はてなキーワード: 東京進出とは
地方をクリエイティブで元気にする!とか地方から新しいクリエイティブを発信する!とか色々あるけれど、クリエイティブ産業の市場とか人口とかから生み出されるチャンスを考えると、地方で始めるメリットなんてほとんど無いと思ったほうがいい。
街にはモデル・俳優いくらでも溢れていて、今この瞬間(12月30日午後18:00前)俺がいるファミレスの周りではみんなPC開いていて、ざっと見回すだけで映像編集・コーディング・脚本執筆・雑誌の誌面構成やってる人が見える。隣のグループは話の内容的にコミケ帰りのゲームアプリ開発者が雑談してる。こんな街他にあるだろうか?梅田にある?四条にある?天神にある?
今クリエイティブ産業を目指している若者よ。周りの人は色々言うだろう、京都は昔からクリエイティブの街、任天堂もはてなも京都だ!ロフトワークのオフィスもあるぞ!1→10やOvaqeもある!大阪でもチャンスはあるぞ!AID-DCCだって株式会社人間だって大阪だ!福岡は今一番イケてる!リモートワークでKOOKIみたいに全国規模の仕事できる!金沢から変えていこう!沖縄はオフショアにチャンスが眠ってる・・・。それもいい。それもいいんだけど、スタートだけは東京に来てみないか?
たしかに地方で成功した人はいる。でも、君個人のスタートは東京という場所で始めたほうが後から得なことも多い。東京・地方どちらもメリット・デメリットあるけど、スタートを東京にするほうが安心のスタートを切れると思う。僕も関西から上京して今に至っている。
地方の会社だって、東京進出したり、東京でできた会社が地方に戻ったりなんてのも多い。
タイトルはモーニング娘。の「わがまま 気のまま 愛のジョーク」から。
日頃ずっと思ってること。
丈くんを応援している人同士、分かり合えないことがたくさんある。
丈くんは今、Funky8と呼ばれるゆるっとふわっとした括りに属している。私はそれが嫌だ。
なんで横並びを求めるんだろう。
全てを出し抜いてでもデビューしてほしい人じゃないの?なんで抜け出そうとしている人の足を引っ張るようなこと言っちゃうんだろう。なんで今より立ち位置が下がることを望むんだろう。いつまでメインのバックに甘んじてんだろう。なんでそこに疑問を抱かないの?丈くんはそんなとこに収まるようなアイドルじゃないよ。8人で踊ることがそんなに重要なの?それならメインと同じラインでマイク持って歌ってほしい。っていうかメインと呼ばれるラインにいてほしい。いなきゃダメな人だ。本当に公式化とか意味分かんなかった。したメリットが無いじゃん。公式化とか単独公演とか本気で言ってんの?ってタレントにもファンにも思った。そこをゴールみたいに言わないでよ。なんでそこが到達点なの?デビューなり東京進出なりを見越してる人だっているのに。私はそんなところに甘んじてほしくない。3年間何もなかったんだよ。それが全てじゃないの?いつまであの時に縋ってんのかな。
あれだけいる関西Jr.で、個人のフォトセット出せたの9人だけだよ。そこに選ばれた丈くんと大橋くんが、あの8人に収まってしまったら今より立ち位置下がることなんて明確じゃん。括りだけ見たらメイン≧トリオ〉バンド〉推されチビ≧funkyぐらいの立ち位置になるよ。そりゃ若い子の方が事務所だって押し甲斐あるから、括りだけで見たらとあふがるーくの方が推されるだろう。個人だとちゃんと結果残せる人なんだよ。なんで個人で登りつめようとしている人が、這い上がって必死にもがいてる人が下に引っ張られなきゃいけないの?なんでそれに疑問を抱かないの?仮にも丈くんのことを好きなんだよね?自分が好きな人が口に出す目標に8人の姿があるの?無いじゃん!藤原丈一郎個人として這い上がろうとしてるのになんで違うこと求めるんだろう。なんで丈くんの可能性を閉じ込めちゃうんだろう。
多分そちら側の人は今の私の意見が全く意味分かんないと思います。今後分り合うこともない。そりゃセンターに立つ姿もかっこいいよ。かっこいいパートもキメるパートも全部もらって、絶対歌声が聞けるポジションだもん。じゃあもしそのポジションじゃなくなったら?あの括りで他の人が前に出てきても今と同じこと言えるの?あの括りですらパート貰えなくなって、後ろに下がったらどうするの?それでも横並びだ!って喜べるの?そこまでして一緒にいなきゃいけないのかな。抜け駆けしてでものし上がってほしいよ。
こうして意見が分かれるのも、丈くんが括りに口出さないからだと思います。優しさなのかな。
もし叶えられなかったときにガッカリさせたくないから何も言わないのかな。でも自分だけの夢は言ってくれるんだもん!ねぇ丈くんはどう思ってるの??知りたいけど知りたくない。このまま何も言わないでほしい。あー!わがまま!
