はてなキーワード: 止揚とは
表現の自由という大義名分はこと公共空間においては綱渡り的曲芸の止揚点だと述べたつもりだが、俺の意図するところは読み取ってくれなかったのかな。
ココこそ君の論の最もバカな部分な訳だが?
綱渡りになるのは「己の快不快で他人の人権を侵害して良い人」が居るからに過ぎない。本来綱渡りであるべきでないものを綱渡りにしてる者をこそ非難すべきなわけで、表現の自由を捨てさる理由になど全くならない。
特別な話ではないが、許される話でもない。
彼奴等は「何か言う」ではなく、表現とそれで食ってるものの撲滅を計ってるのは明らか。
フェミはお気持ちに拠っているが、こっちは基本的人権に拠って立ってる。一緒にすんなよ?
「妥協しない」フェミと「妥協が許さない」基本的人権のあいだに中間点などない。少しでも譲歩したら表現の自由は死ぬ。
個人の利害が衝突するからこそ公正なルールが必要な訳で、それこそが人権。
「俺もあいつも我慢してる」んだよ。それが分からないものだけが他者の表現を許さない
まさにそこがオタの主張として弱いよねっていう話をしたつもりなんだけどな。表現の自由はあまり関係ないんよ。我々は公共空間をどうデザインするか?という問いがまず大前提。
「公共空間をデザイン」なんてのは誰がするもんでもない。それを個人の快不快で行おうとするなら、それは世界から己の見たくないもの全て消し去らないと不可能だろ。そんな要求が容れられるわけねーだろ。
皆が皆の表現の自由のままに行動した結果が公共の空間であるべきで、それを「デザイン」なんてしようと言うのは独裁者にも似た思い上がり。そんな問いを抱くことからして君も他者の表現を殺そうと言う欲望に取り憑かれてるのでは?
表現の自由という大義名分はこと公共空間においては綱渡り的曲芸の止揚点だと述べたつもりだが、俺の意図するところは読み取ってくれなかったのかな。公共空間で表現する時点でフェミに何か言われるのは特別な話でも何でもない。公共空間が個人の利害の衝突する社会そのものの縮図だと考えたらオタやフェミのお気持ちの中間を探るのが道理だと思うよ。
まさにそこがオタの主張として弱いよねっていう話をしたつもりなんだけどな。表現の自由はあまり関係ないんよ。我々は公共空間をどうデザインするか?という問いがまず大前提。
辞書的に言えば「市民的公共性とは、ハーバーマスが『公共性の構造転換』(1962)の中で提唱した概念。ホルクハイマーらの『人間の理性が頑張っても幸せにならないんじゃないの? だってナチスとか出てきたし』という悲観に対するカウンターとして提出された。ハーバーマスにとっての公共性は人間が自由平等連帯で幸せになっていくためのベースとして存在している」といった感じ。
~性というのはいかにもベースとして弱そうだが、ドイツ語のÖffentlichkeitは「Public sphere=公共圏」と訳すこともできるというかこっちのほうが適切だと最近は言われている。なので以下では基本的に公共圏で統一する。
それはハーバーマス自身もよくわかっていないようである。その証拠に大学図書館には「公共圏ってたぶんこういうのだと思います(こういうものだったらいいな)」という本が溢れている。たぶん最大公約数的には「まあみんなで議論する場は必要だよね」というあたりで理解されている。
しかし、この「みんなで議論する場」というものが曲者である。人類の大半の歴史上、「みんなで議論する場=公共圏」には男性だったり社会的強者だったりという入場パスが必要だった(今でもそうかもしれない)。しかしそれは今日の価値観から見れば明らかに間違っていたわけで、その間違い(入場パス)と長い間仲良しだった概念を自由で幸せな社会のベースに据えていいのかという問題がある。
ハーバーマスは彼が理想とする市民的公共圏がどういうものであるかは、少なくとも『公共性の構造転換』の中では(たぶんそして今日に至るまで)ふわっとしたことしか言っていないのだが、どういうものでないかはこれ以上ないほどに詳しく論じている。一見いかにも学者らしい無駄っぽく思えるが、「こっちに行ってはいけない」というガイドブックでもなにもないよりはましである。たぶん。
本稿では、「昔の(入場パスつきの)公共圏にはこのような批判がありました」とハーバーマスが論じている部分を検討し、その批判が千田氏の立場にブッ刺さっていることを確認する。その結論として、千田氏の「市民的公共性」という用語の用法がいかに不適当ないしド適当であるかを示す。
以下ではハーバーマス(細谷貞雄・山田正行訳)『公共性の構造転換』の第四章 第一四節「公共性の弁証法によせて――ヘーゲルとマルクス」に基づいて議論を行う。
ヘーゲルは入場パスと公共圏の関係を真っ先に疑った人であった。とはいえヘーゲルも最初からブチ切れたりはしない。「公論(公共圏における論議、もしくは公共圏そのもの)っていいよね、合理的だし」というところから話を始める。でもその合理性って自由主義がベースになきゃ成立しないよね?(みんなが自由に意見を言えることが前提なので)、でもその自由主義って本当に公共圏とそこまで相性いいだろうか?とヘーゲルは問う。考えてみればこの矛盾は明らかである。司会のいない多人数の会議を考えてみればよい。地獄である。間違いなくそこに自由はある。なのに(だから?)地獄である。
このことの地獄性は会議室を超えて社会とか国家とかのスケールになるとより増す。例えば少数者差別を考えてみればよい。これはみんなに「自由に」議論させてるだけではそもそも議題にすら上がらないだろう。そうして公論はきらきらした合理性の賜物から「多数者の主観的私念」という水準へと転落する。公論は「自然に生じた不平等を止揚するどころか、むしろこれらを技能、財産、さらには知的倫理的教養の不平等まで深めていく」。入場パスを持っていない人はより不利な位置に、持っていても少数派の人もまたより不利な位置に、公論によって追いやられる。
まあとはいえ人間も頑張るもので、法治国家とか市民社会とかを作って頑張って公論して私念から理性に支配権を移そうとするのだが、ヘーゲルいわく土台が腐っているのに頑張っても泥縄だそうである。そうした頑張りはむしろ国家に主観的私念を入り込ませる結果になるとヘーゲルは言う。じゃあどうすりゃええのよって言えばヘーゲルは最初から開き直って身分制国家を作れとか言ってそれに対しマルクスがいや社会主義でしょとか言って最後にハーバーマスがいや公共圏を作んなきゃダメだよとか言うのだが、そのあたりは略する。
ともかくにもハーバーマスが描く市民的公共圏というものは、こうした批判をスルーしては論じることができない。ここで重要なのは、ハーバーマスが公共圏をどのようなもの「ではない」と考えていたかということである。以上見てきたようなヘーゲルの理論は最終的に乗り越えられる(ということになっているが詳しいことはやはり不明)のだが、であるからこそ少なくともヘーゲルが批判したそのままのことをやるのがまずいというのはわかっている。
まさにヘーゲルが批判した地獄の公論をインターネット上に出現させようとしているのである。
私自身は「表現の自由」は国家から規制されるべきものではない、とは思う。でもそう思うからこそ、国家から規制されるまえに、「市民的公共性」を発達させないといけないと思うんですよ。
あと表現って、さまざまな他者への配慮のなかでこそ磨かれていくものだと思う。フリーハンドの表現なんてない。https://twitter.com/chitaponta/status/1047451777220501504
市民的公共性の話って、ハーバーマスのつもりだったんですが…。https://twitter.com/chitaponta/status/1047789073471946752
市民的公共性は対話によるものですから、そのことを話し合うことが大切だと思います。
いままさに起きていることが、市民的公共性なのではないでしょうか?https://twitter.com/chitaponta/status/1047810256976269312
まず第一に、専門用語を「」で括って注釈なしに使うのはおよそハーバーマスの「市民的公共性」的態度ではないといえる。なぜならこれこそヘーゲルが批判した「自然に生じた不平等を(略)知的倫理的教養の不平等まで深め」る態度にほかならないからである。
そして第二に、ハーバーマスの議論は上のような「話し合えばそれが公共性」というような安易な理解を拒絶するものであるということを千田氏はまったく理解していない(か理解していても無視している)。上で見たヘーゲルによる公共圏批判からもわかるように、ハーバーマスの議論は「公共圏にはあれやこれやそれや…の批判があるけど、でも、それでも公共圏がなければ人間は幸せにはなれないんだ」というひねくれたものであり、単に「話し合いが重要だよね」と言っているのとは違う。仮に結論は一緒だとしてもやはりそれは違う。その違うものを一緒くたにして、専門外の人に「話し合い=市民的公共性」という理解(そんな人のいい理解をしている人はほとんどいないようだが仮に字面だけ虚心に読んだとして)を植え付けることが、ほんとうにハーバーマス的であるといえるだろうか?
