はてなキーワード: 役者とは
マンハッタン計画で原爆製造に関わった研究者を描く「オッペンハイマー」とバービー人形の実写ハリウッド映画である「バービー」が同日公開されることとなり、
これを知った人々により、オッペンハイマーやバービーを演じた役者をコラボさせた「Barbenheimer」というミームが生まれた(本記事でネタバレはありません)。
原爆のキノコ雲を背景にバービーが笑顔で写るミームや、ピンク色のキノコ雲のミームが投稿されて話題になると米国のバービー映画公式Xアカウントが反応した。
この動きは瞬く間に日本人の視界に入ることとなり、Xでは「広島や長崎の原爆投下に対する配慮がない」「ミームに対して公式が触れること自体不適切」
「9.11のミームを作って何を思うか問いたい」など批判が巻き起こる事態となった。騒ぎからまもなく、バービーの日本公式Xアカウントは謝罪した上で、
どのミームも明らかに、全く異なるジャンルの映画が同日公開されることを揶揄した内容だった。そこに「広島」や「長崎」というキーワードはなかったし、
原爆によって失われた命を揶揄する表現もなかった。(「原爆のキノコ雲を背景に半分骨になったバービーが笑顔で佇んでいる」というような画像があったとしたら、
それは初めて原爆投下によって被害を受けた人たちを揶揄するミームと認識して差し支えなかっただろう)
それにも関わらず、過剰な批判をしているXアカウントには違和感があった。特に「9.11のミームを作って何を思うか問いたい」といった批判は、Barbenheimerよりも明らかに攻撃的なミームを作ろうとする姿勢だった。
米国のインターネット、Redditや4chといった掲示板から生まれるネットミームは、そもそも高尚な文化ではない。「フェアユース」を拡大解釈して自由気ままに著作権コンテンツを面白おかしく改変して投稿する文化だ。
著作権や肖像権どころか、人権の配慮がそもそも存在していない。面白い事象、キーワード、画像であれば、ルールは存在しない。面白ければすべてよしだ。まともな人間ならミームに触れることすら避けたほうがよいレベルだ。
(日本でたとえると「淫夢語録」やそれから派生したコンテンツ全般が該当するだろう)
にも関わらず、「広島や長崎への配慮が足りていないミームを作る米国人の原爆に対する知識はこんなもんか」といった批判や「歴史的過去から振り返ると不適当だ」という批判が繰り返された。
これらはナンセンスだ。ネットミームはそういうものなのであり、誰にも伝わらない批判だ。「ナンセンス?いや、そんなネットミームをやるなよ」と感じるのも自然ではある。
だが、米国インターネットにおける一つの文化だから、Xにいる少数の日本人がそう考えたとしても消え失せることはないのだ。
一連のミームを見て批判した人たちが感じた苦しみや悲しみは本物だったかもしれない。だが、もう少し、ネットミームの作成者が何をどこまで考えて作っているのか、
考えを馳せてみてもよかったのではないだろうか。またすでにバービーの公式アカウントが謝罪しているし、これ以上拳を振り上げ続けることは、誰のためにもならないだろう。
そして今回のケースでは、戦争を善悪二元論に基づいて批判を展開していたケースが多いのも印象的だった。原爆投下被害を受けた日本が、米国側の民間人大量殺戮を批判する「善」であり、
原爆投下した米国を「悪」を前提としてミームを批判しているように感じられた。視点を変えれば、日本軍の侵略行為を止められた原爆は「善」であり、民間人の犠牲も厭わず防衛戦争を繰り返した
日本軍を「悪」という視点をもとに賛同したり批判したりすることもできるだろう。またこの単純な善悪二元論に基づけば、奇襲攻撃をかけた真珠湾の戦いは明らかに日本側が「悪」であり、
米国側は奇襲攻撃を批判する「善」に当たる。中国や韓国など東南アジア諸国で日本軍が起こしたことは大局的には「善」だったのかもしれないが、被害を受けた人、家族を失った人から見れば「悪」である。
