はてなキーワード: 意気消沈とは
勝ったか負けたかだよな。どちらの社会的な立ち位置が高いかだよな。正論なんて価値ないよな。正義なんて意味ないよな。俺があれこれ理屈を述べたところで、それが本当に筋の通った正論だったところで、勝ち組の奴らは「で、お前は俺より勝ち組なの?w」で済ませやがる。そして俺もそれで意気消沈してしまう。何故なら負け組の俺にとっても、事の真意や善悪よりも、勝ってるか負けているかという事実のが圧倒的に重要だからだ。だから正論なんて意味をなさない。理不尽だとしても俺は勝ち組に屈服するしかない。そう、弱者は弱者、負け組は所詮負け組ってことさ。こんな考え中二病だと思ってた。でもこれが大人の世界だったんだ。もう死にたい!!
式場ででた料理だけは見栄をはって張り込んだらしく、葬式なのにいいのか、と思うほど旨く、
名古屋から来た祖母の親戚はけたたましくうるさい人ばかりで、初めての葬式は妙な葬式だった。
祖父の親戚は祖母と折り合いが悪く呼ばれなかったらしい。
祖母は祖父がおとなしい分というか、勝気でなんでも自分の意見を通してしまう性分だった。
そもそも結婚も、既に婚約者がいたのに、後から医者の祖父に乗り換えたような人だから、
金目当てであまり愛情がなかったんじゃないか、と思っていたから、特に不思議でもなかった。
式本番では、たぶん泣けないだろう、と思っていたけれど、結局泣いてしまった。
祖父が死んで悲しかったわけではない。
いつもふてぶてしい父が、祖母が、別れの段になって、ぼろぼろ泣くからだった。
背中を小さく丸めて、棺の小さな窓を覗き込んで、人前で泣いたりするから。
祖父の死は自分にとって大切な人の死ではなかったけれど、
もしこれがそうだったらどうだろうと、想像したら、もう、駄目だった。
仲の良い友達、可愛がってくれる先輩や、可愛い後輩、片思いのあの人とか、
例えば、目の前でだだ泣きしている父とか。母とか。姉とか。
いつか自分も、大切な人を見送り、あの小窓を除いて涙する日がくるんだろう。
祖父は大往生と言っていい最期だったけど、唐突に理不尽に、それが訪れることだってあるだろう。
自分だって例外ではなく、いつかわからないいつか、覚悟する暇もなく死は打ちのめすだろう。
そんなにつらいことを、一体何回乗り越えていかなければならないんだろう?自分の番が、くるまで。
そう思うと、泣けて泣けてたまらなかった。
今見送られている祖父ではなく、祖父を見送る父や祖母を、いつか大切なだれかを見送る自分に重ねたのだった。
なんつー自己中。でも俺は生きている人の悲しみを思って泣いた。
人死にはかなしいことだった。
でもそれは、死んだ人にとってじゃない、
残された人のだったんだ。
そういうことも含めて、残酷なことだった。
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蛇足
祖父の火葬が終わってお骨拾いをしたら、膝に入っていたという金属のボルトが丸々形を残していた。
前線にいたときに怪我をして、帰国してから入れたものだということを初めて聞いた。
当たり前のことだが、戦争に行って、辛い目にだってあっただろう。捕虜にもなっていたんだし。
帰国してからは楽しかったことだけ話したかったんだろう。
その後の思い出話で、自分が生まれた時の祖父の話も聞いた。
祖父は生まれたての自分を抱っこすると、相好を崩してなかなか離そうとしなかったのだそうだ。
考えてみれば、子ども嫌いの人が小児科医になったりするはずもない。
口うるさかった祖母は祖父が死んでからすっかり意気消沈してしまい、家に籠りがちになってしまった。
60年連れ添った夫婦なのに、自分はなぜ祖母は祖父が死んでも平気だなどと考えていたのだろう。
夫婦の老後のためにと折角ため込んだ金の使い道がないらしく、会う度に小遣いをくれすぎるので困っている。
思えば節約や資産運用には熱心だったが、あまり消費欲のない人なのだった。
自分はというと、よく知りもしない人のことを決めつけるのはやめておこうと二十歳を過ぎてようやく決めたところだ。
後輩が亡くなった。昨日知った。
動揺している。blogやSNSには書きたくないことに気がついた。ここに書く。
困ったところもあったし愛嬌もある男だった。
癖が強く誰からも好かれているとは言えない男だった。
いろいろ悩みあがいている部分もあったように思う。
近況は知らん。死因やその周辺もあまり知りたくない。いまはその気になれない。
参列する気もない。弔辞を送る気もない。
ただ残念な気持ち。複雑な気持ち。
