はてなキーワード: 所与のとは
あんまりこういうことは言いたくないが、国民の目線だとそれがどうかした?って話。
結局1972年に出た見解が2015年の見解に形が変わる。その根拠でも理由でも事情でもいいけどそれが情勢の変化。
国民が納得してきたあるいは昨年の総選挙でお墨付きを与えた「論理」の構造は
でこれが
に変わった。
所与の条件の認識についてはいくらでもあらそったらよろしいが構造は変わっていないとしか評しようがない。朝日新聞すら「同じ論理から違う結論がでている」と非難することを通じて認めている。彼らはバカなので前提がちがうと同じ論理から違う結論がでることがあるのを理解できなかっただけだ。
ケンポーガクシャの目線の話は別のところでしたからもう飽きた。どうしてもこれじゃ表現上納得いかん、つじつまがあわんから統一見解を破棄して出し直す形にしろという運動をしたいんだったらすればいい。国民の間にそういう認識が高まれば、安部内閣はそうすることだろう。どうせ内容は同じなんだしそうすることもできたんだから。
よく「自然の中で子育てさせたい」と田舎にファミリーが移住するケースを、マスコミが好意的に取り上げる。
その辺は個人の価値観だから、自分がとやかく言う筋合いはない。
でも、そういう人の言説が、
なトーンで書かれてるのにはカチンと来る。
「保育所の待機児童数が少ない」「実家に近いケースが多く、親のヘルプが得られる」「居住面積が大きい」という点で、
「自然が多いことが、子供の情操上プラス」と定量的に言えるのか疑問。
「自然が豊かな方が、児童の肉体的発育・精神的発育に、必ずプラスな筈だ」
という思い込みを所与の前提として、さまざまな政策を出そうとしている気がする。
多分、地方創生絡みで、地方での子育て誘導な政策が出てくるだろう。
その辺の「常識」を、疑うべき。
まあ、「アトピーの子供を持つ家庭が、地方に移住することで症状が改善した」みたいな事案もあるから、
中には地方移住、「自然が豊かなエリアへの移住が、子育てに有効なケース」もあるのは事実だろう。
しかし、100%ではない。
「元々ダンナさんも奥さんもアウトドアが好きで、自然が大好き」というケースなら、
たぶん子供にも好影響だと思うが、一方で、
「奥さんが都会の味を忘れられず、諸般の事情で田舎に行かざるを得なくなったが、
いつも「都会に戻りたい戻りたい」と言ってる」ようなケース、これだと間違いなく子供にマイナス。
「親のクルマにばっかり載っている田舎の子」の方が、「電車に立っていたり、駅から歩いている都会の子」よりも
かつては田舎は「徒歩通学距離が長いから、結構歩いていた」のかもしれないが、
不審者対策云々でバス等を使わせるようになったりしてるから、歩かなくなってきている
ライターなり社長なり東大卒なり技術なり「既に足場を持ってる人はのし上がれる」
ってのが周知なので、有名になりたいなら何か自分で作って持ってきてからにしてください。
おこぼれで何かいただこうとか考えても、この20年で成功した人はいません。「文章力と発想が!」とか言っても、そういう人は一瞬で好意的ブクマ500超えが続いて2年以内にコンテンツ企業にフックアップされるので、その次元にないならあきらめてください。
何の話か。
「はてな有名人」という言葉を所与のものとして疑いもせず、キャラクターを捧げ、第二新卒カードを捧げ、おまんこを捧げた。「評価社会」と言えば聞こえはいいが、捧げた相手は(どれだけ頭が良かろうとも)所詮ただのフリー編集者だったり、零細社長だったり、DTPエンジニアでしかない。
相手は生身の男の子なんだよ。
「身を捧ぐるほどの祖国はありや」と昔の人は言ったが、
「捧げたい」という欲望がありきで「でもネトウヨにもなれず、宮台あずまんにも乗り遅れ、絵師や歌い手や生主に行けるほど若くもなく、でも捧げて高次の存在に行きたい! しょうがないから身近でコンタクトできる年かさの頭の良さそうな人に捧げよう!」となってるだけに見える。
端的に言ってそれは魔道だよ。
んで結果は何かというと、手前勝手に高め上げた権威とともに、崖から真っ逆さまだ。
長年の付き合いで勝手ながら彼らと彼らの産むコンテンツに薄い親近感を抱いてた読者層もたまったものじゃない。鼻がきいてバランス感覚の有るオタクまとめ屋として、小金持ってるコミュ障の行動家として、私生活と仕事を犠牲にした高感度下衆アンテナ人間として、それぞれに需要はあったんだ。
「村長」やら「師」やらは多少の馬鹿にした感を含んだキャラ名であって、尊称では決して無い。
猫カエルとか、はまちちゃんとか、金髪とか、そういうもんと同じだったはずなんだ。
相手は生身の男の子なんだよ。あーあ。
つまり冗談も言い続けてると真に受ける馬鹿が出てくるから、あんまり過剰なアダ名は「いやいやw」と謙遜しとくべし、って陳腐な世渡り話か?
