「戯曲」を含む日記 RSS

はてなキーワード: 戯曲とは

2021-09-05

なんて悪趣味人形戯曲。誰もまともではいられなかったのか。

2021-08-21

専門家は言い切らないが、インフルエンサー存在は断言するので後者を信用する」人もいる事をどう考えればいいのか

専門家は言い切らないが、インフルエンサー存在は断言するので後者を信用する」人もいる事をどう考えればいいのか

https://togetter.com/li/1762519

インフルエンサー存在を求めることの行き過ぎがまさに専門家翻弄する競争資金イノベーション周りとはまこと皮肉なことで。

悪いものは「インフルエンサー存在」なるものをちやほやしてきた近年だろうがな。

調べてみないとわからないし、調べた結果適応できる範囲とできない範囲が明確になる。そして、イノベーションとして商品にするには適応できる結果がたまたま市場合致しているべきなんだけど、一発で確実に成功させないと詐欺師となる。

一発で確実に成功させるとインフルエンサー的に断言することを強いられ、もしだめだったら詐欺師として指弾され、新しいイノベーションとやらがなくなった。

ただ勇気がなくなっただけだとアホに夢を煽り感覚麻痺させることだけをする。体力がなくなってきたら足元を見て引っ掻き回そうというゴミが増えてくる。

その結果失敗したら「能無しのくせになぜこんな道を歩んでるのだ?お前が愚かだっただけだろう。オレたちは間違ってない」と石を投げる。

まさに「なんて悪趣味人形戯曲、誰もまともではいられなかったのか!?」という言葉こそが似合う。

2021-08-20

anond:20210404105223

最近1stを見て「エウレカセブンレイチャールズ元ネタってランバ・ラルハモンだったのか!」と気付いた人を見かけた。

1stは神話戯曲のように古典としてさんざん擦られてるから、いま見ると「ああ、アニメでよくあるアレってルーツはコレか〜」というのも多いよね。

2021-07-23

消されたかな?

小林賢太郎氏の解任と、わたし責任

8,674

岸田 奈美

2021/07/22 15:29

※身近な読者さんに聞いてほしいだけなので、気が済んだらマガジンに入れて、そのあと消します。

21:26追記

過去ラーメンズを紹介する記事を読んでくださった読者さん、彼らのファンの方々に届いてほしいと書いた文章でしたが、わたし説明の至らなさ、思考の未熟さゆえに、どんどん違う捉え方が広がっており、傷つく人を無闇に増やしてしまっているやもしれないので、22時で非公開にします。すみません

ラーメンズが好きだ。

小林賢太郎氏が好きだ。

父を亡くし、友人を失くし、誰とも笑えない鬱屈とした子どもであったわたしに、笑いという光をくれたのが彼らのコントだった。絶妙にわかりづらく、複雑に絡みあう、壮大な世界観のもとに成り立つそのコントは、誰かと語りたくなる衝動をくれた。天才なんよ。これはわたしの圧なので、異論は認める

父が「お前の友人はこの箱の向こうにもおる」と残してくれたmacキーボードを叩き、ラーメンズの、小林賢太郎氏のコントについて語り合うときわたし孤独であったけれども、孤独でよかったと思えた。

孤独から出会えた笑いで、孤独からつながれた笑いだった。

その小林賢太氏郎が、東京オリンピックパラリンピックの開閉会式のショーディレクターに着任したときわたしの頭では「マジか小林賢太郎…」と「マジか小林賢太郎!」が同時に鳴り響いた。

こう、なんか、ものすんごく無責任オタクとして言うと、彼らのコントはもともと知る人ぞ知る、当時のお笑い界のメインストリームを堂々と外れて宣戦布告しながら飄々と笑い転げるという位置にあったと思うので、一抹の不安があった。しかしその不安をコーナー鋭角でまくってくるのは「オイオイ、これでみんな小林賢太郎の魅力に気づいちまうんじゃねえの〜?まっ、わたし芸能界引退前に舞台で見たけど〜?」というオタク特有の愚かなドヤりである

わたしはドヤりドヤりしながら、孫の七五三を見るような迷惑かつ気色悪い心地で、彼が手がける開閉会式を心から楽しみにしていた。ここまでの前置きがすでに早口気味なのはお察しの通りである。とても気色悪い。

その小林賢太郎氏が、今日をもって当該職を解任された。

実はさっきまでテレビ局での生配信に参加していたので、解任にいたる経緯も、解任された結果も、成り行きを見守ることなくひとまとめにして見知った。

情報の石つぶてに襲われ、小林賢太郎氏の謝罪文最後「先ほど、組織委員会から、ショーディレクター解任のご連絡をいただきました。ここまで、この式典に関わらせていただけたことに感謝いたします」まで読み終え、涙が出た。

京都に向かう新幹線でなければ嗚咽していた。頼む、車掌さん、止めてくれ。三河安城でこの新幹線を止めてくれ。しかのぞみ163号は止まってはくれないので、静かに泣きながらこれを書いている。

解任の理由1998年に彼が演じたコントのなかで、「ユダヤ人大量惨殺ごっこ」というセリフがあり、肯定する文脈でなくとも、笑いの演出に使われていたからだ。これが人権を著しく侵害しているとされた。

その決定に、わたしは反対しない。

五輪憲章ではあらゆる差別への反対が定められているし、たくさんの人々の命を不当に奪った歴史を、今もなお魂を傷つけられている人々がいる事実侮辱されてはならない。

なのでこの文章は、オタクわたしわたしに宛てた、ただの戒めである

小林賢太郎氏は、責任をとるために、当職を解任された。

というかもう、ここ最近責任をとる人が多すぎてなにがなんだかわからん責任をとっては去り、責任をとっては潜り、責任をとってはキングギドラに車一台で爆走して挑む。

内田樹氏は自著「困難な成熟」で述べた。

責任を取るということは、不可能です。以上、おしまい

シンプルすぎる。

シンプルすぎて二度聞きしたくなるようなこの結論にいたるまで、内田樹氏は懇切丁寧に筆を尽くしておられるので、ここではわたしの雑なあらすじで勘弁していただきたいのだが、

要は

「ごめん、で済む話はない」

ということだ。

人が傷つけたり、人が大切にしているものを傷つけた場合、それを元どおりに復元するということは不可能だ。医学がド発達したとして「いったん殺したけど、きれいに元通りにしといたから、これでチャラね」と殺人犯から言われても、きっと誰も許せん。

体だけじゃない、心だって死ぬのだ。

あってはならないことだけど、学校いじめにあった子ども自殺して「一億円の損害賠償請求した」とニュースで報じられたとしてそれは「一億円払ったら許してやる」というわけではない。相手の一生を台無しにできるくらいの金額を求めて、「わたしはお前らを絶対に許さない」と告げている。

責任をとれという言葉は、「なぜなら、お前には責任をとることはできない」という意味を常に伴っている。めっちゃわかる。

ここまであらすじですけど、このド下手なアレで間違ってないですかね、内田先生。こんなところで引用してごめんなさい。

まさに今。

そんな世界で心穏やかに過ごすには、どうすればいいのか。

ここから内田樹先生がね、答えをくれるんですけど。その答えはどうも、ひとつだけらしくて。

「我々が考えることができるのは、ただひとつ。どうすれば責任をとることを求められるような立場に立たないか

勘違いしてはいけない。

これは、わたしは知らん、わたし関係ない、わたしには責任がない、と言い訳をしスタコラサッサするわけではない。そんな言い訳が平気でまかり通ったら、なんか起きたらすぐさま電気は消えるわ、水道は止まるわの大惨事だ。

それは「わたし責任を持つよ」と、言うことだ。

なんかまずいことが起こったとき責任他人なすりつける社会と、自分の手が届く範囲のことでみんなが「あ、じゃあ責任を持つよ」とさらっと言ってくれる社会なら、後者の方が「誰かが責任をとらんとあかんようなヤバイこと」が起こりにくい。

「誰の責任だ、誰の責任だ!」と犯人探しをしてる間に、最悪の状況に陥るのを、わたしたちは何度もこの目で見てきた。もちろん、例外はあれど。

責任は、誰もとれない。

誰もとれないから、人に押しつけられるものでもない。だが、最初から自分で引き受けることができる。引き受ける人が多いほど、人間幸福に、豊かに安全に生き延びることができる。

だって大切なのは、同じことを未来で二度起こさないためには、どうしたらいいかから

さて。

長くなったので、わたしオタク語りに戻ろう。

小林賢太郎氏が過去発言で解任されたのであれば、その責任は、気持ち悪いオタクわたしにもある。今をもってわたしが引き受ける。

ユダヤ人大量惨殺ごっこ」の発言がなされたコントは、わたしも見たことがある。記憶は定かではないが、中学生になったばかりの頃だったと思う。

映像に映っている観客と同じく、わたしは笑った。

ユダヤ人大量惨殺ごっこ」の意味を深く考えることなく「なんか真面目そうな教育番組MC役なのに、やばいこと言ってんのがシュールだな」というふわっとした文脈だけで笑った。未熟なわたしは、笑ってしまったのだ。

小林賢太郎氏がそれを「浅はかに人の気を惹こうとしていた」のであれば、わたしも「浅はかに彼らの笑いを受け取っていた」に過ぎない。

今では、その文脈で笑っていたことが、どれほど罪深く、どれほど愚かなことであったかわたしはわかる。

それは、中学生の後半で、ホロコーストについて学んだから中学生の授業の範囲なんて、教科書での字面だけなので、そこまで深く知ることはできない。本格的に背筋が凍るほどの恐怖がわきあがったのは高校生世界史の授業を受け、終戦のローレライを観て、アンネの日記を読み、作家になって編集者から勧められた「夜と霧」を読んでからである

道徳観は、自然に身につくものではない。

教えてくれる人がいて、咎めてくれる人がいて、対話をしてくれる人がいたからだ。

道徳観が歴史の積み重ねであるならば、わたしたちもまた、人生という歴史を積み重ねながら、ここに生きる人としてあるべき姿を学んでいく。大人になればなるほど、聡くなればなるほど、わたしたちは過去の行いを恥じ、己を正すことができる。

小林賢太郎氏は、彼の頭のなかをのぞける自著「僕がコント演劇のために考えていること」で語る内容をみれば一目瞭然だが、ストイック創作であるストイックすぎて芸能界引退したようなもんだとわたしは思う。

年々、彼の思考作品は、目を見張るようなアップデートを重ねていた。

世間でまだ誰も言葉にしていない「時代感」を読み、言葉パントマイムに落として、笑いに変えるやんごとなき天才であった。近年は特に、誰も傷つけない笑いなんてあるわけがないことを悟りながら、その状態になるべくして茨の道を歩みながら近こうと試行錯誤する、戯曲に取り憑かれた化け物であった。その背中に憧れて、わたしもここへ来た。

そういう男であるからこそ、こんな時が迫るまでに、ファンわたしたちは話さなければならなかった。

ユダヤ人大量惨殺ごっこで笑うのは、アカンかったね」と。

彼に直接言うのは叶わなくても、ラーメンズについて語るたびに、記事を書くたびに、言葉にするチャンスはどこにでもあった。あれはアカンのやと。

今もさ、たぶん「いやあれってそこまでダメかな?」って思うファンもいると思う。わかるよ。わかる。でもね、ダメなんだ。気づかないといけなかったんだよ、わたしたちは。彼をいつか、日本の大舞台に送り出すつもりでいるならば。

20数年前のコントをいまさら、なのではない。20数年間、いままで、なにも言わなかっただけなのだ

そして小林賢太郎氏は、そういう社会の奥底に埋もれてしまいそうなわたしたちの言葉を、目ざとく掘り出し、両手ですくいとって、なんらかの形で応えてくれる、いい戯曲のためなら見栄も地位も何を犠牲にしても厭わない、そういう男だと、わたしたちは、知っていた。知っていたのに何もしなかった。

しろ批判されているコントできるかな」は、DVDには収録されていない。ラーメンズがあれだけ太っ腹に公開している動画の中にもない。VHS以降、公式の手で誰にも見せないという選択をとっていた小林賢太郎氏は、わたしたちより先に、気づいていたかもしれない。

時代が未熟すぎるがゆえに許してしまった、愚かな笑いというのは、どこにでもある。

からこそ、今さらなんてなかった。遅すぎることなんてなかった。彼が責任をとれと言われる前に、彼に存分笑わせてもらったわたしたちが、責任をとらなければならなかった。

そうしていれば、明日には、小林賢太郎氏の舞台を、わたしたちは、テレビで、観れたはずなのに。なんでいまわたしは、テレビの前じゃなくて、新幹線で、どこの誰ともわからんサラリーマンが首を65度に曲げなから爆睡している前方座席を見ながら、泣いてるんだ。もうすぐ新幹線はわが京都に着く。