一生分かり合えないけど、丈くんがかっこいいことは共通認識だし丈くんの顔が私たちの平和を保ってくれてるから本当に丈くんありがとう!!!丈くんの顔が秩序を守る!!丈くん!!
構わないっつうか、大企業の支社が一番でかい顔してて、地元企業はでかくなれば東京進出して全国区になって、って構図がある以上、地方が向かう先は東京のコピー以外ないんだよね、望む望まないに関わらず
ロンドンのコピーや上海のコピーやリオデジャネイロのコピーをその県だけで目指せるならともかく、そんなの無理だからねー
地方は地方の魅力があるのは確かだけど、テレビも雑誌も全国画一的に流行りの情報を流すわけで、地方民は東京同じものを自分の街でも買いたいと思っているものさ
いい悪いの話じゃなく、日本が全体的にこのまま没落していかないためには、東京の持続的な発展に加えて、地方の東京の劣化コピー化は必須よ
ブレイク必至と煽りつつ、札幌のローカルな流行りに終わったスープカレー。
今にして思うと、その頃のスープカレーは店によってあまりにもバラバラで、スープカレーを定義づけることが出来なかったのが札幌の外に発信することが出来なかった理由のように思う。
幾つかのブログや掲示板に、「すげー美味いから食ってみろ!」みたいな書き込みがあったが、それらのどれもが、どういう味かを語れなかった。
そもそも、スープカレーとはから語らないといけないのだが、スープカレーがどんな食べ物かが誰もわからなかった。
たとえばラーメンを語る場合、そもそもラーメンという共通認識があり、醤油、みそ、塩、という味のジャンルもはっきりとしている。
カレーという言葉から、普通のカレーを、時にインドカレーやタイカレーを想像してしまうので、スープカレーというジャンルのトマトベースでこういう味といっても、文章で相手に伝えることは困難であった。
そんなこんなで約10年の月日が流れて今にいたるわけだが、その間にそこそこの数の店が東京進出を果たし、大衆に合う味を追い求め、ようやくスープカレーとはなにかが固まってきた感じがある。
ブームにはならなかったのは残念であるが、ようやく一つのジャンルになれた。
ここで、僕もやっとスープカレーについて語ってみようと思う。
カレーとは似つかない。エスニックで辛いポトフという表現が最も近い。
敢えて近い香りを選べばカレーのような香りというだけに過ぎない。
具がゴロゴロしていて、おかずにもなるスープというものを想像すれば正しい。
かつて札幌でブームになっていたころは、スープのベースとなるのは鶏ガラをベースにしたもの、魚介ベース、等々いろいろと個性豊かであったが、今日では豚骨と鶏ガラと香味野菜というありきたりな組み合わせが主流になっている。
ウェイパーほど中華っぽくなく、味の素のコンソメよりはパンチが強い、そんな感じのスープを想像していただきたい。
ここに、トマトとニンニクと唐辛子をつっこめば、香り以外はほぼ完成だ。
小麦粉は使わないのでトロミはないが、豚骨あるいは鶏ガラのコラーゲンで乳化している場合が多い。
後述するが、スープカレーの客単価は低くなってきている気がするが、それはスープの改良、低コストで大衆の舌に合うスープの方程式が確立したことと無関係ではないと思う。
通常のカレーのスパイスは、辛味のほとんどがチリペッパー由来で、残りのスパイスが香りと味を決定している。
そして、そのほとんどがターメリック、クミン、コリアンダーの3種類で決定され、残りのスパイスは隠し味のような感じだ。
チリペッパーを加えた4種類で、カレー粉の9割は出来上がっている。
スープカレーの特徴は、このなかのターメリックがほとんど入らないことだ。
油と小麦粉がたっぷりのルー仕立てでは、ご飯によく合うのだが、スープとして味わうときには、泥臭さが全面に出すぎる。
そんなわけで、スープカレーのビジュアルは黄色みが少なく、赤に近い。
普通のカレーには入らずに、スープカレーにはほとんど入ってくるスパイスとして、焦がしバジルが特徴的である。スパイスと言っていいか微妙だが。
