はてなキーワード: 校風とは
もちろん、大前提としては可能な限り多くの蔵書を持つべきではあるんだろうけど、
大学図書館は基本的には大学の教育研究のための図書を保管しておくべき場所であって、
予算的に使わないのにおいておく余裕が無いものまで際限なく保管とかは機能に含まれないと思うんだが。
その大学の校風やら学科やらの関係上、一般的な公共図書館ならあって当然な書籍でもそもそも買わなかったりとか普通に有りだと思うし、
大学の機能と関係ない書籍の集積は公共図書館とかが担うものなのでは?って思ってしまう。
結局、きちんと公共図書館に予算をつけて、公共図書館以外の図書館に本来機能を押し付けるようなことをなくしていくことが必要だと思うんだが。
最近誤解されてるけど女子校って校風もあるけど女の子を女らしく育てるってコンセプトではなくって,「女の子を男性優位社会のあらゆる理不尽から切り離して学問を教え男性なしでも生きていけるよう自立させる」のが目的なので…— ねこあんず☤9/19リンホラ新譜発売 (@celena_neko) 2018年8月4日
女子校って言っても良いお嫁さんを育てるコンセプトのところと、女性を自立させるコンセプトの女子校があって、創作物で出てきがちなのは前者だけど、時代的に人気なのは後者なので— ねこあんず☤9/19リンホラ新譜発売 (@celena_neko) 2018年8月4日
こんにちは。私は公立の女子校でしたが、全くその通りでした。みんなのびのびと学び、部活に精を出し、遊び、見事に猛者が育ってました。「時代の要請である」として共学化し本県の公立女子校は無くなりましたが、最近の事件を見るにつけまだまだ必要だったんじゃ…と悲しくなります。— みち (@kuramichimichi) 2018年8月4日
私も女子高でした。女子しかいないので、なんでも自分たちでやることが当たり前で、高所作業や配線もなんの抵抗もなくやるようになりました。そしてそれで良かったと大人になってしみじみ思います。夫婦別姓唱えることの何がいけないのかさっぱり分かりませんが…— 00none00 (@00none00) 2018年8月6日
自分の女子高時代は
楽しくのびのびと。
娘の出た女子校は。
男は、踏み台、使い捨てと
教えてる先生がいました。
大学に入っても
媚びずに勉学に励めって事らしいです。
卒業生は、系列男子高卒業生に怖がられてました。
娘の友人たち凛とした娘が多いです。— a~ki (akimama) (@akiboosan) 2018年8月5日
私、公立女子校行ってたので分かります!自分(自分たち)で勉強も部活も行事もバンバンやれや!おう!って日々でした。王子様キャラの先輩にキャーキャーし、可愛い子を愛で…進学も就職も「後々は自立していく」前提で決めてた子が多かったです。人に頼ってばかりの子は居心地悪かったみたいです…。— 水曜休/上野さんちのとうらぶ茶屋 (@sayumi_1062) 2018年8月5日
そういう点ならむしろ男子校は自由奔放である程度女性差別的な言論が黙認されるような妙な空気感があった気がします。高校生で思春期で男だけが集められるからなのかもしれません。まぁ逆に、その自由が未来に対して色々な可能性を持っている、とも思いますが。— Fibrinogen@流浪の民 (@yd1DWxHwEzAGO3o) 2018年8月5日
私も中学からずっと女子校育ちですが、正直、かなり個がしっかり育った気がします
社会的望ましいとされる、変な性役割にしばられず、相手が男女関係なく、主張すべき時は主張するし、敬う気持ちも忘れない!— めいたん (@meitan2010) 2018年8月6日
本文をうっかり読んでしまうのは時間の無駄なのでいくらか前置きで警告をしておく。
これは一人のクソ女の自分語りだ。
多分恋愛をしている人にもメンヘラをやっている人にも響かないと思うので、ノンフィクションの小説が好きな人とかが読んで哀れむなり蔑むなりネタにするなりしてくれたらいいと思う。
文章にすると落ち着くたちなので、一回字に起こして整理したかっただけだ。
特に意見やアドバイスを期待してはいないけれど、私が想像も出来なかったような現実を打開する魔法があるなら教えて欲しい。
そうじゃないなら今はほうれん草を沢山使うレシピくらいしか知りたいことはない。
