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2015-10-10

互助会村民の抗争を終結にみちびくたった一つの冴えたダイアリー

 それがこれだ。あなたが今見ているサイトだ。

 はてな匿名ダイアリーだ。

 考えてもみろ。

 あらゆる争いは「あいつ」と「おれ」が違う人間から生まれる。「あいつら」と「おれたち」が違うグループから

 しかし、ここ匿名ダイアリーではあらゆる id、あらゆる派閥が「増田」のもとに統合される。

 増田とはわれわれであり、増田とは彼らであり、増田とはすべての人々であり、増田とは自分一人だ。

 争いも憎しみもない、完全無欠のハーモニー

 あらゆるインターネッターの理想郷

 俺たちは増田だ。あらゆるものが俺たちだ。

 俺たちは村民である。俺たちは互助会である

 モヒカンであるミニマリストであるマジョリティであるマイノリティであるヘテロであるゲイである日本人である外国人である子どもである。大人である。女である。男である理系である文系である研究者である教育者である生産者である消費者である技術者である管理職である右翼である左翼であるビッチである。清楚である童貞である処女である底辺である上流階級である貴族である平民である。老人である赤ん坊である。母である。父である孤独であるリア充であるオタクであるバカである天才である差別主義である博愛主義者である教師である。生徒である。愛である。恋であるブロガーであるジャーナリストである運営であるユーザーであるキリスト教徒であるイスラム教徒であるスンニ派であるシーア派であるカソリックであるプロテスタントである。カルヴィニスであるルター派である。犬派である。猫派である。作者である。読者である戦争である平和である。神である。人である。1である。0である。あらゆるものである。あらゆるものでない。

 はじまりにして、終わりである

 

 さあ、祈ろう。さあ、うたおう。

 さあ、増田をはじめよう。

 君も増田だ。私も増田だ。

 争いも増田だ。憎しみも増田だ。

 世界増田でできている。

2015-08-31

初等数学教授

http://d.hatena.ne.jp/shi3z/touch/20150830/1440908973

ここのブコメにあるように、中高の数学実学踏み台として教えるというのは、間違っていると思う。

なぜならば、将来の純粋数学者哲学者への教育放棄しているから。

数学というのは概念記号化、抽象化と推論規則の導入と演習として教えられるべきで、

経済学物理学プログラミングで使えるというのは抽象化真逆を行っている。

もちろん、被教育者の全員が全員純粋数学者哲学者になるわけではないので、

そうでない生徒に対するクッションとして実用例を出すというのは必要だと思う。

しかし、教育カリキュラムとしてはあくま理学的、哲学的であるべきで、

かつその抽象化や推論規則のような理学思考はどのような業務に就くとしても

必要となるものである

裏を返せば、実学での事例は、その実学範疇しか使えず、

単なる知識にしかならない。思考訓練にならない。

今の数学教育の弱いところもそこで、例えば中学幾何学

ユークリッド公理系に基づいてしっかり教えられる教師が圧倒的に少ない。

で、結局実用に逃げて論理とは何かを義務教育で教えられていない現状。

プログラミング実例出せばいいというのは、昨今の文系軽視論にも通ずるところが

あるので、はてな民くらいの教養のある人々には、

ぜひ理学哲学大事さの普及に努めてほしいと思う。

2015-08-15

グラフィックデザイン業界の所感

グラフィックデザイン文脈でよく語られるデザイン史は、バウハウスから始まって、グーテンベルク活版印刷雑誌時代エディトリアルデザイン広告コミュニケーションテクノロジーとの融合というものだ。また別軸で、グラフィックデザイナー職能として、工業化社会における機械製品美学的側面を整えるという歴史があった。まさにテクノロジーの隆盛と歩んできたデザインである生活を便利にする機械製品電話洗濯機など)は生まれパーソナルコンピューターは普及した。そして、グラフィックデザインをするためのツール思想は世の中に溢れ、誰でもグラフィックデザイン勉強ができ、誰でもデザインを作れ、誰でもそういう成果物に対して口出しできるようになった。

いつからか、総合的な計画であるはずのデザイン行為の中から美学的側面」のみが取り出されて、それに対しての褒賞制度が整えられたのだ。日本で言えば、たとえばJAGDAの褒賞制度特にグラフィックデザイン業界におけるそれら褒賞制度は、そのほとんどが美学的側面の評価しかしていないので、それがビジネスを支えるツールとして、実際的に機能であるかどうか定量的に計測されていないだろうし、主催者も応募者もそういう側面でしか見てなくて、内輪で楽しく賞を送り合っている構図がよく想像される。その外に居る人がどれだけ社会に対してインパクトのある仕事(例えば新しいムーブメントを起こしたり、技術生活基盤を進歩させたりなど)をしても評価はされないのだ。格好良くないという一言で、彼らのコミュニティから排除される。いつまでもはびこる師弟制度ごますりが必要コミュニティ入会の現状。

