はてなキーワード: 教頭とは
TOKYO MXで放送されていたドラマ、反町版GTOが先週最終回を迎えた。
松嶋菜々子ロスを感じつつ、そういえば、なんだかんだ最後までGTOを読破したことがないと思い、読んでみた。
知る人は多いと思うが内容は、教師に裏切られたことをきっかけに、すさんだ中学生が教師をイジメ、次々と廃人化させていたところ、他の教師とは明らかに異なる主人公が担任となり、学校生活の中で一人また一人懐いていくというもの(1997年~2002年)。
たぶん、当時は学級崩壊やイジメが割と問題になっていた時代だったのだろうと推察されるけれど、当時の現実の生徒もこんなにエネルギッシュだったのかなぁ?と思い出すことができなかった。
今の生徒は、きっと、当時よりも手軽な娯楽が増えているので、いちいち熱くならないか、イジメをやるなら、ネットや携帯端末等駆使し、陰湿にやるのではないかと思った。
ただ、内山田教頭の長ボヤキの中には、当時の社会情勢に触れる文言も散りばめられているのだが、2023年でも言われていることが割とあることにやや驚いた。
失われた30年とはよくいわれるが、マンガ連載当時から約20年、大人の世界はさほど変わっていないのかもしれないということに、何とも言えないモヤモヤした気持ちを抱いた
(反町や松嶋や生徒の演技を見ていると、現代のドラマの演技の方が格段に進歩しているのを感じた。中尾彬は現代の目で見ても良い演技だと思った)。
個人的には13巻の、パンツを脱がすレベルで散々イジメていた男子のことを、吊り橋効果でガッツリ好きになってしまう上原杏子が良かった
(当時、アニメも見ていたが、やっぱりこの場面が良かったと思っていたことを思い出した)。
今連載されていたら、ネットでそれなりに叩かれるのだろうが。
A君一家自体が島への移住者で、子供3人のために休校してた学校を9年ぶりに開校してたってことね。なるほどです。
2000年春から休校していた酒田市の飛島小学校(船越誠校長)の開校式が6日、同校体育館で行われた。島外から児童2人を含む親子5人が移住したことによるもので、小学校の校舎に9年ぶりに児童の声が響いた。
飛島小は00年3月に6年生2人が卒業、1人が転校し児童がいなくなり休校。その後、飛島中も03年3月に最後の生徒が卒業し休校措置となった。市教育委員会は、小学校が休校した後の01年度から、校舎を市内の小学生を対象にした2泊3日の体験学習「飛島いきいき体験スクール」の拠点施設として利用してきた。
今回の小学校再開により船越校長、菊地義昭教頭、布川真二教諭、吉泉弘子養護助教諭の計4人が赴任。新5年生の渋谷泰和君(10)と新3年生の真生さん(8)の兄妹2人を多面的に支える。
泰和君が「飛島のことをいろいろ学んで、島に来た人に教えたい」、真生さんが「理科や社会が始まり、授業が難しくなるので、布川先生からいろいろ教わりたい」とそれぞれ話した後、「2人、力を合わせて頑張ります」と声を合わせた。
式終了後、2人の父・聡さん(38)は「開校まで多方面で力添えをいただきありがとうございました。ただ、これがゴールではなく、これからがスタート。島民の皆さん、よろしくお願いします」と話していた。
http://www.shonai-nippo.co.jp/cgi/ad/day.cgi?p=2009:04:07:2652
https://rongkk.com/nanikore-2019-4-7-6/
あとこの映画で始業式の様子が写ってる。
中学校は生徒が1人だが、学校には校長、教頭、担任、副担任、養護助教諭の5人の先生がいて、給食は新くんのお母さんが作っている。島に同世代の子どもがおらず、新くんは放課後 毎日のようにお父さんと海釣りをし、釣った魚を自分でさばいて夕食に食べる生活をおくっている。学校生活では、定期的に本土の運動会やクラブ活動に参加して本土の生徒と交流もしており、時には本土の友達が島に遊びに来ることもある。島では、新くんが淋しくないように島民の方々が学校の行事に積極的に参加、島の住民みんあと多くの時間を一緒に過ごしてくらしてきた。
多分同じ感じ、突然CMの曲を往来で歌い始めたり興味のあるもの目掛けて逃げ出したり、たびたび買い物の隙にいなくなったり、6歳の頃には電車で15分のところに出かけてる最中に行方不明になり、警察にもお世話になり散々探し回った親が憔悴して家に戻ったら目の前の公園で遊んでたり、奇言を叫び回って散々同行者を恥ずかしい目に遭わせてくれたりした。
母親は若干私にヤングケアラーとして下の子を押し付け気味、小学校から配られるプリントに書かれている障害向けの講座に連れて行けばと言ったらヒステリックにキレ散らかした。
本当に本当に本当にたいへんだった。
4歳で見よう見まねで「10歳から始めるBASIC」という本に書かれたプログラムを打ち込んだりしてたものの理解しているからどうかはよくわからず(でも、ちゃんと描画を始めて動いてたから仕組みは最低限理解してた様子)、たまに奇声を発したりおかしな挙動をするくらい。同級生にもバカにされているようで何回も助けに行った。
叱られても、何かされても、気にも止めずに飄々と自分の興味のみに突き進み、目を合わせて話せるのは1秒もてばいい方、とにかく没頭と多動を行き来してた。
そんな彼が頭角を表したのは中1。当時高2の私が数学を親に言われてしぶしぶ見に行ったら、すごい速さで応用問題を解く、すぐに私ができる範囲を彼は超えてった。高校の頃にはほとんどの問題が解けるようになっており、受験はどこの大学も数学だけは解けた。そう数学だけ突出して、でも他の教科も国語以外はまあまあ取れてた。英語も高校レベルでは大丈夫だった。(その後、院に入った時に書いた論文の下書きを見せてもらい書かれてる文法に頭を抱えた。)政治家と選挙区と任期についても全国の衆参ほとんど覚えていて会派まで覚えてた。まるで意味がわからない。
結果希望の進学はできなかったものの、転入する形で希望大学の希望学部に。その年の転入合格者は少なく、英語の点数が足りていなかったものの数学などで入れて貰えた、らしい(面接時にそう言われたらしい)
