はてなキーワード: 日本映画とは
41 名前:番組の途中ですがアフィサイトへの転載は禁止です[] 投稿日:2013/08/01(木) 09:11:22.29 ID:EcG7gDw70
http://livedoor.blogimg.jp/hoshusokho/imgs/7/c/7c4a0640.jpg
76 名前:番組の途中ですがアフィサイトへの転載は禁止です[sage] 投稿日:2013/08/01(木) 09:24:35.05 ID:j9DIubHU0
こういうやつな↓
http://cdn52.atwikiimg.com/nippont?cmd=upload&act=open&pageid=34&file=IMG_1811.jpg
自分は恥ずかしながら今まで大政翼賛会のシンボルなんて知らなかった。ナチスの鉤十字はさんざんメディアに登場するのに、翼賛会のシンボルは登場しないから(硬派な歴史番組くらい?)。
これからクールジャパンで世界に発信する日本映画や漫画で、大政翼賛会のシンボルを悪者が使うシンボルとしてどんどん取り入れさせるようにして世界に広めていけば、中国韓国が旭日旗についてアホみたいな誤解をすることはなくなるかも。
id:fut573が、情報収集の重要性について述べています。
その通りだと思います。
ネットではすぐに調べて答えを得てしまい、自分で考える癖がつかない、と言われることがままあります。
ネットやってるとさ、考えるよりもすぐ調べて答え探す習慣付くじゃん | ライフハックちゃんねる弐式
しかし私は現実には全く逆のことが起こっていると思います。ほんのちょっと検索して情報を集めることすら面倒くさがり、手持ちの貧相な知識を元にぐにょぐにょ考えて発言する。そういった行動様式が完全に定着しきっており、ソースすら読まない2ちゃんねるやはてなブックマーク、一歩も外に出ないtwitter上の議論によって糞な発言が堆積し、インターネットは疲弊しています。
1つ例を挙げます。
昨年のGDCでPhil Fish氏が「日本のゲームは糞」と発言した、ということが結構話題になりました。
日々是遊戯:波紋を呼ぶ「日本のゲームはクソ」発言――「数百人の視線と声で嫌な汗が流れた」 - ねとらぼ
実際にどんな議論がなされたのか気になるところですが、少なくともPhil Fish氏が批判した日本のゲームの具体例は簡単に調べられるものでした。
@GaymeBar @GrisserBunny me and jon blow went into more details, comparing the first zelda, and the latest one...
@GaymeBar @GrisserBunny ...and citing a few examples of why we dont like most modern japanese games.
@tiooonnn @Dan_Tsukasa it is. i like oldschool japanese games. it's the new ones i think are terrible.
具体例は「ゼルダの伝説 スカイウォードソード」だったわけです。
これは現在においても簡単に遡って確認できる程度の浅い階層にある発言で、当時はせいぜい30tweetほど探せば見つかる発言でしたし、twitterのアカウントも、アカウント名を見れば分かる通り、簡単に見つかるものでした。
しかし、誰も調べませんでした。
そして、「確かに日本のゲームは糞だな。任天堂とカプコンを除いて。」「ムービーゲーはクズ」「萌えゲーオタゲーばかりで和ゲーは終わってる」といった、単に自分の言いたいことを言うだけの発言がされていったわけです。
んで、
この件に関して、twitter上で録に調べもせずに、適当な推測をかましている人がいたなぁ、ということを思い出しました。調べたらid:fut573とid:kanoseでした。
日本のゲームって昔の日本映画みたいな立場になりつつあるんだなあ…/と思ったが、Your gamesというのは後藤勝氏がFF13のカットシーン担当なのでFF13のことなのかねえ
このyourは「日本の」と取っていいのかなぁ。あなたが作ったゲーム(ファイナル・ファンタジー13とか)がクソゲーと言っているだけとかありえるように思ったんだけど。
@fut573 後藤誠氏ってFF13のカットシーン担当なんですね。「お前みたいなのが作るムービーばかりのゲームはクソ」とも取れそうですが、素性を理解して返事したのか?という疑問も
@kanose 後、この手のイベントで取材する時、身分証明カードみたいなもの首から下げる事多いので、僕は素性理解していた可能性があると判断しました。
英語の解釈や、質問をした人の素性に思いを巡らせる前に、なぜほんのちょっと調べることができないのでしょう?情報の検証が趣味な方でもこうなのですから、id:TM2501があれぐらいの感じになるのはしょうがないですね。
10年以上昔の日本映画やドラマ、海外の映画などを見てると、飲酒運転しているシーンをちょくちょく見かけるね。
それも至極ナチュラルに飲酒運転している。ヤクザのような悪役がするんじゃなく、ふつうの一般市民が。
あれ、君さっき食事のシーンで酒飲んでたよね?いいの?みたいな。
2000年以降の不良ドラマに喫煙シーンってあったっけ?あれほど不良プッシュだった「ごくせん」ですら煙草吸っていなかったような…
昨夜なんとなく見ていたテレビで、懐メロ回顧カラオケみたいな番組をやっていて
とんねるずの曲「一気!」をモノマネ芸能人たちがカラオケしていた。
飲めぬ下戸には ヤキ入れて
つき合い程度じゃ 許さずに
おちょこ コップに鍋のふた
酒さえ入れば
一気! 一気! 一気!…
あ~こんな歌あったなぁ~・・・って、え!?こんなひどい歌詞だったっけ?!
