はてなキーワード: 歴史修正主義とは
どこに目付いてんだ歴史修正主義者め
バレンタインとかいう司祭が恋人のために催しを行ったのが基とされているが、それは作り話だともいわれている。
いずれにしろ、真実があやふやに認識されている歴史というものは、得てして現代を生きる人間によって都合よく変換されることが多い。
歴史修正主義者みたいに思想的ではなく、その日にこじつけて何かを売りたい、資本主義だとか商業主義にあたる人間たちによってだ。
まあ、大局的に見れば経済を回すためだとか、それはそれで考えがあるかもしれないが、俺たちの国でそれがチョコレートである必然性がないことだけは確かだろう。
その日が個人にとって関係があろうとなかろうと、誰も知らないフリができない。
更にガメツイのは、バレンタインデーの約1ヵ月後にホワイトデーなんていう“お返しキャンペーン”まで普及していることだ。
さて、今回の話は、生憎だが甘酸っぱい要素は何一つない。
かといって、チョコを貰えない人間のほろ苦い話というわけでもない。
話はバレンタイデーに遡る。
その日は休日と重なり、俺は家でくつろいでいた。
去年のことを顧みると、これはとても快適なことだ。
俺の学校にはバレンタイデーに家庭科の授業としてチョコを作るという伝統があった。
男女関係なく班で作ったチョコを食べるという、一見すると何とも平和な授業だ。
だが、このタイミングを利用して“個人的に”作る人間も多かった。
恋人のため、想い人のため、ただ友達同士でワイワイやりたいだけ、と目的は様々だ。
そして、そういった人間の中には、ホワイトデーをアテにして無差別にバラまく奴も必ず出てくる。
面倒くさい話だ。
お返しなんてしなくてもいいと思いつつも、そんなのに律儀にお返しする奴が出てくるから、俺も体裁を整えるしかない。
チョコが食えない俺のいる我が家にとっては、2月14日は煮干の日のほうがポピュラーなのだ。
「2月14日は煮干しの日だが、バレンタインでもある。お前はいいのか?」
「なにが?」
「なにって、チョコだよ。外周れば貰える可能性あるんじゃないか?」
弟はバレンタインを学校の行事くらいにしか思っていないようだ。
「そうなの? じゃあ行ってくる!」
まだ、説明は終わっていない。
「貰えるとは言っても、タダではないぞ」
「貰えるのにタダではない、ってどういうこと?」
弟の疑問も尤もなんだが、そういう疑問のために「タダより高いものはない」という諺があるのだ。
「ホワイトデーといってな。バレンタインにチョコを貰ったら、何らかの“お返し”をしなければならない日があるんだよ」
「なんだそりゃ。ギブってのはテイク前提でやるもんじゃないだろ。それじゃプラマイゼロじゃん」
実の所バレンタインには様々な側面があって、安易に価値を推し量ることは難しい。
だが、世間に捉われない自由奔放な弟にそれが理解できるとも思えないので、俺はあえて省略して説明することにした。
「どういうこと?」
「ホワイトデーのお返しは、通説ではバレンタインに貰った物の3倍の価値とされている」
「3倍!?……バレンタインはチョコをあげるほうが得しやすいってこと?」
「そうだ。つまりバレンタインはチョコを貰わないようにしつつ、相手にチョコを押し付けるゲームってことだ」
全くのデタラメを言っているわけではない。
弟が安易にチョコを貰わないよう、遠まわしに釘を刺すための理屈だ。
だが、こういう“全くのデタラメではない”情報のほうが、弟にはかえって害悪だったのかもしれない。
https://anond.hatelabo.jp/20171024075235
批判対象として話題になっていたエントリー。批判も正しいと思うのだけど、自分が気になったのは本題ではなくて、「人権とか言うのは、カルト宗教みたいなもの」というフレーズ。
人権とか民主制とか、信じてない人から見れば、カルト宗教みたいなものなんだってこと。
人権とか民主制を軽視している人が、しばしば「保守」を名乗るけれど、彼ら<も>、人権とか民主制は、「科学的」あるいは「普遍的な」ものだと勘違いしている。勘違いしているから、人権とか民主制を批判しても、それに近いものが、社会を支えてくれると思っている。
でも、そうじゃない。人権とか民主制は「カルト宗教」みたいなもので、みんながその価値を信じることにしか基盤がない。みんなが「そんなもの大したことない」と思い始めたら、いつでも崩壊する。
そして、この点において、実は左翼とかリベラルとか言われる人たちも同じ問題を抱えている。人権とか民主制が、「科学的」あるいは「普遍的な」ものだと勘違いしているから、その価値を受け入れない人の立場が分からない。そして、対話が成立しない。
