はてなキーワード: 悔恨とは
機械学科、電気学科といった学科で扱う従来の工学分野だけではなく、社会科学分野を含めた問題解決を扱おうという学科である。
もう何年も前の話である。
当時の私は日本の産業の変化から工学だけを学んでいて良いかという不安と工学を社会に応用していこうという学際的な志への興味を抱いておりこの学科を選択した。
しかし、
・船舶学科の流体力学など過去のカリキュラムが残っていて統一性がなかった。
・専門性を求めて転科したり、別の院に進学したりする学生がいる。
と不人気学科を再編成した新しい学科であることの影響を感じざるを得なかった。
カリキュラムが少ないため工学部では就職のための楽な学科扱いだったり、情報理工学系研究科には入れなかったり、キラキラネームだったりと工学部内で微妙な扱いだった。
進振りで希望通りに進学したものの期待と異なり、悩んだものだった。
ここまで否定的に述べてしまったが、当時から改善していると思うし、良いこともあった。
他の学科にはいないようなタイプの学友が持てたことも良いことだった。
韓国発のドキュメンタリー映画『狼をさがして』が間もなく日本で公開される。金美禮(キム・ミレ)監督の2020年の作品で、原題は『東アジア反日武装戦線』という。映画が描くのは、1974年から75年にかけての出来事――「東アジア反日武装戦線」(以後、「反日」と略す)を名乗る人びとが「連続企業爆破」を行ったこと――とその背景である。
描かれる時代は、アジア太平洋戦争で日本帝国が敗戦してから30年近く経った時期に当たる。活動を担ったのは、敗戦から3~5年経った頃に生を享けた、当時は20代半ばの若者たちだった。いわゆる「団塊の世代」に属する。その彼ら/かの女らは、敗戦以前に日本がなした植民地支配および侵略戦争の責任を問うた。同時に、戦後過程はすでに30年近い長さに及んでいるにもかかわらず、日本がその過去を清算することもないままに、改めて他民族に対する加害国と化している現実に警告を発した。手段として使ったのは爆弾だった。
その標的はまず、戦前は絶対無謬の存在として日本帝国を率い、戦後は「平和」の象徴となった昭和天皇に向けられた。だが、「お召列車」の爆破計画が実現できなくなった後は、戦前・戦後を貫いて繁栄する大企業に的を絞った。
戦後日本を象徴する言葉は、長いこと、「平和と民主主義」だった。それは新憲法を貫く精神でもあると多くの人びとが考えていた。
天皇の戦争責任が問われることも裁かれることもなく始まった戦後は、「一億総無責任体制」となった。この体制の下では、日清戦争以降、断続的にではあっても半世紀もの間(1894年→1945年)アジア太平洋地域で戦争を続けた近代日本の実像を覆い隠し、この戦争の全体像を、最後のわずか3年半の「日米戦争」に凝縮して象徴させることが可能だった。広島・長崎の「悲劇」を前面に押し出し、米軍占領下の沖縄は辺境ゆえに無視して、日本全体があたかも戦争の「被害国」であるかのようにふるまった。「反戦・平和勢力」の大勢も、そのことに疑いを持たなかった。
1960年の安保闘争の時にも、1965年の日韓条約反対闘争の時にも、戦前の日本帝国がなした対外政策と関連づけて現在を分析する言動はほとんど見当たらなかった。すなわち、日本社会は総体として、近代日本が持つ「植民地帝国」としての過去をすっぽり忘れ果てていたと言える。
1960年代後半、この社会・思想状況はゆっくりとではあっても変化し始める。日本は、高度経済成長の過程で目に見える形での貧困は消え失せ、急速に豊かになった。この経済成長の最初の基盤となったのは、1950~53年の朝鮮戦争による「特需景気」だとする捉え方が常識となりつつあった。
時代はあたかも米国のベトナム侵略戦争の渦中で、沖縄を軸に多数の米軍基地があり、インドシナ半島に輸送される米軍物資の調達地でもある日本は、再度の「特需景気」に沸いていた。近くに住むアジアの民衆が苦しんでいる戦争によって自分たちの国が総体として豊かになっていく――この際立った対照性が、とりわけ若い人びとの胸に突き刺さるようになった。
加えて、米国でのベトナム反戦運動は、黒人や先住民族(インディアン)の権利回復の動きと連動していた。植民地主義支配が人類史に残した禍根――それが世界じゅうで噴出する民族問題の原因だとする意識が、高まっていった。
「東アジア反日武装戦線」に所属した若い人びとは、それまでの歴史像と世界像が一新されゆくこのような時代のただ中にいた。彼ら/かの女らは、日本の近代史と現在が孕む問題群に、「民族・植民地問題」の観点から気づいたという意味では先駆的な人びとだった。
「重大な過ち」の根拠を探り続けた歩み
「反日」はこうして獲得した新たな認識を、すぐ実践に移そうとした。当時刊行された「反日」の冊子『腹腹時計』から鮮明に読み取れるのは、次の立場だ。「そこにある悪を撃て! 悪に加担している自らの加害性を撃て! やるかやらないか、それだけが問題だ」。政治性も展望も欠いた、自他に対する倫理的な突き付けが、行動の指針だった。「反日」が行った、1974年8月30日、東京・丸の内の三菱重工ビル爆破は、8名の死者と385名の重軽傷者を生み出す惨事となった。