ポトフやおでんのように、スープと具が一つの鍋に泳いでいるわけではなく、スープだけ寸胴からとりわけ、具は別に用意する店がほとんどである。
肉系(チキンレッグ、ラム、豚バラ)等は固まりのまま煮込んだものをスープに乗せる。
茄子、ピーマン、カボチャは素揚げが多く、ニンジン、ブロッコリーは茹でたものが具となる。
ジャガイモは素揚げの場合もあるし、茹でたものという場合もある。
オクラやレンコンなどが入る場合が多いのもスープカレーの特徴か。
当初に比べて値段設定は安くなってきている。
物価設定、とくに食物においては安い北海道において、1300円くらいの強気の設定をしていたが、東京に進出しても値段据え置き、あるいは低価格化の印象。
それに伴い、一食の量も減った感じはある。
具材も巨大なものがゴロンゴロンというのが売りだったが、食べやすくこじんまりとした。
下北沢のマジックスパイスは、いまだに強烈な個性を保っている。
スープカレーですらないマジックスパイスという食べ物としか説明がつかない。
とても仲が良く、お互いのことはなんでも知っていると思っていたのだが、セックスをして初めて知ったことがある。
彼は、正常位のとき、顔が小藪に似る。
そんなこと知る由もなかった。
彼は、重力に負けると、顔が小藪に似る。
そんなこと知ろうとも思わなかった。
セックスの後、行為を謝られ、ずっと好きであったこと、恋人になりたいのだということを告白された。
私も彼にはずっと好意を持っていた。
しかし、私の脳裏にはついさっきの小藪がいた。
目を閉じてキスをする小藪。
乳首を口に含み、上目遣いで私を見つめる小藪。
よがる私を見ていたずらに微笑む小藪。
消えそうな声でゴメンと呟き絶頂に達する小藪。
目の前に座っているのは、ずっと好きだった彼のはずなのに、私は ちょっと考えさせて と答えた。
彼は、少し落ち込んだ表情で そうだよね、急にごめんね と言った。その表情に、小藪の影はなかった。
ああ、彼は、ほんとうに、下を向いた時だけ、小藪になるんだなあ。正面を向いていれば、Kis-My-Ft2あたりにいそうな顔なのに。
小藪の存在を知らなければ、彼が小藪に似ていると思うこともなかった。
しかし、小藪達は悪くない。
そして彼も悪くない。
たぶん私も悪くない。
誰も悪くないんだ。
フィナーレに関する目に留まったいくつかの……多くの記事と多くの部分におよそ三十年分の記憶との齟齬があり、明石家さんを軸に百字で収まらぬあれこれを書き留めておこうと。
文字起こしではなくライブで関西ローカルラジオを全国の明石家さんファンが聴けば、おそらくその数は激減すると思う。伊集院のラジオを聴きスタッフの馬鹿笑いにたちまち拒否反応を起こす関西人よりも多かろうと。
「笑っていいとも!」へのたけし乱入はたいした事件ではなかった。登場でいきなり出演者の首を締め上げるのは当時からのお約束。たけしが人選を間違えて変になった。「お笑い論を偉そうにぶっていた康夫にカチンときた」といった経緯もない。そもそも初期のいいともはアングラ芸人タモリを始めとする監督や芸術家、作家、アナウンサーら文化人が時事風俗を斬る、社会風刺を主とする番組であったのだ(田中裕子回必見の安産祈願を巡る宗教団体の抗議等々により、観覧客だけでなく視聴者にもタモリは恐怖感を抱いてしまい、ゆるいお笑い路線となった。最終週の後説で安産祈願ネタをタモリがややムキになって話していたのが感慨深い)。ほぼ初対面で髪をぐしゃぐしゃにされた康夫がむくれたのはたけしのミス。後のインタビューで「あそこで俺の首を締めかえしたら成立したのに、これだから作家はダメ」とたけしが語っていたが、芸人矜持を偉そうに語るなら当時毒づいていたタモリに(大橋巨泉なぞに認められる奴はそろって贋物だとか)いけよと思った。たけしオタクを自負する太田ならこのインタビューも当然読んでいたはずだが、フィナーレでは反撃を恐れて放りっぱなしで逃走、康夫は仕方なく傍の田中裕二に組み付いたが本気で抵抗され、諦めて壇上を降りる康夫の背中に裕二は蹴りをかます(当たってはいないが)。「あいつは、テレビの前の皆様に向けてじゃないんですよ。あれは俺に向けてやりよったんですよ」は明石屋さんの自意識過剰だと思われ。あと、いいとも降板は選手権で笑いを取ったことを責められせいではなく、制限時間オーバーで失格と裁定されたのが気に入らなかったため。