石を投げたりして気持ち良くなるなら好きにこの文章の私を罵ってくれて良い。もし肯定したいとか共感したとか優しい言葉を掛けたいとか思ったら、それは上手く受け取れないので胸に仕舞うか何かしておいて欲しい。言って満足するなら言って満足して欲しい。
それから、ぼかしたりフェイクを入れてはいるけれど一応念のため。私の彼氏さん。あなたがこれをもし読んでいたら、私にいい加減愛想を尽かして下さい。メールもしなくていいし、顔も合わせなくていいです。ここにはあまり書いてないけどあなたはすてきな人なので、きっと可愛くて気立てが良くて知的で趣味の合う恋人や奥さんがそのうち出来ると思います。私抜きで幸せになって下さい。でも今までありがとう。
さて、数えてないけど多分これ五千字くらいある本文。
私には彼氏がいる。中学生の頃男女混ざった仲良しグループに居た同士だったが、彼は当時テンプレの中二病クソ女であった私に親切だった。私はいわゆる愛情に飢えたメンヘラであり、被虐待児でもあったので親切な彼を好きになった。
親に無理矢理突っ込まれた進学塾、殴られたくないから沢山勉強して、私が目指した志望高校は彼と同じ学校だった。志望理由は、当時不良やヤンキーが苦手だったのでそれでもやって行けそうな校風であることと、私のやりたい部活の成績が良かったこと。通える範囲で目指せる偏差値で勝手に割り出されたその高校を志望していると自分に言い聞かせるために、彼と一緒に高校に通えるかもしれないことを考えていた。彼は頭が良かった。彼の頭が良いところにも好感を持っていた。
結果として高校受験は失敗だった。兄弟が多い我が家は長子の私の滑り止めを用意出来なかった。模試のきれいな紙に印刷された合格する確率が70%まで落ち込んだ。挑戦は許されず漫画のように家庭の都合で通いやすくそれなりの偏差値の親が決めた高校を受験して合格した。
妥協のご褒美に私は携帯電話を買い与えられた。猿のように熱中した。友達とひっきりなしにメールをするのが楽しかった。そんな携帯中毒に付き合ってくれたのが彼だった。
彼は愚痴をうんうん聴いてくれた。肌寒い日にはコートをかけてくれて、雨の日は傘を差して家まで送ってくれた。
彼は誰にでもそうする人間だ。
そういう人間を私は好きだと思った。
高校一年の夏、好意を伝えた。彼はいわゆる恋愛恋愛した面倒は嫌だけど、と前置きした上で私と付き合う返事をくれた。友達にも家族にも内緒だった。私はおおっぴらに恋愛を満喫して盛大に恋心に振り回される友人たちのようになりたかったが、その夢は絶たれたと言ってもいい。
彼は時折、家族が留守にしている放課後や休日、私を自宅に呼んだ。彼の家は急な坂の向こうにあり、私は暑い日も寒い日も自転車をこいで彼の呼び出しに応じた。二人でカーペットの床に並んで座って、他愛もない話をするのはとても楽しかった。彼はキスがしたいと言ったので応じた。こんなもんか、と思った。彼は私の胸や下半身に触れたがった。胸は触らせたが、下半身を他人に触られるのは嫌だったので精一杯かわいこぶって断っていた。
彼が満足そうで良かった。私にかわいいとか偉いとか頭が良いとか言ってくれるのは彼だけだったからだ。
たまにデートなるものもした。彼は共通の友人にばれたら面倒だからと地元ではないところで待ち合わせて、博物館などに行った。博物館が好きなので楽しかったが、多分一人でいても楽しかったとは思う。彼は理系なので解説をしてくれて、知らないことを知れたのは楽しかった。
いわゆる中学生ぐらいのいじましいお付き合いは高校三年生になるまで続いた。
部活の大会や模試で顔を合わせたら、こっそり示し合わせて抜け出して会って話したりしていた。
関係が、と言うよりも私が変わったのは高校三年生の秋頃だっただろうか。
鬱を発症していたと知るのは年明けに通院をはじめてからだ。高校の卒業も危うくなった。彼のメールを無視し続けた。友人たちのラインもブロックした。手首を切った。酔い止めを何箱も一気に飲んだりした。苦しかった。とにかく早く死にたかったが、癇癪を起こすと椅子を投げてくる母親から兄弟を守らなければならなかったので死ねなかった。
音信不通を続け、両親の説得も不登校支援センターも保健室も諦め、私は精神科に通院することになった。
高校三年生の一月、私はセンター試験どころか学校へも行かず精神科に通った。薬が効き始めるまでが地獄のように長かった。向精神薬と睡眠薬がなんとか効力を発揮する雰囲気を醸しはじめた頃には、卒業はほぼ絶望的だった。