色々端折るけど、その後発達障害なのがわかった。そもそも彼が子供の頃、何かの障害はあるように見えてもそれをはっきり定義づけるものが成立してなかった。考えてみたら父親もアスペルガー気味(キレると叫びまくって手がつけられない。モラハラ傾向。小学校で高校の数学は終え、成績が異常によかったと複数人の同級生は私に語り、留学中にメンザに誘われたらしい)母も何かしらあると思う(常識がどこかに飛んでる。目を離すとゴミ屋敷を作る。問題多々あるのにコミュ強。人の顔と名前を50人くらいなら数分で覚える。一瞬見たら定着するらしい。意味がわからない)
弟は今人生うまくいってるかというと微妙だけど、明らかに上のレイヤーで戦っていけるだけの力がついてる。羨ましい。
両親も7歳になってもろくに会話にならないし、字は書けるのに本をちっとも読まないし、彼が12歳になるくらいまでは本当に弟については悩んでた。
彼が色々困難にぶつかりながらもうまく生きていけてるの、多分私のおかげだと思う。
冗談はさておき、母や祖父母が私の目から見ても甘やかしてるぐらい温かく見守っていたのも大きいと思う。
父は忙しすぎてややこしい子育てほぼ放置だけど叱る時はこっぴどく、甘やかす時はとことんで、休暇毎に海や山へと連れて行き無理難題を提示した。
自分で感情の整頓がうまくできなかったりして小学校で意地の悪い教頭に目をつけられたり、いじめに遭いかけたりしてたけど、母は弟の好きなものを夕飯に出したりしてた。
彼には家でそういう環境が必要だったのだなと今なら振り返って思う。
母は小学校高学年の私に障害向け講座の参加を勧められた時、本当は必要だと思ったけどその事実が受け入れられなくて苦しんでたらしい。すぎたことはしょうがないしその頃は分からなかったけど、本当に悪い事をしたと思った。
ともあれ、元気に大きくなって本当に良かった。親父お袋グッジョブ。
今本人は風変わりではあるけれど穏やかで少し臆病で正直で悪さ出来ないくらい大人しいおっさんとして暮らしてる。友達も少しだけならいるらしい。
人事の人にはバカだと思われてるのかなってエピソードとかあって聞いてて不安になったけど、チームではうまくやってるみたい。
できる事を伸ばして頑張れる場所を見つけてて本当に良かった。
でも、本人も周りと比較できるようになった後、もっと大変。普通にしているつもりで誰かに目をつけられる。多分人よりも疲れるし、子供の時は特に辛い。大事にしてね。これだけよく見てる増田だもの。大丈夫。七五三はやってみたら案外上手くいくものよ。増田と増田嫁の祝いの区切りとしても是非トライしてほしい。もし残念なことがあったとしても、きっと10年後にいい思い出になるよ。その頃には上の子も大きくなって笑えるようになってる。色んな事を教えられるのは増田たち。トライしなかったら何も残らない。
障害が出てない方の子であまり周りに構ってもらえなくて放浪してた記憶があるんだけど、下の子がお兄ちゃんを大事にしてくれるように、でも平等に楽しく元気に育ててあげてほしい。
書いてくれてありがとう。
あの時期はそれぞれにとって本当に修羅だったのかもしれないけど、過ぎてしまうと懐かしい思い出だし、当時悩んでた家族みんなを思い出した。
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(そろそろ誰もみてないかな。)
元増田の苦労がわかる気がするのは俺だけ、と思って書き込んだけど、コメントがついてて&過分な褒められでびっくりした。ありがとうありがとう。
全然えらくないよ。弟で一緒に暮らしてたから、意思疎通がままならない時代はまあなんとかしないといけないけど、別に同じ親の子ってだけで四六時中真摯に向き合ってたわけでもないし。
32時間やってたFFⅤの記録を手違いで上書きされてた時は飛び蹴りしたし。普通に喧嘩もよくやったよ。
その後親に怒られるのこっちが多かったのを今思い出して不服はあるけれど。
今は色々話し相手にもなるし、専門知識もかなり長けているからアドバイスしあったりする間柄だよ。
あと、振り返ってみてうちの親は多分自分がいなかったとしても、それはそれでうまく回していけるだけの別のルートを辿ってたんじゃないかな、まあ自分がいた方が絶対幸せだったと思うんで(?)、先に俺産んでおいて親父お袋グッジョブ、とは思う。
ただ、世の中に弟みたいな人で生きづらい思いをしている人、単に自分が気づきやすいだけなのかもしれないけど、結構いると思う。
そして本人がうまく社会とコミュニケーション取れないから、それだけで酷い扱いを受けたり暴言吐かれたりしているシーンもあってさ。
それでもまだ、弟の時代は枠から少しはみ出ていても、まだ周りの大人が得意不得意はあるから、って目こぼししてくれているありがたい人たちが多かったけどさ、
今は、コミュニケーションがうまくできて、それ以外のやつは社会の荷物、みたいな雰囲気があるでしょ。
多分、コミュ強の反対はあまり人馴染みが良くないのかもしれないけど、弟も、元増田の長男も、私自身ですら、今のそういう雰囲気にうまく馴染めているかわからない。
そんなことに、たまにとっても辟易する。
そういう風に切り捨てていくのは本当に豊かな社会なの?って。
コミュ強ばかりで成り立つ社会って、それはそれで強いものになり得るのか、と思うとそうでもないと思うし。
だから。
えらいね、すごいね、って言われるよりも、こういう人もいるけれど、少し自分の興味に突進しがちの人がここにいていいんだ、って雰囲気の社会になるようにできたらいいな。って思う。
多分これは私が幸せ、というか、気になってしょうがない事が軽くなるための一つの解決の糸口。
なので、ちょっと変わった人だなって思っても、別に積極的に助けてあげよう、とか気負ったことはしなくていいから、
変に攻撃的になったり、無視したりするようなネガティブな態度を取ったりしないで欲しいのと、
周りでもしそういう図式でのコミュニケーションを見つけたら、それとなく少し緩和する勇気を持ってくれると嬉しいなって思ったりした。
懺悔をしたい。
今から14年前だった。私はその年受験生でクラスで一番仲の良かった友達と一緒の高校へ行こうということになっていた。その年は新型インフルエンザが流行っていて学校でもバタバタと倒れていった。友達も受験の直前にインフルで倒れた。どうしようとメールで喚いていたが、私は必死に治るよ、大丈夫だよ、と画面越しに励ましていた。