鶴瓶のヤンタンも聴いたが、同じく最初に読み上げられたリスナーのハガキが「師匠の引き際に感嘆した、素晴らしい」だったのが象徴的。共演NGが本人よりも外野、スタッフの死活問題に帰するという見解は正しいのではと考える。さんまの毒舌というより真正面からの他者批判を聞いていれば、共演を避けるよう周囲が動くのも仕方ないなと。さんまはNGが多いタレントという印象。徳光とのNGは徳光側の意向もあるのだろうが、「次番組に呼んだら俺は降板する」とからくりTVのスタッフに伝えた野村克也のケースは異例だろう。ひょうきん族にとんねるずが出演した際、石橋に今後の相談を受けたさんまは、お前らなぞ眼中にないとばかり、そのままでええんちゃうと軽くいなしてやったと得意げにラジオで語っていた(のりおは石橋はともかく木梨なんて竜介レベル、すぐに消えると言っていた)。石橋が関西芸人敵視になったのも仕方ない。夕ニャンが終了した際は「フジテレビとしてはとんねるずよりおニャン子が惜しい、大事」と素人の私も首を傾げる業界事情を報告していた。松本に関してはさんまのまんま登場時の松本へのスカシや、最近も「すべらない話」なんて掲げる自体がお笑い失格、恥ずかしいと語っていたが、吉本芸人同士、両者に重なるスタッフもいてあからさまな共演NGとはならなかったのだろう。後輩の松本が配慮していたというのもある(まんま出演後は自らの失敗と反省していたし、「まだまだ売れるわー」の連呼もそう)。浜田に関しては先輩である寛平の頭を叩く行為に怒っているという噂も聞いたが、フィナーレでミニコントしたり、太田への浜田の苛立ちを腕を抑えて笑いにしたりと決して険悪な関係ではないのだろう。
太田は談志の後継者らしく政治的に動く人という印象(談志と揉めた後、業界の偉いさんらに悪口言い触らされたとたかじんがぼやいていた)。タモリ、さんま、石橋があの芸風を好んで許容しているのかはなはだ疑問。ファンには「プロレスをせず、真剣で戦っている唯一の芸人」なのだろうが、もしも浜田のツッコミを振り切り、例の客席、視聴者へのつまらぬアピールをやったら、浜田は加減なしでケツを蹴り上げる。今田も東野も宮迫もその覚悟を持ち共演しているが、怪我でもしたら社長が吉本に大人の申し入れをしそうでなんとも。土下座事件は噂の真相で事実のように書かれていたがこちらもはなはだ疑わしい話。たけし後継に勝手に名乗りを上げるなとプロレス好きの弟子の水道橋が乗っかっただけのように思われる。太田が著書で松本批判をしたのは確かなので、ライバルとしてではなく、何が面白いのかわからぬ後輩の売れっ子がこっちにからんでくるなと、俺らウンナンとは違うからなという程度だろうと(太田は「笑いの殿堂」でメインのウンナンの悪口陰口を石塚英彦と一緒にくっちゃべっていた)。
たけしに「男気」を感じたことは一度もない。その類のエピソードが語られるたびに、正月のフジヒットパレードでの松村との初顔合わせのVTR、どこかに残ってないかと思う。最終回いいともの辞もありきたりのベタ。「似非インテリの集団」に担がれたが自虐ネタになってないのは辛かった(山下や赤塚、浅井慎平や高平哲郎に比べ高田文夫やテリー、高信太郎はいかにも山師っぽい。筒井康隆はタモリを小説に登場させたほどだが、たけしについては俺の毒舌の二番煎じ、ぐらいに考えていた節がある)。
ナイナイも当初は太田批判をANNなどで話していた。とんねるず世代で、舞台や漫才ではなく、あくまでもテレビに出たい人。芸人にダメだしするなと中居批判、下駄を履いたジャニーズ批判もやっていて、めちゃイケ共演までははっきりと敵視していた。いいともへのレギュラーが決まった際は「見つかってもうた」と嘆き(有吉のバカに見つかっちゃったの先行事例)、その「タモリ愛」もジャングルTVから始まったものだといえる。ちなみに東野のツボ芸人は「さんまのスポーツするぞ」で会話に割っていけず泣きくれたナイナイ矢部、いいとも後期の森脇健児、どSの中川礼二、現在の爆笑太田。
