はてなキーワード: 早乙女とは
wikiにはデビューは9×年とありますが、実際はその前に漫画が雑誌に載ったことがある。
13歳のときに描いて某少年誌に送った漫画が何故だか賞にはいり、全ページ掲載されたのです。
この作品については検索しても出てこない。あまりに大昔のことすぎて。
絵もとにかくどヘタで、自分のなかでも黒歴史化してるので、とっくの昔に掲載誌も捨てた。
生原稿だけはどこかに保管してあるけど、目に触れないような奥底にしまってある。
でもネタとして、時々自分のブログや漫画でチラチラ遠まわしに「中学生の頃に雑誌にどヘタな漫画が載った」ということを書いたりしていた。
そうしたらあるときは長年のファンの人が、その少ない情報を元に、見事にその掲載誌を古本で見つけ出し、あるときのイベントでそれをコピー製本したものを持ってきてくれたのです。
めちゃくちゃびっくりした…。よくわかったなと感動しました。
それはそれととして、何十年ぶりかに自分の黒歴史と再開を果たしてしまった。
しかし、時間が多少脳内でそれを美化していたところもあり、これも自分も出発点だしな…と思いそれを読み返してみた。
自分の思っていた以上にひどかった!
お話は小学校の漫研が舞台。そこに転校生がやってきて入部したいと言い出す。彼が持参した原稿を見るとメッチャ上手くて他の部員はびびりまくる。
で、漫研といっても、そいつらの活動は本屋に行って店員の目を盗みながら立ち読みしたり、河原で遊んだりしてるだけなんです。
つまりこいつらは別に漫画家を目指して切磋琢磨してるわけでなく、ただの漫画好きの小学生ってだけなんですよね…。
そしてひょんなことから、転校生の父親が漫画家であることがわかる。しかも松本零士!名前は杉本に変えてるけど!
そこで初めて自分たちと転校生の圧倒的な差異に気づき(原稿見た時点で気づけ)転校生によそよそしくなる。
それを部長である主人公がとりなし、最終的には和解するって話なんですけど、これ漫研を舞台にしてるだけの小学生同士のいざこざの話なんですよね…。
10代の頃の私は何故か漫画を描くとき「主人公は自分より2歳年下にする」というわけのわからないルールを制定していました。
同年代や年上を描くより、多少に俯瞰できるぶん客観的に描けると思っていた気がする。
それはともかく。
おめーよー!と読みながらツッコミが止まらないマイ処女作でしたが(スケットダンスの早乙女ロマンの描いた漫画にツッコミを入れるヒメコの気分を味わえました)これは13歳の自分にしか描けないなあ…としみじみ思った。
最低でも中学生にすると思う。
漫研を舞台にした傑作に「ヨイコのミライ!」があります。主人公たちは高校生で、創作の苦悩より自己愛や、承認欲求、所属欲求が勝ってしまう年頃特有のこじれ感が見事に描かれています。
これがもっとキャラが大人になれば創作の苦悩のほうに重点が置かれますし、つまり小学生にはそのどっちもないんですよね。
だらまあ本当に私の描いたその漫画は、テーマ選びから躓いてる感があるんだけど。
でも、描いた本人の贔屓目かもしれないけど…あまりにも13歳が丸出しになってるその作品が、黒歴史から一周してなんだか愛しい気持ちになったような…気もする。
13歳の私の漫画は、もう二度と描かれることはない。13歳の私はいないんだから。