第三に、「思う」根拠が示されてない。少なくともハーバーマスは「国家の規制を前もって回避するために市民的公共圏を発達させるべきである」というような具体的な議論はしていないはずである。であるとすればこれは千田氏のオリジナルのアイディアが含まれているはずであるのだが、それがまったく説明されていないのと、先に述べたようにそもそも専門家間ですら扱い方に差がある「市民的公共性」という単語のせいで、最初のツイートの二文目は全く意味不明なものと化している。原理的に誰にも意味が伝わらないはずのもので炎上しているのはお気の毒というほかないが、であるからこそ千田氏は「市民的公共性」の意味と「思う」理由をしっかりと説明してほしいと思う。
(2021/2/7追記)書きました anond:20210207093448
これはある種の確信を持って書いている。
いろいろ書く前に、私のプロフィールを書いておこう。26才、プログラマーで大学は情報系の学部卒。沖縄で生まれ高校まで過ごし、東京で働いた。
さて、今回の選挙では、必ず佐喜真氏が勝つことに“なっている”。
まず、若い世代は”功利主義”の考えが根強い。とても簡単に言えば、結果さえよければ、途中の過程にはある程度目をつぶるというものだ。あるいは、1人の犠牲と10人の犠牲でどちらかを選ばなければならないなら、1人の犠牲を選ぶというものだ。これをトロッコ問題という。
きつい言い方をすれば、普天間基地がなくなるのであれば、辺野古の海や住民の生活が多少脅かされようとも問題はない、ということだ。
またそもそも、「辺野古はもう埋め立てられているのだし、中止になろうが埋め立てられようが、誰も幸せにならない。だから、すぐに普天間を移すことができる場所を作るのがいいのだろう」という考えも多いだろう。ある種この考えは正当性を持っているかのように見えるが、実際は自民党や基地推進派による「刷り込み」あるいは「意見の誘導」にすぎない。本来であれば、他の都道府県に移すという考えは実現可能だ。しかし、もうそれが不可能かのような雰囲気が漂っているのだ。
基地はない方がいい。これは多くの(基地利権がない)県民にとっては共通の意見だ。しかし、それは基地が70年以上ある中で理想となっている。すでに、生まれた時には空にはF-15EやF-22やKC-135やC-130やCH53やMV-22が飛んでいて、基地はヅャスコやサ●エー(沖縄のスーパー)やメイ●マン並にありふれた施設となっている。このような中で基地を無くそうという意見は、もう理想の域になってしまっているのだ。そのような中、辺野古は埋め立てられ、県内移設の準備は整いつつある。それならば、もう辺野古にしてしまえとある種の妥協に正当性を見いだすのだ。繰り返すが、極右のように「基地をポンポン作れ」というような意見から出てきた意見ではなく、妥協によるソフトなランディング地点に辺野古への移設を見出しているのだ。
ゆえに、若者にとってすでに、辺野古は争点になっていない。その他の経済や子育て、教育に争点を見いだす。この時点で、辺野古を争点にしない分、その他にフォーカスをあてることができる佐喜真氏の意見は魅力的となる。余談が過ぎたが、以上が、若者から見て佐喜真氏が支持される理由の一つだ。それに沖縄は若年層も多い。
二つ目の理由として、デマの問題もないわけではない。特に若い世代はテレビやラジオ、新聞よりTwitterやインスタに接する時間が圧倒的に長い。この点は悪いわけではない。問題は、そのような情報に触れ合っているだけで、(ボットの投稿であっても、)多くの同じような意見が流れればそれを正しいと思ってしまうというリテラシーにある。これを別に佐喜真氏の陣営がやっていると言っているわけではない。佐喜真氏のスタンスからすると、彼に利をするようなツイートなどが多いと感じただけだ。
この点はきちんと、どちらの陣営からも検証するべきだし、今後も注意しなければならない点だ。佐喜真氏の支持者も、デニーの支持者も、相手側の視点に立ったらどうしたほうがいいかを考えなければならない。そうやって双方の立場を尊重することで、民主主義は良い方向に醸成される。
三つ目は、自民の選挙の「うまさ」だ。これは、デニー陣営が「弱い」からではない。自民が「うますぎる」のである。まず辺野古を争点にしなかったこと。ただし、普天間は除去するという。県民に「私たちは辺野古に基地を新設させた」、あるいは「私たちはデニーに投票したことで国からの財源が減らされてしまい、沖縄にとって悪影響をもたらした」といったある種の罪悪感を持たせることもない。
他にも公明党が支持にまわったのも大きいし、基地は利権が絡むため、これらのカネが回ることによって組織票の点で大きな集票効果がある。自民は戦後長きにわたる安定的な政権を樹立してきたことで、経済界に大きなコネがあるのは当然のことであり、なんの問題もなくある程度の票を集めることが可能だ。この点、オール沖縄陣営はある種の「ハンデ」を背負っていることは事実だ。それなのに勝った翁長はすごかった。
対してデニー陣営はオール沖縄の影響力低下にともなって、戦力を損ないつつあった。なんだかんだで、世の中カネなのだ。と言うわけで、最後の理由は、陣営の強さにあった。
最後に、民主主義についてもう一度考えてみたい。勘違いする人は多いが、民主主義は単なる多数派の意見を是、少数派を正しくないとするようなお祭りではない。もし少数派の意見が完全に無視され多数派の意見だけが通るなら、それは「多数派のお祭り」に過ぎない。多数派の意見に対して少数派の意見が顧みられることがなければ、選挙なんて「いくらやっても無駄」というわけである。
アウフヘーベン、止揚という都知事も大好きな言葉があるが、これは弁証法の言葉で、簡単に言うと意見と意見を交換することで、より高次な意見を見いだすということだ。すなわち、タケノコ派とキノコ派が争い、タケノコ派が勝ったとしても、キノコ派の意見も取り入れる(タケノコの下に柄をつけるのかもしれない)ということだ。誤解を恐れずに言うと、多数派もある程度妥協して少数派の意見を取り入れるという考えだ。(うまく説明できずにニュアンスが違うので、詳しくは調べてほしい)
民主主義を履き違え、多数派なので間違いはない、少数派なので間違っている、というような理屈で政策を進めてしまうと、必ず軋轢が生まれて分断となる。この点は間違えてはいけないし、「功利主義」が根強く語られる世の中では、より注意したい点だ。自分がもし少数派であるならどうするかという視点に立つことが重要なのだと思う。
ちなみに、私の祖母に誰に投票したか聞いたところ、佐喜真氏へ入れたという。理由は、「誰に入れたらいいかわからなかったが、書きやすかった」からだそうである。
コミュニケーションて二者の問題なのに、寡黙な人とか少し人付き合いが苦手な人だけが、「コミュ力がない」とされるのはおかしい。
本来はそういう人とのコミュニケーションができる方法があるはずで、それもせずに「コミュ力がない」などとするからコミュニケーションが閉じられるのだ。
コミュニケーション力が本当に高いなら、「コミュ力」が低い人ともコミュニケーションができるはずだ。なぜならコミュニケーションは二者の問題だからだ。本当にコミュ力があるひとは、どんなにコミュニケーションが苦手な人の意見も引き出そうとする。議論を積み重ね止揚していく。
相手のコミュ力を理由にコミュニケーションをあきらめたときは、自分のコミュ力も疑ってみると良い。
(このブコメを読んで、そう気づいた)
b.hatena.ne.jp/entry/370933611/comment/shun_libra
左右いずれもガチガチの政治家は、いつまでもガチガチのまま、一割の支持者層で人生を終えてしまいます。私は共産党の人たちにもずっと言い続けました。
「政権を取るぐらいの気持ちで政治をやらなければ、いつまでも一割政党でどうするのですか。これが正しい、あれが正しいと言って政権も取れず、あなた方は政党として支持者に応えているのですか。あなた方を信じて何十年も付いてきた支持者に不誠実ではないですか」 一割で正しいことを言っても、残りの九割に誰も興味を示さないのなら、政党としてやっている意味がないのではないか。 現在の日本の政党状況のように、「一強多弱」では政治が行き詰まってしまいます。それぞれ一定程度の勢力を持ちながら勝ち負けがあるからこそ政治に緊張感が生まれ、民意がそこに反映されるのです。それは政治家がいつも意識していなければならないことだと思います。
私は革新側も批判しています。「憲法九条があるから日本は平和だ」と主張する人たちは、憲法の埒外にあった沖縄の負担のもとで、戦後日本の高度経済成長、平和の継続があったという視点が抜け落ちています。
今の日本の政治はまったく民意を顧みない。国権の最高機関たる国会も、行政府の監視という役割を果たしておらず、与党内においても異論が封殺されています。日本の民主主義が危機に直面しているのです。
そればかりか、「(普天間基地の)もとは田んぼで何もなかった」「基地の地主はみんな年収何千万円」と発言した有名な作家のように、自分たちで日本の安全保障を守ろうという気概もない人たちまでもが、実態とかけ離れた暴言を吐いています。そこには沖縄に対する無知と無理解、差別意識があります。
沖縄という小さな島が、日米両国という大きな権力を相手にして戦うことは困難を極めます。 そうした状況を前にして、「沖縄は独立することを考えているのですか?」という問いが発せられます。 そして、そんな問いを受けるたびに、私は沖縄県民がここまで日本国民として受け止めてもらえないのか、と絶望的な気持ちになるのです。
もちろん、独立論は沖縄で積極的に支持される意見ではありません。これまでは居酒屋談義とされてきました。独立論がまじめに語られ始めた原因は、むしろ本土側にあります。 基地削減を求める沖縄県民の声が無視され続け、これに対して「日本の四七分の一として認めないのなら、いっそ日本というくびきから外してほしい」「独立すれば沖縄の意思で基地をなくせる」という気持ちの表れとして独立論が語られます。
今後、事態の成り行きによっては、独立の意思を表明する人たちが、沖縄から数多く出てくるかもしれません。しかし、それ自体が沖縄の不幸につながると私は思います。
そして、沖縄の独立を語る前に、日本本土が覚悟を決めて、米軍基地を全国で受け入れて、しっかりとした日米同盟をつくってもらいたいと私は思っています。日本国民一人ひとりが、基地問題を自分のこととして考えて、そしてその集約が日本の政治をうごかしていくようにならなければ、真の民主主義がこの国に根付くことはないでしょう。
沖縄の基地問題は、結局自治体と国の闘争という単純な話ではないのだ。基地問題に限らず、政治に関する無関心は、最終的に、大きな民主主義の傷となって日本国を蝕んでいくだろう。
ところで、この場合、基地問題の議論を終着させるのは誰の意見なのか?日本国民の多数決?沖縄県民の多数決?まぁ、現時点ではおそらくそれのどちらでもなく、「政権の多数決」なのだろうな。
まぁ、「多数決」が「民主主義」と思っているような人も多いので、この国の民主主義には期待できそうにもない。(ヘーゲル弁証法や「止揚」は、現社でやったっけ?)