完全にアルハラ&急性アル中生産のダブルパンチですよこれ。いま宴会で一番してはいけないことといったらこれですよあなた。
いやはや衝撃を受けました。
これがよしとされていた時代があったのだと。(てか、この曲を現代の番組で流して大丈夫なのか?テロップも何もなかったけど)
日本映画がオワコンになることはあっても、映画はオワコンにはならんよ。
そういう意味では、日本は映画やアニメにかける制作費が少なすぎて逆にどうにもならない。
海外のように、はじめから世界中で売ることを前提に金抱えて作って薄利多売路線じゃないと儲からない。
それに1800円ってなんだよ・・・それが気になるなら、映画の日に行くとか、チケット屋で前売り買うとか、
あとは、配給しているところの関係者 たとえば下請けとかやってそうなやついないの?流してもらうとか。
安く手に入れる方法は幾つかあるのに、定価で計算されてもね。
ちなみに、レイトが好き。
すごい空いていて、自分の部屋みたいだし、大画面だし 安くなった分でポップコーンとコーラのセットを買って たまの贅沢を楽しんでいる。
不幸と情念と無力感とちょっとだけの幻想を原動力にしていると思う。
イギリスのどうしようもない時期にパンクが生まれたりした事を思い出したり。
ということは、日本映画が面白くない最大の理由は、日本にまだ余裕があるからか。
ということは、落ちる一方の日本では映画がこれからどんどん面白くなるだろう。ヤター!
と思っていたのだが、一方で、最近の日本人の若者は、これを言わないと死ぬに死ねない突き進むようなメッセージ性を映画で表現するような戦い方をするのか?
大体、それってシステムに組みすることだしな。
メッセージ性皆無かもしれないけど、自分たちで面白い動画を作って公開して勝手に盛り上がって、結果的にシステムを空洞化させるとかそちらの方が日本人の性に合っているような気がするし、私なんかが指摘しなくても、彼らが意識的にやっているか無意識的にやっているかは分からないが、実際の今現在はそうなっている感じはある。
結局、若者には面白いもの・可能性があるものをかぎ取る鼻があるし、そう捨てたもんじゃないと思った。
日本の映画やドラマや音楽やアニメやゲームや漫画や小説は駄目だ駄目だと言っているオッサン(私もだ)にはそれが彼らの趣味なのだと割り切って勝手に嘆かせて、精々ノスタルジーに浸らせておけば良い。
いやというか、日本の若者自身がやらずにはいられないことをやれば良いだけの話だし、やっている人はやっているし、こんな事を書いている文章も大して意味はないのだろう。
オッサンの役割としては、自分の思い入れのあるジャンルに興味を持った若者に親切にする、くらいしかないのじゃないかなと思った。
「アメリ」をヒットさせた(ことになってる)叶井俊太郎くんの事。
明日、自己破産するそうだ。
ちょっと待てよ。
うちの会社への未払いはどうなるんだ。
払います払いますってずっと言われてきて、正直呆れ返ってるけど
付き合いも長いからって、経理をなだめてきた俺の立場はどうなるんだ。
その時に心を入れ替えたんじゃなかったのかよ。
その間、君に代わって社長をやってた大橋は
そこの社長にもなって、俺が業界に関わってから一度も見たことがないようなスピードで、
日本映画界ではありえない数の作品を作ってきた。
コンテンツの充実が叫ばれてる中で着実にそれを積み上げて、
まだ若いのに色んなところで話を聞く。
色んな人に可愛がられて、突っ走ってるなと思っていた。
気が付いたら、大橋はトルネードの社長を辞めていた。
その代り、ジョリー・ロジャーの他にも、自分名義の会社を複数作っていて、
そうか、彼はトルネードを叶井に返して自分の道を進むんだなと。
というか、お前との関係をきれいに清算して、
この先もずっと、勢いよく作品を作り続けて行くんだろうな。
この業界も当然のごとく不況だし、大手の配給会社がどんどん潰れてる中、
付き合いが長い叶井の頼みだったらって、
支払いの状況もあんまり良くない中で、それでもなんとかやってきた。
俺はトルネードと一緒にやってきたつもりでいたんだよ、叶井。
そりゃあ自分の食う物にも住むところにも困らないだろう。
お前が残した借金は、自己破産して倒産したらお前の前からは消えるだろう。
でもさ、お前が残した借金は、うちの会社からは消えないんだよ。
そしたら、うちの会社から、減給になる奴が出る。クビになる奴が出る。
家賃が払えずに家を追い出される奴が出る。
今日の飯を食えなくなる奴が出る。
それは、まだ新人の頃のお前を知っている俺かも知れない。
二人は言い過ぎかな。
色んな人に迷惑かけてすみません!!
まあでも起こっちゃったことはしょうがないんで、
一からやり直すつもりで初心に帰って頑張ります!」とか書くんだろう(笑)
それをさ、俺たちに、どんな気持ちで読んでもらいたいの?