個人的な感覚で即答したら、え? 後者じゃん? となっちゃうなあ。
不治の病っつうか、自分でもどうしようもない所与の欠落やハンデくらい幾つか持ってるけど、
そこに新規で入ってきた奴がこの世の終わりみたいな顔してたとして、
大袈裟やなあと内心苦笑ぐらいするかも知らんし、
あわよくばなにか先輩面で意味のある事くらい言ってやれるかも知れないと
手ぐすね引いてツヤツヤテカテカくらいするかも知らんけど
別に気分を損ねたりはしないかな。
つーか元増田の人って、何処までもこの人個人の悲しみを悲しんでるだけで、
誰よりも不幸のなんのと言っても居ないし、
http://anond.hatelabo.jp/20140619223515
この人の嫁の気持ちはわかるけどちょっと甘えすぎだなぁ、と思って読んで、ブコメ読んだら案の定人気コメントで叩かれてるのは書いてる男の人の方だった。そして男女同権・男女平等と言われて育った身でそれらを読んでてどうにも腑に落ちない。
hisawooo 男の人ってたぶんあんまり愚痴を言い慣れてないんだと思うんだけど、愚痴を聞いてもらうのに「俺のほうが絶対正しいんだけど」って情報は不要だよ。正しくなくても慰めてもらえるものだよ
正しいと思っている事をしたくても出来ないという事なら慰める話けど、自分が正しくない事をしてひらきなおって愚痴って慰めてくれって、大の大人としてどうなの?って態度でしょ。
それに問題を解決するためには、まずは間違ってる方が自分を正すものでしょ。その判断材料は必要でしょ。
mujisoshina 嫁が実際に言いたいのは「息子のことをわかっていない」ことじゃなくて、「嫁の気持ちをわかっていない」ことなんだよな。増田が尊重すべきなのは相手の立場や理屈ではなく、その裏にある相手の気持ちなのだと思う。
相手の気持を汲み取る事はもちろん大事。だからといって、自分の気持の整理も付けずに他人にそれを押し付けて、そのうえ現実の状況よりもその気持ちを尊重して欲しいってのは、わがまま以外の何物でもないでしょ。それは現実に対処する責任がない小さな子供だけに許される特権。
べつに自分はフェミニストじゃないけど、女だからってお酌したり男性ばかりを立てるのはおかしいと思うし、ぎゃくに男性に一方的に頼るのもおかしいと思ってきた。ギブアンドテイクというとドライだけど、お互いが対等に協力しあって尊重しあうのがあるべき姿だと思ってきた。現実にはそうなってない状況はいくらでも見てきてるけど、昔の慣習がいきなりなくなるわけじゃないから過渡期的な状況だと割りきって見てた。
だけど、はてブを見るようになって頭が???ってなってきてる。曰く、何かあると、女性は理屈じゃない、正しいかどうかじゃない、事実じゃなくて気持ちに合わせてやれ、云々。これって、女性は現実に対処せず正しくても間違ってても男性が黙って自分の気持を汲んで通してくれて当たり前、って事でしょ?それって女性は大きな子供だって言ってるのと同じじゃない?女子供って言葉に昔から引っ掛かってたけど、この言葉通りに女性は子供と同類って事を認めなさいって事じゃない?