アウフヘーベン | ドイツ語で「拾い上げる」「廃止する」などの意。哲学用語としては「止揚(対立する諸要素を発展的に統一すること)」と訳される。小池百合子都知事が会見で用いた。 |
○○ファースト | 「○○第一」「○○優先」といった意味。特に「都民ファースト」は小池百合子都知事のスローガンとなり、政党名にも使われた。 |
インスタ映え | SNS「Instagram」に写真を投稿したときに見栄えがする、いかにも注目を集められそうだ、といった意味。 |
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うつヌケ | 同名の漫画のこと。漫画家・田中圭一の作品で、うつ病から脱出した人たちの体験談を描いてヒットした。 |
うんこ漢字ドリル | 全ての例文に「うんこ」という単語が用いられている小学生向けの漢字ドリルで、その奇抜な内容から大ヒットした。 |
炎上○○ | 「炎上商法」「炎上芸人」など、インターネットでの炎上を逆用する諸行為のこと(…か?)。 |
AIスピーカー | インターネットに接続され、音声操作でAIを利用できるスピーカーのこと。Amazon EchoやGoogle Home、Apple HomePodといった商品が発売・発表されている。 |
9.98(10秒の壁) | 今年9月に桐生祥秀が出した男子100m走のタイム。これまでの日本記録を上回り、日本人で初めて9秒台に突入した。 |
共謀罪 | テロ等を未然に防止するため、組織犯罪を計画した段階で処罰できるとする法律のこと。多くの反対意見もあったが今年6月に国会で可決された。 |
GINZA SIX | 今年4月に開業した銀座の複合商業施設のこと。 |
空前絶後の | お笑い芸人・サンシャイン池崎のギャグ。昨年末の「絶対に笑ってはいけない科学博士24時」に出演したことでブレイクした。 |
35億 | お笑い芸人・ブルゾンちえみのギャグ。世界中の男性の人数を指している(70億の半分)。 |
けものフレンズ | 同名のアニメのこと。同プロジェクトのゲームが既に終了するなかで今年1月から放送され、クチコミにより広まり大ヒットした。 |
刀剣乱舞 | 同名のブラウザゲームのこと。2015年の流行語大賞でも「刀剣女子」がノミネートされている。 |
Jアラート | 全国瞬時警報システムの通称。北朝鮮のミサイル発射実験により発動したことで話題となった。 |
人生100年時代 | 100年後には平均寿命が100歳になっているとの予測を受けて、日本政府が今年9月に「人生100年時代会議」を開催した。 |
睡眠負債 | スタンフォード大学の研究者が提唱したもので、少しずつの睡眠不足が積み重なることで大きなリスクとなっているとする考えのこと。 |
線上降水帯 | 積乱雲が次々に発生して長さ数十から数百kmに及び線上に連なる現象のこと。ゲリラ豪雨の原因とされる。 |
忖度 | 他人の心情を推し量ること。森友学園の問題に際して「上役の心情に配慮すること」というやや違った意味で人口に膾炙した。 |
ちーがーうーだーろー! | 当時衆院議員だった豊田真由子氏が秘書へ放った暴言のひとつ。秘書への暴行も報道されて責任問題となった。 |
魔の2回生 | 2012年に初当選し、2014年に再選された自民党の2回生議員のことで、不祥事が多いためにそう呼ばれるようになった。 |
働き方改革 | 日本政府が推進する改革で、日本の労働環境や慣習を抜本的に見直そうとするもの。長時間労働の解消、非正規雇用の解決などを目指す。 |
プレミアムフライデー | 個人消費を喚起するため政府および経済界が提唱したもので、毎月末の金曜日は午後3時に終業するよう企業に求めるキャンペーンのこと。 |
ハンドスピナー | ボールベアリングに「羽」を付けた玩具で、基本的には回転させるだけの手慰みとして使う。 |
ひふみん | 将棋棋士・加藤一二三のニックネーム。今年6月にプロを引退した。その特異なキャラから人気となり、バラエティ番組などにも出演している。 |
藤井フィーバー | 将棋棋士・藤井聡太が史上最年少でプロとなり、デビューから無敗のまま公式戦最多連勝記録を打ち立てたことで話題となった。 |
フェイクニュース | 虚偽の情報を多分に含むニュースのこと。特にアメリカ大統領選において様々なフェイクニュースがSNSで拡散されたことが問題視された。 |
ポスト真実 | 客観的な事実よりも自身の感情に訴える虚偽を信じやすい状況のこと。アメリカ大統領線やイギリスのEU離脱にまつわる中でよく用いられた。 |
ユーチューバー | 動画投稿サイト「YouTube」からの広告収入で生活をする動画投稿者の総称。ヒカキン、はじめしゃちょーなどが著名。 |
ワンオペ育児 | 「ワンオペ」とはもともと飲食店を一人で回している状態(ワン・オペレーション)のことを言い、転じて夫もしくは妻が一人で育児を行っている状況を指す。 |
右翼や左翼というカテゴリは、なぜか人に完全な説明を与えたような錯覚させる言葉だ。
一般的な左翼的言説は、左翼は進歩的であったり、人間中心的であったり、自他的であったり、自利的あったりする。
一般的な右翼的言説は、右翼は保守的であったり、自然中心的であったり、集団的であったり、個人的であったり、規律的であったりする。
これだけ雑多な概念ではあるが、左翼と右翼は対立していたり、対立していないこともある。
わたしは2つの概念に、どちらがより悪いかということを言うつもりはない。
これから書くのは、左翼と右翼にある対するよくある誤解をできるだけ解いていこうという試みである。
といっても私の力不足により、今は3つしかなく内容も不明瞭に見える。
それと誤解と断定して書いたが、恐らくは誤解であるという所だ。
なぜなら、左翼と右翼に完璧な定義付けを、私はしないつもりだからだ。
それでは、なぜ左翼と右翼に対する誤解と言うものを書けるのか。
それは左翼と右翼に対してよく言われる一部の定義を仮として当てはめた時、明らかに左翼と右翼の思想が成り立たなくなり
そうなったときに、彼は左翼だ、右翼だと言うことがほとんど不可能になると思われるからだ。
私は"思想的ジレンマ"というような言説、態度を認めていない。
どちらかのジレンマによる、右翼と左翼のキメラ的態度を認めないということだ。
(哲学的に言えば、ヘーゲルの止揚という概念を認めていない。)
それを踏まえた上で、左翼と右翼に対する誤解について書いていこうと思う。
左翼的言説とは、現状を改革することや、何かを変えようとの意向を持つ言説であろう。
右翼的な言説は、現状を守るときや、何かを大事にしようとするときのものだ。
これらから、左翼は常に革命を求めており、暴力的であるとか、右翼は頭が固く時代遅れだなどと言われる。
まず、最初に左翼的な言説に、まるで保守性がないというのは成り立たないことだ。
左翼が変革を起こす時、現状をすべて破棄するか、一部を破棄するかというどちらかを選択するだろう。
そして現在には存在しない概念を(規則など)を落ち込むことになる。
もし、その概念に批判があれば、左翼はこれを守らなければならない。
その守るための言説に保守的な言葉が無いとしたら、明らかにその概念はたちまち崩壊するだろう。
君の進歩的概念が適用された世界を認めたとして、その世界をどのように(同じような進歩的概念から)守るのだ?
