はてなキーワード: 殿堂入りとは
「スギ花粉にすぐ反応してクシャミばっかりする人たちに、私は心底うんざりしているのだ」
ってのは、ちょっとどうかと、俺は思う。
ヒドイ自称をしてるが、俺は映画やドラマやエンターテイメントが好きだ。
(作品を貶すよりも)鶴を見つけたと叫ぶ方が有意義だと思ったから、そうした。
批評家から酷評されようがファンからブーイングを受けようが映画館に足を運ぶのは、そこに輝きがあるからだ。
例えば昨今のイカ人気に便乗するなら「ザ・ビースト/巨大イカの逆襲(1996)」というパニックムービーがある。(日本では劇場未公開・TV公開)
娘に海の無慈悲さを説く主人公である父親には(ゴジラ作品に通ずるような)自然への畏敬がある。
ただ、有り体に言ってジョーズの何番煎じかの作品で、秀作とは言えオススメするのは難しい。
しかし、単なるパニックムービーに深みを与える演技を魅せた主人公のWilliam Petersenは、
「CSI:科学捜査班(2000~)」でギル・グリッソムを演じ、ハリウッド殿堂入りを果たしている。
つまり、どんな作品にもそこに関わった人間の思いが込められているし、
駄作と酷評されるような作品にも、愛と信念を持って臨む人間が居る。
こちとら最初から「何が(何を持って)成功か失敗か」という話はしていないんですよ。論点分かってくれ。 /この人のように実際に観てから言ってる人には何も言うつもりはないんです。
十分に論点を理解した上で書いたが伝わらなかったのは俺の力不足だからだろうし、
これが個人攻撃に見えてしまったり、曲解した上で叩いているように見える可能性もある。
ので、ゴリッとidを入れておいたので、不愉快に思ったら手数をかけるが削除申請して欲しい。
少なくとも「自分の好悪」であると主張しているのは、俺は好ましい態度だと思う。
だからこそ、共通点を探ろうとブログを読み(slinky_dog_s11さんの好きであろう)ゴジラシリーズを週末かなり観た。(正直キツイし時間かかった……)
だもんで例示としてあげるのはローランド・エメリッヒ監督のGodzilla(1998)にするが、
俺は、パニックムービーとして良く出来ていると思う。ジャン・レノも良い味出してるし。
しかし、「ゴジラ」ファンがこれを「ゴジラシリーズ」として認めるかは、意見が割れると思う。
ゴジラ(1954)にある自然への畏敬や人間社会への風刺はホトンド無いし、
フォーマットとして確立していたゴジラvs怪獣という点も無く、独立している。
そもそも、それまでのゴジラの造形からあまりにもかけ離れている。
こういったハリウッド化が何度も繰り返され、slinky_dog_s11さんの好きなゴジラや特撮が、
そうではない別ものとしてハリウッド化が何度も何度も繰り返し為されていたとしたら、
「ハリウッド化!」に対して「もう止めてくれ!」と叫ばないだろうか。
それを、「ゴジラを見ていないし思い入れも無い人」が「ハリウッド化に騒ぐ特撮クラスタは目障りだから止めろ」と言ってきたら、
「ゴジラ好き」達は、素直に「次こそはという可能性もあるから黙って待つか」と思えるだろうか。
そもそも「実写化」というのは別に本質じゃない。次元を超えるせいで、単に目立つだけだ。
例えばリメイクやリブート、コミカライズやノベライズ、もっと言えばアニメやドラマのシリーズものだってそうだ。
第三者が別のキャンバスを持って現れ、横で少し真似た絵を描き始めた
http://blog.goo.ne.jp/yukks453145/e/12eb31fc9d5080c07c838ef6fb4ea238
slinky_dog_s11さんも書いてるよな。的確な比喩だと思う。
自分の好きな絵の名前で「これこそが名画でござい!」と模写を披露してるのを、見るわけだ。
その模写は、原作の絵を知っている人間が見ると、とんでもない模写なワケだ。
もしくは、「トンデモナイ描き方を始めた」ように見えるワケだ。
例えば最近だと寄生獣(2014, 2015)があるな。放射性廃棄物を使った演出で、一炎上あった。
個人的にはね、ミギーの阿部サダヲの名演とか、寄生獣を実写で見られたというワクワク感も無くは無い。
でも、あの映画があると(あった事実は消せないよな)「寄生獣っていうのは、ああいう思想の作品なんだ」として記憶される訳だよ。
主人公に寄生する謎の生物であるミギーもさ、「なんかヒョウキンなバケモノが腕についてんな」という評価になるわけだろ。
人間から見たら冷酷な(でも事実を言ってるだけの)ミギーに対する違和感や嫌悪感、そこからの「共生」みたいなものは読み取れないわけだ。
漫画を読んだら判るはずの良さが、映画を観た人には伝わらない。
観た人に演繹されて「ああ、原作もこういう作品なのね」と思われると想像して当然だろう。
そして、そうなるであろうという不信感・違和感が、「止めてくれ!」と叫ばせるわけだ。
「ここが違う」「そこが違う」として細かな差異をアゲツラウってのは、本質じゃないと思う。
それは「不安だ!不信感がある!」という違和感を上手く言語化できないだけじゃないかと、俺は思う。
俺は、初期の段階で騒ぐのは良いことなんだと思ってる。
少なくとも、熱心なファンが居ることは伝わるわけだし、プレッシャーもかけられる。