そういうのが正しいんなら、男女同権とか男女平等って無理があると思う。だって大人子供同権とか大人子供平等ってないでしょ?女性は子供であり続けて良いという規範の人たちは、男女同権とか男女平等っていう枠の外に出ていって欲しいな。そこでは、女性はよい子供として振る舞ってお酌もして男性を立てまくればいいし、男性はその引き換えに子供のわがままをちゃんと聞いてあげる。
そういう世界と大人の世界を分けて欲しい。そういう規範の人たちがそんなにたくさんいるなら一律に男女同権or男女平等は無理だと思う。
■追記
plutan 平等って条件を同じにすることで、能力まで同じにすることじゃないんだけどなー。お互いに足りないところを補うのが夫婦ってものじゃないのかしらね。 201
能力の話はしてなかったつもりだけど…。もしかして、女性の方が現実に対処するための精神的能力が低くてよい=子供扱いと思って書いたけど、そうじゃなくて、所与の事として低いと言うことが前提?子供扱いじゃなくて、実際に子供だと?理不尽な話に感じるのは、自分がへそ曲がりなフェミニストなのかな。
hisawooo 例えば上司の愚痴など仕事のことであれば正しさが規範でよいとおもいますが、家族間の問題を正しさで裁くのは不毛だと思っています
裁くじゃなくて、現実の課題に対処しなきゃでしょ?正しいかじゃなくて、現実がどうなのかを踏まえて現実に対処しなきゃってだけでしょ。なのに女は自分の気持ちを推測して貰って現実よりそれを優先してもらうって子供じゃない?って話。思いやりがいらないなんて書いてないよ。
hirosh_yoshida いい旦那は嫁からしてもらう以上に嫁に与える。いい嫁は旦那からしてもらう以上に旦那に与える。50%50%じゃないとうまくいかないわけじゃないけど、足して100%いかない夫婦はうまくいかないんだろうなー
元の嫁が子供を独り占めしてる話、嫁ばかり与えてて旦那が与えてないとは読めなかったな。でも反応は、旦那が事実に囚われて嫁の気持ちを汲んでないけしからん、なんだよね。事実に囚われるって大人ならまず事実を見るの当たり前でしょ?女性にはそんな必要ないの?
あと家庭で思いやり大事なんて当たり前だから書いてないんだけど、それはお互いにってところが大事じゃないの?事実を踏まえないでわがまま言ったもん勝ちなの?それは女性だったら(子供だから)許されべきことなの?って事。
上司へのメールを書くと長文すぎると文句を言われる。長すぎて読む気がしないと。
ただ、長いが、必要十分な情報を盛り込んで何度も読み直して複数回の推敲を行っているので、一度読めばさらっと理解できる文章にはなっているという自負がある。
単純に長文は読む気がしないという個人的な理由で長文メールを嫌がるのはメールを送りにくくなるからやめてほしい。
そもそもどこまでを所与の前提としてメールを読むのかすら不明な状況で簡潔に要件だけを書くなんてことは不可能。
むしろ下手に短文すぎて何度もメールのやりとりをして意図をつかむまでにコストがかかるよりも最初にすべて伝えてしまえばそれでよいではないか。
お前は「極東ブログ」を目指すな。「極東ブログ」はfinalvent氏の持つ豊富な知識に裏打ちされて成り立っているのであって、何の専門知識もないお前に中身のある記事など書けるわけがない。
何の専門知識もない奴がパッと思いつきで記事を書くと、たいてい「ぼくのかんがえたさいきょうの~」系記事が完成する。
だが、それでいい。そういった記事ほどはてなーが食い付きボッコボコなブコメを残していくからである。はてブを集めるという所与の目的は達成される。
例をあげよう
http://anond.hatelabo.jp/20140114151838
http://anond.hatelabo.jp/20140127120325
こんなもん、書いた本人すら正しいと思っているわけない。
このような釣り記事は、Aという知識とBという知識が天啓を得て結びついたときに誕生する。
まともな脳を持っている人間ならその後自分のひらめきを検証する。それが形になり社会に還元されることも、0.001%くらいの割合ではあるだろう。
だが、コイツラの頭のなかは「よっしゃ!釣り記事が一本書ける!」とそれだけで大喜びだ。生産性ゼロ。
いいか、お前が目指すのはそれだ。
上のようなゴミのようなひらめきを検証して記事にしたところでゴミはゴミ、どこにでもあるツマラナイ記事が一本完成するだけだ。