鶴瓶はやはり怖いという印象。関西時代はたけしの何が面白いのかわからないと問うていた(問われた相手は爆笑こそしないがニヤリとはすると答え、そんなん笑いなら爆笑させんとと)。たけしのANN開始前に鶴瓶ラジオを参考にしていたと聞き、さらに「東京進出失敗」もあり「たけし兄さん」と呼ぶように。メインではなくサブに回るのには抵抗もあったはずだが、タモリに諭されいいとも出演を続けた。タモリとは深い親交を結んだが、さらに古いさだまさしとの親交は話さなかったらしくジャングルTVゲスト出演の際の交友フリップを見て初めて知ったタモリが「え、あんた友達だったの?」と仰天していた。いいとも出演よりもさんまの「覚えてるでえ」が東京での起爆剤になったと思う。
タイトルにした香取慎吾のスピーチは印象に残った。それぞれ良かったのではないか(石橋の発言は馬鹿にしたものじゃなく本心だと思うので、タモリの反応は可哀相だった)。これ以上の盛り上がりはない、スピーチは余計という声もあるが、芸人祭りで締めればそれこそ「バラエティーのフジテレビの終わり」で終了してしまう。
駆け足が長くなった。ここでおわり。
月額基本料を年内無料にするキャンペーンを行っている(ICカード作成代はかかる)
ので、申し込んでみた。
で、今回の「5連休」であるが、自宅から100~200mの2拠点にある
クルマ(デミオ・ムーブ)は、2拠点×2車種=4台全て「満車」であり、
400mほど離れた拠点のクルマなら空いているようである。
「使いたいときに使えないこともある」とはいえそうである。
ただし、これはカーシェアリングに限ったことではなく、
レンタカーも週末になると、「軽・コンパクトカー」の予約は難しい。
で、自宅から400mの拠点でカーシェアした場合、朝8時から深夜12時まで
16時間カーシェアすると、1時間800円だから、計12,800円!!
レンタカーの「軽・コンパクト」24時間レンタルより高いのはいかがなものか?
実際には、レンタカーの「軽・コンパクト」は週末に予約するのは難しく、
空いているのはクラウンとかの「高級車種」なので、それを24時間レンタルすると
2万円程度するだろうから、「それより安いから我慢しろ」ということなのか?
素人考えであるが、カーシェアリングは「無人管理」「給油等も客任せ」なのであるから、
有人拠点のレンタカーと比較しても、12時間利用・24時間利用とかで「安くなって」当たり前である。
しかも、レンタカーのように「乗り捨て」ができないのだから、尚更である。
オリックス「プチレンタ」やマツダのカーシェアが進出しているのは、東京なら23区内とか
大阪市内とか、いわゆる「駅徒歩圏内」である。
これは戦略として「どうなんだろう?」と思う。
小生の居住地とかであれば、徒歩圏内にJR駅も私鉄駅も地下鉄駅もあるのであり、
そういう環境下において「3時間程度クルマを使う」という環境を、想像できない。
今のカーシェアは「2~3時間程度の利用なら、レンタカーよりオトク」としているが、
オリックスとかマツダが集中出店している世田谷区とかの区部で、そのような需要が果たしてあるのか?
自分に置き直して考えても、「スーパーへの買い物」は徒歩圏内でできるのでクルマは使わない。
よくパンフにある「幼稚園の送り迎え」であるが、幼稚園は徒歩1分だ。
(これは小生のケースが例外なのかもしれないが)
強いて言えば、家族が突発的に大病院に入院した際の通院の「足」だろうか?
これだって、都内では大病院といえども駐車場は有料になるので、カーシェア代+駐車場代よりは、
結局、23区内の、駅徒歩圏に住んでいる人が「クルマを使うシーン」というのは、
土日の「家族サービス」(例:高速で箱根まで日帰り)以外にありえないのだが、
「軽・コンパクトが借りられる場合は」レンタカーの方が合理的になる。
まあ、カーシェアの「メリット」としては、「駅徒歩10分のような立地に出ている」ので、
レンタカーの拠点(都内では駅前が多い)に行くより「手間がかからない」という点程度だろうか?
