はてなキーワード: 日本映画とは
あー、分かる、分かるわー。
ダサいよねー、日本。もう日本自体がダサい。って言うかダサイって言葉自体がダサイしそれを匿名で書いちゃうのはもっと(略
だけどまぁ映画はやっぱ洋画? 日本映画とかつまんないしさ、あと音楽は洋楽? JPOPとか誰も聞いてないし。
それから絵画もだよね、モネとかダリとかよく知らないけど有名な芸術家ってみんな西洋じゃん?
あ、あとおにぎり? おにぎりダサイからハンバーガーだよね。ってか和食ダサいから洋食って話か。
それと後なんだっけ? 洋ゲー? うんFPSサイコー。和ゲーとかオタクでキモいし、萌えとかダサイ。
とか俺も思ってたわ。中学生くらいの時。
アンバランスに見えるところまで含めて完成しているのであって
一つ石を抜いただけで、全体がガラガラ崩れ落ちる、
ワンシーンを抜いただけで印象がガラッと変わる。
そんな繊細さをもった全体なんだよね。
期限内、予算内で完成し公開され、そして大ヒットした。
それが事実の全てであって、それが監督以下スタッフの総力に対する評価だよ。
最初から海外を意識した版を作ったら大コケしてた可能性も当然ある。
それに、個人的には、ハリウッド方式で世界展開を目指すやり方が
「世界展開のために」する配慮なんてものが、いまの日本映画でうまく機能するとは思えない。
今回の映画は別に世界向けに作らなかった。ただそれだけのことで、
それ以上はもう「余計なお世話」だと思う。
もう「自分でその配役で撮ってみろや」以外に言うことはないよ。
そういうもろもろの意味で、今回「製作委員会」とやらがなくて本当によかった。
そう思わされたよ。
えー、昨夜こちらの記事を書いた者です。
http://anond.hatelabo.jp/20160821212820
先の記事読んで頂いた方々に心からお礼とお詫びを申し上げます。
以下、告白というか白状です。
前記事の私の体験話は100%真っ赤な嘘です。シン・ゴジラは初日に胸躍らせながら見に行きました。
感動で泣きました。いろんな人に「この世紀の傑作を見ろ!」と言って回りました。
ハッキリ正体を晒すと、私は以下の記事をブログに書いた者です。お陰様でこちらの記事もいろんな方に読んでいただきまして、先の増田を読んだ人の中にも目にした方がいるのではないかと思います。
シン・ゴジラ感想(ネタバレ極力無し) 昭和29年と2016年の「今この瞬間」 - 銀河孤児亭
http://d.hatena.ne.jp/adenoi_today/20160731/1469941620
さてでは何故そんな私があのような増田記事を書くことに至ったのか。
それは、シン・ゴジラを巡るもろもろの論争が、あまりに私にとって居心地の悪いものだったからです。
例えば「半減期20日間というのは福島の現状を思うと都合が良すぎる」という意見がありました。そうした不満を持つのは至極まっとうなことであろうと思うのですが、「フィクションだろ? 現実と区別つけろよ」という雑な(嘲笑混じりの)反論を何度も見ました。
例えばこちらの記事です。
『シン・ゴジラ』、ゴジラがあまりにかわいそう。(花田紀凱) - Y!ニュース
http://bylines.news.yahoo.co.jp/hanadakazuyoshi/20160812-00061061/
批評的に価値ある記事とは思いませんが、注意深く読めばあくまで「個人的感想」の範疇に収まる言葉遣いがされていることが分かります。しかしこんな文章もネットでは袋叩きにあっており、その光景は率直に言って醜悪なものでした。
確かに彼女の漫画内のセリフに問題があったのは確かでしょう。「どんなに映画に不満があっても、それを楽しんでいるファンの感性まで馬鹿にすべきでない」という真っ当な批判がありましたが、一方でそう口にする人々が同じ口で「あれをただ動いてるだけとしか感じられないなんてクリエイターとして感性に問題が…」などと言っているのをいくつか見ました。「感性まで馬鹿すべきでない」とは何だったのか。
さらには彼女が挙げた「面白かった映画」まで腐していくようなリアクションも多く見られました。そうした発言は以下のようにまとめられていますが、こうした批判側に同じ穴のムジナが大量に存在した事への言及は極々局所的にしかされませんでした。
「粟や稗しかなかったのはこれまでの邦画」「いま、会いにゆきますが中トロって感性が死んでる」という話や日本映画ファンの反発 - Togetterまとめ
http://togetter.com/li/1014983
シン・ゴジラを賞賛する意見の中には、ついでのように「最近の邦画」を雑に腐していく意見が非常に多く見られました。そうしたツイートをRTして拡散している人たちは、とても普段邦画なんてちっとも見てそうにない人たちばかりでした。中には「シン・ゴジラがヒットすることで映画界の人々が過ちに気付いてくれることを祈る」とまで言う人までいました。
私も邦画はあまり見る方ではありませんが、今年であれば「殿、利息でござる」は無理な恋愛要素も歪なキャスティングも無い極めて良質な映画だったと思います。
彼らは自分の発言を「あくまで邦画界への批判であり、邦画をよく見に行って楽しんでいる人たちのことまで馬鹿にしたつもりはない」とでも思っているのでしょうか? 正直「何も考えていない」としか思えませんでした。
前増田記事は「下手につっこまれないように」と、できる限りの注意を払い書いた文章です。その甲斐もあってか、多くのブコメからある程度好意的なコメントをいただき、流石にここまで気を使えば叩かれることはなくなるのか、と安心しました。しかし一方で「あの映画を純粋楽しめないなんて可哀想な人」「この手の人って生きててしんどいだろうなー」など、まるで私の書いた感想を持つような人の人間性に問題があるかのようなコメントを平気でつけていく人も多少散見されました。
また、コメントで指摘されている通り、私の前増田記事に載せた批判意見のほとんどは、既にネット上でも多く話されているものであり、大してオリジナリティのあるものではありません。
しかし平気で多くの人が「シンゴジラ批判意見にまともなものが無い」などと言います。そんな雑な発言が200も300もRT、Favされています。そんな状況が、私にはとても悲しく、情けなく、腹ただしく感じられました。
去年私は実写版進撃の巨人を見に行って、このような記事を書きました。
実写版「進撃の巨人」が割と最高だった話 - Togetterまとめ
幸いこの時もまとめ記事に直接つけられたコメントやブコメには、(一部を除き)そこまで私の感性ごと批判してくるような意見はありませんでしたが、ネット上の進撃の巨人叩き意見の雑さたるや、今炎上しているシンゴジラ批判記事なんて大したことはありませんでした。しかし、それに対し反論する人はごくわずかで、みんな何の気無しに「こんなん誰が得したんだ?」などと平気でつぶやいては、しばらくするとそんな自分の発言すら忘れていくようでした。
いえね、正直に言えば、みんなもっと雑に批判すれば良いんですよ。雑に褒めれば良いんですよ。好きなだけ皆で殴り合って、次の話題作が出た時にはそんなこと忘れてまた握手すれば良い。
前増田記事は、シン・ゴジラにノレなくってモヤモヤしてて、けど下手につまらなかったとも言えずにいる人たちへのエールです。結局絶賛してる人間が書いてる嘘記事なんだから、そんなんエールになるかよって気もしますが、私なりの心からのエールです。
シン・ゴジラ見て、面白くなかった奴、納得いかなかった奴、気に入らなかった奴、面白かったけど正直そこまで…って奴。
大丈夫だよ。てめえらの感性はちっとも間違ってねえよ。自信を持て。自分の感じた気持ちに胸を張れ。あんな下らねえ奴らに負けてんじゃねえ。
俺から言えるのはそのくらいだ。
って思いついた話。
夏コミも無事に終了したため「シン・ゴジラ」を鑑賞してきました。
ゴジラ氏をはじめとする個性の見える怪獣達に親しみを持っていました。
(当時はモスラが可愛くて好きでした)
更に同時期、我が家でフル稼働していたSSソフト「ゴジラ 列島震撼」をプレイしていたことにより、
私の中のゴジラ氏はすっかり愛着のあるキャラクターと化していました。
※「ゴジラ 列島震撼」…SS向けに1995年に発売されたRTSであり、自軍であるGフォースの兵器を用いて都市部に現れる怪獣を殲滅していくゲーム。
ちなみに難易度が糞高い。基本、複数の怪獣が出てくるステージは怪獣を同士討ちさせることに全力を注ぐプレイが必須。
世間では蒲田くんだなんだと呼ばれて人気の第二形態、あれ普通に恐ろしかったからね!