私は主治医から診断書をぶん取り、校長などのお偉方と交渉を重ね、補講を組んでもらうことでなんとか、卒業式から数日はずれが生じるものの年度内に卒業出来ることになった。周りの大人は私の想像をはるかに超えて優しかった。同情し、時には私の身の上話に涙ぐんでくれた。そんなことで悩んでいたなんて知らなかった、と口々に言った。進学校だったので不登校の前例が無かったのが幸いした。先生方は私一人のために会議室で卒業式をやってくれた。
さて、話を恋愛に戻そう。私はなんとか卒業証書をぶん取り、彼は第一志望の難関大学に合格していた。サイゼリアで久し振りに会って彼は「元気そうで良かった」と言った。
私は全くもって元気では無かった。
恋愛どころじゃない、何度も死にかけた。
人に説明する元気もあまり無かったので、かなり端折って私はことの顛末を説明した。ずたずたの腕を見せて「メンヘラと付き合うとろくなことがないって言うから、別れるなら今だと思うよ」と彼に提案した。彼は「それは別れる理由にはならない」と言った。
そういうことでお付き合いは継続されることになった。
彼は大学に入学した。私はそれを祝福した。彼が受験勉強を頑張っていたのを知っていた。とても尊敬している。
私はといえば、自分を殺そうとする自分に耐え、病状を必死に家族に説明し、ひたすら精神科に通った。
彼は以前と変わらず家族が留守の合間に私を家に呼んだ。私は行かなかった。外に出る元気も無かったし、当日朝「今日家誰もいないよ」と言われても動き出す頃には翌日の昼間だ。
彼はサークルが忙しかった。理系だから男ばかりで可愛い子いないよ、と言っていた。
私達はあまり会わなくなった。
彼は私が死んだら悲しむだろう。優しくて弱い人だから。自殺だけはしてはいけないと自分に言い聞かせた。
色々なことがあった。
死なないために意識を失うことが必要だった。私は酒浸りになり、睡眠薬はどんどん強いものに変わった。早朝起きて、Amazonで買ったウォッカを水で割り、それで頓服を服用して眠り、昼過ぎに起き出して母に罵倒されながら(これは10年来の日課だ)食事をとり、薬を飲んでまた眠った。眠れない夜は頓服を酒で服用した。そうすれば眠れる。眠っている間は死にたくならないので楽だった。
私某居酒屋で酒を飲みすぎて意識を失い救急車に乗った。倒れたはずみに骨折もしていたのでそれを治療するため更に入院した。入院中は母に罵倒されず三食昼寝付きだったので手術の痛みを差し引いてもお釣りが来るくらい快適だった。
そんな状況を医者は許さず、私は精神科の閉鎖病棟に入院することになった。彼は見舞いに来たがったが、私は断った。誰にも会いたく無かった。自分自身と二人きりになりたかった。何もかもに疲れ果てていた。
看護師さんは優しい。変な人が沢山いるけどそれぞれが自分のことで精一杯だから誰も干渉してこない。
母の罵倒が無いなら、現実逃避するためのスマートフォンは要らなかったので無くても困らなかった。
少しの本、ポータブルCDプレイヤーと何枚かのCD。それだけで完結した生活は確実に私の心を癒した。
これが人生の正解だと思った。誰も、何も要らない、天国だと思った。
あらかじめ定めていた期間が過ぎ、私は退院した。
閉鎖病棟に入院したことがあるレッテル付きの私は母からの罵倒が少しは薄まったと感じた。もう死にたくならないために一人で十分だった。
そして同い年の彼が大学二年生になると同時に、私は大学一年生になった。
母が勝手に推薦入学に出願して受験料も払い込んでいた。仕方がないので面接に行ったら大学に受かった。入学した。
彼はおめでとうと言ってくれた。
新調したスーツ、きれいなキャンパス、好きな学問、新しい友達。
私はまともな人間に戻れるかもしれないと期待した。
しかし、ゴールデンウィークが明けた頃には既に私はくたびれていた。夏休みが明けて、大学へも行かなくなった。アルバイトはクビになった。
私はただ家で時間を潰し、母の(以前よりはマシな)罵倒に耐え、薬を飲み生活していた。もう死のうと思っていた。
大学で新たな人間関係を築いた彼は、私の死を受け入れるキャパがあると思った。
そういえば私は彼とセックスしていなかった。
呼ばれても家に行かない、共通の友人たちと遊ぶ以外では会わない、そんな恋人であったから、私はなんだか彼に申し訳が無かった。
セックスする前に私は酒を飲んだ。
薬の副作用で性欲は無く、彼とキスしても気持ち悪いと思ったからだ。
こんなもんか、と思った。
彼は別にセックスしたからといってこれまでより優しくなる訳でも冷たくなる訳でも無かった。
