はてなキーワード: 欲しがりません勝つまではとは
自分を滅して公を奉った見返り(利益)が全く割に合ってない、ってところで元の投稿とこの増田は同じことを言ってる。
立場が違うだけで、方向は同じ。
あと 感染収束しないだろうって予測も、もう無理って悲鳴も全く同じだよねw
下々、現場がいくら頑張ってもダメだってこと。機関銃に銃剣突撃しても勝てはしない、欲しがりません勝つまでは なんて唱えても勝てはしない。
戦場で戦う兵士も 銃後で支える人々もどちらも辛い。のに、いがみ合う形になってるのがしんどいね。
石破 茂 です。
謹んで新年のお慶びを申し上げます。本年も何卒よろしくお願い申し上げます。
昨日、一都三県を対象とした緊急事態が再宣言され、昨日発表された東京の感染者も過去最多の2447人となりました。
感染者の増加は確かに重大事ではありますが、冬になって空気中の水分が減って飛沫が遠くまで飛びやすくなるのは当然のことですし、寒冷地では換気の機会も減少することも考えられます。PCR検査数の増加によって陽性者が増えるのもまた当然のことです。
かくなる上は、感染者数ばかりに注目することなく、限界ある国家資源や医療資源を、重症者と死亡者を減少させることに重点化して配分すべきなのではないでしょうか。
「どうすれば重症化・重篤化しないか、どうすれば死に至らないかが重要であり、対策も情報発信も、このことを重視すべき」と昨年の感染初期よりテレビなどでも何度か申し上げてきたのですが、なかなかそうはなりません。
医療関係者の献身的な努力によって、アビガン、レムデシベル、ヘパリン、デキサメトゾンなどの薬、人工呼吸器類(ネーザルハイフローやECMOなど)、普及率世界一のCTなど(この多くを今回初めて知りました)を用いた治療法も随分と進歩し、救命率もかなり上がっているはずなのですが、そのような報道もあまり聞くことがありません。漠然とした感染者数よりも、基礎疾患を持つ方や70代、80代、90代の高齢の方の罹患率、感染者数と死亡者数の正確な分析などの方が知りたいと思うのは私だけでしょうか。
日本人が欧米に比べて人口当たりの感染者数や死亡者数が極めて低いのも、同じ都道府県内でも市区町村によって状況が全く異なることにも必ず理由があるはずで、その科学的な分析が進められれば、もっと精緻な政策が打てるのではないでしょうか。
生活習慣の相違、国民皆保険制度の存在、極端な格差社会ではなく分厚い中間層が存在していることは決定的に重要な要素であり、この持続可能性を維持できるかが最大の課題です。
諸外国、特にスウェーデンの対応についても様々な論評がありますし、同政府のコメントも承知していますが、この国において「『寝たきり老人』(とても嫌いな語感です)が居ない」ということとも関連性がある宗教観や死生観の問題が、改めて問われているように思われてなりません。
日本特有の同調圧力とゼロリスク志向の強さも改めて感じています。「自粛警察」などという不可思議至極な活動は、今のところなりを潜めているようですが、戦争中の「パーマネントはやめませう」「ぜいたくは敵だ」「欲しがりません勝つまでは」などという「愛国的な」活動が想起されて、とても嫌な思いが致しました。ヘルスリテラシーの低さについても、自らを省みて、これもまた然りと思います。
日本においては大勢の世論(「空気」)に抗って異論を差し挟むことは忌み嫌われますが、政治は世論に迎合しすぎてポピュリズムに堕してはいけない、よく自重自戒せねばならないと思っております。
失業率が1%上がると自殺者が1,000人から2,000人増えると言われていますが、ここ数か月の自殺者の増加、特に女性の割合の増加はとても気がかりです。また、病院にあまり行きたくない、ということで、がんの定期健診の受診数も大幅に下がっています。
風邪やインフルエンザが「根絶」されることがないように、新型コロナウイルスも「根絶」される、ということはないでしょう。ただし治療法が広く共有され、重篤化を防ぐことができ、ワクチンが広く行きわたり、感染拡大が収束した時に、自殺者が激増し、がんによる死亡者が大幅に増えてしまったとすれば、それは「人類がコロナに打ち勝った」証とは言えないのだと思います。
政権は厳しい状況の中であらゆる方面からの批判に晒されながらも可能な限りの対応をしているのであり、我々は少しでも国民の支持と理解が得られるように努めなくてはなりません。
