はてなキーワード: 朝見とは
都内、自宅近くのまいばすけっと(イオン系のコンビニスーパー)に、W杯のグループリーグ第1戦、日本vsドイツ戦の前日に並べられているのを見つけたのだった。
W杯が始まる2週間ぐらい前からW杯仕様コカ・コーラ国別ボトル(とはいえデザインはあんまり変わらない)が並んでいたのには気づいていたのだが、あっ日本代表チップスだ、不人気代表だったけどやっぱり1試合勝つと世間ってこうなるな勝つって大事だな、と思っていたのだ。っていうか作ってたんなら仕入れてたんなら、1戦目が始まる前から陳列してくれたらいいのに。
ドイツ戦の数日前に、仕事の用事があって日本橋に行ったのだが、通りの街灯が「サッカー日本代表仕様」になっていた。街灯に代表招集選手ひとりひとりがぶら下がっていて、伊東純也と遠藤航(好きな選手なので)の顔を探して、おお、がんばれ、と思っていた。
コスタリカ戦でしょんぼりし、スペイン戦で手に汗を握り、クロアチア戦でしょんぼりて、喧噪の日本代表の戦いを応援する日々が終わった。しょんぼりしながら仕事に行き、帰り道にそういえば明日の朝食べる食パンがないなと、いつものまいばすけっとに寄って、ついでに、サッカー日本代表チップスでも買って家でゆっくりしょんぼりしようと思ったら、もう売ってなかったのだった。
そのまいばすけっとは駅から家の動線にあるので、用がなくてもつい寄って「今日もあるなサッカー日本代表チップス」と思っていたのだ。単に日本代表の快進撃で品切れになったのだろう、と気を取り直して翌朝、また仕事の用事があって日本橋に行ったらもう「サッカー日本代表仕様」の街灯ではなくなっていて、まぁ負けたから仕方ないかもしれないが、帰国もしてないのに⁈と驚いたのだった。夜にニュースを見ていたらサッカー日本代表たちが帰国会見をしていた。
翌日またまいばすけっとに立ち寄って確認をしたら、やっぱり日本代表チップスは売ってないのだった。その後、今日まで近所のまいばすけっとには日本代表チップスは置いていない。W杯仕様コカ・コーラは一昨日ぐらいまではまだ、まいばすけっとに在庫があったけど、今朝見たら無くなっていてまた別のパッケージのコカ・コーラになっていた。W杯仕様は、決勝戦前に在庫がなくなったということのようだ。
増田は普段はJリーグを嗜んでいる。クラブチームを応援するということは「勝ったり負けたり」だし、クラブチームがあることが日常なので、日本代表チームを取り巻くこの非日常感というか、「突然の世間の変わりよう」には、いい加減慣れてもよいとは我ながら思うが、毎回驚く。
多くの人は、この熱狂と興奮と期待と失望を、割と簡単になかったことにして「日本代表」のことをあまり考えることもなく日々を過ごすのだろうと思う。
なんだかな、まぁ仕方のないことではあるが。
あ、今年はGLは突破したのでおそらく年末年始のTVバラエティなどで選手や監督を見かける機会は少し増えるかもしれない(すぐにリーグ戦が再開する欧州組中心のチームだったのであまり見かけらないかもしれないが)。
当方娘。何年も前から向き合っているが母親を止められず、母が死ぬまで私が尻拭いをすると思うと先が暗い。
迷惑をかけてしまっている医療従事者の方やサービス業に携わる方にも申し訳ない。
どうか、同じような父母を持つ増田さんにご助言を賜りたい。繋がれる福祉サービスなどはないだろうか。
登場人物の要約:気性が激しく感情的な振る舞いを抑えきれない母、逃げた父、診断済ASD・複雑性PTSDで親元を離れたばかりの一人娘。
以下に詳細を記す。
50代の母は情報リテラシーが低く、リスクの高い行動に流されてしまいやすい。
生配信サイトのツイキャスで反ワクチンの陰謀論に触れてからはワクチンは打たず、手を洗わず、マスクはせず、咳は手で抑わない。職場では我慢してマスクをしているようだ。