どんな男だったか覚えている。声や顔つきを覚えている。ノートの隅に味のある似顔絵、イラストをちょこちょこ書き付けてて感心したのをよく覚えている。
彼は死んだそうである。
俺はそれについてあまりしゃべりたくない。
いつのまにかどんよりと気分が落ち込んでいるようである。
この先何ヶ月かひょっとすると何年か
ふとやりきれない喪失感のようなものが訪れるような気がする
それが供養だと思う
ttp://d.hatena.ne.jp/kotorikotoriko/20100121/1264016079
派遣村の住人の中には、就職費用を使って、スクラッチの宝くじ100枚買った人もいるらしいです。
これは素晴しい。ベンチャー気質のある人です。シリコンバレーの青い稲妻、エンジェル投資家確保物語り、お前らはそういうの大好きだろ、いつものように誉めろよ、クソどもが。
だいたいがクソボロい服着て住む場所もなく意気消沈という状況下で、2万円を使って就職出来る会社とかって、ショボいです。それだったらスクラッチの宝くじ100枚買ったほうがマシって考える奴がいてもいいよな。
10枚当選したら1000万円だし、それを元手にして商売をすることも出来る。派遣村に来るようなお前らカスが就職出来る企業なら、2万円程度ありゃいいだろっていうクソみたいな思惑を蹴り捨てて、起業することも出来るのです。
やっぱり就職費っていう建前は不要、というかですね、スクラッチの宝くじを買う必要もない。
なんか実行力ある奴が、5人程度仲間を集めたら、10万を資金にして金儲け出来る。
夜と霧
ヴィクトール・E・フランクル
収容所で集団を対象に精神的ケアをほどこす可能性はきわめて限られていた。これには言葉よりも効果のあるものがあった。模範だ。たとえば居住棟の班長の中に公正な人物がいたが、その毅然とした、見ているだけでも勇気づけられる存在は、ことあるごとに彼の統率下の被収容者に深く広く影響をおよぼしていた。存在、それも模範的存在の直接の影響は、言葉よりも大きいものだ。だが、なんらかの外的根拠を挙げて内的な共感をよびさますときには、言葉も有効だった。わたしは集団に話をし、外的状況を伝えて一居住棟のすべての被収容者に心の準備をさせ、精神的なケアに役立てたことがある。
あれは最悪の日だった。今しがたの点呼で、古い毛布を帯状に切り取ることも(即座にゲートルを作るのによく使った手口だ)、ほんのささいな「窃盗」も、今後すべてサボタージュと見なし、即刻、絞首刑をもって罰せられる、という布告がなされた。さて数日前、飢えかけた被収容者がじゃがいも倉庫に忍びこみ、数キロのジャガイモを盗むという事件が起こった。浸入は露見し、被収容者たちは、「侵入者」が誰か、知っていた。収容所当局は、このことをどこかから聞きおよび、違反者の引渡しを要求してきた。これを拒めば、収容所の全員に一日の絶食を課すという。もちろん、二千五百名の仲間は、ひとりを絞首台にゆだねるよりは断食のほうがましだと判断した。
この断食日の夕方、わたしたちはむき出しの土の床の居住棟にごろごろしていた。気分は最悪だった。ほとんど口をきく者もいない。なにか聞こえるとすれば、とげとげしい言葉だった。そこへ、停電が追い討ちをかけた。悪い雰囲気はここに極まった。居住棟の班長は賢明な男だったが、全員が耳をそばだてるような短い話をした。ここ数日に病死したり自殺したりした仲間のことを語ったのだ。そして、死因はさまざまでも、彼らの死のほんとうの原因は自己放棄だと言い、これについて、そしてどうしたら精神的な崩壊でつぎの犠牲者が出ることを未然に防げるか、少しばかり解説してもらいたいのだが、といって私を指名したのだ。
私は、心理学の視点から解説をしたり、居住棟の仲間に精神医として話をして、いわば医者としての立場から魂を教導するなどとんでもないという気分だった。寒さに凍え、空腹で、ぐったりとし、またいらいらしていた。だが、わたしは力をふりしぼって立ち上がり、このまたとない機会を利用した。なぜなら、今話をすることは、かつてないほど必要だったからだ。
医師、魂を教導する
こうして、わたしは語りはじめた。まず、とらわれのない目には、お先まっ暗だと移ってもしかたない、と言った。また、わたしたちはそれぞれに、自分が生き延びる蓋然性はきわめて低いと予測しているだろう、ともつけ加えた。収容所にはまだ発疹チフスはひろまっていなかったが、生存率は五パーセントと見積もっていた。そして、そのことを人々に告げた。わたしは、にもかかわらずわたし個人としては、希望を捨て、投げやりになる気はない、とも言った。なぜなら、未来のことはだれにもわからないし、つぎの瞬間自分になにが起こるかさえわからないからだ。そして、たとえあしたにも劇的な戦況の展開が起こるとは期待できないとしても、収容所での経験から、すくなくとも個人のレベルでは大きなチャンスは前触れもなくやってくることを、わたしたちはよく知っている。たとえば、とびきり労働条件のいい特別中隊への小規模な移送団に思いがけなく編入されるとか、同じような羨望の的の、被収容者を「幸福」で舞い上がらせるようなことは、いつも突然起こるのだ。