それよりは釣り記事を書いてはてブ貰ったほうがなんぼかマシだろう。そう考えろ。
なにか思いついたら「よっしゃ!釣り記事を書くぞ!」と思って増田を書け。
自分はJavaからPHPに入ったので、最初はとにかくクソな言語だと思っていた。
Copy On Writeという謎仕様なのに加え、すべての配列が常に「順序付きマップ」という謎なものになっている。ただ単にマップ(連想配列)を使いたいだけの場合でも、なぜが挿入順でキーが順序付けされているという仕様で、内部でどんだけオーバーヘッドがあるんだろうと考えると、それだけでストレスが溜まったものだ。
あと、何も宣言せず、$array['key1']['key2'] = 1としただけで、要素が1の配列が2つ作られる。これも気持ち悪い。この仕様のせいで、どれだけ見つけづらいバグが誘発されているかと思うと、それだけで痒くなった。
そんな風に思いながら、2年近く仕事をして、そこそこ大規模なシステムを一人で書けるようになった。それでも、PHPをやっている引け目のようなものはなくならなかった。
ただ、そんな思いのまま「意識が高い」系のプログラマが集まる会社に移り、RubyだとかPythonだとかScalaだとかが書けるようになった上で、あらためてPHPを見ると、その仕様が優れていることを痛感させられる。同じことを書こうとしたときの行数が圧倒的に少ないのだ。配列についてもたしかに、オーバーヘッドはあるが、実際にはパフォーマンスに影響することは少なく、それを通して得られる開発効率は半端じゃない。他の言語だといくつものライブラリを介して可能になることが、単にサーバにファイルを置くだけで可能になるというのは、特に小規模なプロジェクトでは生産性の高さに直結する。
もちろん、プロセス/スレッド/データ共有の仕組みが前時代的で、パフォーマンス効率は高くない。言語仕様が、ノンブロッキングな処理に向いていないなど、用途によっては致命的な欠点もないわけではない。ただ、きちんと言語の特性を理解するレベルで使ったことがないのに、仕様的に他の言語と変わっているところを挙げて、「PHPを使うのはレベルの低いエンジニア」というのは、そろそろ終わりにした方が良いと思う。
あと、話は変わるが「意識が高い系エンジニア」は、システムを開発する上で人件費や採用コストの問題をあまり考えていないのではないかと思う。たとえば、ビジネスが急に大きくなって、取り急ぎ100人エンジニアを雇おうとなったとき、PHPならとりあえず書ける人間をかき集めやすい。RubyやPythonで同じことをやると採用にかかる時間が大幅に伸びるか、人件費が大幅にアップするかになるだろう。これは、一緒に働くエンジニアを所与の条件として見るか、お金を払って雇うべきダイナミックなものとして見るかの違うじゃないかと思う。
最近は冷蔵庫に入ったりなんかくわえたりするのが流行りらしいです。
このへんのことについては、書こうと思ってうまくいかなくていくつか文章を放置してあったんだけど、今日、どこぞのまとめ見て不意にまとまったので書いてみる。
なおこのエントリは、本来だったらもうちょい精密に考えなきゃいけないところを、自分の経験に引き寄せすぎて、ちょいとざっくりと処理しちまってるので、あんまり論としてはよいものではないです。
さて、件の炎上した人たちについては、バカに見える。現実問題としてアホだなあとは思うわけだが、俺自身の思想によって、バカであるという判断では終わらせられない。もしバカなのだとしたら、過去にも同様にバカはいたはずで、過去のバカと現在のバカはあまり変わらない、彼ら、彼女らだけが特異的にバカなのではない、と考えるわけだ。つまり、彼ら、あるいは彼女らが悪いというのはではなく、環境やら状況やらに理由があってこうなった、ということをまず考える。実際悪くねえかっていったらそりゃ悪いことしてるんだけど、そういう状況に至ったのにはなにがしかの理由があるはずだ、ということだ。
話が錯綜しそうなんで、先にだいたいのところをまとめておく。代名詞はめんどくさいから「彼ら」で統一する。
彼らの社会は「うちら」で完結する。「うちら」の外側はよくわかんないものである。よくわかんないものが干渉してくれば反発する。そして主観的には彼らは「なにも悪いことはしていない」。彼らにとって「悪いこと」とは明確な脱法行為のみである。あるいは「うちら」の結束を乱す行為だ。なにか、よくないことをしでかして、叱られたとする。しかし罰せられない。それは許されているということだ。明確な処罰が下されない限りは許されている。