では、沖縄本土での総力戦は誰にとっての「善」で、誰にとっての「悪」だったのか? 枚挙にいとまがないが、そもそも戦争において起きた事象をこうした単純な善悪二元論で評価し、
それに基づいた姿勢で批判するのは問題だと感じた。「勝てば官軍負ければ賊軍」の精神そのものだ。敗戦を経て学んだのは、極端な善悪二元論が罪もない人々や、日本軍兵士の犠牲を増やしたことではなかったのか。
ミームを賛同したり批判したりする人たちは、原爆製造に関わったドイツ人のオッペンハイマーを「善」あるいは「悪」のどちらで見るのだろうか。
太平洋戦争を起こした日本という当事国に住んでいるのにも関わらず戦争の歴史を「善」と「悪」でしか見られない人が増えたのだなと残念に思った。
その結果、ある男性が無言欠席。お店を出る段階で気付いて、料理も19人分食べてしまっていたので、1人分多く支払うことになった。これは役職者が多めに出してくれて解決。
ただ集金をしていた20後半の女性に役者者が「(無言欠席男性)さんは恥ずかしがり屋なんだから(女性)さんがもっと誘ってあげなきゃ」みたいなことを言っていたのがすごい気持ち悪かった。
30代後半の男が無言欠席でだけでも情けないのに、それを比較的若い女性の責任にしてる役職者も情けなかった。
ちなみにこの飲み会は強制ではなく、自分で参加可否を事前アンケートに答えるスタイルで、予め欠席の人も5人くらいいたと思う。
男女平等みたいな研修を散々やってるくせに結局役職者世代は男は女にちやほやされるべきって考えが抜けてないってのがよく分かった。
百合とかBLとかセクマイとかの「クィア」を客寄せ要素として使ってるけど扱いが不誠実、みたいなのをクィアベンディングと呼んで差別だと指摘する意見がある。
カタカナ語であることからもわかるように英語圏で流行り、最近は日本でもセクマイを扱ったエンタメや芸能人が批判される際に、意識の高い人たちを中心に使われだしている。
百合営業とか腐営業やってるくせに浅いし適当だし失礼なんだよ、みたいなことは昔から日本でも言われてきたが、クィアベンディングという用語を使った場合、倫理面での強い批判というニュアンスになり、批判された側は申し開きが難しくなると思う。
私は百合やBLを楽しんできたオタクであり、同じジャンルのオタク友達の中には、クィアベンディングなどを指摘する人も結構いる。
クィアベンディングにある程度の問題があるということは否定しない。
だが、私は、クィアベンディングであることを理由に何かを責めるつもりにはなならない。私は、客寄せのクィアを散々楽しんできたし今後もそうするだろうからだ。
そして私が認識している友人たち(レズビアン、ゲイ、バイ、トランス含む)や、世間のほとんどの人もそうだ。
(おそらく異性愛者であろう)アイドル同士がMVでほっぺにキスをしあうところや、キャラクターが不意のボディタッチであわあわするシーンや、役者が作品中ではなくオフショットで共演者にあすなろ抱きや壁ドンしている写真や、Twitterのフォロイーや私たち自身が同性友達とお出かけすることをデートと呼称することを、ニコニコしながら……時にはキャーキャーウォーウォー言いながら私たちは楽しんできた。
それらの半分以上はクィアベンディングと呼ばれてもおかしくなかったと思う。でもそれらは燃えなかったからわだかまりなく楽しんでいます、だけど何かのきっかけで燃えた物に対しては、急に真っ当な顔をしてクィアベンディングで差別的だと全力で怒ります、という気持ちにはならない。
ダブルスタンダードとかブーメランとかの指摘が力を持ちすぎる風潮は歓迎していない。人間は考えを変えたり矛盾したりしてしまう生き物だと思うので。
でもそれにしたって、タチの悪いダブスタをやりつつ倫理的に正しい側に立った態度をするのはよくないだろう。
クィアベンディング的な売り方はよくないと学びました、私も悔い改めて今後それらを楽しむことはしません、ということならばわかる。
だが、先月クィアベンディングで怒ってたのに、翌週には2.5次元俳優の楽屋での距離の近さにときめいてて、来月出る百合萌えゲームも楽しみだけど、今日はまたクィアベンディングに怒りますというのは、よくないよ。