「反日」にはひとを殺傷する意図はなかった。事前に電話をかけて、直ちに現場を離れるよう警告した。だがそれは間に合わなかった。しかも、なぜか「反日」は三菱爆破の結果を正当化し、死者は「無関係な一般市民」ではなく「植民地人民の血で肥え太る植民者だ」と断言した声明文を公表した。映画の前半部で、この声明文がナレーションで流れる。
多くの人びとはそこで「引く」だろう。半世紀前の当時もそうだった。それゆえに、彼ら/かの女らは、日本では「テロリスト」や「血も涙もない爆弾魔」の一言で片づけられてきた。
その責任の一端が、「反日」そのものの言動にあったことは否定し得ないだろう。だが、実はそこにどのような内面の思いが秘められていたのかということは、路傍の小石のように無視されてきた。そんな渦中にあって、獄中の彼ら/彼女らは初心を語ると同時に、自らが犯してしまった重大な過ちの根拠を探り続けた。獄外には、その試行錯誤を〈批判的に〉支え続ける多様な人びとの存在があった。映画『狼をさがして』は、これらの獄中・獄外の人びとの歩みを74分間の時間幅の中に刻みつけている。
画面には登場しない「主人公」のひとりは、「反日」狼部隊の大道寺将司である。彼は2017年5月、長らく患っていた多発性骨髄腫で獄死したが、死刑が確定してのち、彼はふとした契機で俳句に親しむようになった。生前4冊の句集にまとめられたその作品は、人間関係も自然とのふれあいも極端に狭められた3畳間ほどの独房にあっても、人間はどれほどの想像力をもって、ひとが生きる広大な世界を、時間的にも空間的にも謳うことができるものかを証していて、胸を打つ。それは、ひとを殺めたという「加害の記憶と悔悟」を謳う句において、とりわけ際立つ。
映画でも紹介される「危めたる吾が背に掛かる痛みかな」もそうだが、他にも「死者たちに如何にして詫ぶ赤とんぼ」「春雷に死者たちの声重なれり」「死は罪の償ひなるや金亀子」「ゆく秋の死者に請はれぬ許しかな」「いなびかりせんなき悔いのまた溢る」「加害せる吾花冷えのなかにあり」「秋風の立ち悔恨の溢れけり」などの秀句がある。
「反日」のメンバーの初心と、結果としての重大な過ちを冷静に振り返るこの映画を制作したのは、韓国の映画監督キム・ミレとその協力者たちである。ふとした機会に「反日」の思想と行動を知ったキム・ミレ監督がこの映画を制作したのは、「人間に対する愛情、その人間を信じること」からだったという(「『狼をさがして』――金美禮監督に訊く」、東アジア反日武装戦線に対する死刑・重刑攻撃とたたかう支援連絡会議=編『支援連ニュース』420号、2021年3月6日)。社会的正義のために、加害国=日本に搾取され殺された東アジア民衆の恨みと怒りを胸に行動した結果、数多くの人びとを死傷させてしまった、つまり自らが加害者になったという事実に向き合ってきた「反日」メンバーに対する思いを、かの女はそう語る。
だが、その裏面には、次の思いもある。彼らは「長い期間にわたって、自らのために犠牲になった人々の死に向き合って生きねばなりませんでした。苦痛だったかもしれませんが、幸いにも『加害事実』に向き合う時間を持つことができたのです。8名の死と負傷者たち。それがこの作品の制作過程の間じゅう私の背にのしかかってきました。しかし、彼らと出会うことができて本当に良かったと思います。この作品は、私に多くのことを質問するようにしてくれたからです。どう生きれば良いのか、今も考えています。」(キム・ミレ「プロダクション・ノ-ト」、『狼をさがして』劇場用パンフレット所収)。
74~75年当時の「東アジア反日武装戦線」のメンバーからすれば、韓国の人びととの共同作業は「見果てぬ夢」だった。日本の自分たちが戦後の「平和と民主主義」を謳歌している彼方で、韓国および北の共和国の人びとは、日本の植民地支配を一因とする南北分断と内戦、その後の独裁政権の下で呻吟していたからだ。
そんな時代が40年近く続いた後で、少なくとも韓国では大きな体制変革が起こった。表現と言論の自由を獲得した韓国の新世代のなかから、こんな映画をつくる人びとが現われた。キム・ミレ監督は、この映画が日韓関係の構図の中で見られたり語られたりすることを望まないと語る。過去を振り返ることをしない社会は、前へ進むことができない。日本も韓国も、どの国でも同じことだ、と(前出『支援連ニュース』および2021年3月18日付「東京新聞」)。
最後に、もうひとつ、肝心なことに触れたい。この映画を際立たせているのは、女性の存在だと思われる。
刑期を終えたふたりの女性が、生き生きとしたその素顔を見せながら、獄の外から窓辺に寄ってきた猫との交友を楽し気に回想したり、かつて自分たちの闘争に大きく欠けていたものを率直に語ったりする。前者の年老いて元気な母親は、娘が獄に囚われてから、娘と自分たちを気遣う若い友だちがたくさんできたと笑顔で語る。二人は自宅の庭を眺めながら、「アリラン」を歌ったりもする。