その日私からやや強引に誘い、夕食を食べながら話をした。私は彼と話がしたかったからだ。彼と話すのは楽しかった。
それが数ヶ月前のこと。
それ以降、私は彼と一度も顔を合わせていない。
精神科に通い続けて、自傷行為をやめられた。アルコール中毒も治った。睡眠も規則的になった。
兄弟が進学と同時に一人暮らしを始めた。もう自分の身を自分で守ってくれる。
私の生きる価値は無くなった。
ある夜母が癇癪を起こして私に出て行けと怒鳴り、私を家から蹴り出そうとした。
終電が無かったので私はははに頭を下げて「一泊止めてください、明日出て行きます」と言ってその場をおさめた。
翌朝、私は最小限の荷物だけを持って逃げるように家を出て、何度か遊びに行っては掃除をしてやったりしていた兄弟が一人暮らしをしている家に転がり込んだ。
それから紆余曲折あり、結局兄弟の仕送りで私は生活している。兄弟は大学に行き、私は自分と兄弟の二人分の家事をしている。おそらく幸せなのだろう。私が欲しかった暮らしは手に入ったのだろう。
もう死んじゃおっかな。くたびれた。もう何も要らない。
今死んだら同居している兄弟がショックを受けるだろうから、死んでないだけ。
彼と連絡を取っていない。
これが自然消滅と言うのならそうなのかもしれない。
私は多分もう駄目だ。大学は妹宅からは距離的に通えないので中退する。アルバイトでせめて食い扶持を稼ぐのが目標だが、達成出来るのはいつになるやら。
自分は異性愛者ではないのかもしれないとも思ったが、同性も好きにならないのでたんに今恋愛をしたくないだけだと思う・
彼は人間としてすてきだから好きだけれど、セックスはしたいと思わない。それじゃあ社会的地位の高い彼にぶら下がりたいだけの厄介メンヘラだ。しかもセックスさせてくれないときた。そんなクズになってまで恋愛とかいうフィールドに立っていたくない。情けないし申し訳ない。
友達に戻って彼と飲みに行きたい。手を繋がないで一緒に博物館に行きたい。一緒に食事がしたい。でも今は会いたくない。
さよならを言うために約束を取り付けようと思って、彼が通う大学の夏休みの期間を調べている。
でも何だか会うのも連絡するのも嫌になってきた。
こうやってぐずぐずしたまま、付き合い始めてこの夏で四年。嫌だ。
生活が忙しくて、朝起きて夜寝るのが精一杯で、恋愛なんかやってる場合じゃない。
そろそろ死んじゃおうと思っている。
メンヘラはよく人生を虚無虚無言うけど例に漏れず私もやはり虚無を感じている。
恋愛には向いてなかった。
多分健康でいることが出来なくなった段階で恋愛なんかやめにしておけばよかったのに、彼の優しさでそれは人工的に延命措置を受け続けている。
罪悪感はそれだけで健康を害するから排除しなければ、と、病気を治療する上で判断出来る。だからさっさと別れようってメールを打てば良いのだ。
参ったなあ。
授業が休講になればその時間は何してもいいし(コンビニとかカラオケとか行く人もいた)、下校時間とかはなく何時までも居残れた。
しかし自由な校風の裏にはやはり短所もあって授業中に寝る人は多いし、スポーツ大会や部活ばかりで全勉強してない人も多かった。
その自由な校風に引きづられて勉強しなくなった人はあの高校で落ちこぼれていった。
あれだけ勉強しない人が多いのなら当然のことだし、厳しくすればもっと実績は良くなるはずなのにと思った。
それだけのポテンシャルを持った人が多かったとあの当時を振り返って感じる。
あのとき学校がやっていたのは精神的エリートの選別だと思うようになったのだ。
きっと他の進学校みたいに勉強漬けの生活だったらきっと高学歴と呼んでもらえる大学に受かっている人も多かっただろう。
しかし人に強制された勉強は絶対に身につかない。大学に入った後には積極性を持った自主的な勉強が求められる。
あの高校で育てられたのは大学に受かった後、さらにその先で必要な精神的な自立性であったと今になって実感できる。
あの場所で結果を出す人間はその先でも第一線で活躍するのだろう。
一方でその精神的な自立性を持てなかった人は高学歴というステージに立つこともなく、その先も似たような人生を送ることになるのだと思う。
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学年百数十人のうち、知っている人は3人程。アウェイからのスタートだった。