しかし、もう少し郊外、例えば三鷹市とか府中市に行けば、「駅からバス便」という立地が、結構ある。
このような立地の場合、「雨が降ったから、府中駅まで迎えに来て」とか
「娘が夜遅くなったから、武蔵境駅まで迎えに来て」というような「2時間程度の需要」が
ゴロゴロしている。
なので、オリックスとかマツダは、本来なら、このような「23区外バス便エリア」にこそ
拠点網を増やすべきだと思うのだが。
まあこれはメリットといえるかどうか、という気もしているが、誰も書かないので。
「24時間出し入れ自由」
トヨタレンタカーとかオリックスレンタカーの場合、「朝8時から夜8時(又は10時)」という
営業形態が非常に多く、その場合は、
「朝早く(7時)に都内を出発して、遊んで晩御飯たべて、夜遅く(23時)に都内に帰着する」
ということができない。
山口登(やまぐち のぼる)。明治35年(1902年)、兵庫県神戸市兵庫区で生まれた。父は、初代山口組・山口春吉組長だった。山口組事務所は、神戸市兵庫区西出町にあった。大正14年(1925年)、山口春吉の引退により、山口組二代目を継承した。この時、山口組はまだ、大島組・大島秀吉組長の系列組織だった。同年、神戸市須磨の料亭で、山口組二代目相続披露宴が行われた。跡目相続の儀式は、大島組幹部・浦安五助の仲人で行われた。披露宴には、大島秀吉、大島組幹部・川端勝次、大島組幹部・本多仁介、その他の大島組幹部、大島秀吉の舎弟、大島秀吉の若衆、兵庫県県議会議員、神戸市市議会議員などが出席した。山口春吉の手から離れ、新しく山口登の子分となった者は、34人だった。難波島之助は、山口登の舎弟となり、参謀格となった。その後、山口組組員と大島組組員の喧嘩が多発した。山口登は、大島組組員との喧嘩を諌めることはしなかった。昭和2年(1927年)1月、大島秀吉宅に年賀に行った。大島秀吉は、山口登に、山口組組員と大島組組員の喧嘩が多発していることを咎めた。山口登が詫びを入れると、川端勝次が山口登に本心で詫びを入れているのかを詰問した。山口登は激怒した。本多仁介が、川端勝次と山口登をなだめた。昭和3年(1928年)3月、金融恐慌が発生した。山口組は、神戸市兵庫区古湊通りの鮮魚・塩干物の朝市を縄張りとし、仲買人の魚を小売店に運搬する利権を独占していた。そのため、経済的な打撃が限定的だった。同年、山口登は大島組への上納金をやめた。昭和4年(1929年)1月、山口登は、大島組への上納金をやめたために、大島秀吉から破門された。昭和5年(1930年)3月、神戸市は、失業者対策として、兵庫区浜新町に神戸中央卸売市場の建設を計画した。新浜町は、大島組の縄張りだった。この利権を巡り、山口組は大島組と対立した。同年7月、神戸市新開地で、山口登の若衆・田尻春吉が川端勝次を射殺した。同年8月6日夜、山口登は、山口組組員に拳銃や日本刀を持たせて、5台の荷馬車に、神戸市兵庫区西出町の山口組事務所の家財道具全部を載せて、山口組事務所を出発し、同区切戸町に向かった。一部の山口組組員は、切戸町の新しい山口組事務所で待機していた。他の山口組組員は、大島組本家を監視していた。同年8月7日午前3時、山口登は山口組事務所を、兵庫区西出町から同区切戸町に移した。ここは大島組の縄張りで、神戸市中央卸売市場建設予定地の近所だった。同年8月7日、神戸中央卸売市場の杭打ちが始まった。山口組組員は武器を持参して、工事現場に寝泊りした。同年10月、、田岡一雄(通称はクマ。後の山口組三代目)が、新開地本通りの剣劇小屋「湊座」で、料金を支払わずに入場したため、木戸番から咎められた。田岡一雄は木戸番を殴り倒し、湊座の舞台に上がって暴れた。山口組が湊座の用心棒を務めていた。その後のいきさつには2説ある。
