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はてなキーワード: 抵当権とは

2014-05-09

俺、不動産業者。

悪りぃーけど、そんな年収じゃ融資降りないからwww

あと、払えなくなったら任売とか競売になるって知ってる?

不動産買うならもっと勉強しなきゃ痛い目見るよ?

煽られて買って痛い目見ないようにね♡

あ、あと投資マンション買う人もちゃんと勉強しなよ?

どーしよーもないの買ったら売却すんのもアリだけど、その時は一括弁済だからね?

売る時は抵当権抹消するんだから一括弁済は当たり前。

そんなことも知らない訳ないよね?笑

ローン払えないからって売却して、その後もローンは分割で返すなんて虫のいい話ないからね?笑

無知な人は不動産を買わないよーに。

2014-02-07

三重野さんの場合

昔の三重野さん

破産JM牧場三重野丈一【抵当権

http://www.logsoku.com/r/market/1212766612/

【緊急招集JM牧場経営危機??

http://fx-history.com/2ch/market/1206350628/

最近三重野さん

会社概要玄米米屋

http://www.yakigome.com/user_data/home.php?top=companyinfo&sub=&html=&site=home

有限会社 日本一安い罠の店

http://nihonichi.info/company/index.html#03

マヌケ投資家を集めて黒豚オーナーを募っていたが破たんさせて集めていた資金殆ど返却せず、

新たに会社を興して、現在は同じ場所で色んなお米やら罠の店を作って頑張っておられるのですね。

日本投資される方はお金持ちで、大人しい方が多いという事でしょう。

有限責任にする為に会社組織にするのでしょうが、まぁ、そういう事ですよ。

2013-08-09

自信がないんだ

オヤジと母さんは物心ついた時から仲が悪かった。

学校から家に帰るとオヤジに投げ飛ばされ失神し倒れていた時もあった。

でも母さんも強気オヤジと取っ組み合いするくらいの気性。

俺は二人とも好きだっただけに辛かった。

家族四人(姉がいる)揃った楽しい思い出は数少ない。

2度ほど旅行に行ったくらいか

多くの思い出は夫婦喧嘩ばかり。近所に住んでいたおばちゃん(母の姉)に「すぐきて~っ!」て呼びに行ったことは数えきれない。

原因は親戚関係にあった。

オヤジ長男。墓守として仏壇もウチで管理

オヤジ兄弟姉妹は好きかって言う。

誰かに病気や不幸があれば「仏壇管理が悪い」とイチャモンと付けに来る。

オヤジにではない。母さんにだ。

そんな親戚を私は今も恨んでいる。

そして母を守らなかったオヤジも恨んでいる。

母方の兄弟姉妹もぐちゃぐちゃだった。

母の母、ばあちゃんがボケてからというもの、良くある話が頻発。

「誰々の家ではご飯を食べさせてくれない」

「誰々が誰々の文句を言ってる」

ばあちゃんをたらいまわしにした挙句責任は母へ。

ウチはオヤジ仕事の都合で転勤があってばあちゃんを引き取ることができなかった。

その他兄弟姉妹も多くが教員事情は同じだ。

短い間ではあったが面倒を見ていた母の兄の転勤を機に病院へ入れることに。

ばあちゃんは「・・・・(母さん)と一緒に住みたい」と言ったらしい。

しかしそれはできなかった。

そのとき、母の乳がんが発覚していたからだ。

なぜかは分からないが母は兄弟姉妹入院するまでそれを言わなかった。

おばちゃんにだけ伝えていた。

母は袋叩き。母対一番下の妹との取っ組み合いの喧嘩も見せつけられた。

私が小学2年の頃。40過ぎた今もはっきり情景が焼き付いている。

そこから親戚関係はぱったりと疎遠になる。

母の手術後もだれも見舞いにすら来ない。

回復後も同じ。

オヤジ方もそう。

おばちゃんだけが拠り所。

親戚関係がないということはお年玉に影響する。