つらい。こんな形で、小林賢太郎氏の名が知れ渡っていくのがつらい。彼のコントを、世界を、観たことがない人も彼のことをボコボコに言うのがつらい。おもしろおかし揶揄されるのがつらい。

しかし、それもまた、気色悪いわたし責任なのである。彼らより、彼女らより、先に、先に語りたかった。

推しは、推せるときに、推せ。

誰が作ったかわからんが、至言だと思う。推せるときに推せ。いいから推せ。ともかく推せ。しかし、時代は変わった。怒りや悲しみが容易に世界へ届くようになった。誰かの笑いは、誰かの悲しみになる。

行き過ぎた悲しみに気づいたときわたしたちは、立ち止まり、振り返り、それを受け止めなければならない。そして語る。

「その世界を作ってしまったのには、わたしたちにも、責任がある」

推し世界に魅了され、推し世界に生きてきたわたしは、いまここで誓う。気色悪いと言われようとも、恩着せがましいと言われようとも、その世界を終わらせないために、人知れず責任をとっていく。

それもまた、推すという行為なのだと、信じて。

そして、なにかが燃えて、燃えて、燃えて、燃え過ぎた焼け野原で、責任をとりながら両足をつける。そこからなにかを芽吹かせていく。作家という仕事に就いたなら、その責任も伴う。

最後に、蛇足だけど、これだけは。

10年、企業広報を務めた立場からえらそうに語ると、重役や有名になればなるほど、謝罪文はすぐに出せない。すぐに書くことはできる。でも関わる人が多すぎて、ありとあらゆるチェックが必要になる。「チェックするための事前チェックに回す前の念のためチェック」みたいなバグった概念普通に存在する。

完ぺきを畏れる社会で、人は、簡単に謝れない。

しか小林賢太郎氏は、解任の連絡があって、すぐにコメント自分で出した。前述のとおり、彼と彼の発言かば余地はないが、なかなかできることではない。

ついていくぞ、どこまでも。

(当初ここに、オリンピックパラリンピックについての表記がありましたが、本文の趣旨には関係ないのと、開催についてはいろんな思いで受け止められている方がいるので、削除しました)

2021-07-22

オリンピック開会式問題

最近テレビ話題といえば、コロナオリンピックかの2択だろう。

そして今日1日においてのオリンピック話題といえば小林賢太郎さんの解任問題だろう。

 

 

私は現在四捨五入すれば20歳の年齢である。彼の1番輝かしかった時代リアルタイムで知ってるわけではないが、私は彼が、ラーメンズが、大好きであるオタクなら誰でも“千葉滋賀佐賀”のネタは辿りつくものだろう。私もそのオタクのうちの1人なのだ出会ってから好きになるのは早かった、ネット動画を探しては見て笑い、気づけば帝王ホテル応援歌を口ずさんだりもした。

彼たちの描くコントという芸術に私は夢中になった。

 

 

のちに大学生になった私はあのネットで見た動画違法ものと知り今さらながら本公演や演劇作品PotsunenDVDを集めている。そのうち戯曲集もほしいなと思っている。

 

 

さて、上記の通り私は彼の作品ファンであるしかし、彼の人間性イマイチ知らない。少しクサイ言い方になるが私は彼の才能に惚れたのだ。だから彼が問題を起こしても何をしても私が惚れた彼の才能というものがなくなるものではない。だからずっと大丈夫なのだと思っていた。

 

彼が芸能界引退して彼の作品を見ることが出来なくなって数ヶ月、オリンピック開会式スタッフに彼の名前が並んでるのを知った。嬉しかった。彼の作品がまた見れる、と。

 

 

 

しかし、どうだ。作曲家は辞任、世間はその作曲家を痛烈に批判した。それ以前にもオリンピック運営側人間には少々問題があったり、コロナ世間混沌としていた。次々に関係者炎上や辞任……いつ彼に炎上聖火リレーが回ってくるのか気が気でなかった。しかし、もう開会式は目の前、今さらディレクターである彼が辞任される訳がないと高を括っていた。

 

 

 

7時21分金曜日午後11時頃、Twitterの某アカウントラーメンズの“できるかな”というコントの切り抜きを上げ、批判した。動画は瞬く間に拡散されそのTwitter投稿された動画は30分ほどで数千回も再生された。

 

 

翌朝起きてTwitterトレンド確認すると彼の話題で埋まっていた。あぁ、彼の名前がこんな形で広がっている………とても悲しい気持ちになった。

 

 

 

ここまで読んでくれは物好きの皆さんに念の為注意書きをしておくと、この文章は彼を擁護するものではない。(これは擁護しないという意ではなく、擁護するのが本題ではないという意味である。)

 

 

当然、彼の発言自体擁護することは出来ない。あのセリフ自体擁護するなら擁護した側のほうが言った側より問題である

しか23年前の、公式YouTubeに上がっている訳でもないコントだ。9分あるコントの2秒もないセリフだ。

 

おそらく以前の作曲家問題がなければ彼のこのような物は出てくることがなかっただろう。なぜこうなったのが。民衆オリンピックに対して大きな不信感があるからだろう。どうにか粗を探して叩く。そういう流れになってしまったのだ。

何かを批判するのは楽しいんだ。自分正義を振りかざして悪を糾弾する。まるで正義ヒーローではないか。だから悪いと思わないし、むしろ気分が良くなる。だから表面だけを見て叩く人や、オオゴトにしてなにか大きな力に圧制されるのを望む人も多く居る。

 

批判する投稿内容には「日本の恥だ」「こんなことが海外に広まったら…」なんて、世界誰にでも見れるSNSで書く輩が居た。

日本人日本人恥部晒しあげて日本の印象を悪くする様子は滑稽でならなかった。

 

 

 

だんだん文章収集がつかなくなってきたので結論へ移るとしよう。

私が何を言いたいのか。他人の揚げ足をとるのはやめにしないか

悪いことを悪いというのはとても大切なことであるしかし、大人数がそれを行うのは大きな危険が伴うということは今までのあなた達の人生ネットで起きた事件などで十分に分かっているはずなのだ表現の自由はあるし、何を思うかは個人自由だ。しかし、その思想が、そして思想に乗った言葉がどのような影響を与えるかは考えるべきなのだ

今回のことでネットSNS世間に物凄い影響を与えることを私たちは学んだ。その上で上手く付き合っていくべきである

 

 

 

 

蛇足だが、彼は過去を悔い改め徐々に笑いの形態を変えて行った。過去は変えられないけれど彼は未来を変える努力をしていたように見える。それがこのような形になってしまったのは残念な限りである

anond:20210722133711

日本イノベーションってどこに美味しそうな餌がないかー、ないかー、這いずりまくる悪趣味人形戯曲w

2021-06-22

戯曲文学なのにドラマ文学じゃない

具体的に言えばロミオとジュリエット文学なのにフジテレビ月9文学じゃない

この差はなんなのだろうか?どちらも脚本を演じるという点では同じだ

個人的には脚本が読み物として成立してるのが文学で、成立しないもの文学から除外されているということだと思う

戯曲は誰が脚本通りに演じれば役者ルックス不問で面白いものになるが、ドラマは魅力的な俳優に演じられることによって、つまり視覚的な情報に頼ることによってはじめて娯楽として成立するという違いではないか

2021-05-06

anond:20210506172318

それは昔からそうだけど、マンガマンガからまれるようになって、その世代にとっては「ああ…」ってパターン散見されやすくなっただけ。

小説映画戯曲から少年漫画になるパターンなら、当時の少年はまだそれを知らないから新鮮にうつるってだけ。

手塚治虫だってかなり宝塚歌劇団の影響受けてるし(リボンの騎士なんてもろにそうだ)

エリア88だって巌窟王」をなぞってたりするし。

2021-04-26

友達と遊びたい、推しが欲しい

暇さえあれば小説を読み、絵を描く子供だった。

漫画も大好きで、少女漫画少年漫画もよく読んだ。

中学生の頃、買い尽くしたはずのハンターハンターの知らない単行本が出ていて買った。

同人誌をまとめたBLパロディ本だった。

そこからBLを覚えて、漫画の話で盛り上がれる同級生友達になることが増えた。

基本的には「作って遊ぶ」をしていた。

オリジナルリレー小説を書いたり、描いた絵を互いに見せ合ったり、そういうオタク活動

そのうちHTMLを覚えて、ホームページを作った。

好きな作品感想考察を毎週書いたりしていた。

受験が来て、大学に行き、仕事をするようになり、それでも変わらずアニメ漫画が好きだったので、自分はまだオタクだと思っていた。

 

AKB流行していたこからだろうか、推しって言葉が出てきて、それがいつしかアニメ漫画オタも使う言葉になった。

(今ではもっと幅広い層で使われているけど)

私には推しがいない。

好きな漫画アニメドラマ映画小説戯曲ゲームも、いっぱいある。

でも特定キャラクターにめちゃくちゃ思い入れを持って、なんらかの活動(創作なりグッズ集めなり)は出来ない。

推しがいないと、オタク友達と話すのが難しいなと思うことがままある。

なんかこう、確かに熱量の差を感じる。

自分はただのフィクション好きで、フィクション摂取するのが大好きなだけで、「オタク」では無いのかもしれないなと最近では思う。

たまたまBLも読むから、多少絵を描くことができるから、仲間に入れてもらえていただけなのかもしれない。

オタクの同士として仲良くなった友達最近はあまり私とオタ話をしない。

つまんないからだと思う。

推しのどんなところが好きなのか聞くのは楽しい、でも私もそれを持ち寄って差し出すことができないから、こちらが聞かせてもらうばっかりだから

推しが欲しいなと思う時がある。

友達と同じ遊びがしたい、という感覚で。

2021-04-16

anond:20210416222042

人生そんなもんだよ、残念ながら。週末だしチェーホフ戯曲でも読もう。

2021-03-20

風立ちぬ』はシンエヴァアナザーストーリー

風立ちぬ』はシン・エヴァンゲリオンアナザーストーリーだと気づいた。

以下、エヴァネタバレは無いが風立ちぬネタバレはあるので注意。

.

風立ちぬ』には4つの元ネタがある。

1つめは飛行機技術者堀越二郎人生。彼は零戦を作ったが、別に妻は結核になってないし、子供も6人いる。

2つめは小説風立ちぬ』。妻が結核になる話。ただしアニメと違って夫は妻に寄り添ってる。

3つめは宮崎駿人生飛行機作り=アニメ作り。妻をほっぽって飛行機作りに熱中する堀越二郎=家庭を顧みない宮崎駿。膨大な予算国民を飢えさせながら飛行機作りする堀越二郎ジブリアニメーターの創造性を犠牲にして自分作品作りの為に才能を搾り取る宮崎駿人殺しの道具を作る堀越二郎アニメに熱中する人間を生み出した宮崎駿

そして4つめは、ゲーテの『ファウスト』。

戯曲ファウスト』の主人公は、大学博士号を取ったファウスト博士で、ファウストはあらゆる学問を学んで知識をつけるが「知識だけあっても、あらゆる人生経験を積んだ訳じゃない」と思い悩む。

そこに悪魔メフィストがやってきて「お前にこの世のありとあらゆる経験を積ませてやる。その代わり死んだら魂を貰うよ」と持ちかけてくる。

メフィスト契約したファウストはさっそくグレートヒェンという少女に恋をして、彼女と付き合う。その後いろいろあって彼女のお母さんを毒殺し、お兄さんを刺殺し、妊娠した彼女を捨てて、その結果彼女発狂して自分赤ん坊を殺してしま死刑になる。

その後ファウストは違う美女を探しに異世界に行って大活躍し、現実世界に戻ってきても大活躍し、散々好き放題やった末に一生を終える。

ファウストは死後、天国と地獄中間地点『煉獄』につき、メフィストに「約束通り魂貰うよ」と言われるが、そこにファウストによって散々な目にあった少女グレートヒェンがやってきて、彼女祈りファウストは救済される。

ファウスト』を要約すると、悪魔に魂を売った男が好き放題して最後地獄に落ちそうになるが、理解ある彼女さんのお陰で天国行けましたという話。

風立ちぬ』のラストシーンでは、地獄のような光景が向こう側に見える綺麗な丘で、堀越二郎カプローニさん(堀越二郎たぶらかした男)、そして美穂子(堀越二郎人生を振り回された少女)と対話する。