キム・ミレ監督らが撮影する現場に付き添う姿が随所に見える女性も、長年「反日」の救援活動を担ってきた。撮影すべき風景、会うべきひとについて、的確な助言がなされただろう。
死刑囚の獄中書簡集を読んで、あんな事件を引き起こしたひとが自分と変わらぬ、どこにでもいるふつうの青年だと知って、縁組をして義妹となったひとの語り口もごく自然だ。女たちの運動を経てきたと語るかの女の言葉を聞いていると、獄中の死刑囚である義兄とは、媚びへつらいのない、上下の関係でもない、水平的なものだったろうと想像できる。
そして、もちろん、韓国人のキム・ミレ監督も女性だ。弱い立場にある労働者の現実を描いてきたかの女は、男性の姿ばかりが目立ち、男性優位の価値観が貫いている韓国労働運動の在り方に疑問を持ち、スーパーで働く非正規の女性労働者が大量解雇に抗議してストライキでたたかう姿を『外泊』(2009年)で描いた。日本でも自主上映されたこの作品に脈打っていたフェミニズムの視線が、『狼をさがして』でも息づいていることを、観る私たちは感じ取るだろう。
先にいっとく!!!!ちょ~~~~~~~!!!クソ長くなる!!!!
私怨私怨!!!!!悔恨!!!!!5箇条にまとめようとしたら失敗した5箇条の御誓文か?????
567で見えてきた色んな人の裏表に疲れてしまった大学生乙女ゲーと地下ドルのオタクの話!!!!!!同じ大学に通う人からの身バレ防止のためここからの大学の描写はボンヤリとしたものになります。コメントでの特定はおやめください。大学は生徒の多くが望んだであろうオンラインじゃない講義ができるようにどうにかこうにかがんばってるはず!それに私が対応できなかっただけで大学は悪くない。家に引きこもるのが社会的に批判されることがない・堂々と引きこもって自分のやりたいことできる今をその時間が欲しかった人が心から楽しめますように!!!!
誤字脱字はすいません。
いままで約20年間、数学や物理、化学の類いばかり熱心に取り組んできたので私には正しい日本語が使えているのか、日本人であるのに自信が無い。
大量のレポートに追われたまま、脳直で文章を打ち込んでいる状態なのでご了承願いたい。
私は本当にどこにでもいる地方国立大学二年生だ。つい2時間前まで教師を目指していた。
もし同じような境遇にいる子がいたら私みたいにならないよう、こんな文章があったな、ぐらいの軽い感じで覚えておいてほしい。
読んでくださった皆さん、こんな考えの人間がいるんだ、へぇ笑ぐらいに思って頂いて結構です。ここまで打ち込んでおいて自分でも文章の稚拙さが”マジで”やべぇ……とおもっていますが暇な方最後まで読んで頂ければ幸いです。
①去年~今年2月の話
学部一年生だった去年は将来の夢のため、周りの友達よりは長い時間勉強していた方だと思う。
趣味だったイラストのサークルにも加入し、高校が同じだった友達が学部に一人もいないながらも他学部に進学した高校のクラスメイトと協力しながら大学に慣れていった。
サークルの友達とは週に1回は誰かの家に集まりピザを頼んだり、学食で何時間も話したり。大人数で端から見たらアホみたいなやりとりを繰り返すあの空気感が好きだった。
安心できるバイト先も決まって、サークル内の人間関係に多少の不満はあったが今思えば望んでいた大学生活そのものだったかもしれない。
私の将来の夢が教師になったのは大学受験が終わってからである。もともと物理という科目が好きで将来は数学系の研究ができればと思っていた私は理系の学部に進んだ。(身バレ防止のため明確な表記は避けさせて頂きたい)
私の大学受験のサポートをしてくださった先生は、私が進学した大学の同じ学部出身の方だった。
有名な塾があるような都会ではないので、毎日高校の授業が終わってから校内に他の生徒が誰もいなくなるような時間まで、その先生や担任の先生、大学で理科を学んでいた購買のおばちゃん……色んな人に見守られながら勉強した。
私が受験に合格し、心から喜んでくれた職員室の先生方を見て、先生達みたいな大人になりたい・この高校で同じように生徒を見守れるような先生になりたいと思った。
これが理由で、理系学部に進んだ私は自分の学科の必修科目に加え教育学部の必修科目も履修するようになる。
もちろん授業が倍になるなら試験もレポートも倍になるということで確かに大変だったが全然苦じゃなかった。
1年間やりきった。成績も上々でモチベーションは入学当時と変わらず、今まで友達と呼べる友達が2~3人だった私の人間関係がどんどん広がっていくことに喜びを感じながら春休みを迎える。このころは人と連絡を取り合うのも一緒に出かけるのも大好きだった。
2月、実習も終わって大体の友達が実家に帰った。私も電車で何時間もかけ実家へ。