自分自身がセクシャルマイノリティであろうとなかろうとね。
エンターテイメントや芸能業やスポーツ含めた興行というのは多かれ少なかれ外道の商いで、売り手も買い手も、私たちはみんなその悪を背負っている。
それでも、悪すぎるものは程度問題として批判され改善された方がいいと思うが、その時話題になっているモノの悪さの程度はどれだけなのかというのをちゃんと考えた方がいい。話題性だけに引っ張られて怒り、クィアベンディングという使い勝手が良くて非難として強い言葉を使い、自分の普段の行いを棚に上げて善人面していないか。
一般論として読んでほしいから具体名を出すか迷ったけどボカすのも不自然かと思うので名言すると、このエントリを書くきっかけは水星の魔女の話題である。
百合やBLを尊いとか萌えとか言って楽しんできたし今後も楽しむであろうベンディングエンタメ大好き人間が、水星の魔女を批判する際にクィアベンディングという用語を使うのはスジが通らないと思う。
まず前提として、水星の魔女の作中・作外においての結婚の表現の避け方が、余韻を生む効果より、不自然で違和感を生むマイナスになっているとする。この前提に同意せず「作品の質を上げるためには結婚表現の回避が必要だった」という立場もあるかもしれないので。
あの不自然な結婚表現の回避が、誰かの思想によるのであれば(百合を売りにした作品じゃなかったとしても)同性婚冷遇的すぎてよくないし、海外展開の妨げになるからと勘繰られているのが本当にそういうなら商業主義のせいで作品に不自然さという瑕疵を作っていてよくないし、だいたい婚約指輪を描くのはいいし花嫁花婿と言うのもいいけど結婚と言うのはダメみたいなピンポイントの言葉だけ隠せば問題ないという基準は馬鹿らしい、などの批判なら、大いに頷ける。
数年来の付き合いの友人。
最近どんな本読んでるの?と聞かれて
「その作家つまんなくて1冊読みきれなかった」
と笑いながら言われる。
お互い芝居好きで劇場にもよく通っているので
最近どんなの見た?と聞かれて答えると
「あの役者、SNSでよく炎上してるよね。性格悪いなと思って見てたw」
と笑いながら言われる。
「イベントに行ったけどつまんなくて途中で帰った」
「人付き合いである人のライブに行ったけど歌下手すぎて途中で帰った」
何を言っても否定。自分がしたことでも否定。嫌われてるのかな? と思ったけどそういうわけでもないらしい。しょっちゅう遊びに誘われるから。
でもそういう話をしている時、楽しそうなんだけどすごく口が歪んでるんだよね……口元がへの字で、顎も突き出ていて。
このまま一緒にいたら自分もそうなってしまいそうだから、ちょっとずつフェードアウトしていくことにした。
遊びに誘われても断るようにしていたら、最近やっと気づいたのか、
とLINEがきた。
○日は予定があるのでNGというと、じゃあこの日は? この日は? 平日でも会社早退できるでしょって。なんであなたが勝手に取ったチケットで私の予定を決めるのよ。
正直もう一緒に遊んでいても否定否定で楽しくない。明るく、前向きな会話ができる友人たちともっと同じ時を過ごしたいって言ったら、キレた。
ずっと自然体で、正直な気持ちをありのままに述べてきただけなのに、今更そんなこと言うのはひどいって。
これまでずっとそうやって生きてきたから、友達も離れていくって泣いてる顔のスタンプと一緒に送られてきた。
そういうところがみんな嫌だったんじゃないのって言ったら、いたくプライドが傷ついたらしく、返信は来なくなった。でもブロックはされていなかったので、こっちからブロックした。
仕事はぼちぼち。
年金もらえるまでは頑張って働いて、お互い楽しい老後を過ごしたいねって言ってたけど、もう無理。
同世代で似た境遇の友人たちはみんな明るく楽しく、たまに愚痴りもするけどいい酒を美味しく飲めてる。
自然体で正直な気持ちをありのまま話したら否定と悪口といちゃもんしか出てこない同世代なんて、この人一人しかいない。私の周りでは。