御多分に洩れず水素水も買った。ホメオパシーにも感化されレメディも、EM菌の商品も。
50代の方でインターネットを利用して信頼できる情報を探り当てることが困難な方がいることは当然だ。ある程度こういうものが生活に混じってくることは仕方がない。問題が起きそうな時に止めてくれる誰かが周りにいれば良い。しかし私はその「誰か」にはなれそうになかった。
父は母と私から逃げて暮らし、離婚を考えているそうだ。母の姉妹や両親は母と離れて暮らす。母の周りにお節介な友人もいない。誰も「誰か」にはなれない。
加えて、母の感情的な衝動性は隣にいても止められるものではない。その一面はクレーマー気質にも表れる。
商品やサービスに少しでも気になることがあると、感情に任せて店やコールセンターに電話をかけてしまう。怒鳴りつけて終わることもあれば、店員を家まで呼んで謝罪させたり、返品なしで返金させたりするまで止まらないこともある。
何か気になることがあると我慢ができない。特に買い物は我慢ができない。母のクレジットカード明細に、膨れ上がったリボ払いの金額が記されていたこともある。
私は嫌な予感がするたびに母に向き合ってきた。
私は科学的根拠や実在する士師業を信頼し、自分には困難なサービス業に勤める方や医療従事者を尊敬している。(これが必ずしも正しい考え方かどうかは、今は語らない。)
母が視聴した生配信を観て、根拠の薄い話・医学的に否定されている話は情報源を併記し説明した。
母は長い文章や口頭での長い説明が苦手なため、平易な言葉遣いで最低限の情報を心がけつつ、危険な情報源からは距離を置くように説得した。
介護に携わる方の体験談などを参考にしつつ、プライドを傷つけないような言い方も研究した。(仕事から離れ療養中で、時間はあった。)
しかしまるで相手にされない。幼い子どもの話をいなすように、今朝見た夢の話を聞くときのように、生返事をしてそっぽを向いてしまう。幸運にも聞いてもらえたとして、その助言は3日保たない。母の怒りに触れれば不機嫌になり、感情的に私や物に当たることもある。私一人ではこれ以上は対処のしようがなかった。
クレームをつけることについては、それ自体は大切なことだ。行き過ぎているところを私が確認できれば、都度宥めた。間に入り伝える役を担ってみたこともあった。どれもほぼ効果を成さなかった。
そもそも、大の大人の行動を一人で全て確認し制限するのは人権的にも無理だ。
私が精神的に衰弱していれば、前述の行動も全てできない。その上母が不機嫌な気配がすると、それだけで身体が強張り、次の日は寝込んでしまう。どうしようもない。
そのうち私が全く外出できない程に弱ったので、福祉と投薬に大きく頼り、数百km離れた土地に引っ越さざるを得なかった。今は障害年金と軽い労働でなんとかやっている。
母はといえば孤独にしてしまったので、以前よりも歯止めが効かなくなっているかもしれない。精神科で私を担当してくださった医師の方が、母親との連絡を避けるよう念を押したため、詳しい状況は確かめる気がない。
ところで、話の都合上ここまで母ができないことの話ばかりしてしまったのだが、母は決して最低な人間ではないのだ。長く同じ仕事を勤め、遅刻欠勤はしたことがない。手先が器用で私にはできないことがたくさんできる。私にはできないクレームの電話もできる(私はクレームの電話を入れようとするといたたまれなさで泣いてしまうことすらある)。私より容姿に気を遣うし、私がコミュニケーションに問題を抱えるASDでありながら服飾や化粧の知識を得て親戚付き合いのマナーを最低限身につけられたのも、母のおかげだ。多分、母とは他人として出会っていれば、素敵な先輩だと純粋に尊敬できたはずだ。以上のように、私の母のことをいわゆる毒親に分類することに対しては差し当たっては懐疑的な立場なので、そちらの文脈には吸収しないでいただきたい。