デザイナーではない人はそもそも「上位の概念としてのデザイン」に対するリテラシーがないので、デザイン=格好良くてお洒落な見た目をつくること、という短絡的な思考しかデザイン評価できない。つまり、受賞した人間はいものを作っていると。しかし褒賞制度がそもそも歪んでいるので、受賞者がビジネス社会ライフサイクル的な側面に目を向けられる人間かどうかという評価視点が抜け落ちてしまっている。僕はこういったデザイナー達を「グラフィックアーティスト」と呼んでいる。決して「デザイナー」ではない。

本来的にビジネス協調すべきデザイン活動が、それを無視した褒賞制度によって、奇抜なことをするデザイナーこそ優秀であるという歪んだ理解社会に溢れてしまった。そういうデザイナーたちがつくり上げるものには、機能的側面が欠落してしまうことが多いと思う。デザイン機能的側面が考慮されないデザインは、はたしてデザインと呼べるのか。社会をより進歩させ得る力があるのだろうか。

また別の観点では、現在多くの美術教育現場にも問題があると思う。教育者自体が、旧来的なグラフィックデザイン文脈で育っているので、そのような視点しかデザインを捉えておらず、結果的美学的側面を整えることに教育の主眼が置かれてしまっている。デザインという手法社会コミュニケーション活性化させ、より良い文化システムを構築し、ビジネスにおける利潤獲得のための手法であることが教育されていない。そうして、再び無能グラフィックアーティストが量産されてゆくのだ。若いデザイナーの元で育ったほうが、明らかに的を射た考え方を獲得できるとおもう。

ここ数年、自分生業であるグラフィックデザインはそろそろ終わるんじゃないかなと思ってる。コミュニティ思考高齢化しているし、かと言って新しい考え方を積極的に取り込んで体質の健全化に取り組もうとしない。デザインもっと価値のあるものにするためのデザイン領域を俺は見つけたからいいんだけど、変化せず進歩のないコミュニティ未来はないとだけは言っておきたい。

美しくあることは大事だと思う。美しいことは心を豊かにしてくれる。しかし、それ以外のもっと大事なことにも一緒に目を向けてほしいと思うのだ。

2015-08-04

研究所のアレな人

企業研究所はだいたいどこでもちょっとアレな人がいる.

凄い成果を出していてアレな人は別にいいんだけど,

全く成果も出していないのに,ちょっとアレな人が割と居る.

普通に考えるとそういう人はクビになるんだけど,特に昔に雇った人達はアレな人でも簡単にクビにできない.

完全に仕事ラインから外れていて,いわゆる窓際な人になってるアレな人は人畜無害給料発生してるけど)なので別にいいんだけど,

どう考えてもアレな人なのに何故か若手の教育者とかそこそこな人数のチームリーダーになってたりする.

たぶん,そういうちょっと上司的な仕事をさせておかないと,アレな人はアレしちゃうんだと思う.

はいえ,そういう上司を持った部下になると結構ヤバイ

若手に多いんだけど,下手に「あなたちょっとアレですよ」とドストレートに言おうものなら,ご想像の通りいろいろと大変なことになってしまう.

はいえアレな人のアレな意見でそのまま仕事したら,ちゃんとした上司からは「お前,あの人はアレなんだから,ちゃんとアレしろよ」と言われてしまう.

そこで,最近自分が取り組んでいるのは,「これは社会貢献なんだ」という意識を持つことだ.

全てを効率化したら経済は回らないのと同じで,こういった無駄な取り組みが実は社会本質なのだ,と.

ちょっとアレな人がアレしてくれるお陰で,その人は評価が低く,相対的自分評価が高くなるのだ,と.

アレな人の自慢話(自慢話では無い)を月に何回か聞くという会議に出席することで,残業代を稼ぐことが出来ているのだ,と.

そう考えると,アレな人も割と普通に見えてくる.

幸せ世界.そこが企業研究所です(嘘です).

2015-07-25

親戚の医者長男が2人とも

ダメダメなんだが、母親が両方専業で教育ママ

やっぱり小学校くらいまでに詰め込み教育はじめてると

子供本人の個性が見えないから道を誤るとおもうんだがな。

ちなみに片方は3兄弟なんだけど、3人目は日本語も危うい。

アメリカで0歳児から英才教育で日英混合なんて馬鹿なことを

なんでしようとおもったのだか。

もう片方は100キロの障害児。

 

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トラバついたので一応。

なぜか医者の妻は「うちの子はできない子だから

それなりに育てよう」ってのを早めに認めることがないんじゃないか。

今、こじれてる。

100キロの方成人してるけど授産施設で上手くやっていけず暴れる。

親も100キロってお相撲さんみたいなものからとめられないし

金で何でもわがままをかなえる。

定年越えようという医者なのに借金だらけ。

 

もう片方、来年から養護学級すれすれの日本語力の3男と

長男医者にするための進学塾と両方塾・クラスへ送迎。

さいこから「叱らない方針」「英語幼児から」で育ててて

姑達は「跡継ぎだから医者にする」ことをゆずらない。

 