「俺、明日自己破産しますんで!!」って
お前が面白おかしくいろんな奴らに開き直って言ってることで救われるのは、
前のプライドだけなんだろうな。
父親になったら、子供に恥ずかしい思いをさせたくないって思うもんだよ。
お前が自己破産したって、会社が倒産したって、何も変わらないんだよ、叶井。
俺はおそらく会社を辞めることになるだろう。
大事にしてきた会社だ。
少ないけれど、補填に使って欲しい金も置いて行くよ。
たださ、俺は本当に映画が好きだ。
今月お前のところからの入金があれば、なんとかこのままやっていけると思っていた。
絶望って、結構簡単なもんだったんだな。
お前とやった仕事、楽しかったよ。
色んな奴にちゃんと謝れよ。
大橋君に借りた金もちゃんと返してやれよ。
お前、一体何千万借りてるんだ?(笑)
お前がうちに残した借金を埋められない限り、俺は映画を続けられない。
迷惑をかけた人がたくさんいる。
法的に責任があるとかないとか、そういう話じゃない。
お前の人生がお前だけのものじゃないってことを、お前は知った方がいい。
http://anond.hatelabo.jp/20100127001517
さらにヴァージョンアップさせるとこうなる。
この時期になると大学生向けに読むべき100冊みたいなリストが出回る。
あんなリストを真に受ける人も少ないだろうが……はっきり言って悲しくなるくらいお粗末だ。
ずらっと並べられた古典名著。あまりに埃の被ったラインナップにがっかりする。
こういった学問には「原書病」とでも言うべき、くだらない風習が根強く残っている。
原典や本文を極度に重視するのは不健全だ。それ自体は面白いとしても、その後発展と整理を経て洗練されている。
歴史的興味以外であえて出発点に戻る価値はすごく小さい。そんなところに本当の「教養」は存在しない。
難解で時代遅れな文章と格闘したって、趣味以上のものにはならないし、考える力は湧いてこない。絶対誤読するし。
そこで本当に頭を強くしたい人が読むべき書籍リストというものを作った。
これは単なる学問という空気に浸ってみたい人が読むものじゃなくて、日常に根ざした本物の力を分けてくれるものだ。
この100冊さえ読めば考える素材に困らないだけでなく、コミュニケーションの強者にもなれる。
飲み会で古臭い古典の話をしたって煙たがれるだけだが、この100冊をネタにすればそんなことにはならないし、
黙考はずいぶんと深くなるし、ブログのネタに応用すれば必ず一目置かれる。
選んだのは現代的で網羅的、そして極めて平易なもの。どの分野にも精通できるように色んなジャンルのものを配置した。
この100冊を大学生活のうちに読み切れば、必ずや一生の財産になるだろう。
ここに挙げられた本が、現代最新型にアップデートされた真の「教養」だ!
『逃走論』 浅田彰
『アメリカン・コミックス大全』 小野耕世
『よいこの君主論』 架神恭介
『おまえが若者を語るな!』 後藤和智
『シミュレーショニズム』 椹木野衣
『箆棒な人々』 竹熊健太郎
『新しい「マイケル・ジャクソン」の教科書』 西寺郷太
『教科書には載らないニッポンのインターネットの歴史教科書』 ばるぼら
だとか自称する一瀬隆重とかいう人間がブログでアホを晒してたので引用する。
スタジオジブリの雑誌「熱風」の取材を受ける。テーマは「日本人はなぜアメリカ映画を観なくなったのか」。
シネコン普及によって映画館がお茶の間化したこと、日本映画を金儲けの道具にできる方法を見つけたことでテレビ局や芸能プロダクションが映画にシフトしたこと、アメリカ映画の企画が保守的になりすぎて飽きられてしまったこと、日本映画バブルのスパイラルによってアメリカ映画の切り捨てに拍車がかかったことなど、いろんな原因が複合的に絡み合っているのだが、そのひとつはインターネットによって情報が(多くの間違ったものを含めて)氾濫していることではないか。実体験することの意味が薄れ、人は何でも知っているつもりになっている。過多に情報が流れているものやすぐに手に入るものでない限り、好奇心を持たなくなってしまった。
浅田彰も言うようにシンプルに語れる問題を婉曲的に長々と語るのはアホのすることなのでアホで合っている。
http://www.eagleeyemovie.com/intl/jp/
最近レンタル開始されていたようなので何気なく借りた。ストーリー自体は、アイザック・アシモフかアーサー・C・クラークが元ネタっぽいよくあるやつなんだけれども、それなりに捻ってあって面白かった。
それにしても、ハリウッド映画における国防総省の登場頻度の高さは日本映画には真似できないレベルだなとつくづく思う。「イーグルアイ」で記憶に残っているものでも、ブラックホーク、F-16、グローブマスターっぽい輸送機などが当たり前のように登場しているし、ペンタゴン上空の映像も何気ない演出で出てくる。中でも無人攻撃機(おそらくMQ-9リーパーだろう)なんて、1、2年前に配備され始めたばかり最新兵器だ。他の作品でも、「ダイハード4.0」や「スーパーマン リターンズ」ではステルス戦闘機F-35が、「トランスフォーマー」ではF-22ラプターやAC-130ガンシップが登場していたっけ。