それを気遣ってか、親もおばちゃんも1万円くれる。

から毎年2万円。まあ友人たちよりは少なかったが不満はなかった。

私が小学6年の時、母の癌が再発する。

から聞いた話だが、オヤジには医者から余命2年と告げられていたらしい。

でも私もある程度悟っていた。

退院を繰り返す。

その度に痩せていく。

私がギターが欲しいと言ったら母の同級生からギターをもらってきてくれた。

普通なら反対するだろう。厳格な母だったから。

しかすると自分でも分かっていたのかもしれない。

中学2年の頃、思い切って、エレキギターが欲しい、と言うと「いいよ、上手くなったもんね」。

当時は高価だったエレキギターギターアンプを買ってもらった。

おばちゃんに「私は反対だな」と言われたとき冗談で「何かあるのかな?最近全然反対しないんだよ」といったらおばちゃんの血相が変わった。

明らかに動揺していた。多分おばちゃんも悟っていたのだろう。

「ま、まああんたは勉強部活も頑張ってるからじゃないの・・」とだけ言われた。

退院を繰り返す。

入院きっかけは呼吸困難。私はたまたま直面しなかったが、姉が2度救急車を呼んだ。

そして2,3週間で退院

もう確定だ。母さんの体は小さくなり、顔や肩にこぶができ始めていた。

この頃すでに家事は残された家族で分業。

ご飯は自分で。洗濯自分で。家の掃除は気が付いた人がやる、という暗黙のルールができていた。

私が中学3年に上がる頃に再入院

たまたま友達が腎炎になり数か月入院していたので見舞いがてら学校帰りに病院に遊びに行っていたようなものだ。

それでも母は喜んだ。友人も母といろいろ話せるようになっていた。

しかしこの頃から急激に体が弱り始め、会話もやっとの状態になった。

4月に入り、急に疎遠だった親戚連中がやってくるようになる。

「ごめんね、ごめんね」と泣きながら話しかける奴ら。私にも「久しぶりね、元気だった?大きくなったね」

鳥肌が立つ。なんだこいつら。

同時に母の死期が近いことが分かった。母を見て明らかだ。そして個室へ移された。これは常識的に「最後であることを意味する。

姉と冷静に話す。

「もうそろそろなのかな・・・

「そうかもね・・・

その3日後、早朝に電話が鳴る。

すでにオヤジはいない。

姉を起こし、自転車で二人乗りして病院へ急ぐ。

「来たな」

「来たね」

その言葉しか交わさなかった。今思ってもあまりに冷静だった。

病院に着くと呼吸困難の発作が出ていた。

ほとんど口をきけなかった母が叫ぶ。聞いたことのない大声で叫んでいる。

先生!私まだ死ねない!子供らが!」

そう叫びながら処置してくれている先生白衣をぐいぐい引っ張っている。

先生も大声で「大丈夫大丈夫から!ちゃんとやってるからちょっと離して!注射打てないでしょ!」

ヤバかった。見ていられなかった。計器の音と叫び声だけが響き渡る病室。

小一時間ほどで状態が落ち着く。その日は日曜だったが私の部活の催しがあった。

オヤジに「落ち着いたようだから行って来るわ」と言い残し、家に行って道具を持って体育館へ。

着替えていると体育館の職員さんが大声で呼びに来る。

「親戚の人が来ているよ!急いで!」

事情を聴いたんだな。それよりも「あちゃ~来たか」という感じだった。

仲間に聞かれても「いや、そのうち分かるから」と言い残して病院へ急ぐ。

到着したとき、母さんは亡くなっていた。

タイミングよく集まった親戚中が泣いている。

この時初めてオヤジの涙も見た。

でも私は不思議と涙が出なかった。「やっと楽になれたね」という気持ちが強かった。久しぶりに見る母の安らかな顔。

人とは不思議もので、毎日痛みに襲われ続けると表情や顔のカタチすら変わってしまものなのだ

昔の結構美人な母さんの顔に戻っていた。

手を握るとまだ温かい

私は一言、「お疲れ!」。

周りは煽る。私を泣かせようと煽る。なぜ泣かないのか、悲しくないのか、とまで突っ込んでくる。

いい加減、ついに私がキレる。