彼らの感覚としては「所与の権利」の範囲が非常に広い。権利が広いため、たいていのことをしても許される「ことになっている」。許さないものがあるのだとしたら、それは許さない側の理屈がおかしい。「うちらなんにも悪いことしてないのになに文句言ってくるの」ということになる。
彼らには「インターネット」という概念がよくわからない。よく言われることだが、たとえばTwitterならTwitterという「個別のアプリケーションがある」というのが彼らの感覚である(LINEは使ってないんでよくわからん)。実際にはそれは、インターネットの仕組みの内部で動いているサービスなのだが、ここでSNSと「うちら」の結託が起こる。SNS=うちらとなるわけだ。なんとなくは「インターネット全体」という外部があることは知っていても、それが「うちら」に積極的に介入してくることは考えない。もしそれが容喙してきた場合、彼らの理屈に従えば「うちらなにも悪いことしてないのになに勝手に干渉してくんの」ということになる。ましてネットの場合、リアルとは違い「外部」は完全に可視範囲の外にある。おそらく彼らにしてみれば不意打ちの感覚が強いだろう。
こうして「冷凍庫に入る」という行為が「許され」、それを「うちら」の内部での武勇伝として公表し、しかし外部の存在はまったく意識しないため、炎上する可能性を想像できない。さっき見たラーメン屋のまとめでもこの流れは完全に一緒である。
なぜ想像できないのか、という問題がある。
これについては「あらかじめ許されている」という感覚との関係を考えたい。所与の権利の幅が大きいということは、逆になにやっても自分たちには危害は及ばないということでもある。つまり危機意識の低さだ。その一方で、情報はどんどん入ってくる。情報が入ってくるということは、世界は有限だということでもある。「しょせんこんなもん」という見切りが先に立ってしまう。つまり彼らは「しょせんこんなもん」という有限の世界で、手足をどう動かそうと「許され」、それだけになにをやっても手応えがない。脱法スレスレ(と彼らが考えるところのこと)のことをすれば、それなりのリアクションはあるからおもしろさはある、ということだ。
以上、ざっとまとめるつもりだったが、これだけでかなり長くなった。
俺がなにゆえこういう考えに至ったかというと、そういうものを日常的に見ているからだ。俺のブログを読んでいる人は、はてなのアカウントを持っている人がわりと多いだろうし、そしてはてなはおそらくネットのなかでも特異的に高学歴の人が集まっている場所だと思う。俺はよくこのことに言及するが、根拠は「自分の周囲から聞こえてくる会話」と、ブコメなりなんなりから漠然と把握される「はてなユーザーの平均的なイメージ」との乖離があまりに大きいからだ。
どうオブラートに包んでもうまく表現できないだろうから、あえて露骨な言葉を使う。この世には「低学歴の世界」というものがある。ネットからは非常に可視化されにくい場所だ。ここでは当用漢字ですらも通用しないことが多い。最近では「試飲」という言葉が通じなかったたため「ためしに飲んでもらう」という言葉に言い換えた。特定の個人に通じなかったわけではなく「ああ、これはだいたい通じないな」と思ったから言い換える結果になった。抽象的な概念はかなり通じない。そもそも「概念」という言葉そのものが通じないだろう。個別具体的な事物を束ねて、現象として説明するような言葉では、なにも伝わらない。
そういう場所が現にある。
彼らが「インターネット」というものの全体像が把握できないと気づいたのは、バイトがmixiに個人情報をまるっと書いていて、そのことについて口を酸っぱくして注意してもまったく通じなかったからだ。どころか「コメント欄に知らない人が書いてたけど、悪い人じゃないっぽいから今度会ってくる」と言い出した。
善悪定かでない不特定多数の人間が、自分の名前、ケータイ番号、職場、交遊関係にアクセスしうるということがなにを意味するのか、彼らは理解できない。というより「不特定多数」という「人間一般」を思い浮かべることが難しい。彼らにとって人間とは「知人」か「知人でないもの」の区別くらいしかなく、そして「知人でないもの」は、彼ら自身がそうしたものになんの興味も持たないように、相手も自分に対して興味を抱かない「はず」の存在である。
