はてなキーワード: 暗喩とは
・ハムを数字にすると86、つまり8月6日の広島への原爆投下の日である。
・ハムスターを英語にするとhamster、つまりham韓国語のハン、恨をster、作る人。となりハムスターは韓国では日本人を侮蔑するときに使われる。
・ハム将棋はハムスターと戦う、もとい日本人をこてんぱんにするゲームである。
・将棋は戦争の暗喩であり、飛車は戦闘機を表すものだから、初めて戦闘機が使われるようになった戦争つまり第二次世界大戦の比喩である。
・ハム将棋では「ハム裸玉」というモードがありこれはハムスター側の駒が玉のみ、つまり一億総玉砕し天皇のみとなった日本をいたぶるためのモードである
・そもそもハム将棋は数千万回遊ばれており、サーバー代もバカにならないのに無料で遊べるのは、巨大な反日企業がバックについていることを窺わせる。
各レーベルのアクセス数はラノベの杜のそれより多いのだろうか。ぼーっとラノベの杜の発売予定を見る。タイトルを見て気になるのをクリックする。その次にレーベルサイトで詳しく見る。ラノベの杜経由でアクセスする場合が多い。自分がこれなのだけれど、他の人はどうやってるんだろう。それともインターネットで見たり触れたりはしないのだろうか。デザイナとイラストレータはラノベの杜のサムネサイズで訴求力があるカバーにしたほうがいい(俺カメラ)。
あと読書メーターとラノベの杜がひっついてくれると非常に楽だ。ツールチップでナイスの多いレビューが出てくれるとなおよい。次に作者、イラストレータの個人サイトやらSNSアカウントにアクセスできればもっといい。「ジャスコ」以来、売れるかどうかは情報の流通量で決まると言っていい状況だ。「なろう」発が売れる、選ばれるのは情報量がケタ違いに多いからだ。200ページ立ち読み可能、なんてのはダメなんだよ。一気に200ページを公開しても好きな奴しか読まない。それより作家の納品を10枚単位にして、公開していくべきだ。あとから「加筆訂正」すればいい。なんなら「完全版」でもいい。継続的に5分で読み終わる量を公開し続けることが重要なんだ。公開の価値は低い。公開「し続ける」ことに価値がある。
あー、キリスト教って、頼り過ぎるとろくなことにならんので、宗教以外のいろいろな本読んで、賢くなりつつ(社会スキルを積みつつ)、キリスト教の付き合い方を常に考えて付き合うようにするのがコツだと思います。
何百年も前にすでにあったような教えが、現代でそのまま役に立つという事自体、実際には相当無理ありますし、また、教義には暗喩的表現が多いので、どうとでも取れる事が多いというところに罠があります。自分のおかれた状況により、役に立つ教えと、実はそうじゃないという教えを自律的に取捨選択できるようになって、はじめて正しいキリスト教とのつきあいかたとなると考えてます。結局、自分が主体で、常に賢くなっている事が前提でないと、どんな宗教もうまく付き合えないと考えてます。盲信と依存(キリスト教だけ勉強するとかね)は絶対に避けた方がよいです。
個々の作者と転載者に聞かなければ分からないが、おそらく無断で転載されているものと思われる。
転載者の連絡先は一切ないので、この場合、問い合わせ可能なのは星空文庫の運営者のみ。
もし各増田の作者が転載者に許可を出していないなら、星空文庫の運営者に問い合わせて削除申請しましょう。
転載元 http://anond.hatelabo.jp/20140329193409 → 星空文庫 http://slib.net/29846
転載元 http://anond.hatelabo.jp/20140329153431 → 星空文庫 http://slib.net/29848
転載元 http://anond.hatelabo.jp/20140213081125 → 星空文庫 http://slib.net/29851
転載元 http://anond.hatelabo.jp/20130813134212 → 星空文庫 http://slib.net/29852
転載元 http://anond.hatelabo.jp/20140102001755 → 星空文庫 http://slib.net/29856
転載元 http://anond.hatelabo.jp/20140401131451 → 星空文庫 http://slib.net/29911
転載元 http://anond.hatelabo.jp/20140411013843 → 星空文庫 http://slib.net/30282
転載元 http://anond.hatelabo.jp/20140425002923 → 星空文庫 http://slib.net/30718
転載元 http://anond.hatelabo.jp/20140428112842 → 星空文庫 http://slib.net/30844
転載元 http://anond.hatelabo.jp/20140503153705 → 星空文庫 http://slib.net/30975
星空文庫上の「投稿日」を見ると、増田に元エントリが投稿された日に合わせていることが分かる。
(ただし上記のうち上から4つ目までは全て「3月30日」となっており増田の投稿日とは違っている)
この「FFライセンス」はおそらく星空文庫独自のもので、範囲の規定や付与条件はよく分からない。
星空文庫掲載者ガイドライン http://ja.slib.net/info/guideline/author
当運営者は、掲載作品内の引用や二次創作の適正さについて、該当要素の著作権者の意向や運用ルールに即しているか判断する立場にありません。
掲載者が「正当な引用」や「正当な二次創作」と認識する作品に関しては、星空文庫への掲載は制限されません。しかし、著作権者からの要請があった場合には、作品の確認や公開停止などの対応を行わせて頂きます。
なお、引用元や二次創作元の著作権者や代理人(著作権管理団体など)を名乗る人物からの要請があった場合でも、本人性や権限が確認できない場合には、当運営者による対応を行わないことがあります。
単なるコピー記事の場合、星空文庫側がGoogleペナルティ食らう可能性もあると思うけど、運営者はそれでいいのかね。
どうでもいいけど、この文章の「暗喩的にも」って言葉の使い方ちょっと変だな。
(以下、個人的雑感)
今回初めて見たが、星空文庫というサイト自体はなかなかおもしろそうなサイトだと思う。
ePubやソーシャル連携に意識的なあたり、海外の創作投稿サイトの影響を感じる。
APIなども公開しているようで、IT系の人にとってもおもしろいサイトかもしれない。
今回ざっと見てみたところ、堂々と2chからの転載を謳っている記事も見かけた。
お決まりのように「二次創作物」ライセンスを主張しているが、ただの転載は二次創作とは言えない。
あまたある増田まとめ転載サイトじゃなく、ここは創作のためのサイトだ。
そのようなサイトでまで他人の創作物を盗むというのは、ネット上で創作物を発表する人間すべてへの侮辱であり脅しだ。
ネットでなら何してもいいとばかりに好き勝手するクズはいいかげん滅んでほしいよ。
http://labo.hatenastaff.com/entry/2014/06/03/150635
本来ならページ下に「All Rights Reserved.」の文字があるので転載禁止なんてわざわざ言う必要ないのにね。
運営の方々もおつかれさまです。
一応エントリ上げた者として「増田文学」アカウントは定期的にチェックしていこうかな。
なにか状況に変更があったら追記する。他の増田まとめ転載サイトは別の人に任せる。
無断転載を受けて「俺に一番影響を与えた人」を書いた増田がオリジナルを改変した模様。http://anond.hatelabo.jp/20140604013131
どういう対応とるかは書いた人次第だからいいとして、これで星空文庫がうちがオリジナルだと主張したらどうなるんだろ。
あと転載された増田のどれかがHagex氏作の可能性あり?(ブコメ参照)
「俺に一番影響を与えた人」以外の9編が6/4付けで更新されているのを確認。
たぶん各作品ページの一番下のほうに元エントリのURLが追記されたっぽい(リンクはなし)。
一覧ページに文章追加あるの今気づいた。転載者本人?のメールアドレスあり。
星空文庫運営から問い合わせを受けており、tumblrに移転したら星空文庫からは消すとのこと。
とりあえずid:hagex氏にIDコールしてみる。これでいいのかな。
許可を受けたものもあるとのことなので、無許可の増田作者に向けての呼びかけ?
もうこのエントリ読んでる人あんまりいなそうなので、ここから周知するのは無理か。
転載した人は思うことあったら増田でもどこでもいいからエントリ立てて書いてみたら?