「おめぇらに何が分かる?!うるせぇんだよ」

病室の外でも言い合いが。

オヤジと私を迎えにきた親戚だ。

「なぜ(私を)行かせた?!誰が許した!」

「俺だ!何か文句あるか!」

胸ぐら掴みあってる。

私が割って入る。

「アンタに何が分かる?俺は見ていられないから行ったんだよ!ドラマみたいな場面作られても満足するのはオマエらだけだろうが!母さんは分かってくれてんだよ!」

で、全員に

「つうか、てめえら急に兄弟ぶりやがって何様だおらぁ!」と壁パンチ一撃。看護婦さんに止められる。

中学3年のガキとはいえすでに身長は180cm、体格は大人、しかヤンキーときた。誰も止められない。

シーンとする。

遺体に寄り添っていたおばちゃんが冷静に一言

「アンタのムスコ、やっぱり立派になったよ。いい子だねぇ。育て方間違ってなかったよ。あれだけ辛い思いさせても大丈夫だったんだよ」

「お母さんね、いつも私に言ってたんだよ。教育上良くない場面を何度も見せてきた、母親らしいこと何もできなかった、一番母親必要な時までいてやれるかな?って」

兄弟姉妹たちはぐうの音も出ないで押し黙る。私はその一言で涙腺崩壊した。

その後、通夜告別式の間、私は一度も涙を見せなかった。

通夜には大勢の人が訪れた。クラス全員、姉のクラスも。そしてオヤジ金融機関勤めだったのでその関係者。豪勢な式になった。

遺族席でいるとひときわ号泣して要る奴がいる。あの母と同時期に入院していたアイツだ。

聞くと、私がいない時も母の病室に行き、母と話をしたことがあったらしい。

その時に「あの子をよろしくね。これ内緒でね」と毎回言われていたそうだ。そいつ退院が決まった時も車椅子で声を掛けに来てくれたという。

そいつもそんな人前で涙を流すような奴じゃない。この話を後から聞いた時の方が参った。アイツも参ったらしいが。

親戚は帰るときも「これからはちょくちょく連絡取ろうね」と言い残したが、

「いや、遠慮しときます」と答えた。呆れた様子だった。

おばちゃんから伝え聞いた話によるとその後も親戚関係はぐちゃぐちゃだったらしい。

母と取っ組み合いの喧嘩をした妹は旦那会社の金を横領、その穴埋めができずに旦那夜逃げ

家を取られまいと抵当権を外すために兄弟じゅうに借金子供の学費の工面で借金

もう何年も前に話なのに誰にも一銭も返していないことでいまだにモメているという。

誰でもどこの家庭でも何かしらの問題は持っている。

しかしウチの親戚連中は結構ひどいな。みんな仕事は立派なのだが。

今はおばちゃんも亡くなり、長兄も亡くなり、オヤジ方を含めみんな年老いた。

生きていても、離婚した人、精神病院に入ってしまった人、奥さんが自殺した人もいる。

子供らに関しては50歳にして就職経験なし、という人もいる。

携帯キャリアの開発部門で立派にやっている人もいるし、教員も多い。みんないろいろなんだ。

親族間のつながりの希薄化が言われているが、悪いことばかりじゃない。

遠くの肉親より近くの友人。

的を得ている。

でも親族が円満な人たちがうらやましくなる時もある。

母さん、おばちゃん、俺はこの生き方でいいのかな?

事あるごとにどちらに進むべきか聞いてきたけど、言う通りにしてきたぜ?

自分なりに全力も尽くしてきた。

母さんに言われた通り「どんなことがあっても女性に手を上げてはいけない」も厳格に守ってる。もちろんムスコにも同じように伝えてる。

最近いろいろ考えるんだ。

今、心を病む寸前かも知れない。声が出にくくなってきた。震える。人と会うのが怖い時が多くなった。

でも無理矢理「これでいいのだ」と言い聞かせている。

これでいいのかな?

そっちの世界に行く時に悔いなく死ねるかな?

やりたいことはたくさんあるんだけどな。

上手く行かないことばかりでさ。

オヤジももうすぐそっちの世界に行くかもしれない。

そうなったら俺一人になるな。

一人でやって行けるかな?

子供らを巣立たせることができるかな

なあ、どうして最近出てきてくれないんだ?

