はてなキーワード: 最大公約数とは
■塩ひとつまみ
親指、人さし指、中指の、3本の指先で自然につまんだ分量。目安は大豆1粒分とのこと
■茹でこぼす
アクとかぬめり、渋み、余分な脂などがある食材を茹でて、茹で汁を捨てること
■きつね色になるまで炒める
お揚げ色でOK
■クタクタになるまで煮込む
野菜とかのパリッとした感じとか色味が残らなくなるまで煮込むということ
普通はある程度の食感とか青みは残すのが良しとされているが、クタクタという指示があったらむちゃくちゃ煮込んでもいい。
■ふんわりラップする
■竹串がスッと通るくらい
箸でもいいけど食材に大きい穴あいて見栄え悪くなったりする、竹串でも金属串でもいいからなんか串一本用意しとくといいと思う
■半日漬け込む
漬け込む系は食材の大きさとかコンディションによって必要時間変わってくるからわりとアバウトに書いてあることがおおい。
■一晩寝かせる
■サッと茹でる
食材の色とか様子が変わるぐらい
■味を整える
ちなみに、トマト系の煮込みで酸味ばっかりで美味しくないなあと思ったら砂糖入れると知ってる味になることがおおい。和風の煮物も一味足りないと思ったら砂糖だ。
イキリグルメ料理人、だいたい「砂糖入れないほうが美味しい、素材の甘みで十分」みたいなこと言うけど、あれは嘘。そうじゃなかったらチェーン店のレストランとかスーパーの惣菜の味付けがあんなに甘いわけがない。日本人が最大公約数的に美味しいと感じる味付けは甘め。
■水にくぐらせる
水に入れてすぐ取り出す
■しんなりするまで茹でる
ダイバーシティは別に育休ママやLGBTの為だけのものじゃないんだぞ?
お前ら今の日本社会が生きやすいと思うか?確かに今の日本は「普通の人が当たり前にできること」の最大公約数に合わせて設計されてるから合理的にできてる。逆に言えばお前ら個々の人間がシステムに合わせた生活をしてるから合理的に回ってる。みんな大人しく週5日毎日8時間働くし、満員電車に乗って通勤してる。
でもお前らだって日常の中でちょっとずつ我慢してる事あるだろ?たとえば腹減ると腹痛になる体質だからいつも仕事中ちょっとずつ間食しなきゃいけないとか、体質で朝どうしても起きにくいとか、家庭の事情で週5働くのがきついとか、海外由来の価値観のせいで働きにくいとか、みんなそういう個々人の事情があるはずなんだよ。それをみんなが就業規則で許される範囲内で工夫しながら生きてるわけ。で、工夫でもカバーできないカードを生まれガチャで引いちゃった人はもう社会からあぶれるしかないわけよ。
そういう事情が全員に何かしらあることを最初から考慮して、マージンをもう少し増やした社会制度を運用することで、皆が力を発揮しましょうというのがダイバーシティな。同じ属性の人間だけ雇用してるとどうしても右向け右になりがちだから、なるべく色んな属性の人間を混ぜて雇用して、まず多様性のある環境を作り出しましょうということだよ。
そんな個々人の事情にイチイチ対応できるかよと思うかもしれないけど、そういう個々人の事情を全員が何かしら抱えてる場合、それはもう個々人の事情じゃないんだよ。お前だって本当は何か抱えてるけど工夫でカバーしてる部分があるんじゃないのか?
脚を広げて座れば電車で楽になるというんだったら、それでいいじゃないか。なぜそれが迷惑なんだ?自分の座席が狭くなるから?そもそも電車がいつも混んでるのがダメなんじゃないか?マージンの少ない社会のせいじゃないのか?だったらもっとテレワークを普及させればいいのでは?通勤時間をずらせばいいのでは?そうすれば更に広範囲の人が楽になる。
多様性が元々誰にでも存在するという前提で設計された社会であれば、皆の苦しみは本質的に軽減するんじゃないか?多様性が当たり前のようにそこにあって、当たり前に受け入れられる社会であれば、電車で足を広げてても誰も奇異の目を見ないだろうさ。皆何かしら抱えてるんだから。
その結果、全体の生産性が今より落ちる可能性はあるかもしれないが、そもそも人は幸せになるために生産してるんだよ。分かるだろ?