今回の件のブコメでもCCライセンスを取り入れてはどうかなど、意見を出している人もいた。
転載する側の意見というのは、少なくとも自分は聞いてみたいです。メールはエラー出て送れなかった。
(idコールするまでもないのでカタカナで)ハゲックス氏のブコメ返信、今気づきました。そちらこそお疲れさまであります。
6/4に追記した改変を知らせる増田はすでに消された模様。
しばらくはウォッチし続けるつもりだけど、もう動きないかもしれないな。
当エントリは元記事を書いた増田たちに向けて周知するためなので、消すことはないです。
時間が経ってからこのエントリを見つけて、自作のエントリの転載やめさせたいという増田作者がもしいたら
http://slib.net/a/11524/にあるメールまたは星空文庫の運営まで問い合わせをするとよいです。
徹底した自己開示と執拗な自己解釈による独演を社会に提示した喪服の死神。
幼少の個人的出来事からネット右翼、アベノミクスまで論じ上げた喪服の被告人意見陳述は、他者による分析を拒む防壁として構築されたが、ひとつだけ、さらりと流されて違和感を放つ、セクシャリティのカムアウト。
陳述で同性愛を告白し、ボーイスラブ系二次創作での人気に執心したことを事件の発端とするも、彼はセクシャリティに関してだけは、言及を拒む。
自分が「手に入れたくて手に入れられなかったもの」について列挙しておきますと、上智大学の学歴、バスケマンガでの成功、ボーイズラブ系二次創作での人気の3つになります。
…
31年前に同性愛に目覚め、同じ年に母親から「お前は汚い顔だ」と言われ、26前に「聖闘士星矢」のテレビアニメを見たいとお願いして父親に殴り飛ばされ、24年前にバスケのユニフォームに対して異常なフェチシズムを抱くようになり、22年前にボーイズラブ系の二次創作同人誌を知ったという積年の経緯があります。
…
自分に対して理不尽な罰を科した「何か」に復讐を遂げて、その後に自分の人生を終わらせたいと無意識に考えていたのです。ただ「何か」の正体が見当もつかず、仕方なく自殺だけをしようと考えていた時に、その「何か」の代わりになるものが見つかってしまったのです。それが「黒子のバスケ」の作者の藤巻氏だったのです。ですから厳密には「自分が欲しかったもの」云々の話は、藤巻氏を標的として定めるきっかけにはなりましたが、動機の全てかと言われると違うのです。
「手に入れたくて手に入れられなかったもの」「何か」「自分が欲しかったもの」。
執拗な自己解釈を行う喪服が、ひたすらに言及を拒む「何か」は、すなわち、セクシャリティの肯定である。
喪服のまとめサイト的な自己ツッコミは、非モテ的自意識には向けられて、彼は饒舌にウェブ上に氾濫する非モテキモオタの類型コピーを演じて見せるが、一方で、自らのセクシャリティたる同性愛については、まるで《安価》が付けられていない。
本来なら最も語られるはずの内心、セクシャリティが鎮座する位置は、自らを汚物とみる自意識に代替されている。
動機について申し上げます。一連の事件を起こす以前から、自分の人生は汚くて醜くて無惨であると感じていました。それは挽回の可能性が全くないとも認識していました。
汚くて醜くて無惨、自らを汚物と信じた喪服。
もし彼が自身と違う肉体を持つ他者に性欲を向けること、例えば空想の中でオークに成り代わり女騎士を犯すことで充足できるセクシャリティなら、あるいは始めから性的な身体をもつと社会的に扱われている性別なら、自らの身体性が「汚くて醜くて無惨である」と信じながらも、少なくともはじめの一歩を踏み出すことはできただろう。
ヘテロセクシズムに覆われた社会において、セクシャル・マイノリティは「自分はセクシャルな存在である」と現実世界に足を踏み出せない限り、または誰かが手をさしのべてくれない限り、それがマイノリティとして否定された経験だったとしても、はじめの一歩を得られなければ“セクシャリティあるもの”として存立できない。
彼の「本当のセクシャリティ」は否定すらされなかったかもしれない。喪服は何の理由もなく、つまり、ホモ、オカマと罵られたのではなく、身体的なものをあるがままに、母親に汚い顔だと罵られた過去を呪った。それは純粋な身体性の否定であってホモフォビアとの遭遇ですらない。
ホモフォビアとの遭遇は、「ホモと笑われるのが辛かった」と、その苦しみを語ることで、自らを疎外されたマイノリティとして位置づける。
喪服の空想におけるセクシャリティは、思春期にボーイズラブによって徹底的に肯定された一方で、彼の現実のセクシャリティ、喪服が“手に入れたくて手に入れられなかった”身体性の肯定は、同性愛の自認と同時期に行われた“汚い顔”と身体的否定によって抑圧される。
自らを汚物と信じた喪服は、現実のセクシャリティ、それによって他者と繋がる身体性を否定して、汚物は誰かを愛することもできないと、性愛を禁じてすらいる。
自分は愛する人を失ったのではなく、愛する人が初めからいないのです。ここ15年くらい殺人事件や交通事故の被害者遺族が、自分たちの苦しみや悲しみや怒りをメディア上で訴えているのをよく見かけますが、自分に言わせれば、その遺族たちは自分よりずっと幸せです。遺族たちは不幸にも愛する人を失ってしまいましたが、失う前には愛する人が存在したではありませんか。自分には愛する人を失うことすらできません。
LGBT当事者の書籍として頻繁に持ち出される「ボクの彼氏はどこにいる? - 石川大我」と比較すれば、タイトルに違いが現れている。
今ではオープンリーゲイを公言する政治家である石川大我が、自分は人を愛するに足る存在であると信じることができた一方で、喪服の語る言葉は「愛する人が初めからいないのです」である。
愛する人がはじめから喪われている、すなわち、自らの性愛が喪に服しているからこその喪服の死神であり、一文字で暗喩された「喪」とは非モテを示す。
2000年代、2ちゃんねるやはてななど、ウェブ上で隆盛した「非モテ」とは、自らの身体性あるいは性価値に対する自己否定、キモいと罵られた汚物のような人間は誰かを愛するにも不足するという絶望を、自らに対して自己否定のレッテルを貼り付けることで自己肯定に転嫁する、クィアにも似た試みであるが、やがて、彼らにはじめから内包されていた自己否定によって自壊した。
あくまで非モテと呼ばれたことで、モテるか否か、恋愛関係にあるか否かという状態や能力について論じられてしまった非モテだが、彼ら非モテ、あるいは非リアといった類似物も含めて、彼らは「そうであること」に価値を見いだすのでは無く「そうでないこと」によって存立し、非モテを成り立たせていた人々は状態や能力を求める人間ではなく、藁にもすがる思いで自己否定のレッテルに飛びついた人々である。
自分がどれだけ汚物か、気持ち悪いか、失敗しているか、誰かの指摘に先んじて自己開示をし、誰に言われる前に自らを否定する、終わりなき自己否定のスパイラルは、非モテの名の下に集った人々に、わずかばかりの肯定を与えた。
自己否定のレッテルにより肯定される彼らの自意識の中核にあるものは、唯一、自らをキモいと思い込まざるを得なかった幼少期の経験に由来している。
しかし「生まれたときから罰を受けている」という感覚はとてもよく分かるのです。自分としてはその罰として誰かを愛することも、努力することも、好きなものを好きになることも、自由に生きることも、自立して生きることも許されなかったという感覚なのです。
…
幼少期、まだ子供の非モテたちに向けられたキモいという言葉は、思春期、セクシャリティが開花する時期を真っ黒に塗り潰す。
汚物に等しい人間は誰かを愛するにも不足するという絶望は、彼らのセクシャリティを現実を生きる他者に伝えることを禁じて、彼らの性愛は空想へと向けられていく。
本来ならば健全なセクシャリティが鎮座する位置は、自らを汚物とする自意識に取って代わられ、歪な自意識は癒やされること無く成長と共に発展し、ウェブ上で隆盛したモテない男に由来する数々のミームに乗っ取られた怨執甚だしい精神構造を完成させた一方で、耽美な世界を描いたボーイズラブ系二次創作を愛した喪服の死神。
現実では“自分のような汚い顔のキモブサメン”と自嘲して、空想では女性の世界の性愛に耽溺している。
喪服のチグハグなセクシャリティの表出には、彼の現実と空想、性の繋がりを感じさせない。
「何か」が欠落してしまっていた。
ウェブ上での自己開示および匿名の対話者からの反応を慰撫とする行為は、今や誰もが行っており、本来なら十分にウェブの中で機能して、現実世界で怨執を露呈する必要はない。
だが、喪服の自意識の歯車は、ウェブの言論歯車と噛み合わなかった。
喪服の自己対話は精緻であって、他者の解釈に先回りして応答し、全体としては分析をさせる余地を与えないほど堅牢であるも、彼の脳内にインストールされたウェブ言論と、彼自身の対話においては、歯車の噛み合わないチグハグさが漏れ出している。
このチグハグさは、喪服が扱ったネット用語に明瞭に現れている。
さらに自分は生まれてから一度も恋人がいたことがありません。その道のプロにお金を払うという手段を含めても性交すらしたことがありません。恋人いない歴=童貞歴=年齢です。自分はネットスラングで言うところの「魔法使い」です。
喪服が自らの性について語る言葉は徹底してウェブ上の異性愛社会で用いられる言葉であって、セクシャル・マイノリティの為に用いられる言葉は現れない。