アニメキャラの百合を好む人が「百合に男を混ぜるのはクソ」とか「同性愛者を異性愛者に矯正しようとするのはクソ」という発言をしてるのをよく見かける。
でもその一方で異性愛者を同性愛者に矯正しようとすることについては喜んで奨励するんだなあって
アイカツスターズの早乙女あこに対する反応をTwitterで見てて思った。
早乙女あこはいわゆるノンケで、男性アイドルであるところの結城すばるが大好きなキャラクターだってことがはっきりと描かれていた。
なのにその事実をことごとく歪めて無理やり同性愛者、レズビアンに仕立て上げようとする感想妄想が多数を占めていて正直引いた。
あこの恋路を応援しよう、あこの人となりを素直に肯定しようなんて感想はほぼ見かけなかった。
結局この人たちキャラクターなんてどうでもよくて百合っていう記号が好きなだけなんだなと思った。
まあ早乙女あこがバイセクシャルだって可能性もゼロではないし妄想するのはもちろん自由なんだけど。
あなたのその早乙女あこに対する発言って、あなたがいつも嫌ってる百合を男根で引き裂く行為とどこが違うの?と思った。
※追記・返信
・別に二次創作で性的志向を勝手に曲げるのが正道だとか言ってない。やることについては否定しないしやりたいなら謙虚な姿勢でいるべきだとは私も思っている。
・一緒なのがわかってて同時に自分にとって嫌な表現の存在も認められるなら良いと思う。
・断言してることで言及してる百合好き達と同列視されるのはちょっと、かなり不服だな。そもそも6話を見た時点でわかりやすく手に取れる事実を書いたに過ぎない。
すばるが好き→恋愛対象は男の子ってごく自然に考えられることだと思うんだけど、そんなに狭量な考え方だろうか?
そんな考え方をするやつは前時代的な性差別者だとか言われるようなら謝る。
いや、別にガンダムでなくても良いんだけど。
お台場のガンダムに続いて、兵庫県では鉄人28号が立つらしいですよ。
土地代とかは別に掛かるにしても、47都道府県に1体づつ立てても100億あれば充分おつりが来るよね。
アニメの殿堂なんかよりよっぽど観光客受けすると思うんだよね。
全国巡礼したくならね? 俺、したい。
アニメの殿堂とか言ってるけど、博物館って最低でも半日は楽しめる様なものでないと見ても面白くないんだよね。
でも、半日も博物館で過ごしたら、更に周辺廻るなんて実質無理じゃね?
食事だって博物館の中か、せいぜいその直近だけ。
その点、実物大ロボットは見るだけなら金かからないし、幾ら観たって1時間も居れば飽きるから、その分周辺観光が潤うよ。
大仏とかと一緒。
維持費だってたかが知れてるし、検討段階から赤字前提で国の援助(=税金)が必要とか議論になってる様なものよりよっぽど投資効率良くね?
何より、飛行機で日本見ると、日本中にロボット立ってるんだぜ!
「皆様、右手に富士山が見えてまいりました。その麓には早乙女研究所と鉄の城マジンガーZがそびえております」とか
「当機はまもなく那覇空港に到着致します。右手に仁王立ちするガンバスターから放たれるバスタービームは灯台として活躍しております」とか
SUGEEEEE! CRAZYYYYYY! JAP! BANZAI!
と、外人さんも大喜びですよ。
間違いなく、アニメの殿堂よりもメディア芸術の発展に貢献すると思うんだけどね。
どうすかね?