わたしは未来について、またありがたいことに未来は未定だということについて、さらには苦渋に満ちた現在について語ったが、それだけでなく、過去についても語った。過去の喜びと、わたしたちの暗い日々を今なお照らしてくれる過去からの光について語った。わたしは詩人の言葉を引用した。
「あなたが経験したことは、この世のどんな力も奪えない」
わたしたちが過去の充実した生活のなか、豊かな経験のなかで実現し、心の宝物としていることは、なにもだれも奪えないのだ。そして、わたしたちが経験したことだけでなく、わたしたちがなしたことも、わたしたちが苦しんだことも、すべてはいつでも現実のなかへと救いあげられている。それらもいつかは過去のものになるのだが、まさに過去のなかで、永遠に保存されるのだ。なぜなら、過去で<ある>ことも、一種の<ある>ことであり、おそらくはもっとも確実な<ある>ことなのだ。
そしてわたしは最後に、生きることを意味で満たすさまざまな可能性について語った。わたしは仲間たちに語った。横たわる仲間たちはひっそりと静まり返り、ほとんどぴくりとも動かさなかった。せいぜい、時折かすかにそれとわかるため息が聞こえるだけだった。人間が生きることには、つねに、どんな状況でも、意味がある、この存在することの無限の意味は苦しむことと死ぬことを、苦と死をもふくむのだ、とわたしは語った。そしてこの真っ暗な居住棟でわたしの話に耳をすましている哀れな人々に、ものごとを、わたしたちの状況の深刻さを直視して、なおかつ意気消沈することなく、わたしたちの戦いが楽観を許さないことは戦いの意味や尊さをいささかも貶めるものではないことをしっかりと意識して、勇気をもちつづけてほしい、と言った。わたしたちひとりひとりは、この困難なとき、そして多くにとっては最期の時が近づいている今このとき、だれかの促すようなまなざしに見下ろされている、とわたしは語った。だれかとは、友かもしれないし、妻かもしれない。生者かもしれないし、死者かもしれない。あるいは神かもしれない。そして、わたしたちを見下ろしている者は、失望させないでほしいと、惨めに苦しまないでほしいと、そうではなく誇りをもって苦しみ、死ぬことに目覚めてほしいと願っているのだ、と。
そしてしめくくりとして、犠牲としてのわたしたちについて語った。いずれにしても、そのことに意味はあるのだ、と。犠牲の本質は、政治的理念のための自己犠牲であれ、他者のための自己犠牲であれ、この空しい世界では、一見なにももたらさないという前提のもとになされるところにある、と。もちろん、わたしたちのなかの信仰をもっているものには、それは自明のことだろうし、わたしもそのひとりだ、と。
わたしは、ひとりの仲間について語った。彼は収容所に入ってまもないころ、点と契約を結んだ。つまり、自分が苦しみ、死ぬなら、代わりに愛する人間には苦しみに満ちた死をまぬがれさせてほしい、と願ったのだ。この男にとって、苦しむことも死ぬことも意味のないものではなく、犠牲としてのこよなく深い意味に満たされていた。彼は意味もなく苦しんだり死んだりすることを望まなかった。わたしたちもひとり残らず、意味なく苦しみ、死ぬことは欲しない。この究極の意味をここ、この居住棟で、今、実際には見込みなどまるでない状況で、わたしたちが生きることにあたえるためにこそ、わたしはこうして言葉をしぼりだしているのだ、とわたしは語り納めた。
わたしの努力が報われたことを知ったのは、それからほどなくのことだった。居住棟の梁に電球がひとつともった。そしてわたしは、涙を浮かべてわたしのほうへ、礼を言おうとよろめき寄ってくるぼろぼろの仲間の姿の見たのだ。しかし、この夜のように、苦しみをともにする仲間の心の奥底に触れようとふるい立つだけの精神力をもてたのはごくまれなことで、こうした機会はいくらでもあったのにそれを利用しなかったことを、わたしはここで告白しなければならない。
p.135
なんでそのくらいで意気消沈しちゃうの?自分に自信なさすぎじゃね?たくさんの男を遍歴してきた自分カコイイと思ってるなら胸張って誇ってろよ。すべての人間に肯定されてないと不満なの?バカ?
