はてなキーワード: 昭和60年とは
"日本が繰り返した消費増税という過ち" By Mike Bird, The Wall Street Journal 2019年12月12日 14:28 JST https://jp.wsj.com/articles/SB11472337774144154450204586073110834531904 ちなみに英文のタイトルは"Japan and the Art of Making the Same Mistakes Over and Over Again"
今年の日本の年間利払い費は8.85兆円で、直近の名目GDPは559.22兆円です。そのまま割ると1.6%程度ですが、ここでウォールストリートジャーナルが純利払い費(英文ではnet interest payments)を対GDPの1%未満としているのは国債のうち政府機関(主として日銀)保有分に対する利払いをオフセットしているからです。
そのように観察すべき点については、アメリカのマクロ経済学者も指摘しています。
対GDP比で250パーセントにのぼる日本の債務に警鐘を鳴らす識者が少なくないが、この比率の危険性は誇張されている。金融市場は引き続き落ち着いており、2017年8月時点で日本の長期国債の金利はほぼゼロで、世界最低水準にある。金融市場が日本の債務を懸念していない理由は2つある。第1に、日本の国債の多くを保有しているのは、日本政府と日銀であり、それ以外の民間が保有する国債の対GDP比は40%に過ぎず、アメリカより大幅に低い。第2に、アメリカの場合は国債残高のかなりの割合を外国人が保有しているのに対し、日本の国債のほとんどは国内の貯蓄者や機関が保有している。
ロバート・J・ゴードン「アメリカ経済 成長の終焉」日本版・日経BP・2017年 https://www.amazon.co.jp/dp/B07KWMYP13/ref=dp-kindle-redirect?_encoding=UTF8&btkr=1
公的債務とは政府の負担するトータルとして定義されます。すなわちあらゆる経済主体に宛てて発行された債券(負債)の総額です。そしてその経済主体には他の政府部門、家計、民間企業、そして外国投資家が含まれます。公的債務は財政赤字の累積でもあります。
・・・ここで政府債務とは政府内の他の部門によって保有されている債券も含まれていることに留意してください。2010年の半ば時点において、連邦準備制度は1兆ドルの財務省証券を保有しています。それに加えて数兆ドルの財務省証券がソーシャル・セキュリティ(社会保障基金)やメディケア・トラストファンド(医療保険基金)によって保有され、それによってベビーブーム世代がリタイアした場合に増大する給付や彼らが支払ったペイロールタックス(※増田注:社会保障税。アメリカの公的年金の財源です)に対応する支払い等の将来の支払い義務に対処することが可能になっています。
このセクションで議論になるのは、将来世代の負担という問題は、政府債務が政府内の他の部門によって保有されている場合は必ずしもあてはまらないということです。政府が負担するグロスの債務は政府の保有する総額です。それゆえ、ネットの債務はグロスの債務から政府自身が保有する持分、すなわち連邦準備や政府系信託が保有する債券を控除して求められます。懸念すべき唯一の問題はネットの債務です。なぜならばネットの債務の利子は将来の納税者によって支払われるからです。それと対照的に、政府内部で保有されている負債から生じる利子は、支払われると政府に戻っていきます。例えば、Fed(連邦準備制度)はその大量の政府証券の保有から得る利子から毎年多額のドルを財務省に戻しているのです。
Robert J Gordon "Macroeconomics" 12th Edition,Pearson(2013) https://www.amazon.co.jp/dp/B00IZ0B3NK/ref=dp-kindle-redirect?_encoding=UTF8&btkr=1
ところで、2019年の年間利払い費は8.85兆円は、実は名目GDPが350兆円程度だった昭和60年代よりも少ない額なのですが、財務省は5年前には利払い費は今後10年で2.4倍になると試算していました。
"国債利払い費、今後10年で2.4倍に 財務省試算" 日本経済新聞 2015年2月18日 https://www.nikkei.com/article/DGXLASFS18H4K_Y5A210C1EE8000/