自らを異性愛者の視点から「同性愛者」と規定し、異性愛者の非モテが用いた造語で「キモメン童貞魔法使いw」と自嘲し、「ボーイズラブ系の二次創作」と腐女子の言葉で性指向を空想している。
喪服の自己対話には、セクシャル・マイノリティが自らをセクシャル・マイノリティとして規定する言葉が、どこにもない。
というより、喪服がウェブで本心を語ろうとも、それに噛み合う言論の歯車はあっただろうか。
非モテから同性愛者を斥けてミソジニーとホモソーシャルの産物と断罪するセクシャリティ論。
女性たちのホモソーシャルであるボーイズラブ系二次創作の世界。
最後だけは、本当に、ひとつだけ、自己否定のトンネルのなか視野狭窄した彼が自らのセクシャリティの本心を発露して、肯定されうる場を見たならば、思春期から愛し続けたボーイズラブ系二次創作を介した他者による肯定だったのかもしれない。
しかし、喪服が創作するには、表現の原動力たる空想の世界は耽美であるも、空想と同一の肉体を持つ彼の身体性は汚物であって、空想と現実を繋ぐ彼の言語空間はウェブ上で構成された非モテミームに乗っ取られており、格差は恨みを募らせていく。
喪服が、セクシャリティの肯定を得るために行わなければならなかった努力。
本当なら、とても近しい接触によってなされるセクシャリティの肯定は、喪服においては、女性たちが作る社会における創作の表現に対する賞賛という、とても遠い彼方からの肯定の可能性が、ただひとつ、自己否定のトンネルに差す光として見えるのみ。
もしも努力の果てに肯定が得られたとしても、彼に与えられるのは二次元のベールを通した、空疎であたたかみの無い接触である。
喪服は、呪っただろう。
喪服が手に入れたくて手に入れられなかったセクシャリティの肯定を、可能性として見いだしたボーイズラブ系二次創作の賞賛を得る者を。
空想における愛情は、現実における怨執へと置き換わり、耽美な世界で肥大化した自我は、現実世界の自己表現を求めて、自走する。
喪服が見た光の絶望的な遠さは、彼が呪いを向ける対象への距離に変わった。
喪服に残された肯定的な表現手段は、呪いを振りまく脅迫状の郵送に変わった。
喪服が望んだ「何か」、口にすることすら拒んだ人の暖かみによるセクシャリティの肯定は、自己否定の結末として、無機質な統治権力による罰として具現化する。
恐らく重度のネット依存だった喪服の実生活、喪服が生きた思い出の中にも、彼のセクシャリティを、わずかにも肯定した「何か」は存在しなかったはずだ。
喪服は、斑目晴信がオタク濃度を感じたように、キモオタが秋葉原に得るしっくりと来るさまを感じ取ることが出来ただろうか。
喪服は、ボーイスラブ系二次創作を手に取るとき、美しい男を愛する女性の為に作られた空間に踏み入れた、汚物に等しい男を見る目に、何を感じ取っただろうか。
喪服は、自覚することはなかっただろう。
喪服は、徹底して、自らのセクシャリティを、完膚なき自己対話によって、自己疎外した。
執拗に繰り替えされる自己解釈は、彼が求めた「何か」の中核を、自らに気付かせないための自己防壁として機能する。
自己疎外された人々が、自らに自己否定のレッテルを貼り付けることで、健全な精神をギリギリのところで保った非モテの論理。
2000年代に爆発的に流行し、2010年代の始まりと共に終わった非モテは、童貞を中心とするヘテロセクシズムであり、同性愛者の喪服を救わなかった。
喪服が愛したボーイズラブは、あくまで女性のホモソーシャルの世界であって、男の喪服を救わなかった。
セクシャリティを否定された者たちが、自らを疎外されたマイノリティと位置付けて語るLGBTは、セクシャリティのはじめの一歩を踏みだせた者たちのための論理であって、非モテの喪服を救わなかった。
《身長×体重×年齢》と、身体性をコード化して他者と繋がる様式を持つゲイ社会は、身体性を否定された喪服を救わなかった。
身体性を否定された喪服がセクシャリティ育むべき思春期に愛したものは、空想における同性愛であり、彼を耽美な世界に誘い込み、彼の自我を肥大させて、現実を呪った。
面白いな、と思って見てたんだけど、いくつかのブコメが結構危ういなと思ったので、
なぜそう思ったのか、自分の中で整理しておきたい。
kyoumoe
それがどうしたとか言ってる馬鹿は「これは男の性欲を具現化した女性差別の象徴だ!!!!!」みたいなこと言ってるやつを全員黙らせてこいよ。男だからこそ女性差別ができるみたいな考え方の馬鹿は全員死ね。
okbc99
“例えばアメリカの学会誌表紙が黒人や黄色人種の掃除アンドロイドだったらというのを想像してほしい。”これで伝わらない人もいるのか……。
特にこのお二人に思うところはないが、判りやすいポイントだと思ったので。
まず、kyoumoeさんの意見はどちらともとれるので難しいが、
「このイラストレーターがどのような意図で描いたか」を想定して話すのは、酷く危険だと思う。
イラストレーターのバックボーンが明示されていない状況では、話すとしても一般的な仮定を用いて話すべきだ。
つまり「表紙のイラストは発注者の意図に基づいて描くものだし、学会誌の表紙になるイラストは、学会誌の意志決定者が採用の有無を判断する」
こういう仮定を置いた場合、イラストレーターをこの話題の渦中に置くのは、誤っている。
同様に、「人工知能学会に所属している研究者は」と主語を大きくするのも、誤っている。
例えば、この増田を読むのはほとんどが日本人だろうが、「日本をあげての性差別に見える」とされれば異を唱えたくなるだろう。
okbc99さんがどちらの意見かは判らないが、例示に賛同しているようにとれる。
これは、話題が異なるので、同質であると思う場合は、そのポイントを説明する必要がある。
少し判りにくいので、3例を示す。
例えば、1番を批判する意図で3番を例示して「同質だと判らないのは、理解力が足りない」という非難は的外れだろう。
なぜならば、人工知能学会誌には、扇情的なポーズの裸の掃除アンドロイドは描かれていないからだ。
同様に、1番を批判する意図で2番を例示するのであれば、
「日本での箒を持った女性のロボット」と「アメリカでの黒人や黄色人種の掃除アンドロイド」が同じ意味を持つと説明できなければならない。
批判する場合には、暗黙の前提は出来るだけ無くして、同じ前提を共有しなければ、すれ違いになる。
(2番は、暗に「黄禍論や黒人奴隷の歴史を考えれば、政治的な主張以外で米国では表紙になりえない」という前提を置いているのではないか。
後述するが、さらにここには暗に「掃除という作業」が差別的な表現であるという前提をおかなければ成り立たない)
悪意を持たずに解釈した上で、さらに非難/批判する点がある場合には、前提を共有する努力を怠らないこと。
例えば、この人工知能学会誌の表紙は、素直に解釈すれば以下のような意図を示しているだろう。
この場合、本が明らかな作業手順書ではなく、棚に入っている一般的な本(人間の知識)に見えること、
箒を持ちながら読んでいる(作業中に違う行動を取る)ことは、使役される立場から人間と同様に知識を得る、
(もしかすると、好奇心や面白いと思う情動すら)いずれロボットが獲得するであろう、
人工知能学会は、そういったロボットを作り出す基礎研究をしている場なのだ、という自負にも見える。
(個人的に人工知能学会誌の表紙に相応しいイラストだと思っているため、後半はかなり好意的に解釈してしまっているが。だからリストからは外した)
Togetterまとめは攻撃的すぎると思ったため、HUFF POSTの記事から引用する。
saebou @Cristoforou
この表紙むちゃくちゃ気持ち悪い。こういう表紙にするって決めた人たちの中には女性の学会員はいたんだろうか?女性のロボットがつながれてて家事をしてるってヘテロ男性の性幻想丸出しだよね。
http://www.huffingtonpost.jp/2013/12/27/artificial-intelligence_n_4506691.html
「ヘテロ男性の性幻想」に触れる前に、差別の話を振り返っておこう
差別には明確な定義が存在しない為、性差別という単語に、どういった意味があるかは、人によって異なる可能性が大きい。
ここでは「ある集団からの除外行為や拒否行為、ある集団に属させようとする強制行為」を指すとする。
このため、「性差別とは、性別や性的指向によって除外/拒否/強制される行為」とする。
こうすると、例えば「女性は男性より力が弱いことが多いので、力仕事を男性に割り振る」ことは区別であり、
「女性だから力仕事を選べない。男性だから力仕事を拒否できない」ことは性差別であると言える。
(あくまでも上記の定義の範囲内であるから、「性差別」と表現する人の全てが同じ意見と推測するのは危険)
この上で、先ほどのsaebouさんの発言を「批判」と捉えるとすると、いくつかの条件が暗に仮定されている。
なぜならば、人工知能学会誌の表紙は、性別によって除外/拒否/強制が行われているイラストではないからだ。
(もちろん批判ではなく、好悪の表明である可能性もある。「私は嫌いだ」と「この表紙は非難に相当する」は異なる)
この場合、「家事をする」という行為が、性差別的であるという前提条件が必要になる。
これは、先に挙げた「アメリカで、黒人や黄色人種の掃除アンドロイドだったら」という表現とも共通になる。