http://anond.hatelabo.jp/20090818104641
なんでって? つまり「経験なんてクソだ」と言ってるわけでしょう? 新品が上等で中古品は下等。つまり、年配であればあるほど下等生物なわけだ。
だから「食べ残し」だなんて言うと、経験者を一律敵に回すわけ。世の中は未経験者より経験者のほうがはるかに多いんだから、ガンガン叩かれて当然なの。
それにさ。使ったマンコが汚いって発想はさ。つまり、その汚いところから出てきた人間ってのを、すべて否定しているよね? いや、飛躍じゃなくて、とどのつまり、そこに行き着きたいがための、発想だよ。使い古しってのは。
そして樺美智子さんの死から49年が経った
日米安保条約の空洞化、日米同盟の軽量化、来年は改定から半世紀
昭和三十五年六月十五日。アンポ改定に反対するデモ隊が国会をとりまいた。
樺美智子さんが死んだ。デモの隊列にあって、群衆に巻き込まれて圧死したのだ。左翼はこれを権力の謀殺と宣伝したが、だれも信用しなかった。この鮮烈な記憶があるのも、いまでは還暦をすぎた世代だろう。
昭和四十三年十月八日、佐藤首相のベトナム訪問に反対する左翼学生が騒ぎ、羽田で京大生山崎某が仲間の運転した車に轢かれて死んだ。機動隊は二十数名が瀕死の重傷だった。
昭和四十五年、安保条約の改定から十年が経って「70年安保決戦」が叫ばれた。前年の東大安田講堂と新宿騒乱で前哨戦が消え、左派の分裂は決定的になり、「革命ごっこ」は意気消沈していた。
70年は平穏に幕が開け、左翼は内ゲバに熱狂し、組織は壊滅に瀕し、窮状に陥った日本赤軍派のハイジャック事件と三島由紀夫の憂国の諌死事件で終わった。
いわゆる「80年アンポ」は左右対決の政治状況にはなく、あらかたは体制保守か革命の唄も謳わないサヨクに転じており、サヨク全学連OBは「同窓会」を、そして日米安保二十周年記念の日米シンポジウムが東京で開催され、ゲストのフォード元大統領が来日して「安保改定」を示唆した(筆者はそのおり、会場のホテルに泊まり込んで裏方。広報担当だった。シンポジウムの記録は『日米同盟の二十年』、自由社)。
60年安保の象徴だった唐牛健太郎氏は死去し、西部邁氏は保守の側にあり、江田五月氏は国会議長となり、清水幾太郎は「核の選択」を主張した。
情勢はめまぐるしく変わった。東西冷戦の終結は、なにを意味したか?
日米安保はソ連、中国、北朝鮮を仮想敵に防共の軍事同盟ではなかったのか?
ところが主要敵だったソ連が崩壊し、ワルシャワ条約機構は消滅し、NATOは性格をかえて、イランを囲む新型の防衛機構に早変わりし、中国は時代にふさわしい<?>「上海シックス」を主導して米国の金融秩序へ挑戦を始めた。
▲戦後秩序は劇的に風化した
英米同盟は軽くなり、NATO五十年式典は独仏国境で開催されたが、オバマが出席したものの、興奮状態にはなく、むしろチェコで『核廃絶』を訴えた。
ロシアはNATOのチェコとポーランドのレーダー基地化に反対を唱える。しかし、グルジア、アゼルバイジャン、ウクライナのNATO入りが時間の問題となっている。
イラク戦争のおりに、ロバート・ケーガンは「ネオコン」の論理を代弁し、世界の警察官としての軍事力にひいでた米国の一極体制が復活する。世界秩序は保たれると言い、ホッッブスの説いた「リバイアサン」という怪獣の「力と畏怖」のイメージに世界新秩序の基軸を置いた。
しかし現在の世界は、イラク戦争、アフガン空爆で復活した筈の米国リバイアサンが衰退し、G2という不思議な時代にはいった。
米国はこれまでの国家の性格をおおきく変貌させようとしている。もっと言えば、米国みずからがリバイアサンを峻拒し、「普通の国」になろうとしているかのようだ。
NATOの運用比重を独仏英主導に移管しつつあり、G2時代の到来は、次の日米関係を曇らせる。
こうした歴史のパラダイムのなかで、平成22年(2010)は、安保条約の改定から半世紀を迎える。日本の生命線と言われた日米同盟だった。生命線?