魂を取りにきた悪魔と、そこから救いに来てくれた聖女。これは『ファウスト』のラストシーンと重なっている。

しか宮崎駿が当初考えていた風立ちぬラストは、より踏み込んだものだったらしい。

ファウスト』ではグレートヒェンの祈りファウストが救われるが、風立ちぬの真ラストでは、菜穂子が「来て」と言った後にカプローニさんが「その前にちょっと話でもしていかいか。美味いワインがあるんだ」と言って堀越二郎地獄が広がる丘の向こうに連れて行く。これが当初の案で、ギリギリになって修正されたと語られている。

要するに「は?お前何救われようとしてんの?お前も地獄に落ちるんだよ」エンドだ。

この非情な展開を庵野秀明演じる堀越二郎に味合わせるストーリーを考えたのが、庵野秀明師匠である宮崎駿だ。

まり宮崎駿カプローニ

庵野秀明創作に魂を捧げた代償として、地獄に落ちるはずだった。

「どこにいても必ず迎えに行く」と約束されても、宮崎駿ガッチリ肩を組まれて「違う違う、お前が行くのはこっちだぞ?」と地獄に引きずり下ろされるはずだった。

2021-03-06

シェイクスピアが苦手

たとえば、ベートーベンの第九の演奏を聴いたことがないのに、ベートーベンが書いた楽譜だけ見て、第九に語っている人がいたらバカしかないし、

小津安二郎東京物語を観たことがない人が、映画脚本だけ読んで東京物語について論じていたらアタマおかしい。

でも、シェイクスピアだけは、実際の演劇を観てなくても、戯曲だけ読んで論じることが許される、というか、それが普通

なぜ?

anond:20210306134725

文学

(読書)

【ぶんがく】

1詩・小説戯曲など。文芸

2文芸学。「-概論」

3哲学歴史学文芸学・社会学などの総称。「-博士。-部」

4(古)学芸。

新明解国語辞典より)

2021-02-22

必読書コピペマジレスしてみる・日本文学

方針

森鴎外舞姫

留学先で女性妊娠させて見捨ててしまう話なので、近頃は評判が非常によろしくない。そのくせ、この文体のせいで美しいと感じてしま自分がいて、実はこれ、レトリック文体によって騙されることに注意しろっていう警告なんじゃないかって気もする。「自分おすすめ編」にも書くつもりなんだけど、ナボコフロリータ」もそういう自己正当化がとにかくうまい

余談だが、鴎外自身東洋人だったこともあり、留学先では写真を撮らせてくれと頼まれたことがあったという。それに対して、構わないけどもあなた写真も逆に撮らせてくれ、と言って、相手も満足させつつ日本人としての尊厳も守ったことがあって、これは割と好きなエピソードの一つ。まあ、漱石よりは世渡りうまいよな。

樋口一葉にごりえ

古風な文体挫折しかかるも何とか読破。これよりは幼馴染系の「たけくらべ」のほうが好きだったなあ。増田では古文いるかどうかで議論になったことがあったらしいが、古文がすらすら読めるほうがこういう趣味というか楽しみが増える気もするし、純粋実用面だけでいえば法律用語や古い公文書を読む必要がまだあるんじゃないのかな。

舞姫」の話の続きだけど、古典文学にもやっぱりクズエピソード結構あり、じゃあどれを教えてどれを教えないかは割と難しい。

泉鏡花高野聖

僧侶山間で美しい妖怪出会う話。文庫ちくま日本文学全集で読んだ。全集と銘打っているけど、このシリーズ日本の近現代文学作家ベスト盤みたいな感じで、チョイスはいいのだけれどときどき抄、つまりダイジェスト版みたいなのが紛れていて、コンプリートしようとは思わなかった。

話としては幻想的ですごく好き。幻想譚が好きな自分がどうして泉鏡花にどっぷりはまるまでいかなかったのかが不思議なほどだ。当時は、著名な作品をどんどん消化しようと思って乱読していたからかもしれない。そういう意味でも、課題図書読破することが自己目的化した読書には幾分害がある。

国木田独歩武蔵野

とても好き。小説が読めなくなったときには、文豪の書いたこうした随筆というか、風景描写の豊かな文章を読むことで、自分リズムを整えたくなる。外出の難しい昨今、こうして空想世界でだけでも豊かな自然のなかで過ごしたいものだ。五感が刺激される文章というのはなかなかない。

夏目漱石吾輩は猫である

我輩を吾輩に修正

ここ最近漱石の評判はあまりよろしくないと聞く。所詮は当時の欧米文学の輸入に過ぎないとか、結局は男社会文学だとか。言われてみれば確かにその通りなのだけれども、日本近代文学開拓者にそこまで求めちゃうのも酷でしょうと思わないでもないし、この作品からたったの十年で「明暗」にまでたどり着いたのだから、やっぱりすごい人ではないかと思う。五十になる前に亡くなったのが惜しまれる。

で、肝心の内容だが。基本的おっさんおっさんの家をたまり場にしてわいわいやる日常ものなので、当時の人にしか面白くないギャグを除けば、普通に笑える。最終回は突然後ろ向きになるが、もしかしたら漱石の本分はユーモアにあるのかもしれない。

余談だが漱石留学時代日記に付き合いのお茶会について「行カネバナラヌ。厭ダナー」とのコメントを残している。

島崎藤村破戒

素直に面白かった。若干のプロパガンダっぽさがなくはないが、読んだ当時は差別する側のねちっこさや意地の悪さが良く書けているように思われた。とはいえ、昨今は善意から来る差別についても考える時代であり、問題はより複雑になった。

被差別部落問題については気になっているのだがなかなか追えていない。日本史について読んでさまざまな地域実例について断片的にかじった程度だ。それでも、地域によって温度差やあったり、差別対象が全く異なっていたりすることがわかり、どこかで日本全体の実情について知りたく思っている。

田山花袋蒲団

女中の布団の残り香を嗅いで悶々とする話だってことは覚えているんだけれども、読んだときにはあまり印象に残らなかった。なぜだろう。自分が読んできた近代文学は、基本的ダメな奴がダメなままうだうだする話ばかりだったからかもしれない。その多くの一つとして処理してしまたか

で、自分が好きなのは飢え死にするほど悲惨じゃないくらいのダメさであり、親戚のちょっと困ったおじさんくらいのダメさなんだろうと思う。

有島武郎或る女

読んだことがない。ただ、ドナルド・キーンの「百代の過客〈続〉 日記に見る日本人」によればこんなことを書き残しているそうだ。「僕ハ是レカラ日記ハ僕ノ身ニ大事件ガ起ツタ時ノミ記ケルコトニ仕様ト思ツタガ、矢張夫レハ駄目な様デアル。日記ヲ記ケ慣レタ身ニハ日記ヲ一日惰ルコトハ一日ヲ全生涯カラ控除シタ様子ナ気ガスル。夫レ故是レカラ再ビ毎日日記ヲ始メ様ト思フ」(意訳。日記書かないとその日が無かったみたいで落ち着かない)。ここでツイッターに常駐している自分としては大いに共感したのである。そのうち読もう。

志賀直哉小僧の神様

読んだはずだが記憶にない。「暗夜行路」で娼婦の胸をもみながら「豊年だ! 豊年だ!」と叫ぶよくわからないシーンがあったが、そこばかり記憶に残っている。これを読んだ当時は、この小説のように自分がどれほど理想を抱いていたとしても、モテいからいつかソープランドに行くのだろうな、とぼんやり思ったことを覚えている。

ちなみに、自分が初めて関係を持った女性貧乳だった。だがそれがいい

お父さんとうまくいっていない人は子供の才能をつぶす話である清兵衛と瓢箪」が刺さるんじゃないかな。あとは少女誘拐視点の「児を盗む話」もよかった。

内田百閒『冥途・旅順入城式』

大学時代知り合った文学少女から薦められて読んだはずなのだが、覚えているのは「阿房列車」の何編かだけだ。それと、いつも金に困っていて給料を前借りしていて、そのことのまつわるドタバタを描いた作品日記もあって、そうした印象ばかり残っている。

関係ないけど就職活動中に、この文学少女から二次関数を教えてくれと言われ、片想いしていた自分はそのためだけに都内にまで足を延ばしたことがある。いいように使われていたなあ、自分あいつには二度と会いたくないが、元気にしているかどうかだけは気になる。

宮澤賢治銀河鉄道の夜

めんどくさいファンがいることで有名な作家全集には第三稿や第四原稿が収録されており、比較するのも楽しい。俺は〇〇は好きだが〇〇が好きだと言ってるやつは嫌いだ、の○○に入れたくなる作家の一人。○○には「ライ麦畑で捕まえて」「村上春樹」「新世紀エヴァンゲリオン」「東京事変」などが入る(註:この四つのものとその愛好家に対する歪んだ愛情から来る発言です。僕も全部好きです。すみません)。サブカル系にはこれがモチーフになっているものが数多くあり、その点では「不思議の国のアリス」と並ぶ。

思想に偏りはあるが、独特の言語感覚や観察眼は今でもすごく好きだ。余談だが新書の「童貞としての宮沢賢治」は面白い。

江戸川乱歩押絵と旅する男

知り合いにいつもぬいぐるみキーホルダーを持ち歩いてかわいがっていた男がいたが、それで本人が落ち着くのならいいと思う。不安の多い世の中で、人が何か具体的に触れるものにすがるってどういうことなんだろう、って、ってことをこの作品を思い出すといつも考える。どこで読んだか思い出せなかったが、これもちくま文庫全集でだった。

横光利一機械

狭いコミュニティの中でこじれていく人間関係の話ではあるけれども、新潮文庫場合表題作よりも他の話のほうが気に入った。印象に残っているのは十二人の旅芸人夜逃げする「時間」と、ナポレオンヨーロッパ征服に乗り出したのはタムシのせいだったという「ナポレオンと田虫」。

谷崎潤一郎春琴抄

実はこの作品は読めていない。谷崎作品は割と好きで、「痴人の愛」「刺青秘密」「猫と庄造と二人のおんな」「細雪」は読んだ。「痴人の愛」という美少女を育てようと思ったら逆に飼育される話は自分人生観に多大な影響を与えたし(例の文学少女気持ちをもてあそばれても怒らなくなってしまったのもこれが遠因だろう)、「細雪」はただ文章リズムにぷかぷかと浮くだけで心底気持ちがいい。ついでに、戦時中生活爆弾が実際に降ってくるまでは震災コロナでただよう自粛雰囲気そっくりだったこととよくわかる。

ところで、最近久しぶりに谷崎作品を読もうと思ったら、ヒロイン名前が母と同じだったのですっかり萎えしまった。というか、ここ最近趣味が「健全」になり始めていて、谷崎作品に魅力を感じられなくなっている。感覚がどんどん保守的になっていく。これはいかん。

夢野久作ドグラ・マグラ

ミステリ編参照。anond:20210215101500

川端康成雪国

高校生の頃に読んだのは確かに記憶に残っているのだけれど、高校生川端康成エロティシズムが理解できたかどうかはよくわからない。たぶんわかっていない。せいぜい伊豆の踊子の裸の少女を読んで、ロリコン発症させたことくらいだろう。

太宰治斜陽

太宰はいいぞ。自分は愛される値打ちがあるんだろうか、というテーマを本人の育った境遇パーソナリティの偏りや性的虐待疑惑に求める説は多いが、そういう心理普遍的ものでもあり、だから多感な時期に読むとわかったつもりになる。芸術に何歳までに読むべきという賞味期限原則としてないが、これもできるだけ若いうちに読んでおくといい。太宰の理解者ぶるつもりはないが。

もっとも、本ばかり読んで他の活動をないがしろにしていいものだとは全く思わない。あまりにもドマイナーな本を読んでマウンティングするくらいならバンジージャンプでもやったほうが話の種にもなるし人間的な厚みも出るというものだ。たぶん。

三島由紀夫仮面の告白

天才的。男性のあらゆる種類のコンプレックスとその拗らせ方を書かせたら彼の右に出るものは少なかろう。ただ、大学卒業してから突然読めなくなってしまった作家でもある。息苦しくなるまで端正に磨きこまれ文章のせいかもしれない。

武田泰淳ひかりごけ

極限状況下でのカニバリズムテーマにした小説なんだけれども、途中から戯曲になって、「食べちまう葬式ってえのは、あっかなあ」などとやけにのんびりした台詞が出てくるなんともユニーク小説。ただし、これは単なるブラックジョークではない。物語は序章、戯曲第一部、第二部と別れているのだけれども、その構成にきちんとした意味がある。

人類全体の原罪を問うようなラストは必見。あなたは、本当に人を食べたことがないと言えますか?