その子は完全には治りきってなかったが、試験には受けられるような体調になっていた。
試験の前日、この日は2時間授業で放課後に教頭先生から受験のエールを送るという名目の集会があることになっていた。
友達はインフルで倒れて休んでいたが、ちゃんと学校に来れるのもこれで最後だからとこの日は学校に来ていた。ただ、病み上がりだったためにその集会には参加しないと言っていた。
そして、帰る際にで私はやってしまった。冗談のつもりだった。その友達がカバンを持って玄関に向かう際に私は彼女を追いかけてこう言った。
「昨日先生が言ってたんだけどインフルの影響で試験日程が延びたんだって、本当に急だから学校も連絡が追いついてないみたい、明後日になるっぽい」
そして私はそのまま友達を玄関まで見送った。嘘だよと明かさずに。
その高校を受けた同級生は私を含めてみんな受かった、その友達を除いて。
5日後に卒業式があったが、その友達は来なかった。嘘を信じたと思っていないどころか嘘をついたことすら忘れてしまった私は、のんきに卒業式に来なかったんだ…と思っていた。
私の嘘のせいで友達が高校を不合格になったと気づいたのは高校に入学してすぐの時だった。
入学直後はクラスになじめずに中学時代のクラスメイトと一緒にお昼ご飯を食べていた。私のクラスにも顔見知りの同級生がいたので、昼食をとってると
「○○ちゃんいたでしょ?」とその同級生が私に聞いてきた。○○ちゃんとは例の友達の名だ。
「うん、落ちちゃったの残念だったな」
「その子ね…試験日程間違えちゃったんだって本来の試験日の2日後に会場に来たっぽくて」
それ以降のことは覚えていない。私はこの際冗談のつもりでやったことが冗談でないと今更ながら気づいたのだ。高校時代は私のやらかした所業がばれてしまわないかだけを考えながら、おびえた3年間を過ごした。大学に行っても、社会人になってもその傷は治ることはなかった。
その友達は噂だと滑り止めの高校を半年でやめてしまったらしい。
あまりの辛さに私はきっとどこかで彼女も彼女なりに幸せに暮らしているはずだと思うようになってしまっていた。
だが、現実は違った。
去年の11月、私は親戚の不幸があったので地元に少しの間帰省していた。その際に違う高校に行った中学の同級生と会って少し話す機会があった。その同級生は友達と家が近く、中学に上がる前は一緒に学校に通っていた仲だったらしい。
私はその嘘をつかれた友達がどうなってるか聞いた、聞いてしまった。
あの後、彼女は退学したのちに精神を病んで今も引きこもってしまったのこと。両親も精神を病み、一軒家からアパートに引っ越したのことだった。
泣いた、ひたすら泣いた。
許されるべきではない、それは分かっている。
あの時、なぜあんな嘘をついたのか、もしかしたら自分の合格の確率が少しでも上がるようにやったのかと言われればそれまでだし、テンションがおかしくなって嘘をついていえばそうだ。
ただ私は悪意のつもりでやったわけではなかった。
その同級生から住所を聞き出し、後日菓子折りを持って土下座したが、友達の両親は冷めた目で私を見るだけであった。2人ともやつれていて生気がなかった。
この謝る日の少し前、私は某掲示板にこのことを書き込んだが、やはり私が悪いとのことだった。そりゃそうだ。スレ民も友達の両親が優しすぎた、普通だったら怒鳴り込んできてもおかしくないと書いている人がいたが、あの様子を見るに怒鳴り込む気持ちすらなかったんだと思う。
ちなみにそのスレは何故か釣り扱いされている。(私に成りすまして嘘を書き込んだ人がいるっぽい)
ただ高校受験を欠席すると高校から中学へ連絡が来るいう情報を見たがそういうのはなかったのだろうか。それだけが疑問である。
なぜ今更書き込んだかというと入学式のシーズンで高校の制服をきた生徒たちが電車に乗り込んで楽しそうに話すたびに耐えられなくなってしまったからだ。
友達はどうしているのだろう、いまもあの暗い部屋で引きこもっているのだろうか。
上記の記事については、「元校長や元教頭を大学にって、天下り先確保では?」とか「労働条件改善や給与アップが先だろ」という意見がTwitterで散見されるところだが、中身を見ると
25歳未満で離職した公立小中高校の教員は18年度、790人で、12年度の647人から増加している。
として、内訳のグラフがある。増田にグラフは書けないので表で表現し、ついでに2012年度を100としたときの値も書いてみる。
年度 | 小学校 | 中学校 | 高校 | 合計 |
---|---|---|---|---|
2012 | 313(100.00) | 238(100.00) | 96(100.00) | 647(100.00) |
2015 | 359(114.70) | 239(100.42) | 97(101.04) | 695(107.42) |
2018 | 450(143.77) | 225(94.54) | 115(119.79) | 790(122.10) |
おおむね全体で22%増加しており、特に小学校で43%と急激に増加していることがわかる。
ところで、25歳未満の教員の数はどのように推移しているのだろうか。
調べると、学校教員統計調査というのがあり、3年ごとの調査なのでピッタリとは合わないが、近い年度の数字が得られるので見比べてみよう。
25歳未満の教員の人数
年度 | 小学校 | 中学校 | 高校 | 合計 |
---|---|---|---|---|
2013 | 14,683(100.00) | 7,240(100.00) | 3,206(100.00) | 25,129(100.00) |
2016 | 17,486(119.09) | 7,397(102.17) | 3,553(110.82) | 28,436(113.16) |
2019 | 21,013(143.11) | 8,003(110.54) | 3,553(110.82) | 32,569(129.61) |
おおむね全体で29%増加しており、特に小学校で43%と急激に増加していることがわかる。
……って、若い教員の退職が増えたのは、単に若い教員の人数が増えたからじゃねーか!