島本和彦みたいに「原作を変えたんだから、実写も変えろ!」みたいな面白しなくても、伝わる可能性がある。
そして、この中で、作品がより良くなる可能性があるのは1番しか無い。
だから、「実写化!」にファンが即応して「マジかよ!」と叫ぶのは合理的だ。
俺は、ブコメでも言及されていた「るろうに剣心(2012)」を邦画と呼ぶのには強い抵抗がある。
(るろ剣に関しては語りたいことが山ほどあるが、本筋ではないのでここには書かない。需要も少ないだろうしな)
それぐらい、「邦画」界や「ドラマ」界隈ってのは特殊で、ハッキリ言って漫画やアニメを実写化するには向いてないと思う。
だからこそ、Twitter等でファンの声を製作者側に伝えられる機会があるなら、もっともっと騒ぐべきなんだと思ってる。
そして、そういうファンの存在を「受け入れがたいので目を背ける」コトが出来ずに「本当に嫌い」として黙れというのは、狭量じゃないかな。
http://anond.hatelabo.jp/20150619121107
(※追記:Twitterみたら個人攻撃にしか見えない感じになってたので題名を修正。あと、ゴジラ24本観終わったので、残り6本のはずだが近所でレンタルしてねえ……)
現在公開中の映画「ビリギャル」は、もともとstorys.jpというサイトに投稿された話だそうです。話題作で評判も高いということで、映画好きの僕も早速見に行きました。率直な感想は、全く感動することもなく、途中何度もつまらなすぎてしんどかったです。
改めて、storys.jpというサイトに投稿された元の話を読んでみました。まずタイトルを見て、合格体験記の1つと分かりました。ただ、いくつか「?」もありました。
とりあえず、読んでみました。
「いきなり志望校を決めるんだ。でも、目標を最初に設定するのは重要かな」
「1年半で67万人以上をごぼう抜き?う~ん、僕だったら、まず志望校の過去問見てみるけど。それから、単に合格に求められる一定水準の学力を身に付けるためにこつこつ受験勉強するんじゃないかな。そんな数字のこと考えるかな?慶應って67万人も受験してたっけ?」
冒頭から立て続けに疑問がわいてくる。大学受験の話なのに色々と長い。要は大変だったってだけでしょ。とりあえず、最後まで読むことにしよう。
すぐに、ひっかかった。
“普通の人間は、変な先入観というか、中途半端な小賢しさというか、まぁ一言で言えば頭悪いんですけど・・・”
彼女が素直だったということを説明する冒頭。「普通の人間って頭悪いんだ。へえー」
→「塾に来たのは高2の夏じゃなかったっけ。高3の10月、受験直前に来たの?」
→「何で、妹が小6で書いた地図が出てくるの?彼女の話じゃないじゃん」
“「一度死んだらいいよ」と、真顔で答えておきました。”
→「校長先生から人間のクズだと言われたても、キラキラと輝くダイヤモンドの原石にしか見えなかたのに、そういうこと言う?」
“彼女には、「学校の勉強はみんなのための授業。だから、君は君の勉強をしなさい」と指示しました。”“学校の授業って、「学校側の都合でプログラムが作られている」訳なので、それに合わせるのもおかしな話です。”
→「僕がおかしいんだろうか。塾の先生の発言が根本的に間違っているとしか思えなかった」
とりあえず読み終わった。なんかすごくあっさりしてるな、と思いました。要は、勉強頑張って大学受かりました、ということ。何も特別なことじゃないし、だから、特に感動とかありませんでした。今まで遊んでたから高い目標を設定した分だけ苦労したっていう自己責任の話でしょ。普通にこつこつ真面目に頑張っている受験生の方が僕には感動的に思えるけど、どうなんだろう。
サイトで他の人の話も読みました。“殿堂入り”って銘打っているのがまず面白かったです。前提知識なく読んでみました。
①5年でハイリスク妊娠、中絶、離婚、再婚、出産を経験した私が伝えたい4つの事
→う~ん、大変な妊娠だったんだな。ただ、周りでも聞く話だな。伝えたいことの初めの2つは、ハイリスク妊娠に関わることだけど、言われなくても分かることかな。3つ目は他人に伝えることじゃないでしょ。4つ目は、ニュースに対するただの個人的感想になってるんじゃ。
あと、ところどころ赤文字だったり会話形式にしているけど、深刻な話が何だか軽く見える気がしました。
②急に旦那が死ぬことになった!その時の私の心情と行動のまとめ
→急に旦那さんが死ぬことになり、実際お亡くなりになって大変だと思う。普通なら気が動転してしまいそうだけど、ここまで冷静に事細かく覚えていて書き記せるのはすごいなと思ってしまった。
ただ、死という深刻な話を扱う中で、会話形式の本人と旦那に使ってる写真と会話内容が少しふざけてるのかと思えてしまったのが残念でした。あと、言葉づかいが少し幼稚に見えました。
この話も、ところどころ太字にしていたり色文字にしていたり、読みやすく工夫しているんだろうけど、なぜか言葉使いと併せて軽く見えてしまいました。
だけど、本人曰く、暗く嫌な話で、今思い出しても涙が出てくるのに、清々しいくらいさばさばと書いているのは感心しました。(笑)の多用とか。僕だったら、悲しくてこんな風にライトなタッチで書けません。