もう一件遠い医者がいるけど

長男結婚できず薬剤師にもなってない。

 

さら教育者の子供が不登校とか、もういっぱいある。

子供個性の向き不向きを早めに認めないから

不幸になるような気がするんだ。

というか「うすうす見てればわかる」こともないからそうなのか。

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ネットで同じように3人の子供がいて専業主婦

全員医者じゃない職に育ててるお家があって、

そっちのほうがすごい幸せそうだなとおもった。

2015-07-20

http://anond.hatelabo.jp/20150720005746

人類は生まれた瞬間に永遠に個人になるのだ。結婚など古い。

子供人工授精により生み、プロ教育者に育てさせるべき。

2015-07-01

http://b.hatena.ne.jp/entry/hibi.hatenadiary.jp/entry/2015/07/01/003113

id:QJV97FCr 教育者として教え子の活躍を望む気持ちはわかるが、客観的に言って駅弁大学の人文系出身者に世界舞台にした活躍を期待している人は少ないと思う

こういことを言う人多いけど、「世界舞台にした活躍」ってものを高く見積もりすぎなんだよね。

中堅メーカー就職して東南アジア工場ライン管理、ってのは駅弁大学出身者のルートとしてはわりとある方だよ。

2015-06-21

小学生スポーツ指導者や親って、なんであんなに精神年齢が低いの?

指導健全な発達のために叱られることはすばらしい!」という名目で、自分のおもいどおりにならない子供をどなってるだけじゃん。きちんと感情コントロールできるようになって、理想の状態がどうあるべきで現状がどうだからダメなのか伝えられるスキル身につけてから子供指導しろよ。

あと、「大きい夢をもて!」と連呼して盲目的な努力美談にするのもそこらの界隈にありがちだよな。それで大成するのは才能ある子供だけ。理想現実乖離のせいで人格をこじらせ、ぼんやり人生送る子供を増やしてるだけだよね。「大きい夢をもて!」とセットで必要なのは、そのために達成すべき過程がどれだけあるか。中目標や小目標が達成できれば、自尊心にもつながるし、ダメなら改めて大目標について考える指針になる。

たとえば小学生なら「全国大会まで進めるように頑張る」「そこまでは難しいなぁ、でもこのチームで地区大会3位以内に入れるように頑張ってみよう」「そこまでやると中学ではどこかのシニアクラブチームに入れるかもな」「それも難しいなら、思いきってこのスポーツやめるのもありかもな」くらい一緒に考えるべきだと思うんだけどな。ただぼけーっと大きい夢とやらを夢想してる子供を見てあーすばらしいなぁと感動してるのって、おまえの自己満足のために子供人生けずってるようなもんからな。現実見ろよガキ。ガキに育てられるガキってほんとに可哀想

知り合いの子育てを見ながらこういうことを考えていて、その考えをもとに子供を育てた結果、アメリカ高校留学を決めるわ、スマホアプリ制作して自分でこづかい稼ぐわ、優秀になりつつあるので嬉しい。この間、知り合いにどういう子育てをしたのか聞かれてオブラートにこの話をしたら「今からそうするようにしたいが、スポーツ指導者だけでなく公立学校教師もだいたいそんなもん。子供価値観汚染されちゃうんだよ」と寂しそうな顔をしながら言われた。私立しか知らないので公立教師が本当にそうか、俺は知らん。ただ、そこら中にガキが溢れてるらしいので「ガキに自分の子供を任せないように気をつけろ」と、いずれしっかり教えたいと思う。

以下コメント返し

自分をすごいと思ってるとか、アメリカ高校留学が優秀なんて薄っぺらいとか言われてるようだが、それを言ってる人たちは、冒頭に書いている人たちの精神年齢が低くてもっとマシな教育しろという点には同意してくれるのかな?同意してくれるならそれでいいよ?俺よりもはるかに優秀な人たちだから、俺がバカに見えるんだろうね。ブクマページ覗いたらほんと優秀で笑みがこぼれたもん。

②優秀になってくれたら嬉しいってのは、作品がよくできたじゃなくてきちんと幸福目標がなにか自覚しながら、それをつかんでいける人間になってくれそうなのが嬉しいってことね。そういう意味で、子供に何も選ばせてないという意見は間違い。子供子供なりに勝手に考えてるだろという意見も含めて、子供と一緒になって考えず、純粋自然のままでいさせるのが善だと信じるのは虐待と言っても過言ではないよ。忙しいのはわかるけど、飯を食わせておいて好きなことやらせておけば勝手に育つ、みたいな考え方は絶対にすべきじゃない。

③そのときの決めつけ良くないって言うけど、そうやって夢をむりやり追わせて成功する人よりも失敗する人のほうが多いよね、しかも決めつけではなく中くらい小くらいの目標を達成できるかという指標を持ってるわけだよね、いないと勝てないという言葉はそのチームで頑張るかどうかの指標の一つにはなるけど、長いスパンで考えて必要かどうかということを思考停止していい理由にはならないよね。