ここ数年、教員採用試験の倍率の低下により、かつてのように何年も非正規の講師や助教諭を経験してから採用される教員の数が減り、新卒や1〜2年の講師経験で採用される人数が増えた結果、25歳未満の教師の数が増えたのだろう。その結果、退職者も増えた、というだけにしか見えない。
上司への“逆パワハラ”でクビになった元女性自衛隊員の告白 「納得がいきません」
https://news.yahoo.co.jp/articles/4570063aaf26f15335303485f8fb0b8851c07e06
こういう逆パワハラって言われる現象、たしかに相手が気弱だったり
強気にものを言うひとがいないコミュニティだったりすると起こりえるんだろうな。
とは言えこんな人種とは絶対に(もし自分に害がないとしても)関わりたくはないんだけど、
ここまで自分を貫けるのはある種すごいなと思う。
年齢や立場関係なく自分を信じて悪いと思ったことは直球で意見するスキルというか。
(この人らはもちろん言い過ぎなんだけど)
「コートなどの着用は認めない」――。列島を強い寒波が襲う中、一部の学校の校則で生徒の防寒着に制限を設けていることが、毎日新聞の情報公開請求で判明した。「ブラック校則」と呼ばれる学校での理不尽なルールは各地で社会問題化している。なぜ、防寒着はだめなのか。学校側に尋ねると、意外な答えが返ってきた。
なぜ、校則でコートなどの着用を制限するのか。冒頭の男子生徒が通う高校に取材すると、教頭は「昔からある校則なので、目的は分からない」と話した。「生徒は制服の中に着ることで防寒しているし、朝に学校に電話してコート着用の許可を取れば、着ていくこともできる」と説明する。段階的に校則は見直す予定だが、具体的な日程は決まっていない。
コート着用に男女差を設けていた高校も、その教育目的ははっきり分からないという。あくまでも推測と前置きした上で、男性教諭は「女子の制服は中に着込むことができないものが多いが、男子の学ランの場合は中に着ることができるからでは」と語った。ただ、教諭側からも疑問視する声が上がり、新年度から校則が見直される可能性があるという。
昨今、変態教師が逮捕されるニュースを見るたびに思い出す中学生の頃の思い出。
90年代はまだパソコンを持っていない家庭も多く、うちも父が仕事用を持っていた以外はなかった。
当然私もワープロ以外ほとんど触ったことがなく、ウィンドウズ95だったか98で立ち上げ方を習ったり、ワードで作文を書くとかそんなことしかしない授業だった。
先生がハゲた癖のある男性で自分用のノートパソコンみたいなものを教卓において、情報室のプロジェクターに映す形で授業が進められた。
変なとこでキレたりブツブツ喋ったり正直好かれている先生ではなかったので、特にクラスのヤンキー系の男子からは弄られて嫌われていた。
事件が起こったのは冬服に切り替わった頃。
いつものようにハゲ先生が自分のパソコンをプロジェクターに映すと他の先生から呼び出されて情報室から出ていってしまった。
5分位待っても帰ってこなくてみんな雑談していたけど、暇を持て余したヤンキー系男子がハゲ先生のパソコンをいたずらしだした。
まだCドライブやDドライブも知らなかった私達大半はともかく、どうやらヤンキーの中に少しパソコンを聞きかじった奴がいたらしく色んなフォルダーの中身を漁っていたようだった。
その時だ。
すげーボイン(古)でマッパの姉ちゃんにうちの中学の女子生徒が生首みたいに切り貼りされた滅茶苦茶下手くそな合成画像がプロジェクターいっぱいに表示された。
今だからそれはアイコラだと分かるが、インターネットなんか触ったこともない私たちはその妖怪のような画像に阿鼻叫喚の大騒ぎになった。
あまりの煩さにイライラしながらドアを開けたと思われるハゲ先生はキレながら入ってきて、ふとプロジェクターに目をやり固まった。
その後はもう顔から頭まで真っ赤になったハゲ先生が何か声にならない言葉を叫んで教卓に突撃して自分のノートパソコンをぶち抜いて教室を飛び出して行ってそれっきりだった。
しばらくして担任の先生や複数の先生がやって来て教室に戻され、首謀者のヤンキーが事情聴取をされた。
その後、技術家庭科は教頭先生がやって来て教科書を音読するだけの授業となり私達はパソコンを触ることさえなく卒業を迎えた。
ハゲ先生に関しては、担任や他の先生に聞いても「病気で休んでる」しか言わず。
受験前という事もあったのか、こんなヤバい事件があっても保護者が騒ぐこともなく見て見ぬふりをされた。
私らがアイコラのことを訴えても「ハゲ先生は病気で休んでいるのに何てこと言うのだ」「今は気にせず受験に集中しなさい」とか今考えるととんでもない隠蔽工作が行われていた。
水谷緑さんの「私だけ年を取っているみたいだ〜ヤングケアラーの再生日記〜」(文藝春秋)を読んで、病識のない精神障がい・患者を抱えた家族がどうやって社会と繋がれたか書こうと思った。