もう一度言うが、ダイバーシティは特定の人間のためのものだけじゃない。お前らが電車の座席が狭くなって迷惑だなと思ってるのは、お前ら自身が「合理的な社会はこうあるべき」という価値観でお前ら自身を苦しめてるんだよ。そりゃ今の社会の状態では、現実的に隣に大股広げる奴がいたら迷惑だろうが、生活困難を訴える人にそれを言っちゃう価値観だから俺たちはいつまで経ってもこの苦しい同調圧力から逃れられないんだわ。
ここ数年、ネットのアマチュア作家の間では「本格ファンタジー」というジャンル・概念が断続的に話題に上っている。
「RPGをベースにした軽薄な『なろう系』のせいで『本格ファンタジー』が衰退した」
と強硬に主張するいわゆる「本格ファンタジー派」と、それ以外の人間との間で激しい議論が交わされている状態だ。
だが、この本格ファンタジー論には、本格ファンタジー派の攻撃性の強さを抜きにしても、そもそもの基礎に複数の大きな問題が存在するように思う。
本格ファンタジー論の抱える根本的な問題を、同じく「本格」を冠するジャンルでありながら似て非なる歴史をたどった「本格ミステリ」と比較することで、明らかにしたい。
本格ミステリというジャンルは、ミステリ(推理小説)のうち、謎とその論理的な解決を重視するもの、と定義されている。
本格ミステリには、名探偵や不可能犯罪など非現実的な要素があるものも多い。そのため、社会問題を中心に扱う社会派ミステリが台頭した一時期には、幼稚で時代遅れのものとされた(もちろん、冬の時代にも本格を書き継いでいた作家は存在した)
だが、島田荘司のデビューと、島田の推薦による京大ミス研出身者を中心とした作家群を「新本格」として売り出す講談社の販売戦略が(「人間が書けていない」といった批判もありつつ)大成功。これにより本格ミステリが復権することになった。
以降は、エンタメ小説の定番ジャンルとして、現在に至るまで根強い人気を保っている。
本格ミステリにも、容疑者X論争など定義に関する議論は多い。だがその多くは境界線上の具体的な事例を発端にした話(〇〇は本格か?)であって、中心となる定義(「謎とその論理的な解決」)そのものに対しては大きな異論はあまり出ていない。
一方本格ファンタジーには、今のところ言語化された定義自体がほぼ存在しない。一般的に使われる「本格ファンタジー」という言葉は、単なる誉め言葉・宣伝文句以上のものではない。
「本格ファンタジー」派にしたところで統一的な見解があるわけでもなく、個々人が様々な主張をしている。その声を最大公約数的にすくい上げたとしても、せいぜい「よくできたシリアスなハイファンタジー」という程度の話になるだろう(実際には、ハイファンタジーに限らずローファンタジー、エブリデイマジック、幻想小説なども含むという主張すらある)
そこには「謎とその論理的な解決」レベルの具体性もない。何が「本格ファンタジー」なのかもはっきりしないまま、本格ファンタジーの復権だけを訴えても無益ではないだろうか。
本格ミステリは、ミステリ内の具体的なサブジャンルの名称であるが故に、一時期は「本格」=幼稚という転倒した評価を受けることにもなった。だが「本格ファンタジー」の場合、そのような価値の凋落は本当に存在したのだろうか。
仮に、コミカルな内容・文体であったり、T・CRPG的な要素・感覚を含んだりするファンタジーは全て「本格ファンタジー」ではないとしよう。そうしてみると、たしかにここ数十年の国内小説では非本格ファンタジーの方が、商業面でははるかに優勢だったように見える。
だが一方で、なろう系にせよそれ以前のラノベファンタジーにせよ、それらが本来の「ファンタジー」とは良くも悪くも異なるものであるという認識は、市場の問題とは無関係に(ラノベ・なろう読者を含む)社会全体で強固に共有され続けてきた。大きなシェアを誇りながら依然として激烈に続いているなろう系叩きも、そのような思想を背景にしているものと思われる。