(しかし早くも二次創作にキャラクター化して落とし込まれる様に日本のオタクのたくましさを垣間見ました)
恐竜とも水生生物ともつかない見た目にエラから露出する赤い中身。
そんな得体のしれない生き物が血を流し、更に大きく進化していく。
最終形態を見たときには絶望しかありませんでした。勝ち目ないじゃん!私アイドル辞める!
今回のゴジラ氏は今までよりも身近な、より現実的な脅威として私達の前に立ちはだかったのです。
さておき、私エヴァも好きなんですね、腐女子的な要素を抜きにしてもすごく。
リアルタイムでは見ていなかったんですが、やはりそこは社会現象。
深夜の再放送などで目にする機会が多く、旧劇場版(区別のため、あえてこう表現します)の
TV版放送のときから新劇場版が上映される今の間にネットなどの情報網も発達し、
隠されていたメッセージや設定など、語り尽くされている感こそありますが
それを置いてなお今も人々の心を捉えて離さない作品だと感じています。
私自身漫画を描く人間なんですが、エヴァのカット割りや間のとり方などの作品に流れるリズムは
今でも参考にしています。
今回の「シン・ゴジラ」、ネットでも様々な方が仰っていますが、
シーン一つ一つの割り方やBGM、果てはヤシオリ作戦への流れ方など
ちゃんとゴジラという枠組みなんですけど、庵野監督の作品に落とし込まれている。
見方を変えれば公式の超金のかかった二次創作との解釈もできてしまうんですが、
多くの人を巻き込んだ一流のエンターテインメントであることは間違いありません。
日本映画の到達した「点」を目の当たりにできたことを幸せに思います。
ゴジラとは綾波レイなのではないか、という妄想、もとい仮説です。
無口で感情に乏しいという日本美少女界のテンプレートを不動のものにしたレジェンド。
彼女は劇中で主人公のシンジと触れ合うことで人間らしさを見せ、
かと思えば新旧劇場版では世界をヤバイ状態に落としこむお茶目さんです。
ミクロな部分で語ると旧劇場版の人がLCLへと変わっていく描写が有名でしょうか。
あの刹那の彼女は、人類それぞれの一番想っている相手へと姿を変えました。
そのキャラクターはシンジはじめ劇中の登場人物、そして庵野監督、
果ては我々観客の望みによって変化し、確立されているように感じるのです。
ゴジラは私が生まれる前から恐怖の象徴として、人類に対峙するものとして、
あるいは正義のヒーローとして、そのかたちを様々に変え今も愛され続けています。
その我々の望みを吸って息をする、ある種世相を反映するあり方に
私は綾波レイと同じ血が流れていると感じたのです。
恐らく今回のゴジラ氏もそうで、あれはきっと我々が望んだ姿なのです。
そしてこれからもゴジラ氏は我々の望みによってその姿を変えていく、
そういう生き物なのかなと。
どんな結末であっても受け止めるのはもちろんなんですが
なかなか希望の持てない現代社会で揉まれる腐女子は思うんです。
考えが浮かんだときはやばい!天才だ!と思ったんですが文章にまとめるとそうでもありませんでした。
お付き合いいただきありがとうございます。熱量を吐き出す場所がほしかったんです。
最後に、多大な熱量でこの作品を生み出してくれた庵野監督には本当に感謝です。
新作のヱヴァンゲリヲン、ご健在のうちに世に出していただければ嬉しいです。
どれだけでも待たせていただきます。
邦画好きは好きな映画を書きまくればいいと思う、こんな風に。オススメするからにはTSUTAYA辺りで手に入るものが好ましい。
自分の好きな邦画を並べることで、わりと趣向が見えてくる気もしないでもない。
先に感想を述べると、批評家受けするのもかなり好きだけど、批評家受けしないのも結構好きなのが分かった。。
ホラー見たらトイレいけなくなるのが苦手なので、好きな人はホラー映画も薦めてほしいところ。黒沢さんとか。
ちなみに最近見て好きになった洋画は、「セッション」と「マッドマックス」と「きっと、うまくいく」(ボリウッド見ようぜ)です。
京アニ好きは必ず見ること。のんのんびよりファンも見ること。可愛くて悶え死ねる。山下敦弘の絵作りが最高。山下監督好きだ。
他にも山下監督で言うとリンダリンダリンダとか味園とか、音楽と混じったときの爆発具合が好きだな。
小規模で公開され話題を呼んで、ロングランになってましたね。最近そういうの少ないな。ミニシアター系の消滅が大きいのか。
アクションだらけの野望篇。そんなのありかの革命篇。革命編も好きだ。
ドラマからの流れもあるけれど、日本映画らしくないアクション映画としてとても好きだ。ドラマ見なくても行けるだろう多分。あとでドラマ見ればいい。
脚本・宮藤官九郎。とは言うけどSPと一緒で金城一紀の作品だ。正直クドカン映画脚本はこれがピークだ。
今やったらいろんなところから苦情の嵐だろうけど、邦画は今でも結構攻めているのが好きだ。政治や社会情勢にメスを入れる作品は毎年ある。見てない人が多いだけで。
まぁそんなこと抜きにして勢いがあって好きだ。
柴咲コウはバトルロワイアル→GOで世間に見つかった。超可愛い。
ここで紹介する?って感じだし、まぁ見てる人多いと思うけど好きな邦画を並べてるだけなので。
映画1作目が最高で傑作。あとは見るな。
ドラマのが好きだったとか言わないで。映画もポップで細部までこだわっているのが良い。
邦画好きが薦めてくれ無さそうな映画なのは理解しているが、出演女優にリアルで恋できる映画。ある種のAV。
こう見るとドラマ映画も悪くは無いよね。
なのでもう一本だけドラマ映画を置いておく。2作目は見るな。
一作目は傑作で、二作目はエンタメに振った。一作目が評価されがちだが、二作目も結構好きだ。
最近あまり見なくなってしまったハードボイルドをしっかり描いてるアクション映画。大人の男の嗜みとしてどうぞ。腐女子も可。
井浦新がARATAだった時代か。脚本はGOより劣るけどそれでも原作と出演者と意気込みみたいなのが凄かった。
これも評判がよく拡大上映された作品。あ、監督お久しぶりですハガレン頑張ってください。
今気付いたんだけど、窪塚好きみたいだ。最近脇役で時々見るけど、主演を食う感じがたまらんすよ。
これも評判がよくロングラン。噂に聞くところによると、この映画を見て役者を目指した今人気の若手男性俳優たちが、結構居るらしい。
83分の中で止まることなく加速しまくるけど、どこか静かな感じ。もう10回は見た。
ていうか松田龍平も好きみたいだ。彼の映画見てたら間違いないとこ、結構あるよね。
なので松田龍平映画を。この映画はなんというか、完璧。隙が無い。長いのに静かなのにThe邦画なのにぐいぐい見てしまう。
テレビ放送版は大幅カットが加えられてて黒木華の出番がほぼ無くなっていた。残念なのでCMカットじゃないの見て。
田舎風景に浮かぶ毒舌ロリータと時代錯誤のヤンキーが繰り広げる百合…じゃなく友情劇。
なんかいろいろあるけど、まあいいじゃん!ってすっ飛ばしていく演出が、結構好きです。カラッとしててね。
10分アニメかと言いたくなる畳みかけてくる小ネタが延々続く。堺雅人に胃薬をあげたくなる映画。
見終わった後に何も残らない感じがたまらない。南極行ったって、日常とはそんなもんである。
沖田監督好きだ。モヒカンは5分ごとに小ネタが来て、かなり良かったです。
周防監督忘れてた。慌てて入れた。和製ミュージカルっす。色彩がとてもきれいなコメディ映画。
「YEN TOWN BAND」復活に懐かしい~~となるなら映画を見なさいな!