自宅も住所も知られていないし。
もっと早くこうすればよかった。
AmazonPrimeVideoオリジナルコンテンツであるイギリスのドラマ、グッドオーメンズ(以下GO)
日本でも人気があったシーズン1だったがこの度シーズン2が配信された
個人的にとんでもない駄作だったのだが誰とも共有できないのでここに盛大に吐き出しに来た。お察しの通り駄文です。
GOとはざっくりと言えば、神の計画によるハルマゲドンを阻止するべく右往左往する天使と悪魔。そしてそれぞれの理由により巻き込まれていく人間たちと、天国地獄両陣営の戦いの行方、というような骨太のストーリーの元繰り広げられる群像劇だったと思っている。
主役と言われればキービジュアルにもなっている天使アジラフェルと悪魔クロウリーなのは間違いなく、私自身その二人が好きで見ていた面もあったが、その周りのキャラクターたちのドラマも間違いなく作品の面白さを作るものだった。
そしてそれらがハルマゲドンという目的の元集まった末のてん末にカタルシスを感じられるというオカルト的魅力も含んだしっかりとした「作品」だった。
ところが今作ですよ。
とにかくアジクロ(カップリング的深い意味は無い略称で使う)がイチャイチャしているだけ。
いかにも重大な事件が始まるのかと思わせていた記憶喪失のガブリエルは、物語終盤までほぼ本屋から動かず変なキャラを振りまくだけ。
物語のキーになるのかと思った人間のレズカップル(未満)二人は特に何もしないままこれまた終盤にちょっと活躍するだけ。
ガブリエルを追ってる天国も特に何か事件が起きてたわけでもなく、クビにした幹部が処分前に消えたから探してるだけ。
ガブリエル記憶喪失のネタバレもなんの事もないベルゼブブと駆け落ちしたくて自分で記憶移しただけ。
中身どこ?
とにかく誰がなんのために動いていて、どこに向かっているのか、何を目的としているのかが弱い!弱すぎる!
もともとそういう作風ならいいよ、天使と悪魔のイチャイチャ日常ものでーすならそれでも良かったんだよ。
今作で真っ先に思い浮かんだのが、ヤマなし・オチなし・意味なし、という古の呪文だった。これぞやおい…
公式が人気カプイチャイチャさせて中身はやおいで腐女子ファン大喜びってもうファンディスクでしかねーのよ…
奇跡を封じられた手品ショーでクロウリーがアジラフェルに向って銃構えてやけに深刻な空気が流れてた時は「今何を見せられてるんだ…?」という気分になったよ。
ちらりと腐女子の話をしたけど、ここからが本当の深淵だ。(私の)
GOはそもそもブロマンスモノとして人気あった作品だ。それはわかる。
公式からも「これは天使と悪魔のラブストーリー」とまで言われている。
でもそれは作品外での話だ。
作中での彼らは、地球の暮らしを気に入り過ぎたが故、神の計画を阻止しようという、ある種の反逆者同士で協力者であり、敵陣営同士でもありつつお互いが唯一の仲間という特別な間柄ではあった。そしてそれは「友情」として描かれていた。
元々海外発の言葉のため、専門家でもない私が定義などしっかり理解しているとは思っていないが、
ロマンスと思えるほど深い男の友情を描くものだと思っている。あくまで友情。
激重感情は大好物だけど、それが恋愛感情にされてしまうとスンッ…としてしまうのは私の癖によるところ。何でもかんでも恋愛にすんじゃねーよという、バトル漫画の恋愛描写や映画化で足される恋愛要素に激しく嫌悪感を覚えるめんどくせー女。男女問いません。トリックは今でも残念です。
ここまで書けばおわかりかと思いますが、今作はっきりとクロウリーの「恋愛感情」表に出して来たんですよね。
そうじゃねえ…そうじゃねえだろ〜
クロウリーがS1のときからアジラフェル大好きなのは知ってるけどさ、パシリのように使われたりスパダリのごとく助けを出したり悪ぶってるくらいじゃ隠せない愛情はもうずっと描かれてはいたけどさ。
それ恋愛じゃないと駄目ですか?友情って言ってたから友情で良くないですか?!