間違ってるなら間違ってるって言ってくれよ。

あの頃あったはずの自信がないんだ。

2010-06-24

http://anond.hatelabo.jp/20100624135447

借金の担保としては、いろいろな物が認められています。

不動産抵当権などを担保として取る事を通常「物的担保」と言います。

保証人連帯保証人と呼ばれるモノを「人的担保」などと呼んだりします。

担保自体は悪ではないが、人的担保は悪だねとして禁止しようとしています。

2009-04-22

http://anond.hatelabo.jp/20090422102526

解釈の必要性はあるけど、抵当権に基づいて妨害排除請求できるかとか、そういうとこも解釈によらざるを得ないっての、すごく不安定だと思うのよ。使う人から見れば。

特に刑法なんて、罪刑法定主義なんていってるけど、あれだけ学説が対立してちゃ処罰の予見なんて出来ないじゃないのって思う。

「あそび」をあえて残すことが、いいのかなあ。

2009-04-04

大人になるとか

なんかこの界隈で色々とあれみたいなんで思うところを書いてみる。

多分取りとめがなくなると思うが、いやなら読まないで次いこ、次、ってことでよろしく。

この前の誕生日で、46歳になった。

イタイ大人なのかもしれないし、大人になれないオトナコドモなのかも知れない。

こんなところに出入りしてROMったりDISったりしているのはオトナのすることじゃないのかもしれない。

これを読む若い人たちには夢も希望もない話に聞こえるかもしれない。

もとい、自分にとって大人になることとは自由になることだった。

親や教師や社会ルールや、自分を縛る何もかもから逃げ出すこと。尾崎豊みたいだなあ。

少なくとも経済的に自立しないと自分の好きなものは手に入らない。好きなところには行くことが出来ない。

好きな人と好きなようにあって好きなだけいちゃいちゃすることも出来ない。

だから、まずある程度経済的に独立した状態、それが自由の基本だ。

そのための手段としての仕事をどうしたか。

安っぽい言い方でほんと申し訳ないんだが、好きなことを仕事にした。

好きなものを作る業界で、自分の得意な分野での仕事に付くことができた。

2回転職してのことだけどね。結果収入も増えた、と思いたいが、日本給与制度には永年勤続に対する退職金というすばらしい制度があるので、

生涯収入としてはどうだったのかはよく分からない。

新卒大企業就職していたら、そのまま一生留まるのがお得なのが日本社会なのだ、とも思う。

これは時代背景やら経済状況やらとのからみで、上手いこと波に乗れたので運がよかったのだと思っている。

こればっかりは人の話はさっぱり参考にならないと思う。巡り合わせ。色々と一期一会

んで、だ。

自由になって何がしたかったのか。

楽がしたかったんだ。好きな時間が欲しかったんだ。おいしいものが好きなだけ我慢せずに食べたかったんだ。

この夢は未だに叶っていないけどね。

その夢と引き換えにして(経済的には)家族を得た。パートナー子どもが二人。

家を手に入れた。借金のかたに取られるかもしれないけど(普通住宅ローンには普通抵当権設定されるのが日本の標準)

はたから見たらごく平凡な、いや平均以上の家庭に見えるだろう、と思う。

そんな自分は大人なのだろうか?

子どもの頃、可能性は無限にあった。何にだってなれた。

けれど可能性はだんだんと減っていき、残ったものを得意なものと決めざるを得なくなる。

協調性もなく、空気も読めず、頭も悪い。

それに気付いて、残った僅かな可能性を握り締めて何とか仕事に繋いできた。

結果、必死で仕事をし、良いことも悪いことも色々あって、

成長なのか、鈍化なのか、

技術を習得したのか、変化に順応したのか、

ともかく仕事は続いている。

子どもを一応大学までは行かせてやりたいと思うから、仕事を放り出して逃げたい時でも頑張って仕事をしている。

仕事そのものは嫌いじゃないが、正直、矛盾だらけでしがらみだらけの会社ライフに嫌気が差して、

一人でどこかへ行ってしまいたいと思いながら、会社帰りに部下とカラオケしたり、コンビニ立ち読みしたりする程度で発散しいる。

こいつは小物だ、雑魚だなあ、と思うけれどもそれが自分だからしょうがないな。これを矮小化というだろうか。

これは大人のやることだろうか?

