はてなキーワード: 歴史書とは
ホロコーストなんて今どき、それ自体を話題にすることは少ないし、日本の歴史問題の何倍も関心度は低いだろうとは思う。近現代とは言え遥か昔の話だし、同じ枢軸国がやったと言っても日本にはほぼ無関係だ。それに、日本でホロコースト否定論が世間を多少賑わせたのは1995年、阪神淡路大震災やオウム真理教で大騒ぎだった年に、文芸春秋社の月刊誌だった『マルコポーロ』が廃刊になった記事の一件だけである。・・・あ、例のT院長の件もあったな。
欧州では昨年か一昨年にスウェーデンがホロコースト否定禁止法を立法するかどうかの話があったくらい(その後どうなったかは知らないが)、ホロコースト否定論は今も珍しい話題でもない程度には問題にされることがある。現状確か、イスラエルを入れて20カ国弱の国で否定論を公然と主張することには法的な規制がある。ホロコーストの中心地でもあったポーランドでは、否定論ではないがホロコーストについて自国の関与を主張するような言論を禁止する法律が制定されたのも数年前。またアメリカでも、憲法修正第1条で言論の自由が広く認められているせいもあり、ホロコースト否定論の主張をしてもなんらお咎めを受けることはないが、FacebookやYouTube、ツイッターなどの主要なインターネットメディアでは厳しく規制されている(が、実際には消滅したわけでもない)。
いずれにしても、欧米と日本ではホロコースト否定論について、かなりの温度差があるのは事実である。日本では義務教育でホロコーストを習うことなどほとんどないのではないかと思われるが、欧米では必須としている国や教育機関は多いそうである。それでも、関心の大きさから、ホロコースト否定の主張に賛同するような人はもちろん欧米の方が圧倒的に多いだろう。翻って日本ではそもそも関心が薄いので、否定論が目立つことはほぼない。せいぜい、ナチスの軍服を着たとか、ハーケンクロイツの旗を公共の場で掲げたとかで、問題になる程度のことだ。その程度のことで神経質にビクビクしてタブー扱いするのもどうかとは個人的には思うけれど。
何故欧米で、ホロコースト否定が法的に禁止されたり、規制されたりするのか? 最も大きな理由はあんな悲劇を二度と繰り返さないためである。ホロコースト否定はデマであり、ナチの復興を許しかねず、そしてユダヤ人差別につながる。また犠牲者遺族たちの心を酷く傷つけるものでもある。だが、否定論に賛同する人たちはそんなことどうでもいいらしい、それは日本でも同じである。ホロコースト否定に賛同することが非常に危険な行為だなんて、多分考えたことすらないのだろう。
こんなツイートが私の網に引っかかった。
https://twitter.com/masami6666/status/1563353770092003328
ツイート内の画像で示される文書は、そこに書いてある通り「国家社会主義日本労働党(NSJAP) 山田一成」によるものである。ドイツのナチスとは日本語では正式名称を「国家社会主義ドイツ労働者党(NSDAP)」と呼ぶ。従って、山田一成が日本のネオナチであることは否定しようもない事実である。ググればわかるが、ネット上の基地はこちらである。
また、Youtubeにある「密着24時!日本のネオナチ」というタイトルの動画で山田一成が紹介されているので興味のある方はご覧いただきたい。タイトルにそうあるくらいなのだから、山田自身がネオナチであることを否定してはいないということでもある。
ネオナチなのだから、ホロコーストを否定するのは当然である。ところが実は、傾向として、欧米の主流のホロコースト否定論者、いわゆるプロの歴史修正主義者たちは、ネオナチと結びつけられるのを嫌う。何故なら、思想的にネオナチと見られると、自分達が世間から信用されなくなることを知っているからである。欧米のプロの歴史修正主義者は、ほとんどの場合、ネオナチと関係があったとしてもそれを隠す。世間から信用を失くすと、修正主義者の目的である「否定論を世間的に認めてもらうこと」が困難になると思っているからに相違ない。『ヒトラーの戦争』という歴史書で欧米では超有名なデヴィッド・アーヴィングは、彼をホロコースト否定論者だと書いた歴史学者であるリップシュタット教授を訴えた裁判で見事に負けたが、裁判ではアーヴィングはネオナチの集会に出て聴衆を扇動していたことを暴かれた。しかしアーヴィングはその事実を誤魔化そうとしたくらいだったのである。
あるいはこれもその筋では有名な否定書、1970年台中盤から後半にかけて広まった『600万人は本当に死んだのか?』というホロコースト否定の古典的パンフレットがあるのだが、著者の名前はリチャード・ハーウッドとなっている。が、そのプロフィールに該当する人物は存在せず、本当の名前をリチャード・ベラルという。リチャード・ベラルはイギリスのナショナルフロント(国民戦線)という極右組織の出版物である「スペアヘッド」の編集長だった。何故、実名と実際のプロフィールを書かないのかは、当然、世間に信用されたいからであり、ネオナチが世間に信用されない存在であることを知っているからである。そのパンフレットは欧米の国会議員などに広くばら撒かれた。
かつて、雑誌マルコポーロ廃刊騒動の時に、問題の記事を書いた西岡昌紀とタッグを組んでいた木村愛二というジャーナリストがいたのだが、彼ですらもネオナチ呼ばわりされるのを嫌った。
なのに、上のツイートに賛同的意見を述べたツイートを発した人たちには、山田一成がネオナチであることなどどうでもいいらしい。山田が思想的に偏向しているのは誰の目にも明らかなはずなのに、そんなことを気にすることもなく、ホロコーストなかった説をあっさり賛同する。私たちは普通、ネオナチとか関係なくても、ネットで広められるだけのほんとかどうかわからない主張を、そのまま信用したりはしないと思うのだが、あまりにあっさり信用の方向に流れるのだから、呆れるというかなんというか。その賛同者の多くは、いわゆる陰謀論の方に傾倒するような人たちばかりであることは言うまでもない。