長いので、興味ない人は1行くらいでスルーしてください。
「疎外論」批判というのが一部でちょっと盛り上がっていたみたいですが。
なぜ「疎外論」という発想が生まれたのかと言えば、それはたぶん、他人を説得する時にそういう方法しか思いつかなかったからじゃないかと思います。「本来の人間の姿」と「本来的じゃない現在の人間の姿」とを対比させて、その差異を見せ付けることで「ほら、現在はこのような問題があるんだから」と問題のありかを指し示すというのは、他人に自分の意見を示す上でも非常にわかりやすくなりますし。
じゃあ逆に、疎外論抜きで「私は社会に対してこのような問題意識を持っている」ことを指し示すとしたら、どうなるでしょうか。
「見ろ、このような社会のあり方は問題だ」
「なんで? 人間の生活はあるようにある、ただそれだけじゃん」
「なんでだよ、こんな社会のあり方は人間にとって生き難いだろうに」
「生き難いって、何と比べて言ってるのよ」
「そりゃあもちろん……いけね、“あるべき仮想的な理念像”はここでは使えないんだっけ。えーっと、それじゃあ社会の上層のあの人や中層のあの人と比べてだね」
「おいおい、そうやって万人を万人といちいち一対一マッチングさせる気か。地球シミュレータをフル回転させても無理だと思うぞ」
「いやだから、技術的な問題じゃなくて社会構築の原理的な問題をだね」
「そうやってすぐ空想的な原理原則を持ち出す、君は本当にどうしようもないほど形而上的だな」
「うがー。目の前で死にかかっているこんなに人がいるのに放っておく気か」
「その人を手当てすりゃいいじゃん」
……話はどこまでも噛み合わないまま終わりそうですが。
「あるべき理想的な人間像」とか「あるべき理想的な社会像」の提示(による疎外論の提唱)をどこまでも徹底的に否定していくと、実は現行の国家や行政機構の役割が限りなくゼロに近づいていったりするんですな。
例えば教育。そもそも公教育制度って、政治や社会活動(経済活動を含む)に参加する上で必要最低限の知識を万人に保証するために行うものですから、教育の意義そのものが「あるべき“教育された国民像”」と「教育されていない国民像」との差分に基づいて、まさに疎外論的に「あるべき理想像を国民に保証する」ことにあるわけです。
だから、指を折って数えられる以上の数字を知らなかったり漢数字以外の漢字が読めない国民がいたって、それを「あるべき“教育された国民像”から疎外された、非本来的な国民のあり方」と捉えることは出来ないのです。そもそも「“教育された人間”の本来的な姿」が棄却されているわけですから。その人については、それはそういうものとして「まあそんな人もいるよね」と受け取っておくしかありません。学力比較がしたければ、無理に一般的な学力基準を作らなくたって、めいめいが勝手に「あいつ俺より頭よさそうだなー」「奴は俺よりバカだ」とかって思っておけばいいんです。
警察組織も必要なくなりますよね。別に治安がいいことをもって「社会の本来的なあるべき姿」とする必要は無いんですから、もし199X年に地球が核の炎に包まれた後のような暴力の時代が到来しても、またそこで弱者を救う世紀末救世主みたいなのが出現しなくても、「これは人間が生きていく本来の社会のあり方じゃない」と嘆くことは出来ないのです。それはそういうものなのですから。
他にも、現状を維持したり向上させたりする政策を立案・実施するためには、そもそもの発想の根源に、現状がそのまま維持された延長線上に想定される未来像や現状から何らかの意味で改善された未来像が、「本来そうあるべき像」として時系列的未来に投影されていなければなりません。もしそうしなければ、「本来あるべき未来」と、「現在」ないしは「メンテナンスを何も行わないという条件下で現在からの延長線上に出現しうる未来」との差分を検出することが、まったく不可能になってしまうからです。比較対照としての「あるべき像」が無いのに何と比較しろってのさ。
だから、さっきの199X年に、ミスミじいさんが種モミを必死に抱え込んで「明日がー明日がー」と叫んでいるところに割り込んで、明日の収穫のためではなく今日の俺の腹の足しのために種モミを食ってしまっても、何の問題もありません。そもそも比較すべき「明日=あるべき社会像」が存在しないんですから。「明日の収穫」なんてものは、勝手に「本来あるべき社会像」を未来に投影してこしらえた幻影なのです。その幻影と現在とを比較して「人間は本来的にあるべき“明日の収穫”から疎外されている」などというのは形而上学もいいとこです。厳然として存在するのは、目の前の「種モミ」だけなんですから。これがやがて稲穂の波へと弁証法的に発展していくなんてまだ見ぬ未来を夢想するのはヘーゲルやマルクスの読みすぎというものです。さあ、種モミなんて食ってしまいましょう。え、将来の人間が飢えてしまう? 何言ってるんですか、将来の人間なんてここにはいないじゃないですか。いたら今すぐここに連れてきて「飢えた人の発生」を実証してくださいよ。だいたい飢えたところでせいぜい死んで人口がちょっとばかり減るだけですから、むしろ上手い具合に人口の調節が図れていいんじゃないですか。それとも何ですか、まさかあなた、年がら年中腕に止まった蚊を叩き潰したり肉を食ったりして他の生物をどんどん殺しているくせに、ホモ・サピエンスは他の生物種とは異なって神に祝福された特別な存在だから常に生き残る価値があるだなんて、今のご時世に信じていたりするんですか?