実家の周りは見渡す限り山!!!!!緑!!!!!!という空間が広がっていて私はそれが大好きだ。その頃、ニュースではコロナウイルスの話題が取り上げられ始めていた。まだ大丈夫な感じはするけれど、実家のある高齢化の進んだ小さな村で広がったらとんでもないことになる…と危機感を持ち始めたのはその辺りだった。
その後の展開はある意味予想通りだった。大学は次年度のガイダンスを予定通り行うと宣言していたがすぐに中止となった。4月からの授業はいつも通り行うということだったが私はそのメールが信用できなくて、下手に実家から動くことも不安で、結局大学へは移動しなかった。やはり、授業開始は5月からという一斉メールが届いた。教科書を買いに大学へ行くこともできなくてAmazonで教科書を用意した。
友達は出身も都会のほうで、2/3月はよく連絡を取り合っていたものの、みんな地元の友達とショッピングセンターや居酒屋に遊びに行くようになったらしい。もうその頃にはみんな地元の友達と毎日のように遊んでいたらしくてラインもzoomも使わなくなっていた。
私はというと同じように地元に帰っていた同級生はいたが、もし自分たちが感染していたらという恐怖から会うことをやめた。クラスターが進学先で発生していた子は自宅から一歩も出なかったという。その頃から私は人と会うことの必要性に疑問を感じていた。元からオタク気質だったことも原因かも知れないが、友達とのSNS上でのやりとりが少なくなっても特に私に影響はない。自分がひねくれた人間であるとは自負しているがまさかここまでとは、自分でも思っていなかった。どれだけニュースで危惧されていても・どれだけの芸能人が亡くなっても、それぞれの地元で遊び続ける大学の友達が理解できなくなった。
ほとんどの大学の友達とは連絡を取らなくなっていたが片思いしていた先輩とは毎日のようにラインした。毎日ライン来る度に小躍りしてた。
4月後半、家にこもり続けた私は全く暇を感じなかった。本を読んだりお菓子を作ったり、他にも筋トレにメイク、同人誌を作れるレベルで二次創作もした。自担(地下)の過去の映像を見て1ライブできるぐらいにはダンスも練習した。(クソデカ過大評価)
むしろ今までよりも忙しくさえ感じていた。5月になれば今までのように勉強漬けの毎日が始まる。だからこの何かをしていても誰からも途中で遊びに誘われない、家に勝手にピザだのウーバーだの頼まれて友達が勝手に上がってこない・勉強しなくても公的に、なんとなく自分の感覚で自分を許すことができるこの時間を人生の夏休みとして思いっきり使おうと毎日何かしらしていた。今までのみんなでワーワーする時間も大好きだったけれど、この過ごし方も最高だった。
5月になった。オンラインでの講義が始まった。大体の講義を受ける度に一つずつレポートが増えていく。
連日徹夜は当たり前、朝8時までのレポートを7時に提出して1時間仮眠を取ると1コマ。またレポートが積まれていく。私の要領が悪いだけかも知れないと感じていたが、初日には同じクラスのほぼ全員でzoomでの会議しながらみんな半泣きでレポートをこなした。みんな同じだった。家から出るななんて言われていたがその日食べるものを買いに行くことすら厳しいレベルで課題が出るのだから家から出ることが本当に、絶対、多分無理。
オンライン講義が始まってまだ慣れなかった一週間、実家にいるのに私は一歩も自室から出ることができなかったのだから、それ+家事である帰省していない友達はもっと大変だったと思う。私はその一週間スマホを触れなかった。そんな時間があるならレポートをやったし、私の性格だともし今暇そうで遊び歩いている人を見たら理不尽にイライラしてしまいそうだったからだ。そんな自分の性格は今でも嫌いだ。人はそれぞれなのに、SNSでみえる部分はその人の日常におけるほんの一部分なのに。
そのうちテンプレートを作ったり教科書を読み込んだりすることで余裕を持てるようになってきた。教育学部の授業も生徒との関わり方など、本当に学びたかったことを学べるのが嬉しくて真面目に受けた。苦手だった英語もせっかくだから少し取り組んだ。友達と話していたりご飯に行っていた時間を全て勉強に充てた。目が回るほど忙しかったが一日を一秒も無駄にしていない感じがして、4ぬほど充実感があった。多分ランナーズハイみたいな状態になっていたと思う。この頃の私の思考、今考えると狂ってる。怖ッ
そうやって暮らしていたら、片思いしていた先輩に彼女ができた。友達から聞いた。3日泣いた。
なんでも4ぬ程忙しかったり課題が出ていたのは私の大学では理系と教育学部、医学部、薬学部だけだったらしい。文系その他は相変わらず課題なんてない、流しておけば講義が終わるから余裕なんて状態だったらしい。悔しかった。先輩は地元で飲んでいたらその子と出会ったとかなんとか、先輩と仲が良かったサークルの男子が教えてくれた。マジで無理だった。
こんな世の中なのに先輩は毎日飲みに歩いていた事実も、もうちょっとで付き合えそうだったのに私はダメでその飲みの場にいた女の子は良かったことも。先輩は付き合ったら長く続くタイプらしいのでもう諦めた。悔しがっていることを知られたり、先輩に彼女ができた事実を知っているということを悟られたりするのが嫌でしばらくインスタをログアウトした。対面授業が再開して会ったら、知らなかった!よかったね!おめでとう!と言おうと決めた。