同監督の花とアリスもおすすめ。世界観が確立されている監督だよなぁ。
こう…急に薬師丸ひろ子をぶっこみたくなった。Wの悲劇とかも見とくべきではないだろうか。
ぱっと思いついたのはこのあたり。あくまで「好きな映画」であり「良い映画」を羅列したわけではなく、良い邦画はもっといっぱいある。
最新作とかは、一旦自分の中で寝かせて整理して、好きかどうか判断したい派。
あと松尾スズキのカオス映画とか、三池のカオス映画も好きですけど、それ言うとこの記事の信頼度が一気に下がりそうなので書きません。
シン・ゴジラを観た。
だが同時に庵野および日本映画の限界を示すドキュメンタリーのような映画でもあった。
この映画は、
復興ありき、
再建ありき、
日本にはまだ力がある、
立ち直れる、
そういう答えがもう先にある。
出来レースっぽい。
これは映画に限らず様々な場面で3.11の震災後なんども繰り返されていることだ。
力があるって主張をかたくなに、ほとんど反駁不可能なイデオロギーのように保持しているのは、
俺は出来る!って盲信しているやつは、強いんじゃなくて自分の弱さを直視できないだけだ。
もっとも、3.11以降繰り返されてるそうした自己欺瞞的な合唱に飲み込まれることは、まぁ仕方ない。
この作品を取り巻く精神的な状況からして、ほとんど不可抗力であるし、それだけで作品のすべてを否定するつもりはない。
しかし、せっかくゴジラほどの大怪物を召喚しておいて結果やっぱり俺らスゲーの大合唱かよ、と思わざるをえない。
俺らスゲーの出来レースはゴジラ以外の他のテーマでやってくれ、と言いたくなる。
ゴジラというキャラはもっともっと掘り下げるべきテーマを蓄えた宝庫なのであって、ゴジラをそんな自己欺瞞の物語のなかに埋もれさせて浪費してはいけないのだ。
新たな危機に直面すればこそそれに見合った国の体制を改めるよう反省を強いられ、
新たにテーマを掘り下げればこそそれに見合った映画の手法を発明するよう強いられる。
しかしそうした危機とテーマである当のゴジラが、ほとんど空虚な存在であるがゆえに(たしかにわずかだが神として語られ、放射能の脅威を連想させていても、しかしそれが物語の構造そのものに関わることはない)、
日本万歳のその国の概念そのものに反省を迫る映画にはなっていないし、その手法に関して言えば新たな手法の発明どころかエヴァンゲリオンとさして変わらない。
(たとえばキャラクターについて言えば、感情を押し殺したようにして淡々と語る綾波は市川実日子に、外国語を混ぜたご機嫌なアスカは石原さとみに、真意のわからぬまま無理難題を突きつけてくるゲンドウは〈あの国〉アメリカに、それぞれ入れ替わっただけである。)
シン・ゴジラはエヴァンゲリオンで庵野が確立した様々な設定を忠実に引き写している。そこには反省も発明も見つけられない。
もちろん何の変化もないわけではないが、
そうした変化が結局は日本の閉鎖的で差別的な視野に同一化する点、
自分に力があると信じたいがために他国と異性に対する偏見を利用する屈折した日本男性の視点に同一化する点は、
たとえばエヴァンゲリオンにはなくてシン・ゴジラには見られる新しい部分は、政治の前景化であるとともに、(それがつねに〈日本の〉政治である限りで)他国の政府との交渉だろう。
ここに石原さとみが登場するわけだが、彼女のキャラクターは、自信を回復したがる日本男性の閉鎖的で差別的な欲望に奉仕している点で、やはりこの映画を保守的なものにしている。
石原さとみのチャラけた演技は真剣に事案に対処している他のキャラクターに比べかなり浮いて見えるが、
しかしあれは日本男性の閉鎖的で差別的な欲望からすると必然的な役柄になっているといえる。
演技がわざとらしいために良い演技とは言い難い、と思う観客もいるだろうが、しかしそういう演技も含めて必然的なキャラのあり方だと思う。
日本と米国の間に女性が入るというのは、日本からみて心理的な必然性をもっている。
日本と米国の関係はいわばスネ夫とジャイアンであって、ジャイアンのマッチョなところがあまりに出すぎると(たとえばジャイアンの力のみで事件を解決したり、その力がスネ夫である日本に向かったりすると)、日本を守る日本人男性たちのプライドや虚栄心が傷ついてしまう。
そこで米国代表としてか弱い女性を置くことで、日本人男性が日本人男性の力で国を守ったという体裁が保たれる。
かつ、あの日本語と英語を織り交ぜたヘンテコな日本語は、彼女をか弱い存在だけでなく変な奴として提示する。国際的な観点からでなく、あくまで日本人の側から見られた変人だ。
ここでは常識人と変人の対は、内部(日本人)と外部(外国人)という対と本質的に繋がっている。変人が変人であるのは、その者が外部から来た外国人であるからだ。
「〜アルヨー」とか「〜デース」とかいう言葉遣いのキャラが、日本人の側から見られた変な奴の象徴であるのと同じで、
彼女の奇妙な日本語は、他の日本人男性と観客とに米国でなく日本側からの観点を持たせ、その外部から来た変人として石原さとみを見させる。
視聴者たちが米国の目線から日本を弱小国として見る可能性が排除される。
このようなわけで、この映画は日本男性の精神性の問題をそのうちに含んでおり、その点ははっきりと批判されるべきであるが、
しかしその限界をはっきりと映画のなかで示しているという点においては、そうした限界の記録として、ドキュメントとして、歴史的な価値が大いにあると思われる。
これほどありありと、日本的および日本男性的想像力の限界を示した作品はなかなか見つからないのではないか。
あの映画は、機械オタクの男が設計室に引きこもってひたすら戦闘機の流線型のフォルムにうっとりしているだけで、その戦闘機がどれだけ戦争の悲劇を生んだか、とか、そうした男の機械オタクたちが生んだ戦争技術によって死んでいった女性への視点が欠如しているだとか、政治的またジェンダー的な観点からさまざまに批判を呼んだが、
しかしそうした戦中日本の精神の限界性をはっきりと示していたという点においては、ドキュメントとして大いに価値をもっている。
したがっておそらく、この映画において賭けられているのは、シリアスとコミカルの関係性ということになろう。これはどういうことか。
さしあたりこれまでの論述で明らかになったことは、この映画は限界を証言するドキュメントとしては優秀であるが、それはいわば限界にはっきりと居座っているからであって、丁寧になぞっているからであって、限界を越えようとしているからではない、ということであった。
つまり、エヴァンゲリオンを踏襲し、ナショナルなものとジェンダーの領域において日本男性の閉鎖的で差別的な欲望に奉仕するこの保守的な映画は、
限界を自ら反復し、演じている、ということであった。
日本の男性政治家が米国の女性とシリアスにセリフを交わす場面で、自身の力への欲望は満たされるだろう。
しかしまた、あることを反復し演じることは、つまりそれを真似することであり、その虚構性を示すことである。
そしてそれに応じて、批判されるべき部分は、評価されるべき部分ともなるのである。
したがって、このように問うことができるだろう。