次に右翼的な言説に、現状を進歩させるものではないとするものだ。
これは左翼的な言説に保守的な言説が混ざり込む以上、彼らは、その保守的な言説と戦わなければいけない。
その戦う言説が保守的なものだけであれば、ともに共存することになる。
そうではなく、現状維持のためであれば、不純物は取り除かなくてはいけない。
不純物を取り除いた後に、根本の原因である現状の変革を実施する。
劣化し始めるもの、進歩し始めるのも、現状に問題があるためであり、その現状を彼らは変革するのである。
左翼が保守的に見えたり、右翼が進歩的に見えたりするのは、そもそもの左翼が進歩的であり、右翼が保守的であるということを誤解していることによるのである。
もし私がりんごを食べるとして、ある場所では犯罪だが、ある場所では犯罪ではないとすれば
食べる場所によって犯罪の可否がきまるため、私がりんごを食べる自由は相対的であると言える。)
絶対論とは、~べき論や、どこであろうと適用されることを望んだ言説である。
これらにより、左翼は優柔不断、すぐ裏切るなどや、右翼は頭が固い、傲慢だなどと言われる。
では、これも同じように左翼に絶対的な言説が入り込む余地が本当に無いのだろうか?
その前に、左翼が進歩的言説を行うものであることは、すんなり頭に入った人たちでも、
左翼が相対的言説をしているから左翼だと認識することはあまりないであろうと思われる。
相対的言説とは、まさに例を取ってあげれば左翼的言説に近いもので有ることは理解してもらえると思う。
自由を仮に絶対的に定義しようとすればまさしく絶対的自由から抜け出すことこそが自由であると言うことが分かる。
絶対的言説とは、言説による力を発揮する場所を定義するということである。
例えば、国、集団など。その限定された場所によって、定義された言葉が、それに見合った意味となる。
さて、左翼が相対的であるとのは、相対的言説を用いているからであると説明した。
左翼は確かに相対的言説を用いているが、よく見ればそれは、条件付きの相対的言説なのである。
自由という概念は、他に絶対性がなければ、自由そのものが絶対的なものとなってしまう。
そこから抜け出すために、一定の絶対性を用意し、その絶対性からの自由を得ているのだ。
そのため左翼は完全に絶対的なものを使用するため、完全に相対的であることはできないし望んでいない。
では、右翼はどうだろうか、右翼は絶対的であろうとし、あらゆる不名誉を得てきた。
右翼は絶対的たりうるための場所を定義するが、その場所を定義するプロセスは相対的である。
それは場所とは、物理的に言えば、自然によって決まっており、自然がもたらした、ものによって人が決めるのである。
ある場所は良くないが、ある場所が良いといのは自然により決定している。
こうして、右翼も完全に絶対的であることができず、また望んでいない。
左翼が相対的に見える場合は、条件付けを見れば誤解であることに気づき、右翼が絶対的に見える場合は、場所の定義を確認すれば誤解であることが分かるのだ。
つまり、左翼は相対的であることも、右翼が絶対的であることも誤解である。
左翼が実利的に見えてしまうのは、ほとんど悪名高き功利主義によるものだ。
右翼は功利主義をもたない。なぜなら功利主義は幸福に関する思想であり、幸福という概念は相対的言説だからである。
このせいで、左翼は感情のない人間という扱いになり、右翼は計算の出来ない人間と言われる。
これは功利主義が短期的な実利主義であるという誤解から生まれている。
功利主義とはその場の短期的な視点での価値判断で使用される思想ではないということだ。
もっと長期的な10年、100年というスパンで幸福について考える思想なのだ。
これらの左翼と右翼の誤解はそもそもの問題としては何なのだろう?
私が思うに左翼と右翼という概念が、その人自身の属性となってしまうことによるものだろう。
有る考えが進歩的であったとしても、その人自身はまるで関係ないはずである。
しかし、左翼、右翼とするとその場合は、人間と結合し、その人間自身が左翼、右翼的な存在となってしまう。
本当に気をつけなければいけないことは、左翼的、右翼的であることが、その本人の属性として、その本人の全人格を表すようにみていないかということだろう。
うんだからそういう議論の際を論点としていたなら「いつでもどこでも」「なんかあるたびに」などと言ったりしないからな
前増田のように、「この場合は差別に該当するのか」「この差別への対応には過剰すぎる対応ではないか」「もっといいやり方はないのか」などの主張が本題の場合
つまり被差別者は差別されている当事者にもかかわらず差別されたというキズを晒すことすら許されないのね
当事者を置き去りにして当事者感覚のない議論したつもりの自己満オナニーに黙って付き合え!!ってことなんだよなぁ
そりゃあそういう議論ではマジョリティ様が勝つよね、ネット上の議論でもだいたいが自分にとって心地良い意見が出た時点でそれを結論とするクズばかりなのだから
それ故にポリティカル・コレクトネスが求められているのに部外者でありながら不快を感じたくないマジョリティ様がワーワー騒ぎすぎ
挙句の果てに「差別を受けた内的情報」を根拠に「もっといいやり方はないか」という意見を出すことすら封印するだろ
そりゃあ当事者意識のない外野がワーワー騒いでマジョリティであるおかげで自分たちにだけ心地良い結論を出しやすい環境を整えていたら属性で黙らせる以外方法はないからな
感動ポルノとおなじで外野のくせに「考えてますよ~」という知識人オナニーの道具にしか使われてない
なぜそう思った?「有益な情報」はインプットだけど「オレサマのきんもちよくなるフレーズを浴びせる」はアウトプットだ。
最初の増田からず~~~~っと議論したい、止揚を求めたいと言ってるじゃん。沈黙したらそこで終わりなんだし俺の目的も果たせないの。
おまえの目的?あぁ被差別者を黙らせて部外者で議論して心地よくなって被差別者のことなんか明日には忘れてすっきり生活するオナニー欲求のこと?
そんだけ議論したい話を聞いてもらいたいならまず被差別者の開示にもキチンと向き合って受け入れてもらえる状況を努力して作ってからにしような。
おまえの開示には付き合わないがオレの自称有益な情報や議論には付き合え、あぁおまえの被差別性には興味ないし明日には忘れるけどなというスタンスで他人から受け入れてもらえるとか想像力がなさすぎ
言いたいことがまるで伝わってないぞ
そう応答するってことは
「被差別者の内面」っていうのは「差別を受けたときにこのように心理的ダメージを受けましたなどという発言者の内的情報」って理解でいいか?以降、この理解で進む。
TPO上この情報が必要なのは「差別を受けてもダメージなんて受けないじゃん」という主張が本題の場合だ。
前増田のように、「この場合は差別に該当するのか」「この差別への対応には過剰すぎる対応ではないか」「もっといいやり方はないのか」などの主張が本題の場合
「差別のダメージ」については議論に上っている全員が共有している情報なんだ。それはもういらない。
挙句の果てに「差別を受けた内的情報」を根拠に「もっといいやり方はないか」という意見を出すことすら封印するだろ
(直接的には、「もっと優しく言ってくれないと~~」のワードが一番顕著に使われる)
この状況を一番問題視しているんだ
なぜそう思った?「有益な情報」はインプットだけど「オレサマのきんもちよくなるフレーズを浴びせる」はアウトプットだ。
ここの基本的な理解がまずおかしいので、後の話が全くつながらないのだ。
結局沈黙を強いろうとしてるだけじゃん
最初の増田からず~~~~っと議論したい、止揚を求めたいと言ってるじゃん。沈黙したらそこで終わりなんだし俺の目的も果たせないの。
個人的に、インターネットは物理的に本当に手斧や石が飛んで来ることがなく、
idも変えれば過去の人格も簡単に切り離せる、これはマジで知識を集約するのに適した場だと思う
せっかくのそういうアドバンテージをなし崩しにするような行為はもったいないし、増田やはてブロがそんな場所になるのは悲しい。
http://anond.hatelabo.jp/20160804171358
自称「中二病を脱した23歳増田」に乗っかる感じでシンゴジラ批判エントリーを書きたくなったおっさんです。
(あたしも10年前の20代の頃はてなのサブカルおじさんが怖かったからねw)
シン・ゴジラは「日本の実写映画」にとってエポックメイキングになりうる最高に素晴らしい作品だと思うが
この大絶賛の嵐に怖くなってきました。左側からのまっとうな批判が見られない。
まずはじめに私の感想とすると「シン・ゴジラ」は素晴らしい映画なのは確かです。
「日本の実写アクションエンタメ映画」でまともな人間ドラマを描けるでしょうか?