安保議論は風化し、「事前協議」条項はかるがると無視され、沖縄の海兵隊も横須賀の空母も、戦争地域に向かった。
そればかりか日本の自衛隊は「集団安全保障」「極東条項」の議論を忘れたかのようにPKOはカンボジア派遣から開始されて、いまではイラクのお隣、ゴラン高原、モザンビーク、スーダンへ向かった。役割を分担しながらも、陸海空全軍が出動した。
日米安保条約は風化した。というより事実上、性格を変えている。日米同盟の存在意義は、鰹節よりも軽くなりつつある。
吹き飛ばそうとしているのは日本ではなく米国である。アメリカは中国重視にかたむき、ヒラリーもガイトナーも中国に揉み手して、{G2}と言いだし、日本が期待した北朝鮮へのアプローチは曖昧、投げやりとなった。アメリカはこの問題から逃げた。
拉致問題に積極的ではなくなり、「それは日本の主権の問題であり」、北朝鮮の核武装は容認し、中国の出方をひたすら待つ。
これがオバマの米国、衰退途次の米国の姿である。(http://anond.hatelabo.jp/20090615232944に続く)
好きな仕事ができるってのは恵まれている。
だから「辛い」とか言っちゃ、バチあたりだと思う。
そういうわけで5年ほど、「辛い」って言葉をどっかに置いてやってみたが、
いよいよどこかで吐き出したくなっちゃったよ。
ちょっと変な病気にかかったもんで外出しなくてもできる仕事を選ぶ境遇になった。興味があったゲーム制作に飛び込んでみた。病気持ちでも興味持てる仕事に出会えて幸せ、なんだけど。
1ヵ月12万もらえたらいい方か。
高い給料もらうには売れてる人にならなきゃいけないのかな。それどうやってなるんだろう。
テキストとスクリプト組む契約のはずなんだけど企画からディレクションみたいなことまでやる。そんな仕事ばっかり。でも分が悪いからと断って仕事こなくなるのはマズイからやるっきゃない。
やることになったらイイモン作らないと買ってくれる人に申し訳ないから結構頑張る。頑張ればまた仕事はもらえる。満足して頂けたなら少しお給料上げて……要請してみるがあがらない。
「安いことしか意味がないものしか作れなかったか」と自分の才能のなさに意気消沈。
ゲームはゲームでも、こう単純に女をいたぶるようなゲームの業界で働いてる人は割と羽振りがいい。こっちの仕事紹介するよ、と言われるが空想上とはいえなんか心が痛む。そんなこだわりは飯一粒と等価交換なんだろうけど。
でっかい会社と契約とれるように頑張ろうって。生活費稼ぐ仕事で手一杯でなかなかそういう時間が作れない。時間の使い方も下手ですか。はあ。良いとこなし。
でもこの5年、どの取引先も待遇が良くなることは全くなくて、ちょっと疲れてきたよ。
で、愚痴。
頑張ったところで自分じゃたいしたもん作れないんだ。
売れるもんが作れないんだ。
羽振りのいい業界でも時代でもないから待遇なんか良くならなんだ。
所詮外注。
とはいえなあ。もういい年になっちゃったし、この仕事始めるて結構重要な20代って時間を割いてきたし、仕事がこないわけじゃないしもうちょっと頑張ろうかなあ。
愚痴めきながらも、お客さんに「このゲームのストーリー良かった」って言ってもらえるまでは粘っちゃうのかなあ。我ながら、なんとかならないものか。
年金なんか払えないよ。長生きしたらどうしよう。
あなたは、ひとに謝る「謝り方」を知っていますか?案外、素直に自分の非を認めて人に謝ることを実行する機会もなく、子どものしつけとしても他人への謝り方を教えないまま、「謝り方」を知らずに生きている人がたくさんいる今日この頃ですね。「え?謝るって、ごめんなさいって言えばいいんじゃないの?」と、思われますか?何か悪いことをして、「悪いことをしたと反省しています」という態度を示すことは、「ごめんと言った。はい、終わり」というものではないのですね。人は、謝罪の言葉があったかどうかではなく、謝罪をしたかどうかを見ているものなのです。
「どうもすみませんでした!」と言って、不機嫌そうにツンツンそっぽを向くような人の態度を見て「あの人は謝った」とは言わないのですね。口先で謝罪の言葉をイヤイヤ吐いて、何の反省もしていない態度、と言うのですね。
また、自分が悪いことをしたことを詫びているのか、それとも自分が悪いことをしたのがバレたことを悲しんで立場を取り繕っているのかも、人はちゃんと見ているのです。「あなたはこんな悪いことをしましたね」と指摘されて、派手なパフォーマンスをして泣きじゃくったり、意気消沈して見せたりして同情を買う行動に出る人は、「何を誤魔化してるのかな?反省してるの?」「後ろを向いてシメシメって舌出して笑ってるんじゃないの?」という疑問の目を向けられます。
謝っている態度をとりながら「でも、自分は悪いことはしてません」「実は自分は謝る必要はないけど、仕方がないから謝ります」という主張をする人、謝っているのか自分を被害者に仕立て上げたいのだかわからない態度をとる人を見ると、ズルイ人だなぁと思います。
そのような態度を見て「謝っている」とか「反省している」とか、人は思わないものです。謝りの言葉を発しながら、言い訳ならまだしも謝る根拠まで否定する人は、本当はまったく謝る気がないのですね。謝罪の姿を示さないと他人の評価が落ちるので、『謝罪の言葉』を言っただけ。自分の立場を守る目的のパフォーマンス。一体、誰が「この人は反省している」と思うでしょう?