インスタをログアウトしたので特に仲の良い2人以外とは関わらなくなった。
正直、一旦距離を取りたい人間関係もあったためなんとも思わなかったが家族以外の人と言葉を交わさなくなってから、他人に会うことに抵抗を覚え始めた。さすがにやばいと思った。
メンタルボロボロのまま毎日徹夜でレポートを書いた。エクセルで演算した。勉強しても充実感はなくて朝7時に起きて授業を受けて次の日の4時に課題を終わらせて寝る、余裕がある日は推しの夢小説を読み漁った。オタクでいられたのでガチ夢女に戻ることでメンタルが回復した。多分推しのグッズ、末代まで「捨てるな!」って書いた紙と一緒に保管。
コロナ騒ぎも日常化して、実家のある村にも日常が戻ってきた。近所のおばあちゃん達にはまだ実家にいることがバレ、実は大学をやめたのではないかという噂がすぐに広まった。これはギャグ。もう私の家では笑い話。インターネット・オンラインという言葉をおばあちゃん達に理解してもらえなかったのでもしかするとまだ大学やめたことになっているかもしれない。つらい。
リアルの人間関係からほぼ身を引いていたため、ツイッターのフォロワーと夜な夜なTLを巻き込んで会話しながらレポートを書く。それは変わらなかったし確か6月の中盤まで、私は靴を履いていない。つまり家から一歩も出なかった。5月から1ミリも変わらない暮らしをしていた。
大学からある日アンケート回答のフォームが送られてきた。匿名のフォームで、今帰省しているのか・そうならば実家は通学可能な距離にあるのかという内容であった。正直に送った。
しかし次の日の授業で衝撃を受けた。今回のレポート提出は手渡し以外認めないと教授は言った。とても口が悪いので書くこともためらわれるが、このご時世でそれって狂ってんじゃないのかと思った。事情をメールして渋々だったが郵送させて頂いた。
その後も何人もの教授が大学に行く用事を作った。全て郵送やらメールやらファイル共有やらで代わりに提出を認めてもらった。正直メールにファイルを添付すればいいものばかりだったので助かったものの、もし私が他学部で実験科目がある生徒だったら?サンプルを取りに行くために泣く泣く地元から大学へ向かった友達もいた。このまま実家で講義を受けていたら落単するのではないかと、なんとなく恐怖心を持った。
もし町から町への移動がそのように咎められるものでなくなりつつあったとしても私の地元はどうだろうか。
教授の気持ちはわかる。高校の部活で演劇部だった私は裏方としてであるけれど人対人でなければ伝わらないことがあるということを何度も学んできた。絶対こんなに課題を出すよりも対面で、お互いの表情や空気感を読み取りながら講義を受けた方が1000倍伝わる。教授達が沢山努力していることはわかっている。でも一つだけ、ちょっとだけ考慮してください。アンケートで回答したみたいに、今は大学に通学できない距離で暮らしている子もいます。Word文書は気持ちが伝わりにくいなら、手書きはどうでしょう。「今すぐ」や「今日中に」大学にプリントを取りに来るように伝えるのではなくPDFを配布してみませんか。
この頃、一通のメールが地下ドル垢のDMに届いた。7月オープン予定でコンカフェを開く予定なのでキャストとして働いてみないか・お店で働く子達で地下アイドルグループを作ろうと思っている、ということだった。声をかけてくださったのは去年地下ドルの現場でお会いしたことのある方で事務所を経営してるとかなんとか…ということは知っていた。しかし怪しいと思い事務所名や名前で鬼のように検索した。本物だった。メイド服に憧れていたのでコンカフェには興味があった。どれだけいろいろな事情を抱えていてもステージに上がれば夢を見せてくれるきらきらした地下アイドルも大好きだ。かつて片思いしていた先輩も同じ地下の子が好きだったっけ。
しかし私に沸いてきたのは不信感だった。なぜこの時期なのか、私の推しでさえライブを自粛しているのに、都会でなければ成立しない「コンカフェ・地下」をなぜ今始動させようとしているのか、意味がわからなかった。
その頃だった。コンカフェの店舗を構える予定の歌舞伎でクラスターが発生したのは。
もういつもなら暗示や占いの類いは良いものしか信じないご都合主義頭だが、こればかりは神様がやめろと言っている気がした。だから断った。
捨て垢から見に行ったが、コンカフェは無事にオープンしたらしい。地下ドルグループもできたみたいだ。某メイドカフェでも感染確認、こんな世の中なのにメイドが働いているのってどうかと思った。大人が信じられなくなった。あとグループの曲は普通に私の趣味の雰囲気じゃなかった。(←これはお気持ち表明)
ということで先輩が好きなアイドルにはなれませんでした。前に現場に一緒に行ったことがある。