民族やイデオロギー宗教対立のない日本。殺人を含む強烈なDISの激突による止揚や
「個人のエゴがイノベーションを起こす」ことを良しとしないし信じない日本社会では
欧米式の人間ドラマなどは描けないのです。大抵は「もののあはれ」みたいなものに落ち着きます。
そこで庵野監督です。庵野監督は人間ドラマが描けません。人間個人に興味が無いのです。
「電子回路、ニューロンのように情報が錯綜し、通電し、組織が機能する」という
(例えばオネアミスのロケット発射の「手続き」や、エヴァ発進の「手続き」、
さまざまな人間が連携して大きなことを成し遂げる瞬間のカタルシス、岡本喜八の沖縄決戦→ネルフ壊滅なら大組織の壮大な敗北
というものに執着している感じです。そして庵野監督はその演出で他を圧倒してきたのです。
通常は連携を2、3回で終わらせるところを、
7、8、9とどんどん数を増やし、しも連携のスピードを高速化する、
それが今回は最高に上手く行ったと思います。無駄な人間ドラマを省き、人の群れを
通常それでは作劇できませんが、ゴジラという巨大な災厄を扱うことによって可能になったのですね。
とまあ、褒めるのはこんな感じで。みんな褒めてるし。在来線爆弾最高です。
ここからは批判というか危惧を書いていきます。(ネタバレ含む)
「シン・ゴジラ」はゴジラを描くとともに、明らかに3・11の震災、
そして福島第一原発(フクイチ)のメルトダウンをなぞって描かれています。
原爆の子であることことからしてそれは避けられないことでありました。
・「想定外」という言葉が何度もでてくるシンゴジラとフクイチ(フクイチ)
・そしてその放射能を測定した市民から憶測が飛び交うシンゴジラとフクイチ
・自体の収集のため米軍が介入してくるシンゴジラ、事態の収集のため米軍が介入しようとするフクイチ
・シンゴジラにホースを突っ込んで冷却材を流すため特攻する自衛隊、
「自衛隊がゴジラを冷やすために特攻して死んでしまっている」ということなんです。
これは3・11の日本政府はやらなかった。フクイチに自衛隊を特攻させれば
「自衛隊員の命」と「福島の土地の数十年の汚染」を引き換えにはできないという判断です。
そこをシンゴジラはやった。映画的には、作劇的には正しいです。
自己犠牲の魅力に惹かれるところもあるんです。
正直「自衛隊がフクイチに特攻して冷却に成功していた」ら、私も絶賛したでしょう。
その特攻を庵野監督はやった。しかも恐ろしいことにあっさりと。
(1番隊が全滅したら「日本映画のよくあるパターンのように感傷にひたる」
ことなくあっさりと2番隊がすぐさま繰り出された。
おそろしいですよ。でもこれがかっこいいんですよ。/
この冷徹な決断力、かっこよさを恐ろしいと思わないとヤヴァイんですよ。
こんなことできるのはスターリンですよ。スターリンのかっこよさに酔うんですか?)
特攻した自衛隊のように、3、11のフクイチでも自衛隊を特攻させるべきだった。」
実際の日本政府はどうでしょうか?フクイチの凍結に成功してますでしょうか?
私からすると今回のシンゴジラ、演出のエポックメイキングであるとともに、
「3・11の災厄に勝利した日本」の「仮想戦記」にみえてしまうんです。
(昔よくあった「第2次大戦で日本軍が勝つシミュレーション小説」の3・11バージョンですね。)
このシンゴジラを見て「日本はまだやれるんだ」と思った人がたくさんいたと聞きます。
いや、やれてなかったでしょ。と言いたい。3・11で負けたでしょ。無残に。情けなく。
仮想戦記で「日本はまだやれる」って酔ってたらだめでしょ。反省しないと。
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↑というような批判が欲しかったのに全く無くて困ってたので自分で書いてみた。
実際庵野監督はどうなんでしょう。「政治的意志表明」と書きましたが
なにをみんな、責任をとったとか重圧に押しつぶされたとか言ってるんだ。むかしからある、単純なストーリーなんじゃないのか。
笹井先生ほどの名声と実力があれば、今回のような捏造案件に責任著者として連座していたとしても、今後の将来が真っ暗というわけではない。そもそも笹井先生の件は、ノバルティス問題ほど深刻ではない。患者さんに直接の危害があったり、国の保険医療のお金を削ったことで間接的に健康を害してすらいない。仮説を取り下げればそれで終わりの話だ。知性のある人達にそのように遇されることはわかっていたはずだ。
古くは中山恒明や和田寿郎が、倫理的問題を起こした後、請われて東京女子医大の教授になった。最近では東大捏造事件や京都府立医大捏造事件で責任をとった教授たちも、その後の人生を努力されていると伝わっている。日本社会は失敗した人間に復活を許さない、と言うけれど、現実には、ここまで優秀な人間たちの場合、普通かそれよりましな人生を生きていくことは許されている。それまでの人生では、多少なりとも患者さんや病院、大学や国家、時には人類に貢献してきたのだから、それくらいはいいだろう。個人として見るなら、家族の為を思えばそれで十分だ。子供を愛しているならそれでよいはずだ。
頭のいい人間が、それがわかっていないはずがない。その道を選ぶなら、すなわち、家族とともに生きるなら、批判と罵声を浴びようと小保方氏を切り捨てれば、それでよかった。海外に活路を求めるというのも、小保方氏では不可能だが、笹井先生ならおそらく可能だった。自分は、小保方にだまされた、責任著者としての責任は痛感する、だが捏造の実行者を完全に監視することは難しい。これからはこういった捏造者を見極める管理体制についても追求したい。などとのたまいながら。
でも、それができなかったんでしょう。他のすべてを捨ててでも、小保方さんを守りたかったんでしょう。恋していたんでしょう、小保方さんに。週刊誌が書くようなドロドロしたものではなく、プラトニックなものだったのだろうと、直感としては思う。
だが、守るだけならそれはできる。すべての批判を一身に背負いながら、世界を敵に回してでも恋人とともにあればいい。
笹井先生が耐えられなかったのは、自ら、あるいはCDBの名声が傷つくことなんかではなく、世界で一番大切な彼女が罵声を浴び、辱めを受けていること。しかしながら、それらが自らがこれまで人生を投じてきた科学という世界から見ると全く妥当な批判に基づくものであることだったという、自らのアイデンティティをゆるがす矛盾にあったのではないかと思う。止揚できなかったんだね。
笹井先生は科学の世界で生きてきた人だ。だが、彼はその時恋をしていたのだ。
自らの科学的信念と、恋する気持ちとの板挟みになって進退を極まったのだ。どちらかを選ぶことはできなかったのだ。
だとするなら、男としては本望なのだと思う。
ただ、もう少し時間がたてば、異なった結論に至ることもあっただろうに。
北原みのりが見ているかどうか、エゴサーチで見つけられるかわからんが書いておこう。
これはひどい事件であったし、犯人は厳しく罰せられなければならない。
しかし、問題はその後の報道だ。倉田真由美はテレビで女児をつれた成人男性を犯罪者呼ばわりするような発言をした。ニュース番組では犯人がオタクだったことに引っ掛けて不当にそれを強調し、オタクを犯罪者予備軍として差別するような流れを作っている。
ろくでなし子の件では、それより前から規制を受けてきたオタク界隈からボロカスに叩かれている。なんでかといえば、北原みのり氏がその言動のために敵視されているからだ。
もちろん、利害関係はあるだろう。だが、今の相互不信の局地というべき状況はあまりに不健全である。表現規制問題にせよ、ジェンダーの問題にせよ、本来は利害の衝突こそあれど、交渉や妥協あるいは止揚はできるはずだ。むしろ、マチズモの文脈で相対弱者たる男性オタクの課題を解決していくことはジェンダーの側面からも目指すべきことだろう。
さて、話を戻そう。倉敷の誘拐事件でオタク、特に男性オタクは今、不利な状況に置かれ、謂れのない蔑視に苦しんでいる。北原みのり氏は反差別の旗手として、あるいはのりこえねっとの共同代表として、これに助けをしてほしい。何も、ポルノ的で少女性を消費する萌え文化を無理に擁護する必要はない。ただ、オタクであろうと差別はいけないと言えばいいだろう。
この間、twitterで山本夜羽根氏から塩を送られただろう。あなたが今度は塩を送れば、この極度の相互不信から脱する糸口が見つかるかもしれない。
私は、それを期待している。