(個人的には、黄色人種でなくヒスパニック系が例示として適当だと思うし、またアメリカではその意見の表明こそが差別的であるとは思うが、別の話になる)
例えば、「南アフリカ共和国で、この表紙を採用した」場合は、白人への侮蔑的な表現だと過激派から攻撃の対象になる可能性がある。
これは、アパルトヘイトで苛烈な人種差別に晒された歴史から、未だ人種差別意識が根強く、またロボットは奴隷を容易に想像させるからだ。
つまり、差別的な表現とは、表現する場所における背景が重要であるし、それは世界中で同質だと捉えて良いものではない。
すると、以下のような前提条件が必要になる。(全て「日本においては」がついている)
3つの前提を置くと、ケーブルで繋がれた女性ロボットが、掃除を行う行為は、性差別を表現している、と推測する事が出来る。
ただし、先ほどの3つの前提は「掃除という作業に対する、職業差別である」とはすぐには言えない。
差別とは背景情報が重要であると前述したとおり、日本における「家事」の背景情報を知る必要がある。
ここでは大枠で振り返るが、1950年代より女性は低賃金で働くのではなく「家事」と呼ばれる家の作業を行うライフスタイルが推奨されだした。
1970年代に入ると、政策も含めてそれは性差別(性別によってライフスタイルを強制される)と言って良い状況になったと思う。
すなわち、日本において「家事」とは「専業主婦に代表する、性差別の象徴」と捉えられる可能性がありうる。
これは、現代において性差によって賃金格差が無く、ライフスタイルの強制がほぼ行われていなければ、職業差別であるという批判に相当する。
しかし、未だ性差による賃金格差がある現状では、「家事とは、性差別の象徴である」という意見は相応の妥当性がある。
すなわち、「掃除をするいかなる人種、性別を描いたとしても、同様に差別と批判されるのではないか」という意見は、
もちろん、上記の前提条件は、暗黙に仮定して良いものではない。明示する必要がある。
(明示しなければならない現状は教育環境が整っていない、という批判はできるが、前提条件を共有できていない相手に対して非難する事とは異なる)
「他に比べて劣った作業(奴隷的な労働)」と書いたのには理由がある。
例えば、「掃除とは、奴隷的な作業だ」と表明することは、職業差別だ。
業として清掃作業を行う人達は、他人の所有物ではないし、売買の対象にもなっていない。
「賃金格差がある」ではなく、「劣った作業である」と表現するのも、差別的な表現と言える。
これは、「家事を女性が行う仮定は、性差別である」と「家事とは、奴隷的な作業である」が異なるという事でもある。
つまり、「家事とは、社会的に尊敬の対象となるし、賃金的にも恵まれている」と仮定したとしてもなお、
「女性だから、家事を強制されるのは、性差別」と言える、という事だ。
「女性だという、性別によって家事を強制される」ことは、性差別と言えるが、
「(掃除を含む)家事は、劣った労働である」という意見は、職業差別と言える。
「性差別とは、性別や性的指向によって除外/拒否/強制される行為」とした場合、
「ヘテロ男性(より穏やかな言い方であれば異性愛を指向する男性と表現できる)」だから、性幻想を持つ、というのは、性差別である。
なぜならば、異性愛、同性愛、両性愛などの性的指向を持つグループは、こうである、という批判になるからだ。
つまり、「専業主婦に代表される家事の性差別を肯定するのは、ヘテロ男性である」という仮定は、性差別だ。
(なお「それが事実である」という反論は、むしろ、差別を肯定していると言える。現に女性は家事をしているじゃないか、という指摘と同質だからだ)
という表現は、
「ロボットが繋がれて」という表現は「奴隷(強制された労働)」を容易に想像しうるし、
性差別を批判する際に、その表現の中に性差別を含んでいるからと言って批判そのものには影響しないが、好ましい態度では無いと思う。
同様に、攻撃的な表現は避けるべきだと信じる。
「バカは」「愚かならば」「カス」と言った表現は、攻撃的である。
「男性だから」「科学者だから」「理系だから」と言った表現は、差別的である。
上記のような、(長くなってしまったが……)前提条件を置いた上で、なお、批判すべき点があるとすれば、
いずれ家電としてロボットが普及する世界で、ロボットは作業機械という意味合いを越え、知識を自ら学習するだろう、
その基礎を研究するのが人工知能学会だという主張を表紙のイラストに持たせたいのであれば、
日本においては、未だ性差別的な意味合いを取られがちの「家事」を連想させるものに「女性」を置かない方が良かった、となるだろう。
(例えば、背景に男性ロボットが同様に働いている様子を描く等、回避手段はいくつか思いつくだろう)
この件で、日本の理系研究者を非難するのは、主語を大きくしすぎだと思う。
自分が嫌いなイラストだという事と、性差別的なイラストだと非難する事とは、異なる。
また「家事は女性がすべきだと思ってるんだろう、若ければ若いほど良いんだろう」という推測は、邪推と言って良いと思う。
ただし「女性ロボットが掃除を行っている表現は、性差別的な「家事」を連想させ、肯定している態度ではないか」という批判は、成り立つ。
「掃除は、奴隷的な作業である」ならば職業差別だし、「ヘテロ男性だから」というのは性差別である。
差別的な表現や攻撃的な表現を含んだ批判は、攻撃と言って良いと思うし、差別を批判する態度として好ましいとは思えない。
日向清人さんという英語教師がいます。NHKビジネス英会話の講師も勤め、著書もあり、慶応大学で英語を教えているという経歴的には申し分ない御仁です。
その彼がしきりに主張するのがワイングラスの持ち方。
日本では柄の部分を持つべきだという風潮が強いが、国際的にはボウルの部分を持つ人々が多いし、それがマナーだというのが骨子。
http://eng.alc.co.jp/newsbiz/hinata/2013/06/post_55.html
http://web.archive.org/web/20091117060438/http://eng.alc.co.jp/newsbiz/hinata/2009/11/post_55.html
オバマ、ブッシュ、ベルルスコーニなどセレブの写真を引っ張りだしてきて説得力を与えています。
感化された記事も多数
http://matome.naver.jp/odai/2137486003334108301
http://www.nomooo.jp/blog/?p=16119
http://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q1237071067
ウィキペディアまで
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%AF%E3%82%A4%E3%83%B3%E3%82%B0%E3%83%A9%E3%82%B9
アサヒビールに至っては記事を修正している
http://web.archive.org/web/20090710001236/http://www.asahibeer.co.jp/enjoy/wine/know/manner/09.html
http://www.asahibeer.co.jp/enjoy/wine/know/manner/09.html
しかし英語で"how to hold a wine glass(ワイングラスの持ち方)"とググれば明らかなように
https://www.google.com/webhp?hl=en#hl=en&q=how+to+hold+a+wine+glass&safe=off
正式には柄の部分を持つという主張が英語圏では普通に見られます。
日向センセーの記事に紹介された人物たちの中にも、「不適当に」ワイングラスを持っている例はたやすく見つかります。
ジョージ・クルーニー: http://jp.reuters.com/article/idJPTYE87R01020120828
エリザベス女王: http://www.telegraph.co.uk/news/features/3637378/State-Banquet-a-feast-for-all-of-the-senses.html
バチェレ(元?)チリ大統領: http://www.thepresidency.tt/events_and_ceremonies.php?mid=179&eid=585
ミシェル・オバマ: http://www.michellesmirror.com/2013_06_16_archive.html#.UpFmjCfRLHs
キャサリン英王妃: http://www.businessinsider.com/royal-baby-kate-middleton-and-prince-william-photos-2013-7
フアン・カルロススペイン国王: http://www.que.es/mejor/2009/fotos/rey-juan-carlos-cumple-anos/20100105/55445-juan-carlos-inauguracion-ciudad-del.html
ここで普通の知性ある人間だったらどのような結論を導き出すべきなのでしょうか?