いやー、しっかしそう考えると、なんでよど号ハイジャック犯が『あしたのジョー』を引き合いに出したのかがよく判るなー。あれってきっと、連中にとっては「擬人化された疎外論」だったんですよ。ほら、「あしたのために」とか「泪橋を逆に渡る」とか、本来性の掛け声がビシバシ響いてるじゃないですか。ジョーの本来あるべき姿って、段平オヤジにとっては「ボクシングのチャンピオン」、ジョー自身にとっては「憎いあんちくしょうをリング上で叩きのめしている自分」なのであって、そうじゃない現状のジョーはあるべき理想的ジョー像から「疎外」されているわけですよ。だからこそ段平はあるべき姿の「あした」を目指して、「あしたのために その1・フォイエルバッハテーゼ」「あしたのために その2・資本論」「あしたのために その3・共産党宣言」とかってのをせっせと書き綴るし、ジョーはジョーで欠かさずトレーニングして「内臓をえぐるように(カラシニコフを)撃つべし!撃つべし!」なんてやってるし。こんなふうに「あるべき姿」を必死に目指したって碌なことにならないのは、「ジョーをバンタム級のリングの上でぶちのめす自分」を「あるべき自己像」に据えて、「だめだ、この体重では俺はバンタム級のリングから疎外されたままだ」とばかりにむちゃくちゃな減量を行った力石徹が、自らの死をもって示しているのにねえ。
だから、庵野監督も大月Pも角川の偉い人も、エヴァンゲリオンをテレビ版の最終回でさっさと終わらせておけば、「僕はここにいてもいいんだ」→「おめでとう」パチパチパチで「そのままの姿でここにいる自分の全肯定」として話がきれいに収まったんですよ。それをよしゃあいいのに、劇場版(97年の)なんか作って「あるべきコミュニケーションのあり方」に話を膨らませちゃったりするから、「あれ、本当はこんなコミュニケーションのあり方はいけないんじゃないかな? 本来のコミュニケーションのあり方ってどんなのかな? 今の僕たちは本来のコミュニケーションのあり方から疎外されてるんじゃないかな?」みたいな方向に考えを向かせる契機を作っちゃうわけで。もう「そのままの自分まるごと全肯定」でいいじゃん。マルクス先生が「宗教はアヘンだ」って言ってるってことは、マルクスが失効した時代には文化的アヘンで疎外感を麻痺させて心の安寧を得ることもOKってわけですよ。アヘン超OK、全能感超OK!(ちょっと古いか。)
なに、そんなのはまやかしだって? おいおい、「現実」に目を見開いて「本来のあり方から疎外されたこの社会を何とかしなくっちゃ」なんて操作主義的な観点に目覚めた人がこれ以上増えたら、一億総ポルポト化ですよ。日本全国隅から隅まで「ドキッ!ポルポトだらけの粛清大会 ──(頭蓋骨)ゴロリもあるよ!」になっちゃいますよー。
ポルポトや文化大革命を呼び込みたくなければ、そんな疎外論チックな発想はさっさと捨てちゃって、身の回りの小さなことに幸せを見つけていきましょう。そうすればほら、きっと水さんだってきれいな結晶を作ってあなたの心の美しさを祝福してくれますよ。おっと、非科学的だなんてツッコミは無しですよ。「科学的に正しい世界観を持った国民」というのだってやっぱり“本来的なあるべき像”なんですから、そんなものを持ち出したら途端に「君の世界観はあるべき科学的世界観から“疎外”されている、再教育しなければ!」なんてことになってポルポト化ですよー。