いつか地下で活動してそうだな、とか、そうなったらチェキ撮りにいくねとか言われたこと多分一生覚えてるけど、アイドルにはなりませんでした。(超怖いガチ重メンヘラコーナー)
そんな感じで相変わらずレポートに追われる毎日を実家で送っています。最近は本当に仲の良い2人と連絡を取り合うくらいで、レポートにも慣れてきて二次創作を適度に楽しみながら暮らしています。
私はこれでも勉強に趣味に…ってそれなりに外に出なくても毎日充実してる。それぞれの生活もあるんだし、私みたいな生活しろなんて誰にも思わない。それでも東京で毎日感染者出てたり、私の実家に近いところでもじわじわ感染確認されていたり、5月から世の中変わってないみたいだ。友達の住んでる市は勝手にロックダウンしたらしくもう当分大学には戻れないとか。
そしたら今日、大学からメールが来た。私はちょうど課題をやっていた。
8月頭から対面での授業を再開するって、教育学部が中止と予定していた介護実習や高校での実習も開講する予定ですって。受講を希望するなら今すぐ登録を、また必要な書類は大学窓口で手渡し以外認めないって。期限は5日後。
実習も8月に開講する科目も、教育学部以外の学生が教員免許を取るには必須で1科目でも落としたらもう4年間で卒業するチャンスはほぼないかもしれない。
だから私はどうする?
教師は今後10年間で必要なくなるなんて記事もネットにはいっぱいある。
メールが来てから2時間、ずっと私はなけなしの脳みそフル稼働させて考えた。
県内で感染者も増えているのに?移動中に感染する可能性は?土日ですら授業あるのにいつ動く?
介護施設も高校も、もし大学の誰かが感染していたら?大学のある場所で感染者が増えたのは先週の後半。これが決定したのは先週の始めらしいから明日になれば対面での講義中止のメールが届くのでは?社会的にどう?教師になることを諦めたらいい?そんなに簡単に1年半の努力は捨てられる?距離を置いていた大学のみんなにいきなり会うの?
私今まで通り大学生活送れる?
もうどうでも良くなった。大学ですら信用できない気がしてしまった。
なんて、こんなことが頭によぎって考え込んでしまうし、しまいにはこんな文章を書いてしまうのでもしかすると私の本当の夢、なりたいものは教師じゃないのかも知れない。
私が弱いだけだと思う。本当になりたい!と思っている子ならこんなこと考えずに書類出しに行くだろうから。対面での講義にもどることを喜ぶはずだから。
ということで、私は先生になる夢を諦めることを決めた。
意思が弱くどうしようもない救いようがない根性ひねくれた人間なのでもしかしたら、明後日には電車に乗って実習に必要な書類を出しに行くかもしれない。8月はどこかで実習しているかもしれない。教師になることを諦めたまま Permalink | 記事への反応(1) | 02:20
今回のネタ元
「国立大学法人化は失敗だった」 有馬朗人元東大総長・文相の悔恨
https://business.nikkei.com/atcl/gen/19/00158/051900003/
この国の問題を一言で言えば、アップデート頻度の少なさだと思っている
やってみて試してみてダメなら、変更して試してを繰り返せばいいだけの話なのに
2003年の法人化を17年たった2020年にもなっていや~失敗しましたわ~とか他人事のように馬鹿みたいに語る有馬朗人元東大総長の後悔のしかたからして失敗なのだ
法人化が問題というより変更しない事が失敗の原因ですよねっていってやりたいよ
間抜けな反省と後悔の仕方をエリート中のエリートである東大総長がしている事が絶望だ
ルールを常に見張り、チェックし、考える機会を与え、変える前提でいることが大切なわけだが
この国はなぜかそれをせずに変える変えないで大騒ぎしたと思ったら
変えたとたん誰もそのことを考えなくなり、忘れ、失敗したら騙されたと大騒ぎするわけだw
いやいやいや、君たち今まで何してたの?問題なら変えればよかったじゃん
消費税がそうだけど、もう消費税10%にしちゃったからいまから変えれませんとと念仏を唱えている
はてブも騙された~とかいうくらいで盛り上がりに欠ける。あれだけ増税に反対していたはてブの連中はどこ行ったんだ?
20代後半男。
この歳になり、人の目も気にならなくなったが自分に対する自分の目がどんどん厳しくなる。
家にいても落ち込むだけなので、何かしなければと思いイオンに行くが、欲しいものもなく家族連れや若いカップルに囲まれて、鬱になって帰る。
そなまま気付けば夜になり、ネットサーフィンをして1日が終わる。こんな生活が5年ほど続いている。
そんな俺が一念発起しSNSや街コンなどにも手を出したが、一言で言ってクソつまらなかった。
ああいう場所で素直に楽しめる奴は根本的に人種が違うんだろうと思う。
仮に彼女が出来たとしても、心のモヤモヤが消える事は無いと思う。俺が抱えているのは、根本的な何かなのだ。
それが欠損なのか、悔恨なのか、焦燥なのかは分からないが、感覚としては罪悪感が一番近い。
では何に対してか?