大事なのは、人権も民主制も「カルト宗教」だということ。脆く、儚いものだということを、認めることだと思う。
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あと、別件だが、「リベラル」という概念と、国際問題や安全保証の問題につながっているのは歴史的には正しけど、現時点での政策の問題としては分けるべきだと思う。
たとえば、自分は「憲法にかかれている国民の権利に条件を付けろ(論理的には、普遍的権利としての基本的人権を廃止せよと同義)」という意見に反対だし、それが「リベラル」のもっとも典型的な主張だと思うのだけれど、一般的に「リベラル」という言葉が指しているものは、それよりもかなり広い。
国際政治について言うと、論理的には、「リベラル」であることは、「侵略戦争は批判されるべき」ということまで導く。論理的とまでは言わないけれど、慰安婦問題見直し論とか、歴史修正主義とかに、批判的な立場になることも、「リベラル」の帰結として自然とも言える。
ただ、9条をどうするかとか、米軍基地をどうするかとかは、リベラルかどうかとは関係ない話で、リベラルの立場から、9条の維持、廃止の議論はできるし、リアリズムの立場から、9条の維持、廃止の議論ができる。実際、日本は、「民主主義の価値観を世界に広めるために、世界最強の軍隊を持つべき」という立場(だった)国と友好的関係にあるわけだ。
「リベラル」ということで、こうしたリベラリズムが中立的であるはずの問題にまで、特定の立場を取っているとみられるのは、「リベラリズム」にとってマイナスだと思う。
「自分が貧困になる可能性がある」とか言って、福祉政策の必要性を主張している人がいるけど、バカじゃないの?
ネトウヨだって、労働問題や福祉政策については弱者目線の人が多いっつーの。
人が失職して生活に困ったり、病気・障害を負うことはあっても、性別は変わったりしないし、LGBTになってしまう可能性は無い。
そのため、「もし経済弱者になったら」という仮定は有効だが、「もしマイノリティになったら」という仮定は無意味なのだ。
一方、現代の左翼(リベラル?)は、経済的弱者だけではなく、マイノリティを支援しようという動きを取っている。
つまり、女性、少数民族、LGBTが差別されない社会を作ろうというのである。
このようなアイデンティティ・ポリティックスは、明らかに左翼の力を分散させる結果になっているし、個別に見ればマイノリティが経済的強者というケースもあるから、ねじれを生んでいる。左翼がネオリベの走狗になっているという、まるでディストピアのような政治状況だ。
それに、マイノリティの間でも利害の衝突はあるわけで、女性・LGBTの権利とイスラム教徒の権利は衝突するのではないか? 本邦においては、hatenaやTwitter界隈で、フェミニストとオタクが演じている激闘がそれである。
https://anond.hatelabo.jp/20171023212011
追記
「ネトウヨだって、労働問題や福祉政策については弱者目線の人が多い」という部分に反発があるようだが、在特会のレイシストが「普通の日本人」と自認していることを考えてみればいい。
彼らの脳内では、自分たちは権力を持たない一市民である。そして実際、その多くは富裕層ではなく、一介の庶民なのだ。
差別や排外主義、歴史修正主義の主張を行っている者たちが、労働者である自分たちの賃金を上げてほしい、ブラック企業は撲滅してほしいと述べることは、ことさら矛盾していない。自己の利益を最大化しようと活動するならば、自分とは直接関係のない者に対して冷淡にふるまうことは合理的だとさえ言える。
失業や貧困については、将来的に起こりうる不安だから我が事として考えられるけれども、差別問題をそのように理解するのは難しい。こうなると元増田の人が言っているように、リベラルは「弱者を救えば最終的には貴方も救われる」というやり方で連帯を訴えるか、「弱者に尽くす事は損得勘定以上の意味合いがあるのだ」という宗教じみた倫理観に訴えるしかなくなるだろう。
私は別エントリで、サヨクのことをカルト宗教と呼んだが(https://anond.hatelabo.jp/20171024075235)、後者の態度がまさしくそれである。それは信者に損得勘定を忘れさせ、人権やポリコレにひたすら尽くす苦行・喜捨をやらせて、仲間内でたがいにその涙ぐましい努力の成果を自慢しあっているようなものだ。
勿論、そのようなカルト的な熱狂で動いているサヨクがいたからこそ、さまざまな人権問題が改善してきたのだとは言えるし、むしろ有益な部分は多い。
歴史修正主義については誰も認めてないだろ
この増田は、立憲民主党に好意的で、強く支持している(17/10/17現在)人間によって書かれたものである。そのへんの是非はすっとばして本題に入るので、そのことを念頭に置いてください。