新しい土地で生計を立ててようやく、自分が放棄してしまった役割への自覚を持った。食事が美味しく、娯楽が楽しいと思える感覚を取り戻し、この生活を守りたいと思ってしまった。こうなると、いずれ面倒を見なければならない母のことが恐ろしい。いちいち詳細を書くことはしなかったが、母に対しては未だに許せないこともあり、いずれ生活が母に脅かされる想像をするだけで怒りが湧いてくる。身分不相応の欲だと知りつつも。
私の生活は、苦しい生活の中で納税し年金を払っている方々と、この趨勢の中で医療に携わっている方々、サービス業の方々、福祉の方々など、素晴らしいみなさまのおかげで成り立っている。既に贅沢をさせていただいているのに、父のように母を見捨てて楽になっていいはずがない。せめて母を福祉や医療に繋ぐところまでやるべきなのだ。母の「誰か」になってくれる相手へ。
畏ろうとして武士のような文章になってしまった上に、話題が前後する読みにくくなったこと、失礼した。父の詳細など書いていないこともあるが、文字数が気がかりなのでこの辺りで切り上げさせていただく。
現況報告
歌詞がとりあえずできた
上げるのはSoundCloudになると思う
昔歌ってみた上げたなあ、まだ残ってんのかな
Spotifyで命ばっかり聴いたわ
なるほどこういうのが好きなのね
米津がハチ名義でやってた前後くらいからかなあ、ボカロのアップテンポな曲ってこうファンク調?っていうか軽めのカッティングを多用するリフが多い気がするんだけど、何がルーツなんだろうね
とりあえずクラップでもやるか、命ばっかりでもやってるし
でも俺リズム全然だめなんだよなあ、伴奏あってもずれるくらいだし
まあそこは考える
なんかそれっぽい感じのこと言ってるけど、まじで音痴なんで、そこはね、あれよ
非モテ界隈みたいな感じで弱者男性界隈が立ち上がって、そこで弱者男性をめぐる議論が練り上げられて外に向かって発信されるようになったら、非弱者男性側の弱者男性理解も今よりずっと進むんじゃないかな〜と思う。
非モテ的なコミュニティが絶滅したずっと後に、ミームとしての弱者男性に置き換わった。
生産性という意味で非モテのあり方が理想なら、なぜ置き換わりが起こったのか。
今朝見かけた、非モテと弱者男性はそもそも求めてるものが違う、って説が妙に頭に引っかかっているんだよ。
「男性同士がバーベキューをして自力救済すればいい」っていうフェミニストのアドバイスは、記憶が正しければ非モテ界隈消滅後に言われた言説だったと思う。非モテの活動はむしろ、そういったホモソーシャル的傷の舐め合いを実現しているではないか。それはもう実質的な家族だろう。
弱者男性が夢みる家族を得て、しかし恋愛への憧れは消えないままに、非モテはどこに辿り着いたのか。
募集を掛けたら大量に応募が来た
その中で経歴とかもいい感じの女性がいた。課長は、これいいな、とか言って部下1,2に見せる
部下1が言った
「この女性嫌です、取らないで欲しい」
「なんで?」
「電車で通勤してる時に、いつも座ってる隣に鞄置いて席2つ占領してる有名な女。毎朝見ます。そういや最近見なくなってましたね。満員なのに一人で2席使ってずっとスマフォしてるからよく車両のイツメンから睨まれてるけど素知らぬ顔ですよ」
「そうなんだ、じゃあこの人なしで」
それ以外でも
「この人●●の店員さんだ。顔時々見ますね。態度は普通ですよ」
「あ、前の会社××なんだ。友人が××だから評判聞いてみますわ」
などなどで、ふるい落とされたり残ったり…
今朝見てた夢を今思い出した
実家(大きな洋館)に帰ってきて家族とくらすようになった夢の中の自分
妹や弟には大きなベッドに専用のバスタブ
けれど自分にはない、バスタブも小さくて体を横たえるだけでいっぱいのサイズ
どうせベッドも私の分は無いか簡単なものなんでしょう、と母を詰ってベッドルームに行くと
想像通りの簡易ベッドが脇に置いてあって泣き出した