俺は今まで何もしてこなかった過去の自分を心底恨んでいる。その代償を今の自分が払っていて、被害者意識すら感じる時が多々あった。
そんな過去の自分を否定し続けた結果、俺は防衛機能として新しい自分を作りその人格に成りすましていた。だが、その新しい自分になればなるほど元の自分に対する罪悪感が強くなった。
始点が上書きされ、積み重ねた物が無く、繋がりを軽視し、切り捨ててきた自分。
俺は、瞬間しか生きていない。
当たり前のことを何をつらつらと書いているんだとツッコミを受けそうですが(笑)、
自分自身が自社や他社を見て感じたことを備忘録的に書いてみます。
中には理想論のように見えること、時にはそうせざるをえないこと、
ベンチャーだからこそ許されてしかるべきこと等もあるかもしれませんが、
組織の中にずっといるとその異常性に気付かないようなことや、
モヤモヤしつつも誰も異を唱えられなくなっていたりするようなことを、
改めて見つめ直してもらえたら幸いです。(もしくは、あるあるネタ的に捉えてください笑)
また、ベンチャー企業において、起業黎明期、拡大成長期、転換過渡期等のあらゆるフェーズを、
社員、中間管理職、役員、子会社社長等の様々な立場で見てきて感じたこと、
そして自分自身、下記のうちで実際に出来ていたことは決して多くないので、
その自責の念や悔恨の思いで書いたというのも正直なところでございます。
-----------------------------------------------------------------------------------------
→常にビジョンをぶらさず、口頭や文面等で全体に伝え続けるべき
→常に社内をしっかり見て、コミュニケーションにも時間を割くべき
→コスト部門という考え方を捨て、部毎の評価基準も別途作るべき
→重要な決断の際にはきちんと情報を収集し、しっかりと検討を行うべき
⑤派手な私生活、素行の悪さ、ワークライフバランスの崩れ等を見せてしまう
→私生活でも模範となり、そのライフスタイルも憧れられるようにすべき
→そういう時こそ早さとクオリティで手本にされるような対応を行うべき
⑦組織体制がころころ変わり、目標や計画の意味があまりなくなる
→組織としての在り方や評価基準を設け、目標や計画を意識させるべき
→任せる範囲をある程度絞り、個人の専門性も高められるようにすべき
⑨案件を選ばず、すぐにお金になりそうな案件や大型の案件に飛びつく
→短期的な売上に捉われるのではなく、しっかりと案件を選ぶ眼を持つべき
⑪採用に時間やお金をかけない、特にリファレルの場合は極端に人物評価が甘い
→少数精鋭だからこそ組織とのマッチングを重視して慎重に採用すべき
⑫社員に対して中途半端に隠し事をする、重要な情報の共有が遅れる
→できるだけオープンにし、小さなことでも即時共有できる仕組みを作るべき
⑬新規事業の結果が出るまでに待てずに、すぐに打ち切ってしまう
→やると決めた事業には、とことん人と時間を投資いて育てる覚悟を持つべき
→意思決定プロセスにも社員を巻き込み、腹落ち感や当事者意識を重要視すべき
⑮社員に対して心無い発言をしたり、無理やり経営者と同じ視点を求める
→社員の立場になって考えたり、社員に感謝やリスペクトの気持ちを持つべき
⑯働く場所や時間を無駄に縛ったり、細かいルールを作ってしまう
→成果を大事にし、性善説や個人の自主性を重んじたルール作りをすべき
→個人の抱えているタスク量を把握し、全体のバランスを考えて振るべき
⑱プロジェクト単位でのフィードバックをせず、反省を次に活かせない
→改善のための振り返り等を頻繁に行い、個々が成長できる仕組みを作るべき
→情報共有のためだけの会議はせず、人数も必要最低限に絞るべき
⑳クライアントやパートナーよりも自社の利益を一番に考えてしまう
→外に対しても嘘をつかず誠実に、長期的かつ良好な関係作りに努めるべき
-----------------------------------------------------------------------------------------
もちろん経営は綺麗ごとばかりでは成り立たないですし、
先日30歳を超えた
一流国立大を出たが生来のメンタルの貧弱さで最初に入った会社からドロップアウト
最後に勉強したのは去年、簿記の2級を取って就活に臨み、短期間で合格したことは評価されたのだが帳簿を見ることすらない仕事に配属された
その知識も使わないのでどんどん抜けていく
文章をまともに推敲する気も起きず、Twitterもはてブも字数制限をこえたら削るのもめんどくさくなって書くのを辞める
クイズ番組を見てても、昔は読めたはずの漢字の読みが出てこない