グロスの数字のみ示す不適切さはおくとしても、当時の試算によると2019年の利払い費は12.9~13.2兆円、来年は14.0~14.7兆円、再来年は14.8~16兆円。2020年の予想と2019年の実際の利払い費の差額は今年の増税分とほぼ同じ、このような試算をしていたのであれば、予想が外れた今年、むしろ消費税は下げるべきでした。
日本の経済がパッとせず人々の暮らしが苦しくなったのはGDPが増えなかったからで、GDPが増えなかったのはアベノミクスの以前の日銀が金融緩和に消極的かつ財政支出が不十分だったからで、アベノミクス以後少し増えるようになったのに物足りず、「生活が苦しい」という人が少ししか減らないのは安部政権が1年目を除き財政支出を渋るうえに消費税を増税しているからですが、そうした政策はこういう邪悪で愚かな試算を根拠としています。しかしながら盛大に外したことがあきらかになっているのに、財務省の責任を問う声はまるで聞こえず、財政再建を批判するのは外国の新聞やエコノミストばかりです。マクロ経済に関心が薄い社会は、財務官僚にとってはチョロい社会ですがロスジェネは救われません。
"れいわ新選組と立憲民主党 どちらが正しいか (自民党とどちらが正しいかも追記しました) " https://anond.hatelabo.jp/20190622204530
"金融政策はこれからもマクロ経済の安定化ツールであり続けることができるのか サマーズとクルーグマンのツイートより" https://anond.hatelabo.jp/20190824134241
"国土強靱化いつやるの?今でしょう!" https://anond.hatelabo.jp/20191014111057
"お金が余ると財政健全化できない?そんなバカなことあるか!...あるんです " https://anond.hatelabo.jp/20191111070842
横増田です。
「虹色定期便」がインパクトあるキルケウイルスなどの舞台設定でSF路線を歩んだのは、実は一年間だけ。1997年のこと。これ以降は、ブラジル移民の話題を扱う群馬県大泉町を舞台とした作品など直球勝負の道徳のドラマ番組が続く。
「虹色定期便」は高学年向けのテレビ番組だから、計算が間違っていなければ、多分日本中で昭和60年生まれと昭和61年生まれしかキルケウイルスの話ができない。
そしてこの年代でも、元増田が指摘する通り全員がSF虹色定期便の話をすることはできない。
元増田への回答になるけれども、「つくってあそぼ」などは夕方とかに番組やっていたから、自然とみんなの印象に残るのだろう。放送期間も長い。ネットでネタにもされる。
一方「虹色定期便」は、道徳の授業で視聴するため、授業構成のなかで視聴しない選択をする学校も結構あるようだ。
俺は昭和60年生まれで、「虹色定期便」をみんな見ていたと思って、∴のイボのキルケウイルスとかアスラとか弓矢とか社会人になった時の同学年に聞いてみたんだが、どうもピンとこない人も多い。忘れてしまったか、授業で扱わなかったのだろう。
ということで、いきなり増田でキルケウイルスの話が出てきてちょっと嬉しかったし、こんなところから同年代が増田してるんだなーと解ったのもなんだか面白く思った。キルケウイルスの話ができるのは日本人の中でもかなり激レアなので、周りの人にも聞いてみると良い。
「昭和60年生まれなのに!」は若い云々じゃなく「BARBEE BOYS の世代じゃにのに!」って意味だと思う>ブコメの人
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%9D%96%E5%9B%BD%E7%A5%9E%E7%A4%BE%E5%95%8F%E9%A1%8C
公人においても公私を区別するべきだという論点がある。これは第66代総理であった三木武夫が1975年(昭和50年)8月15日、総理としては初めて終戦記念日に参拝した際に、私的参拝4条件(公用車不使用、玉串料を私費で支出、肩書きを付けない、公職者を随行させない)による「私人」としての参拝を行った。これに対し靖国神社法案を断念した神社本庁および日本遺族会は、「英霊にこたえる会」を結成して、「首相や閣僚による公式参拝」を要請する運動を展開する。靖国神社に対して玉串料などを公費で支出した参拝は、第72代総理であった中曽根康弘による1985年(昭和60年)の参拝が訴訟の対象となり(後述)、1992年(平成4年)の2つの高等裁判所判決で憲法の定める政教分離原則に反する公式参拝と認定され、これらが判例として確定、明確に違憲とされており、これ以降の議論は「私人」としての参拝が許容されるものであるかどうかを巡っての解釈の問題となっている。