国民栄誉賞を受賞しているからとこの待遇をいつまでも続けているとプロ野球界の衰退を招きかねない。
実際統一球導入や民放のプロ野球放送時間の短縮から視聴率が年々低下してるし一部の球団ではM&Aが行われたりもした。
それだけに今、バレンティンの新記録樹立を止揚もない前時代的な理由で避けようとするのは言語道断である。
四死球で逃げる事が戦術的な意味のものであったり、謙虚さは美徳であるとする日本人の気風だとかを理由にするのは如何なものか。
それならば、バットを持って来ず打席に立つといった王貞治のパフォーマンスを真似たとしても四球を投げるべきだ。
あるいはヤクルトはバレンティンを正当な理由で以って試合に出場させないべきだ。
「うちら」の世界 — http://lkhjkljkljdkljl.hatenablog.com/entry/2013/08/06/155425
私のいる世界 — http://luvlife.hatenablog.com/entry/2013/08/07/221155
「低学歴」って言うな。— http://d.hatena.ne.jp/Rootport/20130810/1376143977
SNS炎上と"低学歴の世界"の構造を分析。 — http://togetter.com/li/545991
ここ最近、「低学歴の世界」というワードを目にする機会が増えました。発端となったブログの内容と、自分の周りで議論されている内容、そして自分が考えていることは方向性が違うのですが、その「低学歴の世界」のあり方や「高学歴の世界」との関係、溝、そしてネーミングそのものが議論の対象になっているので、自分も思うところを書いてみようと思います。
・教養の低さ
・ローカル性
という特徴を持っているとされています。前提として、このような特徴を持ったコミュニティ、世界が現実にあるのだということは、このノートを読んでくださる人々に認識していただきたいと思っています。程度の差はありますが、上記5つの記事に書かれている内容でおおむね合っています。
ネーミングについて
僕自身もその「低学歴の世界」に、身を置いていたとは言わないまでも、通りを挟んで向かい側くらいまで近付いたことがあります。そこで感じたのは、そういう世界に身を置くかどうかは、(親をはじめとする周囲の)学歴という要素はとても大きい、ということです。分かりやすいレッテルを貼っているだけだ、とか、学歴で切り分けるな、とか、上から目線だ、という批判もありますが、現実にそういった世界をのぞき込んでみると、決して外れてはいないな、というのが思うところです。(また、全く次元の違う話ですが、これが例えば「下層の世界」というネーミングだったら、ここまで話題にならなかっただろうと思います。この話題をここまでバズらせてくれたという意味でも、この名前には功績がある、と思うのです。)
「低学歴」という呼び名では、単に「学歴が低い人々の集まり」くらいにしか聞こえないので、本質をとらえきれていない、という批判があります。上記の記事や自分なりの体験をもとに、この「低学歴の世界」の特徴を考えてみたいと思います。
究極のローカル性
この「低学歴の世界」の最大の特徴は、小中学時代に形成された地縁社会がほぼ一生続く、という究極のローカル性です。
低学歴の世界って何と無くわかるんだよ、高卒とか地元の専門、地元のFラン卒業して、中学の時の奴らとつるみ続けて、世界を知らない、それでも彼らは幸せなんですよ。
法律や経済に無関心、それで生きていけるから、ITにも無関心それで生きていけるから、大切なものは地元の友達だけ、地元最高みたいな人が。
本来ならば"低学歴の世界"の人々は親や先生との対立によって自らを止揚させて行き、大人になるが親や先生の能力が低いと止揚ではなく社会からの逃避によって解決を図る。
お互いに逃避した友人と遊び、逃避した同士自らをさらけ出し、自らの文化(culture)を養成していき、自らの常識を育んで行きます。
テレビの世界は全く違う世界の出来事を映す、代官山のお洒落なカフェ、原宿のお洒落な洋服屋さん、六本木の華やかなクラブ、それは"低学歴の世界"から見たら全くの虚像なのです。
彼らが持っている世界は小学校のころから使っていたコンビニ、最近出来たバイクで20分のトウキョウのシミュラークルとしてのイオンモール、それと国道沿いのチェーン店と出身中学・高校くらいなものです。
なぜなら決して地元から離れる事が出来ないから(考えすらしない)、"低学歴の世界"の交遊関係は幼少のころから続いており新しい環境に行くことが出来ない、疎外されるからです。
この記述は、その特徴を痛々しいほど正確に切り出していると思います。"彼ら"はとても世界が狭い。このような世界で、子供達は学区制に従って地元の小中に通い、テストの点数に従って近場の高校に通い、多くはそこで卒業して就職し、一部は地元の専門学校か大学に通い、一部が進学や就職でコミュニティを離れ「外の世界」に出て行く。これらの区分けのうち3つ目と2つ目の一部だけが「低学歴の世界」を(一時的に)脱出し、多数派の1つ目、2つ目の一部が「低学歴の世界」を構成する次世代となります。
ネーミングにも表れている「低学歴(※字義通り)」という特徴は、確かに当たっている、と言えます。彼らは多くが高卒、または地元の専門学校卒で、大卒者は少ない(大卒者は大学に依ったコミュニティを作ってしまうので、関わりが薄い)。それはローカル性と一体のものです。大学入学にはもちろん学力の問題もありますが、そもそも「低学歴の世界」の人は大学に進学することを考慮していない人が多いのです(理由は後述)。地元を出て高い金を払って進学しようと思わない、かといって就職のために県外に出るのも、という人が、地元で職を見つけて大人になっても地元に留まります。必然的に、構成メンバーが「低学歴」寄りになるのです。
しかし注意しなければならないのは、その「低学歴(※)」というのはどちらかといえば「低学歴の世界」が作り出した結果に近いものであって、その世界を成り立たせている要因ではない、ということです。「低学歴の世界」が「高学歴の世界」と断絶してしまっている最大の要因は、その世界の子供が、親世代から「低学歴の世界」を脱出できるような教育を受けられず、「低学歴の世界」が再生産されていく力が強い、ということです。
つまり僕が「低学歴の世界」の大きな要素として挙げたいのは、先程のローカル性に起因することですが、「自分の慣れ親しんだ世界の外に出て行く、子供を送り出す」という意識が、「低学歴の世界」に欠けていることです。だからこそ、自分が通ったことがない「大学」に子供を通わせようとも思わないし、海外に旅行する必要も、就職のために大都会に送り出す必要も感じない。インターネットをはじめとするツールは「世界」の仲間と交流するためだけに使えばいいから、きちんと学ぶ必要はない。
そこから生じる一つの帰結として、「子供を教育し教養をつけさせる」という意識が子育てをする家庭や地域に欠落していることも、この世界が持続する要因となります。自分がかつてそうだったのと同じように、また周囲と同じように、小中学校での教育に関心を払わない(払えない)、大学進学の必要を感じない。この意識の欠落によって、次世代が低学歴(※)を受け継ぐばかりか、「低学歴の世界」そのものが次世代にも再生産されていきます。
自分が暮らしている世界で事足りるのだから、子供もそれで十分だろうと思う、その意識が「低学歴の世界」という閉じたコミュニティを再生産していきます。
ここまできてやっと、学歴そのものは本質的な要因でないことが分かります。たとえば、中/高卒の芸能人なんか山ほどいますが、彼らの多くが「高学歴の世界」の住人である...とは言えないまでも、上記にあるような「低学歴の世界」の住人ではなさそうだ、ということは、感じられるでしょう(彼らの中には「低学歴の世界」出身の人も多いはずですが、容姿や芸能のセンスを武器にその世界を出たのだ、と言えます)。これを読んでいる「高学歴の世界」の皆さんは、将来自分の子供ができたとき、勉強が不得意で、東大や医学部どころか大学進学もおぼつかないくらいだとしたら、どうしますか。それでも必死に教育するでしょうし、学歴は身につけられなくても教養は教え込もうとするのではないでしょうか。「教育を受け(させ)教養をつけ(させ)る」「自分の慣れ親しんだローカルな世界の外に出(させ)る」という態度の有無が本質なのです。