日本にも、ホロコースト否定論の方に賛同する人たちが意外に多い。多いと言っても私自身の感触だけであるが、Youtubeにあるホロコースト否定論の動画チャンネルには6000人強の登録者がいる。否定論動画としてはよくで出来ているので、否定論がどんなものか知りたければ『ホロコースト論争』で検索をかけて、同じタイトルの動画をニコニコ動画でご覧になるといい。Youtubeにアップされた同チャンネルの動画は何話分か削除されてしまっているからである。見ればわかると思うが、それ相当の知識かあるいは調査能力がないと、ホロコースト否定論には簡単には反論し難い。いうまでもなく、ネオナチの怪文書のようなものにあっさり釣られて賛同するような人たちに、その嘘・誤りが見抜けるようなものでは絶対にない。
まぁ世の中、そういうあっさり釣られる人もいる、だけの話なので、別にどうでもいいようなことなのかもしれないが、はてな・増田をご利用の賢い方々には、そんなことはないだろうと思いつつも、注意していただきたいものである。今回は、私のアンチホロコースト記事などはあえて紹介しない。たくさんあるので興味があれば参考にはしてほしいが、興味がなければ特に面白いものでもなく、時間の無駄になるだけだと思う。だが、一点だけ、怪文書に反論しておきたい。
見直し学派は、ホロコースト説は何年もの間に大幅に変わったことを指摘している。
とあるが、そう思えるのは単純な話で、戦後長らく、ホロコーストの実態がよくわからなかったからである。よくわからなかったと言っても、大勢のユダヤ人たち(や、精神疾患患者、同性愛者、ロマ人、その他)がナチスドイツによって死に至らしめられたこと自体は疑いようのない事実として判明はしていた。たとえば、ユダヤ人人口が600万人弱、戦前に比べて減っていることは1945年5月の終戦よりも前にわかっていたくらいだったのだ。何故わかっていたかというと、(これはある資料からの推測であるが)ユダヤ人はユダヤ人共同体の集会所となっていたシナゴーグで名簿管理されていたからであり、各地のシナゴーグの名簿を集計すればたちどころに判明するからである。また、ニュルンベルク裁判ではあのアドルフ・アイヒマンがユダヤ人の処分数はトータルで600万人だと語っていた、とアイヒマンの関係者が証言していたりする。それ以外にも多くの情報が戦時中からすでに世界中に漏れていた。ナチスドイツが極力、ユダヤ人絶滅などの非合法殺戮を極秘に行ったにも関わらず、である。そして、この600万人説は何度も研究調査され、現代までおおむねの数値として、主流の歴史学者からの異論はない。日本人研究者の柴健介氏も自著で「600万人以上」と推計している。
が、細かい話はよくわからなかったのである。たとえばあのアウシュヴィッツで殺されたユダヤ人の実数は当初は全然わからなかった。何故ならば、アウシュヴィッツで殺されたユダヤ人の大半は、囚人登録もされておらず、ガス処刑死体は焼却処分されて、残った骨などは砕かれて近くのヴィスワ川やソラ川などに捨てられてしまったのだ。アウシュヴィッツを解放したソ連は、絶滅された総計を400万人とした報告書を提出したが、死刑に処せられたアウシュヴィッツ司令官を最も長く務めたルドルフ・ヘスはそれを否定して最終的には120万人くらいだと自己推計した(記録を取ることを許されなかったので、ヘスでさえ推計するしかなかったようである)。このヘスの値が現在判明している犠牲者数(110万人)に非常に近いことが判明するのは1980年代後半まで待たなければならない。ソ連の400万人説は、それっぽく推計したようには書いてあるが、どう考えても囚人の生存者の証言を元にしているとしか考えられない。何人もの囚人が400万人くらいだと語っているからである。が、それらは皆、生存者自身が推計値、あるいは収容所内の噂だと語っているに過ぎないもので、囚人に正確な数字が分かったはずはない。
あるいはナチスドイツが最初に作った強制収容所であるダッハウ収容所のガス室についてであるが、ダッハウ収容所は米軍が解放した時に、何千体もの死体があったのだ。これらの死体の大半は割とすぐに餓死や疫病の死体だと判明したようであるが、ダッハウにはガス室もあった。そのガス室にはダミーシャワーがあり、毒ガスの元を投入するような仕掛けまであった。そのガス室のすぐ隣には火葬炉もあった。もちろんその建築物のそばにはたくさんの死体が山積みになっていた。こんな状況で、「ガス室で大量殺戮をおこなっていた動かぬ証拠だ!」と誤解するなという方が無理である。米軍には当然、マスコミの記者たちも従軍していたので、そうしたガス室殺戮の話はすぐに広まったのである。
ところが、よくよく調べてみると、ダッハウのガス室でのガス殺処刑の証拠は、ほぼないに等しい状態だったのである。確かに、ガス処刑については、裁判での証言者はいたが、たったの一人なのである。それ以外には一通の文書証拠と、イギリス人諜報員の捕虜が語ったとされる伝聞証言程度のもので、他には何もなかった。一方でアウシュヴィッツのガス室については、証言だけでも大量に存在するし、なにより加害者側証言もかなり存在し、その最大のものとしては司令官だったルドルフ・ヘスが事細かに証言し、自叙伝にまで書いているのだ。ガス室・ガス処刑があったことを裏付ける証言以外の証拠も豊富である。(もちろん修正主義者は証言は全て嘘であると主張し、アウシュビッツのガス室を裏付ける証拠など絶対に認めない)
これらの内容は、具体的に歴史家などが調べなければわからないものばかりなのである。ダッハウのガス処刑証言が一人しかいない件だって、裁判記録を調べなければ判明しない。したがって、ダッハウなどの収容所現地にたくさんの死体があったことが原因で、誤った説が戦後長らく広まっただけの話なのだ。そうした事実を、あたかも、ディープステートのような闇の陰謀者が、初期のホロコースト説が杜撰なので、それをもっともらしい説に変えていった、かのようにネオナチは主張しているのである。つまりは、ネオナチ・修正主義者は論点先取、最初から話を陰謀論・ホロコーストは捏造と決めつけていることがわかる。