安部公房砂の女

祖父母の家から貰ってきた作品で、愛蔵版らしくカバーに入っていた。カフカにはまっていた時期だから楽しんだ。カフカ父親の影から逃れられない主人公とは別の種類の渦巻にとらわれてしまった主人公がだらだら、ぐだぐだしてしまうのだが、カフカ男性によって抑圧されているとしたら、こちらは女性に飲み込まれている文章だ。

大西巨人神聖喜劇

未読。不条理陸軍の中で、最強の記憶力を頼りにサバイブする話だと聞いて面白そうだと思い購入したのだが、ずっと積んだままだ。これに限らず、自分戦争もの小説漫画をあまり読んでない。戦争に関しては文学よりも歴史書からアプローチすることが多い。

これは自分の悪癖だが、戦争ものになると庶民よりも知識人にばかり感情移入してしまう。

大江健三郎万延元年のフットボール

大江健三郎は初期の作品をいくつかと、「燃え上がる緑の木」三部作を読んだきりで、どういう態度を取ればいいのかよくわかっていない作家の一人だ。狭い人間関係の中のいじめだとかそうした描写に病的に関心のあった時期に読んだせいで適切な評価ができていない。

燃え上がる緑の木」は新興宗教原子力発電といった(結果的には)非常に予言的であった作品であったが、癖が強くカトリック宗教教育を受けた自分であっても世界観に入り込むのに時間がかかった。「1Q84」よりもきつい。面白いが。

萩原朔太郎『月に吠える』

大学時代の友人に薦められて読んだ。「この家の主人は病気です」と、飢えて自分を食ってしまったタコの詩ばかりを覚えている。覚えているのはこれだけだが、この二つが読めたからいいか、と考えている。大体、詩集ってのはピンとくる表現ひとつでもあれば当たりなのだ。そして、それはあらゆる書物にも当てはまることである

福沢諭吉福翁自伝

祖父学生時代に送ってくれたのだけれども、ぱらぱらとしか読んでいない。

子供向けのものだった気もするし、近々原文にチャレンジするべきか。自助論西国立志編)なんかと合わせて、自己啓発書の歴史を知る意味でも興味深いかもしれない。

正岡子規歌よみに与ふる書

読もうと思って読めていないけれども、これまたドナルド・キーンの本で面白記述を見つけた。「墨汁一滴」の中に、つまらない俳句乱造しているやつの作品にはどうせ碌なもんなんてありゃしないんだから、そういう連中は糸瓜でも作ってるほうがマシだ、という趣旨のくだりがあるそうだ。創作する上でのこういう厳しさは、いい。

石川啄木時代閉塞の現状』

ローマ字日記しか読んだことがない。たぶん日本最初フィストファックが描写された文学かもしれない。春画はどうか知らないけど。

小林秀雄『様々なる意匠

詩集翻訳しか読んだことがない……。

坂口安吾堕落論

堕落と言いつつもある種の誠実さについて語った本だった気がするが、それよりも新潮文庫で同時に収録されていた、天智天皇天武天皇家系にまつわる謎についてのほうが印象に残っている。

哲学編に続く→anond:20210222080300

関係ないけど芥川が載ってないのは納得できないぞ。

2021-02-20

anond:20210219123454

小学生国語マスターたからな

 

ところで本当にゴンロクが悪役名か不安になってきた

こちらに歌舞伎で使われる役名リストがあった

ttps://fumikura.net/tool/yakumei.html

まずゴンロクは非常に少なかった(柴田勝家から?)俺はFGOにやられちまってたんだな

でも権がつく役名は非常に多い

名無しのごんべいという話もあったからようわからんな 脇役はとりあえずゴンベイ(ゴンペイ)といっていいくらいこの2つは多い

関西ではゴンタ、ゴンタクレが悪い意味なのは現在固定みたいだから関西人がそういうならそうなんだろうってことで許してくれ

 

上のサイトから引用したゴンりすと

====

ごん|権|安永0202|坂角|けいせい花絵合・三つ目|戯曲全集02

ごん|権|享和0301|江市村|江戸紫由縁十徳・序幕|戯曲全集06

ごん|権|文化0604|江市村|霊験曽我籬・序幕|戯曲全集35

ごん|権|文化0701|江市村|心謎解色糸・序幕|戯曲全集12

ごんえもん|権右衛門|文化0411|江河原崎|万代不易戯場始・序幕|戯曲全集46

ごんくろう|権九郎|安永天明頃|大坂|双蝶々曲輪日記・序幕|戯曲全集29

ごんくろう|権九郎|寛政0701|坂角|姉妹達大礎・六ツ目|戯曲全集08

ごんくろう|権九郎|寛政0905|江河原崎|関取菖蒲〓・二幕|戯曲全集17

ごんくろう|権九郎|天保0708|坂中|油商人廓話・二幕|戯曲全集21

ごんくろう|権九郎|文化0606|江森田|阿国御前化粧鏡・二番二幕|戯曲全集11

ごんくろう|権九郎|文化0708|江市村|当穐八幡祭・二幕|戯曲全集12

ごんくろう|権九郎|文化1101|江中村|色情曲輪花形・序幕|戯曲全集38

ごんくろう|権九郎|文政0501|江市村|御摂曽我正月・二幕|戯曲全集38

ごんくろう|権九郎|文政0807|坂中|艶雙蝶紋日・序幕|戯曲全集38

ごんくろう|権九郎|宝暦0812|坂角|三拾石〓始・三つ目口|台帳集成11

ごんざ|ごん三|享保05二|京万太|傾城八万日|絵入狂言本下

ごんしち|権七|寛政0801|江桐|隅田妓女容性・二幕|戯曲全集06

ごんしち|権七|文政0111|江中村|伊勢平氏神風・一番大詰|戯曲全集13

ごんしち|権七|文政0205|江玉川|梅柳若葉加賀染・一番四建|戯曲全集24

ごんしち|権七|文政0701|江中村|御慶曽我扇・序幕|戯曲全集18

ごんしち|権七|宝暦0701|坂大西|天竺徳兵衛聞書往来・三|台帳集成10

ごんしろう|権四郎|明治前|江市村|ひらかな盛衰記・大詰|戯曲全集37

ごんじ|権次|安政0303|坂中|昔鐙文武功・四幕|戯曲全集33

ごんじ|権次|元治0104|江中村|獅子頭牡丹蝶鵆|戯曲全集27

ごんじゅうろう|権十郎|宝暦09閏07|坂角|大坂神事揃・三祭|台帳集成12

ごんすけ|権介|文政0507|江中村|伊賀越道中双六・四幕|戯曲全集29

ごんすけ|権助|安永0601|坂中|伊賀越乗掛合羽・六幕|戯曲全集08

ごんすけ|権助|嘉永0603|江中村|与話情浮名横櫛・三幕|戯曲全集23

ごんすけ|権助|享和0301|江市村|江戸紫由縁十徳・序幕|戯曲全集06

ごんすけ|権助|天保0104|江中村他|仮名手本忠臣蔵十段|戯曲全集15

ごんすけ|権助|文化0604|江市村|霊験曽我籬・二幕|戯曲全集35

ごんすけ|権助|文化0703|江中村|勝相撲浮名花触・発端|戯曲全集12

ごんすけ|権助|文化1011|江市村|戻橋背御摂・二番序幕|戯曲全集13

ごんすけ|権助|文化1309|江中村|褄重噂菊月・三幕|戯曲全集41

ごんすけ|権助|文政0608|江森田|忠臣蔵増補柱礎|戯曲全集40

ごんすけ|権助|宝暦0908|坂大西|銀閣寺釿始・四|台帳集成12

ごんぞん|権蔵|文化1101|江中村|色情曲輪花形・五幕|戯曲全集38

ごんた|権太|寛政0601|坂角|けいせい青陽〓・四つ目|戯曲全集07

ごんた|権太|天保1001|坂角|けいせい浜真砂・大詰|戯曲全集23

ごんた|権太|文化0301|江市村|略三五大切・二幕|戯曲全集06

ごんたざえもん|権太左衛門|宝永04二替|京早雲|石山寺誓の湖|上方狂言本06

ごんだろくのしん|誉田六之進|宝暦1112|坂中|秋葉権現廻船話・口明|台帳集成15

ごんない|ごん内|正徳0501|京万太|傾城千尋海|元禄歌舞伎集・続

ごんない|権内|寛政1101|江市村|春姿詠千金・大詰|戯曲全集17

ごんない|権内|享保1701|京早雲|傾城妻恋桜・上中入|台帳集成02

ごんない|権内|享和0201|坂中|けいせい廓源氏・切幕|戯曲全集02

ごんない|権内|年不詳|座不詳|吹雪桜田武士鑑・五幕|戯曲全集44

ごんない|権内|文化0211|江河原|蝶花形恋聟源氏・一番五建|戯曲全集13

ごんない|権内|文化0509|坂中|舞扇南柯話・六幕|戯曲全集36

ごんない|権内|文化0705|江市村|絵本合法衢・三幕|戯曲全集20

ごんない|権内|宝暦1112|坂中|秋葉権現廻船話・二ツ目|台帳集成15

ごんない|権内|宝暦1201|坂中|秋葉霊験道中噺・二幕|戯曲全集49

ごんのかみおきよ|権之頭興世|文化1011|江市村|戻橋背御摂・一番大詰|戯曲全集13

ごんのすけ|こんの介|元禄0707|坂岩井|日本阿闍世太子|上方狂言本01

ごんのだゆうかげなり|権の太夫景成|文化0211|江河原|蝶花形恋聟源氏・一番三建|戯曲全集13

ごんぱち|権八|寛政0804|坂角|艶競石川染・五つ目|戯曲全集03

ごんぱち|権八|天明0603|江中村|猿若万代厦・二番目序幕|戯曲全集01

ごんぱち|権八|明治2105|東千歳|篭釣瓶花街酔醒・六幕|戯曲全集32

ごんべえ|権兵衛|安永0707|江中村|伊達阿国戯場・七幕|戯曲全集16

ごんべえ|権兵衛|安政0407|江中村|三世錦繍文章・三幕|戯曲全集21

ごんべえ|権兵衛|天明04閏01|坂中|けいせい倭荘子三段目|戯曲全集05

ごんべえ|権兵衛|文化0311|江市村|壮平家物語|戯曲全集46

ごんべえ|権兵衛|文化1205|江中村|句兄弟菖蒲帷子・二幕|戯曲全集41

ごんべえ|権兵衛|文政1101|坂角|桜時廓美談|戯曲全集21

ごんべえ|権兵衛|宝暦0908|坂大西|銀閣寺釿始・六|台帳集成12

ごんべえ|権兵衛|宝暦1302|京北|音羽山恋慕飛泉・四・五|台帳集成16

ごんべえ|権兵衛|明和0507|坂竹田|宿無団七時雨傘・口幕|戯曲全集04

ごんぺい|権平|寛政0401|坂角|旧礎花大樹・大詰|戯曲全集34

ごんぺい|権平|寛保0303|坂大西|菊水由来染・口明|台帳集成05

ごんぺい|権平|享保08二替|京北|けいせい袖振山|上方狂言本08

ごんぺい|権平|元文02夏|坂大西|敵討巌流島二ツ目|台帳集成03

ごんぺい|権平|文化06|坂角丸|敵討巌流島・三幕|戯曲全集39

ごんぺい|権平|文化1003|江森田|お染久松色読販・序幕|戯曲全集12

ごんぺい|権平|文化1308|江河原崎|染替蝶桔梗・一番四建|戯曲全集38

ごんぺい|権平|宝暦0201|坂中|けいせい都富士・四|台帳集成07

ごんぺい|権平|宝暦0407|京南|恋飛脚千束文月第一|台帳集成09

ごんろく|権六|天明0507|江桐|千代音頭瀬渡・四立目切|戯曲全集01

ごんろく|権六|年不詳|座不詳|敵討上野誉・七幕|戯曲全集39

ごんろく|権六|文化0111|江市村|本朝廿四孝・序幕|戯曲全集28

2021-02-12

必読書コピペマジレスのやつのパクリ海外文学

パクリ元→ https://anond.hatelabo.jp/20210212080317

だって楽しそうだったから...(自分文学的教育は受けてないし、誰かと読んだ本の感想を共有することなんてないので、元増田文学サークルとか友人とか出てくるのがうらやましい)

ネタバレありだけど、ちゃん確認せず書いてるので記憶違いがあるかも。あと、後半になると全然読んでなかったわ。

ホメロスオデュッセイア

オデュッセウストロイ戦争から帰る途中で船が難破して右往左往頑張るのを眺めるお話なのだけど、勇敢で直情的な普通おっさんなので苦労するところは苦労してて良い。あと、イリアスと比べても昔の神話らしく出てくる人物とか神様の類がガチ理不尽なので良い。話がズレるけど、イリアスにはディオメデスというやつが主人公然として出ずっぱりなのだけど、オデュッセイアの回想には全く出てこないし、アガメムノンとかアイアスとかと違って他の作者の物語にも出てこないのだけど、あいつなんなん?