あとアジクロの二人はですね、なんだかんだ言って天使と悪魔っていうところが良かったんですよ。
いくら地球が好きで人間に情を持っていたとしても隣人では無い。
人間は最終的には奇跡でなんとでもできる下位的存在であり対等な存在ではない、意図的にそうしない限り眼中にない。そんな人外っぷりが良かったんですよね。
(だからS1で二人の相手は天使か悪魔かアダムだけであって、そのアダムが天使でも悪魔でもなく人間らしく育って普通の犬と一緒に普通の人間の少年らしくその後を送るだろうラストはとても良いものでしたね)
それが今作ラスト、クロウリーが人間の女二人に言いくるめられるってどんなよ。お前表向き一番人間軽く扱ってたじゃん(内面は一番まともに扱ってたけど)
ここまで書いて気づいたけど、アジラフェルは結構平常運転のペルソナ的天使だったな…
なんならもうキスが決定的でしたね。あれさえなければ外国語特有の言い回しだの翻訳の都合だのと自分に言い訳出来たんだけどね。
はー激萎え
そもそもやっぱりGOって腐女子ファン多いんですよ。流石に全部とは言わない(言いたくない)けど。
公式SNSでもBL系のファンアートや女性のコスプレ写真とかリツイートしてるくらいだし、PixivもBLとしてイチャイチャしてるやつばっかりだし(そんな中友情レベルのイチャイチャだけを探してお気に入りする作業に明け暮れていた頃もありました)
とにかく公式がファンとのふれあいに貪欲な印象があって、フォローしてるとどんどんTLがBL色に染まっていきそうになってフォロー外したんだけど。
少なくともS1作ってた頃の作者及び公式はそこまでじゃなかったと思うんですよね、S1という結果が物語ってるけど。
それがほぼ腐女子なファン達と交流した事により、そういった物が求められていると思った結果があのS2なのだとしたら、これも立派な公式逆輸入だよなと思ったり。
マイノリティのつらみか。
S1のサブは本当にみんな魅力的だった。
天国側も地獄側も人間も。キャラ立ちという点でもそうだが、ビジュアルとしても秀逸で世界観を作ることに貢献していた。
S2ではそもそもビジュアルで惹かれるキャラが皆無だった。前作引き続きのキャラは劣化してるし、新登場のキャラは何の印象もない見た目だった。あ、ムリエルは良かった。
特に地獄側、なんかボロくて緑っぽくしとけばいいだろとばかりに普通のボロイ人間。S1の頃からいるうさ耳雑魚悪魔のデザインが一番輝いて見えた。
だいたい地獄の幹部たちはだいたい頭に何か生き物載せてる設定はどこいったん?
ベルゼブブさんの役者…顔が変わってしまったのはまあ大人の都合で色々仕方ない事もあるやろと納得はできるけど、塩顔でシニカルな中性的可愛さだったブブさんがウェットな女性的可愛さになってしまったのは本当に残念です。
あとはもう箇条書きで
英語はよくわからんけど、日本語で今作タグ検索するともう絶賛の嵐なんですよね…
断末魔をあげている腐女子らしき書き込みとラストに心神喪失してる腐女子らしき書き込みと尊さに昇天してる腐女子らしき書き込みと…
なあ本当に良かった?
ドラマとして見れた?
結局イチャイチャしてればそれでいいのか?
S1好きだけどS2はクソだからオススメしないっていう貴重なツイートに思わず人生初いいねつけちゃったよ。
ケンカ別れとかどうでもいい程に本編がスカスカだったので、もうS3に期待することは無いんだけど
万が一に作者が思い直してしっかりとしたストーリーを作った作品をお出ししてきてくれる「奇跡」を願ってはいるよ…
頼むよ天使様…
もうあんまり色んな作品追わなくなって、久しぶりに楽しみにしてたシリーズだったからすげえがっかりした&久々の解釈違いパンチ食らって吐きそうだったので吐かせていただいた。
ジェンダー論が好きなはてなーは興味あるんじゃないかと思ったため紹介する。
8月11日に日本で公開される映画『バービー』が、アメリカの一部男性の中で波紋を呼んでいる。
(核心を突くネタバレはないけど色々言及あるので、まっさらな気持ちで視聴したい人はブラウザバックしてください。)
バービーランド― そこはすべてが完璧で、毎日がハッピーな〈夢〉のような世界!
ピンクに彩られた世界で暮らす住人は皆が“バービー”であり皆が“ケン”と呼ばれている。そこでバービーと恋人のケンが連日繰り広げるのはパーティー、ドライブ、サーフィン、デート!