③あいりん地区で元ヤクザ幹部に教わった、「○○がない仕事だけはしたらあかん」という話。
→タイトルにあるカタカナ3文字で、僕が決して触れることのない世界だと分からせてくれて良かったです。
ただ、根本的に僕は受け付けない話でした。
人生を教わる相手が間違っているし、教わっている内容は人生じゃない。
“充実感のある仕事”。そんなこと、言われなくても分かってる。それに、言ってる人間が間違っている。説得力が微塵もない。よく真に受けれたなと感心しました。
この人、何の仕事してるんだろ。詳しく書いてくれたらいいのに。
④電車に轢かれて脚を丸ごと一本切断したサラリーマンが、半年後義足で職場復帰した話
→今週の読んでよかったランキングというのがあり、その1位も読んでみました。
どうして電車に轢かれたのか、何で書いていないのかが良く分かりませんでした。事故などで障害になり、それを克服することは素晴らしいことだと思います。けれど、もしもこの人がお酒に酔って転落した、などというのであれば、悪いけど、自業自得でしょ。ちょっと違うんじゃないかな。なぜか24時間テレビを思い出しました。
○総じての感想
確かに1つ1つのストーリ自体は一見して“感動的”に映りました。けれど、なぜだろう、書き手と読み手、そして双方を含めたサイト全体が、結果としてその感動を軽く扱ってしまっている気がしました。タイトルや文中で使われるカラーの文字や太字などが話しを誇張気味に書いているように見せて、途中の会話形式の使用や、まるで決められた設定のように最後に教訓めいたまとめを必ず書いているところ。何よりも、話の中の重要な事実の背景が省略されていたり説明不足だったりするところが読んでいて不思議でした。冷静に読んで色々と考えてしまう僕が変なのかもしれません。もっと軽い気持ちで読むと軽い感動が味わえるのかもしれません。そう思いました。
ブラックリスト入りについて私が一貫していってるのは「通報しまわってるスパムの存在」だ。
あるゲームの言葉を引用するなら「アノニマス・カワード(匿名の卑怯者)」がいて、はてなを荒らしてると考えている。(ここに書くこと自体がアノニマスだから、カワードと言われても文句が言えないけど)
これは根拠があって言うことだが、はてなはこの「カワード」について駆除する気がなく、駆除しない代わりに「カワードの被害を埋め合わせる」という方針で動いていると考えてる。
私はささやかながらブログ書いている。そして、11月中にカワードの被害に遭ってか、新着エントリーに載らないこと続出した。
時間もブクマ数も満たしていて、ブクマするユーザーも同一なのは自分のセルクマだけ(セルクマさえしない時もあった)が新着エントリーにもカテゴリにも載らなかったことが相次いだ。
当然性的表現などは載せてなく11月初頭までは大半は所定の数がブクマされた場合、新着エントリーに載っていた。9月・10月にもないわけではなかったが、11月にもあったので、ブラックリスト入りしてしまった。
カテゴリを変えれば載ることもあったが、小細工をしても載らないこともしばしばあった。
新着エントリーに時間通り掲載されて伸びなかった記事は仕方ない。自分の書いたものが良くない・ウケない場合は甘んじて受け入れる。しかし、ルール通りに動いてルール通りの結果が出ないとなれば話は別である。
ところが、11月末になり、急に流れが変わった。急に新着エントリーや人気エントリー載り始めた。
ここからが、ブログを持ってる私がわざわざアノニマス・カワードとしてエントリーを上げる理由になっているヤバい仮想。
急にブログが伸びた。…はじめは「良い物を書けたからだ」と思っていたし、実際に評判も上々だった。
しかし、いつもと違う事が1つ起こった。エントリーがはてブから消える目安の「一日」が経過しても、該当記事はずっと伸び続けた。
該当記事が伸びた理由を調べるとはてなブックマーク公式でカテゴリーにテコ入れが入り、新しくできたカテゴリーがトップページの下の方に掲載されたからであった。
しかも、同カテゴリに新しい人気エントリーが出てもしばらくは私のエントリーを新設のカテゴリーとそれを宣伝するはてブのトップページのいいところに置いてくれた。
「考えすぎ」だとは思うけれど、その「考えすぎ」な理論でもない限り不自然なほど、結果的にはてなブックマークは私に埋め合わせをしてくれた。
「偶然に偶然が重なった」「日頃の努力とご愛好をはてなに評価された」と思うこともできたが、周りのブラックリスト入り問題を見ていて少しづつ今書いている仮説へと変わっていった。
考えすぎで「仮説の域を出ない」話ではあるが、これは他の人にも言える話だ。
ブラックリスト入りしたのでは?と疑問視されたブログの多くは該当エントリーもしくは次の人気エントリーがはてブでは話題になるように置かれている。
実際、無数にいるアノニマスの中でカワードだけを抽出するのは膨大な手間がかかる上に、いたちごっこの泥試合になるからその判断自体は経営として、カネ・人のリソース管理の観点から正しい。
しかし、ユーザーに損をさせれば「愉快犯>エントリーを上げるユーザー」という構図ができるため、「アクセスやブクマ上は損をさせない」というのが運営側の妥協点ではないだろうか?