悪いことをして謝罪の言葉を示して、それがキチンとできたとしても、それで終わりじゃないですね。口先で謝っただけで実は何の反省もせず、また同じことを繰り返していないか。厳しい目で人は見ているものなのです。
謝罪の態度を示して、本当に反省して、二度と同じことを繰り返さない自分を示して初めて、「確かにあの人は悪いことをしたと反省して謝った」と認識されるのです。ひとつ悪いことをすると、そこまでしないと失われた信用は回復しないのです。
http://anond.hatelabo.jp/20090125174947
俺は本来、こういう風に誰かをフォローするときに使う言葉だと思う。
でも、うちの部はそのスポーツの連盟に属してて、他チームの試合運営とかも当番であたるんだけど、
そういう時にミスをして運営が遅延したりしても、「しょうがない」っていうことはないと思う。
俺は自分とか自分のチームに多少迷惑をかかるのは気にならない。
けど、他校とか外部の人に迷惑をかけて、自分のミスを「しょうがない」で片付けるのはどうなの?、と思う。
いつも、上級生のミーティングでこのことを言うんだけど、誰も聞く耳を持ってくれない。
俺じゃなく、コーチとか監督が言ってもその場限りで次も同じ感じになる。
去年まではこんなことなかったんだけどなぁ。
内実がよくわかんないんだけど、「しょうがない」って言葉に注視しすぎだと思うんだ。
発言が全て本意だと思いこむ前に、きっちり意見を言って話し合いをした方がいい。
俺も学生の頃部活で部長をしてたからなんとなく4回生の気持ちも分かる。
ミスして意気消沈してる人が気持ちを切り替えられるように「しょうがない」って言ったこともあったし、
後輩の無茶な要求をかわすために言ったこともあった。
内心はらわたが煮えくりかえってても本音が言えない立場ってのもあるんだ。
もちろん怒ることも必要なんだけど、それだけじゃ後輩はついてこないし部活自体を辞める奴も出るだろ。
まあ少し考えてから行動に移すといいよ。
残念なことだけど、仕方ない。電気系なら、半田の匂い大好き、秋葉に行ったらまず秋月、みたいな連中が集まっててほしいと俺も思うけど、なかなかそういうふうにはいかないよ。
でも、そういう濃い連中が集まっているところというのも、世の中にはある。
まわりが手を動かしていないからって、意気消沈しちゃだめだ。誇れる仕事をしようと思ったら、自分で手を動かせないと話にならない。そして、そういう仕事をしている連中が成果を発表する場所には、本当に濃い人が集まってくる。たとえば特定の技術分野の、トップレベルの国際会議とかね。濃い人たちは、そういう場所を通じて緩いネットワークを作っている。その網は広く粗く広がっているので、見る目を持たないと見えてこない。
周囲から学べることが何も無いと思ったら、外に出て探してみよう。他の人は他の人。それぞれの人生ってことでほっとけばいい。薄く広がったネットワークの糸を一度見つけたら、新しい世界が待っているよ。
ただ、ユーザーが少なくて採算が見込めないのか、女性向の映像の作り方がわからないのか無視されています。
そのためにエッチな映像を楽しみたい女子は失敗ばかりしてしまいます・・・。
「イケメン男優が出てる」と情報をキャッチし、レンタル屋で探して借りてきたら、
出てることは出てるけど、やっぱり女優の方ばっかり映しててがっかり・・・なんて何度あったことか。
そんな風に意気消沈してるとき、ある特定のジャンルのものを借りれば、女子にも楽しめる映像がたくさん入ってることを発見したのです。
そのジャンルっていうのが・・・なんとゲイビデオ! じゃじゃーん。
ビックリしましたか? 「男同士のセックスなんて見たくない!」って感じですか。
それは私も同じです。男の人同士がエッチをしているのは見ると「おえーっ」てなります。
じゃあ、どこを見るか? もうわかりますね? それはフェラシーンです。
普通のAVってフェラシーンを見せるときに、フェラしている女優を撮りますよね。
これって女子には退屈なんです。女子がAVを見るときに必ず早送りにされるのはフェラシーンです。
でも、ゲイビデオの場合、フェラされている男の子の方を撮ります。これがかなり良いんです。
感じてる男の子が可愛い! しかも、ゲイビデオって若くて可愛い子が多いんですよ!!
アイドルみたいな可愛い子がフェラされて「気持ち良い♪」って感じてる表情がかなり可愛い。
たくさん可愛い男の子が出るビデオもあって、その子たちがフェラされてるのを見てると幸せな気分になれます。オススメです。
若干、手に入れるときに周りの視線が気になりますが・・・。これは慣れるしかないですね(笑)
なんというかおれの歪みっぷりの根底には徹底した自分嫌いがあって、じゃあ、それをどうすれば直せるのか、考えてみた。思考のドツボにハマるとどーにもこーにも危うげになってしまうものだから、なんとかしなければ、と。
でも、考えてみたら、そんなのとっくに分かっているのだった。おれにはなにもない。なにも成し遂げちゃいない。ただ、ただ無為に生きているだけ。そんな自分が嫌いなのだ。
だったらとっとと成し遂げりゃいーじゃん、って話だが、では、なにを。そして、それは、なんのために。
己を肯定するには他者が必要なのだろうか。だれかのために生きることができれなければ、おれは自分を好きになることはできないのだろうか。
まあ、自分を好きなるとかどうでもよくて、だれかのために生きてみたいなあ、ってのは常々考えていることで。
その思考の根底には、やはり自分が嫌いだから、この命、自分のためではなく他人のために使いたいっつーぐっちゃぐちゃにねじまがった思想があって。
どっちにしろおれには他人が必要なのか、と考えると、それはなんだか間違っている気がする。なにかが間違っている。
おれは。
違う。
もっと別の生き方。
思考を形成するために、なにかが足りない。パズルのピース。キーワード。
それとも、おれは恐れているのだろうか。
確かに恐れてはいる。
他者を求めても、他者に否定されたら、おれはどうやって生きればいい。
一人では生きていけない弱さが、おれは恐ろしくて、だから一人でも生きられる方法を求めて、ぐるぐると思考のドツボにハマっているのだろうか。
分からない。
いずれにせよ、答えは出さねばなるまい。その答えが、いかに残酷でも。容赦なくおれの生きる術を奪い去っても。それでもきっとおれは意気消沈しながら新しい生き方を求めて、足掻き、藻搔き、そして、いつの日か。あるいは答えなんて見つからず。死ぬときまで。おれは。ああ。
こいつは救いがたい病だ。
ブラック・ジャックでも治せやしない、不治の病。
どちくしょうめ恋愛と性欲は別物だって確信したわだって鬱のときは性欲はあったが恋愛欲求はなかったものなそれがどうだ鬱が快方に向かってからというものおれは心の弱さまで獲得してしまったちくしょうちくしょうちくしょうこんちくしょうこんなもんいらないおれに孤独を愛し孤高に生きることのできる強さを与え給えーっ!