ここで重要なのは、なろう系やラノベファンタジーを「偽物のファンタジー」として指弾する人々が、必ずしも「本格ファンタジー」の愛読者とは限らないということだ。自分は実物を一度も読んだことはないが低俗ななろう系・ラノベファンタジーとは全く異なる素晴らしい「本物のファンタジー」がどこかに存在するはず、という来歴否認めいた頑なな本格ファンタジー幻想が、彼らの言動を強く支えている。
結局のところ、過去から現在に至るまで「本格ファンタジー」という概念自体の価値はほとんど毀損されていない。である以上、逆に新本格ミステリのような華々しい復活劇も演出しようがないということになる。むしろ、実態から離れて高まり過ぎた本格ファンタジーの権威こそが、現実の作品としての本格ファンタジーが読まれることを妨げているのではないか。
上で挙げたような問題を踏まえた上で、では現在の「本格ファンタジー」というジャンル、あるいは文学運動はどうあるべきなのか。
それを考えるのは、本格ファンタジー派ならぬ増田の仕事ではない。だがひとつ言えるのは、自分たちが本当は何を望んでいるのかを再確認すべきだろうということだ。
なろう系のシェアを切り崩せればそれでいいのか。
それとも、特定の種類のファンタジーが読まれるようにならなければいけないのか(自分の作品は本当にそこに含まれるのか)
webだけの話ではなく、市場にも具体的な影響を与えたいのか。
https://anond.hatelabo.jp/20230611115720
これ見てビックリしたんだけどさ、中々面白い言動で、いくつか論点が浮かび上がったから適当に羅列していく。
①
「お天道様が見てる」と「漫画の悪役になっちゃう」と同レベルなんだな。
漫画の社会的地位が高まったんだろうな。「所詮漫画」だの、「漫画なんて子供の読み物」なんて思ってるけど、まあそういうこと共感されないだろうしな。
②
まず、こういう人って、例えば悪人だったけど後で仲間になるジャンプシステムとかどういう目でとらえてるんだろうと思ったりもする。
悪人は成敗されて二度と出て来ません、みたいな単純な漫画しか読めないんじゃないだろうか。
③
そもそも漫画は現実のことではない。リアリティがあろうがなかろうが、リアルではない。
文脈から言うと、「漫画の悪役みたいに他人を不快にさせる存在にはなりたくないなあ」みたいな感じなのだろうが、
「赤毛のアン」を読んで私はアンよ!とか「不思議の国のアリス」を読んで私はアリス!って思ってる女の子と同レベルなんだろうか。
④
②の観点に近いが、お前せめてウシジマ君とか読んだことないんか、と感じた。
世の中には善と悪の2枚のレイヤーしか存在しないと思ってるんか?
⑤
漫画は読者の快感を刺激するための虚構だから、「悪は裁かれる」という気持ちよさが最大公約数として求められる。
公平世界仮説的なアホアホ思考を強化しちゃってんだろうなーと。
⑦
お前もさあ、良い歳して漫画漫画言ってないで大人になって現実と向き合えよ。
妄想と現実を一緒にするな。マルフォイ役の役者に罵倒してる馬鹿と変わんねえぞ?
⑧
ただ、①~⑦のようなことを想いつつ、元増田みたいな低能な人間に社会規範を守らせているのであれば、漫画も役に立っているのではないか。という考え方もある
⑨
漫画の文化価値、文化表現とは、そもそも反社会性を持ち、アナーキーなものであり、一般常識へのアンチテーゼである。
だからこそ面白い。面白いことが漫画の要件だ。道徳的に正しいかではない。
⑩
さらに、漫画の中のような単純な世界観で生きる人が増えることは、いわゆる「正義マン」を醸成させるのではないかという懸念もある。
⑪
一方で、現実はクソなんだから、漫画のような単純な世界観で生きたいという思いも否定できない。
⑫
それはそうと、漫画と現実をごっちゃにするなよ。倫理観を漫画で構築するのはいくらなんでも幼すぎないか?