誤認逮捕に賠償金を払うようなもので、これ自体はそこまで筋の通らない制度ではないと思うが…どうにもこれではカワードは駆逐できないし、カワードによるスパム行為を止められるとは思えない。
個人的にはニコニコ動画でいう「殿堂入り」カテゴリ(東方・ボカロなどをランキングを独占して多様性をなくすジャンルを隔離するために作られたカテゴリ)を新設して特定の人気ブログを隔離するのがいいと思うが…懸念も1つある。
それはニコ動が「殿堂入り」を導入した後の全体のランキングが恐ろしくつまらなくなった(人気実況者の実況プレイ動画の続編モノばかりになって、初見の人が見られる動画がなくなった)り、ニコ動文化の代名詞という側面すら持ってたボカロに代表的なヒット曲が消えてヒットや人気が内向きになった。ボカロ曲自体の多様化・ボカロが1ジャンルとして確立されマニアが生まれたせいでもあるが、かつてよりもずっと高いクオリティを持つ動画が全体の目につかなくなった。
「ニコ動うp主のユーチューバー化」とでも言えばいいか?カテゴリや動画サイト全体で盛り上がってたカルチャーが徐々にすごい個人を求めて見に来る人へとシフトしていき、凄いものを見つけ、共有する力が弱くなった。(あるにはあるし、昔に比べて増えたんだけど、盛り上がる「場所」がなくなってしまった)
はてなもはてなで色んな「内輪」…左翼やエンジニアやはてな村文化など様々な文化が絡まってたから他のサイトではお目にかかれないものがあった。
でも、カワードをはてなが間引いてないことで、殿堂入りカテゴリを作って「村を隔離させながらも定着させる」か、ブラックリスト入りと埋め合わせを繰り返して「村の人気ユーザーが流出する・はてな運営にあった信用を減退サせていく」かの二者択一にあると思う。
今後の情勢が気になるけど…私にはどうすることもできないので、「理想はカワードだけをうまく消してくれること」という無理な希望だけを言ってこのエントリーを終わらせていただきます。
http://www.itmedia.co.jp/internet/runner/0308/sp1/
あれも欲しい。これも欲しい。ネットにあるもの全部欲しい。欲望をむき出しにして、
自分が欲しいと思ったものを根こそぎぶっこぬくのは、ネトラン者の正しい姿だ。そんな欲望に忠実な人のために、
http://www.itmedia.co.jp/internet/runner/0307/sp1/
悪用こそがインターネットを楽しむ最大の秘訣。普通の人が知らないインターネットのディープな活用法
http://www.itmedia.co.jp/internet/runner/0306/sp1/
http://www.itmedia.co.jp/internet/runner/0305/sp1/
http://www.itmedia.co.jp/internet/runner/0302/sp1/
やって参りました。新年に発売ということで、今回はかなりヤバ
けする反則技の特盛だぁ!
たいていは夜の22時頃から始め、終わるのは朝の10時くらいである。
その間必死でブッコク!ずりネタは過去に買った大量のDVDに収録されたアナルだ!
アナル研究家でもある俺はDVD毎にアナルが見える時間をメモし、さらに個々のアナルを◎、○、△、無表示で評価・分類している。
◎と○はめったにあるものではないので、メインは△のアナルである。
これらのアナルを見てシコシコしながら、殿堂入りとなるアナルを見極めるのだ。
最終目的に備えるため、見極めたアナルは画像としてキャプチャして保存。
このころになると外は少し明るくなってくる。もう少しだ!頑張れ!