溝口敦・笠井和弘・ももなり高『実録・山口組武闘史 血と抗争! 菱の男たち1』竹書房、2002年、ISBN 4-8124-5658-4や正延哲士・天龍寺弦・池田鷹一『実録 鬼頭良之助と山口組二代目 激動ヤクザ伝』竹書房、2006年、ISBN 4-8124-6362-9では「田岡一雄は山口組舎弟・古川松太郎(山口登の娘婿)や山口組若衆・山田久一(通称はトラ。後の三代目山口組初代若頭)に捕まった。田岡一雄は神戸市切戸町の山口組事務所に連行され、暴行を受けたが、根をあげなかった。山口登は田岡を古川松太郎に行儀見習いとして預けた。田岡は古川の自宅に居候した」となっている。飯干晃一『山口組三代目 1野望篇』徳間書店<徳間文庫>、1982年、ISBN 4-19-597344-9では「数日後、田岡一雄は、山口組組員に捕まり、山口登の舎弟・灘波島之介の自宅に連行された。灘波島之介は、山口組組員が田岡を暴行しようとするのを止めて、田岡の身柄を預かった。田岡一雄は、灘波島之介の家に寄宿した。その後、灘波島之介は、田岡を古川松太郎に預けた。古川松太郎が田岡に行儀を仕込んだ」となっている。昭和6年(1931年)1月、須磨の料亭で、宴会を開き、馴染みの花隈の芸妓・ぽん太を呼んだ。その後、月に2、3度、ぽん太と逢引した。昭和7年(1932年)5月、山口登が後援会長を努める大関・玉錦(後に横綱)が、前頭の宝川と揉めた。田岡一雄は、日本刀を持ち、山田久一や玉錦、山口組舎弟・西田幸一らに連れられて、宝川の元に押しかけた。田岡は、日本刀で、宝川の指を切り落とした。同年7月7日、須磨の待合で、山口登はぽん太と会った。同日午後10時すぎ、大島組の刺客・守屋謙造に襲撃された。山口登の若衆・村上常吉が1ヶ月の重傷を負ったが、山口登は待合から逃げた。同年7月8日、守屋謙造は、山口登殺害に失敗したため、大島組を去った。その後、本多仁介は、「日本が軍国調になっていくときに、抗争事件を起こすのはまずい」と大島秀吉に進言した。大島秀吉は、本多仁介の進言を容れて、大島組から山口組への殴り込みを禁止した。それから、山口登は、山口組の新しい資金源として、浪曲興行に着目した。神戸市議会議員・福森庄太郎に相談すると、福森から浪曲師・松風軒栄楽と鬼頭良之助(本名は森田良吉。父・山口春吉の兄弟分)を紹介された。同年7月、山口登は四国で、松風軒栄楽の花興行を催した。興行は赤字だった。庄村吉之助(通称はホラ吉)が、松風軒栄楽のマネージャーだった。山口登は、庄村吉之助を引き抜き、山口組興行部を作って、庄村を山口組興行部支配人に据えた。また、庄村吉之助の側に、山口登の若衆・笠種次を付けた。同年12月、神戸中央卸売市場が開業した。山口組は中央卸売市場の利権を獲得し、市場に賭場を開いた。同年、もしくは昭和11年(1936年)1月20日[1]、山口登は田岡一雄を若衆とした。昭和8年(1933年)4月、山口組興行部は、神戸市湊川神社前の「八千代座」で、鼈甲斎虎丸、東家楽燕、初代天中軒雲月らによる浪曲大会を開いた。昭和9年(1934年)4月、山口組興行部は、八千代座で、ディック・ミネ、美ち奴、楠繁夫、東海林太郎らによる興行を行った。同年 8月、海員争議が起こり、会社側から山口登に、紛争解決の調停役を依頼された。山口組舎弟の西田幸一と田尻春吉が、山口登の代理人として会議に出席した。西田と田尻は、組合と話し合いを持ったが、組合側の右翼や総会屋とこじれて、乱闘となった。西田幸一は殺害され、田尻春吉は意識不明の重体に陥った。田岡一雄と、田岡の親友・岡精義は、西田幸一死亡の知らせを受け、海員組合争議本部に乗り込んだ。田岡が、日本刀で組合長を斬りつけ、重傷を負わせた。田岡一雄 は傷害罪で懲役1年の実刑判決を受け、神戸刑務所に服役した。同年9月3日夜、山口登は、庄村吉之助と笠種次を伴って、法善寺横町近くの料亭で、吉本興業社長・吉本せいと会い、吉本興業の東京進出に尽力することを約束した。同年10月13日から、吉本せいが東京・新橋演舞場で大阪漫才公演を開催すると、この東京興行の応援に駆け付けた。翌日、吉本せいから「自分が東京にいる間は、浪曲師・広沢虎造を吉本興業の専属にしたい」と云う相談を受け、快諾した。その日の公演が終わった後に、吉本せいと共に、東京浅草の浪花家金蔵宅を訪ねた。浪花家金蔵との話し合いの結果、広沢虎造を吉本興業の専属にすることと、広沢虎造のマネージャーを引き続き浪花家金蔵が行うことがを取り決められた。昭和10年(1935年)、山口登は、藤田仙太郎(元関脇・山錦善治郎。本名は山田善治郎)を若衆とした。同年10月、田岡一雄は神戸刑務所から出所した。昭和11年(1936年)1月20日、もしくは昭和7年(1932年)[3]、山口登は田岡一雄を若衆とした。