「国政上の要職にある者であっても私人・一個人として参拝するなら政教分離原則には抵触せず問題がない」という意見がある。これは、公人であっても人権的な観点から私人の側面を強調視するもので、「首相個人の信仰や信念も尊重されるべきであり、参拝は私人とし行われているものであるならば問題がない」という立場をとっている。「アメリカのように政教分離をうたっていながら、大統領や知事就任式のときに聖書に手をのせ神に誓いをたてることは問題になったことは一度もない」ということも論拠の一つに挙げられている。
一方、「公用車を用い、側近・護衛官を従え、閣僚が連れ立って参拝し、職業欄に『内閣総理大臣』などと記帳するという行為は公人としてのそれであり、政教分離原則に抵触する」という意見がある。こちらは、実効的な観点を重く取り上げ、「首相が在職中に行う行為は私的であっても、多少の差はあれ、全て政治的実効性を持つため、私的参拝であっても靖国神社に実質的に利益を与えるものだ」として問題があるとしている。
第87 - 89代総理・小泉純一郎は、2001年(平成13年)8月13日の首相就任後最初の参拝をした後、公私の別についての質問に対し「公的とか私的とか私はこだわりません。総理大臣である小泉純一郎が心を込めて参拝した」と述べた。これ以降、特にこの論点が大きくクローズアップされている。但し福岡地裁の判決後は私的参拝であると表明している。 小泉純一郎首相による参拝以降、参拝客が急増した現象についてはマスメディアの報道が大きく影響しているとの意見もある[18]。
大人が未成年や学生を性的対象にして当然という価値観を垂れ流すことに、大人がもっと危機感を持つべきなのではないか。
――「ヤレる女子大学生ランキング」批判に戸惑うメディアの人へ(https://news.yahoo.co.jp/byline/ogawatamaka/20190113-00110991/)
『「淫行」とは、広く青少年に対する性行為一般をいうものと解すべきでなく、青少年を誘惑し、威迫し、欺罔し又は困惑させる等その心身の未成熟に乗じた不当な手段により行う性交又は性交類似行為のほか、青少年を単に自己の性的欲望を満足させるための対象として扱つているとしか認められないような性交又は性交類似行為』をいうものと解するのが相当である。
――1985年(昭和60年)10月23日、最高裁大法廷(https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B7%AB%E8%A1%8C%E6%9D%A1%E4%BE%8B)
表題の通りだ。俺は昭和60年生まれだが、この歌詞を尊んだ昭和人の感性がわからない(あえて術語をでかくするぞ)。
嫌いな理由を端的に述べると2つある。
まず、情景が飛び過ぎなのだ。
そして、飛び飛びのシーンそれぞれが象徴的でゴテゴテと飾り立てられている点だ。
一番の歌詞。
B 訃報の主が語り手を故郷? の駅で引きとめようとした3年前
ついでに二番の歌詞
こう見ると、舞台立ては「都会のステージ――駅――教会――教会――駅――ステージ」と整っているように見えるが、実のところバラバラである。
まずAが地味におかしい。
恋の歌歌う私に黒い縁取りの訃報が届くのだ。
冷静に考えるとステージ去ってから訃報を目にするのだろうけど、見かけ上ステージで歌っている語り手に郵便屋が届けたように書かれている。
そしてB。
Aがおかしいのにいきなり「あれは3年前」とか言い出す。
そしてC
そして良いシーンをこれでもかこれでもかと持ってくる。「ほれほれ良いシーンどんどん行くよー」的な過剰包装的な過度の装飾。
C-Dへの情景の経過はやや丁寧だ。昼下がりから夕方に葬儀が行なわれたのだろう。
そしてE。
駅に戻ってきたのは解るのだが、対称となるべきBの位置と異なる。
E暗い待合室
Eはラストへの布石になるし、一人になったことを示していて叮嚀な箇所もあるが、しかしどうも空間がずれている。
こんな感じで、情景が性急に飛びすぎな印象を強く受ける。