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学区の関係で知っているのは4人程。他は皆同じ小学校出身で、ゼロからのスタート。超アウェイだった。
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偶然自分の中学からは俺しか行かなかった。良い友人もできたが、校風に馴染めず辞めた。
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浪人して入ったが、新しく人間関係を作るのが億劫になり孤独に4年を過ごす。
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同期との交流を努力したが、どうやら空回りして浮いていたみたいで、今では同期と連絡は一切取らなくなってしまった。
人生の過程において、環境の変化と共に人間関係が分断されるのはそう珍しい事ではないが、特に小学校から中学校での分断は俺にとってとても辛い出来事だった。
平均で自分より上のレベルの大学や職場にいくと、東大でなくてもそう感じると思う。
賢いやつもいるし、アホとか、変わったやつも多く有象無象なので、その中で我が道を見つけようとする。勉強よりも個性を大切にする校風がさらにそうさせる。考え方の尺度が多用だから、勉強ができないことで落ちぶれる人は少ない。
といっても、学力では旧帝大には及ばないし、仕事しててもやっぱ特に東大生は平均的に賢いことが多いと感じるけど、仕事の現場では、戦い方を間違えなければ対等に勝負できるくらいの地頭はある。
国家一種とかの旧来の組織なエリート集団に属さない限り、学歴で劣等感を感じることも少ないし、慶応に比べて圧倒的に人口が多く、さらに愛校心の高めの人間も多いので、同窓に助けられることも多い。
まー、早稲田でも、アホなコミュニティに属しちゃうと、元がよくても、4年かけてダメ人間になっちゃうパターンがよくあるから、その辺を気をつければ、いい大学といえる。
ということを思ったので、本題と違うけど書いてみた。
かつて同じく京大の校風に憧れて京大を受験して落ち、それでも諦めきれずに大学院から京大に行きました。
今高2だったら、現実的なところに狙いを定めよう、となるところだけど、まだ高1の終わりでしょ。
数学が苦手と自覚してるくらいだから、京大の理系は難しいかもしれない。でも、文系なら数学で高得点が取れなくても英語や国語でカバーできる。
本題からずれてしまうし、ほんとに余計なお世話だと思うんだけど、国立への進路変更きく前提で、文系科目が本当にできるならまだ諦める必要ない。文学部なら可能性ある(他の文系学部はわからないし、京大の理系に行きたいのであってどこでもいいわけじゃないというなら、ごめん)。
約10年前の話だからそれを割り引いて聞いてほしいけど、高2の秋に進研模試で数学の偏差値65、高3の夏の京大模試で数学20点、本番のセンター試験数ⅡB60点だった自分から。塾のテストとか、普通に最下位だったよ。模試で数学20点でもA判定出るよ(自慢にきこえたらごめん)。
京大の文学部の2次、英国社6割5分とれるなら、数学が3割でも多分合格者平均点くらいとれる。4割なら余裕で平均超える。
英国数、苦手でも嫌いな科目がないなんてすごいことだと思う。増田は、周りの優秀なひとや校風のせいで(というか増田の高校で教えてる数学、相当難しいと思うから余計悪循環になってるんだと思うよ。基本を大事にしたほうがいい)、自分がだめだと思っているかもしれないけど、まだ諦めることないよ。
最後に、文章から伝わってくる増田の素直そうな性格をみていて、受験勉強の最中も、どこかはわからないけど大学に行ったあともたくさん悩むだろうけど、いい落としどころを自分のなかで見つけてほしい、と思った。
さんざん上で余計なこと言っといてなんだけど、「〜大・〜学部じゃないと意味ない」みたいな発想も結構危険。
私は入学後、人間関係の変化や自分の描いていた理想とのギャップについていけずに、苦しい日々が長いこと続いた。自由の校風の名のもとに学生放置プレイが正当化されていると思ったし(本当に優秀なやつは独学するってか)、周りの人間が知識と議論でマウントとりあう頭でっかちに見えて、これなら京大進学者なんて十年にひとりの母校の同級生のほうが、よっぽどみんな面白くて優しいやつらだった、と思った。当時の自分は他人とのコミュニケーションのやり方がめちゃくちゃだった、とも思うけど。