決めつけでうまくいったいい例としては、大学でも球拾いだった上原や長友が挙げられるけど、あれってごく例外から感動する訳だよね?それを親が感動の側だけ持ち出して強調するのはクズすぎるでしょ。むしろ例外だということをきちんと強調して現実理解させた上で選ばせるのが大事というだけ。一緒になって感動したい!という考えこ子供をモノとしてしか扱ってないよね。子供の育て方は自由だ!って言うけど、それラクしたいだけじゃん。一緒に何も考えないで育てるからきちんと考え方を身につけた子供が育ちにくいんじゃないの?ミクロで見れば子供のためだし、マクロで見れば社会的投資を受けてる義務のためということを考えずに、ぼけーっと育てられる感覚がまったく理解できない。

子供と話し合って、思考のやり方を教えながら考えさせるのが「子供が主役じゃなくなる」「子供自由を奪っている」「親の目標を押しつけるアイムホームキムタクみたい」という意味不明理屈はなんなの?不安定化した社会では、なにもしない方が立派な虐待だという認識を持つべき。ほんと子供可哀想

坂口安吾とか退廃的で一般からは程遠く、教師時代エピソード読んでも教育者には向いてないのがまるわかりな人の発言ドヤ顔で言われても困る。太宰の自意識Disったという文脈理解してるのかな。具体的に言語化してるだけ、まだマシだけどね。

2015-06-19

響け!ユーフォニアム」の拍手問題

失われた何か 「響け!ユーフォニアム」の組織論拍手をしない部員達の心理について

http://nextsociety.blog102.fc2.com/blog-entry-2428.html

これ読んで、もしかしたら俺には物語理解する能力が欠けているのか

または偏向しているのだろうかと心配になった。

はいい加減おっさんなので、若い人たちとは感性が違うのかもしれんが。

まず、大方の部員達が拍手をしなかった理由についてこのブログでは

どちらにも与することができないという気持ちが、

部員達の中で支配していたからだろう。


としているが、これからして「えっ、そうなの?」と思った。

ブログの著者が書いているように、

部員達は、香織よりも麗奈のほうが上手い事を認識している。

から、どちらに拍手を送るか問われたならば

(誠実な音楽家としては)麗奈拍手するのが道理なのだ

というか、内心ではほぼ全員が、麗奈に与しているのだ。

しかし実際には拍手はしなかった。

それを以て、「麗奈部員との利害関係のはなし」とするのは

ちょっとどうかと思う。

麗奈部員との関係は、麗奈演奏の時に

音楽に対する絶対的な忠誠」という点で、

確実に、強固なものになってしまったのだ。

から麗奈拍手をしなかった理由は、麗奈部員の間には、もうない。

香織と部員の間にだけある。

それは、香織を傷付けたくないから、かわいそうだから

なんとかしてやりたいから、せめてそっとしておいてやりたいから

決着を付けずに済む可能性を少しでも残しておいてやりたいから

そういう、高校生らしい感情からのものだと思う。

逃げたのではない、むしろ積極的に、拍手をしないという選択をしたのだ。

ブログの著者は久美子と香織の起立に心を打たれたと書いているが、

しろあのシーンは、逆説的に、部員の心情を視聴者に疑似体験させるために

あったのだと俺は思う。

から視線部員達の位置からなのではないか。

画面に写らない部員達の「えっ、立つのかよ…」という気持ちを楽しむのが

あのシーンの楽しみ方だと思う。

意思表示をしないメリット、という考え方をするのであれば、

ではもう何人かが香織に拍手したとしたならば

大道に沿うように、大勢側へと、みんなこぞって拍手をし始めただろうか。

それは、「響け!ユーフォニアム」ではないんじゃないだろうか。

部員達は困っていたのだ。仮にも「音楽家なのだから

先生が香織に、ソロをやるかどうか問うた事も、

引導を渡したわけじゃない。

あの中で、香織だけが、全く公明正大に、

音楽に対して真摯でいることを、

何の計算も感じさせずに表明できるから

先生は、彼女にお手本になってもらったのだ。

それも、彼女の株を下げないような、素晴らしい順序で。

部員達に、「音楽に嘘をつかないこと」は正しい事なのだと、

教えてやるために、滝先生はああい方法を選んだ。

俺は、滝先生の行動は実に教育者らしいと思う。

そして、部員達も実に葛藤していると思う。

この作品は実に素晴らしい「群像劇」だ、と俺は思う。

2015-06-03

教育者スキル研究者スキルは別物なんだなあ

私としては研究者としての優秀度は割合どうでもいい

舞台教育機関なんだから

2015-05-25

http://anond.hatelabo.jp/20150525115113

俺の考え方が古いんだろうけど教育者のクセにできちゃった結婚とかクソだと思うわ

てか親戚とかにどう報告するんだろう?結婚式するって事は祝ってもらう気マンマンだし

2人の馴れ初めとかは適当にいい話に置き換えるんだろうな

中学校教師の友人ができちゃった結婚

もともと他の人と結婚していた女に手を出して家庭崩壊/離婚させ

付き合ってもないのに体の関係を続けて妊娠させて

今度結婚するからと式に呼ばれた。

からマナーモラル的にちょっと問題があって

よく教育者になんかなったなぁと思っていたが

友達はいえ流石に引くというか今後どう付き合うかを考える…

2015-03-01

薬物依存に関して学校教育で学ばせるべきか?