同年2月、不二拳倶楽部主催者・岡本不二夫から、国技館で、チャンピオン・ピストン堀口と挑戦者・ジョー・イーグルの東洋フェザー級タイトルマッチ開催の依頼を受けた。岡本不二夫は、日本拳闘倶楽部の協力を得て、国技館に、東洋フェザー級タイトルマッチ開催を打診した。国技館は「西洋のスポーツであるボクシングの試合を開催させることはできない」として、岡本の要望をはねつけていた。山口登は、岡本の依頼を引き受けた。同日、嘉納健治(通称はピス健。嘉納治五郎の弟。大日拳創立者)に会い、国技館での東洋フェザー級タイトルマッチ開催の了承を得た。その後、上京して、相撲協会と会談し、国技館での東洋フェザー級タイトルマッチ開催の了承を得た。翌日、右翼団体40、50人が、山口登の宿に押しかけ、国技館での東洋フェザー級タイトルマッチ開催に抗議した。山口登は、頭山満と会い、右翼団体を抑えてくれるように依頼した。頭山満は、山口登の依頼を快諾した。同年7月、田岡は、昼夜2回の浪曲師広沢虎造の花興行を行った。昼席は福原の「大正座」で行い、夜席は兵庫県県会議事堂で行った。昼の興行の利益は全て、山口登に上納された。同月、田岡一雄が口答えをしたために、怒った。田岡は山口の怒りが収まるまで、東京の玉錦の元に身を寄せた。その後、若衆の大長政吉(通称:悪漢政。二代目山口組若衆頭・大長一雄の弟)を破門にした。大長政吉が新開地で酔って大暴れし、堅気の人間3人を傷付けたためであった。昭和12年(1937年)1月27日、国技館で、ピストン堀口とジョー・イーグルの東洋フェザー級タイトルマッチが行われ、山口組は国技館の警護に当たった。ジョー・イーグルの判定勝ちが決まると、田岡一雄がリングに上がり、審判に詰め寄った。田岡は警官に取り押さえられ、拘留された。同年2月、玉錦のとりなしで、田岡を許した。田岡は神戸市に戻った。同年2月25日、大長政吉が、新開地の菊水館で、支配人(元、山口春吉の舎弟)を殴打し、売上金を勝手に持ち出した。菊水館の用心棒だった山口組の若衆・山田久一は、田岡一雄とともに、大長政吉を探し、福原遊郭の「大阪楼」にいることを突き止めた。2人は大阪楼を急襲した。田岡が大長政吉を鉄瓶で殴打し、大怪我を負わせた。これに激高した大長政吉の弟・大長八郎(二代目山口組若衆)が、その日のうちに、切戸町の山口組事務所に殴り込んできた。田岡が大長八郎を日本刀で斬り殺した。同日、田岡は警察に自首した。同年2月27日、田岡は懲役8年の実刑判決を受け、服役した。同年、神戸市の荷役業者の鶴井組・広田寿太郎組長、酒井組・酒井新太郎組長、藤原組・藤原光次郎組長が兄弟分の盃を交わし、「鶴酒藤」を結成した。昭和13年(1938年)、山口登の舎弟・新居利治は、徳島県小松島市で、小天竜組を結成した。まもなく、大長一雄は山口組を去った。昭和15年(1940年)、山口登は、広田寿太郎、酒井新太郎、藤原光次郎と兄弟分の盃を交わした。広田寿太郎、酒井新太郎、藤原光次郎が拠点を横浜港に移すと、山口登は鶴酒藤神戸支部長となった。同年7月、広沢虎造が吉本興業に無断で下関・籠寅組(組長は保良浅之助)の企画による映画出演の誓約書を書いた。これに、吉本せいは立腹し、山口登に調停を依頼した。山口登は、下関で保良浅之助と交渉し、映画出演を白紙に戻させた。同年7月28日、浅草の浪花家金蔵は籠寅組幹部・山村周平の訪問を受け、「籠寅組で映画を作りたいのだが、広沢虎造を出演させたい」という申し出を受けた。翌日、浪花家金蔵は神戸に行き、山口登に相談した。山口登は「8月2日に、浪花家金蔵宅で、籠寅組と話し合いをしたい」と云う旨の電報を保良浅之助に打った。同年8月2日、山口登は東京・浅草の浪花家金蔵宅で籠寅組と話し合いを持った。このとき、ボディーガードに客分の中島武雄を連れていた。和解金として用意した、十円札で1000円の札束を胴巻に入れていた。籠寅組からは5人が臨席した。山口登は「広沢虎造を籠寅組には貸さない」と云う旨を伝えたが、籠寅組の5人に襲われた。中島武雄が日本刀で刺殺された。山口登は庭に出たが、日本刀やあいくちで18ヶ所の傷を受けた。ただ、胴巻の札束が刃を止め、一命を取り留めた。浪花家金蔵が浅草の地回りの一団を連れてきたために、籠寅組の刺客たちは退散した。昭和17年(1942年)10月4日、山口登は、この傷がもとで、死亡した。享年、41。