ダッハウのガス室が捏造だと主張するのであれば、何故証言者がたった一人しかおらず(陰謀実行者は偽証証言者を何故たくさん用意しなかったのか?)、文書記録やあるいは物証としての死体解剖してもガス処刑された死体としか判別できない死体がなかったのか(陰謀実行者なのだからそれらを用意して当然だと思うのだが?)、説明がつかない。その実際にいた証言者(フランツ・ブラーハ)とて、たかが数名の処刑のその後の死体を見た、と言っているだけである。ダッハウのガス室が連合国による捏造なら、そんなあやふやな頼りない、犠牲者も少ししかいない証言がたった一つだなんて、あまりにも変である。
反論はそんなところ。こんな馬鹿げた幼稚な説でも、賛同する人がいるのはしょうがないかなーとは思うけど、何が事実で真実かを知りたいのなら、もうちょっと知恵を絞って考えてみるという気は起きないの? と思ったりはする。
名著「UNIXという考え方 - UNIX哲学」は本当に名著なのか? 〜 著者のガンカーズは何者なのかとことん調べてみた - Qiita
この記事はよく調べてあるなぁと思う反面,事実関係の間違いも多く当時の空気感など欠けていると思う部分がいくつかある。事実関係に関しては追い切れないので参考文献を挙げるにとどめておくが,空気感のほうはいくつか書いておく。なお当該記事の「当時と今では状況が全然違うんだから,安易に『UNIX 哲学』とかいうな」という主旨には大賛成である。
初期の UNIX の歴史について興味がある向きには次の書籍をお薦めする。
Peter H. Salus『A Quarter Century of UNIX』(1994, Addison-Wesley Publishing)
和訳の『UNIXの1/4世紀』(Peter H. Salus, QUIPU LLC 訳, 2000, アスキー) は絶版のうえ訳も微妙なので薦めづらいが,原書は The Unix Heritage Society (tuhs) で PDF が無償公開されているので,英語が苦にならないのなら読んでみるといい。
また同じく tuhs で無償公開されている Don Libes and Sandy Ressler『Life with UNIX』(1989, Prentice Hall)を読めば80年代終りの UNIX の状況(XENIX についてもしっかり言及されている)や利用者目線での雰囲気もある程度判るだろう。
元記事で一番気になるのが「哲学」という語の捉え方。この言葉の強さに引きずられているように読める。でもこれ,当時は設計の基本的な考え方くらいの意味でわりとよく使われていた言葉なんだよね。たとえば米 BYTE 誌のアーカイブを “philosophy” で全文検索するとこんな感じ。
https://archive.org/details/byte-magazine?query=philosophy&sin=TXT&sort=date
ほぼ毎号のように出現していたのが判るだろう。
もっとも猫も杓子も「哲学」を振りかざしていたわけではないし,UNIX の開発者たちが「哲学」の語を好んで使っていたのも間違いないように思う。傍証の一つが AT&T の定期刊行物『The Bell System Technical Journal』の1978年7, 8月号だ。元記事で言及されているマキルロイの Forword の初出がこれで,ネットのアーカイブから PDF が入手できる。
この号は二部構成になっていて第一部が Atlanta Fiber System に関する論文12本(全172ページ),第二部が UNIX に関する(Preface や Foreword を含む)論文22本(全416ページ)となっている。さて前述の PDF は OCR されているので “philosophy” で全文検索してみると8箇所見つかる。これが見事に全部 UNIX の論文なのだ。もちろん論文の性質もページ数も違うからこれだけで確定的なことはいえないが「日常的に使っていたんだろうなぁ」という推測は成り立つだろう。じつはマキルロイの哲学とされている部分は “Style” であり “philosophy” の語は一切使われていないというのもちょっと面白い。UNIX の開発者たちがなぜ「哲学」という語を好んだか正確なところは判らないが,それまでにない新しい考え方に基づいた OS を開発しているという意識があれば,そういう言葉を選ぶのが自然な時代だったことは間違いない。
UNIX が認知され拡がっていく過程で「哲学」も知られるようになっていった。自分が好むものの良さを他人にも識ってもらいたい,あわよくば他人もそれを好むようになって欲しいという布教活動は今も昔を変らないわけで「哲学」はその便利なツールとなったわけだ。元記事ではガンカースの著作を「外部の人間が後から打ち立てた哲学」と表現しているが,そんなたいしたものではない。マキルロイの論文に影響を受けた布教のためのああいう説教は到るところにあった。たとえば前掲の『Life with UNIX』にもしっかり Philosophy の項がある。また日本で最初期の UNIX 解説本のひとつである,村井純・井上尚司・砂原秀樹『プロフェッショナル UNIX』(1986,アスキー)には冒頭次のような一節がある。
オペレーティング・システムは,コンピュータを使うものにとっての環境を形成する基盤であるから,そのうえで生活する者の個性を尊重し,より良い環境へと作り上げて行く課程を支援するような素材を提供するソフトウェアでなければならない。この主張こそが,UNIX のオペレーティング・システムとしての個性ではないだろうか。