結局バイトに俺の注意が伝わったのは、実際に俺が自分のPCでmixiの該当ページにアクセスしてみせたからだ。
店頭にたまるお子様たちから学んだこともある。あまり治安がよろしくない彼らだが、こちらが注意すれば、ひとまずはいなくなる。しかしまたすぐ現れる。何度注意しても同じである。こちらが見ている目の前でゴミを捨てる。カップ麺の残りはだばぁする。やりたい放題なのだが、意外にも「出入り禁止」は効果がある。ただ出入りを禁止するだけではだめで「あんたら客じゃないから」というのが効果がある。そう伝えると、彼らは裏切られたような顔をする。彼らの自意識は「客」である。客であり、買い物をしている以上「明確な犯罪でなければ」なにをしてもいい、ということになっている。実際のところ、彼らは意外なほどに万引きなどはしない。
だから「俺ら客だよ?」に対しては「別に買ってもらわなくてもいい」と言う。「ほかの店を利用してくれればいいです。うちのことは利用しなくていいです」と言う。これは彼らにとって、前提となる権利の全否定だから、裏切りにあたるわけだ。しかし諦めはわりと早い。権利を保証しない以上、彼らにとって俺はいてもいなくてもいいものになったからだ。
こういう経験を通じて、最初に書いたような考えに至ったわけだ。
彼らの常識は、いわゆる社会の常識とは異なる。異なっている以上、社会化されていない。俺はエントリとして書いた以上、彼らを社会化する方法について述べるべきだろうが、いまのところちょっとなんの対策も思い浮かばない。特にネットにああいう迷惑行為をアップしてしまうような手合いだと、なにをどうやっても制御できる方法が思い浮かばない。
とはいえ、そういうものはかならずなんらかの制裁を与えられるのがこの日本の社会というものである。よくも悪くもそういうものだ。
で、それがネットの炎上というかたちになって表れているのだと俺は思っている。
この流れは続く。続かない理由が思いつかないからだ。ひとつには彼らが炎上を避ける方法を学習すればいいのだが、それにはたぶん相当の時間がかかる。どこかでの炎上があって、それを見たとしても、それと自分たちの行為が結びつかないからだ。「あれは外部で起きていることであり、うちらとは関係ない」が原則となる。また、炎上させるほうも手を緩めることはないだろう。なにしろ彼らの傍若無人なふるまいは、同世代にとってこそいちばん迷惑になる。ならば、ネットという「力」を活用しない手はない。
俺は、俺の思想にしたがって、彼らの存在を可能な限り正しく把握し、そこに感情的色彩を挟まない努力をしなければならない。「あれはバカで、どうにもならない」でかたづけてしまうのは、俺にとって敗北だからだ。
というような話を、車のなかでうちの奥さま相手にしていた。うちの奥さまいわく、
「だから、子供できるだろ、結婚すんだろ。そうすると落ち着くんだよ。伝統芸だろ」
芸かよ。
「いまでもこの方法は有効だと思うんだけど……でもなあ……昔はそういうのが有効だった理由って、暴れるだけ暴れて、それって反抗するってことだったんだけど、やるだけやれば、反抗してた大人たちはそれなりに大したもん、というところに落ち着いたからじゃん。そういうの、ないからね、いま」
「ないですか」
「ないよ。大人もいなくなりつつあるし、反抗でもない。両方の側面からアウト」
アウトですか。
さて、俺は考える。俺の常識、社会の常識のほうがまちがっていて、彼らの「うちら」感のほうが正しいという可能性をだ。俺には「うちら」と「うちら」が出会ったときにどうなるのか、ということについての知識がない。しいていえば、各コンビニごとに溜まる集団はひとつだけで、住み分けが成立している、ということくらいだ。
俺に考えられるのはこのへんまで。
おそらくこういうのちゃんと論じた本とかはあると思うんだけど。
同じ場所でけっこうな期間にわたって店をかまえていて、彼らが高校生のころから見てたりもするんだけど、昔だったら、男は肉体労働、女は水商売っていう上がりのかたちがあったはずなんだけど、受け皿のほうが少ないせいか「どうやって生活してんだろこいつら」と思うようなのが増えてる。
http://b.hatena.ne.jp/entry/lkhjkljkljdkljl.hatenablog.com/entry/2013/08/06/155425