母も当時、自分を病気じゃないと思っていて(病識(びょうしき)がない、と今は言ってる)、明らかに家族や周りが見たらおかしくて、その認識の乖離のせいでさらに信頼関係が崩れたり、暴走が激しくなったりした。
精神科は本人を連れてきて、と言う。
母が調子を最初に崩した時、父がすぐに何か気付いて東京の病院に連れて行った。
そこで話を聞いてもらって、薬をもらった。
気分が落ち着くような薬で、代わりにうつ病のように1日のほとんど寝ていることになる。
お酒も飲めない。
それでも家族としては暴走されるよりマシだから飲んでて欲しいけれど、本人は「薬を一生飲むのかな」「薬がなければ家事をきちんとできるのに」「私は薬なんかなくてもまともだ」と思うのだろうか。
薬を飲んでいない時で躁状態の時、最初に行なったのは都内に出かけて高価な買い物をしてきたことだった。
出かけた先で予定を変えて夜遅くまで帰ってこなかったり、突然深夜に出かけることもあった。
おかしな行動をし始めた頃、父は必要あれば迎えに行ったり連絡を試みていたが、だんだんほっとくようになった。
お父さんは浮気してるとか、お父さんは嫌いと言って家出という形で出ていくことも多くて、父としてもあまり優しくして構うのも限界があったのだと思う。
ある時、学生時代の友達の家に遊びに行って泊めてもらっていた。友達も泊まるとは思わなかったし様子もおかしいので、父に連絡がくる。母が車で出かけていたので始発を待って翌朝父が迎えに行くと、友達の家のベランダから何かを叫んで怒っていて、友達は怯えて寝室に閉じこもっていた。
父が車を運転して母を連れて帰ってきて、その翌日、数年ぶりに病院に連れて行くことにした。
それまで母に「診てもらおうよ」と言ってもまた喧嘩になるから諦めていた。
その時は、妹や父が(色々あって)鬱かも、みんなで診てもらおう、と連れ出したらしい。
(私は進学で別の土地にいたのでこの辺りは伝聞だ。)
日曜だったのでやっている病院が少なく、隣の町の小さなメンタルクリニックに連れていった。
少し離れた有料駐車場に車を停めて3人でクリニックに向かう間も、母は「やっぱりやめようよ」「あそこに行ってみたい」「どこに連れてくの?」と、足を止めていたらしいが、なんとかクリニックの前まで連れてきた。
クリニックの看板には、「心療内科・整形外科・内科」みたいなことが書いてあった。
それを見て母は、「整形外科って何!私を整形させたいの!?整形しようとしてると思われる!みっともなくてこんなところは入れない!」と言ったが、とにかくいいから、と院内に入る。
待合室で少し待っていると、母がだんだん気分が上がってきて、診察を待たずに待合室で父と喧嘩になった。
妹が泣きそうになりながら、クリニックの人に「早く診てください」と言うと、クリニックの先生が出てきて、「うちではここまで調子悪い人診れないよ」と言った。
暴れたり叫んだりするのをやめないので、クリニックが警察を呼んだ。
警察。
これが初めての警察のお世話になった場面だった。
みんな家族が警察に捕まるなんて恥ずかしいしとんでもないと思うかもしれないけど、本当に家族がおかしくて困っているなら警察は悪手ではないと今は思ってる。
本人は嫌だったと思うけど。
警察が来ても頭がおかしい人は「捕まる」訳ではない。でも、一晩署にいて、そのあと病院に送還される。そこで度合いによるが「措置入院」となると、県知事や都知事、市長が入院しないといけない人と判断した、となり、その入院にはお金がかからない。
その分それくらいのレベル、ということで病院では拘束されたり外部との連絡や交流が制限されたりするが。
この時は措置入院になり、つまり母としては「無理矢理頭がおかしいことにさせられて警察に強制的に入院させられた」となっていたと思う。
母が署に一晩いることになって父と妹だけで帰宅した夜、初めて電話が来て、「なるべく早く、可能なら明日にでも帰ってきて」と言われた。
2人とも料理や洗濯もできないと言ってやり方を教えてくれ、と。
入院にあたってタオルなど荷物を届けるためみんなで病院にも行った。面会はできなかった。
入院は2ヶ月程度だったと思う。
2ヶ月経って面会が許された頃、病院に久しぶりに行くと、先生に「本人が退院したがっていて、症状も落ち着いてるのでこちらとしては患者さんの意向を尊重する」と言われた。
だが、面会した時に話した感じで、母に病識がないことがわかっていたので私と妹は反対だった。
だが結局その時は退院になってしまった。父が母を信用してみることにしたのだ。ここからの入院はお金がかかるから躊躇したものあるかもしれない。
案の定1ヶ月以内に躁状態は戻ってきたが、通院と薬で押し込めて落ち着けられた。
そのあと2年後に、大きな動きがあった。
入院の時お世話になった先生のところに、2ヶ月に一回のペースで通院していた頃だった。