「柄の部分を握るのがワイングラスの正式な持ち方だけどボウルで保持するのはマナー違反じゃないし楽しく飲もうよ」
ぐらいな論調に落ち着くんじゃないでしょうか。
「シャンパングラスであれワイングラスであれ、立っていようと座っていようと、ともかく、グラスはカップ状の本体部分を持つのが当たり前です」
「国賓を招いての晩餐会という、外交儀礼上、最も格式の高い場での元首たちの振る舞いからわかるとおり、カップ状の本体部分を自然に持つのが実は正統派であり、ステムを持ったりする方が逆に異端なのです」
などという独自研究を振りまき、それを真に受けてしまったワナビー国際人が自説を披露する事によって恥をかき、日本人の国際化はちっとも進まず、グローバルでエクセレントな英語教師のメシのタネは尽きないという一連のサイクルが展開されるのは誠に香ばしい限りであります。
http://eng.alc.co.jp/newsbiz/hinata/2013/06/post_55.html
安部首相・金正日・ガーナのクフォー大統領を「ステム持ち」として欧米セレブの「カップ持ち」に対比させているのは味わい深いです。
「ステムホルダーが主流というわが国はアフリカの流れを汲んでいるのかも」
などというコメントは未開人の暗喩に富んでおり、「バナナ」たる帰国子女の面目躍如といえましょう。
http://eng.alc.co.jp/newsbiz/hinata/2010/11/post_764.html
「呪文を日に5回の祈祷の度に唱えるとなれば,一種洗脳されることでしょう。神には絶対服従だと。事実、islamのアラビア語の原義はsubmissionと説かれますし、Karen Armstrong というこの分野の権威に言わせると、islam = surrender だそうです。そこに宗教指導者たちが神はアメリカが悪いと言っているなどと刷り込めば、こりゃ自爆テロでも何でもやるだろうなと感じます」
という事になるそうですが、ここで日向先生が引き合いに出しているカレン・アームストロングは専門が比較宗教学であり、
「どうして爆弾テロやハイジャックといった無垢の市民の殺戮が(起こるのか)?イスラムの是認するところとは大きく異なり、こうした殺人はイスラムの最も神聖な教えに反しています」
http://content.time.com/time/magazine/article/0,9171,175987,00.html
と断言しています。イスラム=降伏なんていうのは彼女の自説でもなんでもないし、かの宗教と暴力の結びつきを強調したいのなら山ほどネタは見つかるはずですが、日向先生ともなれば独創的な読解力の持ち主なのでしょう。英語話者に通じるかどうかは私も存じませんが・・・。
shall と will の使い分けなんてのも日向先生は得意なようです。
「契約書の場合は、本当ならSHALLはhave a duty toという意味のときだけ使うべきなのでしょうが、実際は細かく使い分けずに終わっています。例えば、私が法律事務所で翻訳をやっていた時代は、契約書の英訳はひとまずすべてSHALLを使ってしあげたものです(従って実に楽です)。その次のステップで、弁護士の中には自分のクライエントが関わる義務規定についてはSHALLをWILLに直したりする人もいましたが、たいていはそのまますべてがSHALLという形で使われていたとおぼえています。なおWILLを使ったからと言って規範的な意味合い、つまり「何々すべし」という意味あいは変わらず、単に語感として相対的に弱い感じがするという程度の話でしょう」
http://eng.alc.co.jp/newsbiz/hinata/2005/05/shallwill.html
"Did you know that "shall" is the most misused word in all of legal language?"
"Some suggest that lawyers are incapable of using "shall" correctly, so we ought to banish it entirely"
http://www.utexas.edu/law/faculty/wschiess/legalwriting/2005/05/shall-vs-will.html
などとほざいてますが、栄えある慶応義塾大学のスーパー講師である日向先生の言うことに耳を傾けた方が吉かもしれませんね(棒読み)
おまけ レディガガ(笑)
http://greatwinenews.com/lady-gagas-favorite-wines-revealed/
2回目以降見るなら気にしたらいい所々
・常にまどか(と同じシーン)に監視しているQB
・序盤の映像の異常さ(隣の教室に人が誰もいない。魔女空間特有の物がある等。)
・目に注目して見るとより楽しめる
・各魔女の持ち物と思われる遺品(物品)が連続で表示される
・映画冒頭のバレリーナのうち1人がまどか(真ん中左より)
・初戦ナイトメア空間すぐの『welcome to cinema』京さやの次のシーンに小さくマミサンが写るらしい。
、ドアをくくった後左中にマミさんべべシャルがいる。
・べべの紅茶が爆発のシーンでほむらの時間停止、まみのリボンのコンボが発動している
・事あるたびに強調されるマミさんのOPPAI
・OPでデビほむの影が映る(ほむらが、歯車につながれているシーンの直後)、デビほむイヤリングOPの最後
・はじめの風景が変わって行くシーンで、終盤の塔が映っている。
・転校初日は白ハイソックスだったほむほむがいつの間にか黒タイツに変わってる
・仁美メア前のまどほむは、ワルプルギス前の二人の会話(一ヶ月だよね)
・仁美メア前の集合シーンでQBを威嚇するべべ
・さやか、リリアン きょうこ、編みこみ結界 まどまみ、ティロ・デュリェットの演出等(ナイトメアに関するするものすべて)が手芸に関するもの
・ほむらの能力が速攻受け入れられる(過去ループだと上手くいってない)
・べべ「モジョモットカマンベール!」
・変身シーンがいろいろと面白い
・変身シーンの少女漫画風☆魔法少女まどかが可愛い.あんこちゃんのモンキーダンスがツボ
・それぞれの変身シーンで流れる曲がそれぞれのテーマアレンジ(まどかは女神まどかの曲のアレンジ)
・マじカルバナナの時のしぐさ
・仁美ナイトメア撃破後、マミさん「今日だって危なかったんだからっ(?)」の時、まどっちのテヘヘが可愛すぎる
・メガほむと杏子が会話してるシーンで話が進むにつれ、机の上のコップがだんだん増えていく
・後編魔女文字EDの枠のデザインによく似ている
・ペロペロキャンディーは眼鏡を外した時点で消失
・メガほむ違和感感じたと同時に歯車落ちる(世界が壊れる予兆)
・杏子の色の風船が飛んだあと、黄色・緑・青・ピンク色の風船が飛び立っていく
・「巴さんとベベはいつから?」と聞いた後に、最初の全画面QB顔
・マミさんがお湯沸かしに行く時にリボン出す(画面左下)→急なイメチェン、紅茶を急いで飲む、怪しい所を察していた
・ベベを誘拐して外に出るときのほむ最初の台座がシャル戦の足場と同じ
・マミ戦始める前にすでに街が壊れ始めてる(時間停止解除後)
・ざくろを投げつけられるほむら
・Do you Enjoy the Movie?の文字
・本編にあった噴水のシーンでまどかがほむらに「相談に乗るよ」という(本編だと逃げられた)
・花畑のシーンの会話
・スマホを捨てた時に、そのスマホがひらひらと落ちて黒い羽根(ホムリリィの羽)に変化(スマホが羽のように落ちてゆく)
・怒りで次々変化していくシーン
・パ!パパパパパルミジャーノ・レッジャーノ!でなぎさの脚が出る
・ホムリリィ戦にさやかとなぎさが連れてきた他の魔女の使い魔多数
・オクタヴィアが杏子の巨大槍装備(きょうさやの会話後)
・ティロフィナーレの反動で、カップの上のケーキが吹っ飛ぶ。
・ティロフィナーレ列車砲,着弾の衝撃波に巻き込まれる恵方巻きなぎさちゃんが、吹き飛ぶ(細長い渦みたいなの。爆散直後左側)
・一緒に弓を撃つシーンでのふたりの会話の擦れ違い(まどかがそばにいればどんな姿になろうとも怖くない、もう躊躇ったりしない)
・円環間際、中沢(上条仁美と同じシーン)も含め先生もちゃんと戻ってきてる
・鳥っぽい使い魔が中沢?の椅子の下敷きになってもがき苦しんでたw
「SGが呪いよりもおぞましい色に染まっていくのです・・・!」
SGは穢れを溜め込みすぎてダークオーブへと変化したのではなく
募らせていった愛によって、巻き取ったまどかの因果の糸(人間としての記憶)と共にDOへと変化してた
・悪魔改変後の世界で誰が魔法少女続けられてるか〈全員確定〉他は意図的にぼかされてる?〉
「あの子にも嫌われるわよ?」のシーンでは、黒い羽根が降っているにも関わらずほむらの目には白い羽根が写っている
・最後、まどかが転校してきた時の最初のBGMの不協和音アレンジ
・最後の一人ルミナス(BGMはまだダメよの寂しいVer)
・QBの目が濁っている
・OPの世界に色を与える手
一回目→まどか?
二回目→ほむら
白い羽根がまどかを表すのは間違いない
中盤、ほむらが「まどかの記憶を捏造できるのは~」と言うときに
白い羽根が箱に入った描写がある
神と悪魔を対比させるように、ほむらの黒い羽根とまどかの白い羽根が対比になってる
「あの子にも嫌われるわよ?」のシーンでは、黒い羽根が降っているにも関わらず
ほむらの目には白い羽根が写っている
まどかのことを指していることを表している描写だろう
その他
・なぎさ変身シーン前の魔女文字
MAHOU
SYOUJO
GILY
SOUL JEM
PEPPER
SAUCE
HOPE
貴方
砂糖
胡椒
無邪気
ほんのちょっとの塩
・ほむら変身時に現れる魔女文字
LCH (ICH?) TOTE MICH
SIE VERHERRLICHEN DEN TODV (TOD?)
ZU MEISTERN
I kill myself
they glorify death
to master
彼ら(=QB)は(私の)死を褒め称える
(円環の理を)制御するために
・小道具
ざくろ…花言葉 愚かしさ、優美
りんご…実言葉 誘惑、好物
タンポポ…花言葉「別離」綿毛が飛ぶ様子からつけられ花言葉は「愛の神託」
ざくろを投げていたのは愚か者に物をぶつける感じだね
街の子供がまどか石像にザクロ投げる時に言ってるのは、Gott ist tot!。ニーチェの言葉で「神は死んだ」
りんごを拒否したのは仲間を持つ誘惑を拒否
・劇中の白い羽
白い羽根がまどかを表すのは間違いない
中盤、ほむらが「まどかの記憶を捏造できるのは~」と言うときに
白い羽根が箱に入った描写がある
神と悪魔を対比させるように、ほむらの黒い羽根とまどかの白い羽根が対比になってる
「あの子にも嫌われるわよ?」のシーンでは、黒い羽根が降っているにも関わらず
ほむらの目には白い羽根が写っている
まどかのことを指していることを表している描写だろう
・お弁当
べべ : サントイッチ
マミ : 和風弁当
ほむら : ジェム弁
きょうこ: コンビニパン
まどっち:キャラ弁
ほむほむ:たけのこ弁当
さやか:SG弁当
・プロローグ(?)