ここ十数年、少年による麻薬中毒がたくさんニュースになったけど、

何で学校は薬物依存について公にNO!と叫ばないのか不思議でならない。

保健体育の授業でセックスについて教えるけど、避妊についてはコンドームに使用方法しか教えない事にも違和感がある。

一度でもこれらをやってしまうともう元に戻れなくなる可能性、危険性が孕んでいる事をOHPなどで実際の薬物中毒者の顔とか妊娠出産した女子校生の現状を解説すべきだと思う。

学校教育でどうにかしないと、この手の依存症に罹る少年少女の大半が親のネグレクトが原因である事もここ数年特集されてきたはず。

それでもどうにもならないのは、少年少女社会的健全さを求める声が当のネグレクト親の急増によって少ないからではないかと思う。

問題提起としては、少年少女健全な大人にするためにもこうした誘惑からどのように断ち切って行くかを教える事にある。

親に対しても十二分に理解してもらう機会を作らなければならない。

それは学校教育者に対しても同様で、健全な大人の模範でならなくてはならない教育者もまた、生涯教育によって学ばなければならない。

薬物依存に関する学校教育は、保健体育のそれと同様に重要ファクターであるから道徳教育を導入するよりもずっと真面目に取り組まれるべき教育指針であるのに

現在文科省はこれを放置して、寧ろこれを奨励しているのではないかとさえ感じられる。

詰まる所、上層部が現状を顧みない学校教育を推進し続けるせいで、子供がその厳しさから逃れるためにドラッグ避妊なしのセックスに傾倒してしまきっかけを作ってしまっているのが問題から学校教育を抜本的に改革して、子供たちがより安全健全に成長できる環境作りをしていかなくてはならないと思う。

2015-02-12

文の書き方

まずはこの文章を見てほしい。

一体、禁酒禁煙とゆーことわ出来るが、節酒節煙わ出来ないと同じで漢字の節減わどーも六かしい。これで、従来の障害お、一洗しよーとゆーことわ、国語教育百年の大計でない。単に過渡時代における一時の方便に過ぎないものである。真に国語教育百年の大計おおもーなら、漢字わ全く廃止して、しまわなければなりません。



出典『国語教授指南』(明治34年)


これは可愛い現代JC可愛い)がスマホ国語改革案を書いたものではない。明治時代文章表現模索の中で生まれた棒引きかなづかいだ。最終的には採用されなかったけれど、「正しい」表記として文部省教科書表記原案として提出されたものだ。

何が言いたいかっつーと、文章表記の「正しさ」ってのはゆらぐということだ。もしも引用されたような表記が採択されていたら。私たち現在若者表現「あたしゎ」とかを比較馬鹿にしていなかっただろう。句点読点の打ち方、てにをは、語尾…これらは数々の小説家教育者行政議論の上で整備され模索され現在に至っている。

昨今の日本語表記に関する増田とかの投稿を見ていると、こうした文章表記相対性に余りに無頓着でないかと思う。瑣末な「正しさ」に執心し、「これはこう!」みたいなのが多すぎる。もっと書き手負担の減らし方(上記の棒引きかなづかいはいわゆる文語表記負担軽減からまれた)や、相手への伝わりやすさ・読みやすさという大局的な視点理由づけから文章があってもいいと思う。もちろんそうしたなかで語られる「正しさ」も相対的もの時代の変遷に合わせて変わっていくものだろう。

およそ文章表記の変革期と言うのは、出版事情革新期と期を一にする。インターネットで気軽に誰でも文章が書けて多くの人の目にとまる時代。新しい文章作法が語られるのが(実は結構出てきていると思う)楽しみでならない。

2015-02-09

教師とかに期待しすぎ

教育者なのにこんなにお粗末っていうニュースはよく見るけど、しょせん教育者もただの人間だよなあ。

昔はそんな万能な先生がいたのか知らないが、子供の頃でも尊敬できない先生なんていくらでもいた。

自分の子供を預ける親だからこそ、どうしても先生という職業レベルの高いものを求めてしまうんだろうけど、教育者ってある程度のバカでもなれるんだよ。倫理面でも確固たる指標があるわけでもないんだよ。過剰に期待するよりは自分の子供を他人任せにしないとか、特定の人に頼る環境を作らない方がよほど建設的だと思う。