「より良い環境へと作り上げて行く課程を支援するような素材を提供するソフトウェア」とはテキストを入出力フォーマットとする単機能のコマンド群のことで,これらをパイプでつなげたりシェルスクリプトでまとめたりすることで「そのうえで生活する者の個性を尊重し」た「より良い環境へと作り上げて行く」ということだ。こういった説教はありふれたものであった。たんにそれを「哲学」の語を用いて書籍にまとめたのが,たまたまガンカースだったというだけのことである。
そしてじつは UNIX の場合,布教活動とはべつに「哲学」を広めなければならない切実な理由があった。これを説明するのは非常に面倒くさい。当時と今ではあまりにも環境が違うのだが,その違いが判らないと切実さが伝わらないからだ。マア頑張ってみよう。
UNIX は PDP というミニコンピュータ(ミニコン)上に開発された。このミニコンを使うためには専用の部屋に行く必要がある。その部屋は,もちろん場所によって違うわけだが,マアおおよそ学校の教室くらいの大きさだ。長机が何列か並んでおり,そのうえにはブラウン管ディスプレイとキーボードを備えた機器が等間隔に置かれている。壁際にはプリンタが何台かあるだろう。通っていた学校にコンピュータ室などと呼ばれる部屋があったならそれを思い浮かべればだいたい合ってる。ただし置かれている機器はコンピュータではなくコンピュータに接続するための端末装置(ターミナル)だ。端末装置のキーボードで打った文字がコンピュータに送られコンピュータが表示した文字がそのディスプレイに表示される。現在 Unix 系 OS で CLI を使うときターミナルとか xterm という名のアプリケーションを用いるがこれらは端末装置のエミュレータで,もともとは実体のある装置だったわけだ。
さてコンピュータ室にたいていは隣接するかたちでマシンルームなどと呼ばれる六畳くらいの部屋がある。窓ガラスで仕切られたこの部屋には箪笥や洗濯機くらいの大きさの装置が何台か置かれている。これがコンピュータ本体だ。もっともコンピュータが何台もあるわけではない。この箪笥が CPU でそっちの洗濯機がハードディスク,あの机に置かれているタイプライタが管理用コンソールといった具合に何台かある装置全部で一台のコンピュータになる。どこが〝ミニ〟だと突っ込みたくなるかもしれないが「六畳で収まるなんて,なんてミニ!」という時代のお話だ。
端末装置それぞれから(USB のご先祖様の)RS-232 という規格のアオダイショウみたいなケーブルが伸び,マシンルームに置かれたターミナルマルチプレクサと呼ばれるスーツケースに台数分のアオダイショウが刺さってコンピュータとの通信を行う。コンピュータと多数の端末装置を含めたこれら全体をサイトと呼び,root 権限を持って管理業務を行う人をシステム管理者あるいはスーパーユーザと呼んだ。
結構上手に説明できたと思うのだが雰囲気は伝わっただろうか。ここで重要なのは一台のコンピュータを数十人が一斉に使っていたという事実だ。洗濯機とかアオダイショウとかは,マアどうでもいい。
当時の UNIX の評価を一言で表すと〝自由で不安定な OS〟となる。メーカお仕着せではなく自分好みの「より良い環境」を作りあげる自由。さらに他のメインフレームやミニコン用 OS に比べると一般ユーザ権限でできることが圧倒的に多かった。そしてその代償が不安定さ。今では考えられないが UNIX のその不安定さゆえにプロ用 OS ではないと考える向きは多かったし「でも UNIX ってすぐ落ちるじゃん」というのは UNIX アンチ定番のディスりだった。UNIX の落とし方,みたいな情報がなんとなく廻ってきたものだ。
こういった雰囲気を鮮やかに伝えてくれるのが,高野豊『root から / へのメッセージ』(1991,アスキー)だ。当時アスキーが発行していた雑誌『UNIX MAGAZINE』に連載されていた氏のエッセイの1986年11月号から1988年10月号掲載分までをまとめた書籍である。著者の高野氏は勤務先の松下電器で1980年ごろから UNIX サイトのスーパーユーザを務めており,日本では最古参の一人である。この本の中で高野氏は繰返し UNIX の自由さと不安定さに言及している。すこし長くなるが,その中の一つを引用しよう。
CPU は,システムにとって重要な共有資源であるが,この CPU を実質的に停めてしまうことが UNIX ではいとも簡単にできる。たとえば,cc コマンドを10個くらい同時に走らせてみたらよい。VAX-11/780 といえども,同時に実行できるコンパイルはせいぜい3つか4つである。それ以上実行することも当然可能ではあるが,他に与える影響が無視できなくなる。つまり,てきめんに vi のカーソルが動かなくなる。あるいは,すこし大きめなディレクトリ上での ls コマンドの出力が表示されるまでに煙草を1本吸い終えてしまったり,タイムアウトでログインが撥ねつけられたりといったバカげた現象が起きだすのである。こういった状態になると,UNIX は破壊されたに等しい。真夜中,独りで VAX を占有して使っているのなら何をやろうとかまわない。しかし,20人30人と多数の人間が使っているときに勝手をやられると非常に困るのである。当人の仕事が遅れるのは自業自得だとしても,そのとばっちりで他のエディタまで止まってしまうと,もはやどの仕事も進行しなくなる。
ディスクについても同様なことがいえる。UNIX では,ファイルシステムを使いはたすまで大きなファイルを自由に作ることができる。したがって,自分のプロセスがいったいどのくらいの容量のファイルを作り出すのか見当もつけられないようなアマチュアが使うと悲惨なことになる。ディスクを使いはたすと,コンソール・タイプライターにエラー・メッセージが出力されるが,夜中にそれが発生して,コンソール・タイプライターが一晩中エラー・メッセージを打ち続け,朝マシンルームに行ってみると紙を一箱打ち尽くしてしまい,ピーピーと悲しげな声を上げて人を呼んでいた光景を私は何度も見てきた。こうなると,それをしでかした本人のプロセスは当然のこととしても,同じディスクで走っている他のプロセスも先に進めなくなってしまう。すこしでも負荷を夜間にまわそうとする善意は逆転してしまい,わずかでも仕事を先に進めようとする意図も完璧に打ち砕かれてしまうのである。