希望を願い、呪いを受け止め、戦い続ける者たちがいる。それが魔法少女。
奇跡を願った代償として、戦いの運命を課された魂
その末路は、消滅による救済。
いつか訪れる終末の日、円環の理の導きを待ちながら、私たちは戦い続ける。
悲しみと苦しみばかりを繰り返すこの救いようのない世界の中で、あの懐かしい笑顔に再び巡り合えることを夢みて。
・まどほむ会話
ダメだよ、ほむらちゃん
ひとりぼっちにならないでっていったじゃない
私が絶対に見捨てたりしない
だからあきらめないで
ごめんなさい、私意気地なしだった
もう一度あなたに会いたいって
その気持ちを裏切るくらいなら
そうだ、私はどんな罪だって背負える、どんな姿に成り果てたとしても、きっと平気だわ、あなたがそばにいてさえくれば
さあほむらちゃん、一緒に
ほむらちゃん、怖くない?
ううん、大丈夫。もう私はためらったりしない
・上約
花畑のシーンで、まどかの「ひとりぼっちは嫌だ」という本心と、
「自分がこの結界を作った魔女」という事を知って後悔・絶望
↓
罪を償う意味も込めて、「魔女になったから殺してくれ」と願う
↓
それでも自分を救おうとしてくれるまどかに、
今度こそ間違いを犯さないようにまどかから円環の力を奪う事を決断
(ほむら「もう私は(まどかを救うことを)躊躇ったりしない」)
・マジカルバナナ
まぁるいケーキはだ(ひゃ)ぁーれ
もにょもにょツベベ?(ケーキハサヤカ?)
ちーがーうっ
あたしはラズベリー
まぁるいケーキは赤い
ケーキは杏子?
ちーがーう
あーたーしはリンゴ
まぁるいケーキはベベが好き
ケーキはマミ?
ちーがーう
私はチーズ
まぁるいケーキはこーろーがる
ケーキは暁美さん?
私はかぼちゃ
まぁるいケーキは甘いですぅ
ちーがーう
私はメロン
今夜のお夢は苦い夢
お皿の上には猫の夢
まるまる太って召し上がれ~
モノモメー
・QB顔大画面
1お弁当のシーン
2まみさん家でお茶会
4お花畑でほむほむが去っていったあと
6デビほむ爆誕して世界再構築してる時に
7最後
ほむら :愛よ
きょうこ:やーいやーい、さやか~
まみ :私は、チーズ
ベベ :マジョマ○コカマンベール!
QB :「「「わけがわからないよ!」」」
CV:吉田聖子
・---
私は朝の夢を見る
まだダメよ (No! Night)
まだダメよ (No! Night)
何色の朝が来る? (No? Yes!)
まだダメよ (No? No!)
まだダメよ (No? No! Night)
まだ夜は食べかけよ (No? Yes, no!)
さぁ おはよう Nightmare (まだダメよ まだダメよ 何色の)
悪いお夢は これっきり (悪いお夢は まだダメよ まだ)---
歌っているのはFictionJunction ASUKA(=結城アイラ)
作詞はイヌカレー
→リスアニより
シャルロッテの結界
委員長の魔女の結界
杏子?空間
まどか磔空間(私はだれ?)
魔女文字(どうでもいいから踊りましょう)
マミ空間(黒地に黄色い花柄)
杏さや
胸糞悪くなる夢をみたんだ
あんたが死んじまう夢を
だけどホントはそっちが現実で、今こうして二人で戦ってるのが夢だって
---
感情が追いかけてくる
もう、輝きと後悔しか思い出せない
・冒頭のナレーション
(アルまどっちの壁画にすがりつくシーンの後に出てくる偽街の子達がなにかを投げているシーンの背景と同じ)
1段目:「** IS** SC**」
2段目:「MORGEN」
表:ほむ魔女の一段目と同じ文字が並んでました。
裏下部:「MADE IN CAY*N*T」(杏子に相談するシーンと同じ)
「WHO AM I」
・一体目のナイトメアが逃げ込む先の扉(まどかの絵の扉の次。)
左の扉(1段目):「DOES NOT」
右の扉(1段目):「MATTER」
左の扉(2段目):「THE LET'S」
右の扉(2段目):「DANCE」
右の扉(3段目):「NOW」
・OPの最後に出るピアスの魔女文字
「*O*U」
上の枠中央:ほむ魔女の一段目と同じ文字
下の枠:「YAGINOKONOYUME」
・変身シーン(サブリミナル):
マミさん:「MAMI」
杏子ちゃん:未確認
ほむほむ_1_1段目:「ZU MEISTERN」
ほむほむ_1_2段目:「***SI*****」(2段目がありました・・・)
ほむほむ_2:「LCH TOTE MICH」(1文字目は私が2回確認した限りでは「L」でした。)
ほむほむ_3:「SIE VERHERRLICHEN DEN TODV」
まどっち:未確認(フィルムの黒いフレームの後になにか見えるので確認中です)
「VERE」「EREI」
・杏子にほむほむが違和感を相談するシーン(「あんたマジなんだな」の前)
「MADE IN CAY*N*T」
313+1 :魔女文字解析_2/3 [↓] :2013/11/04(月) 23:59:58.19 ID:8AftkQx50 (2/4) [PC]
・べべちゃん虐待がマミさんに見つかるシーン(ほむほむがぶら下がってるシーンの背景)
1枚目:「BEBE'S SWEETS」
2枚目:「YA*CS**」(未確認)
※時間停止を解除した後、背景が変わるようになるのですが確認しきれてません
・ボートに乗って流れるシーン(左右対称の背景が出るところ)
左側の文:「**** UNI**** DANK**」(未確認)
・アルまどっちの壁画にすがりつくシーンの後(偽街の子達が出るシーンの背景)
※絵と単語が一致してないかもです。
閉じている窓の絵(右上):SYUKU MEI
閉じている窓の絵(右下):KYU USAI
横を向いてるアルまどっち:ENKAN NO KOTO WARI
窓からまどっちが出てる絵:*********
「1026」
「HANGYAKU」(まどっちの絵が描いてあるポップにある文字)
・船が燃えて沈没しているシーン
(WER TR;aUMTと同じ?)
円形の上部:「D****」(4段くらいあったと思います)
円形の中間部:「KURUMIW**ING******」(多分、「KURIMIWARININGYOU:くるみ割り人形」)
円形の下部:未確認
※他、標識がいくつかあります。---3
・ほむ魔女孵化シーン(カウントダウン前、『私の感情が追いかけて…』)
後ろでくるくる回っている円(レコード?)に4~6個の文が・・・
「KANA***・・・」
・ほむ魔女孵化シーン(カウントダウン後)
1段目:[結界紋章] 「HOMU [**LL*]」([]の中は白抜き部分。HOMU LILLYで確定っぽいですね)
2段目:「HOMU LILLY」
・なぎさちゃんの変身シーン(ミキサーにかかる前の画面右半分)
1段目:「GILY」
2段目:「SOUL JEM」
3段目:「SUGAR」
4段目:「PEPPER」
5段目:「SAUCE」
6段目:「DREAM」
7段目:「HOPE」
8段目:「INNOCENCE」
9段目:「(A LITTLE QUANTITY) SWEET」
※べべの白い噴出し部分が「SWEET」
レシピ外1段目:「P*MAS」
レシピ外2段目:「*****FUL」
レシピ外3段目:「********」
レシピ外4段目:「********」
・使い魔軍団登場シーン(光のような十字の結界紋章のようなものの下・まどほむマジカルスコールも同じ?)
・まどほむ『マジカルスコール』
「DASI***GF」(見づらいため、かなり不確定)
・アルまどっちの壁画がでるシーンの後
「WER TR:aUMT」(:aはウムラウト)
「GERTRUD」(左側のバラのビンに。)
・エンドロール後(終劇とか出るとこ)
「OSHIMAI
ほむらの後悔とはなにか
→まどか契約時のときに、使えたはずの時間巻き戻しを使わなかったこと
それを意識的に使わない選択をした事が今作の動機になってる
ほむらが悪魔化を決意したのはいつ?
→お花畑では、「まどかを概念にしてしまった選択は間違いだった」と認識
(魔女が近いためか、ここでほむらは自分の信じたい言葉だけを聞いてる?)
→QBに観測されるくらいならここで死なせて
→円環される瞬間、まどかの傷だらけの手を見てしまったため(10話の手とリンク)
→まどかを人間として助けるために悪魔化を決意する
→QBに観測できれば干渉できるし制御できるという言葉をヒントにした
→まどかと一緒に一緒に弓を射るシーンで、ほむらのセリフは暗転した場面で云う演出
「あの時どんな手を使ってでも止めるべきだった」
→「この時をまってた」に繋がる決意
ピンクの糸巻きの意味は?