急に帰ってきたのは自分だから、自分の分の家具がないのはしょうがないと思いながらも、母は弟妹たちと同様のものを私に準備してくれるのではと期待してた
詰りながらも甘えと期待があった
それが裏切られた
母はしょうがないでしょうとでも言いそうな態度で、私は寝室から飛び出した
弟妹たちの寝室スペースの横を通る、子供2〜3人は寝れそうな天蓋つきの大きなベッド2台を並べて、弟妹たちは遊んでた
悲しくて惨めで目を合わさず通り過ぎた
犬、めちゃくちゃ好き。
もう1年くらい毎日通勤中に必ずすれ違う犬がいて、特に好きだ。あまり犬種に詳しくはないが多分なにかしらの大きい和犬で、焦げ茶色である。最近ちょっともっさりしてきて、冬らしい感じなのが良い。
品の良いご婦人と相当ゆったりめのペースで歩いており、やや前をとつとつ歩きながら、自信と活気に満ちた表情をしている。たまに振り返り、すぐまた前を向くのだが、その表情がすごく良い。自分が愛されているということに微塵の疑いもない様子がありありと伝わる、すんっ、というか、てんっ、というか、そういう収まりの良い擬音がつく顔である。
ほとんど毎朝見ているため、なんとなく犬のほうも私を知っているとみえる。角を曲がった先にいると、おっ、みたいな顔をする。そんな気がする。
そして犬というものは犬に敵意のない人間を理解できるのか、あなたは悪い人ではなさそうですね、そしてわたしに興味がありそうですね、というような表情をしている。そんな気がする。
先日いつもしていた白い首輪が赤いハーネス型のものに変わり、おっ赤も似合うじゃないの…と思いながら見ていたのだが、その目線も理解できていたのだろうか、彼または彼女のそれに対する反応も、分かりますか、いいでしょう…という感じの自信に満ちた様子があり、それもまた非常に良かった。
話しかけてみたい、撫でてみたいという気持ちは常にあるのだが、あまり人様の家族に気安く手など出すものではないということ、もしも他人から触れられる行為が好きではない犬であれば可哀想だということ、何より、あのご婦人と犬の間に漂う一幅の完成された絵画のような静謐な雰囲気に私が立ち入ってしまうと、何かが壊れやしないだろうかという懸念もある。そうこう考えているうちに、今日も彼女と一匹は、アスファルトと爪が触れ合うときの、ちゃっちゃっとした快活な音を残して去ってゆくのだった。
彼または彼女だけでなく、あらゆる犬のことがかなり好きなのだが、それゆえに却って犬を飼うという選択肢が選べないでいる。というのも、私は独り身だし、出張や転勤もあるし、家には庭もない。それに大して収入もないから、有事の際に出来ることには限りがあるだろう。
そういった制約下でも犬を飼うことは一応できるだろうが、幸せにできる確率は客観的にみて有意に低いだろうし、またその自信もない。私の望むところというのは犬が幸せにあることで、犬を飼うこと自体は望みではなくその実現における一つの手段に過ぎない。
ここ数年はボーナスを貰うと保護犬シェルター等に多少の寄附をしているが、これも時期が予定されていてかつ生活の不自由にならない金額であって、犬を飼う人々やそれに関わる人々が、彼らの病気や怪我など生命についてまわる数々の不確実性に向き合っているその覚悟に較べれば、実に都合のいいものだ。
たとえば毎朝すれ違うあの犬の背中に賽銭箱か何かが付いていて、良いね…という思いを多少なりとも彼または彼女の暮らしに還元できればと思うのだが、そういう訳にもいかないだろう。
祈るばかりで特に何もできないことが歯痒くもあり、もどかしくもあるのだが、世の中にいるすべての犬が幸せにあらんことを、と思わずにいられない。そして犬を飼っているすべての方は、あなたによって幸せに暮らしている犬が、世の中の誰かにとって良く思われていることを覚えておいていただきたい。そして、可能であれば犬の写真や動画をインターネットなどによって見せて欲しい。