そして,こうした不安定さが「哲学」を必要としたのだ。自分が利用しているサイトに「cc コマンドを10個くらい同時に走らせ」たり「自分のプロセスがいったいどのくらいの容量のファイルを作り出すのか見当もつけられないようなアマチュア」がいるとその累は自分にも及んでしまう。だからサイトの利用者全員に UNIX の設計の基本的な考え方を理解してもらうことが,自分のために必要だった。UNIX の伝道がより苛烈だった理由のひとつがここにあるのだ。
ミニコン上で誕生した UNIX は 4.3BSD(1986)で最高潮を迎える。注意したいのはミニコン時代の UNIX は Research UNIX と CSRG BSD みたいな区別をせずにまとめて UNIX として扱われていたことだ。実際『プロフェッショナル UNIX』も『root から〜』も UNIX と記述されてはいるが実際には BSD を扱っている。べつに当時の人が無知だったわけではない。なにしろ BSD を利用するためにはまず AT&T から UNIX のライセンスを購入し,そのうえでカリフォルニア大学バークレー校(UCB)から BSD を入手しなければならなかったからその関係は当然広く知られていた。ベル研で発明された UNIX を外部の人たちも含めみんなで改良し,それら全体が UNIX であるという考え方が自然だっただけである。『Life with UNIX』のような英語の文献によく登場する “Berkeley UNIX” という言い回しが当時の気分をよく表している。UNIX vs BSD みたいな捉え方は法廷闘争を経た90年代以降の感覚だ。
もっともそういう70年代風味の牧歌的風景はミニコン世界限定の話であった。BSD そのものはミニコン用のものしかなかったが,そのコードを受け継いだ BSD 系 Unix や AT&T が推し進める System V などがワークステーション市場を舞台に80年代中盤から激しく覇権を争うようになる。いわゆる Unix 戦争で,PC 用 Unix であるマイクロソフトの XENIX も当然参戦した。ミニコン世界が牧歌的だったのは,ぶっちゃけていえば先のない技術だったからだ。ただ Unix 戦争はあくまでも標準という聖杯を争う戦いであり,AT&T と BSD 系 Unix の Sun Microsystems が共同で System V Release 4.0 (SVR4) を作りあげたように後の法廷闘争とは趣が違う。
こうしたミニコン UNIX からワークステーション Unix への転変は Unix そのものや文化にも変化をもたらした。まず激しい競争は Unix の高機能化を加速した。商品として判りやすい惹句が「あれもできます,これもできます」なのは誰もが知っている。もちろん安定性を増すために quota のような利用者の自由を制限する機能も含まれていた。またワークステーション Unix は現在の Unix 系 OS と同様同時に一人が使うものであり前述の布教の必要性は大幅に減じた。達人たちのみの楽園から万人に開かれた道具に変ったのだ。こういった変化を体感したければ『root から〜』と水越賢治『スーパーユーザの日々』(1993,オーム社)を読み比べてみるといい。『スーパーユーザの日々』はワークステーション Unix のシステム管理の入門書だ。この本ではたんに知識を羅列するかわりに架空のソフトウェアハウス(開発会社)を舞台に新卒社員が先輩社員からシステム管理を学ぶという体裁をとっており,そのおかげで架空の話とはいえ90年代前半の雰囲気が堪能できる。出版年でいえば『root から〜』と二年しか違わない『スーパーユーザの日々』の落差は “dog year” と称された当時の激烈な変化まで体感できるだろう。
当時はよくいわれたのに今やほとんど聞かれなくなったものがある。マキルロイの論文の結論部分に書かれたそれは,1973年に出版されたイギリスの経済学者エルンスト・シューマッハーの著作の題名で,中学生の英語力があれば十分に理解できる平明な一文だ。
Small is beautiful.
マキルロイは『人月の神話』を引いて一定の留保をつけてはいるものの,これが UNIX 哲学の背骨であることに違いはない。機能をありったけ詰め込もうとして失敗した “kitchen-in-a-sink” な MULTI•cs のアンチテーゼである UNI•x にとって,これ以上のスローガンがあるだろうか?
ひるがえって現在の Unix 系 OS をみれば,ブクブクと肥え太ったシステムコール,全容を俯瞰するだけでも一苦労するライブラリインターフェイス,一生使うことのないオプションスイッチまみれのコマンド群。UNIX が仮想敵とした OS そのものだ。そのことについてとくになにも思わない。ハードウェアは長足の進歩を遂げ,コンピュータの応用範囲は途方もなく拡がった。UNIX が変らなければたんに打ち棄てられ,歴史書を飾る一項目になっただけだ。ただ現在「UNIX 哲学」を語るならそうした背景は理解していなければならないし,どれだけ繊細な注意を払ったところで〝つまみ食い〟になってしまうことは自覚すべきだ。
DER SPIEGEL:あなたはウクライナの主権を強調していますが、同時に経済的な混乱を恐れて、即時のガス禁輸の願いを認めてはいませんね。これは、我々ドイツ人がプーチンの軍資金をまだ満たしていることを意味します。キエフがあなたの言葉を嘲笑していると見るかもしれないことを理解できますか?