昨日のアメリカ議会へのトランプ支持者の乱入と死傷者発生の事態について、トランプ大統領に責任がないとはとても言えない状況でした。選挙結果について異議を唱えるだけならともかくも、支持者に対して議会への乱入を扇動するようなスピーチなどは、民主主義の実力行使による否定と紙一重であり、見たくもない光景でした。
トランプ大統領が就任した時、「言を左右して相手を困惑させ、自分にとって最も有利な取引を仕掛ける『サスペンスとディールの大統領』となるのではないか」と申し上げたと記憶していますが、まさにその通りの4年間であったと思います。大統領当選時の勢いをもって議会選挙を経た結果、共和党も明らかに変質を遂げました。昨年の大統領選挙でトランプ氏に投票した米国有権者は7380万人、この人々が更に先鋭化するのかも全く見通しは立ちません。
自由を建国の精神とするイデオロギー国家、国民の8割が神の存在を信じ、4割が毎週日曜に教会に通う宗教国家、アメリカ国民という意味での民族国家、こういったアメリカの本質はバイデン政権になっても変わることはありません。そうであれば、それぞれの自画像、理想像、基本的な価値観が対立する米中の軋轢は今後一層激しくなり、日本はより一層厳しい選択を迫られることになります。安全保障についての法体系も、装備も、運用も、アメリカ依存から脱却し根本から見直すべきだと思いますし、今までのような問題先送りでは国益を損じると考えます。
それでもなお、同盟国である米国が新政権によってその美点である復元力を発揮し、アメリカ民主主義の理想に立ち戻ることを心より期待しています。
年末年始、生来の怠惰さに加え、雑事に追われて勉強らしい勉強も出来なかったのですが、中川恵一准教授(東大附属病院)の「コロナとがん」(海竜社)、小林よしのり氏の「コロナ論」(扶桑社)、橋爪大三郎氏の「中国VSアメリカ」、同氏の大澤真幸氏との対談「アメリカ」(共に河出新書)、加藤陽子氏の「それでも日本人は『戦争』を選んだ」(新潮文庫)、は極めて示唆に富む大変に興味深いものでした。
合間に久々に再読した、没後50年となる三島由紀夫の短編・中編(新潮文庫)の文章の独特の華麗さにも魅了されたことでした。
週末の日本列島はまた寒波の襲来に見舞われそうです。皆様ご健勝にてお過ごしくださいませ。
ただ、不正会計やらメール誤送信やらなんやらが出て、色んなことが中間管理層、経営管理部の承認経由になった。
いちいち不慣れなシステムを立ち上げ、何をどこまで書いたらよいのか分からないフォーマットで出来ているシステムを立ち上げて申請をする。
コロナになったら出社なり、客先行くなりは部長がとりまとめて部門長に申請して、許可を得る。
中間管理層の仕事がどんどん増えて下々の我々はウンザリしてしまう。パソコンには勤務記録ソフトが入れられて、いつ起動したか、何を見ていたか記録が取られている。
そして、トップメッセージがあちこちに貼られている。なんだか、欲しがりません勝つまではを見ているようだ。
アカデミックをあきらめた博士号保持者の記事が目に留まったので、運よく大学に残れた側のエッセイを書く。小さなころから科学者になりたかったんです、なんていう大学教員を見ると、眩しくてクラクラしちゃうんだ。すまんな、憧れもなく大学教員になってしまって。
僕は少年時代に、科学者に対する憧れというものがほとんどなかった。ニュートンとかガウスとかアインシュタインなんかの伝記を読み漁ったりして、心惹かれるものがあった。だけど、それは自分が科学者になりたいという憧れとは少し違って、科学者は仮面ライダーやウルトラマンのように現実と断絶した世界にいるヒーローのようだった。
大学に入ると、教員たち講義を受けて、ずいぶん大学の先生は楽しそうだと思った。あとでわかるが、それは誤解だった。ただ一人、すごく楽しそうに熱く語る先生がいた。専門を簡単に説明する。それでいて奥が深い講義だった。僕はその講義に夢中になったが、周りの学生からは評判が良くないのが不思議だった。こういう先生なら、なってみたいかもしれない、とぼんやりと思った。