小林よしのりが立憲民主党の演説会に現れたということで、お前が言うなとかまずいままでにやったことについて反省しろとか、とても、もっともな罵声が投げつけられている。まったく同意である。
一方で、これを割と素直に受け入れてる立憲民主党支持者もいる。右へのウィングを広げて支持者を増やす良い機会じゃないかという反応もある。一理あるとはいえ、なんせ小林よしのりなのでそのため、そういう人に対する疑問の声も上がった。
いまの若い世代の自称リベラルが小林よしのりを赦すなら、俺はおまえらを許さん。奴は安上がりなレイシストのロジックを基礎から作った。覚えておけ。これがお前らが声援を送った男だ。
気持ちは、とてもよくわかる。
ただ、ちょっと待って欲しいと思うこともある。
俺の観測範囲の問題もあるんだろうけど、わりに無批判に小林よしのりを受け入れる立憲民主党支持者は、若い人が多い。アラサーを少し超えた程度の俺から見ても、若い。つまり20代だったり、もっと下も混じっているかもしれない。上の西田氏のツイートでの呼びかけも、若い人に対してである。問題はここにある。
小林よしのりは、はっきりいって過去の人である。いい年をした人にとっては、昔楽しませてもらったり黒歴史の源泉になったり、インフルエンサーとして、あるいはアジテーターとして思いが深いんだと思う。でも、いま2017年という時点では過去の人だ。
考えても見てほしい。東大一直線から35年、おぼっちゃまくんから25年、薬害エイズから20年。歴史修正主義運動の前面から消えてから(おそらくこのときが最後の「第一線」にいた時期)ですら、もう15年くらいたつ。その後も小さい話題は引き起こしてるとはいえ、すでに知ってた人にとっての話題くらいにしかなってなかったのではないか。「わしズム」で初めてはまった人とかいるのだろうか。
個人的な話をすれば、高校時代にゴー宣がクラスでちょっと流行ったことがあった。オタクっぽい、本好きの間だけだったけど。
気になって最新刊を立ち読みしたら、すでにつくる会がぐだぐだになってた時期だった。つくる会という運動はともかく、小林よしのりのマスへの影響力自体はもうほとんどなくなってたんじゃないか、当時。
まあ、それでも無印時代~新の初めのころまではおもしろかったのでよく読んだ。部落差別についての一連の話も、興味深く読んだ(同和教育のない地域だったので)。無印に登場する時事的な話題は、高校生にとっては、そこで扱われてる話題のほとんどは「小学校のころ見聞きした事件」だった。薬害エイズも、オウム真理教も、おぼっちゃまくんがPTAに白眼視されたのも、小学校のころニュース番組から流れてきた話題である。今くらいの年齢なら数年前もなんとなくつい最近と思えるけど、高校生にとっての小学校時代は「大昔」だ。田舎町の高校だったからなのかは知らないが、たまたまクラスで数年遅れで流行ったから、手に取ってそれなりに影響も受けたけど、そうじゃなければ小林よしのりなんて大して意識しないまま大人になった可能性が高い。
例外もあるだろうが、自分の体験を鑑みても、ゴー宣に「ピンと来れる」のは、ほぼほぼ俺くらいの世代が最後なんではないか。扱われてる人物の盛衰もあるし。小林よしのりにちゃんと接した世代というのは、俺かもう少し上の世代までじゃないだろうかと思うのだ。つまり、30代以上である。
だから、若い人は小林よしのりなんて知らないのだ。あるいは名前くらいは知ってて、「保守の大物文化人」くらいは認識してるかもしれない、でも近年のアイヌ否定のことだって知らないし、昔のことなんてもっと知らないだろう。認識の外のものはどうやったって外のものである。若い人のせいじゃない。吉本隆明なんて読んだことはなくても名前だけはわかる。そんな感じ。
さらにいうなら、おそらく小林よしのりが「やばい」というのも通じないのだ。小林よしのりに怒ってる人は、歴史修正主義運動をカジュアル化した極右、くらいに思ってると思う。
でも、そうじゃないのだ。多分、若い人には、歴史修正主義が極右のやらかすような、行き着きすぎたところにある行動だと思っていない。それは、保守を認ずる人なら、当たり前に身につけることだ、と思われてるんではないだろうか。
回り見回したらわかるではないか。ネットも出版業界も、そういうふうにできているのだ。これも、若い人のせいではない。
間接的な話をすれば、2001年につくる会教科書が検定を通っている。2002年からは、新しい指導要領の下での教育が始まり、つくる会の教科書はその指導要領の下で採用されている。いわゆる「ゆとり教育」である。2002年に中学に入学したのが89年度生まれ。それ以後は地域によっては小林よしのり的なものに教育現場が浸食されはじめた後の世代である。被害者なのである。