ちょっと込み入った新聞記事・ブログ・論文など理解が出来ず流し読みしてブコメを覗きなんとなくスターをつけるだけ
知的好奇心も芸術への興味もなくなり、休日は昼まで寝てソファーでスマホを眺めているうちに終わる
起きたらホッテントリでビビるってこんな気持ちなのか…ビビりすぎて数時間見て見ぬ振りをしてました。
ブクマがついたことなんかなかったので、誰も気にしないものと思って書き殴ってしまい、あと夜中に布団からだったもので至らぬ文章なのにこんなに反応いただきありがとうございます。
一流国立大ってのは「こんな人生のつもりじゃなかったのにな…」っていう悔恨というか、頭がしゃっきりしてた頃を回顧してたというか、そんなような心境で出た言葉です。明るい中で読むと恥ずかしい。
ブコメ見て、同じような感覚を持っている人が沢山いるとわかり、別に特別なことではないんだと少し安心しました。昔の友人が皆バリバリやっているように見える中、一人取り残されてる気分でつらかったので。
コメントを読ませていただきつつ色々ググると、有酸素運動がいいぞとのことなのでとりあえず盆が明けたら会社帰りに一駅歩くようにしようと思います。
あと何か勉強したいなとはずっと思いつつ何も思い浮かばなかったのだけど、大学の頃やってたことを改めて学ぶってのはいいなと思いました。流石にある程度は残ってるだろうし、新しいことを始めるよりはエネルギー使わなさそうだし。おさらいから始めてみようかなあ。
心療内科は昔、上で書いたドロップアウトの頃にかかってて信頼できる先生を知ってるので危ういなと思ったら行くつもりです。どん底の鬱を経験してるので、まだ大丈夫かな…と思ってしまうのがいいのか悪いのか。
まだ動揺がおさまらずわけのわからない文章になってると思いますが、あと夜と文体が違いすぎて自分でも苦笑してますが、取り急ぎお礼まで。
作品を面白いと思う理由の一つに、過去の記憶が想起させられるからというのは大いにある。
人間の寿命の半分程は生きてしまった自分には悔恨と未練、追憶以外に価値あるものが残されていない。
だから、そんな苦しみと若さに満ちた学生時代を思い出せる作品を見ていると不思議と安堵する。
自分もそうだった、逃げ出したくて堪らなかった。選択出来るもの、選択出来ないもの、離れていく友人、無理解な大人達。一歩退いてみればあの頃の自分もよく頑張っていた部類。しかし、なかなかそれを認めてやる事が出来ない。でも偶には、若者を責める事ばかりせずに彼らが紡ぎ出す音色に耳を傾けてみたいものだ。
大学を出るときに就活で失敗して、そこから10年ほど酒とかリスカに費やした
リスカあるあるなのかもしれないけど、夏場は露出するからしないんだよな
血が止まらなくて焦ったり、傷跡が目立たないように湿潤治療を施したりした
自分で切っておいて
それから色々あって実家に戻って病院を変えたらカウンセリングを薦められて
二年間のカウンセリングで見えてきたのは、自分が母親の何気ない言葉に傷ついてきたことだった
母親にも何か精神疾患の可能性があると言われ、当時は否定したけど今では何かあるんだろうなって思う
母親の抱える出どころ不詳の不安が自分に濃縮されて連鎖してる気がする
濃い不安を抱えてきたせいでずっと何かに酔ってたような気がする
何が言いたいんだろう
自らが憐れで仕方ない
両親はこれが普通だという
だったら自分が手首を切ってきたのも働こうとしないのも結婚したくないのも普通じゃないのか
10年を失った
それに対して悔しいような惨めなような感じがする
とりあえず10年
20代後半男。
この歳になり、人の目も気にならなくなったが自分に対する自分の目がどんどん厳しくなる。
家にいても落ち込むだけなので、何かしなければと思いイオンに行くが、欲しいものもなく家族連れや若いカップルに囲まれて、鬱になって帰る。
そなまま気付けば夜になり、ネットサーフィンをして1日が終わる。こんな生活が5年ほど続いている。
そんな俺が一念発起しSNSや街コンなどにも手を出したが、一言で言ってクソつまらなかった。
ああいう場所で素直に楽しめる奴は根本的に人種が違うんだろうと思う。
仮に彼女が出来たとしても、心のモヤモヤが消える事は無いと思う。俺が抱えているのは、根本的な何かなのだ。
それが欠損なのか、悔恨なのか、焦燥なのかは分からないが、感覚としては罪悪感が一番近い。
では何に対してか?
俺は今まで何もしてこなかった過去の自分を心底恨んでいる。その代償を今の自分が払っていて、被害者意識すら感じる時が多々あった。
そんな過去の自分を否定し続けた結果、俺は防衛機能として新しい自分を作りその人格に成りすましていた。だが、その新しい自分になればなるほど元の自分に対する罪悪感が強くなった。
始点が上書きされ、積み重ねた物が無く、繋がりを軽視し、切り捨ててきた自分。
俺は、瞬間しか生きていない。