僕は研究者というよりは科学ファンだった。自ら新しい科学を切り開くということに、それほど魅力を感じなかった。それなのに、大学院へ進んだのは「もっといろいろなことが知りたい」という一言に尽きる。このセリフは厄介で、一見すると科学者適性がありそうだが、実際は逆だ。「ただ自分の興味が向くことを、気の赴くままに知りたい」という僕のような人は研究者に向かない。いったい僕は何になればよかったのだろう。大学院生としての一番の幸福は、図書館の薄暗い書庫に顔パスで入り、紙が焼けているのにピンピンしていて、全く手を付けられていないような文献を読むことだった。だから、論文が書けず苦労した。今もしている。研究者の世界は手を動かす、アウトプットをするのが貴ばれる。研究の世界に飛び込むことは少し違和感を覚えたが、もっと良い場所もなかったので居続けた。卒業したいので、しかたなく研究した。
学会で一流の知性に出会うのは、本当に楽しいことだ。僕にとってはスターのライブであり、学会の懇親会で大物に研究の着想を聴いてみることほど楽しいことはない。
大学院から、学位記と一緒に追い出されるように飛び出し、一つ目の職場に就職した。就職が上手く決まらなかったので、ダメなら別の業界に行こうと思っていた。だけれど何とか職場が見つかった。そこへ行った理由は、この業界にいれば、また暗い図書館での心躍る体験が、いつかできるかもしれないと、不純な希望を持ったからだ。着任した先では、学力が酷かったけれど、教員は博士号持ちの熱血教師ぞろいだった。教員たちの教育に対する熱いパッションを聞かされて、なぜだかすっかり気持ちが冷めてしまって、他に居場所を探した。転職するためには、論文が必要だったので必死に研究した。欲しがりません勝つまでは、を地で行くスタイルで無理をした。体調を崩して大病してしまった。
なんとか次の職場を見つけ、落ち着いている。学生時代の環境を思えば、ここの学生は世界が狭くかわいそうだと感じることもあるが、一つ目の職場と比べればだいぶましだ。すべては相対的だ。転職して、自分の時間が増えたのでぼちぼち研究している。いつか解明したいテーマも懐にしまっている。いつか、は来ないので少しずつチャレンジしている。だけれども、ほとんどの研究時間は一日も早く給料を上げたい、そう思って不純だと思いながら心の血を流しながら論文を書いている。僕は興味が散発的なんだ、だから論文がこれほど憎たらしく感じられるんだと思い続けている。
博士号取ったのに大学教員にならなかった氏が言うように、大学が残念な場所であるとは認める。成績不良の学生を面接したときは、部屋に一人残って泣いてしまうこともある、僕が。これから、教員の仕事どうなっちゃうんだろうかって悩みつづける。実にこの業界はジリ貧だ。だけれど、大学教員以外に僕のふわっとした欲求を満たせる場所を知らない。雑用を投げてくるスーパースプレッター同僚もいるが、傷付きやすい僕を大学以上に放っておいてくれる職場を知らない。
文科省も大学経営陣も学生も同僚もみんなクソだ。クソだけれど、僕はそんな奴らの戯言を骨抜きにしながら、今の場所に居座ってみようと思う。僕の興味と幸運の続く限り。
研究者にもなれない、だが学生を思いやる教育者にもなれなかった。一人でいたいから、学内政治家はもっとごめんだ。いったい僕は何になればよかったのだろう。
コロナウイルス=アメリカ。相手が無尽蔵の生産力を誇るとかまったく考えずに、いま戦端を開かないと 日本の生命線が失われてしまう!とばかりに。
マスコミは煽りに煽って、国民はそれに踊らされて、とにかく戦わなきゃだめだ!と政府を突き上げ非常事態へ突き進む。
国民には「欲しがりません勝つまでは」と耐乏を強いて。
経済冷え込ませて耐乏して ウイルスの蔓延が止まったとしても、それはまだ勝ったわけじゃないんだよね。
一時的に収まってるだけで、みんな外に出てきたら また増殖は始まる。
根治させてるわけじゃなくて、遅滞させてるだけなんだから。
いつまで戦いは続くんでしょうね。
山本五十六さんが構想してたように 短期決戦でカタがつけばいいんだけど。
”クスリの開発”がいつになるのか
下手したら2年3年続くかも・・・。夏になっていったん収まっても 来冬にまた再発するだろうし。
仮に コロナによる直接的な死者を1万人救うかもしれないけど、代わりに 死んだ方がましという人々を100万人生み出す作戦に思える。
戦時経済は 戦争中は景気は持つんだけど、だいたい戦後に反動が来るんだよね。
太平洋戦争時も、戦時中は配給とかちゃんと機能してたんだけど 戦争末期~戦後は制度崩壊して闇市スラムが立ち並ぶ暗黒期が到来した。
あんときは朝鮮戦争特需があったけど、今回もそういう特需に乗れるかな?