そんな完璧な毎日が続くバービーランドからある日ふたりは、完璧とは程遠い“人間の世界”(リアルワールド)に迷い込んでしまう……。
この映画は概ね好評だ。
同時期に公開された『オッペンハイマー』の売り上げを上回っており、それなりにバズっていると思われる。
https://www.tiktok.com/@its.julien.brown/video/7255724744698268954
しかし、映画を視聴した一部の男性が的外れな批判をしており、物議を醸している。
代表的なのがアメリカ人のコメンテーター(39歳男性)で、『バービー』の批評動画でなんとバービー人形を燃やした。
炎上商法を利用しているとはいえ、子供のおもちゃであるバービーをわざわざ購入してドロドロになるまで燃やしたのだ。
https://www.youtube.com/watch?v=kC4aFx2xiTM
私も映画は未視聴のため想像に過ぎないが、保守的な男性の反感を買っている理由として、
バービーランドはジェンダーバイアスから解放された女性が自立して生活できる理想郷のため、「必ずしも男性は必要ない」もしくは「家父長制は不要」といったニュアンスを含む描写があることが原因だと思われる。
TikTokでもいろんな感想が飛び交っており、保守的な男性の意見に反論する投稿が多い。
映画を通じて、思っていたより男性は「女性への抑圧」に対してかなり無関心・無自覚なことが分かった。
また、バービーランドと現実世界の違いを「男性嫌悪」でまとめる浅はかさに頭を抱えている。
その上、女性に「必ずしも男性は必要ない」と思われると自分の存在価値がゼロに感じてしまうような歪んだ価値観を普段から持っているらしく、価値観を改めないとこの映画を楽しめないことにそもそも気づいていない。
保守的な男性の意見に反論するにあたって、「ジェンダーバイアス」がよく取り上げられる。
女性を古いジェンダーバイアスから解放させると自分の価値がゼロになって困ることを、当事者たちは言語化できていない(もしくはあえて言わない)のだ。
一方で、映画からジェンダーバイアスを取り除くための指標の一つとしてベクデルテストというものがある。以下の項目に当てはまるかチェックするだけだ。
1.少なくとも2名、女性が出てくる。
2.互いに会話をする。
映画業界の男女比率や作品内容にも左右されるので、ベクデルテストが絶対!というわけではないが、4割の映画は「女性は男性の添え物」的な表現がある可能性が高いということだ。
すなわち、女性はフィクションの作品の中ですら抑圧されやすい性なのだ。
一部男性が発狂している中、とある女性が19歳の息子に「ケンについてどう思った?」と聞いたところ「これまでの映画の女性の役割(女性=添え物)を表しているように感じた」と返したそう。
これまでの世代を直すことは難しいけど、これからの世代が『バービー』を理解できたら、きっと未来は明るい。そう思った。
白人も黒人もアジア人も、細い人も太い人も、トランス女性も、みんなみんなバービー!
現実でもそれが当たり前になることを願っている人が、この映画を支持しているのであろう。
まともな男性の割合は数十年前と比べたら増えていそうだが、まだまだだなと思う今日この頃。
面白いかどうか、好きかどうかはさておき、『バービー』が視聴者に伝えたいことを理解できる男性が日本に沢山いることを願う。
話は逸れるが、主役のバービーを演じている役者のすっぴん画像を投稿し「彼女は10点満点中5点だ」と外見を評価したツイートが炎上した。
https://www.insider.com/tiktok-leads-backlash-to-men-calling-margot-robbie-looks-mid-2023-7