ちょっと思うことがあったのでここに吐き出してみる。
もしかしてはてなで数年前に議論になったテーマに近いのかもしれないが、ちょっと書かせて欲しい。
括弧書きを多用するクセがあるので、読みにくいかもしれません。
【前提】
スタイル悪
運動神経最悪
年収は人並み
運動が出来ないこと、顔が悪いことから小中高のスクールカーストは常に下位。
大学に入ってからは旧来のスクールカーストの縛りが減ったので楽しく過ごし、普通に就職。
【経緯】
ここ数年は仕事中心な生活をずっと送っていたわけだけれども、ひょんなことから取引先の女性とちょっと話すようになり、
「このままいけば付き合えるかも」と思ったが合えなく撃沈(詳細は割愛します)
通常仕事などでははあまり気分が落ち込むことは無いのが、今はかなりの落ち込んでいる。
その女性に受け入れられないというよりも、より一般的に「異性に受け入れられないこと」というように感じられ、
これまでのこの分野での成功体験の少なさもあいまって、かなり来ている。
【考えたこと1】
これだけの人間がこの世に存在しているのに、自分は「選ばれない」「極めて競争力が低い」存在であるのだろうか。
結局、イケメンでスポーツが出来るような従来型の上位層(スクールカーストの上位層)しか人生を楽しむ権利が無いのではないか?
自分のような存在(ブサメン、運動できない等)は結局「社会の贄」(後述)ではないのか?
お勉強が出来ても、それ以外のリソースが(特に所与のリソースが)人生を謳歌できる権利(ここでは異性関係のみを想定しているので、そう書いたほうがより厳密かもしれない)
を左右しているのであれば、生まれながらに全て決まっているのだろうか?
(自分は社会の安定装置として存在しているのだろうか。そんなの、いやだ)
自分のような存在を再生産しないためにも、自分は子供を作るべきではないのではないか?
という方向に思考が傾き、極めて気分が低下している状況になってしまっている。
もちろんつまり現代の方が余程自分のような存在には良いのかもしれない。
(この社会が生き易いだなんて、この社会は実に終わっていると思うが、それ以上に自分が終わっているのかもしれないとか思春期のようなことを言ってみる。
しかし、思春期でも上位者(スクールカースト上位者。要はイケメン・運動神経抜群系)はそんなことは思わないような気がする。そう考えると自分は与えられたリソースの少なさから、社会ないし神様に「そう思わされている」のであって、その意味では社会の供物/贄であるという理屈は一定の正当性があるように思われる)
とはいえ、いかに自分が社会構造や先天的リソース不足による被害者であり、社会の安定装置としての下部構造に組み入れられているか
(つまり、社会は全員が平等であるということは起こりえないので、必ず上中下の階層構造になる。この際に、先天的リソースの配付量の差異がとりもなおさず当該社会構造内での地位の差異に直結する。(現実的には別の要素もあるのだろうが、大きな影響力を持っていることは確かだろう)それゆえ、自分のような先天的リソース量が少ない人間は、生まれからして社会の下位へ位置づけられることが決定しているのであり、つまりそれは社会の供物・贄と言えるのではないかと。すなわち下部構造を支える人間がいるからこその階層構造な訳で。生まれながらにして下位たることを強制されることは、それすなわち社会安定化のための贄に他ならないでしょう?ということ。長え。)
ということについて、思考を巡らせたところで、結局状況は変わらないし、むしろ時間を空費している点において状況を悪化させていると言えるのだろう。
結果として自分が時間を空費している一方で人生を謳歌している人々はますます栄え、その差は縮まるどころかどんどん開いていってしまう。
【結論】
正規雇用で雇ってもらっているだけでも幸せなのかもしれない。贅沢な悩みなのかもしれない。
秋葉原の加藤さんのように彼女がいれば全てが解決するとかそういうことは思わないのだが、なんというか一言で言うなら、もう少しイージーモードな人生を送れるリソースが欲しかった。
ただそれだけです。数日経てばやる気が復活するのかな。今は何せず部屋でずっと眠っていたい。
店長が「うちら」の世界について記事を書いて大ヒット、あちこちのblogで議論の対象となっている。