24インチのディスプレイを2台置き、それらにアナルと女優の顔、おっぱい画像を配置する。
配置するときはペイントを使って隙間なく綺麗に顔、乳、アナルを並べる。
これらを十分に堪能しフィニッシュする。
12時間耐久オナニーをやった日は寝不足で疲れる上、手首がすごく痛くなる。
そして翌日は違う方の手でもう一回挑戦しなければならない。
多い時で週3回挑戦していた。
「スターウォーズ」の父息子要素の扱い方はかなり好きだけど、ギリギリ主題ではないと思ったのでノーカウント。マンガだけど「鋼の錬金術師」も同じ。「ゴッド・ファーザー」はマフィアものにカウントされている。
複数の父息子を扱うと、子供はより重要になる。無垢さが傷ついたり、顕著に成長したりも。成人した息子と老父も好きですが。
血縁だけが息子じゃない!養子関係はもちろんのこと、師匠と弟子という関係でも、弟子が師匠に父親の影を見れば、父息子映画になりうる。
対比があると、よりテーマ性が際立つので。擬似息子と実の父息子、子供と大人など、組み合わせの妙が楽しめる。
物語全般への好みです。
王位を争うなどのパターン。「ゴッド・ファーザー」も1より2のほうが父息子要素は強い(私のなかで)。兄弟争いも別のツボは突かれますが。
骨肉の争いが見たいわけじゃないんだよね…。
基準を全部満たしていた!どこを切っても好き!
「そして父になる」
家庭内で母親も絡むけれど、父息子要素ド直球なのと映画自体の質が非常に高いこと、「与える側が与えられている」という自分の大好きなテーマに収束したので。
これも、好みじゃない要素が混じっているのに大好き!ユアン・マクレガーの魅力、ティム・バートンの物語への愛情が見えたのもツボだったようです。
映画自体は好きですが、おじいちゃんの挙動のおぼつかなさにハラハラしてしまった。いたわりよりも、超克のほうが好みなんです。
「MUD」
基準をすべて満たしているのに、そこまでツボではなかった。「スタンド・バイ・ミー」タイプのひと夏の冒険ものに見えたからでしょうか。
前情報入れずに見て、途中で「やったー!父息子映画だー!」と気付いて脳内で万歳三唱しました。だから、過剰な補正が掛かっていると思います。超暗いし長い。
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1位 高卒の人ってどこにいるの?
http://otatin.com/masuda/20140409132955/
http://blog.livedoor.jp/kekkongo/archives/1779986.html
3位 これから生き残る人材ってなんだろうって考えると鬱になった。
http://otatin.com/masuda/20140324204657/
http://otatin.com/masuda/20140410170944/
レコードチャイナ:中国系作家がSFの最高賞を受賞、小説の背景は日本文化―中国紙
http://www.recordchina.co.jp/group.php?groupid=76500
世界SF大会(ワールドコン)とはどのようなものかはWiki参照。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%AF%E3%83%BC%E3%83%AB%E3%83%89%E3%82%B3%E3%83%B3
世界SF大会とコミケは「はじまりの動機や」「運営方針」はほぼ同じと言っていいのだが、何故か現在のありようは似て非なるものになっている。
どこが違うのかというと、コミケは非常に閉鎖的で、権威的な賞を廃し、またディスカッションの場では無い、コミケがワールドコンと比べて特化させた部分はあくまで同人誌即売会であるという点である。
何故そうなったのか。
Wikiによると、実はコミケの前身となる「日本漫画大会」というものが1970年代にあったという。名前のとおり世界SF大会(ワールドコン)を模したものだったと思われるが、コミケとはそもそも「日本漫画大会」のようなワールドコンの批判から生まれた訳だ。そして勝ち残ったのがコミケだった、という事になる。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%97%A5%E6%9C%AC%E6%BC%AB%E7%94%BB%E5%A4%A7%E4%BC%9A
これ、今だったどうなんだろう、と思うのだが。
今、日本漫画大会のようなワールドコン方式のイベントがあればいいのになあ、なんで無いんだろう、と思ってこの記事を書いている。
グローバル化に向いているのは明らかにワールドコン方式だと思うのだが、と思って調べてみるとやはりアメリカにはコミコンというものがすでにある。
というか世界各地の同人誌即売会はどちらかというと、日本のコミケを模倣しているというよりも、ワールドコンの漫画アニメ版というものが多いと思われる。
大友克洋さんが米国コミックの殿堂入り 日本人で4人目 コミコンで発表 - 10814 - | アニメ!アニメ!