また、「イーグルアイ」では国防総省が微妙な立ち位置で登場するわけだけれども、こういう作品の存在に目くじらを立てないアメリカのしたたかさが垣間見えるような気がした。あるときは主人公を陥れる陰謀を張り巡らせる機関であったり、逆に主人公をバックアップする心強い後ろ盾だったり、人類存亡の危機に陥れる兵器を流出させてしまう間抜けな組織だったりするのだ。そんな作品を無数に作り出し、大々的に宣伝し世界中で上映させているのだから、それを鑑賞する我々への心理的効果は単なる映画会社の利益を越えたレベルに達しているに違いない。
そうやって「アメリカ国防総省」という存在を、なにやら怪しげで強大で外連味たっぷりな存在であるかのように幻想させる(これはフィクション作品に登場する「CIA」にも言える事か)。世界中の人々がそんな幻想を抱く事を、彼らは意図的に引き起こし、したたかに利用していく。日本のサブカルチャーも、いずれはこういった視野で戦略を立てていく事も求められていくように思う。
中学・高校とまともな仲間が見つけられなかったから東京の大学に行けばすごい奴がいるだろうと思っていた。
しかし、その目論見は甘かった。東京に来てやっとオタクという集団が見えてきたけど、実態は全然ぬるい連中だった。
まず、話してもつまらない。「ああ、逃避の場所としてオタクを選んだんだな」というのが丸わかりなほど、まともな返答ができない奴が多すぎる。会話の中で(こういう言葉は嫌いだが)ボケを言うにもアニメの台詞の引用だとか、マニアックな言葉(ただし、オタク内では全くマニアックではない)を言う程度のことが「面白い」とされている。それですら誰かが言っていて「ここでこれを引用すれば面白い」と学習した上でのコピーでしかないし、全く自分の発想や意見というものを持っていない。アンテナもすっかり折れちゃっているみたいで、話題作をネットのみんなが言っているような感想でしか斬れないし、注目されていないけどこれが面白い、ここをこういう視点で見ると面白い、というものが全くない。
当然、私が自分の考えているアイデアや意見を言うと、あっという間に「お前は面白い奴だな」という評価が定着しちゃったけど、何を言うか、お前らがぬるいだけだ。
そして、オタクは消費も創作もして自給自足するハイパーなユーザーなんだなんて言うのは大嘘だというのがわかった。
行動している奴なんて本当に少数で大半のオタクはただアニメを見て「一緒にオタク作品を消費している」という連帯感で人との繋がりを保ちたいだけ。今のオタクは「孤立したってこの作品が好きなんだ」なんて覚悟はないしむしろ逆で孤立したくないからアニメを見る。
視野が狭くて自分の視野に入ってこないものへの差別意識が強い。見もしないで見下したり、何の根拠もなくオタク文化が上だと思っていたり。
これならギャルや演劇や現代アートの奴らの方がまだ自分の意見を持っていて話していても面白い。面白いなと言える活動をしている人はオタクじゃないことが多い。
ちょっと前に敏感で優秀な若者はゲームやアニメに行っているから日本映画やドラマはつまらないなどと言う言葉を見たことあるが、今はアニメやゲームにも行っていないんだなということがわかった。どこかは自分でもわからない。
要するに自分の掴んだオタク像は話がつまらなくて、自分で面白いものを発掘したり意見を言ったりする能力がなく、視野も狭くて排他的で何の行動もしてなくてダラダラとアニメを見ているだけって感じです。
2000年代はオタクの年だったと言うことができるけど、既に凋落は見え始めていて確実に2010年代はオタクの年ではなくなるだろうなと思いました。
www.midnighteye.comより、雨宮まみの「弟よ!」経由。
長いので二つに分けました。
日本のアダルトビデオ、略してAVと言われているがそれは驚くべき多様性の世界でもある。もし欲情を喚起するためにセックスを描写し、売り物にするのがポルノグラフィの定義なら、どこからどう見てもそれはポルノなのだ。AVは安価で日本中至るところで目にすることができる。この国のどんなビデオショップに行ってもこのジャンルの商品はたいてい、大きな棚を占めている。
しかし、日本の映画表現が欧米で多くの信者を生み出す一方、アダルトビデオはほとんど顧みられていない。日本の得意とする怪獣もの、アニメをはじめとする全ジャンルに関する日本映画のフェスティバルはヨーロッパ・北米で花盛りだが、AVはどこにある?もちろん、日本のポルノは性器を直接描写できないという問題を抱えている。それらは処理画像の向こうにあり、欧米の視聴者にとってはいささか奇異に映るものだ。にもかかわらず、AVは魅力的な分野である。
まずは、ピンク映画。これは1960年代初頭から制作されている。小林悟の「肉体の市場」がおおまかにいってこの分野のさきがけといえよう。性への大いなる情熱、そして時には理由なき暴力や変わった性的ファンタジーまで描写する一方、ヌードシーンは一部に限られ、疑似性交が主を占める。
そして裏映画(訳注:日本語ではブルーフィルムがより的確な表現だと思います)、こちらはさらに映画史の初期にまでさかのぼることができる。こちらは本番ありの無修正、たいてい8分から10分の短い映画だ。白黒映画時代に欧米に存在したブルー・ムービーは時には手の込んだプロットを開陳していたが、日本のはたいてい伝統的な畳の部屋で性交にいそしむ男女を描写するにとどまっている。裏映画が上映されるのは、だいたい温泉街であった。男の客にとっての温泉街でのくつろぎは、しばしば買春と結びついており、そうした街の赤線地帯では法律で固く禁じられている裏映画ショーを楽しむことができた。今日では裏映画は裏ビデオに取って代わられ、そうした未修整のポルノビデオはビデオショップで信用のある客にのみこっそり売られている。