さっきまで教育テレビアルゼンチン生まれのユダヤ人バレンボイムの指揮するウエストイースタン・ディバン・オーケストラを聴いていた。

ロシア作曲家チャイコフスキーの悲壮を、アラブイスラエルの若い音楽家で構成されたオーケストラ演奏している。

輝く音楽指揮者は早々に(高校生の判断を早々と呼ぶのならだが)諦めた可能性の一つだけれど、音楽は美しい。民族人種を超えて美しい。

なにか、分かり合えなくても共有できるのではないか、永遠に続く錯覚ならそれでも良いではないか、と思わずにいられない。

世界平和を願い続けることをばかげているという人たちもいるけれど、自分はそれを信じたい。

大人になったからそう思うのではないと思う。

そういえば高校生の頃、別マを愛読していた。くらもちふさこは今でも好きだ。最近のだめカンタービレが好きだ。

子どもにつられて読み始めたワンピース大人買いして、今も毎週立ち読みするのも自分だ。コミックス自分が買う。

そういえば小さい時から徒競走がとにかく苦手で、いっつもお前は本気で走っているのか?と訊かれていた。ああ、本気だったとも。

だから走るのが速くなれば女の子にもてると本気で思ってたぞ。今も心のどこかで思っているな。マッチョ信仰だな。

いや、ないものねだりか。大人には足の速さって価値がないな。プロスポーツ世界でもない限り。

昔から、軸がぶれていて、定まらなくて、今もぶれている。コンプレックスの塊だったから、早く大人の男になりたかった。

強く、揺るがない信念を持った大人の男。

今の自分はそんなものとはかけ離れている。

流れてゆく時間の中で、今を生きていくことだけを追いかけてたら、こうなった。とにかく、ここまで生きて来た。

これを流されたというのだろうか。

今まで生きて来て分かったことは、自分の自由は自分で決めて自分でやるしかないということ。

自分のしてきたことを認めること。後悔することもある。でも認める。それは自分であると。

過去何がしかの決心で分岐を選んだ自分を認めること。だからといって他の道を永遠に諦める必要はない。それは夢だから。

可能性が0でない限り、持っていてもかまわない夢だから。

こんな浮ついたことを言いながら多分50になり、還暦を迎え、だらだらと意地汚く行き続け、願わくばあっさりとひっそりと死んで行けると良い。

こんな自分は大人なんだろうか。

だらだら書いてすまなかった。もう終わりにするよ。

まあ、こんなオヤジもそれなりにいるのではないだろうかと思うのだ。

大人になりたい人は自分にとっての大人を決めるといいよ。

死ぬまで追いかけるぐらい遠いことに気が付くのは多分死ぬ時なんだと思うけれどね。

ああ、本当に大人気ないなあ。

2009-03-14

土地の権利書を預けたんだけど・・・

下記の質問の事例とほぼ同じで、

 http://oshiete1.goo.ne.jp/qa3231786.html

住宅ローンのつなぎ融資のために土地の権利書を銀行に預けたんだけど、

それまでの過程に納得できてない自分がいる。

 1)つなぎローン(約700万円)の契約の際に、土地の権利書その他が必要といわれた。

 2)つなぎローンの契約。はじめて約束手形を目にした。

 3)万が一の時に土地抵当権の設定をするので、銀行がその作業をしても良いとの委任状

   書かされた。(万が一って、期限までに借金を返せなかったときか。ふむふむ)

 4)全ての作業が終わったので帰ることにした際、土地の権利書が戻ってこない。コピーでも

   するかと思ったが違うようだ。

 5)本来、抵当権設定するのだが、手数料その他費用がかかり客(俺)に負担がかかるから、それを

   省略するとのこと。 その代わり銀行があずかると。 預かるのは、これ以上抵当権設定されない

   ようにするため。(最初に言えよ!)

 6)「土地の権利書を取られる」ほどの悪いことしてないよな。俺。って気持ちになる。

 7)「抵当権設定以外の作業はいたしません」という誓約書を書け!と銀行に要求したら・・・

 8)銀行担当上司と相談。上司が出てきて「誓約書は書けない。制約書がどうしてもいるなら、融資はなし。」

   と言われる。

 9)・・・・銀行辞書に「交渉」って言葉がなさそうだと悟った俺は、すぐにあきらめて、預かり証一枚もらって

   帰った。

「記入いただいた個人情報は他の用途には使用いたしません」っていうお決まりの文句のような文書(下記)

 「提出いただいた土地の権利書は下記の用途以外には使用いたしません・・・」

を要求したのは、悪いこと??

最初に「土地の権利書を預からせて。」といえば、すんなり預けてやったはずのに。 >>銀行担当者

どう思う?? >>匿名のみなさま。

2006-10-26

司法書士あきらめた理由

新卒司法書士を目指して司法書士事務所就職した。

しかし、3ヶ月でやめて公務員を目指すことにした。

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表面的な理由
ルーティンワークだった

そこの事務所では補助者は取引先ごとに担当を任されていて、その取引先ごとのルールや手順にのっとって仕事をする。

しかし、私が担当した取引先は2箇所であるが、ともに不動産登記((主に保存登記抵当権設定登記))が中心であり、顧客は違えど同じ手順で同じ書類ばかり作っていた。登記申請書は司法書士事務所転職するか自分で資格を取るかしないと仕事で活かせないものであり、一般企業で書類のファイリングをしたり会議の書類を作るといった経験はしないでいいのかと自分に問いかける日々が続いた。