数年の差はあるけど、くっつけて言ってしまえば、ゆとり教育世代(以降)は、小林よしのりを知らない。小林よしのりのことをよく知らなければ、そして、歴史修正主義に学校から世間までが侵食されきった状態が普通の世界で人生を送ってきていれば、そりゃこんなに「普通の保守」までウイングが広がった、と喜ぶほうが普通決まってるではないか。普通の保守、そのものがそういうしろものまで後退しているのである。
いや、なんだかヘン、というのはわかるのだ。でも、それを安易に難ずることは、つまり「よくわからなくても批判せよ。俺たちが駄目だと言っている」と言う話なわけで、こんなのは典型的なパターナリズムである。リベラル思想をともにする人のやるべきことではない。こういうレトリックは、自称中立とか冷笑系といわれるような連中みたいで嫌なんだけど、もちろんあの手の連中みたいなことをいいたいわけではない。
かといってほっときゃいいとも思わないので、ちゃんと小林よしのりがどういう人かを(むやみに相手を傷つけないよう)継承するしかないだろうけど。引用した西田氏などは乱暴な口調ながら説明はしているだけ良いかもしれない。
もう一つ心配になることがある。上にも少し触れたけど、小林よしのりを知るか知らないかは、「ゆとり世代」前と後に、偶然ほぼ重なっている。ゆとり世代なるレッテルをふりかざして、インターネット内外でどういうバッシングや世代叩きが起きたか、ゆとり世代以前の人間なら知らないはずはないだろう。若者叩きというと新聞やTVや「リベラル文化人」の責任に押し付けておいて素知らぬ顔の人も多いかもしれないが、これはインターネットで2chやまとめサイトの利用者、テキストサイトや個人ニュースサイトなどの運営者に重なる集団が大手を振って謳歌していた「バッシング」である。ゆとり叩きをしていたネット民、について彼らが何かを総括したという話は寡聞にして聞かない。匿名がほとんどなのでそんなこと期待するだけ無駄であろうが。
話がそれたけれど、世代間バッシングの被害者世代がその上の世代をどう思っているかは、俺にもよくわからないところがある。ただ、目に見えないところに微妙な反感が潜んでいても、あまり非難はできない。
なので、たまたま分断ラインがほぼそれとかぶっていると思われるこの小林よしのりの評価をめぐる見解の相違は、乱暴に扱うととんでもないものに着火させるような気がする。
むやみに相手を傷つけないよう、などと注釈したのも、そういう理由であって。
若い人はともかく、小林よしのりそのものには擁護の余地はない、大いにバッシングすべきだ、という意見もあろう。すごくわかる。
ただなあ。
小林よしのりって、自分の見込みからズレるとすぐ相手を罵倒しはじめるじゃん。事例はそれこそ星の数ほど。
うかつに叩きまくると、蛇を出してきそうでめんどくさそうなのだ。一方、↓みたいな危惧もある。菅直人が手のひら返されたのなんてそれこそあっという間だったわけで(しかもゴー宣見る限りでは、主なきっかけは「対談を断ったから」)。
バッシングするなとはいわないが、いろいろと腫物扱いしておくべき人だな、という気はする。
今回の選挙は、多分、立憲民主党は議席を伸ばす。とはいえ、自民党も伸ばすのだろう。希望の党がポシャったので。安倍晋三の顔にタテ線を入れるという意味ではもう少し希望の党が持ちこたえて欲しかったが、それ以外の意味では希望の党がしぼんでくれて良かったわけで、まあしょうがない。
なので、これからが大事だろう。立憲民主党がいつまでも追い風なわけもない。これからさまざまな合流もあるだろうし、いろいろな批判も出てくるだろう。すでに公明党が目の上のタンコブを検出してロックオンしている。
立憲民主党Twitterはやけに上手い。きっとネットに造詣のある人がやってるんだろう。でもそういうさばけた感じでうまくやる人と、やらかす人が紙一重なのはネットウオッチャーには常識である。何とか炎上させるための火花がほしくて仕方ない人はきっと与党支持者を中心にいっぱいいるわけで、上げ潮だからこそ心配、な案件かもしれない。
というわけで、あんまり立憲民主支持者がのんびり自分たちの陣営が予想以上に多いことを喜んでる場合ではあんまりない(連日TLで見かける立会演説の写真は、うぉーっとは思うけどそういう意味でつい一歩引いて見ている自分がいる)。そこに安易な世代間バッシングの火種を投入するのは、いま立憲民主党に期待している人にとって、まったくいいことがないと思うのだ。もうちょこちょこと局所的なディスカッションが発生しているのは自分の観測範囲でも見かけるし、わかるんだけど、これが躓きの石になったら、さすがに残念すぎるだろう。