じゃあ聖書や仏教の経典で倫理構築するならいいのかよ、アレも空想じゃん、というと俺も押し黙るしかないが、
漫画だけじゃなくて、現実世界ももっと見ようというか、色んな体験をして、色んな学びをして構築して欲しいなという思いはあり。
俺の生徒に手を出す赤の他人の姿を見るとか無理でしょ。
だからここは「それぞれの生徒が理想とする最大公約数をわずかずつバレない程度に歪ませた架空の存在」であって欲しいんですよ。
4thPVによって「バッドエンドに分岐する未来の観測が作中で行われていること」は匂わされているわけですから、そこに干渉する存在として先生が存在していいんじゃないかと。
生徒以外の存在も含めて、それぞれが見ている共有幻想としての全自動バッドエンド回避システムという虚構こそが正体でええんちゃうかなと。
結局の所は、全生徒が同時多発的にファイトクラブのような幻覚を引き起こしてる状態ですね。
何を突然言い出しとんじゃと思うでしょうけど、これは別に私が自分以外の男(女)が生徒とイチャイチャしている姿を見せられたくないという我儘だけじゃなくて、ブルアカの世界観にも噛み合ってると思うんですよ。
たとえばブルアカにおける象徴的なシーンとして語られるヒフミのハッピーエンド演説ですけど、あれってつまりは「物語を最後に動かすのは生徒自身の未来を選び取る意思である」ってコンセプトが作品世界にガン刺さりしてるのが評価点じゃないですか。
先生って生徒にいろんな影響を与えているけど、最後に未来を選び取ってるのはいつだって生徒たち自身だったわけですよ。
究極を言えば、彼女たちの中に問題を解決する力がいつだってあったわけで、それはかけちがえたボタンをそっと戻す神の見えざる手が存在すれば先生という実体は本当はいらなかったんじゃないかという。
それならば、子どもたちの世界を救う責任を背負った大人による干渉は、実在の大人ではなく、大人たちの手もしくは子どもたちの願いによって生み出された架空の誰かでも良かったのではとおもうわけです。
実際、その方がエモいでしょう?
生徒たちがそれぞれの幸せになりたいという願いを持ちながらも、自分たちでは解決できない何かを解決してきたのが、突然現れた大人の力ではなく、自分たちの中に眠っていた可能性だったという方が。
言ってしまえばサードマンの共有幻想、それが先生だったということでいいじゃないですか。
俺はソレが良いと思いますよ。
百合の間に挟まる男なんていなくて、子どもたちの間に挟まる大人も居なくて、全ては少女たち自身が勝ち取った幸福な世界だったんだという物語でいいじゃないですか。
先生がそこにいると思い込んで話している生徒達の姿はあってもいいですけど、実体は存在してない感じでお願いします。
最後までそれで駆け抜けてくれれば先生実在派ともまだ共存していけますしね。
いつか、ケリをつける必要はあるのかも知れませんが、まだその時期ではないわけと思ってます。
まずは共存の道を、ね。
多様性多様性と言っている中でいわゆる音楽の「ヒットチャート」は意味を成すのかと思っている。
昔のように最近の曲を知っていないと話題についていけないこともないし、知らないことであまり馬鹿にされることもない。
「最近の曲を知らないんだよね」という年齢も昔はおじさんおばさんだけだったのが普通に学生が言う。
髭男の曲も米津の曲もAdoの曲も、人気ではあるものの大衆が熱狂して聴いているほどではなく、あくまで多くの人が聴いている曲の中の最大公約数に過ぎない。
最新の曲を知らなくても過去の曲に簡単にアクセスできるようになったし、人気の曲を聴かなくても自分の好きなジャンルはこれだと胸を張って言う人が増えてきたように思える。
「人気の曲」の指標は確かに必要だし、アーティストのモチベーションにつながると思う。
けれど今はCDの大量買いに再生回数の水増し工作など、そのチャート自体がある程度「いじれる」ようになってしまっている。