→使い魔が蹴り飛ばしてるのは、円環の理を拒否(抗議?)している
・最後のさやかはなぜ怒った?
ひとりよがりのほむの決断に怒った
→まどかの幼なじみの縁を最後に、まどかを転校生とすることで断ち切ろうとした?
→3年程度じゃ完全に切れないから、ほむらの優しさがちょっぴり出てる?
→英語で赤点をとった(サニーデイライフより)英語を得意にしてあげた?
・転校まどかが最後に鹿目家で荷物をほどいてる
→家族の前で満面の笑みのまどか
→円環の理を否定してまでこの笑顔を取り戻したかったほむらの想い
・改変後のマミさんとなぎさはチーズの買い物のシーンで馴れ初めになる?
ダンボールが崩れた意味は
→なぎさとマミさん、まどかの引っ越しのダンボール開けも崩れることで、この世界そのものも崩れる可能性を示唆している?
最後のQBの目の意味は?
→パンフの虚淵さんの心境?
→QBに感情が宿った?
→QBの今にみてろの叛逆の目?
ボロボロになっているQB
→デビルほむらの手によって呪いを一挙に引き受けてボロボロになっている
落下するほむらの意味は?
→諸説あるけど、孤独感を表してることでほぼ認識は一致してる
→簡単にほどけるようにしてある?
→まどかの糸で自身の窓を閉じることによりこの物語を強引に閉じている
ほむらの魔女化の名前
彼岸の魔女ホムリリィ
キリスト教徒なんですけどね。
なんか書くの余計かなとか思うんだけど書いちゃうんだよね。つい。
「戒律」についてできなかったことを「ゆるしの秘蹟」(告解は古い言い方)で神様の代理で「言葉ではっきり」赦してもらうんだよ。
でも信仰があるんだから、行いに顕れるべきだ!ってことで、「正しい」行動をするように奨められる。
あれはただそれだけのことなんですよ。
http://www.pauline.or.jp/yamamoto/yamamoto_56.php
「体はひとつでも、多くの部分から成り、体のすべての部分の数は多くても、体は一つであるように、キリストの場合も同様である」という感じに
「いい人も悪い人もすべてキリストの体(教会、の暗喩)の一部」と求道者には初心者のうちに教えるのが普通なのよん。
で、これに続けて、あなたへの答えが載ってる。ついでに書いてみよー。めんどくさかったら読まなくていいよ。
あなたの投稿を見て、「はて?」と思った人のために書いてるつもり。
「あなたがたに最高の道を教えます…(中略)…愛がなければ無に等しい」。
現実、真面目な信徒や真面目な子供は教会の外でも中でも「いい評価」を受ける。
でもそれがどうかしたの?っていうのがキリスト教徒の長所であり短所なんだよね。
悪いことやりたい放題してても、「ごめんなさい」で済ませるのが教会。
この点で不愉快な思い、たぶんする人多いんだろうなあ。
それについては本当に申し訳ない。ウチらの優先順位は神様なんだ。
もしキリスト教徒が誰かに悪いことしたのに謝りに来なかったらそれはちゃんと伝えるべき。
その時怒っても当然だと思う。
非キリスト教徒は「罪を悔い改めた罪人は、等しく神に愛された存在であって、『ずっと正しく生きてきた信徒』と同じように救われる存在だ、という感覚が本当に持てているの?
どこかで、昔からの仏教のような感覚で、「より修行をした僧は、より仏に近い」「偉い」存在だ、という感覚がありはしないか。」と疑っちゃうんだよね。
気持ちはわかるんだけど…死ぬ間際に簡単な洗礼を受けて天の父の元へ一直線しちゃうのも別に構わないよってのも、伝統的な教会は受け入れるよ。(※教派による)
しかもそうやって亡くなった人の死者のためのミサ(プロテスタントなら日曜礼拝の時に同時に祈る)もやります。
カトリックなら大概は来週~再来週辺りにやることも多い(ハロウィン・死者の月・11月参照)。
「大いに罪を犯し、その罪を大いに悔やんで赦しをいただきなさい。そして、その赦しの大きさ(愛)を感じて、他者を愛せ。」
とね。
余計な散文お目汚し失礼しましたー
というわけで一本何か書いてみようという安易な意識からキーボードを叩き始めました。名も無きはてな民です。よろしく。
さて、今回は巷でネット民の熱い羨望を浴びながら、同時にドス黒い憎悪と嫉妬とを育み続ける孤高のネットライター、ドリー氏の行う書評について、何か適当に書いていこうと思います。正直言って資料を用いながらの適確で分析的な記事とかは書く気がしないんで、フィーリングで書いていくことにします。
さて、ドリー氏については説明不要だと思います。あの村上春樹の新作『色彩を持たない多崎つくると彼の巡礼の年』をamazonレビューにてけちょんけちょんに叩き、その軽快でユーモラスな批評において人気を博した、ネットの出身の新鋭ライター・ブロガーでございます。あ、ちなみにこんな風に書くとまるで私自身がドリー氏のモグリか何かのように見えるでしょうが、その心配には及びません。この記事は売名を目的にしてはおりません。
ドリーさんには、今回のamazonレビューを切掛にして、何と出版社からのライターとしての依頼が飛び込んできたようです。何ともまあ、驚くべきことです。ネットからの躍進というものが、こんなに身近な部分で行われているなんて……と、些かめまいのようなものを覚えてしまう塩梅でございます。そんなこんなで、今更になってドリーさんの名前を広める為に誰かが努力をしたりステマをしたりする必要は、今の時点ではおよそ皆無だと言えるでしょう。何たって既にその名前が広がっていく余地が取られているわけですからね。
さてまず、彼の批評について述べる上で、彼の書く批評文においては幾つかのポイントがあるわけですが、それについて紹介していきたいと思います。
自分をアッパークラスならぬダウナークラスに位置付け、そしてそのような低きからの視点において、批判対象(アッパーな雰囲気を纏うものや、ハイソな雰囲気を纏う書物)を叩いていく、というのがドリーさんの基本スタイルとなっております。
こういう風な「ダメ人間」としてのキャラ付けで文章を書くのは、ドリーさんの特徴でもあります。ちなみに、これまで「ダメ人間」としてのキャラでエッセイを書いてきた著名な作家を挙げるとすれば、例えば滝本竜彦とか、あるいは穂村弘などが該当するんではないでしょうか。ともかく彼のレビューは低い視点から行われます。そして必然、そのような視点が読者からの親しみを呼んだり、あるいは共感にまでこぎつけることも当然起こります。こういったことで、ドリー氏はネット層のナイーヴで、どちらかと言えばハイ・カルチャーには属していない人々の人気を勝ち取ってきたというわけです。
ドリー氏がamazonにて村上春樹を批評した手段はまだはてな民の皆さんには記憶に新しいと思うのですが、ドリーさんの真骨頂は、この「形而下ツッコミ」にあります。
ときに、今年の四月中旬に発売された、『色彩を持たない~~』という小説。これは村上春樹の発売した新作なのですが、この小説にはこれまで村上春樹が取り組んできた様々なエッセンスというものが生かされており、また、その他にも新奇な取り組み、挑戦的なメッセージなどが込められた作品でありました。
そのような『色彩を持たない~~』ですが、特にこの作品に込められたメッセージの中で重要なものを上げるとすれば、それは次のようなものになると思います。つまり、「我々の見る〈夢〉と、現実に起きている様々な事象の間には、ある種の相関関係があり、そして我々は夢というものを通じて現実の事象における幾らかのレスポンシビリティー(責任)を共有している」というものです、こうやって一文に纏めると分かりにくいんですが、もう少し分り易くまとめると、要するに「我々は社会的責任や個人としての責任というものを、夢という通路を介して確認することになる」、ということです。このようなメッセージは、恐らく村上春樹氏がこれまで取り組んできた、ユング研究者との間のやりとりや、あるいは彼の人生経験というものを基立ちにして書かれているものだと思われます。そのような点において、村上春樹の主張している文学性というものが光っているのです。
ドリー氏の批評のやり方は、そういった〈文学性〉。いわば、〈形而上学的〉な分野においては、全くタッチしないという、そういう方法論を使ったものだったのです。
これは、私が主観的な立場において評している事柄ではありません。
というのは、こういう「形而下的ツッコミ」とか、あるいは別名「表層ツッコミ」という言葉は、誰でもない、他ならぬドリー氏自身によって発された言葉であるからです。正に彼自身が、彼のレビューのやり方を評して、「表層ツッコミ」。あるいは、「形而下的ツッコミ」と呼び習わしていたのです。
つまり、彼の特徴を一言で述べるならば、その作品の奥深さというものに関してはできるだけ発言を控える。というものなのです。そして、そういった「奥深さ」に関しての発言よりも、もっと身近で物質的な、そういった部分に関して照明を当てる、というのが、ドリー氏の批評術なのでした。
アレ、ちょっと待てよ? という意見が、そろそろ出てきてもいいのではないでしょうか。
というか、若干キレ気味な方というのが、現れてきてもいいんじゃないか、という風に僕は思ってます。なんなんだそれは! と声を荒げてもおかしくない方法論じゃないのかこれは? と、むしろ僕自身がそんな風に思ってきているところです。
