会場の灯りが一斉に点った日をもってひとまずのプロジェクト成功と見る向きもあった。
(日本による宇宙開発の数少ない世界的成功に肖って「はやぶさ」なんてネーミングを推す動きもあったが、流石にこの国にも一抹ながら恥の概念は残っていたらしい。また、「まりし」などという旧動燃の残留思念、いや怨念が具現化したかのような案も提出されていたもと聞くが、真偽の程は定かではない。)
実際、こんな大規模プロジェクトを実行する能力とエネルギーをこの国がいまだに持っていたことに驚いた。
ただ、ひかりから降り注ぐ高密度のマイクロ波を分散して受電する設備、すなわち受電所の立地が不足していると言う問題は依然として解決の目を見ていなかった。
安全よりも安心を求める国民性に変わりはなく(「焼き鳥デモ」の映像を見たときは流石に乾いた笑いしか出なかった)、電源交付金も雀の涙と来れば宜なるかな、積極的に手を挙げるごく少数の自治体は奇異の目で見られた。
とはいえ、大流量の循環水系のために沿岸部であることが求められる汽力発電でもなく、大規模な河川と高低差が求められる水力発電でもなく、只広い土地さえあれば良いというだけの必要十分条件は今まで大規模電源立地となることなど考えもしなかった自治体の目には福音として映ったらしく、それらの首長は新たな時代の権益ホルダーとなることを選んでいった。
反対に、新規制基準適合審査の遅々とした進展と繰り返される住民訴訟、そして最終的な結論としての廃炉の影響をもろに受けた原子力立地の反応はさっぱりであり、政治の影響をもろに受ける歳入に頭を悩ませられるエネルギー立地はもう懲り懲りと言った風情で、役人の誘いをアイリスアウトの向こう側に押しやっていた。
結局、ひかりの設計容量のすべてを受電するに必要な30GW分の受電所を運開当初から用意することを諦め、漸次募集という名の先送りを決定した政府は経産文科省を矢面に立たせることを選び、自らは飄々としていたというのだから大したものだ。
結局、運開から5年が経過した段階でもひかりの擁する200k㎡に及ぶパネルの3分の1は折り畳まれたままであり、白衣十人黒衣五人などと不必要な比喩を披露した大臣はメディアの総バッシングを浴びる権利を恣にしていた。
そうした、古式ゆかしい伝統的な時勢の中で、2次立地募集に手を挙げた自治体の内の1つが、我が郷里だったのである。
「親父が色々動き回ってたみたいなんだけど、さ。正直言うと、あんま関わりたくないなってのがあって」
私の友人であり本日の助演男優、またの名を新郎が、半分ほど空けたアサヒビールのジョッキをテーブルに慎重に据えながら、疲労を隠さぬ赤ら顔で言う。
彼の父親は町議を務めており、「太郎」というシンプルすぎる名前も出馬を見越して付けた名前だと言っていた。
(国政選挙に出るわけでもないのにな、とは彼の自嘲だ。)
その親父さんはどうやらこの度の誘致に際し懸命に旗を振っていたという。
しかし、僅かばかりとは言え受け取る交付金と、"多少の"造成による環境破壊と、電源立地になるという誇り(この価値観だけは共有が出来なさそうだ)と、それら3つをとりまく可愛らしい権力闘争の予感に、父親の説得と説教とに玉虫色の回答を重ねることでのらりくらりと回答の明言を避けてきたのだという。
彼のこの手の身のこなしは素直に凄いと思うし、そうした人付き合いに嫌気が差していた、というのは私の上京に係る動機の半分を占める。
「でもお前、今更そんなこと訊いてくるだなんて、本当にここの人間じゃなくなっちまったんだな」
この地でこの話題が取り沙汰され始めたのは軽く2年以上は前だという。
誘致か否かで侃侃諤諤の論争があり、どこに建てるかでまた侃々諤々の論争があり、さらに用地買収に係るあれやこれやのトラブルがあり、それでも最終決定がなされたのがひと月前というのだから、どれほど地元の世情に疎くなっているかを実感させられる。
あるいは、上京して好き放題やっている(ように見える)私に対する軽蔑と嫉妬の念が多少なりとも混じっていたのかも知れない。
なるほど、確かに私には家庭もなく、親族との濃密な付き合いもなく、仕事周りの土地付き合いもなく、自由気ままにやっていると言われても反論する材料がないことに気づく。
であるなら、こんな日くらい友人の愚痴と誹りを受ける義務も果たすべきだろう。
そう思って、コークハイを傍らに、言葉少なに彼の言葉に相槌を打つことに決める。
まったく、本当に大変な役回りだと思う。
返す返す、自分には出来る気がしない。
翌朝、久々に実家の自室で目を覚ますと(物置と化していなかったことに驚いた、こうした面に関する母の義理堅さには感謝しても仕切れない)、やはり気になっていた裏山に足を伸ばした。
アルコールが多少残ってはいたが、丁度良い運動だと体に言い聞かせて路を辿っていく。
子供の時から変わらない、というのはフィクションの中にだけ許される情景で、長らく人の手が入っていないことを伺わせる荒れ様には流石に心のどこかが痛んだ。
…いや、いや。
よそ者同然と化したお前が捨て犬に見せるような仏心を発揮して碌なことになるのか?
もはや何も言う権利などないことに遅ればせながら気付き、せめて在りし日の遊び場の記憶が損なわれぬよう、路の途中で踵を返した。
もう2度と見れぬであろう山の景色を視界から追いやり、そういえば客先から急ぎの問い合わせを受けていたな、などと頭からも追いやり、足早に帰路に就いた。
帰路。
実家への帰路か、東京への帰路か、自問せずとも回答は明白だった。
思い出深き裏山は、もはや私の裏庭ではない。