限界を反復することは、限界に居座ることであると同時に、限界を茶化すことでもあるのではないか。つまり限界を批判することでもあるのではないか。
たとえばエヴァンゲリオンの設定を踏襲することは、新たな手法の発明の努力を放棄することであると同時に、反復しているその設定を茶化し、批判することでもあるのではないか。
そうであれば、シン・ゴジラへの正しい反応とは、それを積極的に笑うというものではないだろうか。
つまり、シン・ゴジラが何かを反復している限りでシン・ゴジラを笑い、またその反復によってシン・ゴジラが茶化しているものを笑う、と。
あの映画は、諸手を挙げて受け入れられているように見える。
昔、淀川長治が、マルクス兄弟について、「映画のコメディではなく、舞台のコメディ」っていったけど、「シンゴジラ」も映画である前に、シミュレーションの映像化。この監督が撮ろうとしているのは、「ゴジラ」という生物が出現したとき、対抗措置として作動するメカニズム。人間ドラマとか、入る余地はないよ。
戦車やミサイルだけではなく、大型未確認生物の日本上陸という非常事態に対処する官邸を中心とした官僚組織もメカ(機構)として扱われる。テロップではいる「内閣官房副長官秘書官」という肩書と「こんごう型護衛艦「きりしま」」という艦名は、その機能を現すうえで等価であるということ。劇中、ヒロイックな面もあるけど「内閣官房副長官」がたまたま「矢口」という人物だったのであって、「矢口」という人物の固有性は、ここでは意味を持たない。そこで俳優が演じるのは、固有の人物ではなくて、出世欲も含めて、その役職についている人物の類型を出ないが、それがシミュレーションを超えて「映画」であるうえで問題とも思えない。
ストーリーを進めるにあたり、言葉で説明し過ぎるのがこの映画の欠点だけど、前述した理由からストーリーの展開上、あまり大事ではない演者の振る舞いやセリフこそ、見るべき。市川実日子のあまり感情を見せないが、ないわけではない理系女子のもっさり感。高橋一生の一流大学院-研究機関と等質な環境で馬齢を重ねた人間特有のいい歳をしたおとこの学生気分の抜けなさ加減。ピエール瀧の、市川とはまた違った感情を表に出さない鈍重な顔をはじめ、自衛官役おしなべての顔の良さ。アメリカからの通告を聞くシーンで、撚れて「かっこ悪い」竹之内豊のかっこよさ、等。
映画として、大傑作かと言われると疑問だけど、自衛隊や官邸の組織について詳しく調べて、特撮映画としての「ゴジラ」に喰らいついてくるオタク、マニアが何を好むか、よく考えている。
あらゆる映画は、ジャンル映画であり、個々のジャンル映画は、固有の観客層を持つ。結局、大ヒット作もコアとなる観客層にターゲットを絞って、それを土台に観客を増やしていくほかないと思うのだが、テレビ・ドラマをそのまま映画館のスクリーンに映しただけで、そのドラマのファンが映画館に来た一時期のバブルのせいでそれが忘れられていたのではないか、と思った。ただ、そんななかても、固有の観客層に向きあう映画もあり成功事例もいくつかあった。今回はそのなかでも評判がひときわよかったものではないか。実際、小説やマンガの映画化の際、原作を念頭において見にくる客を当てこんでいるはずなのに、原作も読まずに撮っている監督もいるからね。それなら、はじめからオリジナルの脚本で創ればいいのにね。いったい誰が見るのかさえ考えずに、作っているとしか思えない映画が多いなかで、いい映画だと思うが、この規模での成功を納める後続する作品が出てくるのかな、とも思う。
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無料で見られるテレビですら視聴率を稼げないのに、身内でウケたちゃちなアイディアをもとにして金のとれる映画をつくろうとする無謀なテレビ屋。制作委員会に名をつらね、誰でも思いつきそうな注文を並べるだけで、金を抜こうとする広告代理店。うすい内容をさらに前後編に分けて薄めてしまおうとする映画会社。本編とはまるで関係のない歌詞のサビを大音量で歌いあげる予告編。練りこみが足りず、登場人物が性格破たん者にしかみえないばかりでなく、物語自体も前半と終わりで話のつじつまがあわない脚本。そこそこ良質な映画でも、評判の立ち方が気に食わないとワースト映画に挙げたがるポーズだけの評論家。
矢口蘭堂の目のまえに、がれきの山が拡がっていた。遠い昔であるが、ハリウッドに次ぐ映画大国であったこの国が、いまでは見る影もなかった。
http://web.archive.org/web/20160808224033/http://www.tm2501.com/entry/Shin-gozira
記事を読んだ。風刺記事としての完成度が非常に高い。虚構新聞はこの記事を見習うべきである。
この記事は「エヴァだけ見て庵野を知ってるつもりになってるやつが、シンゴジラを見て庵野を初めて知ったやつに知ったかぶりを決めようとしたらこんな感じになる」というのを迫真のリアリティをもって描いている。
この記事に書いている内容の的外れぶりは本当に「ダメなオタクあるある」だ。ダメなオタクだったらこういうこと書きそうとういのが余すところなく書かれている。
よくぞここまで特徴をとらえて創作をしているなと感じさせる素晴らしい出来である。
ま る で 作 者 が 本 気 で そ う 思 っ て 書 い て い る ように見えるくらいだ。
この創作記事で話し手が庵野っぽいと言っている描写はだいたい庵野より前に元ネタがあるので、庵野の本質と関係ない。
庵野の本質がなにかなんか知らんが、特徴があるとしたら特撮好きってのがまず先にあって、あとはそれを演出するためにいろんなオマージュで彩られてるところだろうと。
だったら、庵野について多少なりとも興味あるなら、庵野のオマージュがどこから来てるのかを考えるはずである。
そういうところ理解したうえで庵野の本質とは、みたいなこと考えるならこちらも聞く耳持つ気になる。
ところが、この話者はその表面的な部分だけを見て、これが庵野の本質だってのを語る。
こ れ は 恥 ず か し い。
フォント芸はエヴァからだ、なんてことを本気で書いちゃう。さすがに恥ずかしすぎる。
会議シーンに触れるのに「日本の一番長い日」についての言及がないなんてことはありえないしほんと映画についてなんも知らんって白状してるようなもんだ。痛い痛い痛い。
実際多くの人が他の作品について触れる際に岡本喜八郎の作品に触れている。当たり前だよなぁ?
シンゴジラは私だって映画なんてろくに見てないけどわかるくらい「パロディ」に満ち溢れている。
それはエヴァとか庵野じゃなくて「日本映画」のパロディの集まりなのである。
だが、この虚構の話し手はそういうことを一切考えない。すべてエヴァから来てることにしてしまう。
エヴァしか知らないのに俺は庵野のことをよく知っていると勘違いしているため、「シンゴジラはエヴァの焼き直しである(キリッ)」などということを口にしてしまう。
アメリカはエヴァのネルフが元ネタだ(キリッ)……うわあああああああ(ゴロゴロゴロゴロ) やめろ、いっそ殺せ!