旧約聖書創世記

途中で読むのをやめた記憶がある。

ソポクレスオイディプス王

エディプスコンプレックス父親に対向心を燃やし、母親に恋慕する、的なやつ)の語源だと聞いて読んだら、全然そういうノリの話じゃなくて「へぇ」ってなったやつ。オイディプス自身は預かり知らぬところで運命に弄ばれて、最後にはすべてを理解してしまって絶望する可哀想な話なのだけど、どうでもよいことで人を殺したことトリガーでもある(それも運命ではあるのだけど)ので、自業自得感もある。気楽に人を殺してはだめ、絶対シェイクスピア悲劇とかもだけど、「100%落ち度がない悲劇被害者」ってあんまり昔の物語には出てこないね

唐詩選』

タイトルすら知らないやつ、その1

ハイヤーム『ルバイヤート

いまいち印象に残ってないけど、なんかずっと酒を楽しんでて幸せそうだなって思ったような気がする。

ダンテ神曲

地獄編の半分くらいまで読んだ。作者(ダンテ)が古代詩人だか哲学者かに褒められて地獄めぐりを導いてもらうところから始まって、自分の嫌いなやつ(政敵とか批判者)が地獄で苦しんでるのを巡ってはひたすら口汚く罵って回るという、その性格の悪さというか根暗さに嫌気がさして読むのをやめた。原文だと詩的というか言語的な美しさとかあるらしいけど、こちとら娯楽としてしか本は読まないので日本語で読むからそんなん知らん、こいつは陰湿

ラブレーガルガンテュアとパンタグリュエルの物語

確か冒頭に「酒でも飲みつつゲラゲラ笑いながら聞くためのもんだから」みたいな説明が入るのだけど、そんな感じ。すごいでかい巨人の話だけど、家を椅子にしたと思ったら小便で洪水を起こして家を押し流したりするので、巨人としてのサイズも大概統一性がないんだったはず。なんか「人間の絆」だったかで、大真面目なキャララブレーを手放さなかった、みたいな描写があった気がするのだけど、ニュアンスがわかるようなわからんような...と思った記憶がある。

シェイクスピアハムレット

シェイクスピア作品は、意図はどうあれよく「様々な作品元祖とも言えるものなので、読むと後続の作品がより楽しめる」的に紹介されるのだけど、普通に単体で楽しめると思う。そもそも、別作品を読んでて「あ、これシェイクスピアで見たやつだ!」ってなったからって楽しいか?という感覚個人的にはある。ひとつ上にラブレー云々も別に良い要素だと思わなかったし。で、ハムレットシェイクスピア戯曲の中でも登場人物精神性の完成度が一番高いと思っていて、劇的さでは「オセロー」とか、キャラクターの鮮烈さでは「リチャード三世」とかには劣るかもしれないけど、舞台装置としてのキャラクターではなく、"異なる価値観教育etc...の元に自分で考えて行動する登場人物たちがつくる物語"としての面白さが本当に高いと思う。歴史的価値とかは忘れろ、楽しめ。

セルバンテスドン・キホーテ

パルケエスパーニャにいた。

スウィフトガリヴァー旅行記

巻末の解説すら読まないことが多いので、アイルランド云々の話をパクリ元で見て「そうだったんだー」ってなった。それぞれの国には短編小説くらいの分量しか滞在しないので、それぞれ短編SFとか的なノリで読んで面白かった記憶がある。自分自然科学系の研究者なので、科学なき探求(無為)をひたすらやってる国の印象が強い。なんかおまじない的なやつで作物の収穫量が増えるのでは?ってそれを試してるんだけど、当たり前に効果はまったくないし、それを評価するというプロセス存在しないので無限無為を繰り返してた。

スターントリストラム・シャンディ』

タイトルすら知らないやつ、その2。

サド悪徳の栄え

「目玉の話」は読んだけど、その結果として「悪徳の栄え」は読まなくて良いかな。ってなったやつ。

ゲーテファウスト

最強天才ファウスト博士悪魔契約して、「悪魔の力で楽しませてやる代わりに、人生楽しみきって満足したら魂もらうからな」って契約をする話なのだけど、すべての学問を修めた最強天才のはずのファウスト博士普通精神的に未熟なおっさんなので、酒飲んで暴れたり恋愛ごとやったり神話的な体験したりと色々していくなかでの言動がいちいち子供じみてるのが面白い。最後理想国家のために働く的なパートでいきなり聖人的になってたり、全体の流れが説教臭いのが多少鼻につくのだけど、ラストシーンの迫力は自分読書歴の中でトップクラスだと思う。ちなみにこの作品は「時よ止まれ、お前は美しい」って言葉元祖なのだけど、これってファウスト博士からの「この世界を楽しみ尽くして満足した。これ以上の瞬間などこれ以降はありえない(だからもう魂を持っていって良いよ)」という悪魔への宣言で、なんかラブロマンス的なシーンで使われてるの見ると、「ん?」てなるんよね。

スタンダールパルムの僧院

面白かったな」という感想を持った記憶はあるのに内容はまったく思い出せない。なんか年上美人若者恋愛する話だったと思う。多分登場人物が本気で生きてる感があって各シーンは面白いって読めたけど、全体の流れにはさほどの興味が持てなかったタイプの話だと思う。

ゴーゴリ外套

うだつの上がらない貧乏役人のおじさんが一念発起して外套を新しく買うのだけど、可哀想な目にあう。っていう胸糞の悪い類の話。どこかユーモラスなので面白がりつつも、「可哀想じゃんヒドイよ!」って思いながら読んだ。みじめな人間をみじめな人間視点で描ききるって案外すごいことだと思う。でもゴーゴリナンセンス小説ならもっとポップな「鼻」のほうが好きだし、大真面目な雰囲気ナンセンスをやっている感のある「死せる魂」も良い。死せる魂は未完だけど、なんだかんだ一つのエピソードちゃんと完結してるので、未完だからって敬遠しないで良いと思うよ。

ポー盗まれた手紙

タイトルとあらすじを知ってて、なので読んでいない。

エミリー・ブロンテ嵐が丘

主人公女性の半生記的なところがある物語なのだけど、主要登場人物であるキャサリン主人公)やヒースクリフ主観的感情があまり描写されない(まったくされない?)ので、なんかヒステリック意味不明言動キャサリンと内心が読み取れないヒースクリフが読者を置いてけぼりにしながらすごく力強くて迫力があって得体のしれない物語を作っていく話だったと思う。主観的情報がないからこそ感じられるキャラクターたちの感情の力強さってなんかあるよね。

メルヴィル白鯨

クジラに関する雑学(どう考えてもガセのものがある)がしょっちゅうはいってくるクジラ漁船物語体感で全体の3割)。エイハブ船長とクイークエグのキャラクターの良さを傍観者主人公視点で楽しむ感じだった気がする。ラストシーン映像的な迫力は「ファウスト」のラストシーンの迫力にも匹敵するものがあると思う。文章映像的迫力ってなんよ?って自分も思うけど、なんかそういうのはあるんだ。多分。

フローベールボヴァリー夫人

間違えなく読んでるし、面白かったと思った記憶もあるけど内容が思い出せないやつその2。多分、貴族恋愛ものってジャンルはいろんな作品があるので、自分の中でごっちゃになってるところがあるんだと思う。あらすじを読むとなんとなく思い出すのだけど...

キャロル不思議の国のアリス

ディズニー映画って、ノートルダムの鐘とかを筆頭にとんでもなく改変されてるもんだけど、不思議の国のアリスについては、その「不思議の国」感は素敵に映像化されてると思う。一方で、原作の「ひねくれイギリス人が伝わるかどうかは無視してそのアイロニー子供にぶつけてる感」はなくなってるので、そういうひねくれたおっさんのノリのために読んでみても良いと思う。

ドストエフスキー悪霊

ドストエフスキーノイローゼ死語患者独白を描かせると人類史最強だと思っているのだけど、この作品でも割とそういうところがある。ノイローゼ感のヤバさだけなら地下室の手記とか白夜でも良い。でも個人的には「罪と罰」の主人公の単純なノイローゼ患者ではないせめぎあい感が一番好き。

チェーホフ桜の園

由緒ある一家が没落していくんだけど、正常化バイアスなのかなんなのかどこか他人事で、お母さんなんて特に事が進む毎に悲しんではいるんだけど、一切その精神性が変わらなくて(成長しなくて)、「多分この人死ぬまでこうなんだろうな...」感があってすごい。ラストにお年寄り使用人に対する家族全員に関するシーンがあるのだけど、それがすごい印象的で、チェーホフの他の作品戯曲を抑えてこれが良く代表作として出てくるのはこのシーンのせいだな、って個人的には思ってる。自分チェーホフ戯曲より小説のほうが好き。

チェスタトンブラウン神父童心

タイトルすら知らないやつ、その3。作者名も知らない。

プルースト失われた時を求めて

5冊だか6冊だかにのうちの一冊目だけ読んで続きを読んでなかった。忘れてたわ。

カフカ審判

読んだけどあんまり好きになれなかった記憶がある。カフカ基本的キャラクターに人間味がないのが面白いところなのだと思っているんだけど、「変身」とかの短編ならともかく、「城」とかこれくらいの分量になると、人間味のないお話自分には楽しめないのだな、と思った。

魯迅『阿Q正伝』

読んでないけど、なぜかあらすじは知ってる。

ジョイスユリシーズ

読んでない。「ダブリン市民」があまり楽しめなかったという記憶があって手を出していない。ダブリン市民はどんな話だったか覚えてない。

トーマス・マン魔の山

結核患者の療養施設であるところのサナトリウム生活するおっさんの話。ワナビー小説家だか学者だか(主人公ではない)のエピソードや、立派な紳士とその子供の印象的な挿話があったかと思うと主人公と別の患者哲学かなにかの論争がてんやわんやあったり、女性患者との恋愛未満関係の話があったりと色々な要素がある。ただ、どの部分でも人物精神性についてバリエーション豊かで不思議リアリティのあるキャラクターが独特な言動をするので楽しめた。でも、突然こっくりさんをはじめたときは「作者どうした?」って思ったよ。なんなら今でも思ってるよ。

ザミャーミン『われら』

タイトルすら知らないやつその4にして作者名も知らないやつその2。

ムージル特性のない男』

タイトルすら知らないやつその5にして作者名も知らないやつその3。自分1900年あたりを境に新しい作品に苦手意識があってあんまり読んでないんだなって実感する。

セリーヌ『夜の果ての旅』

このへんはすごい現代的なんだけど結構好き。現代的というのは勝手自分定義なのだけど、この辺の世代になるとやっぱり文章が少なからず技巧的になって、観念的な表現とか比喩とかが増えてくるので、「うるせぇ、自分感情もっとわかりやす説明しろ!」って要求をしたくなるのだった。でもこの話は割とそれでもなんだかんだ心理がわかるので楽しめた。

フォークナーアブサロム、アブサロム!