このように女性の外見だけを見て点数をつける男性がいるのは世界共通であり、彼らは insecure men (自分に自信がない男性陣)と呼ばれている。
会話の際に、相手の言葉を先回りして話す事を非難する記事を連続して目にしたが、私はあれを一方的に悪いふるまいとは感じない。
私が高校で演劇部に入っていた頃、部員たちのダベりが舞台についての話題になることが何度かあった。
その時はたいてい、部の中でも特に活躍していた先輩二人――主に役者でたまに脚本&演出もする男の先輩と、主に演出でたまに役者もする女の先輩が演劇論をぶつけあっていた。
その二人は口も早く、「だからああいう時の芝居の流れって、えーと――」などと相手が少し言葉を探すと、「○○?」と先回りして言い、それに言われた方は「そうそう○○。○○がお約束だから、それを雑に裏切るだけじゃ観客についてきてもらえなくて」とスムーズに話を再会できていた。話に先回りし言葉を奪っているが、むしろ意見をぶつけ合う相手への助け舟であり、二人の会話や知性は非常に格好良く見えた。
最近だと、実況者や配信者が人気だが、トーク上手が二人集まっている時ほど、会話の先回りが発生するし、それがいい効果を発揮している。その話題でメインに語ってる側が言葉を探すともう一方が適当な知識や言語化を先回りして提案し、それによって途切れず進む。もしその先回りした表現が外れていても、なぜその表現が不適なのかを明らかにすることで、本来言いたかったことのニュアンスが視聴者に伝わりやすくなったりする。
知識と言語力の高い人たちが、お互い相手の言葉を先回りすることで助け舟となりポンポンと話が進むシーンを人生で何度も体験してきたので、それは駄目だ、言葉を盗むな、と言われまくっていることに釈然としない。
まあ、根本的に言語センスがないのでズレた先回りしかしない人とか、知識のない分野の話題でも先回りしようとしてくる人がいたら迷惑だと思うが、そういう人とはあまり関わったことがない。
「昭和ひとけた生まれというのは、育ち盛りを大戦争の最中に迎えているから、本当にしょうがない。思想は鬼畜米英だし、食べものはない。特に東京の下町などは何もないといっていいくらいで、主食はサツマイモ、菜はカボチャ」だった。
「渥美もこうした環境の下町で育ったから、死んでもサツマイモは食いたくないクチだったろう」あれれっ、いきなりこれではだめかなと思った。それはそれとして渥美関係の本はどれも面白い。気を取り直して片っ端から見ていくと、一冊だけだったが探していたものが出てきた。役者で渥美清の付人でもあった篠原靖治の「生きてんの精いっぱい 渥美清」(主婦と生活社、1997)で、こうあった。
「地方へロケに行っても、食事はごく質素なものでした。朝は旅館やホテルの中の食堂での和食、昼はやはり日本そばかラーメン、またはふかしいも。夜もご馳走というよりはおいもの煮っころがしのような物を何品か選んで食べます」 「宿の人と仲良くなってくると、さつまいもをふかしてもらったりもします。渥美さんはこれが大好物で、ロケ現場にまで持って行くのです」
長年、「シノ、シノ」と可愛がられてきた人の証言だけに重みがある。渥美清はいも嫌いの多い世代の一人だが、他の人たちとは違っていた。なぜか、それが本当に好きだったようだ。
昨日のvivantってTBSのドラマの話なんだけど、ドラマの最後1分に隠しキャストの嵐の二宮が出てきたんだよ
で、いろいろ盛り上がったりしてたわけ
ただ、それで話題を作るってダサくない?
ドラマの内容そのものより役者というメタ的要素の方が面白いってことになるじゃん
てかいいの?特にvivantは世界がどうこうとか言ってたのに内輪ネタみたいなのに走っちゃったりして?