ビデオデッキの普及に伴い、アダルトビデオは1980年代初頭に成長をとげる。家庭で映画を見る習慣が広まり、そしてもちろんビデオデッキが接続されたテレビでセックスを鑑賞することを人々は望んだ。初期AVは、東映や新東宝といった大手ピンク映画会社により支配された。撮影済みの映画をビデオ化し、自宅向け市場へと流したのだが、短いバージョンであることもしばしばだった。市場の急速な拡大につれ、それらの映画会社はビデオ専用の映像を制作するようになった。これらの映像は直接ビデオで撮影されているにもかかわらず、ピンク映画の伝統を踏襲し、ピンク映画のルール・制限に固執した。
ピンク映画会社の制作するAVは、高額な費用をもって制作され、ほとんどの場合有名女優を主役にすえていた。しかし新世代の野心あるポルノ映像作家はビデオという形態は安価であり、あらゆる種類の新しい可能性を提供してくれることに気づき始めた。つまり機材取り回しの容易さ、無限ともいえる長さの尺をとてつもなく低コストで撮影できるということである。
これらの新しい可能性を最大限に生かした最初の監督が、かつてピンク映画の監督だった代々木忠である。「ドキュメント・ザ・オナニー」シリーズ(80年代初め)にて今日のAVにて見ることのできる根源的要素を彼は取り入れた。本番の導入、そして素人俳優の採用によって秘められた日本のセックス事情をドキュメンタリースタイルで描写したのだ。
「ドキュメント・ザ・オナニー」は驚くべきヒットを記録し、映像に関心のなかった投資家連中という新しいグループの注目を引くことになった。裏本・ビニ本業者はAV制作会社を設立し、金鉱とも思えるそのビジネスに飛び込んでいった。
少額の予算でピンク映画会社に勝つために、本番は彼らの切り札となった。こうした決断は大島渚の刺激であるともいえよう。著名な日本人監督である大島がフランス資本で撮影したアートシアター系映画である「愛のコリーダ」(1976年)は、命がけの悲しい情熱を最大限に表現するために実際のセックスをいくつものシーンにおさめた。一方で、非合法である裏映画からの強い影響も見てとれる。裏モノである「洗濯屋ケンちゃん」が一躍注目を浴びることになった。いつ、誰が作ったのかは現在に至るまでまったく不明である。しかし多くのフィルムが出回り、それらはビデオにコピーされた。主要雑誌はこの映像について書き立て、大きな話題となった。裏映画の直コピーの常として、「洗濯屋ケンちゃん」はもちろん非合法なものであったが、新しい本物のセックスという報道記事によって、どんなにお金をかけても得ることのできない宣伝性を得ることになった。
もちろん、新しいAVにおけるセックスは本物であったが、いぜん審査されていた。セックスシーンでは役者の全身はおろか、クローズアップも映し出されていた。しかし、性器とヘアーはAV業界でいうところの「モザイク」と呼ばれる電子的処理画像に隠されていた。処理画像がある限り、スクリーン上のすべてが許された。精液が処理画像から飛び出して、非処理画面に映る女優にかかってもおとがめなしである。ピンク映画では役者のモチモノは家具や植木鉢をレンズとの間に置くことによって隠されていたが、いまや自由な撮影が可能となった。編集の段階でモザイクをかけ、ぼかすだけでいいのである。
そうした映像処理は、海外映画の審査に起源を発している。ヌードシーンはこれまでカットされることはなかったが、俳優の性器は黒塗り、もしくは白のぼかしで隠されていた。この和らげられた映像が、ある程度本来のイメージを知る、手がかりになったのである。
こうした規格を確固たるものにし、政府の取り締まり・警察の逮捕といった危険からAV産業を守るため、AV会社により自主審査団体が設立された。映倫(ピンク映画を制作する業界により審査委員会が運営されている)をモデルとしたビデ倫が設立された。業界トップは、AV監督がアナーキーな連中の集まりであることを正確に把握しており、最初から強い手段をとることにした。ルールを守らせるための必要な権威づけのために、ビデ倫は審査委員会に警察官僚や役人の天下りを呼び寄せたのだ。
現在ではAV業界は一大産業を形成している。しかしその内訳はさまざまである。ピンク映画会社が今もなお重要な役割を果たす一方、無数の小さな会社があり、世には知られぬ顧客の嗜好を満たすべく特異化をはかっている。とはいっても、AVには二大分野が存在する。つまり、「単体」と「企画」である。単体ものはふつう、大きな会社が扱うが、大予算とひとりのスター女優に焦点を合わせるところに特徴がある。美しい女の子を起用し、なるだけソフトに、かわいく作られる。一方企画ものでは4、5人の女優が一本のビデオに出演する。彼女たちはかわいくもなく、見た目がイマイチであるのは決して珍しいことではないが、カメラの前での行為は大胆不敵である。企画ものはセックスについて変わった側面を取り上げることが多く、小さな会社が制作している。企画ものの方が予算が安く済むからだ。単体女優はスターであり、一本につき100から200万の金を手にする。企画女優はというと、10万から20万といったところだ。にもかかわらず、ふたつのやり方は相互補完的だ。多くの男性視聴者は女の子にふたつのことを望む、つまり可愛らしさと変態さだ。