このお話はすごい好き。南北戦争前の南部黒人バリバリ奴隷として使われてる時代地域)のある町にトマス・サトペンというヤバげなおっさんがやってきて領地開拓し、南北戦争を挟みつつ色々する話なのだけど、時系列出来事を追っかけずに何人かの周囲の人達の回想などでだんだんとそのおっさん人生全体像を見せてくる構造になっていて、ただのヤバげなチンピラおっさんだったサトペンが、相応の過去と野望をもったクソチンピラになっていく(自分の中で)のがすごい迫力満点で面白かった。この作者の有名どころの読みにくさは、「響きと怒り」>「アブロサム、アブロサム!」>「八月の光」なので、この逆順に読むのがおすすめ短編から読むのも良いけど、「ウォッシュ」だけは「アブロサム、アブロサム!」のネタバレから後に回すのがおすすめ

ゴンブローヴィッチ『フェルディドゥルケ』

タイトルすら知らないやつその6にして作者名も知らないやつその4

サルトル嘔吐

そこまで好きにはなれなかった。説教臭さとも違うなんか面倒臭い思想みたいなものが全体に漂ってる感じで、個人的にはそれが鼻に付いたんだろうなぁって思う。

ジュネ『泥棒日記

読もうと思ってたけど読んでなかったのを思い出した。読もう。

ベケットゴドーを待ちながら

なんか意味がありそうで(少なくとも自分が考える限りは)何も意味がないという、意味ありげさで成り立っている戯曲。ただ、それぞれのシーンが映像としてかなり印象的なので、その力でのめり込みながら読んた。で、読んだあと思い返すんだけど、結局何がなんだったのかイマイチからないのだった。偉そうなご主人様とその奴隷のシーンとかあったけど、結局なんだったんだあいつら。

ロブ=グリエ嫉妬

タイトルすら知らないやつその7にして作者名も知らないやつその5

デュラス『モデラートカンタービレ

読んだはずだけどちょっと印象が薄い。同じ作者の「愛人」がそうだったと思うのだけど、登場人物の心情描写が変に淡々としていて、でも行動はどこか直情的で不思議だなぁと思いながら読んだ気がする。その不思議さを楽しむのかな。なんか村上春樹小説登場人物の行動を感情的にしたような感じ。

レム『ソラリスの陽のもとに』

タイトルすら知らないやつその8にして作者名も知らないやつその6。自然科学研究者なのにSF全然読まないのだった。でも、SFに興味のない研究者って外部の人が思うよりは多いと思うよ。そもそも本を読まない人をおいておいたとしても。

ガルシア=マルケス百年の孤独

ラテンアメリカ文学って魔術的リアリズムとかなんとかって、「なんかありそうにない魔術的なシーンだけど、不思議リアリティがある」みたいな評価がされてるらしいのだけど、それってヨーロッパ人感性日本人ヨーロッパ文学も大概魔術的なものとして受容してるところあるよなって思う。ただ、それはともかくとして、この作者の作品ではその言葉がしっくりくるとは思う。同じ作者の「族長の秋」とか短編の「エレンディラ」とかは割とお話全体のストーリー意味と(場合によっては)ある種の寓意を持っているのだけど、この作品だけは全体の流れとかはあまり意味ないんじゃないか個人的に思う(何度も読めばなにか見えるのかもだけど...)。それぞれのシーンをただただ楽しんでいたら、読む前に覚悟した長さの4分の1くらいの体感長さで読みきっていた。

ラシュディ『真夜中の子どもたち』

タイトルすら知らないやつその9にして作者名も知らないやつその7。なんかすごそうなあらすじだね。

残り全部

詩はたしなまいから知らない。ツエランはなんか親が読んでて好きだと言ってた気がする。ブレイクって多分宗教画を描く人でもあると思うんだけど、この人の絵はどっかで見てすごいなぁって思った気がする。

終わり

ちなみに、「哲学思想」のパートと「日本文学」のパートは両方合わせても5~6作品しか読んでなかった。多分後30年経ってもさほど増えないだろうなと思う。

2020-12-19

今日日本語にできなかった英語

He Ham-let them give him the vaccine.

ファイザーコロナワクチン接種がUK世界に先駆けてはじまった、というニュースに触れての冗談

世界で二番目にワクチン接種した人の名前というのが「ウィリアム・シェイクスピア」という嘘みたいな本当のニュースがある。


この冗談を言った人というのはその前にこう言っている。

I guess he decided to be...

(思うに彼=シェイクスピア氏はこう考えた思うんだよ。「生きるべきか、それとも…」ってね)


そして最初に書いた冗談に続く。

Ham-letはシェイクスピアハムレットHamlet)と「〜に〜させる」の let をかけたダジャレ

ダジャレ無視した意味だけとるなら、"He let them give him the vaccine." とおけば実に素直に日本語になる。

シェイクスピア氏は彼ら(たぶんNHSのスタッフのことを言ってるのではないかと思う)にワクチンを打たせようとしたんだ」

あんまりうまくない訳だけど。

でもHam-letとletをかけたダジャレとかプロ翻訳家じゃあるまいし絶対日本語にできないなって思いました。


同じシェイクスピアネタダジャレもっと続いていて

I hope they didn't give it to him in the Coriolanus.

とも同じ人が冗談で言っていた。

theyは上のHam-letの文と同じ意味で、itワクチンと考えればいいか。でも in the Coriolanus の意味がわからない。

シェイクスピア戯曲に「コリオレイナス」というのがあるというのはググったら秒でわかったけど、それがこの文でどういう冗談になっているのかが分からなかった。

それだけのぞけば「彼らがシェイクスピア氏にワクチンを与えてないことを願うよ」って意味になるけど、うまくコリオレイナスとつながらない。


ただ、字面だけみてみるとコロナウィルス(Coronavirus)とコリオレイナス(Coriolanus)はなんとなく似てるからそのあたり?

仮にそうだとしても in the Coronavirus ってなんかあんまり意味がわからない。コロナなかにいる彼にワクチンを投入した的な意味になる? なんかおかしくない?

コリオレイナスという劇をやってるなかで」みたいな意味として捉えられるかもしれない。それとコリオレイナスコロナヴァイラスのひびき(つづり?)をかけたダジャレ


まあよくわからないのです。

2020-11-22

虹ヶ咲スクールアイドル同好会8話とレヴュースタァライト

11/22、22時頃追記:こんなにも少女歌劇レヴュースタァライト真剣記事なのにタイトルだけ表記ブレてました。ゆるして

この文章はアニヶ咲8話と少女歌劇レヴュースタァライト全編へのネタバレを含みます。 

こういうのって鮮度が命ですよね。

1.序文

こんばんは、皆さんアニヶ咲見てますか?毎週女と女が感情を絡め合っていて面白いですよね。先日放送された8話もその例に漏れず、中須かすみの出どころ不明の莫大な感情によって桜坂しずく自己肯定への一歩を踏み出す、概ね私好みの話でした。今回のお話メインキャラクターである桜坂しずく演劇部にも籍をおいており、アニヶ咲8話では、「荒野の雨」という桜坂しずくが主演する舞台のワンシーンが、桜坂しずくの内的心理描写として各所に挿入され、現実のシーンと劇中劇が並行して進んでいく、という構成がなされていました。 まりアニヶ咲8話は「スタァライト」だったということですね。終わり。

……という説明で納得してくれる方は極めて少ないと思います。この記事では、どのようにしてかく結論が導かれるのか、スタァライトから引用した要素はなにか、それを当てはめてアニヶ咲8話を鑑賞することで得られるものはなにか、という話をしていきます。長くなってしまうかと思いますが、よければお付き合いください。

2.少女歌劇レヴュースタァライトについての前提知識

まず、少女歌劇レヴュースタァライトにおける舞台少女と役の関係についてさらっと説明します。ちなみに公式のどこを読んでもこんなことは書いてないので、事実のように記述されるこれらの考えは、過去に読んですごく納得したブログ記事を多大に参考にした自己解釈、あるいは妄想です。参考元はこちらのブログです。

中身をすっ飛ばし結論から申し上げますと、「スタァライト」とは、アニメ少女歌劇レヴュースタァライト」(以下「アニメスタァライト」とします)内に登場する架空戯曲名前ですが、それと同時に「アニメスタァライト」そのものであると言えます戯曲スタァライト」の内容は「アニメスタァライト」に沿うものとなっており、「アニメスタァライト」は戯曲スタァライト」の内容が示唆する結末に向けて進行していくのです。鶏と卵みたいな話ですが。

同様の構造を当てはめ、戯曲スタァライト」の役は「アニメスタァライト」の登場人物メタファー、あるいはそのものとすることができます

そして「アニメスタァライト」の最も重要な要素として「そのもの」と「メタファー」は相互に影響を受ける、というものがあります

戯曲スタァライト」は主人公ヒロインが離れ離れになる悲劇的な結末を迎える物語であり、「アニメスタァライト」も同様の結末を辿りますしかし、「アニメスタァライト」の主人公は決してヒロインとの再会を諦めず、物語の続きを解釈し、創造します。その結果、戯曲スタァライト」の結末も変化し、新しいフィナーレを迎える……というのが少女歌劇レヴュースタァライトお話顛末です。戯曲スタァライト」に縛られるだけでなく、戯曲スタァライト」を変えることもできる、という、これまで示唆されてきた法則を逆手に取るような帰結が描かれていました。

長くなってしまいましたが、それ自体(主人公、「アニメスタァライト」、a)とそのメタファー(劇中役、戯曲スタァライト」、a')について、a=a'であるが故に、a'はaを示すものであると同時に、a'もまたaの影響を受け変化することがある、ということがわかってもらえれば大丈夫です。からない?私にもよくわかりません。

3.アニヶ咲8話を読み解く

お待たせしました、それでは続いて、虹ヶ咲スクールアイドル同好会8話「しずくモノクローム」についてお話していきます

上述の通り、「しずくモノクローム」では、桜坂しずく自身描写と並行して「荒野の雨」のシーンが挿入されており、両者はそれぞれaとa'として捉えることができるかと思います。「荒野の雨」から抜粋されるシーンは、外界に表出している白い服装のしずくに対し、黒い服装のしずくが暗い本音独白のように語りかける、というものでした。「荒野の雨」自体の展開を考えたとき、黒しずく独白が劇中で自然ものとなるためには、「荒野の雨」の脚本に「しずくモノクローム」内のしずくと中須かすみの関わりに対応する、白しずくと誰かの会話シーンが必要になります。それらを相互に補完したときしずくモノクローム」と「荒野の雨」が同じ物語を辿ることになり、a=a'の関係が成り立ちます

ところで、無事に桜坂しずくが主役となった舞台において、「黒しずく」は演劇部部長が演じることになります。「荒野の雨」のポスターにも「白しずく」が採用されており、「荒野の雨」の主役は「白しずくであることがわかりますが……これは半分間違いであり、ミスリードです。

実は「荒野の雨」には再生産前と再生産後の二種類の結末があり、前者では「黒しずく」が主役、後者では「白しずく」が主役となっています待って、そんな目で見ないで。ブラウザ閉じないで。

その根拠はしっかりと劇中にあります本来ならキャプチャ画像と共にわかやすく紹介していきたいのですが、dアニメストアスクリーンショット制限が厳しいので文字のみでの説明となります脳内でアニヶ咲8話が再生できない方は再生時間を付記しますので適宜確認してください。

まず2分10秒頃から演劇部部長から主役降板を命じられるシーンです。部長は「今回の役はちょっとしずくとは違ったみたいだから」と発言します。ですが、ここでアバン部分(12秒頃)の「荒野の雨」と桜坂しずくインタビューを受けるシーン(1分12秒頃)を見比べてみましょう。「白しずく」の「あなた理想ヒロインになりたいんです」というセリフと、桜坂しずくの「私は愛されるスクールアイドルを演じたいと思っています」というセリフは、明らかに対応しています。暗い本音を叫ぶ「黒しずく」ではなく、甘い美辞麗句を並べる「白しずく」の役は、周囲の求める姿を演じる桜坂しずくにはむしろまり役のように思えます。主役降板のシーンに戻ると、部長は続くやり取りの中で「この役は自分さらけ出す感じで演じてほしかったの」と発言しています自分さらけ出す役とは、「白しずく」と「黒しずく」のどちらでしょうか?本編内で描写された「荒野の雨」ですら、「それでも歌いたい」という本音を口にする役割は「黒しずく」に与えられています。ここには大きな違和感が横たわっています

次に、「白しずく」がつけている、青い宝石の嵌った首飾りについてです。12分22秒頃、同好会メンバーがこの首飾りを作っているシーンがあります。そして17分15秒頃の控え室のシーンにて同好会から桜坂しずくに贈られ、その場で衣装に併せて身につけています。これは桜坂しずく同好会特に中須かすみからの信頼を受け取ったことを示すアイテムだと思うのですが……冒頭から度々挿入されてきた「荒野の雨」描写でも同様のチョーカーを既に着けていますもう一度言いますが、この首飾りは同好会によって贈られ桜坂しずく独断で(許可は取ったかもしれないけど)舞台上に持ち込んだものであり、荒野の雨」の脚本にあらかじめ織り込まれ小道具ではありません。この描写は、かなり明確に、今まで本編と同時並行だと思われていた演劇シーンの時系列は、本当はすべて解決した後の桜坂しずくが演じている「荒野の雨」のシーンが遡って挿入されていた、と解釈するのが自然に思えます思え

 

本編で再生産による世界線分化が起きたのは、言わずもがな教室中須かすみ対話するシーンのあと、大きく時間が飛ぶタイミングで間違いないでしょう。ここで桜坂しずく自分さらけ出す強さを手に入れることで「黒しずく」としての自分から逸脱し、荒野の雨」の脚本への介入を行います。そして新たに生み出された脚本対応するようにしずくモノクローム」の再生が起き、その後に描かれるのは再生産された「しずくモノクローム」における「新訳・荒野の雨」の本番シーンです。桜坂しずくが窓を開けるシーンまでが再生産前、その後のカットから再生産後、という風に本編を再整理することができます

 

4.追加の根拠

ここまでは本編視聴中にぼんやり考えていたことを言語化したに過ぎないのですが、なんと本編終了後にツイッターにてこの説を有力に支持する新たな根拠が見つかってしまいました。それがこちらです。

ラブライブ!虹ヶ咲学園スクールアイドル同好会

第8話、演劇部部長
出演させて頂きました!