提供元が対策を講じてもすぐに再度抜け道を探したり倍の努力をしてその対策を無にしてしまう。こうやってチャートもぐちゃぐちゃになっていく。
いや、意味はあるのだけれど、今後更に音楽に対するアクセスがしやすくなり、音楽の価値が下がると同時に、音楽の好みの多様性が広がり、「これが人気です」の指標に人が興味を示さなくなるんじゃないかと思っている。
ネットで長く続く論争は権利の衝突によって発生しているものがほとんどで、そこに万人のスッキリした結論なんて存在せず、誰かが得をして誰かが損をする結論しかない。俺たちはみんなの最大公約数となる落とし所を綱引きしているに過ぎない。そして論争を眺めている大勢の人たちや、そもそも論争に参加している人たちですらほとんどは真の論点がどこかなんて理解していない。
であるならば、落とし所を自分たち側に持ってくるには印象を操作して論点を理解していない大多数を味方につけるのが手っ取り早い。フェミはお気持ちでしか主張しない、野党は批判しかしない、などの効果的なレッテルを貼れば、本来の論点がどこかわからない人たちが勝ち馬に乗ろうとして相手陣営を叩いてくれる。
だから世間に『相手陣営は論理的でない馬鹿』で、『味方陣営は自浄作用のあるまともな集団』だと思わせるために、相手陣営の極端な主張をする馬鹿は吊るし上げて味方の馬鹿は相手に叩かれる前に叩いておくのが一番いい戦略だし、存在しない答えを論理的に導こうとするのは無駄だと思うね。
常に80%の人間は保身・保守で自己利益だけを考え、20%の人間の生産性に寄り掛かる、というパレートの法則の学説がある。大企業においてはそれが顕著である。
しかし、大企業に入って取締役になって活躍できるのは0.xx%であり、他の99.xx%の人間は、護送船団という名の鎖でつながれた船に乗り、ジョブローテの餌食になって人生を終える。
これは人間の能力の発揮、という点では完全に飼いころしであり人権侵害であると思う。
また、実能力上でのスポイラー機能のみならず、「大企業に入ったほうが人生は安泰だ」という錯覚を覚えさせるのも罪が重いと思う。
これは大樹に寄り掛かって安定・一定ペースで人生を進めることがあたかも人生の成功のように感じさせるが、しかしこれは完全に錯覚である。
自分の能力をスポイルし、社会通念上の「最大公約数」的なルートをなぞっているにすぎない。
なぜそれが人権侵害なのか?
誰しも小さいころ、絵がうまかったり数学ができたりスポーツができたりしただろう。
それらは誰も追いつけないレベルとして与えられた才能なのである。
なので、それらを諦め、生来の能力の20%しか使わず死んでいく大企業の正社員は、人生という大枠で見たときに、人権侵害の大きな被害者なのである。
もちろん、その中でトップを目指し達成する人は別であるが、99%は実現できない。
そして出世も諦め、ほどほどで成長を停止し、社内で「ほどよく居心地のいい場所」を見つけ、適当に人間関係で右往左往して引退し、年金をもらってロスタイムを消費して終わる。
1.楽天証券に口座を開く
2.積立NISAの積立設定を行う
2.1 積立する銘柄は「eMAXIS Slim 全世界株式(オール・カントリー)」
2.2 額は経済状況に応じて五千円でも一万円でも自由に。(最大33333円まで)
3.積立を続ける
3.1 不況が来て株価が暴落しても積立をやめない。ひたすら続けること。
3.2 仮に30歳から59歳まで月額3万円積立したら(積立NISAで20年間、その後特定口座に移行して10年)2500万円程度になっている見通し。
「なぜ投資をさっさと始めないのか」という記事のブコメを読んでいたら「本を何冊も読まないといけない時点でやってられない」みたいな意見があったので、選択肢を一つに絞ってなぜそれか、そうなのかの理由も省略して最大公約数的に書いた。