その回の通院で話し合って、薬を少しだけ減らしたらしい。
そこから2週間ほど。
教育関係者の偉い人の講演会に感動して、ビラ配りに参加したり活動的になってきていた。
だがそんなもの趣味と同じ扱いで制限もできないと思っていたころからたった3日ほど経ったある日、パート先で勤務中に、母がいなくなった。
仕事着のまま、運動会中の近所の小学校に来て騒いでると小学校の教頭から父のところに連絡があった。
小学校に来て、〇〇さん(教育関係者の偉い人)が来てないかと騒いだと。
保護者や教員で取り押さえていたが、父が仕事中で母の実家に連絡をとっている間に脱走。
母の実母は、母の姉に連絡し、妹にも連絡し、様子を見に向かっていた。妹はデートに行く途中で連絡が来て、相手に断りを入れなきゃいけないし、自分の予定を邪魔されるし、そんな状態の母も見たくないしで泣きながら戻ってきたという。(私は妹にこの時、母のところに行きたくなかったら行かなくてもいい、時間をおいて帰宅したらどうか、と言った気がする。デートについてはなんて言えばいいかわからなかった。)
みんなが母を迎えに行こうとしている中、GPSで父が母の場所を探っていたが、急に移動のスピードが上がる。
教育関係者の偉い人の事務所の前にて、騒いでいるところを通報を受けて警察に連行された。パトカーに乗っていたからGPSが速く移動したのだった。
署で面談中、母は暴れ、叫んでいた。
服を脱いでいたらしく、警察に渡された布を纏って、面談相手とは距離を取って面談をしていたという。
気が大きくなっていたのもあるが、離れて会話するから叫んでいたとも思う。
前回と同じ流れで措置入院になり、前回より近所の病院に入院した。
私は今度こそ病識が持てるまで入院させよう、と強く主張し、妹・父と、先生に伝えたいことをまとめた。
また訪問看護も利用できないか聞きたかった。私は勘違いをしていて、家の中に来て少し家事をしたりしていってくれる人だと思っていたが、そのあと聞いたら訪問看護は薬を飲み忘れてないかとか様子がどうか見るだけのものらしい。
それでも家族以外の外部の人に見守ってもらえるなら今までよりいいと思う。
家族だけじゃ息が詰まる。
今回の先生は女性の先生で私たちの話をよく聞いてくれて、「病識を持ってもらう」というゴール設定をよく理解して汲み取ってくれた。
薬を性質の違うものに変えて代わりに量を増やし、症状を抑えていた。
私は「心理的なきっかけがあるんでしょうか?トラウマとか…」と聞いた。
先生は「違います。脳の障がいなんです。双極性は心理的な原因があることは少ないです。」と言ったと思う。(私の解釈が入っていて医療的に間違っていたらすみません。)自律神経の不調やホルモンの不調と似たものだという理解だった。
結局入院は3ヶ月程度だった。
退院した数日後に会いに行くと、母は前回と違い周りの患者さんと交流もできて、自分から「障がい者手帳」「障がい年金」をもらおう、と言っていた。
一緒に申請に付き添って行ったが、明らかに前回と違うと思った。
今は自宅で過ごしている。家事も自分のペースでして、やはりよく昼寝をしている。
作業所などに通うことも検討したが、落ち着いていればパートもできるのだから本人としては新しいところでパートを始めたいらしい。
今症状と付き合い始めて10年ほど経つ。
今やってる向き合い方が正解かはまた数年経たないとわからないが、とりあえず穏やかにやってると思う。
暴走の仕方によるが、私たちの場合は調子の良い時は家族同士仲がいいし母の暴走は人を暴行したりはしないので、暴走させて警察などの権力のある機関に介入してもらう、というやり方で結果的に良かったと思っている。これが暴走するのが父で、ほっといたら人を殺すような人だったら思うとゾッとする。
でも、私もすごく怒りっぽいところがある。「暴走」自体、他人事と思えないし、私自身いつそちら側に行くかわからない。その時入院となったら、犯罪を犯してしまったらと思うとゾッとする。
私は病気が原因で人の命がどうにかなってしまうことだけが恐ろしい。
双極性障がいは、鬱に振り切って自殺をしてしまう患者もいると言う。
母が自分を責めてそんな選択をすることもないよう気をつけている。
PTAに加入しないでください。
すでに入っていたら退会してください。
でも現実はそうなっていません。
強制的に加入させられているだけです。
PTA規約を見ても、会員は「○○小学校に通っている児童の保護者とする」というような書き方しかしていません。
これが現実です。
本来PTA活動は、必要と思う人、活動に協力できる人が任意で活動すればいいとだけ思っています。
ただ、家のこと、子供のこと、生活のことでいっぱいいっぱいなところに、PTAの役員が回ってきて、悩みに悩んで苦しい思いをしている人(特に私と同じ母親)が1人でも減ってほしい!