日本では魅力的な若手女優が必要とされており、単体の女の子はスターでありアイドルでもある。企画の女の子はというと、タレント的であり、それはアマチュアを意味する。こうしたタレント募集のやり方はまさしく日本的だ。モデル事務所やタレント事務所は多くのスカウトマンをかかえている。スカウトマンは若い男連中であり、ファッションに敏感な若い子でにぎわう東京の一角に、前途有望な娘を見つけるべく徘徊している。彼らは若い女性に声をかけ、音楽・ファッション業界の仕事をもちかける。実際、ファッションモデルやテレビのエキストラになる場合もある。レコード会社が特定の容姿を歌唱力より優先させたい場合には歌手になることも。一部の女の子たちは、スカウトマンから声をかけられ、そうした仕事に着くことを夢見ながらおしゃれして渋谷・原宿の通りを歩く。しかし多くの場合、モデル事務所はAVの仕事をもちかけ、そして多くの女の子が「いいですよ」と答える。街角からリクルートされたタレントたちの登場するAVの信じられない本数が示すように。彼女たちはたいてい手っ取り早く金を稼ぐためにAVに出演する。もしくは冒険や遊び心、モデルキャリアへの道を見いだしているのかもしれない。
企画もののスタイルやジャンルを一覧にするにはいささか数が多すぎる。しかしその中で最も重要であり、かつ一般的なものをあげるとしたら、ピンク映画の時代から続く、ずばりそのものの異性間セックスが最初に来るであろう。教師・女生徒・看護婦といったちょっとした嗜好を交えたり、レイプ(AVでは一大分野だ)・緊縛などの暴力の一形態を伴うこともある。しかしAVはビデオならではの特異なジャンルも拡大しつつある。ブッカケ(集団男性が女性の体に射精する、顔がより好まれる)や密着ドキュメンタリーの特殊なケースであるハメ撮りなどである。
ドキュメンタリー的手法は日本のAVの多くに見られる。しかしハメ撮りほどドキュメンタリー的なものはないであろう。手短にいうと、ハメ撮りはポルノ的日記の一種である。それは男性(たいていカメラマンや監督である)の主導のもと、タレントや女優をフィルムに収める作業である。カメラ片手にしゃぶってもらったり、テーブルに置かれたカメラで性交を記録したり、時には行為中にずばりそのものにカメラを向ける。こうしたやり方がたぶん、映像にじかの力を与えているのだろう。キャストなし、クルーなし。ただふたりがやって、その男がまさしくそこでセックスをしている、非常に個人的な視点を視聴者はまっすぐに見せられる(原注:残念ながら、筆者は女性による女性の視点からのハメ撮りにお目にかかったことがない)。
しかし、ハメ撮りの売り物はセックスだけではない。セックスと同じくらいの興奮を呼び覚ますのが、ふつうの、一般的な女の子がどうやって「演じる」かという点だ。彼女たちは朝、地下鉄であなたの隣りに座っていたかもしれない、夜にはビールを運ぶウエイトレスだったかもしれない…夢みたまえ。ハメ撮りが売るもの、それは夢であり、日本の男たちが望むけど実現不可能な、あるいは現実には十分に得られないような性的出会いがあるかもしれない、という夢だ。でもそのイメージはリアルである。それこそ手に取れるくらいリアルだ。
<カンパニー松尾: ハメ撮りの達人>
今日のようなハメ撮りを作ったのが、カンパニー松尾だ。ハメ撮りという生まれたてのジャンルを親密な映像体験に仕立て上げた。彼の代表作である「オークション01」「オークション02」は2004年に制作された。これらの作品(デジタル撮影され、DVDにて販売されている)は松尾が出会ったさまざまな女性との個人的な出会いを多く収録している。
たいてい松尾はレディースコミックに広告を掲載し、彼と会う勇気を持ち合わせた女性を募集する。作品の各章は彼女たちが実際に電話をかけるところから始まる。松尾は彼自身が電話を取り、待ち合わせ場所を決めるシーンをカメラに収める。次に私たちが見るのは、松尾が彼女のいるところに向かって移動するところだ。松尾はおおいに旅を楽しんでいるように見え、それを日記スタイルで撮る。いろんな駅のシーン、車窓からの眺め、日本の日常光景は常に導入部分となり、彼の行き先を示す。最終的に彼は女性が指定する場所で面会する。その場所は彼女の住む町だったり、リゾートだったりする。女性はときに彼をからかう。居場所を推測させたり、行き先の張り紙を残すこともある。しかしたいていの場合、駅などの待ち合わせ場所に彼女たちは素直に現れる。松尾は非常におだやかに話す、好ましい感じのする男だ。こうした資質がものごとをうまく進める理由であるに違いない。しかし最初から明らかなのは、彼女たちはお金を受け取っていて、なにやらセックスのようなものがこのふたりの参加者のあいだで始まることだ。
まず第一に、松尾は女性のことを知りたがる。彼らはしゃべり、冗談をとばし、お互いが容易になじめるみちすじを探す。そしてすべてはカメラに記録される。今回の出会いに至った動機、いつもの生活、そして夢。ついに彼らはホテルや彼女の自宅へと向かう。
この段階において、視聴者はすでに彼女について十分知っている。とても親しく感じられる。ある娘たちは積極的にセックスに至ろうとするし、渋々な娘もいる。なんであれ、松尾は撮影する。彼女が「だめ」と言う時でさえ、松尾はありのままにカメラにおさめる。驚くべきことは、女性たちは作品の中では自らについてとてもあけすけで、その多くがセックスの段になっても決してシャイではないことだ。日本の女の子が実際にどうやって考え、何を求めているか知りたければ、多くの洞察がここから得られよう。