映画にはいろんなつながりがあり、そうした積み重ねで映画ができているなんてことは少し考えればわかることなのだが、この話者の脳内にはエヴァ以前には映画がなく、エヴァ以外には庵野作品がないかのようだ。
自分で見て知っていることがすべてであると考えるような頭の悪さがなければこういう思考にはならない。
話者が「すごい頭の悪いくせにオタクとして通ぶることで他人に褒めてもらうことくらいしか承認欲求を満たすことができないようなみじめな人間」であることを想像させる。
上でも書いたようにシンゴジラはいろんなもののパロディやオマージュに満ち溢れているわけだが、
この虚構の話者は、ただパロディやオマージュであるというだけで作品の評価を減点しているのである。
これは映画を楽しむ才能がない人間に典型的な「オリジナリティ幻想」というやつである。
こういうことを言い出す人間は、映画を楽しむことより、映画について詳しい自分というものを誇ることが第一目的なのだ。
だから、あのネタは前にも見た。すでに知っているから評価できない、などとのたまうのである。
こういう人間は、一緒に映画を見に行くと絶対に不快になるので、付き合ってくれる人がいなくなる。端的に言ってモテないであろう。
「通ぶりたいあまりに他人を不快にさせる上、その知識が雑魚すぎて役にも立たない、ただの迷惑なオタク」のイメージをこの上なく具体的に描いている。
ここまで人間として魅力なさそうな話者のイメージは想像でもなかなか作り出せない。
この記事を書いた人は実に「存在価値が全くないどころかマイナスのつまらないだけのオタク」というものをよく理解しているといえよう。
いやほんと、もし自分が大学生のころにこんなことを真顔で書いてたら、数年後に恥ずかしさで死にたくなるような記事だった。素晴らしい。
この記事によって、シン・ゴジラというのはこういう「つまらないオタク」でも一応見に行くほどのブームになっているのだなと初めて実感できた。
つまらないオタクがわざわざ見に行って文句をいう作品は名作であるというのは不変の法則であることを考えると、この記事は実はシン・ゴジラのステマではないだろうか。
この人どんだけ石原さとみのこと嫌いなんだよwww
http://b.hatena.ne.jp/Umekosan/
・シンゴジラは進撃の巨人(アニメ)の方が面白い。特撮映画のガンは日本の役者、特にあの女性の発音はひどく、それを直さずに撮影されていて日本映画界の闇を感じる
・見てきたけど、足を引っ張っている者たちがいた、それは日本の俳優陣だ、とくにあの女性の発音はなんだ?知名度だけの無能を使うしかない映画界・・監督たちの才能を潰しているのはこいつらだ
・日本映画の衰退は役者がダメだということがよくわかった映画だった。あの女性の発音は何?知名度だけで実力がない奴が参加してくるな
明朝体のテロップを入れつつも説明する気がまったくなさそうな速度で切り替わっていくカットに専門用語を早口でまくしたてるセリフ回し、そして未知の恐怖としてのゴジラ。
もーかっこいい。ヤバい。中盤ぐらいまでこれでもかと言わんばかりに詰め込まれてて眼福。
ほらシン・エヴァはこねくり回してもはやよくわかんないことになってんじゃん? だから何のしがらみもなく「ぼくのかんがえたこわかっこいいごじら」を素直にやれたからこれだけの品質になったんじゃないかな。
・ゴジラ怖え
vsシリーズを経て日本映画の顔となっていたゴジラは知己みたいなもので、恐怖の対象ではすっかりなくなっていたけれど、今回のゴジラはふつーに怖い。何してくるかわからない未知の巨大生物感がモロに出てて怖い。ほんと怖い。
このゴジラのっそのっそと歩く。人を見ても襲ってこない。てか視界に入ってない。だから食われるとかそういう怖さはないんだけど、その分どうあがいても止められない。何でいるのか何をしようとしているのかどこに向かっているのかどうやったら駆除できるのかわからない。何もわからない。
わからないって怖いこと。それを存分に教えてくれる。
劇パト2は国内でテロがあれば日本は変わるかっつーメッセージがあったけど、本ゴジラはもっと直截に3.11という国難に立ち向かった日本と政府を描いてるんで。
3.11の後はじめて核の落とし子たるゴジラを描くのにそこを無視するわけにいかんのは事実だけど、そこにフォーカスしてどーのこーのと場外乱闘してほしくはないなーと思った。
超巨大怪獣あらわれたー! プラレールどーん! を本気でやってる映画なんでね。ガキかよマジで最高だな! と俺は思った。
環境省かどっかの生物得意系女子で、いわゆるはみ出し者。この映画どの人物もだいたい早くしゃべるが、それに輪をかけて早口。優秀だけどそのぶんINT全振りみたいな感じで誰に対してもつっけどんで常に真顔。
で、この子、物語の終盤に一度だけ笑うんですよ。ゴジラが撒き散らした放射性物質が数年内に消え去る可能性があることを突き止めて。今までニコリともしなかったその子が見せた心からの笑顔がもう可愛いのなんのって。天使ですよ、マジで。これは日本中が恋に落ちる。
与えられた任務にただ忠実な優秀だけど冷たい感じの子かと思いきや、東京は甦るって知って、心の底から嬉しくなって笑うんですよ。実はぐう聖でしたってどんな大正義だよ。もう大好き。
だったら後半部の、なんとか成分がとか原子構造がとかなんとか博士の分析が云々という難しげなやり取り、本当はいらないじゃん。
あのシーンはノートPCのインカメラを使って撮影するという、いかにも若手がやりそうな演出をアニメ映画とはいえベテラン監督がやっているのが、見ているこっちがこっ恥ずかしくて印象に残った。
シンゴジラ批評が盛り上がっているので、個人的に気になったことを…
見終わって、あちゃー、立った状態で逝ってしまわれたか、と思ったのは俺だけじゃないはず。だって、一応、放射性物質だから、あのあとコンクリートで覆うんじゃないの?あんな風に自立してたら超巨大建造物になるけど、そのデザインは一体誰が?ザハ先生がご存命であれば、たぶんすごいデザイン案が出ただろう…と本編後のことが気になっている。
せっかく凍結状態にしたのだから、生き返りでもしない限り爆破するようなことはないだろう。とすると死体の処理方法は、そのまま放置、周囲を覆う、解体して移動する、丸ごと移動する、の4つに絞られる。
まず放置した場合、東京で経済活動を続けることが難しくなる。福島原発事故のときのように、外タレが日本に来てくれないどころの話じゃなく、たとえ都市機能が維持できていても、人が集まらないので経済活動を維持できなくなる。
ではコンクリート壁で囲った場合、それで安心して人が集まるのかといえば、それも疑わしい。穴を掘って埋めるという方法もありがちだが、工費がかかるわりにメリットはそれほどないはず。
解体に関しては、怪獣の闇マーケットが存在するハリウッド映画であれば簡単なのだが、日本映画ではそうもいかない。あちらの世界ではキングギドラの肝とかモスラの糸が闇マーケットで取引されているんだろうが、こちらの世界だと「人間が手を出すとしっぺ返しをくらう」のが怪獣映画の鉄則だ。オカルト的ではあるが、無性生殖によって増殖したり、細胞から新たな怪獣が誕生するのがこちらの伝統である。つまり解体という選択を選んだら、おそらく続編は怪獣大戦争ルートに突入すると思われる。