まぁ、そもそも期待はしてなかったけど
ただ、期待してなかったからかもしれないけど、それなりに面白いなと思って観てたんだよ
(てかジャニーズ出しちゃっていいのかね?二宮が悪くなくても、二宮を見たくなくなるようなジャニースキャンダルが更にでてくるかもしれないのに)
アニメにしろ実写映画にしろ、ドラマにしろ舞台劇にしろ登場人物は発話をする。
そのとき声の演技というものをもっとも過剰に求められるのは舞台だ。
演技を視覚だけに頼っていると成立しない。
富野由悠季監督なんかが、舞台役者をアニメ声優として連れてくるのは、
では、実写映画とかだとどうなるかというと観客は基本的に視覚に頼って物語を受容することになる。
映像が主体となって語られる物語にとって過剰な声の演技はときに足を引っ張られることになる。
これはTVアニメ、とくに古いTVアニメにおいては声優の力により物語を保たせていた部分が大きいだろう。
というのも昔のアニメはお世辞にも映像面でのクオリティは高くなかったからだ。
また日本のアニメは発展するうちに「アニメキャラ」というひとつの登場人物の型を生み出しそのようなキャラクターにも声優の力は不可欠である。
しかし、宮崎アニメに代表されるような緻密で写実的であり豊かな映像表現がされたハイクオリティなアニメ映画が作成されるようになると
声優の演技はその映像表現の足を引っ張りかねない、過剰性を含んだものとなったのだろう。
確かに、いまラピュタなんかを見ると主人公少年はあまりにアニメアニメしていてくどい印象を受ける。
もちろんラピュタくらいまではそれでも成立していた。
でも、トトロくらいからは段々と難しくなっていったんだろうな、というのは十分に分かる話だ。
ただ、よくTVを普段からたくさん見る人達にとって、俳優やアイドル、タレントが声優を務めるアニメというのはつらいんだろうな、というのもわかる。
私は普段、まったくテレビを見ないので、正直宮崎駿の新作を見ていても誰が誰の声なのかというのがピンとこなかった。
もちろん、私も木村拓哉さんの声は知っている。でも、声だけ聞いて木村さんのイメージが湧くほどにはテレビを見ていない。
しかし、TVを普段からたくさんみて木村さんの声を聞けば木村さんビジュアルが浮かんでしまう人にとっては映画のじゃまになってしまうだろう。
小林賢太郎は、コント、大喜利、脚本など幅広く仕事をしていた。その中の一つとしてラーメンズがあった。
自分とラーメンズとの出会いは、今から約10年前の高校生の時だった。友達に教えてもらって知った。
とはいえ、ラーメンズとしての公演は2009年が最後となっており、公演に行くことはできなかった。
ましてや田舎の貧乏な家庭に過ごし、いわゆる毒親の家庭に生まれた自分が、ラーメンズはおろか小林賢太郎の公演を見に行くということのハードルがあまりにも高く、「いつか見に行くんだ」という心だけを引っ提げて生きていた。DVDを何度も再生して、これを会場でみたら今の何倍面白いんだろう、なんて考えたりもした。
だがしかし、やっと自由に公演に行くことができるようになってすぐ、新型コロナウイルスの流行に伴い、様々な公演が中止。
そしてついに、小林賢太郎がパフォーマーとして立っている姿を、生で見ることはできないまま、小林賢太郎の肩書からパフォーマーが消え去った。
ラーメンズを生で見ることができないのだと思うと、心が引きちぎれそうになった。
別に深い理由は無く、いくつかのコントをみていたらYouTubeからおすすめされたのだ。
なつかしくなり、数珠つなぎで再生して、ああやっぱり面白いなあなんて思いながら、明日も会社だというのに夜を明かしてしまった。
片桐仁がテレビに出ていると、見ようと思っていた別番組のことなんて一瞬で忘れるほど見入ってしまうことが、一度や二度ではなかった。
だがそれを見ているときの感想は、ラーメンズでやっていた片桐仁というよりは、俳優の片桐仁だ。
そこで気が付いたのだ。片桐仁は小林賢太郎が作った、ラーメンズの片桐仁という役を演じている役者だったのだ、と。
「だめじゃないのにだれもやっていないことをやってみた」というようなことを小林賢太郎が言っていた。
ああそうだ。
ラーメンズは、パフォーマーを辞めた時にも解散なんて言っていない。
そして小林賢太郎は、ラーメンズの解散はありえない、と昔言っていた。
つまり、小林賢太郎が出ていなくても、小林賢太郎が作ったコントに、小林賢太郎が作ったラーメンズの片桐仁が出ていれば、それはラーメンズの公演で、ラーメンズなんだ。
好きな人と雨上がりを走り回れたところで星川くんは救われない、と思ったけど、
先生と親が来た時に転倒してたバスがふたりの時は転倒してなかったあたり、もう死後の世界だと思うと、安心。
良かった。そこだけ良かった。無責任じゃなくて。
ままならない窮屈な世界にいると死ぬことが一番の幸せな道だと感じる。でも実際に死ぬとなれば、死ぬまでの変化が辛すぎるから、好きな人と一緒に 好きな場所で ふたりだけの世界で あの年齢で死ねるのは ハッピーエンドだと思った。
手法としてはもう擦られまくった視聴者をミスリードさせたい坂元の脚本を、是枝の”綺麗”な映像と、役者の上手い演技でお送りされた前半部分は、蛇足だと感じたのだが。
観た人、感想聞かせてくれ〜。