http://animeanime.jp/article/2012/07/15/10814.html
さて、2020年のオリンピックが東京で開催されるそうだが、日本人のスポーツにおける理解というのは素晴らしいなと思う、今やスポーツに対してはほとんどの人が権威がどうとか、順位を付ける是非について言わない、オリンピックというイベントを通して「スポーツとはそういうもの」という最低限必要な共通認識ができている。
つまり、イベントのありようというのは、その文化と非常に関係している。
別にマンガ・アニメ文化でワールドコンのようなものは日本がやらなくても、きっとマンガ・アニメの文化は続いていくのだろうけど、そんで海外のコミコンでたまに日本人が賞を貰って、それをありがたがる。映画のように、アメリカ、フランスとか、もしくは中国や韓国で、そういう授賞式がBSスカパーとかで生中継されるんだろう。
おそらく2020年以降、そうなって行くと思う。
クールジャパンとかについて、ワールドコンのようなイベントを国が援助して作ってほしいとは全然思わない。日本文化を海外に輸出する援助というのも必要ないと思う。
逆で、海外の文化を輸入すべき。ファンサブやワールドコンの文化を日本人はほとんど知らない。それを知って、じゃあ日本はそれらと比べてどういう事をやっていくかという基準ができるから。
具体的にあげるなら、やはり言葉の壁問題が大きい。ファンサブの中には天才的な翻訳家がたくさんいる、そういう人達のほとんどが日本に来たがっている訳だが、そういう人達の来日を援助して、日本のオタクとの交流の場を作る、それも文化の解釈議論や言語翻訳に特化した場として。そんで交流が進んだところで、出版社等が作品の輸出輸入の際の翻訳やマーケティングの人材登用に対して、上手くマッチングできるような窓口となる組織を作る。
クールジャパンの人がやることはそこだと思うんだけど、もしすでにそういう事業があるのなら教えていただきたい。
・空気が読めない
・孤独な一匹狼を演じるか、リーダーとして暴走するか極端で人間関係のバランス感覚がない
・ヒットに徹すると決めたらどんな状況でもそうしてしまう→状況に応じたチームバッティングが苦手
不振で三振の山を築いていた同僚のセクソンに対して、「三振多いね。」発言。
"鈴木の受け答えは、頭の悪い人が頭をよく見せようとしたときに見られる話し方だ"というのは、よく聞くことだ。
話し言葉と書き言葉の使い分けができないために、受け答えが変に大人びているというのは、アスペルガーの幼児期に見られる特徴でもある。
彼らには、なぜ状況に応じて表現を使い分ける必要があるのか理解できないのである。
毎年のNHKスペシャル等の鈴木特集を見れば判る通り、チームの中心にいるか、チームの中で孤立しているかのどちらか。中庸を知らない。
彼の出塁率の低さがそれを説明している。
前にランナーが居ないことが多い弱小チームにおいては、単打はフォアボールとほぼ同義であるが、記録上は四球は安打には計上されないため、鈴木は四球を選ばない。
彼は3ボールからでも積極的にボール球を打ちに行く。ホームランバッターならわかるのだが、彼の場合はうまくいってもせいぜい単打なので、3ボール0ストライクからでは、リスクを冒して当てに行く意味がないにもかかわらず。
いかなる時も安打こそ最善と考えていれば、ボールをバットに当てるという定型的な作業を繰り返せばいいので、彼にとっては四球を狙うよりもよほど簡単なのだ。
同上。チームリーダーに求められるのは200安打を10年続けることではない。チームを鼓舞し、勝つことだ。
その意味で、チームの精神的柱であったホークス時代の川崎宗則は既に彼を超えている。
成績自体は平々凡々のデレク・ジーターが、ニューヨークの象徴であり、アメリカ人の象徴でもあるのは、彼がチームを優勝に導いてきた模範的なリーダーだからだ。
1番バッターという個人的役割に限定しても、鈴木がチームから最も求められることは、打率よりも最終的な出塁率の高さである。
はっきりいって、セイバーメトリクスに従えば、出塁率が4割を下回って達成する200安打よりも、安打数を犠牲にした出塁率4割のほうがよほど価値がある。
出塁率が4割を超えたのも、彼が12年間プレーしたなかで、2004年のわずか1度だけである。
262安打をしても出塁率が平々凡々な数字であったというのは驚愕だ。
毎年200安打をやっているにもかかわらず、2004年を除いては出塁率が4割を下回っているという彼のstatsは異常であり、
これは裏を返せば彼の安打数に対する執着が普通でないことを説明している。
なお今シーズン(2013年)には、劣化版鈴木ことブルワーズの青木宣親がメジャー2年目にして、鈴木が12年間で一度しか記録できなかったシーズン出塁率4割超を早くも達成しようとしている。