しずくちゃんの
笑顔が大好きです☺️☺️#lovelive #虹ヶ咲 https://t.co/xkvaVXdiKC

小山 百代(DVD発売中) (@koyamamomoyo) 2020年11月21日

https://twitter.com/koyamamomoyo/status/1330156445292224512

 

少女歌劇レヴュースタァライトにおいてはキャラクター女性声優さんもまたaとa'の関係にあり、小山百代さんは愛城華恋自身であると言えます。つまり……もう答え出ちゃったな。

5.終わりに

https://imgur.com/javR0re

 

 劇中劇物語示唆していてかつその劇のことを登場人物が知っているという構成、こういう解釈でもしないと劇中劇通りに話が進むことや劇中劇と同じ帰結に自らが辿り着くことになにか疑問や違和感を感じないのか……?という気持ちになりませんか?

2020-10-02

anond:20201002023509

もしこれが戯曲ならなんて酷いストーリーだろう

進むことも戻ることもできずにただ一人舞台に立っているだけなのだから

2020-09-14

ディズニーの『ムーラン』に対する愛と悲しみ

ディズニー長編アニメで何が好き? と問われたら挙げるくらいに『ムーラン』(1998年)が好きだった。

ムーラン』は中国伝承をもとにした話だ。老いた父に代わり男装して従軍武功を立てるも地位は断り故郷に戻る。最も古いのは詩と言われ、民謡戯曲小説の題材になっている。

時代によってどこに力を入れて語られるかは変わってくる。女で軍功を立てる力強さを描くのか、家族への孝行を尊ぶものなのか、国への奉仕宣伝するものか。

ディズニーでのアニメ映画化にあたっては女性自己実現という方向で物語はまとめられている。

主人公ムーランは、女は家でおしとやかにしているべきという風潮になじめない。老いた父を助けるため男装して代わりに従軍することになるが男ほどの力はない。しか彼女自身の強みである知恵と機転を武器自分を信じ、自分らしいあり方、誇りを見つけるのだ。

挿入歌リフレクション』が名曲だ。映画のわりと最初のほうに歌われる曲で、含む意味が全編に影響してくる。家の名誉のためには仲人に気に入られて良い家に嫁がなければならない。でも失敗してしまった、という状況を受けて「水鏡に映った着飾った自分は知らない人に見える。ありのまま自分の心はごまかせないけれど、本当の私はいつか映るのだろうか?」と吐露する。

その後男装して(=別ベクトル自分を偽って)活躍するわけだが女であることがバレてしまう。で、色々あって男だとか女だとか求められる役割だとかじゃなく、自分であることがいいよね! って結論に至るのだ。

さて、ディズニーヒロイン像というのは時代によって移り変わる。おしとやかに待っていれば幸せ王子様)が訪れる初期ヒロイン自我がありパワフルながらやはり幸せヒーローが運んでくる中期ヒロイン恋愛から解放された最近ヒロイン

ムーラン時代的には中期ヒロイン位置づけられる。とはいえロマンス要素は淡い。アジア舞台自己実現主題という点が特筆すべきところだろう。

その頃のディズニーの非コーカソイドを取り扱った映画というのはエキゾチシズムあふれると言うかアメリカ解釈エスニック世界と言うか、なかなか文化描写が大味である。ご多分に漏れず『ムーラン』も西洋的なアジアあんまり正確ではない。突然念仏唱え出す登場人物が居るようなステレオタイプオリエンタリズムである。また、男装のために長い髪をカットするシーンが山場のひとつだが、断髪して覚悟を示すことはとても西洋的な描写だ。古代アジアの人々は男女問わず長髪だからね。

それでも20世紀末にアジアが描かれたことは画期的で、東洋西洋狭間自分のあり方を考えていたアジアアメリカ二世三世特に刺さったと聞く。また、脚本にはアジアアメリカ人の女性が居た。そのあたりを思うにターゲット西洋社会であったのだろう。

さて、そんな『ムーラン』が20年の時を超えて実写化されると言う。わくわくした。あの、魔法使いでもなんでもない同じ人間なのに圧倒的な力を持つかたき役、シャン・ユーの大軍勢が雪原に現れる絶望的なシーンが実写の迫力で見られるのか。ハリウッド中国の方も増えただろうからオリエンタリズム産物じゃなくてきちんと考証がなされた中国描写になるんだろうな。最近ディズニー映画のように現代価値観を反映させるだろうから異民族は悪、侵略者、だから防衛しなければならない」なんて単純な物語化じゃなく厚みを持って描かれるんだろうな。(アニメだと時代場所もぼかされて相手フン族という言及のみ。原典だとムーラン漢民族じゃなくて鮮卑の人っぽいし、北魏 vs 突厥戦争って遊牧民同士の戦いでつまり互いに侵略し合っていたってことだと思っている)アナ雪1でサーミ文化盗用と言われ、アナ雪2でサーミの監修を入れて文化盗用にならぬよう注意を払い、作中で植民地支配彷彿とさせる歴史を描き、過去の過ちを直視し「今できる正しいことをしよう」と歌わせるディズニーだ。期待も高まるというもの

そんな価値観も変わる時代の中にあっても輝く、自分らしく誇りを見つけるという変わらないメッセージ名曲の数々、コミカル相棒キャラクターであるドラゴンムーシュー幸運コオロギのクリキーコンビ――彼らも「自分を偽っている」キャラだ。ムーラン物語彼女だけではなく、ほかのキャラ自分を信じて自己実現する物語なのだ!――厳しくもきちんと実力は認めて義に厚く格好いいシャン隊長ムーランほのかロマンス男装しているムーラン人間的に惹かれているっていうのがいいんだよねー。ああ、楽しみだなあ!

と、心待ちにしていたのだがきな臭いことになってしまった。


アニメ版と実写版差異、未見のためニュース等で分かる部分のみ


うおおおい。やりたいこととやっていることとターゲットがちぐはぐで全方位損だよ。東西どちらにもいい顔をしようとして大失敗では。誰が嬉しいんだこれ。

いやね、きっと通常の劇場公開をしていたらふらっと見てしまっていたと思う。事前情報仕入れず見るタイプなので。公開延期で配信も加入しないと見られないと言うので時間ができてしまって調べたらさあ、ねえ。心情的にこれはもう見られない。

アニメ版が中国本土であまり評判が良くなかったというのは聞いたことがある。自分探しをするヒロイン、自立したヒロインというのが儒教感覚としてはそぐわないらしい。だからってアニメ版の主題であった自己実現を切り捨てて家のため国のため「孝」「忠」の話にするか? [追記] トラバで教えて貰ったが、アニメ版は中国本土でも人気だったそうだ。確かにレビューサイトの点も高かった。自分欧米メディア記事から人気がなかったのだと思いこんでいたが誤りだったようだ。失礼しました。えっ、じゃあディズニーはどこを向いて脚本変更を決定したんだ?

アニメ版のファンなんぞ知らん、商業的には大きなパイである14億人+全世界中国ルーツの方々がターゲットなんだ! と言い切ってくれるならまだ理解できた。でも中華圏の評判も悪くてさ。聞こえてくるのは「孝」「忠」はこんなんじゃねーよとか伝統的な任侠精神西洋騎士道テンプレートに雑にはめ込みやがってとかムーランフォースっぽい謎の不自然なパワーを持つ西洋スーパーヒーローにしたなとかドラゴンキャラの代わりに鳳凰シンボルになったが鳳凰象徴するのは古式ゆかしい女性性だぞフェニックスと混ぜてねーかとか『カンフー・パンダ』のほうが中国伝承比喩尊重しているぞとか、そんな感想ばかりである

中国ターゲットに完全シリアスな『花木蘭』実写化がしたかったらアニメ看板は控えめに、スタッフ陣にもアジア勢を揃えて時代考証風俗考証手厚く入れて中華圏を唸らせてくれよ……。

新疆ウイグル自治区でのロケってのもさ……。「異民族、それもモンゴルあたりで活動した今のトルコにも繋がると言われる実在民族排除するために戦う」ストーリー自体センシティブで取扱注意なのに、文化が異なるが故に現在進行形人権侵害が行われている新疆ウイグル自治区をわざわざロケ地に選ぶとは。映画撮影のためにディズニー人権侵害に目をつぶり「新疆ウイグル自治区海外クルーが来られるような安全風光明媚なところで海外で言われているようなことなど行われていませんよ」という中国宣伝に乗ったのだと言われても否定できないだろう。

ディズニーとしては MeToo を受けてストーリーは変更するが民族浄化は容認するみたいな基準なのか?

自分は今まで作品と作者・出演者は別と考えてきていた。役者不倫していたり薬物をやっていたりしても作品価値が貶められることはないし配信停止にすべきではない。また、過去作品で今の基準だとアウトなものがあることも認識している。奴隷制肯定的に描いている『風と共に去りぬ』、子役を薬漬けにして演技させていた『オズの魔法使い』などなど。それらも配信停止にすべきではないと考える。描写については注意書きを添え、新たに作る時は現代倫理観をもとにし、新規であえて描写する時は「あえて」である説明を加えれば良いと。

とすると、俳優発言個人思想と割り切れても現在進行形人権侵害は了承できないな。俳優アメリカ国籍とは言え中国本土の方だから一族本土に居るだろうし当局の意に反する発言をしたら命が危ないのだろうけれど、ディズニーウイグルの件を全く知らなかったとは言えないだろう。

実際に作品を見るまで作品自体への評価はできない。

でも、納得ができるまで実写版ムーランは見られない。

ディズニーがどのような声明を出すのか、出さないのか。注目している。


[追記]

誤字を修正

また、中国国内の反応を知りたくてデータ確認してみた。ご参考までに。

9/15昼時点の豆瓣(中国代表的レビューサイト)のスコア

作品公開年 スコア
10点満点)
最頻値
(最大星5つ)
スコアの母数
実写版ムーラン2020 4.9 星2つ 約16万人
アニメムーラン 1998 7.8 星4つ 20万人
実写版美女と野獣2017 7.2 星3つ 約32万人
アニメ美女と野獣 1991 8.5 星4つ 約14万人
実写版アラジン2019 7.5 星4つ 約26万人
アニメアラジン 1992 8.2 星4つ 約6万人
ヴィッキー・チャオ主演版ムーラン2009 6.2 星3つ 約9万人

アニメムーラン意外と[追記] トラバで教えて貰ったが「意外と」ではなかった中国でも健闘していたようだ。レビューも楽しく読んだ。翻訳ソフトありがとう

実写版ムーランは当初スコア4.7だったが、星3をつける人が増えて4.9まであがってきた。とは言え他のディズニー作品と比べると極めて低く、ここから作品ほどスコアを上げるのは難しそう。

一番下のヴィッキー・チャオ主演版はディズニー関係ない中国発の歴史映画。そう、既にシリアス実写映画存在するのだ。

9/14の猫眼电影(中国映画情報サイト)によるランキング

ランキング作品公開日 初週興行収入累計興行収入 猫眼口コミ
10点満点)
1八佰 2020/8/21 約6.4億元 約26.9億元9.2
2実写版ムーラン2020/9/11 約1.6億元 約1.8億元 7.5
3TENET テネット2020/9/4 約2.1億元 約3.6億元 8.3
6かぐや様は告らせたい~天才たちの恋愛頭脳戦~2020/9/11 約0.03億元 約0.03億元 8.0

日中戦争を描いた超大作『八佰』と比較するのは酷として、興行収入面は大コケしなかったといったところだろうか? 有識者見解を聞きたい。 [追記] トラバより 少なくとも口コミ的には大コケの大コケだと思う とのこと。『アベンジャーズ:エンドゲーム』が初週約22.3億元、『アナと雪の女王2』が初週約3.8億元ということを考えると厳しい結果になりそうだ。


[再追記]