そして、それがさもありがたそうに語られ唄われる。今でも「昭和の名曲」としてありがたがられる。でもそれは虚仮だと思う。
なんつーか、下品な表現なんだけど、昭和のにわか成金、にわか教養人、にわか中流家庭に向けられた、安っぽい感動への舞台立てだなと思うのだ。
いかにも「名曲」のような装いをしているのだがその歌詞は人の死と愛を浅薄かつ性急にそろえただけのものだ。
こうした「インスタントな大作」感が気に食わないということだ。
私は1985年(昭和60年)生まれで、自分より下の世代との付き合い方に日々苦労していたのですが、その一つの答えとも言える事柄に気づいた。
それはわりと言われがちでもう死語とも思わるような言葉だが、彼らは『ゆとり世代』と言われる人たち。
ゆとり教育が始まったのが私より2つ下の、1987年(昭和62年)生まれの世代からで、私が普段から接することがよくあり、仕事や遊びでも常に周りにいる世代である。
彼らは稀に頭に疑問符が浮かぶような行動、言動があり、それは付き合いが長くなればなるほど気になってくるもので、「なぜそのような行動を取るのだろう?」と理解しがたいことがあった。
これはおそらく相手を理解できない自分自身が悪いのだろうと思っていた。
しかし私より上の世代や同年齢の人からは腑に落ちない行動がほぼなく、話をしていても一緒に仕事をしていてもほぼ納得ができる人ばかりだった。それは私が嫌いなタイプの人の行動においても、「まあ理解はできる」と思える部分があった。
それに対して、ゆとり世代と言われる人はまったく理解ができない場合もあり、それが世にいうゆとり世代の問題行動ということだった。
ゆとり教育のボーダーライン付近の世代は、年齢が近いが故、接する機会が多いにも関わらず、学校教育による基本的人格形成に差が付いてしまい、コミュニケーションに齟齬が発生しているのだ。
この問題に気づいた今、私は自分より年下の人間を理解することを諦め、脱ゆとり教育を受けた人間が世に溢れる日を待つことにした。
これももちろん考える。
『理解できないお前が悪い』『ゆとり世代を上手くコントロールできない無能』『若い人に合わせられないだけ』
分かるよその気持ち。
ふと、同い年がどれくらい死んでしまったか、気になったので調べてみることにした。
自分は運良く今まで生きてこれた。でも死んでしまった人もいる。
それを知ったところで、という気もするけれど、知りたくなってしまった。
1985年の出生数
https://www.e-stat.go.jp/stat-search/files?page=1&toukei=00450011&tstat=000001028897
こちらを参考にしたところ、合計1,431,577人で、男735,284人・女696,293人だったようだ。
俺は、この中のひとりだ。
死んでしまった数は、とりあえず、現在の人口を引いてみることで求めてみよう。
こちらは2017年の調査のようだ。俺が32歳の時の人口の推計が載っている。
見ると、合計1,381,000人で、男702,000人・女679,000人
とすると、差分は合計50,577人で、男33,284人・女17,293人ということだ。
もちろん、死んでいない人も、この数字には含まれるだろうけれども。
でも、同い年、5万人ぐらいはもういないみたいだ。
寂しいなぁ。
10月で2005年以来最後の(政府自称)の厚生年金料引き上げが行われた。
たかが3000円(笑)と思うかもしれんが3000円もあればちょっとお高いランチは食えるし映画館に行って帰りにちょっとしたグッズも買えるしネカフェだと一晩過ごせる。
つまり年間36000円も手取りが減った、かなりでかいよ4万近くよ!!!PS4買えるじゃん。
若者も車離れとか旅行離れとかパチ離れ酒離れタバコ離れとか言うけどそらあ年金税保険税ボコボコ値上げしたらそらあ消費しなくなりますって。
昭和36年100円→昭和60年6740円→平成10年13300円→平成29年16490円
平成16年 13.934% (6.967%)→平成29年18.300%(9.150%)
上記に加えて消費税や健康保険料も上がっている、老害の若い頃とは違いなにもかもが値上げ値上げラッシュ!全く最近の老害はそこを考えずに偉そうに我々若者に説教たれてやがる!
いまは住民税はないけど来年から住んでるだけで罰金を払わなくちゃならんくなるからますます節約するしかない。
これで老害から消費しろとナイフで首元に突きつけられようが知るもんか!車も買うわけないぞ!