高校時代やりたいと思っていた学問も、実際に専攻してみるとすごくギャップが大きくてきつかった。そういう意味では、自分は高校時代に志した好きなことをやるんだという思い込みが、進路変更の邪魔をした。
これが自分のやりたいことで、これが自分の居場所だと思える場所にたどり着くまで、長い時間がかかった。
どこの大学も理想とは違うところはたくさんあるから、最終的に大事なのは自分がどうするかだなって思う。好きなこと大事にしつつ、あまり思いつめないほうがいいよ。
90年代後半~2010年代の男子高校生の生態が的確すぎて「わかりみが深い」「○○も追加で」と楽しむ皆さん - Togetter
https://togetter.com/li/1206408
なお地方、偏差値50以上60未満、私自身は陰キャ寄りの素朴な高校生活であった。
陽キャよりの人はDA PUMPとか聞いてた気がする。
あとモー娘な。
私は陰キャだったので椎名林檎を聞いていた。
あとスカ系が結構流行ってた気がする、東京スカパラダイスとかKEMURIとか。
ビジュアル系もまだ元気だった、GLAYとかL'Arc~en~Cielとかマリスミゼルとか。
・安室奈美恵に言及して浜崎あゆみに言及しないのは到底受け入れられない、
不幸な生い立ちを綴った自伝が出るわCD同時リリースするわ偉い騒ぎだった。
安室奈美恵と浜崎あゆみは常に比べられてた、みたいな記事よく見たが
アムラーはもう少し上の人たちだった。
あとハモネプがすごく流行っていて、男子がみんなボイパをはじめた。
一応履くけどそんなにしなくてもね、みたいな。
あとユニクロじわじわ流行ってた気がする、みんなでカタログを教室で見た記憶がある。
女子のタイプによってはベティーズブルーのショップバッグ持ってた。
みんな縮毛かけて定規で引いたような髪をしていた。
アイメイク偏重期だった、マスカラごりごりつけてひじきみたいになってた。それがかわいいとされていた。
あと腰パン。そんで裾を片方だけまくって足首を出す。
いわゆる無造作ヘア。
陽キャの人のことはわからないすまない。
ポケベルもまだいたがすぐに消えた。
はじめはストレート型白黒画面単音だったのに、
それまで単純なブザー音の高低だけで着メロを鳴らしてたのに、
教室で誰かがうっかりならしてざわついたのを覚えている。
携帯にはストラップをつけ、制服のポケットから覗かせて個性を出していた。
じゃらじゃらつけまくる派やぬいぐるみをぶら下げる派などいた。
大阪の食い倒れ人形とどーもくんのうさじいは、それぞれ気に入って長くつけてた気がする。
SMAPはすでに地位を確立していて、あこがれたり真似したりする対象ではなかったと思う。
まだAmazonがない頃で、ヤマトのブックサービスで友達と送料割り勘にしてよく本を買ってた。
そういや冷静と情熱の間を読んだりしたな。
あの頃は村上春樹が今みたいにノーベル賞だ売り上げだと叩かれたりしてなくて、もちろん有名ではあったが
藤原竜也が身毒丸に抜擢されたり、バトル・ロワイアルに出たりしたころだった。めっちゃ好きな子がよくいた。
326が流行ってた。
私も私の周りも三谷幸喜が当然みたいに好きだった。
突然だが私はアイドルマスターSideMのS.E.Mというユニットの担当Pだ。
自分語りのような事が苦手なタイプなので上手く話せるかわからないけれど、とにかく今消化しなければと思ったので、これまでの話と、2018年2月3日、記念すべき3rdライブ初日に起こった事、感じた事をそのままダラダラ書こうと思う。備忘録のようなものなので、見るも見ないも自己責任でお願いします。
タイトルにもある通り私は現JK。小学校の頃高校に上がれば自然にできると思ってた彼氏は勿論いない。ただのオタク。
通っているのは中高一貫、自称進学校と言われているタイプの学校。偏差値と釣り合わない勉強スピード、量。それに加え人間関係が重要になってくる部活。(詳しく書くと知っている人にはバレそうなのでやんわり言っておく。)
中学に入ったばかりの頃はそれまでと違った環境にわくわくしつつ必死にくらいついて勉強していた。受験後の先取りもあり成績は中の上。この時既にアイマスには出会っていた。真ファン、律子Pをやんわり続けていた。突然だけど初星二日目の律子ヤバかったな。その調子で2年が過ぎた。