http://lkhjkljkljdkljl.hatenablog.com/entry/2013/08/06/155425
しかし多くの場所で議論になってるような「バカな一部がバカをやってしまう行動を理解」という文脈よりも、この記事には注目すべき点があると思うので、それをメモする意図で記事を書く。
それは記事中の
彼らの感覚としては「所与の権利」の範囲が非常に広い。権利が広いため、たいていのことをしても許される「ことになっている」。(中略)所与の権利の幅が大きいということは、逆になにやっても自分たちには危害は及ばないということでもある。つまり危機意識の低さだ。
この部分。
この部分に注目した場合「うちら」は多い。たぶん、日本人全部がそう。
上記の指摘は、たとえば「学生ローンを借りたんだがこれは借金じゃないか!若者の未来を潰すつもりか!」とか「大学院を出たのに就職できないなんて信じられないクソ社会だ!」に通じる。
大学に行くのも就職するのも「所与の権利」ではない。「所与の権利」だと思って安心しきっていた(=危機意識がない)からそれが無くなると「奪われた!」と騒ぎ出す。
この話をすると、国は国民に一定の生活を提供する義務がーとか吼える人がでてくるのだがそう言う話ではなく、そもそも「国がある」というのは人類に与えられた所与ではない。作ったからあるのだし、維持してるから現存している。運用しているからサービスが降りてきている。それだけだ。
当然その維持運用コストは参加者全員で支払わなければならない。資本主義の現在のこの社会において、その代表例はお金(=税金)である。
しかしそのさらに下のレイヤとして、本当の最低限、参加しているんだから全員支払えよというコスト、もはや参加資格といってもよいコストが存在する。それは「所与に対する盲信の否定」を含む「システムに対する理解」だ。
この社会は、社会構成員が望む「所与の権利」を望むままにえられるコストをちゃんと支払っているのか? と問われれば、疑問符がつく。
個人的な感覚の話になるんだが、日本人は、これ以上コストを払う能力がないように思う。もちろん、税金は払える(所得が上がれば)。そうではなく、前述の認識や道徳的な「理解というコスト」を支払う能力、店長の言葉を借りれば「社会に対する想像力」がもう頭打ちなのじゃないかと感じている。もちろんその想像力が高い人も低い人もいる。でもその格差ってのは現実にあるし、それを教育で是正しようぜというのは正論なんだけど、じゃあ大学教育がここまで一般化した現在、知識は増えたのかもしれないけれどバカは減ってるのかと言えば、ヤンキーやDQNでも大卒になれる社会になっただけのように見える。たぶん衆愚政治っていう言葉の意味は「「理解というコストを支払う能力の限界」を指しているんじゃなかろうか。
じゃあどうすべきかというと、日本はもうこれ以上「所与の権利」を増やせない、増やすべきではないと思うわけだ。というか、現在のレベルすら維持できない。もっと「所与の権利が低い」国になっていくのが現実なのじゃ無かろうか?
子どもが大学に行けないのはあたり前。家計が苦しいのはあたり前。学校のレベルが低いのはあたり前。旅行に行けないのもあたり前。中古車はあたり前。スマホ持ってないのはあたり前。お店で店員に怒鳴られるのはあたり前。公共サービスの質が悪いのはあたり前。郵便が届かないのはあたり前。夜の街を女性がひとりで歩けないのはあたり前。水道の水が飲めないのはあたり前。
もちろんそれはとてもいやなことではあるけれど、コストを負担せず権利だけわめくよりはまっとうな結末に思える。
どんな種類の力でもいいんだけど、個人だの集団だのが力を持っていて、より力の弱い他者と同じ世界に住んでいる場合、弱者には抵抗の手段が一切ないんだ。法があるとかいう人は頭が煮えている。方ってのは一番大きな暴力を持ってる集団(=少なくともその世界の過半数)がコミットしてるから機能してるのであって、所与のものではないんだ。より大きな力を持っている方が自制しなきゃ公平なんてものは生じ得ないし維持されないんだよ。このことに鈍感だと際限なく暴走して堕落していく。
国民とか庶民とかサラリーマンとかマジョリティとか異性愛者とか、多数派みたいなくくりで何かを語るとき、多数はというのはすでに多数派というだけで力を持ってるんだ。それは少数派を圧殺できる力だ。そんでもって少数派はもうサンドバッグになるしかない。それを踏みとどまれるのは、強者である側だけなんだ。