子供は1人で、小学校に入学する前の秋、学校説明会でPTAについても簡単な紹介がありました。
PTA。
活動に協力できるか不安で、規約をみてみると会員は「○○小学校児童の保護者とする」としかなく、それ以上何をするでもなく、子供は小学校に入学。
入学すると、1年生のときはほかのお母さん(100%母親でした)がこぞって役員に立候補していました。
何でも早いうちに役員をやっておけば楽なんだそうです。
子供が6年生になったときに、1度も役をやっていない人はほぼ確実に役員に選ばれますが、
そうなると重たい役をやる羽目になったり、卒業関係の仕事などで大変だそうです。
(初めてなので、仕組みがさっぱりわかりませんでした。退会したので今もよくわかりません)
でも、できる人はいいですよ。
私は低学年のうちに役をやることすらできなかった。
でもほかのお母さん方にはPTAの役員になっておこうと考える余裕があったようです。
どっちが大変とか偉いとか、そういう話では断じてありません。
ただ、ともかく私には役をやる余裕がなかった。
日中は仕事。毎日仕事して帰ってきて生活をまわすのが精いっぱいで、休日もぐったりしていました。
それから5年生まではずっとそんな感じで過ぎました。
6年生になる前の冬、まず子供会の役決めがありました。
なぜか勝手に役に選ばれていました。
あと、資源ごみ回収のための市役所への手続きをしたり、通帳を管理するとか。
平日は無理です。
窓口の開いている時間に市役所と農協の金融機関の支店にはとても行けません。
私がその役になったら夏休みも企画はしません。企画はなしで終わるでしょう。
そもそも前任者も忙しいお母さんで、役決めの集まりの連絡ができず、私はその場にいないので勝手に決まっていたそうです。
そのことにも納得できず、引き受けられないと伝えつづけ、その間に不快なやり取りがいくつかあり。
結果、見かねた別のお母さんが役を引き受けてくれました。
そうです。
やれる人、やりたい人がやればいいじゃないですか?
やれる人、やりたい人がいないなら、無理に活動する必要ありますか?
その間に私も相当嫌な思いをしました。
他人に望まず嫌な思いをさせてしまっていることもストレスでした。
何のために?
そのことで気づきました。
今まで忙しかったのと、よくわかっていなかったのですが、
本当にできないんです。
この間、ものすごく悩んで追いつめられて、段々鬱っぽくなっていたように思います。
子供のことでこんな苦しい思いをするんだったら、子供と一緒に心中する!とまで思い詰めていました。
でもある日ふと思いつきました。
じゃあ、抜ければいいじゃない。
退会すれば役員はまわってきません。
こんなに子供のことで思い詰めて嫌な思いをするくらいなら、抜けてやる。
ただしそれは、ほかのお母さんに白い目でみられることと引き換えです。
それでもいい、と思いました。
どうせ生活のために働きづめで、ほかのお母さん方と交流する機会もありません。
元々誰かとつるむことがなかったので、抜けやすかったのかもしれません。
さて、抜けるときめたはいいけれど、その方法がまったくわかりませんでした。
ネットでの経験談を読むと、校長?とPTA会長?に退会届を出すとか。
退会届の見本もネットに載っていました。
「PTAを退会したいのですが、どちらに退会届を出せばいいでしょうか」
するとまず、校長先生から「PTA会長がお話したいと言っている」旨の返事が来ました。
聞いてはいたけど、「退会したい」と言ったらまず、
と説得して退会を防ぐ腹積もりらしいです。
とかいうんです。
何よりも休みの日にそんな不愉快な電話を受けたくありませんよ。
こっちは話すことはないし、そちらの都合でかけてくるのに。
すでに退会することは決めました。
話し合うことはなにもないんです。
私はただ、どこに退会届を出せばいいのか知りたいだけなのに、それに対する返事はありません。
退会する人、電話は避けましょうね!
特に気の弱い人、遠慮がちな人は、直接話すと丸め込まれたり、けむに巻かれたりしますよ。
私は連絡帳にて、
平日は仕事中だし、休日も都合が悪いので、文書にしてくださいと伝えました。
「できる人ができることをできるときにやればいい」ものだという、呆れたことが書いてありました。
「できる人が、できることを、できるときに」
やることになっていたら、私は退会しなくて済むわけです。
でも現実にそうなっていないから、私は苦しんだし退会することになった。
現実は、
だけじゃありませんか。
最近は父親も保護者会に参加したり親父の会とか作って子育てに積極的にコミットしていますが、それでもPTA役員にまでなって活動する父親は、やはり圧倒的に少数派です。
なぜか。
そんなこと明らかじゃありませんか。
父親は一家の稼ぎ頭として、日中会社で働いているからですよね。
父親で役員やる人は自営業とかで、妻より時間の融通がつく人だったりします。
無理もありません。
別に父親が育児に関心ないとか、家庭にコミットしないとか思わない。
家庭内分業として、父親が主たる働き手として生活費を稼ぎ、子育て期の子供の面倒を見るためにも、母親が家のことを行いつつ、パートに就いたりするのは、家族内の協力体制で自然なことだと思います。
単に家庭内で母親の方が時間的に融通がきくから、PTA活動をになっているのではないでしょうか。
そして私の場合、私が生活費のため日中仕事に出て、家にいる間は家庭をまわす主婦になっているわけです。
到底自慢なんかじゃありませんよ。
大変さアピールでもありません。
働く父親にがPTA役員をやれないなら、私も同じ理由でやれないんです。
なんせ、朝出勤してから往復通勤時間を含めて12時間程度は家に帰ってこないんですよ。
有給休暇もあるけど、顧客都合で休めない日もあるし、休んだらその分休日出勤しないといけない仕事量でしたし。
何よりも仕事の責任を果たせないのが恐怖で、ずっと綱渡りでした。
ふざけんな!ですよ。
この校長先生は、そういう母親の現実をわかっていないと思いました。
そこで手紙に対する返事をこちらは便箋に縦書きで手書きしました。
何も私は対立したいのではなく、ただ退会したいだけなので、退会という目的さえ果たせばあとはどうでもよいわけです。
返事には、
「PTAの意義はよくわかりました。活動に協力できず大変心苦しく思っています。」
というようなことを書きました。
会費を出し渋ってると思われるのが悔しかったので、PTAには入らないけれど、
「会費相当額を学校へ寄付させていただく」とまで申し出て、後日実際に寄付しました。
この際、校長先生とPTA会長宛の退会届を添えてさっさと連絡帳にたくしました。
さらに、退会届には、退会が認められたのか確認したかったので、
「年度内に退会したことの承諾書類をください」と書き添えました。
それで終わりです。
退会届に対する返事は来ませんでした。
子供が6年生に進学しても、誰も何も言ってきませんでした。
そして。
新学期に入って、学費・給食費の引き落とし時期になり、通帳を確認したところ。
どういうわけか、PTA会費が一緒に引き落とされていました!