段々あれ?と思いはじめたのは中二の冬。勉強のモチベが上がらない。(この時、SideMにも出会っていた。元某サッカーアニメオタクのショタコン私、ホイホイWともふもふちゃんに釣られました。かわいい。)
英語は文法なんて覚えなくても教科書の例文を丸暗記で最低限必要な点数が取れる。
数学は、担当教師が某有名大学卒業生でプライドエベレスト、質問しても何故か違う話に飛躍する。(私達の偏差値が某有名大学に間に合ってないのもあると思うが)教え方は教室満場一致でド下手という評価。しかも間違いを指摘すると逆ギレ…という人間性で、単純バカな私は数学そのもののやる気が削がれていた。
その他理科、社会etc…もただただ暗記。理科はもともと苦手意識があったのでこの頃から少し逃げていたかもしれない。
ぼやぼやと今やってる勉強って意味なくね?と思い始めてしまっていた。
キツイな、と確信したのは中3入りたて。(ここらへんで趣味嗜好が180度変わったヒゲおじさん大好きウーマン私、本格的にS.E.M&山下次郎Pに。)
学校の教育方針で、数学や英語は中学の間に高1の内容をほぼ終わらせる事が目標だった。
そのおかげで内容は急加速、もともと集中力も無く勉強の理解に人一倍時間を要する私は秒で置いて行かれた。
成績はほぼほぼ地に落ち、補習、小テストの追試常習犯。夏休みの3分の1を奪われるらしい特別補習はなんとか免れたものの、遅刻もしばしばしていた。
一つできなくなると全部芋づる式にできなくなるタイプなので普通にヤバかった。
担任もそういったことにとことん追い討ちをかけるような人で何度も「このまま進級する気ですか?」「あなたがこのまま高校生になれるとは思えない」と面談等で散々言われた。ちくしょう、思い出してちょっとムカムカしてる。
5月頃、既にリリースされていた「ST@RTING LINE-06」を購入した。SideMのはじめての担当の曲が入ったCDだった。
ドキドキしながらCDケースの蓋を開け、pcに取り込み、はじめて「Study Equal Magic!」を聴いた時。
私はただただひたすら驚きで固まっていた。
こんな世界もあるのか、と単純にびっくりしたのだ。小学校も私立で、受験が確定していたため、小学一年生から塾に通い受験勉強をする毎日。結局行ったのは六年間の努力虚しく落ちた第一志望では無く全く今まで知っていた校風と毛色の違った滑り止め。
それでもなんとか喰らい付こうと頑張るも突然虚無感に襲われ全く手をつけられなくなった、「それ」=辛い、という私の中のイメージが、一瞬で粉砕された気がした。
けれど、私の中に根付いた勉強から離れた習慣、実際相手をする教師、そんなもの達はなかなか簡単に私の苦手意識を振り払ってくれなかった。
成績は若干持ち直したものの、それ以上もそれ以下も無く、ずるずる引きずったまま高校に上がってしまった。
そんな話を新しいクラスにもまだ慣れていないような時期にされ、あまりそういった事に実感が湧かなかった。
しかし割と直ぐに嫌という程実感する事となる。
一学期は勉強どころでは無く新しい環境に慣れるのに半分ぐらい要したが無事終了。
グリーティングツアー東京公演、私の初めての、現地でのSideMライブ参戦だった。最高だった。生のS=Mを聞いた時、初めてCDを聞いた時の鳥肌が返って来た。夢中になってペンラ振ったし、タケノコ生やしたし、しゅくだい!わすれない!!もした。山下次郎も中島ヨシキも最高だった。産まれて来てくれてありがとう。そのあと一週間は余韻が抜けきれなかった。現地って最高だな……
悪い方に進展があったのは夏休み中盤だった。思わぬところでダメージを受けた。部活の合宿だった。
はじめて思うような結果を出せず、目標を果たせなかった。追い討ちをかけるように、新学期になり練習に対する価値観の違いによる部活内の対立と、その中立的立場になってしまった事。
ぶっちゃけ死ぬかと思った。勉強も、二学期になり急に難易度が上がり例の如く取り残される。受験の重圧、周りの去年とは段違いのやる気。
メンタル弱いなとか思われてても仕方ない。というか私も自分で思ってる。
学校に行けなくなったというのは朝起きて、「学校行きたくない…」と震え、結局その日一日結局動けなかった…というような感じでは無く、単純に、朝早く起きれないのだ。
精神科に行くと、精神病と診断され、自覚がないままメンヘラJK突入かよぼんやりとか思っていた。
親にもお前の気持ちが弱いから、とだけ言われ続け、午前の授業の欠課数だけ増えて行く。
科目を二つ落とせば留年、今のところあと欠席可能回数が一桁しか残っていない科目が二つ。