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追記。
「社会からの承認欲求」も「恋愛欲求」も大して変わらないと思う。
社会ってのは具体的になにを指しているのか。数字か。給与明細を見れば満足するのか。そんなはずがない。金か。違うだろう。貧乏だって、そりゃあ極貧は勘弁願いたいが、ちょっと遊ぶ金さえあれば事足りるだろう。
なにかの仕事に対して、だれかに認められる、そういうのを求めているのではないのか。やり甲斐を求めているのではないか。
やり甲斐には相手が必要だ。顧客の満足を得るのがやり甲斐なら、意中のひとのために働くのもやり甲斐だ。家に帰ったら「おつかれさま」と言ってくれる女房のいる家庭ってのはひとつの理想だ。
その「やり甲斐」をだれに対して感じるか、それだけが「社会からの承認欲求を求めるタイプ」と「恋愛を求めるタイプ」の違いじゃないのかなあ。
だれかのために生きてみたい。それはだれもが共通しているのでは。いちいち社会がなんたらとか言葉遊びしなくても、感情に従えば、一人では楽しくない、だから、というふうに、すっきするのでは。
やり甲斐のあることが生き甲斐で、最大の顧客は意中のひとで、そのひとのために生きてみたい、けど、どんな答えが返ってくるか分からないから告白できなくて、だって振られたら、また生き方を模索しなくちゃいけないわけで、それはとても恐ろしくて、でも、だからといっていつまでもこの状態というのも苦しいし、どうすればいいのかわからなくて、いや、告白すりゃいーじゃんってのはわかっているけど、そのひととの関係が終わってしまうのが怖くて、んでもって、こんなことで悩んでいる自分が嫌で嫌でしょうがなくて、思考のドツボにハマって、あうあうあー。
なにを書きたいのかわからなくなってきた、だって自分でも整理できないもん、こんなところに書き込んでいる時点で非モテだと察していただきたい! 女の子と話したり遊んだりしていても、だからってモテだとは限らないんだよ! リア充とは限らないんだよ! ままならないんだよ! いっぱいいっぱいなんだよ! うわーん!
でもやっぱね。チヤホヤされたいんだわ結局自分って。
凄いなお前的なそれでもいいし
あいつ変わってるな的なそれでもいいし
若いのにそんなことするのかへぇー的なそれでもいいし
普通じゃなくて、その普通じゃないところを、皆から、チヤホヤされたいわけ。ああ、なんて凡人な発想だろう。この時点で普通すぎる人間だっつうのって話で。
でも、普通の凡人だから、普通に生きてたら、当然、チヤホヤされない。
まあ頭だけちょっといい方だったからそこ頑張ってみたけど、当たり前だけどいい高校いけばそこは頭いいやつばっかだしいい大学いきゃそこは頭いいやつばっか。結局そこじゃ普通なんだよね。まあ、バイト先とかで学校名いって「へえーすごい。頭いいんだ」とかちょっと言われるだけで、もうほんと凡人だから結構それで満足してたわけだけど。でももうそれももうすぐ言えなくなっちゃう。
じゃあどうするか。
もうほんとチヤホヤされないと嫌だ。意気消沈。生きる意味見出せない。困った人だよ本当。
だって趣味とかもチヤホヤされたくて始めたんだもん。もう典型的で悪いけど、ギターとかさ。でもギターはあまりに皆やってるから敢えてのドラムとかちょびっとかじってみたりしてさ。あんま知られてない古い小説家にハマったふりしてプチ文学人間気取ってたりさ。中二病を高校生まで、つーか今も、引き摺ってる。引き摺ってると自覚があってもやめられない。だってそれがなくなったら、ほんと、やる気っつーのか、生きる意味っていうのか、そういうのが失われてしまう。人に凄いとか褒められたりさそういうのが好きで、やってるんだよ、全部。それ自体が、その趣味自体が好きなわけじゃなくて。いやま勿論嫌いじゃないし好きっちゃ好きだけど、のめりこんでるってまででもなくて。本当は。のめりこんでるポーズしてるけど。いかにもマニアですよと言わんばかりにしてるけど。でもそれは変わってるーとかスゴーイとか言われたいからなの。別に自分が好きでたまらんからじゃないの。
こんな自分が時に嫌になるけどこれが自分なんだから仕方ないとも思ってる