何が正しいのかはわからないけど、
少なくともまともな報道ではない ワイドショーとかニュースショーに踊らされてる世論 及び 首相官邸 に自分の命運が託されてる状況がすごく嫌だ。
このようなスタンスを取ると最近の決まった反応は「ネトウヨがまた何か言ってるよ」だ。
ボクは自身をネトウヨだとは思っていないけれど、もしかしたらある種のネトウヨの定義の範疇に居るのかも知れないとはたまに思う。
前提としてボクは海技士免状を取得している。つまりは船乗りなのだ。
この時点で戦争を繰り返さないためにはと先の世界大戦を少しでも調べたことがある方々ならば察しているだろうけれど、調べたことがない方々のために説明しなければならないだろう。それがこの話を始めた者の責任のはずだ。
そう、なぜ船乗りは戦争に反対しながら軍備の増強を望むか?の背景を説明しなければならない。
まず日本国という存在は島国という形態をしている。これはおそらくは日本の立地条件を知る99.99%の人が共通認識として持って頂けてると思う。これを否定されるとボクは何も言えない。
島国である日本はどうしても何か日本の外で行おうとするとき必ず外へ出る技術を持つ者の助けが必要だ。
それは古来から船乗りであり、現代では航空機のパイロットも含まれる。
先の世界大戦でも重要視されたのが船乗りだった。それどころか幕末〜明治維新の時点で船乗りをもっと育てるべきではないか?という主張が強くあった。
日本の世界貿易を活性化させるためにも、そして(防衛であれ侵略であれ)戦争するのにも船乗りは必要だと考えられたためだ。
外へ出る能力と、それらによって支えられる貿易は日本の急所なんだ。繰り返すが、これは幕末〜明治維新の時点で内側から指摘されていたことだ。
そのため第二次世界大戦では米国を中心として、日本の急所を突くためにいわゆるABCD包囲網を形成され日本は一気にモノ不足へ陥ることとなった。
モノ不足へ陥った日本はそれを解消すべく動かざる得なくなった。そうつまり真珠湾攻撃に端を発する太平洋戦争の勃発だ。
モノ不足で戦争に至ることは日本の歴史上そう珍しいことではない。例えば戦国時代の興りは飢饉によるモノ不足によって豊かな土壌の奪い合いを始めたことが切っ掛けとされ、徳川幕府が安定したのは恒常的な飢饉が解消されたためという学説がある(突発的に起こる飢饉は別)。
このような考えは別に日本だけのものではない。ロシアの南下政策も考えてみれば豊かな土壌と貿易のための不凍港を得るためのものだ。だからこそ当時の日本はロシアに警戒感を強く寄せたのだろう。既に経験しているのだから。
先の世界大戦で日本は誤った判断を下してしまった。急所である本土補給線の軽視をしてしまったからだ。護衛も付けずに輸送船を運航したり精神論で補給が無くとも戦えると言ったのだ。それが「欲しがりません勝つまでは」の状況を生むにも関わらず。
そして数多くの艦船と共に多数の船乗りが海へ沈み敗戦を喫した。
それどころか政府は徴用した民間商船企業の賠償へ対して税率100%を掛けるという血も涙もない行いをする。
この記述で理解しない方々も言うだろうからわかりやすく言えば、日本政府から賠償された全額を税として納めよということだ。つまり最終的に民間商船企業へ残るお金はゼロである。
徴用した船舶と共に誤った判断によって補給線を崩壊させたにも関わらず、賠償金は最終的にゼロ。民間商船企業と船乗りが戦争を嫌うには十分な理由になるはずだ。こんなこと繰り返してはならない。
再三言うが、日本はモノ不足によって戦争をする。日本は島国なのでほぼ間違いがない。歴史がそれを証明している。
だからこそ船乗りや民間商船企業は日本が戦争を起こさないために国際貿易航路=補給線を最重要視せよと訴える。
そして外国がもし何らかの理由によって日本へ戦争を仕掛けなければならないとなった際に、急所である補給線を狙うのは明白なので、日本の補給線を狙うのは割に合わないと絶対的に判断して貰えるだけの圧倒的な防衛戦力が日本の補給線には必要なんだ。
もしこの軍備の増強に対して異を唱える方々が居るのであればボクは更に続けてこう主張する。
「あなた達がボクの乗る船を守ってくれるのか」
もしかしたら強固な非暴力主義者の方々が「暴力はいけないので侵略されたら降伏したら良い」と言うかも知れない。これは非常に素晴らしい人道的な考え方だとボクも思う。
だかしかし「侵略される際、一番最初に標的となるのは補給線上に居るボクが乗る船だ。安全な本土でボクの乗る船が沈む姿を見てから降伏するのか?」とボクは言いたい。
このような形でボクが死ねばボクは平和の英雄として名前が碑に刻まれ永代語り継がれるだろうが、それは間違いなく神風特別攻撃隊が生まれた思想とまったく同じだ。
ボクはこのような美しい平和思想のための英雄にはなりたくはない。誰かの平和のために死にたくはない。あなたの平和思想実現のために死にたくはないのだ。
ボクは自身を守り、そして日本をモノ不足へ陥ることを防ぎ、日本を戦争の道へ進まざる得ないという結果へ至らせない軍備の増強を望む。
ちなみに船乗りの労働組合である全日本海員組合は憲法の改悪へ対して反対している程度には反戦主義だ。憲法改正ではなく改悪に対して反対しているということをよく考えていただければ幸いだ。