こうした「子供を教育する」「子供を外の世界へ送り出す」意識は、もちろん親の学歴や経済力で生まれる面もあるし、土地や人間関係にも左右されるが、親世代の「『低学歴の世界』の外を見た体験」の有無、これが決定的な差を生みます。たとえ親世代に学歴や教養がなく、「低学歴の世界」に身を置いていても、外の世界を知って子供を送り出そうと思えば、経済大国であり、不十分ながらも支援システムがある日本でなら、可能だからです。「子供を外の世界に送り出す」というプロセスに成功すれば、その家庭はそこで「低学歴の世界」から離脱することになります。
しかし、ここに最大の隔たりがあります。「『低学歴の世界』の外を見た体験」というのは、基本的には学生時代を終えてからは体験することができず(もともと「低学歴の世界」にいる人間は、そのままでは大人になっても「低学歴の世界」に身を置いてしまいます)、非常にチャンスが少ないものです。さらに、「低学歴の世界」に身を置く人間が何らかの要因で「高学歴の世界」との接触しても、次世代ではその世界から脱出してしまいますから、そのコミュニティ全体に影響を与えることはありません。「低学歴の世界」にはその世界しか見えない人だけが残っていきます。こうして、「低学歴の世界」というものが強固な形で生き残っていくのだと考えています。
再度、ネーミングについて
そのような「低学歴の世界」は、上記の「私のいる世界」にあるように、学歴以前の段階であるはずの中学・高校ですでに生まれています。「低学歴(※)」が「低学歴の世界」を作るのではなく、「低学歴の世界」が「低学歴(※)」を作るのですから、本当の意味で適切な命名ではありません。「超ローカルの世界」とでも言い表した方が本質を捉えていると思いますが、これでは意味が容易にわからないので、まだ「低学歴の世界」の方が分かりやすい、ということでしょう。
何が問題なのか
で、問題点ですが、そんなものは存在せず、彼らは自分たちの世界で満足してやっていきます。自分たちの世界に閉じこもっていれば快適、というのは学歴や社会に関係なく、どこにでもあることです。そもそも、こういった「超ローカルの世界」はそれこそ士農工商の時代から存在したわけで、むしろ人間は地縁に従って一生を終えるのがスタンダードな時代もあったわけですから、問題などもとから存在しないのです。
では、なぜ今このように話題になっているかというと、社会全体の形が変化したために、「低学歴の世界」を脱して「中/高学歴の世界」に移り、そこで「カルチャーショック」を受ける人がいる、ということが要因として挙げられるでしょう。もちろんこんな現象は100年前からあったはずですが、そういった「低学歴の世界から脱出した人の体験談」みたいなものがインターネットにどっと表出してきて、話題になっているという側面があるのでしょう。ネットでは「同窓会コピペ」なんてものが流行ったりしていますが、地方で育って高学歴を得た人の視点から見る「同窓会」というのは、まさに「低学歴の世界の再発見」と呼んでいいだろう、と思うのです。
もうひとつの原因は、やはりインターネット技術によって、そういった世界を外から垣間見ることのできる人が増えてきた、ということです。彼らが冷蔵庫に入ったり、商品の肉を咥えたりするなんて現象は、たぶん昔からあったはずです。彼ら「低学歴の世界」の文化ではそういうことは普通であって、問題ないわけですが、それが「外の世界」の常識に合致しないものですから、何て連中だ、と言われて「炎上」する。ただ、上の記事にもありますが、彼らは外の世界に対して無関心ですから、「ちょっとふざけたらバレて怒られた」としか思いません。実際、地元に帰れば「この前○○が商品の肉をかっぱらって食ってたらバレてクビになったらしい」くらいの話は地元の同級生から聞くことができると思います。このように、本来は閉ざされた存在であった「低学歴の世界」が、主に情報通信技術の存在で外に姿を現すようになって驚かれている、というのが昨今の現状ではないか、と思うのです。
どうやって解決(?)するか
先に書いたように、この「世界」はそれ自体問題なく機能しているのですから、果たして何らかの手段をとる必要があるのか、ということから考えなければなりません。こちらから見ておかしいからといって、自分たちが正しいと思う世界観を押しつけるのはただの傲慢でしょう。しかし、そういった「低学歴の世界」もとい「超ローカルの世界」が巨大な世界として存在することが、社会全体にとって不利益であり、その世界を縮小していくことが当人達にとっても全体にとっても有益だと感じられるならば、ゆるやかに解決を目指す必要がありまます。しかし、これは新しい問題ではなく昔から連綿と続いてきた社会形態のひとつに過ぎないので、「低学歴の世界」がなくなる、なんてことはまずありえないでしょう。
どうやって対処するか、ということを考え出すと、まだまだ長くなってしまいそうなので、この辺で終わりにしたいと思います。お疲れさまでした。
まとめ
・「低学歴の世界」は、小中高時代の共同体で一生を過ごす人の集まり、「超ローカルな世界」である
・その世界の住人には、「外の世界に出て行こうという意識」と「教育に対する関心」が不足している
S+ 常紋トンネル
S 旧旧吹上トンネル 旧善波トンネル しとどの巌 新三郷のトンネル(名称不明)
A 畑トンネル 八柱霊園(第、7、13区画、芝生霊園) 幽霊ペンション 八王子城址
B 千駄ヶ谷トンネル 伊勢神トンネル 旧野木病院 新吹上トンネル 小美玉小川脳病院
行ってはならない。入ると呪われる殺される、自殺、謎の事故死、らしい、という、話がある、耳にする・・・等。
殆どは都市伝説の域を出ないデマ。恐山や東尋坊のように元々神聖化された空間ならいざ知らず。
例えばトンネルは笹子トンネル事故でも有名な、単なる老朽化による崩落事故とか暴走族・ヤクザの住処といったありきたりな事に尾びれを付けたものが殆ど。
そもそも“出る”というのも口コミ程度でソースがはっきりしない。そんなにすごい名所なら十中八九新聞に載るものだけど、当時のニュースソースを取り上げての話がないし
あくまで噂レベルの話だったりする。
次に多い病院やホテルなどの施設類に至っては、殺人や医療ミスによる二次被害で経営破たん後耕作放棄地の如く捨てられただけ、または明治大正期の洋物ブーム~戦後の高級団地ブームなど時代ごとの流行が年月を経て廃れて廃墟化したという今でもよくある倒産事情によるもの。
島や穴は万葉集にも載ってる大陸や半島から渡ってきた技術者や伝道師が移り住んだ土地であったり、ポットホールなど地理学術的に証明された自然や人工による産物が殆ど。
それに尾びれが付いたのが、かの有名な桃太郎だったりする。
駅については、飛び降り自殺や酔っ払うなどして誤って落ちて死んだ事故や事件に尾びれが付いただけ。実際事故や事件の記事が出ても心霊スポットになってるというのは噂程度にしかない。
慰霊の森や霊園は戦没者を埋葬してるのでむやみに騒ぎ立ててはいけない。樹海も同様。なぜならあそこには生身のおくりびとがいるから。
冷やかしで入って行方不明になったり死んだりするのはそこを守っている守人、つまり狂信的な団体・組織の人に殺されただけ。何も不思議はない。
心霊スポットっていうのは人間の思い込みが原因で作り出された虚構。幽霊がいない事はマスコミが心霊現象に懐疑的になってきた事も証明してる。何を隠そう心霊スポットの出所は全部マスコミなのだから。嘘を嘘で塗り固めると傍目に見ても通常は嘘と見抜けないように、誰かが付いた嘘に別の誰かが賛同したらあたかも事実であるように誤認する。
人間の悲しい性よ。
マルクスについて知らなければならない最低限の常識さえもないのに政治を語るって何?
共産主義は資本主義の止揚された姿なので、マルクスは先進国で共産主義革命が起こると主張したが、実際に起こったのは発展途上国のロシアであった。また社会主義の、まず原始共産制から階級分化が起こり、やがて共産主義社会の到来で階級対立がなくなるという考えは、キリスト教的な千年王国待望論で、それは科学というよりも宗教的信仰であるという批判もある。また、階級が消滅した後の世界についてマルクス主義は具体的なことをほとんど何も語っていないが、闘争のない一切が平和と幸福に満ちた停止した社会とすれば、それは皮肉にもマルクスが否定したユートピアのように聞こえる。未開社会やサルのような動物の社会でも、順位制という身分制度があり、原始共産制は見られない
[A.自分の側の条件]
・自分は何をしている時がいちばん幸せか、どんな事をしている時に熱中できたか?