また、その事務所は少人数であり、社会人としてのルールマナー((特に目上の人に対しての礼儀や来客者に対する礼儀、情報管理の徹底など))が適当であり、2,3ヶ月研修してから仕事に入る一般企業の新入社員に劣るのではないかと言う不安がいつも付きまとっていた。

所長と所員の間に温度差があった

私の採用は所長との面談で決まったのだが、所長が言っていたことと所員の言動には大きな隔たりがあった。

たとえば

  • 所長「所員は午後6時ごろまで残業している」
    • 実際は午後8時まで残業するのはざら。場合によっては日付が変わるころまで残業している。
  • 採用時には仕事が終われば早めに帰って資格学校に通ってもいいことになっていた。
    • 仕事の量的質的にも定時で終わるようなものではなかった。もちろん、所員としては残業をしてでも仕事に対応してくれる人間を望んでいた。

ほかにも、所長の陰口を所員同士で言い合い、「この事務所はそろそろつぶれるかも」「やっぱりやめようかな、この仕事」と言ったことを平気で言っていた。

当然、モチベーションがあがるわけはない。

本音
所長が師匠に値するような人ではなかった

所員との間に温度差があると同時に、新法については所員に確認するほどであり実際には仕事に熱心に取り組むような人ではなかった。

事務所にいるときも一日中パソコンに向かってゲームをしており、重要な案件が回ってくるか所員に書類の確認をせかされるかしない限り仕事をしているようには見えなかった。

もちろん、そういう人だから陰で所員に馬鹿にされていた。

所員も見本になる先輩ではなかった

陰口をたたく、所長を馬鹿にすると言った時点でもう仕事について見本になるような人たちではないと言う結論に達した。

また、私自身は仕事上では自分に関係ないことに文句を言わない、自分からモチベーションの下がるようなことを言いたくないといったスタンスもあり所員が雑談で陰口を言っているときは黙って仕事をしていた。

それがかえって「こいつはサンドバッグにしても大丈夫だ」という風に感じさせてしまったらしく、資格学校に通いたいと申し出たときにここぞと言わんばかりに叩かれた。

「自分だけ残業を逃れようなんて図々しい」

「自分なんか5,6年司法書士試験勉強しているけれど、試験前でも10時ぐらいまで仕事をして事務所貢献しているんだ」((もちろん、一度として合格していない))

「これから年末に向けて忙しくなる上に仕事も十分できないくせに新しく何かするなんて馬鹿じゃないか」

「自分たちが『○○さんがやめたのは小さい子供がいて残業がイヤだからやめた』と話題に出していたのがわからないのか」

「お前が仕事で協力してもらっているのは自分たちなのだから所長よりも自分たちに許可を仰ぐのが当然だ」

マナーもできない、仕事もできないくせに雇ってもらえているのはうちの事務所だからだ。他のところへ行ったところでお前なんか使い物になるものか」

この出来事が決定的一打になり、人間関係的にもここで働けるわけがないという結論に達した。

司法書士業界限界を感じた

私が司法書士の世界に入ろうと思ったのは法律に携わりたいという希望があったからだ。弁護士でもよかったのだが、司法書士のほうが敷居が低く気軽に法律相談にのれるだろうということで決めた。

しかし、実際には自営業である限り利益が優先する。ここの事務所では裁判事務は報酬が割に合わないと言う理由で来客があっても裁判関係というだけで、他の事務所に行くよう促していた。

また、キックバックや補助者のみの立会いも当然のように行われていた。キックバックは「事務所の収支は明示すること」と司法書士会則で、補助者立会いは書士会から避けるよう会報等で通達がされている。

だが、キックバック不動産業者から当然のように要求され、ダブルブッキングになってしまったときは補助者を有資格者のようにごまかして行っていた。

結局のところ法律に携わるとは言っても、公務員におけるオンブズマンのように司法書士会が常時監視しているわけではないと感じてしまった。

それどころか資格を取ったところで必死に営業をしないと仕事さえ取れない業界であり、アピールが苦手な私には無理だと思ったのだ。

この考え方には偏りがあって当然だと思う。

もちろん、自分に非がないわけではない。

申請書や請求書の文字間違いはよく起こっていた。

自分の考え方を理解してもらおうとする態度だって不足していた。

来客者や電話への対応だって傍から見れば見ていられないものだっただろう。

が、さすがにこの事務所には参ってしまった。それが結論である。

[この際釣りだと思われてもかまわない]

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