松尾は1965年、日本の中央に位置する愛知県に生まれた。高校時代から、松尾はテレビ業界を希望していた。専門学校を卒業すると、松尾は音楽番組制作会社に入った。この仕事には彼は大いに失望させられた。音楽のことを考え、バンドの内面を映像化するかわりに単調な台本を追う日々だった。ひょっとしたら意外でないかもしれないが、会社はほどなく倒産した。失業した松尾は飲み屋で昔からの友人に会う。友人はAVの世界への参加をもちかけた…ここからは彼自身の言葉で語ってもらうとしよう。
2006年の2月に私は東京のファッショナブルなエリアである原宿にある、新しく広々とした松尾のオフィスで彼に会った。ちなみに原宿は日本の若者文化の先端を行くホットスポットとして知られている。
だとか自称する一瀬隆重とかいう人間がブログでアホを晒してたので引用する。
スタジオジブリの雑誌「熱風」の取材を受ける。テーマは「日本人はなぜアメリカ映画を観なくなったのか」。
シネコン普及によって映画館がお茶の間化したこと、日本映画を金儲けの道具にできる方法を見つけたことでテレビ局や芸能プロダクションが映画にシフトしたこと、アメリカ映画の企画が保守的になりすぎて飽きられてしまったこと、日本映画バブルのスパイラルによってアメリカ映画の切り捨てに拍車がかかったことなど、いろんな原因が複合的に絡み合っているのだが、そのひとつはインターネットによって情報が(多くの間違ったものを含めて)氾濫していることではないか。実体験することの意味が薄れ、人は何でも知っているつもりになっている。過多に情報が流れているものやすぐに手に入るものでない限り、好奇心を持たなくなってしまった。
浅田彰も言うようにシンプルに語れる問題を婉曲的に長々と語るのはアホのすることなのでアホで合っている。
一番新しいカンヌ最高賞のやつ。
まだ公開されてない(3/1から渋谷で見られる)。試写で見た。
ネタバレになるかもしれないので、内容などに触れた部分は消します。
本題は後半、20代前半女の自分語りです。
なんていうか…登場人物全員にイラっとして落ち込むいい映画でした。
知人はカメラワークを褒めていた。めっちゃ褒めていた。
私もそうだけど、素晴らしい日本映画のカメラワークと似たような
意匠を込められていた気がしてそこまで斬新とは思わず…
ユリイカとか、小津映画とか、そっちのほうが個人的には好きなカメラの運び。
なんというか、日本映画のカメラワークには呪いがかけられてる。
でも、私がいう「優れた日本映画」のカメラの視点ってなんか「見守ってる」感じがするけど、
この映画のカメラワークは「見張ってる」感じがしました。ジトッとした視線というか。
そこが、チャウシェスク政権下のルーマニア云々…をリアルに再現していて云々…で、評価されているんだろう。わかるよ。
お話自体もすごい悶々としてて、どれだけ問題をクリアしても目の前のモヤが晴れて来ない感じの話でした。
これで良かったのか?悪かったのか?ジャッジしてくれる人もいないし、人に話すべきことでもない。
自分の責任で引き起こして自分だけで解決すべき、なのに、愛すべき人を悪い形で巻き込んでしまう。
でもこの背負っている「現状」は、巻き込んだ人たちについて後悔したりリカバリーしたりする余裕も与えてくれない。
現状打破のために少しずつ世間や法から脱線していく…
戻れない所まで来てまわりを見渡したらひとりぼっちだった…
なんというか、映画版プチ「闇金ウシジマ君」を見ているような…
ちょっとした判断ミスで何かが変わるあたりがなんかそっくり。
気になった人はぜひ見てください。
加えて、私の今の状況にもすごく似ていてすごくイヤな感じでした。
取り繕っているわけでもない、とりあえずなるべくいい手段をとっているつもりが、どんどん悪くなっていくような…
私は、あまり自分が何をしたいかわかってない。
先日、職場の直属の上司に「あなたが何をやりたいと思ってここにいるのか、わかんない。
ただ『ここにいるだけ』のように見える」と言われた。
全くその通りだと思う…。
やれる範囲のことをやってお金を稼いでいるだけと言われればそうですとしか言いようがない。
私はただ軽作業をしてお金をもらって食いつぶしているだけです。
すみません。
でも私は今は出来ることをやるしかない。借金が150万ぐらいある。
それは家庭の事情でどうしても家を出なくてはいけなく、一人暮らしするにあたり背負ったものが焦げ付いたのだ。
ここでの仕事は当面、あと1年弱はやらなくてはいけないだろう。
貯金もしたかったらもっといなくてはいけないかも。
要するにお金のために働いているので、やりたい仕事だろうがやりたくなかろうがとにかくやらなくてはいけない。
幸い、私の仕事は割がいい。風俗関係では全くないが、マトモな感じではない。説明しづらい感じ。
まぁまぁ華やか。華やかで楽で割がいい。周囲から見たらさぞムカつくと思う。
実際「うらやましすぎるから」という理由でマイミク切られたこともある。何じゃそりゃって思ったけど。
その仕事をもう数年続けている。
「あーそーだよ!じゃあ私がやりたいことはここにないのでさようなら!」と言えない私もいる。情けない。
ついでに言うと仕事なくなるのやだから言うつもりもない。情けない。
その目的があれば、それに向かって一直線に進める自信はあるけど、進みたい道がない…
どうやって道を探せばいいのかもわからない…
ただ、今わたしは出来ることをやっていって、そこで得た何かを自分が好きなことにこつこつとつなげて、
同時進行でやっている勉強といつかリンクする日が来るかもと思っているぐらいだ…
「じゃあどうしろと言うんですか、やめればいいんですか、ここにいてはいけないんですか!?