・人は好きか、嫌いか →他人とネゴシエーションする仕事に向いているかどうか
・これに関しては世界一になれそう、というものがあるか。
・世界はどのようであってほしいか、それに対して自分の関われる方法はあるか。
[B.社会の側の条件]
・現在の社会はどのようなしくみになっているか。特に、「価値(≒お金)」の流れと、それをもたらす人の心理(desire・・・欲望・欲求・願望・念願・要望・希望・要求・希求・ねがい)
を、なるべくサンプルを多く、具体的に、また統計的にも見ていきたい。
・自分が生きている間、社会はどのようになっていくか。少なくともここ数十年でどのような変化が起きると予想されるか。
AとBを止揚し、仕事ないし職業≒人生というものを考えていく事になるのかな。
とはいっても、Aはともかく、Bはなかなか難しい。
どんな人もネットに書いている訳でもないし、未来予想もなかなか当たらないものだ。
他人の人生というサンプルを増やしつつ、未来についてはだいたいの方向で進み、その先で情報をまた得て、
もっとも、アラン・ケイは「未来を予測する最善の方法は、それを発明することだ」とも言ったけどね。(笑
一度死にかけた人が、肝が据わってるというのはその通り。
たぶんだけど、それは一種の覚悟というか、自己暗示のようなもので迷いを吹っ切った状態なんじゃないかな。
正しくても正しくなくても、残された時間はないんだから、迷っている暇がない、だから自分の決めた道を迷わない、という決意というか。
ちなみに全身麻酔をかけると仮死状態になります。
全身麻酔が必要な鼻の粘膜下下甲介骨切除術を受けると、
退院まで2週間かかりますが、お金もかからず(高額医療費控除で10万円を切る)
2ヶ月もあれば遅れを十分取り戻せますのでお勧めします。
最近では日帰り手術でもできるみたい。
http://www.google.co.jp/search?hl=ja&safe=off&rlz=1T4GGIH_jaJP282JP282&q=%E4%B8%8B%E7%94%B2%E4%BB%8B%E9%AA%A8%E5%88%87%E9%99%A4+%E6%97%A5%E5%B8%B0%E3%82%8A&aq=f&aqi=&aql=&oq=&gs_rfai=
ただし、手術料が倍になっても、必ず片鼻ずつ手術すること。
それが誠実さってことだと思う。
だけどそれがbullshitの引き金になったりして。
最初はこの文章、さよならディスコミュニケーション、さよならフランクファート
そして、こんにちわ「人それぞれ」
そう書きだしてみるつもりだった。
だけどちょっと気が変わった。フランクファート読んだことなかったから読んでみることにした。
いくら衒学趣味でもちょっとくらいは真面目なところを見せたのだ。
フランクファートはアメリカの道徳哲学やってる人なんだけど、日本語訳されてるのは、on bullshitって本だけ。
邦訳は、ウンコな議論。
これは僕の独断。本文中では、おためごかしって言葉が使われてたりするけど、これはちょっと一般的じゃないだろう。
翻訳者の山形浩生は、ウンコな議論の具体例として、小泉元首相の、「人生いろいろ」という発言を例にあげている。
ウンコな議論は嘘を言っているわけじゃない。
ここで最初に戻るんだけど、「人それぞれ」もそうなんだ。
嘘を言っているわけじゃない。確かに人それぞれだ。
だけどそれは解答の放棄だ。
正解が何種類あるかはわからないにしても、全ての人が正しいってことはないだろう。
相対主義(つまり、人それぞれってこと)は何も生み出さない。
衝突も、議論も、止揚も、向上も、疑問さえも。
勿論それは日常生活をスムーズに送る上では必要なことなんだけど。
だけどその考えがウンコな議論を必要としない場にも入り込んでくるんだ。それはよくない。
言語は思考を規定する。それがビッグ・ブラザーがニュースピークを作った理由だ。
つまり、自由と言う概念が存在しなければ、人は自由について考えることをしない。
もし仮に誰かが自由について話したとしても、他の人はそれを理解できない。
ウンコな議論だってそうなんだ。ウンコな議論と真の議論を見分けられなければ、ある出来事に対して適切な理解をすることが難しくなるんだ。
ウンコな議論に慣れ過ぎていると、真の議論は乱暴で粗野なものに見えてしまうんだ。
大事なことは二つ。ウンコな議論かどうかを見分けること。
※トラバはしてますが話題はマイコーじゃないです。マイコーにハマった若者のちょっと迂闊だったかなって発言に対して、ちょこちょこ考えてみたって文章です。ちなみに私自身は、マイコーは大好きです。
http://anond.hatelabo.jp/20091107102619
そもそも「マスゴミ批判」っていうのがあまりにも短絡的なんだよね。もちろんマスメディアがアレなのはみんな知ってるけれども、じゃあ無かったらどうなる?ていうかマスコミ以外はゴミじゃないの?それって、庶民の第四の権力に対するルサンチマンじゃね?とかとか、いくらでも(一定以上教養のある)オトナは考える。
ニコニコのマイコー動画を観ると「マイコー=神」「マスコミ=神に対する反逆者、ゴミ」という安直なコメントが目立つけれども、あそこのサイトは年齢層が下がるほどアクティブユーザー率が高いので(そもそもニワンゴの親会社であるドワンゴはガキんちょに着メロ買わせて儲けまくって会社だった)、教養ある人は苦笑いで見てます。
そして、その賢い人たちはニコニコが非同期型コミュニケーションであり議論が成立しえないことは理解しているので、それに対する苦言は動画上ではしません。荒れるだけだって分かってるからね。よって、あそこには声のでかい極論ばかりが残ることになる。
マスゴミって単語そのものが2ch内でも痛いとされている板、それをコピペしてるアフィブログ、ニコニコ、それぐらいでしか盛んに使われていないので、気をつけた方がいいです。教養ってもんは文章内の単語のはしっこから判断されます。
国語のテスト(笑)とか言ってたんで中高生かと思ってたら、大学は通ってんのか。うへぇ。
ブコメへ。
「国語のテスト」と表記するのは高卒がいるからだと思う。現に私は高卒。 / 一般的人に教養はいらないような気がする。配達員が大学の資格持っても……あればいいけど、使うことはない。大卒資格よりも免許の方が大事
なんていうかな、決してあなたをバカにするわけじゃないんだけれども、ああ高卒の友人に「教養」を語るとこうなるよな、と懐かしい思いがした。(最近は大卒でもそうなんでホント学歴差別で言ってるんじゃないです)
まず前提として、「教養」ってんのは純然たる知識量とは比例しないんで、「大学教育を受ければ教養人」「院卒なら教養人」「読書人なら教養人」ってんのとは違うんですね。
具体的に名前を挙げると失礼かもなんですが、小飼弾さんとか私の数倍本を読んでいるし、先日出された本では「IT界の知の巨人」などと言われたりしていますが、率直に言えば彼は無教養なんですよ(多分ですけどいわゆる教養人はみんなそう思っていると思います)。無論それは彼が大学中退だからとか、最終学歴は中学だからとか、そんなことは問題じゃあないんです。端的に言うと、彼は「いくら本を読んでも学ばず、知識量そのものが増えつづけるだけ」のマシーンのような方でして、特に社会科学、人文系に関する発言はそれはもうボロボロです。
小飼さんを馬鹿にしても意味がないし、彼はオープンソースだのPerlの世界だので頑張ってるから後の戯言は笑って聞き逃してやれよとも思うので話題を戻すと、じゃあ「教養」とか「知(知識、ではないよ)」とか「常識」ってなんなの?っていうと、一言で表現するならば「だまされない力」「主体的に判断できる力」「他者の意見を受け入れて、それの薫陶を受けつつも、鵜呑みにはせず、考えを止揚させていける力」といったところでしょうか。
つまりですね、「マスゴミは糞だ、信じるな」と言われて「そうだな、糞だ!」と言ってるようじゃダメなんです。いわゆるメディア・リテラシーといってマス・メディアの情報の真偽を自分で判断する力を、増田さんはロクに持ってないですと暴露してしまっているんですね。
ネウヨの話をもうひとつ挙げるならば、「民主なんかが政権を握ってしまった、日本オワタ」「麻生さんがよかったのに」ってんのも、全然ダメじゃないですか。けれども、じゃあ民主があの支持率通り素晴らしい政党かといえば、それも違うじゃないですか。
あなたは教養なんていらないと言ったけれども、残念ながら間接民主制において経済学の知識と政治学の基本、各政党、政治家の特徴に関する知識が皆無なまま生きていくのは、実はかなり危険なことなんですね。私は高卒でも中卒でも、職人のような技ができたり、人望があったり、そういう人間は尊敬しています。が、そういう人だとしても、教養なんか無意味かというと、そりゃあった方がいいと思うんですよ。
年収200万代の知り合いが小泉の郵政選挙で自民党に票を入れたとき、「おいおいお前は共産党に入れた方が絶対に得すると思うぞ」と思いました。私はその時は自民でしたけど、それは率直に言えば金があったからであって、彼の場合左翼政権下の方がとりあえずうまい飯は食えるってことが分かっていない。
何度も言うように「知識」があっても考えられないやつはバカなんですが、「考えるために必要となる知識」はないと困るんですね。本来「教養」とは、よりよく生きるため十分条件ではないですが、必要条件ではあるのです。(必要・十分条件をもしご存じないならばググってください)
話が散漫になってしまい、申し訳ない。「教養」という言葉に関する認識が違ったようなので、できるだけ多めに例を挙げてみたのですが、うまくいったとは言いがたくてごめんなさい。
もちろん勉強することと他のことをするのはトレード・オフ(知らないならググってください)の関係にありますので、そこらへんの兼ね合いは各自にまかせればいいと思っていますが、ある程度は勉強、した方が得だと思いますよ。やっぱり。