ショルツ:まず、ガス禁輸で戦争が終わるとは全く思えない。もしプーチンが経済的な議論に従順であれば、このような非常識な戦争は決して起こらなかったでしょう。第二に、あなたは、それがすべて私たちの金儲けのためであると推測している。しかし、重要なのは、劇的な経済危機、何百万人もの雇用の喪失、二度と操業できない工場の喪失を避けたいということだ。そうなれば、わが国はもちろん、ヨーロッパ全体にも大きな影響を与え、ウクライナの復興資金にも深刻な影響を与えることになる。そのため、私にはこう言う責任がある。そんなことは許されない。そして3つ目は、世界的な影響について実際に考えている人はいるのでしょうか?
DER SPIEGEL:ドイツのフランク・ヴァルター・シュタインマイヤー大統領は、ロシアを含むヨーロッパ共通の家を設立する努力は失敗したと述べています。あなたはそう思いますか?
ショルツ:ロシアは、開かれた社会が国境近くに集まり、世界のどの経済圏よりも大きな経済力を持つ強力な欧州連合を形成していることを受け入れなければならない。私は2016年にハンブルク市長としてサンクトペテルブルクで行わせていただいたスピーチで、まさにそのことを定式化しました。そしてロシアは、誰もロシアを軍事的に攻撃したり、外部から政権交代をもたらしたりする計画を持っていないことを明確にする必要があります。
DER SPIEGEL:侵攻後、我々は真剣にプーチンに彼の国に害を与えないことを保証する必要があるのでしょうか?
ショルツ:私の答えは2016年に言及したものです。国家の主権と国境の不可侵を認めてこそ、欧州の安全保障が成り立つというのは、今日でも変わらない。ロシアはこの原則を残酷なまでに無視した。侵略だけでなく、すでにクリミアの併合、ドンバス地方や他の地域での反乱の演出もそうだ。国家元首が歴史書を読み、今日の結果を推し量るために、かつて国境があった場所を調べなければならないとき、平和は脅かされているのです。
DER SPIEGEL:モスクワが2014年にすでにこの原則に違反していたのなら、ドイツとロシアのガスパイプライン「ノルドストリーム2」プロジェクトの継続を許可したのは間違いだったのでは?
ショルツ:ロシアのガス、石油、石炭に依存する限り、非常に短い時間で他の供給者からもサービスを受けられることを早い段階で確認すべきでした。いざという時、ドイツは液化天然ガスのターミナルや東ドイツの石油精製所の輸入インフラに、たとえ経済的に見合わなかったとしても、資金を提供しなければならなかっただろう。これが、私が長い間悩んできた本当の間違いである。
DER SPIEGEL:ノルドストリーム2は我々のエネルギー供給にとって決して不可欠なものではありませんでした。
ショルツ:その通りだ。問題は、2つ、3つ、4つのパイプラインがあることではなく、それらがすべてロシアから来ていることなのです。
DER SPIEGEL:しかし、ロシアのノルドストリーム2の目的は、ガスパイプラインからウクライナを排除することでした。なぜ、その試みを長い間支持したのですか?
ショルツ:同時に、それこそが、ウクライナを経由するガスの継続的な輸送を契約上確保した理由でもあるのです。そして、もしあなたが地政学的な議論をするのであれば、こうも言わなければなりません。DER SPIEGELはLNG基地の批判ばかりしている場合ではないのかもしれませんね。
DER SPIEGEL:しかし、もう一度。ロシアがガスビジネスでウクライナを孤立させることは、クリミア併合への正しい対応だったのでしょうか?
ショルツ:正しい対応とは、ロシアからの輸入に依存しないようにすること、あるいは少なくとも、いつでもそうできるような技術的条件を整えておくことだっただろう。これは、現在の私たちの知識で言えることだ。クリミアの併合には、現在課しているような制裁措置ですでに対応すべきだったのです。そうすれば効果があったでしょう。
DER SPIEGEL:なぜあなたはこの言葉を口にすることができないのでしょう。Nord Stream 2は間違いだったのですか?