朝食のカレーについては、今はもう食べていないという記事があった。
しかし彼は白い巨塔や古畑任三郎を何百回と見ている。アスペルガーが好むのは定型的な作業の繰り返しだ。
彼は試合前後のルーチンワークを絶対に乱さない。アスペルガーが好むのは定型的な作業の繰り返しだ。
鈴木は日本野球のみならず、メジャーリーグでも殿堂入りを確実視されるほどの偉大な選手であり、私は彼の現役時代を見られたことに、心から感謝している。
262安打という異次元の成績の裏には、何らかの異次元の人間性、異次元の生活習慣、異次元の精神性があるはずだという考えの基に、彼の内面、野球観を考察したものである。
この記事は、医学的な見地に基づいて書かれたものではなく、彼がアスペルガーであるという主張は決して彼を中傷するためのものではないし、むやみに賛同を仰ぐ物でもない。
書いた奴=依頼企業の思う壺だぞ。
前も旅行業界は華やかで楽しいなあんて書かれたら翌年の人気企業ランキングにJTBが堂々一位だったことがある。今は違うけど。
華やかなのは表向きで、というか華やかなのは添乗員だけで大方は販売営業職について客を騙してクソ物件を売り付けるアコギな商売の片棒を担ぐだけ。
さらに激務薄給の代名詞ですらある旅行業界に、以前「穴場業界」と紹介されてホイホイ就いて離職して行った新入社員は数知れず。
また、サブプライムローンやリーマンショックで実態がバレるまでは不動産や証券会社が花形だと言われていたが今はどうだ?野村証券なんて今ではブラック企業殿堂入りを果してる。
この間の震災で東京電力を含む電力会社の信用がガタ落ちしたが震災以前はこれまた超優良企業に挙げられ、大学生に大人気だっただろ。
こんなに「穴場」という言葉に騙されてもなお、甘い業界があると本気で信じてる諸君。現実は甘くない。
今、「穴場職業」というと学校事務をよく目にするが、全然楽じゃない。公務員もびっくりのサビ残&成果主義、パワハラが日常的に行われている。それに、悪い意味で染まる。
確かに福利厚生が良いのでそこだけ目を瞑れば優良物件かもしれない。
ただ、同じ条件ならIT業界の独立系SIer(非客先常駐型)の方がまだいい。知識と経験を積むことができるし、それを土台に転職や起業への道が開かれている。
だからとは言わないが、安易に「穴場」だからという理由で就職するのは危険だよ。
まず、何故「穴場」なのか疑え。業界の人は全員知っている。そこは「穴場」なんかじゃない事を。
はてな民はたぶんみんな料理の腕が上がったんだと思う2012年。
そういえば最近、自分はあまりその手のタグを漁ることが減ってきた。
一時期「VOCALOID殿堂入り」「VOCALOID伝説入り」等のタグを毎週検索し、新しくそのタグが付けられた動画を追いかけていたものだった。
どうしてそれをやらなくなったのだろう、とふと元増田を読みながら考えていた。
もちろん、リアルの都合で忙しくてそんなことやってらんないから、というのもあるけれど、それ以上に何かありそうな気がした。
ひょっとすると理由は元増田が言ってることと似たようなものなのかもしれない。ちょっと違うのかもしれないけれど。
世界が狭いっていうか。
もちろん聞いていて胸が熱くなる歌詞はあるけれど。どれも似たような歌詞、強迫観念にも似たようなフレーズ。中毒症状を招きそうな音の渦。音圧高めで。聞いていて、つまんなくなってきたのかもしれない。
本当に好きなPの楽曲でも、そちらに傾いてくると、ううんどうなんだろう、と思うようになってきた。
だから最近は、ジャンルタグ(e.g.「VOCALOIDドライブ曲」「ミクノポップ」)とかで漁ることが増えてきた。そちらのほうが安心して聞ける。
または、VOCALOID楽曲を紹介しているユーザー生放送やNsenで作業用BGMにしつつ気になった曲をあとでマイリスしに行く事が増えてきた。
自分自身、実は初音ミクがリリースされて間もないころからのボカロ楽曲リスナーだったりするのだが、最近、メジャーな楽曲になればなるほど、オリジナルの動画に触れることよりも、MMD-PVとかで間接的に触れることが多くなってきて、ううんどうしたものなのかなぁ、と。それもひとつの付き合い方なのかもしれないけれど。時代が変われば、触れ方も変わるのかもしれないけれど。
日本でFacebookは流行らないと言われていた。(実際には利用者数は増加し続けている訳でその懸念はどうだったのかというところに疑問を感じたりもするのだが)流行らないと思われていた理由に実名主義が日本で受けないというものがある。実際、Facebook上にはニックネームらしい人物の多数登録されているので実名主義が完全に浸透したというわけではなさそうである。
経歴に対する考え方が日本とアメリカでは決定的に異なっている。どう異なっているのか?