私は今やりたいことをおおっぴらに流行っていないけど、公言せずに自宅で勉強をしています。
借金もあって自宅で勉強するぐらいしか出来ないけど、したいことに向けて頑張ってます。
こういうことを四六時中言って回らないと納得しませんか?」と言ってしまった。大人げない。
上司は困っている時はアドバイスが欲しいタイプで、私は「困ってもコトはなるようにしかならない」ので、
でも実際私には全くどうしていいのかわからない。
「どうか今は見逃してください」って言うぐらいしか出来ない。
(↑それも結局は言わなかった。かっこわる。)
ここ2年ぐらい、こんな感じでずっと五里霧中だ。
「ここにいる人は、みんなやりたいことを見つけてここにいるから、
そうじゃないあなたみたいな人は、人として下に見られ続けるよ」とも言われた。
そうだろう。そうじゃないって言う人もいるだろう。
でもこの人はずっとずっと私がやめるまで心の中でひっそりとそう思うんだろうなって思った。
一番近くの人にそう思われているのは辛いね。
仕事さぼってるわけでもなんでもないのに、人として見下されるのはキツいです。
私には自信のある能力とか、才能とか、そういうのは全くないと思う。
全般において全く自信がない。何かにぶつかる勇気もそんなにない。
出来るのは何かに感動するのと人に少し心を配って優しくするぐらい…。
でもそれでご飯が食べられるわけでもない。
だから、運良くもらえた今の仕事をこなしているだけなのだ。
頼む世界よ。もう少し待ってくれ。
150万を返せばもう少しは動ける。それまで勉強もちゃんとするから。許してください。
お願いします。仕事の割に稼いでるとか言われても困ります。クライアントに言ってください。
ただ単に、その値段で振ってきただけなんです。
最近出来たクライアントはたまたまそのポストに穴が空いたときに、私の顔見て気に入ったから振ってきただけなんです。
顔採用なんです。ほんとすみません。でも仕方ないんです。
ちょうどその時たまたま余裕あったから仕事受けたんです。それだけなんです…。
私が誰かわかった人、居ないと思うけど、わかっても知らないふりをしてください…
http://anond.hatelabo.jp/20080208214501の増田です。
日本映画は60年代が面白かった。ロックは60年代が面白かった。歌謡曲は70年代が面白かった。プロ野球は王長嶋時代が面白かった。漫画はジャンプ黄金期が面白かった。ゲームはファミコンやスーパーファミコンが面白かった。
これは自分はちょっと違うと思ってて(そういう見方もあるのは判るけど、そればかりとも思っていないというか)、
それらのその時期ってのはいわゆる開拓期だと思うのね。まだまだ誰も踏み入れてない世界がだだっ広く用意されていて、そこをキャッホーイって感じでガンガン拡げていける時代。
業界としても熱い時期だし、目新しい分世間にも注目されるし、それによって質の高いものも供給されるし、確かに黄金期でもあると思う。
でも、その後に待っている円熟期だったり、そこで生まれるある種のアナーキズムというか、偉大な先人達が一通りやり尽くした後に、それをどうひっくり返して遊んでやるかって世界も自分は好きなのよね。
もう普通に開拓するのは無理だから、世界全体をメタに捉えてやる感じというか。
だから、あんまり何かの話題になったときに、所謂その辺の黄金期を絶対として今の○○はつまんない、あの頃の△△が最高だったんだ、的な事を言う人が自分は好きじゃない。
今でもその世界で必死に頑張ってる人たちも居るのに、それを知ろうともしないで昔の綺麗な思い出だけであんまり簡単に否定してくれるなよ、というか。
まあ多分、自分がそういう風に思うのは、自分が物心ついたときには既に色んなものが一周していた世代だからなんだろうなとは思うんですけど。
いやいや、そんなことはないでしょ。どんなジャンルでもピークがあるんだよ。
日本映画は60年代が面白かった。ロックは60年代が面白かった。歌謡曲は70年代が面白かった。プロ野球は王長嶋時代が面白かった。漫画はジャンプ黄金期が面白かった。ゲームはファミコンやスーパーファミコンが面白かった。
それを過ぎると新しい試みもなくなって焼き直しの繰り返しになって、雰囲気がだれて衰退する。これはあとから新しい人が見ても「ああ、この頃がピークだったんだな」って全盛期の熱気と面白さがわかるもの。
「今の○○はつまらない」とよく言われるのにはそういう背景があるんだよ。個人の情熱の衰退だけに帰するには無理がある。
タレントって、あれだ。特殊技能があるわけじゃないが、テレビに出てへらへらしている連中。それがちょっともめてることがあったよな。なんで、長いことやってるxxじゃなくて和田某を持ってくるのかと。
ファン心理には同情するが、日本のドラマとか映画はプロがやるものじゃないんだよ。その辺をわからないと、いつまで経っても不幸なままだ。
ちょっと売れた歌手がテレビドラマに出るなんてよくあるだろ。有線の再放送で小泉某とか堀某のへったくそなドラマをよくやっているよ。70年代中期くらいまでは舞台出身の俳優がドラマの主人公だったが、そのうち人気のある小娘なら誰でもよくなった。
やがて、ドラマってのは人気のある小娘がやる物になった。プロの俳優なんてテレビじゃ必要ないんだよ。日本のテレビってのはそういうものだから。マスマーケットにフィットしそう商品をあれこれ妄想して出してるんだよ。そんでもって、そいつらがいまや日本映画の最大のスポンサーなんだよ。金も出すけど口も出すよ。視聴率上げるためだったら母親の内臓だって売る連中だよ。
これまで築いてきたもの、なんて尊重されるわけないじゃん。マスに乗りそうになったら、ワイドショーの司会者が知っているやつに置き換える。それが鉄則。