退会してないの?
確かに退会届を出したのに??
酷いですね…。
再び連絡帳の出番です。
すると。
この校長先生は、退会届を出した校長先生とは別の人で、当時の校長は異動したので、電話が来たのは別の校長先生です。
この先生はとてもよい人でした。
私が連絡帳に書いた要件について、「確かに退会している。会費は返金する」と、ちゃんと回答してくれました。
それでもちょっとだけ、願望めいた恨み節をひと言言われました。
私には言いたいことがたくさんありました。
そもそもPTA活動がどんなに忙しい保護者(主に母親)を苦しめて、母親同士の分断まで生み出しているか。
子供会の役員ですら、そのときの役員だった人からは夜中の1時にメールが来たりしていました。
そんな人が役をやらなくちゃいけない状態を知っていますか?と逆に聞きたかった。
でも会社内だったので大っぴらにしゃべれなくて、言いたいことの半分も言えませんでした。
お礼だけ言って電話を切りました。
以上が私の退会経験です。
これ以降、PTAは決定的に私にとって「近づかない方がいい」ものとなり、
高校でも、入学説明会前にPTA名簿用に情報を提出する用紙があったので、
それに換えて非加入届を提出しました。
中学のときはきっと小学校から連絡が行っていたせいか、特に咎められませんでしたが、高校では加入勧奨されました。
すでに嫌な予感。
まあ何かあるかもとは思ってたけど。
そして案の定「あ、ちょっとお母さんすみません、お話しが…」と教頭先生が登場。
何てのたまったと思います?
「役はやらなくていいから、会費だけ払ってくれれば…」
これ本当に言われました。
「それって入会してるってことですよね?」って。
何よりもまず、そんな不公平なことをしたら、ほかの真面目に加入してくじ引きで当たって役をやる会員に失礼じゃないですか!?
役をやらなくていいなら、多くの人がやりたくないでしょう。
ただ入会した以上、システム的にくじ引きで当たったら3年間役をやるようです。
役に当たって「嫌だ、やりたくない」と思う人は、どうぞ退会してください。
むしろ、退会すべきですよ。
※なぜこれほどまでに退会者を引き留めるのか。
私はよく知りませんが、なんか会員1人につき、上から降りてくるお金があるような?
あと地区とか上位組織に加入者を減らさないようなプレッシャーがあるらしいですね?
だからもれなく無条件加入させることに校長やら教頭はこだわるようです。
そんなことのために苦しむのがアホらしいですよ…。
私はPTA不要論者ではありませんが、PTA活動はあまりにも時代と合っていないことは確かです。
私が声を大にしていいたいのは、
ということです。
シングルマザーに限らず、共働きだったら毎日生活をまわすのに精一杯だと思います。
別に外で働いてない人でも、パートの人でも、フルタイム労働者より時間の融通をつけやすいだけで、忙しいことは変わらないと思います。
だって理由があって専業主婦だったりパート労働者なんでしょうし。
子供が小さくて送り迎えがあるとか、障害を持ってて世話が大変とか、それぞれの家庭の都合が色々あるでしょう。
朝の登校の旗振りをしたとき、ペアとなったお母さんは、赤ちゃんを家に置いてきたと言っていました。
早く帰ってね、と言ったんですけど、そもそもそういう理由があるなら無理にやらなくてよいではありませんか?
でも、小さな赤ちゃんを独りにしてまで、優先させる活動なのか?
あともっというと、
そもそも仕事や家庭の都合とか理由がなくちゃ断れないんですか?
単にやりたくないから、でもいいじゃないですか。
自分は向いてないとか好きじゃないとか、そういう人もいるじゃないですか。
特に「自分は大変な思いで役をやったのに!」という人は批判的だと思います。
私だって、大変な役員がまわってきたけど我慢して引き受けたのに、って。
役員がまわってきたとき、我慢して引き受けるって決めたのはあなたじゃありませんか?
やりたくないと思った、あるいはどうしても引き受けられなかったなら、私のように退会すればよかったんですよ。
自分がやったから、やれたからって、できない人、やらない人を批判しないでください。
PTAのこともそうだけど、様々な家庭がある。
これ以上、色々比較して分断するのは、お互いにとってよくないです。
ともかく、PTA活動は、現実問題「できる人ができることをできるときにやって」いないです。
自分は家族の朝ごはん作って食べて片付けてトイレ掃除してお米研いで炊飯器にセットしてから出勤したり、
退勤したらスーパーによって夕食の食材を買って、帰宅してご飯作って食べさせて片付けて洗濯して干して、
寝るまで子供の面倒をみる生活したことないでしょうね。皮肉ですが。
これでいいたいことは全部ぶちまけた。
私のように苦しんでいる人がいるのではないかと心配するからです。
せめて、PTAで悩んでいる人、辛い思いをしている人が1人でも減りますように。
PTAに加入しないでください。
入っていたら退会してください。
終