トラバを受けて追記

同じ作品を見ていいな、好きだなと思っていたことが分かって嬉しい。コメントアニメ版が好きと表明して下さった方々もありがとう

それと同時に、ディズニーはそんな中国ファンが望んでいたものをも見誤ったということを知った。つらい。

2020-08-01

逆に、海外引用作品が多い理由

そもそもキリスト教自体引用文化から

〇〇が教えている、こう伝承されていると書物の中で引用を始めたのは宗教で、同じように老師から始まる哲学継承してきた中国もその後の書物思想を多く引用している。

割合はわからない。日本だって書物があるし、口伝もある。

ただ、引用宗教から始まったのではないか、という説は何となくこれなんじゃねーかという感触がある。

面白いことに、西洋場合顕在的な教えが多いにも関わらず、宗教違和感なくカルチャーに取り入れている。

日本潜在的な祟や天罰、徳の文化でそれぞれが思っているだけでいい。

とはいえキリスト教もそれだけで全てが理解できる明快な物語ではない。

かなり不可解でオカルティックなごまかしを含んでいるが、西洋人はそれらを面白がってまずは小説戯曲内にふんだんにと入りれた。

いや、面白いと思ったかどうかはさして重要ではない。

重要な点として、西洋小説には嫌になるほどキリスト教が顔を出すという事実がある。

中国人も日本人もおそらく中世まで特に仏教系発想を能や茶の中に取り入れてきたことだろう。

おそらく近代的な映画などに引用作品が少ないのは、日本西洋文化圏ではなく、キリスト教引用する歴史と地続きではないからだ。

そして今日映画小説は極めて西洋的だ。

日本的な書物文化特に明治期に分断され、棄却されたのではないか

ナショナリズムリズムではないよ。たんなる増田らしい想像に過ぎない)

2020-06-30

anond:20200630120124

マジレスすると「オセロ」という商品名シェイクスピアの「オセロ」の主人公である黒人将軍からとられているので「戯曲オセロには差別的描写が含まれるのでゲームモチーフに使うべきではない」とかそういう抗議はありうる。

2020-06-21

墓標

もう、そこには誰もいはしない。

から

もう、そこには君もいやしない。

そこに只、在るのは。

二度と生を刻むことの無い(元社長と首を切られた社員の)骸―。

首と躯とは離れ離れ。

幸福に沈む、傍ら、磔に。

そして、僕といえば、

二度と地を踏むことさえない屍―。

足を踏み入れた蓬莱(起業界隈)の地に、

僕らの(成功したベンチャー楽園を夢見たのに

ああ僕らは

何も知らなかったんだ

何もかもが嘘つきのこんな世界があることも

ああ何を

違えてしまったのか

僕らはきっと仲良く生きていける筈だったのに

―せめて、君が起業すれば…

  そんな思いが、胸を掠めては、  消えた。

こんな恐ろしいところには、

もはや、

一刻たりとてもいられない。

そうしてその足を。

自ら死地に追いやる愚か者―。

もっと安全方法とは。

常に自分の手に握り置くもので。

けして理解のできぬ

世界に触れてなどしてはならない。

なんて悪趣味人形戯曲

誰も人間はいられなかったか

ああ元起業家とベンチャー社員

かくも愚かだったのだ

暗闇の向こう側で投資家ベンチャー煽り連中が嗤っている

ああ(起業界隈を去った)ボクこそ

最後の勝者なのだ

愚か者共の末路をその正義の証として

そして誰もいなくなる前に

  これは心の最奥に刻み込む、墓標。

 疑いもせず 手に取る報い

  好奇心こそ最大の敵よ

収益化がすぐにできないにもかかわらずこれが儲かるんじゃないか好奇心で歩んだゆえに苦しむ)

そう、刻まれるべきだ一人一人

 一人夜歩き 忍び寄る影は

 幼さゆえ気づけずにいたか

(さまざまな人間としてのおぞましさがある。振舞方と周りを見る余裕と金がない人間絶望的に弱いということ、そして商品に係る知識や、起業に係る事象知識をしらない幼さ故に気付かなったか

そう、刻まれるべきだ一人一人

足掻くことさえ 試せぬほどに

  聡さとは愚かさと同義

(余裕はどんどん失われる。試せることも無く最短の経路を選ばざるを得ない、それでもだめかもしれない。先に展望が見えなくても修正は許されない)

そう、刻まれるべきだ一人一人

   恋の苦さと 命の甘さ

   大人の味は油断大敵

そもそも起業なんかやるのは人間としての好奇心や使命感に燃えてる、ということは色恋だとか情で折れるだろうと、足元を見透かして捻じ曲げ、おろうという奴がわいてくる)

そう、刻まれるべきだ一人一人

  一夜限りの 丑の刻参り

  警戒など意味のない世界

(丑の刻参りのような嫉妬うごめく。別に売り上げなんざ上がってないからうらやむものなんてないものなのに。なのに何を勘違いたか嫉妬して、隙を見て邪魔をしようとしてくる。誰が裏で嫉妬しているかすらもわからない。)

そう、刻まれるべきだ一人一人

最期にしては 粗食にすぎたか

   早起きにして六文の得

(ハードワークによる睡眠不足や、ジャンクフードだよりにもなる。ゆえに体調を崩し、メンタルにも悪影響を及ぼす)

そう、刻まれるべきだ一人一人

 正直者が 馬鹿を見るのだ

   臆病者に進む道なし

(臆病者であればうまくいかないが、だからといって正直者であれば弱くて騙してはめこみやすいからと騙そうとし、そして起業家は馬鹿を見る)

そう、刻まれるべきだ一人一人

ああ何を

違えてしまったのか

日本には起業が栄えるはずだったのに

ああせめて

君が起業してくれたなら

最後イノベーションを信じられたかも知れないな

などと馬鹿めが!

世迷いごとに沈め!

正直者が馬鹿を見るそんな世界の理なら

ああ!

(起業をやめた)ボクこそ 最後の勝者なのだ

その真実を噛み締めて今(起業界隈)楽園を後にして

墓標に刻んだ数だけ 胸に込み上げる勝利の余韻に嗤う。

2020-05-10

https://nyakapoko.github.io/post/10_engeki/

この記事、読み飛ばししまっているひとも多いと思うので、私の解釈で完結にまとめると、


1 コロナによって演劇のコアの部分がダメになってしまった。

2 演劇は他業種よりもクリティカルダメージを負っている。他よりも援助が必要である

3 専門分野ではないことについての言及を正確にするのはコストがかかる。

4 そのコストケチって発言してもいいよね。だって困ってるんだし。


ということです。

だったら専門分野外のことについてワザワザ語らなければよいのではないか

専門分野外の比較自体コストを生み出すことであり、

4を是とすれば、そのコスト聞き手、もしくは放言された当事者が負わなければいけないことがわからないのか。

そして、まさに現状がそれである、ということがわからないのか。

と思うところはたくさんですが、それより書きたいことがあります

ただ酔っぱらっているのでしっかり書ききることができるのか少し不安です。

また、わたし自身演劇についてたいして詳しくありません。なにぶん映像畑の分野なのでご了承ください。

まあ、そのコストケチって発言してもいいよね。だってもやもやしてるんだし。


まず上のブログにある、演劇のコアの部分とは何かというと、観客との共犯関係なのですが、

これがライブで、そして観客の息遣いを感じられる距離でないと不可能であるという意見です。

これには一理あります。が、これが実際に“演劇”のコアなのか。


私は映像人間なので、例えば映画お話しましょうか。

映画というのは、映像をつかってナラティブ(わかりやすく「物語る」と言い換えましょう)をすることと定義できます映画から見れば、そうではありません。

(「いや映画光と影構成される芸術だ」という方もいらっしゃるしょうが、今回はその定義映像に渡してやって、映画定義は狭くとらえます

映画を観るというのは映画館で観る、もしくは”複数の観客がいる映像主体とする場”で映画を観ることを、『映画を観る』と言います

なぜなら、映画というのは観客と製作者との共犯関係にある芸術からです。

例えば時代劇で、主人公と敵が刀に手を伸ばします。この画を1分間続けるとどうでしょうか、

映画館であれば観客は緊迫します。きっと固唾をのむことでしょう。

そこで居合、切り合い、観客はわっと盛り上がります

しかし、これスマートフォンストリームだったらどうでしょうか。ダブルタップの15秒スキップかもしれません。

一緒に固唾をのむ観客がいない分、気持ち半分かもしれません。


映画演劇は記録されたもの記憶されるものの違いがありますが、

観客との共犯関係表現を強固にするのは、映画演劇も変わりありません。

ブログではとても卑怯にも演劇ビデオという比較で書いていますが、

映画だってかわりないんです。

また映像芸術の中には特殊な上映形態をもって作品とするものもあります

これは、劇場美術館でなければ全く成り立ちません。

劇場でないと成り立たないのが演劇特殊性とか馬鹿みたいなこと言っていますが。

実際には映像芸術の方がヤバいですよ。


しろライブ修正の効かない分、映画はどのように共犯関係を生み出すか、研究研究を重ねております

高級な映画(半分皮肉ですが)においては、視線誘導のため、まばたき一つ計算して撮影編集しているわけです。

私は普段、何かの映画について話すとき、『映画のもの』と、観客と生み出す共犯関係=『映画体験』をそれぞれ分けて話します。

演劇についても同じことが言えるのではないでしょうか。

上のブログの筆者が語るのは演劇体験についてです、これは確かに演劇構成する一要素ですが、演劇のものを単体としてみた場合に、

まり戯曲演者がその身体性をもって物語るという行為についてですが、これはいったいそんなにも弱いものなのでしょうか?

身体というものには限界がありますが、その身体によって生み出される力強さというのは確かにあります

現代舞踏なんてものはその身体という籠を生かした表現なわけでしょう。これは弱いものですか?

それを使って物語る。素晴らしいことじゃないですか。

演劇ライブ配信する。そこにはカメラがありスイッチャーがある。

ということは、それでもって映画体験の応用で演劇体験を、十分でなくても再現することはできませんか?

例えばブロードウェイ映像化なんてのは、セットを映像用に用意しカメラをかなり寄せて撮っているわけですが、

それでもあれを映画という人はいないでしょう、演劇であるという認識はしっかり与えることはできるわけです。

また演劇体験的なるもの本質になっているというので言えば、お笑いどうでしょうか?

テレビというメディアで昔から戦ってきた存在なわけです。

逆にスポーツ体験なくして成立するものでしょうか?

スポーツ選手のインタビューではよく魅せる試合なんてことが言われます

徹底防戦の試合で興ざめ、なんてこともよく聞きますね?

スポーツも実は共犯関係であるわけです。

それでも彼らは中継を行います過去試合映像販売します。

そういったことがもう何十年も前から行われている現代で、演劇演劇体験なくして存在しないなんて本気でいってますか?

なまいってんじゃねえって思ってしまます


また演劇映像にすると映画に食われてしまうなんて言ってますが、馬鹿じゃないのとしか思えません。

演劇映画物語る点は同じですがその根っこは全く違います

演劇はその身体物語を預けていますが、映画光と影に預けています

映画根本は影絵芝居といってもいいでしょう、影絵芝居は演劇に似ていますが、

影絵は物理的なものでなく、その像をうまく使えば、表現限界はありません。

演劇とは全く性質が違うものです。

映画はその売れ筋として、マーケティング的に役者に頼ってることはあっても、大本表現ベースとして役者や演技があるわけではありません。

勘違いしないでください。役者あくまで影と光をフィルムに焼き付けるための遮蔽物にしかすぎません。

例えば先ほどのブロードウェイ演劇しましたが、ドッグヴィルどうでしょうか?やはりドッグヴィル映画でしょう。

先祖万々歳は演劇でしょうか?いやこれもアニメでしょう。

それはそれぞれ、映画として作られ、アニメとして作られたからに違いありません。

演劇として作られた映像が、映画に負けるだとか、勝つだとか、そういうことは絶対にありません。

そもそも同じ土俵にいないからです。

演劇というのは、映画というより、むしろスポーツ音楽ライブの側なんですよ。

マシューボーンのなんちゃらと、タイガース試合をまとめた奴と、ラッドピローズライブ映像一般の人からみたら同じ枠なんです。

で、それが映画と競り合ってるなんて印象はないです。初めから勝負なんて存在しないんです。


はっきりいってしまえばスポーツが無観客配信でなりたつというなら、演劇だって成り立ちます

それが成り立たないというのは、おそらく上の文書にもある、演劇体験こそ演劇本質であるという転換が原因じゃないでしょうか?


演劇はなんら特殊でないです。ただのライブです。

もともと自転車操業だったライブが成り立たないという話でしょ。

だったらそういえばいいんです。演劇ライブメインであることなんてみんな知ってますから

ログイン ユーザー登録
ようこそ ゲスト さん