今年に入って朝のHRから出席した日は一日しかない。なんというか、疲れてしまったのかもしれない。
勉強に追われ、部活に追われ。大半は自分の責任だとわかってても、もう考えるのも疲れていた。
さて、めちゃめちゃ長くなったが2/3。
3rdライブも、お金の問題で遠征はできず幕張を狙ったが落選。それ以降は実はSideM自体、アニメは見ていたけれどゲームをあまり開かないぐらいには、私の中では薄れかけていた。そんな中、ギリギリで取れた3rdライブのLVのチケットを握りしめ、豊洲pit以来出していなかったS.E.Mのペンラと共に友人と映画館へ向かった。
そして開幕した3rdライブ。久々に見る担当の姿に感動しつつ夢中になってペンラを振った。全員揃ったのはマジで感謝しかねえ…
S.E.Mの最初の曲は、S=Mだった。やっぱり、最高に楽しかった。
恭二に唐突に求婚されたり所々爆弾を投げつけられながら、合間のトーク。
次の幕に移ろうとしていた。しゅごんが話の流れを持っていく。
「先生達の指導が必要だな!(うろ覚え)」みたいなことを言ってたきがする。S.E.Mだ、と思って大急ぎでペンラを持ち替える。
めちゃくちゃドキドキしながら待っていた。
会場が暗転。ピンクの光がちらほら増えていく。
会場からも歓声が上がる。
S.E.Mのアニメでの新曲、「From Teacher To Future!」だった。
硲先生が歌い出す。るいが続く。次郎ちゃんもそれに続く。そして全員でこう言った。
「君は出来る 何だって出来る
君はなれる 何にだってなれる」
瞬間私は泣き崩れていた。そこには確かに、中学生の時始めて私の背中を押してくれた、あの先生達の姿があった。
それまでごちゃごちゃ考えていた事が一気に流されたような感じだった。
S.E.Mがずっと私たちに伝えようとしていた事が、本当に今更だけどその時はじめてわかった気がした。
「頑張ろう、一緒に行こう!」と言ってくれた先生達に、私はたぶん、一生感謝するだろうなと思う。大げさかもしれないけど、それぐらい、今の私はS.E.Mというユニットに救われた。
ペンライトもロクに振れないぐらいボロボロに泣いて、「がんばれ」って横でずっと支えててくれてた友達にはマジで感謝しかない。
受験休みが終わって、明後日からまた学校が始まる。ちゃんと朝から行けるか不安もあるけれど、少しでも前に進むためのエールをあの時S.E.Mから貰ったので、私はその分、頑張ろうと思う。
幼い息子がスカートをはきたい!と言ってきたら、俺はどうしてやればいいのだろう?俺の家族はジェンダーに関係なく、着たいもん着たらいいし、それが釈される社会を心から望んでいる。
問題は社会のほうだ。息子がスカートをはいてスーパーに行ったとき、近隣住民から奇異の目線が飛んでくるだろうこととか、普通の小学校に通っている息子が友達と会ったとき奇異の目線が飛んでくることを、そして仲間はずれにされいじめられるかもしれないのを、俺はどうしてやればいいんだろう?奇異の目線やいじめ行為は、確実に息子の心を蝕むだろう。リベラルな校風の私立学校ならまた違うのかもしれないが、とてもじゃないが、うちでは小学校から私立は行かせてやれない。
息子は幼い。まだ自己決定が十分にできないし、差別行為を社会の問題として自分から切り離して考ええることが難しい年齢だ。目に見えた危険から守ってやる義務が親にはあるのではないか?だから、スカートをはくことを止めるよう言うべきではないのか?しかし、それでは息子に男というジェンダー観を押し付けることになるだろう。どっちに転んでも苦しい。もし息子がスカートをはきたいと言ってきたらどうしたらいいのか、途方に暮れている。
鹿児島の進学高に通っていた。
学力スクールカーストが酷く、学年一位の男の子が成績が悪い女の子に、廊下ですれ違いざま「バーーーーカ!!」と言っても
当たり前のようにみんながゲラゲラ笑うような環境ができていた。
夜10時就寝・夜2時起床〜登校まで勉強が、学校の推奨スタイル。
先生たちも、手をボールペンで刺しながら勉強する、とか氷水に足をつけながら勉強することを勧めるような人たちだったので
やや狂った校風だったんだろう。進学高なら当たり前なのかもしれないけれど。
いつも成績上位だった生徒が試験の回答間違えを訂正しようと職員室に侵入した事件もあったし
勉強のしすぎで狂った生徒がトイレに引きこもって泣きわめいたりしていた。