もうさ、だから、凄くかっこいいんだよ。自分が好きなのを好きだからって理由で淡々と極めてそれが職にまでなる人って。それでいて人の評価はどうでもいいとか言っちゃう奴。自分から見たら凄くかっこいい。憧れるわけ。でもそんなのに憧れてる時点でダメなんだよね。この矛盾。この皮肉。
ほんっと俗い。嫌になるほど。ああ恥ずかしい。恥ずかしい本音おわり。
人生は歯医者の椅子に座っているようなものだ。さあこれからが本番だ、と思っているうちに終わってしまう。 (ビスマルク)
ネタ元:V. E. フランクル 「夜と霧」, ISBN-10: 4622039702, ISBN-13: 978-4622039709, amazonの「夜と霧」, Wikipedia 夜と霧
要旨:生きる目的を、ことあるごとに意識し、現在の悲惨な状態に耐え、抵抗できるようにする。
以下、ほぼ原文からコピペ
わたしたちが生きることからなにを期待するかではなく、むしろひたすら、生きることがわたしたちからなにを期待しているかが問題なのだ、ということを考える。
生きることの意味を問うことをやめ、わたしたち自身が問いの前に経っていることを思い知るべき。
生きるとは、生きることの問いに正しく答える義務、生きることが各人に課す課題を果たす義務、時々刻々の要請を充たす義務を引き受けることにほかならない。
この要請と存在することの意味は、人により、また瞬間ごとに変化する。したがって、生きる意味を一般論で語ることはできないし、この意味への問いに一般論で答えることもできない。
生きることとけっして漠然なことではなく、具体的な何かである。つねに具体的なにかであるので、生きることがわたしたちに向けてくる要請も、とことん具体的である。
この具体性が、ひとりひとりにたったの一度、他に類を見ない人それぞれの運命をもたらす。だれも、そしてどんな運命も比類ない。どんな状況も二度と繰り返されない。
具体的な運命が人間を苦しめるなら、人はこの苦しみと向きあい、この苦しみに満ちた運命とともに全宇宙にたった一度、そしてふたつとないあり方で存在しているのだという意識にまで到達しなければならない。だれもその人から苦しみを取り除くことはできない。苦しみを引きうけることに、ふたつとないなにかをなしとげるたった一度の可能性がある。
生きる意味とは、死もまた含む全体としての生きることの意味であって、「生きること」の意味だけに限定されない、苦しむこと死ぬことの意味にも裏づけされた、総体的なもの。
苦しむことすら課題であり、その意味深さにもはや目を閉じない。苦しむことはなにかをなしとげるということ。
気持ちが萎え、ときには涙する。だが、涙を恥じることはない。涙は、苦しむ勇気をもっていることの証だからだ。しかし、このことをわかっている人はごく少なく、号泣したことがあると折りにふれて告白するとき、人は決まってばつが悪そうなのだ。
生きることは彼らからなにかを期待している、生きていれば、未来に彼らを待っているなにかがある。
だが待っているものは、人それぞれちがうので、その人の話をよくきき、未来に彼らを待っているなにかについて、彼らにそれを気づかせる、思いださせる、思いつかせる。
ひとりひとりの人間を特徴づけ、ひとつひとつの存在に意味をあたえる一回性と唯一性は、仕事や創造、他の人やその愛など。
このひとりひとりの人間にそなわっているかけがえのなさは、意識されたとたん、人間が生きるということ、生きつづけるということにたいして担っている責任の重さを、そっくりと、まざまざと気づかせる。自分を待っている仕事や愛する人間にたいする責任を自覚した人間は、生きることから降りられない。まさに、自分が「なぜ」存在するかを知っているので、ほとんどあらゆる「どのように」にも耐えられるのだ。
人間が生きることには、つねに、どんな状況でも、意味がある。この存在することの無限の意味は苦しむことと死ぬことをもふくむのだ。状況の深刻さを直視して、なおかつ意気消沈することなく、わたしたちの戦いが楽観を許さないことは戦いの意味や尊さをいささかも貶めるものではないことをしっかりと意識して、勇気をもちつづけてほしい。
犠牲の本質は、政治的理念のための自己犠牲であれ、他者のための自己犠牲であれ、この空しい世界では、一見なにももたらさないという前提のもとになされるところにある。しかし、その犠牲についても意味があるのだ。