ショルツ:ロシアの侵略に対応して、稼働を阻止したのです。また、地政学的にも、もっと早くから輸入の多様化を図るべきでした。また、環境のためにも、化石資源の輸入や使用から自立するために、再生可能エネルギーの拡大を加速させることも、もっと早くから行うべきだったのです。
人殺しの血を引いている顔をしてる反戦教育者っていないんだよな。
特攻賛成派も特攻反対も同じように「米軍が攻めてくるから、天皇が変な命令を出すから『仕方なく』戦争に巻き込まれた」って発想をしている。
自分たちが醸成した「ガンガン鬼畜米英や中国人をぶっ殺しまくっていい暮らししようぜ?」っていう発想が間違っていたと認められる人って本当にも限りなく0に近いブルーひいては永遠のニアリー0。
ロシアぶっ潰したときに最前線とあんま関係ない場所では「いやー戦争っていいよねー。なんか国が元気になってさ―」って雰囲気があった。
これは間違いなく歴史書や当時の新聞にも描かれている事実であり、この辺の感覚から「戦争≒勝つと幸せ」っていう図式が存在してたんだよ日本人の脳内に。
そもそも日本人って昔から戦国武将とか大好きでさ、信長の快進撃や太閤立志伝とかそういうので興奮する性質だったのよね。
もっといえば忠臣蔵みたいな逆ギレ自分のご都合押し付け気に食わないやつぶっ殺し精神にも共感しがち。
兎にも角にも利己的な暴力行為を愛する心根の民族だったわけだよ。
それをあろうことか表面上取り繕って「僕タチ……暴力大嫌いヨ……ヨヨヨ……」みたいな事を戦争教育のときだけ口にするの。
でも実際は大好きなままなんだよね。
戦争教育で体育館にずらーっと並べた生徒が、話に来た爺さんのボソボソ声に「すみませーーーん。マイク大きくしてくださ―ーーい」って叫んだ瞬間にさ、
体躯教師が「コラー!!(# ゚Д゚) お年寄りには経緯を払わんか―い!!!ヽ(`Д´)ノ」と竹刀をバシーンって地面に叩きつけて脅したときは驚いたさ。
「暴力は良くないですよ。話し合いましょう」って内容の講義を受けている最中に、教師が暴力で人を従わせるのを最適解であるかのごとく振る舞うのだから。
表向きは暴力の嫌いな大人しい奴隷のふりをして、いざ権力を持ったらブンブン暴力で人を従わせたがる凶暴な奴隷監督であろうとする。
それは結局の所、GHQに表面上従っていても内心は不満たらたらでいつかアメリカをぶっ殺し直しにいこうって精神が胸の一番奥にはあるってことなんじゃろうねえ。
まあ仕方ないよ。
それは満州で日本人がやったようなことだろうし、韓国が未だに「なんとかもうちょい賠償金貰えねえかな」と未練を持たせるような何かがあったわけだよ。
まずはそこが事実なのさ。
日本人は未だに米軍を恨んでいるってことをまずは認めないといけない。
そしてその憎しみと内面にある暴力性は深い所で今でも結びついていて、いざ何かあったら米英の輩を滅ぼして世界をアジアン、いや日本人の一色で埋められないかと今でも虎視眈々と狙っているんだわ。
その象徴として天皇を掲げられれば自分たちの正当性は立証できると今でも信じている。
でなきゃなんでこんなにこの国の人間は令和の世で帝だ帝だわっしょいわっしょいなんだといのかね。
結局ね、自分たちの民族こそが正当なるこの世界の支配種族であるべきであり、暴力によってそれを証明するべきだって思想は全ての人類の根底にあるんだよ。
いや全ての人類は言いすぎだったかも知れないが少なくとも多くの日本人は心根の根っこでそう思っているのさ。
でもね、今の戦争教育はそれを認めるところからスタートすることが出来ずに上っ面しかなぞらないのさ。
なんでかっていえばね、それによってGHQは満足して引き上げたっていう成功体験があるからだね。
反省しているふりだけしておけばいいんだ反省している演技を教えるために、暴力で子どもたちを調教すればいいんだって、ずーっとずーっと繰り返してんだよね。
中国のプロテニス選手、彭帥さんの微博(ウェイボー)での不倫暴露。
気になったのが、中国でも「飛んで火に入る夏の虫」みたいな言い回しするんだな、て点。
「飛んで火にいる夏の虫」とは?意味や使い方を例文を含めてご紹介 | コトバの意味辞典
英語でも“like a moth to a flame”って言う。これも中国から?
更に興味深いのが、「無謀な恋に身を焦がす」的なニュアンスで用いられること。
洋楽で覚える英語表現「like a moth to a flame」意味と使い方は? | MULTIPS
https://beautytipsnet.com/english-like-a-moth-to-a-flame/
Shawn Mendesの「Stitches」。
「炎に飛び込む蛾のように 君に引き寄せられた 痛みに気づけなかったよ」
Moth To A Flame 歌詞和訳と英語解説|The Weeknd(ザ・ウィークエンド), Swedish House Mafia(スウェディッシュ・ハウス・マフィア)
https://disneylanguage.com/MothToAFlame.html
「飛んで火に入る夏の虫のように 俺を君を引き寄せるんだ、引き寄せるんだよ」
修正してみた
今度は設定が気に食わないから公共の場ではダメとかふざけてるの?
なんで今回は細かい設定を掘り返して燃やしてんだよ!
完 全にモラルに反しているじゃねーか!