各個人の人生全てを判断しようとする。
各個人の成功歴を判断しようとする。
と私は考えている。つまりアメリカにおける経歴の考え方は、ある特定の個人がある行動を達成させるだけの能力があったのか、また現在その能力を有しているのかという判断指標であると私は思うわけである。
ここではその例を一つあげようと思う。「マイクタイソン」と「江夏豊」を比較してみる。
この二人を同列で並べるのは少し馬鹿げているかもしれないが、共に覚せい剤経験者でありその国のスポーツ分野において多大なる貢献をした人物という点では変わらない。
耳噛み事件
翌年6月28日に行われた再戦では、ホリフィールドのWBA世界ヘビー級王座に挑戦するが、耳噛み事件(雑誌等で世紀の噛み付きとも称された)を起こし、2回の耳噛みにより3R終了時に失格負けとなった。この反則行為により、試合後はリング上で大混乱となり、一年間のライセンス停止処分を受けた。
1999年に復帰するも、年に1試合程度と試合間隔が極端に開くようになる。2002年6月8日にレノックス・ルイスの持つWBC、IBF、IBO世界ヘビー級王座に挑戦。結果は8RKO負け。2003年6月、暴行容疑で再度逮捕。
2004年4月15日、K-1の試合出場契約を結ぶ。日本国内でのプロモート契約であるが、薬物犯罪者という理由で日本に入国できなかったため、実現は不可能であった。2004年7月30日、復帰戦となるノンタイトルマッチで1ラウンド中盤で膝の靭帯断裂。その怪我が響き、ダニー・ウィリアムズに4ラウンドKO負け。2004年12月、器物損壊容疑で逮捕。
波乱に満ちた生活
2006年12月29日、自動車でナイトクラブから帰宅する途中にパトカーと遭遇。衝突しかけた折りに取り調べを受けた際、飲酒運転およびコカイン使用所持(再犯)が発覚したことにより逮捕された。2007年11月19日、禁固1日と執行猶予3年の判決。
2008年5月16日、ジェームズ・トバック監督によるドキュメンタリー“Tyson”が第61回カンヌ国際映画祭のある視点部門で上映された。同日行われた記者会見では、タイソン本人が作品の題材となった自らの人生について語った。
2009年6月6日、ラスベガスで3度目の結婚式を挙げた[4]。11月12日、ロサンゼルス国際空港で自分と家族の写真を撮ろうとしたカメラマンともみ合いになり暴行をした疑いで逮捕されたが、その後証拠不十分のため不起訴処分となった。
国際ボクシング殿堂
2011年6月12日、ボクシングを志してからの目標でもあった国際ボクシング殿堂への殿堂入りを果たす。
WWE殿堂
ライセンス停止中の1998年3月29日、アメリカのプロレス団体WWEの『レッスルマニアXIV』のメインイベントにて特別レフェリーを務めた経緯から、2012年3月31日にWWE殿堂に迎えられた。
1993年3月3日、覚醒剤所持の現行犯で、覚せい剤取締法違反により逮捕される。覚醒剤の所持量が多かったため、初犯ながら懲役2年4ヶ月の実刑判決を受け静岡刑務所に服役、名球会からも退会した(これについては自主退会とも、金田正一会長による除名とも言われている。現在は復帰)。1995年4月27日に仮釈放され、出所後は野球解説者・評論家に復帰した。
なし
一時の気の迷いで薬物に手を出し、自ら指導者の道を断ってしまったことを悔やむ声は多い。また現在の選定方式で江夏が選ばれる事はもう無いが、野球殿堂入りを熱望するプロ野球関係者も多い。
とあるように野球殿堂入りを望む人間も多い。にも関わらず殿堂入りを果たしていない。世界記録であるシーズン401奪三振、最優秀救援投手5回、オールスター9連続奪三振、ノーヒットノーラン達成。功績から考えれば殿堂入りをすべきものである。これがアメリカ社会であったならばマイクタイソン同様に殿堂入りしているだろうと私は考えている。マイクタイソンはその悪歴を有しながら殿堂入りを果たしている。これは彼のその分野における功績のみが評価されたものだと言ってもいい。必要なことは成功、実現したという経歴であって決して悪歴ではない。しかし、日本に至ってはそうはならない。一度でも道を踏み外せばどれだけの実績を持っていても社会的に評価されなくなってしまう。そのことを表しているいい例だと私は思っている。
これは私の希望である。実名主義の浸透の鍵を握るのは経歴に対する考え方にあると私は思っている。一つの汚点によってその後の人生全ての功績が無駄になるのが今の日本だ。だからこそ実名を避け匿名を利用する人が多いと思うのである。経歴において必要なことは過去の失敗や悪行ではない。これから成そうとしていることが成功可能かどうかにある。あって欲しいというのが私の意見だ。Facebookに望むこと。それは実名主義の浸透によって今の日本の経歴に対する考え方を一掃して欲しいと思うのである。仮に日本でFaceBookの実名主義が浸透する時には、経歴に対する考え方は変わっているであろう。失敗しても立ち直れる世界。何らかの理由により犯罪者となった者が更生することのできる社会。それを私は望むのであり、Facebook上での偽名利用は止むを得ないのではないのかと思う。。