……結局のところ、何かしら広義の「啓蒙」的なこと、つまり人々の精神や知的要素が無知蒙昧の「闇」に閉ざされているところへ「光」をもたらそうという時系列的進歩の考え方は、どうしても「光」の比較対照物として「闇」を必要とするし、また「闇」の比較対照物として「光」を必要とします。社会のよりよき状態を想定するところでは、その対照物として「よりよくない現在=闇」が、「光から疎外された状態」として持ち出されますし、現状を批判する場合には、それの比較対照物として仮定された「よりよき未来=光」が、一種のイデアとして持ち出されるわけです。「啓蒙」と「疎外」は、そういう意味でコインの裏表のように、切っても切り離せない関係にあります。
「疎外論」を完全に回避しようとすれば、結局のところはよりよき方向への変化という考えを完全に捨てて、「あるべき姿など無い、世はただあるがままにある」という考えに徹するしかないのでしょう。税制改正の提言は「よりよき税制度から人々が疎外されている」という現状認識の現われだし、著作権を巡る議論は「よりよき(ry」だし、そういうのを全部回避するとしたらもう、時系列的に制度などが変化した部分については「ああそう、変わったのね、まあそんなもんでしょ」、変化しない部分については「ああそう、変わらないのね、まあそんなもんでしょ」と等閑視するくらいしか手はなくなります。スピノザあたりがそんなことを言っていたような気がしますが。ニーチェの運命愛もちょっと似てるかも。
……でもこれって、
「“人はあるべき姿から疎外されている”なんてことを考えて現実を直視しようとしない連中の世界観は、人が本来的に持つべき物の見方から疎外されている!」
という主張にはならないのかな? それとも、「“あるべき姿”の主張がマルクスの論点に基づいていればそれは疎外論でありポルポトだが、マルクスに基づいていなければ疎外論やポルポトではない」という前提でもあるのかな。もしそうだとしたら、悪の大魔王マルクスの「悪のカリスマ」性の長命ぶりには驚くべきものがありますな。それとも、冷戦終結によって魔王バラモス(=マルクス)が死んだと思ったら、その背後で真の黒幕である大魔王ゾーマ(=真・マルクス)はしっかり生きていたという、ドラクエ3型のオチなのかしら。早乙女のジジイ!
例えば、
「やい臨獣殿! “強い者が世界を統べることこそ本来の姿、その本来の姿から疎外されたこの世界を変えてやる”なんて言って人々を苦しめるなんて、このゾワゾワのポロポロ野郎!」
「なーに言ってるのよ、あんたたちこそ“本来の獣拳は正義の拳、いまはそこから疎外されている状態だから臨獣殿を倒してあるべき姿に戻す”なんて言って、力ずくで正義を押し通すポルポトじゃないの。文句があるなら実力であたしたちをねじ伏せてみなさい、このカクシターズ!」
とか、
「おばあちゃんが言っていた、俺は天の道を往き総てを司るってな」
「天の道という“本来あるべき道”のイデアを前提して、万人をそこから疎外された者として見下すとは、君も愚かな男だな。社会においてもっとも重要なこと、それはパーフェクトハーモニー……完全調和だ」
「そう言いながら俺をつけ狙うのも、おまえの言う中和だか調和だかのうちか」
「ライダーは二人も要らない」
「一人のライダーに率いられた組織の完全調和……そこからはみ出した俺は疎外された存在ということか。おばあちゃん、いやポルポトは言っていた、そういう存在は完全調和のイデア世界には不要だとな」
「貴様、俺を疎外論者に仕立て上げるつもりか……だが俺は貴様を倒す。そうしなければ、俺が俺でなくなってしまう!」
「やはり“本来の俺”か……おまえは天の道を外れた」
「!……待ってくれザビーゼクター、戻れ、戻れ……戻れぇーーーー!」
(半年後)
とか。