最近暴言し過ぎて風向き悪いからオタクコンテンツをスケープゴートにして誤魔化して
ん-、ぱっとしないね
https://anond.hatelabo.jp/20211029020120
iPhoneがウケたのはAndroidがコケたのと表裏一体なので、Androidについてもうちょっと書いてもいいかなと思う。
スマートフォン黎明期(2008-2012年くらい)において、ソフトバンクがiPhone全推し、KDDIが完全に出遅れ(KCP+に全振りしてたからね……)という状況だったのは有名だけど、ドコモなにやっとんだというのは疑問に思うところだろう。
2008年7月にSB独占でiPhoneが発売されたのを見たドコモは、まず右往左往した。
(ちょっと前後するけど)2008年6月にPRADA phone by LGを発売しては撃沈し、2009年7月にHTC Magicを出しては撃沈(流石にこの頃のAndroidはiPhoneに全然及ばなかった)。なにかやるたびにiPhone+SBに対する勝利宣言をしながらも、その実は惨憺たるものだった。Bulldozer時代のAMDが虚しい勝利宣言を繰り返していたのを彷彿とさせる。
この頃、もう本当に日本特有の現象なんだけど、就活生の間でスマートフォンに対する需要が急激に伸び始めた(←これ非常に重要なポイントなので、将来スマートフォンに関する歴史書を書く人がいたら忘れずに書いてほしい)。当時既に就職活動は就活サイトとメール(キャリアメールじゃなくてGMail)が最重要なツールとなっていた。しかし、彼らの持っていたガラケーではGMailは読み書きできなかったのだ(できたと思うけどすごい不便だった記憶がある)。スマートフォンは、出先でメールを確認したい、急ぎのメールには早急に返事をしたいという彼らの切実なニーズにぴったりだったのだ。
ここで、Androidは彼らへの浸透を失敗してしまった。就活生たちが「("スマートフォン"ではなく)iPhoneが良い」という形で口コミを広げていったのも原因の一つだが、携帯ショップに行ってもAndroidはちっとも推し端末として売られていなかったのだ。2009年4月に初代Xperiaが発売されたことで、ようやくドコモはiPhoneに引けを取らない端末を手に入れてはいたものの、携帯ショップに行ってもちっともXperia推しの雰囲気は感じられなかった。迷走を重ねていたドコモは、当時何を売ったらいいのかわからなくなっていたんだと思う。とはいえ、どう考えても2in1(一台の端末で2つ電話番号を持てる)なんかやってる場合じゃなかった。
失敗したのはマーケティングだけでなく、品質面でもだった。当時のAndroid+ドコモの使用感は最悪で、時々全くモバイルネットワークに繋がらなくなるから再起動が必要、ネットワーク側に問題が頻発、無線LAN接続時にはキャリアメールにつながらない(Android老人会の人に「IMoNi」って何?って聞いたら十分くらい昔話をしてくれるはず)など、連絡の繋がる繋がらないで運命が大きく変わる就活生たちのミッションクリティカルな用途には耐えられるものではなかった。
その状況に輪をかけたのが、2011年秋から発売されだした有象無象のゴミ国産Androidだった。この時期にAndroidを使い始めた人たちは一様にAndroidに対する悪感情を募らせたことと思う。
これは、もちろんメーカーも悪いのだが、無茶な仕様を要求したドコモがまずいちばん悪い。おサイフケータイ、赤外線、ワンセグ、ドコモ絵文字(アニメーション付き)、2012年からはNOTTV、のような重い仕様を詰め込んだせいで、Androidフレームワークに対する大幅な変更が必要となり、必然的に品質の悪化を招いてしまったのだ。
マーケティングの先見のなさ、技術的品質の低さ、その相乗効果によるゴミAndroid端末の量産。これらによって、日本のスマートフォン市場はiPhoneに牛耳られることになったのだった。後に屈辱的な条件でしかiPhoneの販売契約が取れなかったのも、無能に対する懲罰と理解していいだろう。
歴史にIFを持ち込むとするならば、KDDIがKCP+なんて手がけずに古いOSでギリギリまで持ちこたえる(Androidに注力する余力を維持する)という選択肢をとっていたら、2010年あたりのiPhoneによる一方的な攻勢はなかったかもしれない。が、ドコモは何度歴史を繰り返しても同じようなこと(特にゴミ端末の量産)を繰り返すような気がする。
秦の始皇帝の命を受けた徐福は、不老不死の薬を求めて日本にわたり、
日本の各地には徐福が暮らしたという伝承が残っている。冒頭で述べた新宮市の徐福公園もその一つだ。ここには公園が整備される以前、江戸時代前期に紀州徳川藩初代の徳川頼宣の命でつくられた「秦徐福之墓」の碑が立っている
始皇帝も本気になった。徐福のいう三神山とは、蓬莱・方丈・瀛州(ほうらい・ほうじょう・えいしゅう)のこと。それは渤海の(遼東半島と山東半島に挟まれた内海)の先にある神仙が住むとされた山のことである。さっそく徐福は命を受けて東の海へと出発した。その時には3000人の童男童女(若い男女のこと)と百工(多くの技術者)と財宝に五穀の種子を詰めこんでいた。こうして船出した徐福一行が帰ってくることはなかった。「淮南衡山列伝」では、平原広沢(広い平野と湿地)を得て王となったと記述されている。
この出来事は紀元前219年頃のことと考えられている。日本ではようやく長い縄文時代が終わり弥生時代を迎えた頃である。卑弥呼が登場するのは、ようやくこれから400年ほど後のこと。まだ日本には文字で記録されるような文明はなかった。そのためか『古事記』『日本書紀』には徐福に関する記述はない。
ただ不思議なことに古来より日本の各地には徐福が暮らしたという伝承が残っている。冒頭で述べた新宮市の徐福公園もその一つだ。ここには公園が整備される以前、江戸時代前期に紀州徳川藩初代の徳川頼宣の命でつくられた「秦徐福之墓」の碑が立っている。
あくまで、伝承の人物だったはずの徐福研究が活気づいたのは1990年代初頭からだった。長らく徐福は『史記』に記されながらも、存在が疑問視されてきた。『史記』は歴史書として名高いが、一方で批判的な視点での読解が求められる書物である。なにしろ作者である司馬遷も自分で見たり聞いたりしたことを書いているわけではない。徐福も司馬遷の生きた時代からは100年あまりも前の人物である。
『史記』のほかにも徐福の記述がある史書は多かったが、話の荒唐無稽さもあって、あくまで伝説上の人物という見方が強かった。
その認識が覆されたのは1982年のことである。当時『中華人民共和国地名辞典』編纂に携わっていた徐州師範学院教授の羅其湘は江蘇省の連雲港市郊外に後徐阜村という地名があるのを見つけた。調べてみると、この村は清の初め頃までは徐福村と呼ばれていたのだという。
これを契機に秦・漢代の造船所跡などの遺跡も見つかり、にわかに徐福の実在性は高まったのである。今では、この村は廟も建てられ徐福生誕の地として観光地になっているという。