2015-02-04

モンスター

基本的恋人モンスター自己中で周りの人を傷つけまくって自分は平然としているひどいヤツである自分のことは、気が利いて相手のことが手に取るように分かると思っている。相手を想う心遣いがなく、相手の気持ちが分からないことに、気付いていない。厄介である

から私は教育者のごとく教える。こうすると人はこういう風に受け取って、こう感じるんだよ、人の気持ちが分からなくても想像することが大切だよ、と。

モンスターは見た目がアレなので、人々が怖がる。言い方もやり方も表情も粗暴で人々が嫌な気持ちになる。でもモンスター当人は分からない、子猫ちゃんくらいに描いているかも。

ひとつひとつ言えばモンスターは学び直してくれる。モンスターは人の心を獲得しつつある。これからはどうすれば喜ぶかも教えたい。

2015-01-11

私立学校予備校を廃止するべきである

私は教育学部大学院生だ。社会の変革を目指している。

現在日本を変えるために、私立学校予備校は廃止されるべきである学校はすべて公立にし、さらにどこで勉強するにしてもすべて学費無料にされなければならない。

現在のあらゆる社会的格差はすべて教育格差還元できる。教育格差は家庭の経済格差還元できる。経済的に貧しい家庭の子供が十分な教育を受けられないことが社会格差の最大の原因である。これを打破するにはどうすればいいか。教育をすべての人に平等に与えられるものにする以外の道はない。

まず真っ先に撲滅しなければならないのは私立中学、私立高校である。程度の高い教育金持ちだけに与える制度など、社会的格差を広げる原因でしかない。そのうえで、すべての学校システムを変革しなければならない。

現在の小・中・高校教員レベルの低さは問題である。なぜ教員レベルが低いのか。それは教員が魅力的な仕事ではないからだ。なぜ魅力的な仕事ではないのか。教員が授業以外のさまざまな仕事をしなければならないうえ、給与も良くないからだ。つまり教員が授業だけを担当給与改善されれば、学校教員レベルも上がるだろう。それは日本学生学力向上に直結する。

思うに、学校教員研究者でなければならない。教育者である前に研究者でなければならないのだ。私は小中高の教員全員に博士号の取得を義務付けるべきだと強く主張する。そして、小学校から科目ごとに専門の教員を設置し、本質的な授業を行うべきだ。現在小学校教員レベルを知っているか分数の割り算をなぜひっくり返すのかも理解していないのだ。中学国語教員は古文を原文で読むこともできない。こういう教員蔓延っていて、日本教育レベルが上がるはずがない。教員は数年に一度教員免許更新試験を受けることを義務付けるべきだ。小中高の教員担当科目大学院入試レベル試験を受けるようにするべきなのである

さらに、学校現在予備校が担っているような仕事もするべきである。つまり放課後学習をある場合希望者に、ある場合は全員に受けさせるのだ。定期的に模擬試験実施し、小学生のころから周囲と切磋琢磨する習慣を付けさせるべきである

ひとつの学年は学力ごとにクラス分けされるべきだ。最も優秀な生徒のみが集まったクラスのなかでさらに優秀な生徒を選抜して集めた学校を市にひとつ設立し、優秀な生徒はそこに行くようにするべきである。これが現在私立中学の役目を果たすだろう。

このようなことを国がすべて無償国民提供するべきなのであるしかし現状では予算が足りない。削るべきは何か。老人福祉に他ならない。

これから日本を支えていくのは子供たち若い世代だ。老人たちは死にゆくだけの存在である。老人たちに出すお金など必要ない。年金がないと生活できない老人は、60を超えるまでにろくに貯金してこなかったのが悪いのであり、自業自得である。これから若い世代がその尻ぬぐいをする必要はない。

教育格差の撲滅こそ、日本再建の第一歩でなのである

2014-12-27

http://anond.hatelabo.jp/20141227163850

文科省がそんな水準を要求してないのに、なんでお前の要求水準に合わせなきゃいけないんだよ。

教育者の水準を上げたければ、文科省がそのように指導し、教師を選別し、高い仕事水準に見合った報酬を与えるのが順番ってもんじゃないのか?

2014-12-18

尾木ママとか言うコウモリ教師もどき

http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20141218-00000036-nksports-ent