では丸ごとどこかへ移動するとした場合、まず放射性物質なので国外へ持ち出すのは難しい。当然ながら国内にも受け入れ先はない。せめてお台場まで運ぶとして(ガンダムと並べたら価値がありそうなので)、それだけで国家予算並の費用がかかってしまい、その費用を別の目的に回したほうが良さそうだ。あるいは東京湾に捨てることも可能だろうが、復活する可能性を考慮すると実行しづらい。
こうして考えてみると、結構やっかいな難題である。おそらく政治家たちが遷都とか首都機能移転に夢中になりつつ、民意は翻弄され、マスコミは東京を守ろうとキャンペーンするような、どうしようもなく何も進まない状態が、後日談として妥当なセンではないだろうか。
ここで、この話は一気に残念な方向に向かう。というのも、シンゴジラのストーリーは核攻撃を回避したことでハッピーエンドになっていたのに、この後日談の推測では、その実態は「核攻撃されたのと大して変わらなかった」ということになるからだ。
話をまとめるとこんな感じになるだろう。
ゴジラが放置される。石棺による封印が検討されるが専門家の意見が別れる。あと石棺のデザイン案で揉める(頭だけ遠くから見えるようにしたら、新しいコマ劇の本物みたいで楽しそうだ)。都心から15キロ圏内は避難指示、30キロ圏内は避難勧告が出されたまま解除されない。首都圏の土地は大暴落する。逆に首都圏以外は土地バブル。急激な円安とインフレになる。不安心理から出生率が向上。首都機能移転が推進され、京都遷都が実施(京都民大歓喜)。9条が憲法改正される。ゴジラ対策を名目に核保有を宣言する。
怪獣映画というのは敵のいない戦争映画みたいなものなので、シンゴジラがどこかネトウヨ寄りになるのは仕方ないとしても、こうして想像すると果たしてあのストーリーはハッピーエンドだったのかどうなのか。
まあこういうのって、死体がしれっと消えるのが怪獣映画のお約束なので、深く考える意味はあまりないのだが、お約束に頼らない現実寄りのフィクションであるところにシンゴジラの価値があるとすれば、もし続編があるとしたらこうした後日談も描いてほしいところである。
ネタバレ含む
庵野秀明総監督として制作されたシン・ゴジラの評判が高く、一部では傑作として騒がれている。
しかし、パニック映画としては、途中で被害を受ける一般人の姿が殆どなくなり、怖さの演出がなくなっていき、完全体となったゴジラには恐怖感をあおる演出はなく、強さはあっても怖さはない。
序盤の深海魚的ないびつさも、慣れない人には恐怖かもしれないが、基本的には間抜けな顔をしている。
怪獣映画としても、ゴジラにさほどの強さとしての演出が残念である。硬く大きい、それは原始的で分かりやすい強さではあるが、特別な強さを感じない。
放射火炎は一見強そうだが、よくよく見てるとバーナーであり、色々な建物を破壊するが、あのゴジラならしっぽをぶつけるだけで問題ない。全身からバーナーを出すのも、防御のためで強いというよりは防衛反応の強い生き残ることに特化した存在だ。
それも凍結作戦の推移を見るに、無人機での波状攻撃で防御バーナーを無効化してから、バンカーバスターによる攻撃で破壊できそうに見える。(もちろん細胞の再生機能が強く、解決はしないと劇中で描かれているが、それでも強さを感じない一因となる。)
最終的に転がされて、口から凝固剤流し込まされて活動停止とか見せられては「ああゴジラ強かったな」と言う思いが薄まってしまう。
メインとなっている会議シーンはどうだろうか、今回の会議シーンは日本の行政の手続きこそを大事にすることを皮肉的に描いている。
現場から連絡が数珠つなぎに上がって、総理の命令が数珠つなぎに下されていくなどは、寿限無のような落語的愉快さをもっているとは思う。
しかしながら、会議の展開に緩急がなく急ばかりでメリハリが弱い、最初からクライマックスな展開のためいわばすべて緊急場面の会話で、緊張状況の雰囲気に慣れてラストシーンへの緊迫感ですら冗長になってしまう。
また、終盤の会議で問題発覚→提案→解決の流れが簡単すぎて、その問題を描く必要があったのかと言うシーンが続くのも緊迫感が薄れる原因の一つだ。
解析のためのマシンパワーが足りない!→世界に応援を依頼→日本を信じるわOK!→解決
世界的な協調を演出したいのかもしれないが、無意味だったのではないか。
世界的な展開と言う関連でいえば、今回の映画は日本対ゴジラと銘打たれているが、基本関東vsゴジラであり、もっと言えば霞が関vsゴジラであって、後自衛隊ぐらいでそれ以外は一切戦っていない。(薬剤作成に協力した企業ぐらいか。)
日本の他の地域の描写はないため、東京近県以外にはあまり身につまされない。
今回のゴジラと言うのは、原発事故と津波・地震のメタファーであることが映画からすぐにわかるが、つまるところ東日本大震災なのであり、あの震災を体験した東京の人達には身近な恐怖として心底感じるものがあるかもしれない。
しかし、西の地域からすれば、(それが人間としてどうこうはおいておいて)やはり他人事のように関係のない話にみえてくる。
このように、面白みがない映画ではないが、絶賛するほどに良くできた映画でもない、良作と言う程度と感じられる。
(ここまで飛ばしてOK)
シンゴジラを傑作とすると感想を見ていると、「ようやく邦画として世界と戦える映画ができた」みたいなものが出てくる。
ここらへんの事情は、結構な割合で、「字幕が読めない」「吹き替えが下手でいや」「顔の区別がつかない」などの理由で”邦画以外を見れない層”が結構いて、
この邦画しか見れないような手合いが、今までの、つまらなくつまらなく作られた日本人オンリーのドラマや邦画を、これしか見れないからとずっと我慢して見続けてきた結果、シンゴジラを見て「これは凄い傑作だ」と感じるのだろう。
また、普段映画館に行かず家のテレビで映画を見ていたような層が、庵野秀明+ゴジラと言うことで見に行って、大画面+大音響にいつも以上に心が動かされたのかもしれない。
この辺り、シンゴジラを絶賛している人たちが「つまらないとか○○な証拠ww」とか言って、シンゴジラへ批判する人物の、人間性の否定が始めているところから、
初めてジャンルに触れた時に感動してファンになった人が、普通の批判程度にも噛みついているのと良く似ていることや、特定のジャンルに新規ファンが来た時のアンチとの口喧嘩とよく似ていることから
映画やゴジラでで良いものを見るという経験に乏しい多くの人が見て感動したのではないかと感じられる。
ただ、多くの人を映画館に足を運ばせる誘因力があり、それを、ただ足を運ばせるだけではなく、ちゃんと満足させた。それは重要な出来事だ。
その意味で、シンゴジラは確かに傑作であり、多くの人を映画へと興味を持たせ希望を持たせたという意味で、日本映画界の一つの希望だろう。
http://anond.hatelabo.jp/20160804171358
自称「中二病を脱した23歳増田」に乗っかる感じでシンゴジラ批判エントリーを書きたくなったおっさんです。
(あたしも10年前の20代の頃はてなのサブカルおじさんが怖かったからねw)
シン・ゴジラは「日本の実写映画」にとってエポックメイキングになりうる最高に素晴らしい作品だと思うが
この大絶賛の嵐に怖くなってきました。左側からのまっとうな批判が見られない。
まずはじめに私の感想とすると「シン・ゴジラ」は素晴らしい映画なのは確かです。
「日本の実写アクションエンタメ映画」でまともな人間ドラマを描けるでしょうか?