ドリーさんのやり方は、例えば以下のようなものです。
『色彩を持たない~~』にて、以下、主人公とその友人「アカ」とのやりとり。
アカは笑った。「嘘偽りはない。あのままだ。しかしもちろんいちばん大事な部分は書かれていない。それはここの中にしかない」、アカは自分のこめかみを指先でとんとんと叩いた。「シェフと同じだ。肝心なところはレシピには書かない」
「あるいはそういうこともあるかもしれない」とアカは言った。それから愉快そうに笑って、指をぱちんと鳴らした。「するどいサーブだ。多崎つくるくんにアドヴァンテージ」
アカは言った。「俺は思うんだが、事実というのは砂に埋もれた都市のようなものだ・・・」
こういった、ちょっとオサレというか、まあそれらしい描写に関して、ドリーさんは以下のように述べています。
なるほど……。と思えるようなツッコミです。確かに、アカの言い方からは、極普通の社会生活を営んでいる方々から見れば、少し苦笑いをしてしまうような、あるいは軽く眉を顰めてしまうような、そういう素振りが端々から匂わされています。
これが、いわゆる「形而下ツッコミ」というものなのです。読者にとって、距離の近い何か、つまり、作中の人間における特徴的な発言とか、あるいは、そのキャラクターが行なっているファッション、あるいはスタイルというもの、そういった身近な位置に存在するものに関して、一つ一つツッコミを入れていく、という技術。これが、ドリーさんが主に自称しているところの、「表層ツッコミ」という技術なのでございます。確かに、このツッコミは面白い(笑)
ぶっちゃけ僕も何度か読み直して笑ったくらいのものです。それくらいに、この「形而下ツッコミ」には効果があります。
しかしです。
実際に、この『色彩を持たない~~』を読み込んでいくと、このようなツッコミに果たして正当性を認めてよいものなのだろうか? というようなメッセージが改めて浮かび上がってきています。
と言いますのは、まず、このアカという人物。なんと、未読の方にはネタバレになってしまうのですが――
――ですから、この先の部分に関しては未読の方は注意して読んで下さい、お願いします――
――同性愛者なのです。しかも、そのような事実に関して、何と自身が女性と結婚関係を持ち、暫くしてから気付いてしまった、というかなり不幸な人物でもあるのです。彼は、結婚後自分の性癖について自覚してしまい、かなりの苦悩を感じていた模様です。
その辺りは、『色彩を持たない~~』本編においてかなり描写が尽くされております。
ところで、ここで、「アレ?」と思われる方はいらっしゃいませんでしょうか?
つまり、ドリーさんのツッコミの内容が、果たして本当に妥当なものなのだろうか? という感想を抱いた方が、ここまでの文章を読んでいて幾らかいるんじゃないかということなのです。
ドリーさんのツッコミの内容は、以下の通りでした。
「『アカ』の臭わせている『自分大好き』臭がひどい、彼の自己陶酔的な態度がヤバい」
しかし、上のような本文の描写を読む限りで、そのようなツッコミはぶっちゃけ間違っていることが、明らかになっています。つまり、むしろ「アカ」の根底には、「自分大好き臭」などではなく、徹底的な自己嫌悪が存在しているということなのです。
付け加えるならば
この「アカ」は、その父親が何と名古屋大学の経済学部で教授職を務めている人物であったりするのですが、そのような父親に対してアカは名状しがたい反感のようなものを抱えて青年時代以降を生きてきていた、ということが本文にて言われています。しかし、多崎つくるが生きている現代の世界、彼が36歳になっている時点において、アカは一般企業向けのサラリーマン育成サービス会社の代表を務めているのですが、何と彼は、自分が忌み嫌っていた父のような、尊大で狭量な振る舞いを、そっくりそのままその会社経営やスピーチにおいて行なってしまっているのを作中で嘆いているのです。つまり、繰り返すように彼の中にあるのは、「自己嫌悪」というべき以上の何物でもない感情なのです。そしてそれを無視したまま、ドリーさんは「自分大好き臭がすごい」、などなどと形而下的ツッコミに終始してしまっているということなのです。
ドリー氏は他にも、レビュー中で多崎つくるのファッションについて言及しており、彼の終盤におけるファッション、「オリーブ・グリーンのバスローブ」について批判しております。
曰く、その色は「クソ緑」とのこと(笑) なんともまあユーモラスな表現ではありませんか。
しかしです。このような緑の色、というのは、西洋においてはいわば「嫉妬」というものを表す象徴的な色でもまたあるのでした。
主人公の多崎つくるは、本編の終盤において、交際相手の女性の浮気現場を目撃してしまい、そのことで苦悩します。そして本作は、作中において何か特定のスタイルや生き方、つまり「色彩」を持てなかった彼が、最終的に嫉妬の感情を表す「オリーブ・グリーン」のバスローブを着込む、ということを最後に、幕が降りることになります。結局のところ、この『色彩を持たない~~』という物語は、多崎つくるというプレーンで如才ない特徴の無かった男が、嫉妬という、これまで無色だった彼にとってあまりにも大きすぎる感情を背負うことになってしまうという作品なのです。そんなテーマが描かれた小説なのでした。
しかし、ドリー氏はこの「オリーブ・グリーン」の比喩に関して、「クソ緑」とただ一言切り捨てたのみなのです。それ以上の言及を、彼は避けております。
これが、いわゆる「形而下ツッコミ」の正体なのです。その、暗喩や文学的比喩といった奥深さに関しては常に除外し、表面的な部分にのみ視点をおいて俗っぽい言葉によって吐き捨てる、というのが、結局のところドリー氏の行っている批評の正体と言えるでしょう。
ドリー氏は、これは個人的な意見になってしまうのですが、はっきり言ってそういった「奥深い部分」に対する想像力、というものを発揮しない(あるいは表立って発言しない)といった批評のやり口に、あまりにも慣れきってしまっている感があります。何というか、そういった相手の表現したい奥深い分野については言及せず、大体において「表層的」あるいは「形而下的」な部分に対してのツッコミだけを行う、というのが彼のスタイルになってしまっているのです。
さて、ここまで長々と書いてきて、結論としては、ドリーさんの批評(クリティーク)においては、あまりにも想像力や文学的表現に対する理解というものが欠けてしまっている、ということが言いたいわけなのです。そんなこんなで、ドリーさんの書籍批評に関しては、以下の言葉でまとめることができるでしょう。やはり、ドリーさんの書籍批評はまちがっている、と
http://getnews.jp/archives/246808
終末医療についての法律なのに、なぜ突然「自殺の勧め」との解釈になるのか分からない。
私が尊厳死の法制化に反対する理由|かんかん! -看護師のためのwebマガジン by 医学書院- http://igs-kankan.com/article/2012/08/000635/
「慢性的な痛みや恐怖」というのは、病気によるものをさしているのか?それとも家族が「サッサと死なねーかなコイツ」的な圧力を掛けるようなケースを暗喩しているのか?
なにか「含み」を持たせている文章に見えるんだけど、たとえばその「諸力」の具体例をいくつか挙げてもらえないと、ちょっとぼんやりしていて何が言いたいのか分からない。なんとなく想像はできるけど、その想像が当たってるかどうかはわからない。
http://zasshi.news.yahoo.co.jp/article?a=20120828-00000000-trendy-ind
30目前、女、3歳児を育児中無職(一般的には主婦と呼ぶんかな)です。ああ、私も結果的に「でき婚」になった人間です。
親子関係は1親等と言いますよね。法律の中には0親等という言葉はないけれど、でも、夫婦を「0親等」と呼ぶ暗喩があります。
離婚したい云々の前に、なぜ奥さんがあなたのご家族と距離を置こうとしているのかよく考えて「自分を」学んでください。たぶん、「いい人」をまた見つけて再婚してもあなたがそのようにご両親や妹さんを優先なさるのでは将来の夫婦仲もよい結果が現れることはないでしょうから。
私も主人の実家から10kmどころか歩いて2分のところに住んでますが(全員を収容できる賃貸物件がないから)、義両親の体を心配こそすれど「嫌う」なんてことはありません。
「僕は孫の顔を親に見せるのが数少ない孝行だと思っているので」
それは正しいことだと思うけれど、あなたの一番すぐそばにいる人を先に気遣っては?ご家族が余命宣告受けているなら別(実両親で経験済み)ですが、奥さんはもう疲れたのではないかと思うのです。おそらく、奥さんを理解したいんだと真摯に話し合おうとしなければ関係の回復は難しいかと…。どちらかを選ばなければならない時っていうのはあるもんですよ。
追記: お、ご指摘ありがとうございます。修正しときますねー。でもねえ、何でそんなに腹を立ててるのかわからないんだけども。そんなにカリカリしてると体に悪いですよ。