コレ、ひどすぎ。

STAP細胞なんてのはそもそも在るとか無いとかではなくて

それ以前の研究者としての問題ダメだと言われていたものを、

世間批判してるのを見て内容も意味も分から擁護して、

最終的に100%黒と判明しそうになったら手のひら返し

それ、教育者として絶対やっちゃいけないことだろ。

心底気持ち悪いと思った

2014-11-30

明るい窃盗

学生時代、全体集会で国語科の教師から『みなさんへのお願い』があった。

図書室の本がパクられて困っている。大切な本です。みなさん盗らないでください。

そんな内容のことを淡々と、まるで事務連絡でもするかのように仰った。

実に柔和な声色であり、生徒を叱っているようには聞こえない。

学生だった私は『そんな不届き者がいるのか』と思っただけだったが、今考えればとんでもないことだ。

犯罪である

教員は徹底的に犯人を捜索し、サツに突き出すべきであった。教育者としてそうすべきだった。

少なくとも頭髪検査スカート丈を測るよりはるかプライオリティが高い事案だ。

しろ坊主強制したりする意味不明校則こそが自由侵害、すなわち犯罪であり、教員の愚行たるもの言語に絶する。

図書室の本をパクった生徒はそのまま社会に出て、きっとまた別のものをパクっているだろう。

そしてその穴埋めを遵法者がしている。この社会が回らなくなる日は近い。

2014-11-05

反転教育

最近、反転教育なんて言葉をよく聞く。今までは学校講義を受け、家で演習などを行うというスタイルであったが、これを反転させて家で内容を予習してきて学校で演習なりグループワークなりをインタラクティブに行う、というものである。そして、この反転教育の方が身につくから効果的!だとかなんとか言っているのである

いやはや、本当に21世紀なのだろうか。反転教育の方が効果的だなんて、当たり前じゃないか。

ちょっと勉強ができた人ならすぐに分かると思う。講義なんて聞く価値ほとんどなく、教科書を読めばだいたいのことは分かる。本当に必要なのは教科書を読んで分からなかったことを質問できる場であったり、議論できる場なのだ特に高校までの科目なんて授業の価値ほとんどないだろう。そんなこと、何十年も前から賢い人なら分かっていたはずだ。なぜいまさら大仰に名前を付け騒ぐのか。なぜ今までそういう風にしてこなかったのか。なぜ今まだそうなっていないのか。

本当に、教育者というものバカの尻重ばっかりである

2014-10-27

http://anond.hatelabo.jp/20141027215720

理想的教育者

教育者が寝ていても、生徒が勝手勉強してくれるような教育者だ。

からないところがあった時だけ 起こしてくれれば それが一番いい。

※そうなるように、事前に教育した結果という意味で。

いつまでも、教えなければ生徒が伸びない段階で、高校教育レベルを超えられない。

 

から 最高の教師というのは ほとんど何もしてないのに、生徒が成績をグングン伸ばすタイプの教師だ。

だけど、それは はたからみると生徒が優秀なように見える。

逆に 増田が言っているような教え方をしたら 『生徒の知識量』は増えるかもしれないが 『生徒の学力』が下がっちゃう

 

『生徒の学力』を鍛えるというのは 未知のもの自力で立ち向かって 自力で解く事を言うのであって

知識を覚えこませるのは 暗記だ。

理想的教育者について

理想的教育者

・間違いを責めない→オーディエンスがわかるように喋る、もしくは準備すべき最低レベル提示する

・わからないことを責めない→一人わからなければ他にもわからない人がいるよ

・一部だけに通じる言葉で喋らない→略語地域ごとだったりするし

上記が欠けると

・できる人だけがドヤ顔で知識の断片を披露し

・わからないところができても聞きづらく

・できる人とほどほどできる人とわかったフリをする人しかいなくなる

こういうのって権威主義の人は陥りやすいなあって思う

・できる自分に酔い

・できる生徒、できるように見える生徒に酔い

著名人との交友を晒し

・他の同業者批判をする

・結局教育したいのではなくて、自分がかっこよく気持ちよくなりたいだけ

2014-10-21

キャラ弁禁止の理由

http://www.excite.co.jp/News/bit/E1413780573565.html

http://b.hatena.ne.jp/entry/www.excite.co.jp/News/bit/E1413780573565.html

最後に少しだけしか触れられてないせいかブコメじゃスルーだけど、キャラ弁は「食育」の観点から嫌がる幼児教育者ってのは結構多い。

キャラクターの印象が強すぎるキャラ弁は、素材の味や美味しさなどといった食育面で感性が育ちにくくなる可能性もあるでしょう」

これね。

あと「食い物で遊ぶな」「幼児期普通の食事を普通に食べられるようにと言うのが重要なのに、キャラに釣られて食ってるんじゃ意味ない」

小学校に入った後で給食キャラ弁じゃないからと嫌がる子が出てくる」とか、そういうやつ。

ただガキ預かって遊ばせてるだけと思ってるのも多そうだけど、幼稚園ってのはれっきとした「教育施設」。

小学校に入る為の準備として幼児教育を行う施設なわけ。

先生方も小学校以上の「先生」と一緒。「教育者」なわけ。ただガキと一緒に遊ぶだけが仕事じゃない。

から食事の時間は「家とは違う環境で、ママがいない所でも食事が出来るように」と言う意味があるし

最終的には「小学校に入っても給食を一人で食べられるようにする」と言う目的があるし、素材とか味とか栄養とかそういうのも教えたいわけだ。

そういう教育に「キャラ弁」ってのは邪魔になるので、嫌がる幼稚園が多いってのは分かる。

(勿論教育方針によっては気にしない幼稚園もあるだろうし、そもそも完全給食と言う所もあるだろうが)