民族やイデオロギー宗教対立のない日本。殺人を含む強烈なDISの激突による止揚や
「個人のエゴがイノベーションを起こす」ことを良しとしないし信じない日本社会では
欧米式の人間ドラマなどは描けないのです。大抵は「もののあはれ」みたいなものに落ち着きます。
そこで庵野監督です。庵野監督は人間ドラマが描けません。人間個人に興味が無いのです。
「電子回路、ニューロンのように情報が錯綜し、通電し、組織が機能する」という
(例えばオネアミスのロケット発射の「手続き」や、エヴァ発進の「手続き」、
さまざまな人間が連携して大きなことを成し遂げる瞬間のカタルシス、岡本喜八の沖縄決戦→ネルフ壊滅なら大組織の壮大な敗北
というものに執着している感じです。そして庵野監督はその演出で他を圧倒してきたのです。
通常は連携を2、3回で終わらせるところを、
7、8、9とどんどん数を増やし、しも連携のスピードを高速化する、
それが今回は最高に上手く行ったと思います。無駄な人間ドラマを省き、人の群れを
通常それでは作劇できませんが、ゴジラという巨大な災厄を扱うことによって可能になったのですね。
とまあ、褒めるのはこんな感じで。みんな褒めてるし。在来線爆弾最高です。
ここからは批判というか危惧を書いていきます。(ネタバレ含む)
「シン・ゴジラ」はゴジラを描くとともに、明らかに3・11の震災、
そして福島第一原発(フクイチ)のメルトダウンをなぞって描かれています。
原爆の子であることことからしてそれは避けられないことでありました。
・「想定外」という言葉が何度もでてくるシンゴジラとフクイチ(フクイチ)
・そしてその放射能を測定した市民から憶測が飛び交うシンゴジラとフクイチ
・自体の収集のため米軍が介入してくるシンゴジラ、事態の収集のため米軍が介入しようとするフクイチ
・シンゴジラにホースを突っ込んで冷却材を流すため特攻する自衛隊、
「自衛隊がゴジラを冷やすために特攻して死んでしまっている」ということなんです。
これは3・11の日本政府はやらなかった。フクイチに自衛隊を特攻させれば
「自衛隊員の命」と「福島の土地の数十年の汚染」を引き換えにはできないという判断です。
そこをシンゴジラはやった。映画的には、作劇的には正しいです。
自己犠牲の魅力に惹かれるところもあるんです。
正直「自衛隊がフクイチに特攻して冷却に成功していた」ら、私も絶賛したでしょう。
その特攻を庵野監督はやった。しかも恐ろしいことにあっさりと。
(1番隊が全滅したら「日本映画のよくあるパターンのように感傷にひたる」
ことなくあっさりと2番隊がすぐさま繰り出された。
おそろしいですよ。でもこれがかっこいいんですよ。/
この冷徹な決断力、かっこよさを恐ろしいと思わないとヤヴァイんですよ。
こんなことできるのはスターリンですよ。スターリンのかっこよさに酔うんですか?)
特攻した自衛隊のように、3、11のフクイチでも自衛隊を特攻させるべきだった。」
実際の日本政府はどうでしょうか?フクイチの凍結に成功してますでしょうか?
私からすると今回のシンゴジラ、演出のエポックメイキングであるとともに、
「3・11の災厄に勝利した日本」の「仮想戦記」にみえてしまうんです。
(昔よくあった「第2次大戦で日本軍が勝つシミュレーション小説」の3・11バージョンですね。)
このシンゴジラを見て「日本はまだやれるんだ」と思った人がたくさんいたと聞きます。
いや、やれてなかったでしょ。と言いたい。3・11で負けたでしょ。無残に。情けなく。
仮想戦記で「日本はまだやれる」って酔ってたらだめでしょ。反省しないと。
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↑というような批判が欲しかったのに全く無くて困ってたので自分で書いてみた。
実際庵野監督はどうなんでしょう。「政治的意志表明」と書きましたが
4/5
CGが糞すぎるとか
会話がターンベースRPGみたいに、だれかが言い終わってから誰かが言い始める感じとか
音楽がモノラルだったり3.1chだったりゴジラの造形が着ぐるみもしてて懐古すぎとか
たしかに
老害ともいえるいろいろな要素に我慢ならない人も言るだろうし
僕も石原さとみの役の意味不明さとかCGが糞しょっぼいのとかは我慢ならないけど
でも面白かった
でも面白かったんだよな!
普通の映画だったら先に指摘した点で1/5とかにしてしまいそうだけど
なんだろうねシンゴジラって、出っ歯だけどかわいいみたいな僕の好きなあのアイドルみたいなかんじ
でもかわいいんだよ!みたいな
なにがいいんだろうね
考えてみると
とくにハリウッド映画とか、それに影響受けた2000年以降の日本映画、特に局制作のスイーツ映画みたいなこともない
家族愛だの恋愛だのにうつつ抜かして話がひっかきまわされることがない
みんな頑張る!
みんな持ち場を頑張るんだよね
できることをするんだよね
とくに何がいいって自衛隊のカッコよさというか
とにかくかっこいい!
おすすめ!
最高の一言に尽きる。
これほど心に響くものはなかった
未曾有の大災害が一人の天才やら奇跡の発見、メカゴジラといった虚構の兵器によって解決されるのではなく
電車爆弾、ビルのドミノ倒しという人類の叡智の蓄積でなんとか無力化まで持っていくプロセス
会議シーンでは出来る人間がゴロゴロ出てくることで、ワンシーン、2シーンだけ登場するキャラクターも誰もが主役となっていて
あくまでも現実の日本人vs現実の災害という図式を最後まで保つことに成功している
インディペンデンスデイのような感動の演説にも涙がなく、ゴジラ停止後もパシリムのような喝采シーンが無いのもいい
もちろん感動的な音楽が流れることもない
スローモーションで抱き合ったりもしない
いつ人類を再び壊してしまうかわからないゴジラを抱えたまま歩みを止めることはない
「今の日本映画でこれだけのことができるのか」という感覚を超えて「今の日本にはこれができる」という錯覚に陥るのは
前半の淡々とした会議、テレビ報道、お役所仕事といったリアリティが機能しているから
キャラクターとしてのゴジラでなく、舞台装置としての彼をここまで描いた映画は存在しなかった
そして我々が紛うことなくその舞台の上にいることをはっきりとつきつけてくる
少なくとも今後数十年これを超えるゴジラは現れない
単なる仮説だが、だいたい以下のようなところではないかと思う。
1.「物書き」であるだけに、その発言がtwitter民や2chの人の目に触れやすい。
2.監督はアニメの全話対して責任を持つが、視聴者にとっては全話を通しての印象よりも「あの回よりもこの回がよかった」「今回は神回だった」という印象が残りやすく(放映中の作品を取り上げる場合はなおのこと)、その責任者として挙げやすいのは、以前は作画監督、今は脚本家である。脚本家への言及が多くなれば、その分作画監督への関心が弱まる。
3.日本映画においても、「今年一番のヒット作」のタイトルは知っているが、その監督の名前は知らない、という人が多い(日本特有の事情?)。アニメにおいては監督への関心が比較的高かったのだが、良くも悪くもアニメは日本映画の中でも重要な地位を占めるようになり、その結果監督への関心も映画並みに弱まった。
デビルマンの映画。見たことはある。ひどいといやあひどい。ひどいのは認める。
だけど、ネットでみかけるようなあそこまでひどく叩くのはよくわからない。
俺は、クソ映画だとは思わない。普通の、日本で作られた映画。真面目に普通の映画だと思う。
すごく異端な考え方だけど俺は本気でそう思う。
色んな意見や批判は見てきた。でも俺の考えは変わらないと思う。どんなに原作をほったらかしにしていても、わけがわからないくらい
酷くても、俺にとっては普通の映画。一応、デビルマンの原作漫画も読んでます。それでも普通の映画。
恐らく日本でもたった1人だろうな、真面目にあの実写版デビルマンを普通の映画だと思う人間は。
デビルマン以外もそうだけど、実写化に対する叩きは当然のごとく続くだろう。俺が思うのは簡単に実写化されちゃうくらいの程度の認識なんじゃないのかな、それらの作品。言い方がすごく酷いけどそんな風に思っちゃう。金儲けに使われてしまうくらいまだまだ認識が甘くて魅力が伝えきれてない未熟な作品なんじゃないのかと。これは酷い考えだな、自分でも軽くひく。
某実写化映画に対して酷評した某方がいたけど、あの人ただ叩きだけにしか見えない。専門が日本映画、特に時代劇とかじゃなかったっけ。間違ってたらすまないけど、なんか目立ちたいだけの少しちゃんとした批評ができる子供に見える。時代劇が廃れてるのを憂いてる割にはなんともねえ。そこまで有名なんかなあのおっさん。聞いたことのない名前だし。まあ普通に生きてりゃあんな人とは出会わんだろうし。
なんか支離滅裂のまま思ったこと書いてたけど。まあ駄文なんでね。
やっぱりろくなことないな、こういう事に関しては。真面目に生きる方が楽だな。
いや日本映画つまらんよ。だって見なくてもオチわかるし。ハートフルでハートウォーミングなのがいいんでしょ?みんな頑張ってるのが見たいんでしょ?もたいまさこがいいんでしょ?
たぶん例に挙がった監督って、だいたい現状を肯定する話だったり、ゆるかったり、なんか切ないねみたいな日本人特有のワビサビを感じさせるのばっかでしょ。役者とか舞台は違うけど結局同じテーマしか扱ってない。まあ安心して観れるんだろうけど、完全マンネリで、テレビの2時間ドラマででもやってたらいい。
あくまで俺目線の意見だけど、もっと意外性があっていいと思う。日本にどれだけの脚本家がそれだけ練った話を作れるだろうか。あと社会風刺とか絶対しないよね。何かを訴えかけるようなことは苦手な民族性からなんだろうけど。警察は正義。だから、ジョークもさぶい。ブラックジョークって最高に面白いと思うんだけど、そういうのない。テレビと違う映画の魅力って、公共の場では自重すべききわどい表現を前面に押し出せることだと常々考えているんだが、女子供年寄り向けの映画ってほんとくそつまらんと思う。
日本映画全部嫌いなわけじゃなくて、過去作だけど好きな監督・作品は、
・大森立嗣「ゲルマニウムの夜」「ケンタとジュンとカヨちゃんの国」
・吉田大八「腑抜けども、悲しみの愛を見せろ」「桐島、部活辞めるってよ」
いわゆる日本のサブカルを支える"俺ら"視点の作風がいいと思う。
なんか突っ込みどころ満載な、独特の空気があっていろいろ面白い。
俺が観た園子温は「紀子の食卓」「冷たい熱帯魚」とかだいぶ変態に傾倒していて、観客置いてけぼりでただぶっとんでりゃいいの?ってのがいまいちな印象。
塚本晋也の「鉄男 The Bullet Man」はようわからんかったが、「野火」がすごいらしいので見てみたい。
どのエンターテイメントも対象層には十分楽しめるようになってると思うんだよね
大多数VS大多数で比較すると比べようもないけど言葉として否定しやすいしにくいがあるんじゃないかと
俺も映画は好きな方なのでわりと見てると思う
ハリウッドと日本映画中心だけども中国ヨーロッパあたりのもみる
日本の映画は舞台劇っぽいところが海外映画を楽しみにしている人間からするとつまらない印象をうける
映画なのにそのわかりやすいリアクションなのとか人物中心に据えすぎなカットとか
外国の映画は風景や状況でセリフを減らしたりそうとは見えない自然な行動が
環境と反比例して異常さを見せるとかいう視聴者に連想をさせるようなところ
舞台上で主役が取り仕切らないと話が進まないという絵だとちょっと映画としては物足りない
登場人物はみんななんらかの被害者で状況や環境が主役として撮ると
画角というか外国映画にでてくる日本の風景は日本じゃないみたいとか
そういうところで趣味趣向が分かれてる気がする
人間ドラマとか舞台劇でも十分楽しめる内容のものは邦画でも威力を発揮するとおもうし
SFとか特撮みたいなのは海外の視点でないとちょっと楽しめないかな
そういう意味で新しい変態仮面は合成技術的には物足りなそうだけど
構図的には楽しめそうだなと思うんだ
【スクリーン雑記帖】今の日本映画にもの申す…「レベルが本当に低い!」 英映画配給会社代表が苦言(1/5ページ) - 産経ニュース
俺は普段映画を見ないのね。で、話題になった次の増田を読んだ。
挙げられている映画は10本。ブコメを見る限りでは、いいリストであるらしい。しかし、うち7本はまったく聞いたこともなかった。『野火』と『花とアリス殺人事件』はかろうじてタイトルを聞いたなあという程度。『海街 diary』はむしろ評判悪いと勘違いしていた。もちろん俺の情報感度が鈍いというのは認める。ただし、そんな俺の目にも触れる程度の大きな話題にはならなかったというのは事実だ。
一方で、こういうのはホッテントリ入りして目にするんだよな。
2015年 この映画はいったい誰が観に行くんだ!?大賞 結果発表 - 破壊屋ブログ
つまらない、またはつまらなそうな映画をいかに面白おかしく茶化すかという大喜利企画。洋邦問わずだけど、標的にされるのは邦画が多い。
あと、こういうのとかさ。
超映画批評「進撃の巨人 ATTACK ON TITAN」40点(100点満点中)
超映画批評「進撃の巨人 ATTACK ON TITAN エンド オブ ザ ワールド」30点(100点満点中)
今はこれ。
映画ファンは、とくに邦画に関して、いかに貶すかバカにするかという点で芸を磨きすぎている感じがするんだよ。読んでみればわかるけど、上の記事はすこぶる面白いんだよな。他にも挙げれば宇多丸の罵倒芸とかさ。面白い。面白すぎるんだ。結果として、どうにも邦画の悪いイメージばかりが先行してしまっている。
一般論として、褒めたりお勧めしたりするよりも、批判したり貶したり茶化したりするほうが拡散伝播しやすいというのがあると思う。その上、映画ファンは邦画に関しては後者に力が入っているのよね。結果、邦画がつまらないという話ばかりが蔓延して、良作が話題にならず埋もれてしまっている。素晴らしい作品だよという話を、いろいろな人から様々な形で目にし耳にすれば、1度劇場に足を運んでみようかと思うだろうけど、邦画に関して言えば、つまらない下らないバカバカしいと駄作の評判ばかり聞いて、良作を知る機会が少なくなってしまっているんだよね。俺が増田の紹介する10本の殆どを聞いたことすらないというのもこれが原因だろう。『海街 diary』を評判悪いと勘違いしていたのも、有名女優(タレント)を揃えた邦画というだけで駄作なんだろうなという先入観をもち、認知を歪めたのだと思う。
じゃあ映画ファンはどうすればいいかというと、駄作の罵倒の蔓延に負けないくらい大きな声で繰り返し繰り返し、自分の好きな映画・評価できる作品を勧め褒めちぎるってことなんじゃないかな。参考になるのは『ガールズアンドパンツァー』というアニメ映画。「ガルパンはいいぞ」という言葉は目障りで気持ち悪いくらいに広がり、結果として多くの人に知られ、興行的に大成功を収めた。もちろんもともと良作なんだろうけど、それだけではこの興行収入は達成不可能だった。ファンがしつこいくらいに宣伝しまくって(自分も何度も足を運んでってのもあるようだが)、あの数字を叩きだしたわけだ。実写ファンもこういうことをやるべきなんだよ。くだらない映画を茶化すことに頭をひねるのではなくて、見るべきだと思う映画をしつこいくらいに宣伝し、褒めちぎり、身近な人を半ば無理やり連れて行き、その作品の数字を残す。映画の話題で駄作の割合を減らし良作の割合を増やすように努力をする。そうすることで、邦画を取り巻く現状は大きく変わるのではないかと思う。傑作に心打たれるよりも、駄作をバカにしている方が楽しいんだったら、そりゃ日本映画のレベルが低いのはお前らが望んだことじゃねえかとしか思わんよね。