はてなーは何でもかんでもイジメ本音だろとか親が怠けたいだけだろとか言いたがるけど、それだけじゃないのよ。

保育園本来は「ただガキ預かって遊ばせてるだけ」の保育施設はいえ、今では幼稚園と同じように「教育」面も意識している所が多いので

同じくキャラ弁禁止を考える所もあるだろうと思う。もっと保育園給食あるところが多いだろうけど。

2014-10-02

我が国は「見て分かる力」を育てるべき

見て分からない人間に言って分からせるのは難しい。こんな言葉がある。「やってみせ、言って聞かせて、させてみせ、 ほめてやらねば、人は動かじ。」。五十六ちゃんの名言だ。

見ても分からない人間に教えるのはかくも難しい。「見て分かるでしょ?」で済む「見て分かる人材」がいかに貴重なことか。

「1を聞いて10を知る」なんてまだまだ有能じゃない。「聞かなくても知る」のが真に有能だ。

人生には無数のシチュエーションがある。本で読んだ知識が通用しない時、頭で考えていた通りにいかない時も沢山ある。「言われなくても知る」には知識や思考だけではダメなんだ。

「見て分かる力」が大事なんだ。そんな「見て分かる力」を持った人こそ「地頭がよい」とみるべきだ。


ところで、程度の差はあれ見て知るのは誰でもやっていることである私たち人間は頭で考えなくても見てある程度学習できる。

いちいち全てを頭で考えていたら頭がパンクする。時間もかかる。忙しい世の中にもついていけない。だから多くの知識は見て学ばねばならぬ。見て分かる力は超重要

重要な力だが個人差は激しい。見ても中々覚えられない人から一発で覚えられる人までいる。見て一発で多くのことが分かる人は極めて少ない。そんな人材を我が国は育てるべきだ。


知識だけで役に立たない人間はいくらでもいる。そこで「生きた知識」って言葉が叫ばれる。臨機応変に使える知識。

そんな知識をつけるにはどうすればいいか?とにかく実践?そうじゃない。沢山実践しても要領をつかめないと意味がない。その要領をつかむために見て分かる力が重要なのだ

「身体で覚える」という言葉は窓から投げ捨てよう。馬車馬のように働くのは御免だ。無駄努力大好きなドMでもない限り。

日本美徳の勤労を「無駄のない勤労」にアップデートすべき。国際競争に勝つためにも、そうすべき時代に来ている。今すぐにも見て分かる力を養成せねば。


見て分かる力は従来の学校教育では育たない。知識偏重は駄目ってことで思考を育てる教育が推進されてる。でも、思考偏重ダメなんだよ。

確かに論理的思考力は情報の真偽や矛盾判断するのに重要だ。また、思考力があれば知識の少なさをかなりカバーできる。だから思考力は育てたほうがよい。

だけど、思考力だけでは臨機応変にはほど遠い。いくら論理を構築しても現実に即していないと意味がない。論理性と実用性の間には解決しがたい隔たりがあるのだ。

なのに思考力ばかりが重視されてしまっている。それも本の知識をもとにした思考が想定されており、現場の知識はほとんど想定されない。

そんなことだから、それに反発して「とにかく実践」を連呼する実践至上主義が出てくる。結果、頭でっかち人間体育会系人間を育てているだけで、本当に必要人材を育てていないのである


そもそもの原因は思考への誤解である思考など人間情報処理氷山の一角なのである。それがよく分かってないから思考偏重になる。

人間はいちいち考えずとも見て沢山の情報を処理している。思考はその一部をピックアップして制限された処理をしてるだけ。

具体的には、使用言語、論理性、興味、好み、道徳性常識先入観といった制限を受けるということだ。

そうした制限とは引き替えに良質な情報が得られるかはともかく、とにかくかなり制限される。仮に良質でも微量では役に立たない恐れがある。


そんな思考ばかりを推進せず、まず現場の実物や実態をよく見たほうが良い。そのほうが現実に即した情報が大量に入る。

この手段世間では「観察」や「直観」と呼ぶ。「観察」だと得られるのは生データであり規則性を認識するニュアンスが弱い。よって、ここでは「直観」という言葉を用いる。

教育学において直観は古くから重視されてきた。しかし、教育制度教育現場ではあまり重視されてこなかった。

思考への過剰な信頼が原因である。今こそ我が国はデカルト象徴される西洋近代合理主義を振り払う時なのだ


スローガンは「見りゃ分かる」だ。この言葉をどんどん使っていこう。「ググレカス」(調べれば分かる)や「頭使え」(考えれば分かる)は抑え目にしていこう。

俗に言われる「空気読め」という言葉や、世の会社で言われる「周り見ろ」という言葉もこの亜種だ。じつに妥当言葉である

ただ、「見ようとしないこと」を非難してはいけない。部下が言うことを聞かないのはあなたが部下を「見ていない」からである

また、「見ても分からないこと」も非難してはいけない。誰でもステップバイステップで成長していくのであり例外はない。適切なステップを与えるのは教育者の役目である

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